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 17になって、大原に帰れることになったあの日の嬉しさは、夏には生涯忘れられないことであった。弥生から母への土産物を背中にたすき掛けにし、熊川から朽木を経て大原に入る道が平坦なのだが、それもまどろしく、針畑越への道を取った。

 時は秋、山の木々は色付き、ことほか綺麗であったが、峠の道はもみじの落葉道になり、急ぎ足にまとわりつき、夏には歩きづらかった。本当は夏の盆に帰れる予定だったのが、滅多に寝たことのない弥生が夏風邪をこじらせ、二十日も寝込んだのである。時たま飛び立つ山鳥に冬の訪れが近いことを思わせた。ふと、長いこと忘れていた行商の吉右衛門のことを思った。

「冬は雪やろうに、この道を天秤担いで来てはったんや」と、簪を貰った日のことを懐かしく偲んだ。来はらんようになったのは、夏がなんぼの時だったかを指折った。


 林の間から懐かしい我が家が見えたときは、新しい着物の裾が汚れるのも構わず夏は走った。庭先から「お母はーん!」と、ありったけの声で叫んだ。裏で炭焼きしていたのであろう志都が納屋の脇道から走り寄って来た。抱きついた母の着物の匂い、炭の匂い、みんな懐かしく、夏は涙をポロポロと流した。志都はしっかりと、キツく抱いてくれ、「なんやろね、こんなに大きゆうなって・・」と言葉は途切れ、身体が震えているのを回した手に夏は感じたのである。


 その日の夕食は、「さー、夏、お前の好きなもんばっかりやでぇ」と、母の手製の鯖寿司、へしこ、栃餅の団子汁、柴漬けが箱膳に並んだ。小浜の鯖寿司は名産で、めでたい時に限らず食べられたのであるが、やはり田舎風の母の鯖寿司は格別であった。

 へしことは、鯖に塩を振って糠漬けにし、発酵させた若狭路の郷土料理で、少し癖がある味である。柴漬けは大原がシソの名産で、大原に隠棲した建礼門院が、里人の差し入れた漬物を気に入り、紫葉の漬物と名付けたという伝承がある京都漬物である。

「やっぱー、お母はんの作ったもんが一番やわ」

「そんなに口いっぱいにして、なんぼの歳え」

「川田の伯父さん、元気されてるか」

「ああ、なんぼになりはったのやろぅ、元気で畑仕事まだしょりなさるよ。明日、夕御飯に来て貰おうかね。お前を見たらビックリなさるやろぅね」

「ほいじゃ、安心やね」


 川田の伯父さんとは、幼くして両親を亡くした志都を親代わりに育ててくれた人で、一丁も行った所に住み、連れあいを亡くしてからは、母がおかずを託けたり、洗濯をしたりと気遣っているのである。

 夏の父親の茂三は営林署の職員であったが、志都との結婚を期に、転勤のある営林署をやめ、川田の伯父に炭焼きを習ったのである。

 志都によると、茂三は飛騨の五箇山生まれで、やはり幼い時に両親を亡くし、親戚の世話になって育った。お互いそのような身の上に惹かれるところもあって、一緒になったのだが、五箇山にはあまりいい思い出がないようで、結婚式にも茂三の営林署のものだけで、縁者の出席はなかったということである。

 久しぶりの、母と娘の囲炉裏端の夕餉は話が弾み、夜は更けていったのである。


 その夜、川の字に二つ布団を敷いたのであるが、「お母はん、そっちへ行ってええかぁ」と、夏は志都の布団に潜り込んだ。

 朝早くからの仕事の忙しさ、厳しい稽古の辛かったこと、女将さんや姉さん芸子のことなど、いくら話しても話は尽きなかった。母に明日聞くからと言われて眠りについたのはもう夜の明け方近くであったろうか・・その日、夏は朝起きる時間も気にせずに眠れたのである。

 

二晩泊まって、

「次はお正月やけに」と言うと、

「もうー、なんぼもあらせんわ、そんなに帰してもろぅてええんか」と志都が言い、

「これからは、正月と盆には帰してもらえるんよ。ほんとやったら夏に帰れてるんや、

1回損してるねん」と、夏が言うと、

「そいじゃ、お土産に貰った反物を急いで仕上げて、お正月に着れるようにせんとあかんね」と、志都は言ったのであるが、師走も二十日を過ぎた日、母危篤の知らせを受け、夏は急いで針畑を越えて帰ったが、間に合わなかったのである。座敷の衣桁(いこう)には縫い上がった着物が掛けられていた。


 通夜、葬儀と済ませ、後のことは川田の伯父に頼んで夏は小浜に戻ったのである。

 帰りはもはや針畑越えをする元気などなく、朽木を通る街道の方を取ったのであるが、綺麗やのに、着飾ることもなく、いつも炭で汚れた顔をして、酒屋前掛けをした姿であった母が、仕立てた晴れ着を着ることもなく逝ったかと思うと、夏は道すがら泣けて仕方なかった。桃割れに結った母の写真を見たことがあったが、「本当に映画の女優さんや」と、夏は思ったものである。

「もう、帰るとこはあらへんのや」と思うと、寒風が身体に余計に滲みて、夏はこの先の心細さを思った。帰りの道は千里のように感じられ、母が正月に着るつもりだった形見の着物が入った風呂敷包を胸にしっかりと夏は抱いた。

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