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 夏は小学校を出ると、近在の者と同様、大原女になって炭を売りに行くものとばかり思っていた。志都は炭焼きのような汚れ仕事を夏にはさせたくなかった。行商人の中に小浜(おばま)の芸者の置屋の住み込みの話を持ってきた者があった。

「そら、ええ女将さんじゃ。厳しいとこもあるが、実の娘のようにしなさる。あそこの芸子なら嫁にも欲しいと言われるぐらいや。夏ちゃんならきっとええ芸子はんに仕込んで貰えるわ」

 学制が変わって義務教育が中学までとなったのは、夏が卒業しての翌年からであった。志都は長年、この行商人の人柄を見てきている。綺麗な着物を着た夏を想像した。特別教育もない女子(おなご)の職業としてはいいと思ったのである。


 平安、室町と京都は最大の消費都市であり、港を持たない都に代わって若狭は日本海側の玄関口であった。若狭の小浜、敦賀は海運の拠点であった。小浜と湖西の今津を結ぶ街道を九里半街道、敦賀から今津への道を七里半越えと称した。西近江路の陸路でたどるかわりに、琵琶湖の舟運が利用されたのは、年貢等の重量物を大量に運べることに加え、馬借を利用したさいの高額な運賃を抑えるためであった。

荷物はまず敦賀、または小浜に陸揚げされ、馬借によって塩津・海津もしくは今津に運ばれ、ついで舟に積み込まれて坂本に達し、ここから再び馬借によって山中越えで京都へ運ばれたのである。


 江戸時代になって北前舟で海運が盛んになって、小浜、敦賀はさらに隆盛を誇った。特に小浜は3代将軍家光の時代に、老中酒井忠勝の所領となってからは、江戸時代が終わるまで酒井家の城下町としても栄えたのである。

 三丁町(さんちょうまち)は江戸時代には遊廓として栄え、若狭でも屈指の花街であり、千本格子の家々が軒を連ね、芸妓の三味線の音が絶えない街であった。三丁町の由来は、花街、商家町、寺町をまとめて称した名前である。


 その三丁町に夏が奉公に行った置屋『都家』があった。女将、橋下弥生は京都の祇園で売れた芸妓で、その時の馴染みの上田源吾に引かれて小浜で置屋を始めたのである。上田源吾は小浜で海運業を営む有力者で、料理茶屋を一軒営んでいる。茶屋は本妻に、置屋は妾に任していることになる。

 夏が弥生のとこに来たのは12歳の時であった。故郷大原を出るときは、母の志都に「5年間は帰って来たらあかんえ」と言われて来たのである。それを女将の弥生に言うと、「辛いやろぅけど、辛抱おし。5年なんてあっという間や」と弥生は言ったが、目は潤んでいた。それを見て、夏は「ええとこや、辛抱せんと」と思ったのである。


 最初の3年間は全くの下働きで、朝は5時に起き、掃除、洗濯、竃(へっつい)の手伝い、水汲みと、目の回る忙しさであった。近所へのことづけ物を届けて表に出る時が一番ホッとする時で、少しの帰りの道草を楽しんだ。「お母はんは、どうしょってやろぅ」と、途中で買った駄菓子を口に入れる姿はまだ少女の姿であった。

 そのような道草を弥生は咎めることはなかった。夜、疲れ切って布団に入るときは母の口癖だった「極楽、極楽」唱えた。するとすぐに眠りにつけた。お陰で3年は淋しい思いをする暇もなく、あっという間に過ぎた。


 本当に辛かったのはその後の2年であった。15になった時から芸妓見習いとしてお稽古事が始まった。三味線に始まり、包、太鼓、唄に踊り、弥生は容赦がなかった。出来ないときは、撥が飛び、太鼓の棒が飛び、時には平手が飛んだ。

 自分の不器用さに何度涙し、母を思い帰ろうと、実際、風呂敷包を持って夜半に出たこともあった。母の5年の約束が支えとなった。「あと1年とちょっとや」と思い返し、来た道を戻った。

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