お盆の語源

 お盆ですね。


 皆さんは、お盆の語源をご存知ですか。


 元々、日本語では盂蘭盆会というのが本当の呼び方です。昔、僕が若いころ「うら盆」というような表現をしていたのですが、裏があるなら、表の盆はいつなんだろうなんて、真面目に考えてる友達がいました。これ冗談抜きの話です。


 では、盂蘭盆会の語源はというと、これも仏教用語の「ウランバーナ」という言葉から来ています。


 釈迦には有名な十人の弟子が居ました。彼らはそれぞれに秀でた力を持っており、第一に優れているということで、神通第一とか説法第一というような呼ばれ方をしていました。


 その中でも、神通第一であった目蓮尊者(マハーマゥドガリヤーヤナ)の母親が死んで餓鬼道に堕したのを知った目蓮尊者は、母親を救うためにどうしたら良いか、釈迦に教えを乞うたのでした。


 そこで、釈迦が説いたのは夏の修業が終わる7月15日に修行を終えた僧侶を招き、供養をしなさいということでした。その供養のお蔭で、目蓮尊者の母親は無事に餓鬼道を脱する事ができました。


 ここで、少し説明をしておきましょう。この世界は十界が備わっているといわれています。それは、六道と四聖に分かれており、其々に地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、人間界、天上界の六道。聲聞界、縁覚界、菩薩界、仏界となっているそうです。


 簡単に説明しましょう。


 地獄界とは、何をやっても上手くいかず、どんどんと不幸を招き入れてしまい、周りの気遣いも自分の不幸の中に押し込めってしまうような境涯で、いつも「なんで、私ばかりがこんなに苦しい思いをしなくてはいけないいの」と自問しているような境涯です。


 餓鬼界とは、常に欲望の虜になっている状態。これは金銭に限らず、愛や食、名誉など、我欲に囚われ渇望している状態が餓鬼界です。


 畜生界とは、強い者に媚び弱い者を虐める卑怯な境涯を言います。一般的には肉欲に溺れる人間を畜生と思いますが、弱肉強食の中で生きのこるための方法かも知れませんね。


 修羅界とは、自分を高みに置いて相手を低く見る境涯です。一般的には暴力行為の中に身を投じる人々を修羅と呼んでいますが、これは飽くまでも力によって人を抑え込み、人の上に立とうとする姿を修羅と呼ぶのであって、暴力自体を修羅と呼んでいるのではありません。権力を嵩に着て、人を見下すのも修羅と言えますね。


 人間界とは、安穏にして日々平穏なる暮らしの出来る境涯です。


 天上界とは、喜びに満ちた境涯ですが、私たちが常に喜びに満ちた状態を維持できるなんて、殆ど無いですよね。しかし、ひと時でも歓喜に溢れた思いをする事が出来たなら、その瞬間は天上界の喜びを感じているわけです。


 ここまでが、六道の境涯です。


 聲聞界とは、大自然の叡知を学ぶことを喜びとする境涯です。


 縁覚界とは、風流や詫びさびというような世界ですね。


 菩薩界は自分の命を顧みず他を救わんとする姿。


 仏界とは大慈大悲の仏さまの境涯です。


 さて話を戻しますが、この僧侶たちは釈尊の教えと戒律を守り、一生懸命に修行をしていた僧侶のことです。僧侶の僧という字は曽て人であったという意味です。つまり俗世を離れ、出家し人を超える修行をした人を僧と呼んだのです。


 この国のように何をもって修行とし、何をもって教えとしているのか分からないような、生臭い人たちとは意味が違います。清浄なる人たちを供養するからこそ、意味があるということなのです。


 しかし、いつの間にかこの国では盆の習慣は先祖を敬う為に墓を掃除し、墓の前でお経を読む日になってしまいました。本来、経とは生きている者たちに説くべき教えが書かれているはずなのに、何故か我が国では死んだものを弔うものという感覚になってしまっている。


 どうしてこんな風潮になってしまったのでしょうか。そして、どうしてこの事に一石を投じることのできる僧侶、いや、坊さんが居なくなってしまったのでしょう。これでは我が国の宗教者は布施泥棒になるのではないでしょうか。

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