狂気

 魔法使いは発狂し夢中で究極呪文を詠唱して位置関係も分からないままに、一つの街を一撃で消滅させる程の、もはや自身も屋内で使えば確実に無事では済まないであろう威力を誇る、爆裂の魔法を形成し始める。


 しかしその刹那だった。彼女自身も味わった事はないが、まるで突然勢いよく壁がぶつかってきたかのような激しい衝撃。ウロコが並んだ太い丸太のようでしなやかな恐ろしい何かの感触。それが一瞬にして彼女の意識を断絶させた。


 本物の壁に、既に人の形をしていない彼女が衝突する頃には、彼女はもはや生きてはいなかった。



 イケニエに捧げられた少女の意識は、ただ深い深い闇の中をさまよっていた。意識を保とうとすると、延々と自分の家族の無惨な姿…深く刻まれてしまった記憶がフラッシュバックしてしまう。


 少女はもう、それを思い出し続け、さらに深く記憶してしまう現実と向き合える程の精神力を保てなかった。そう、それを見た瞬間から、少女の意識は現実世界から切り離されてしまっていたのだ。


 何もかも見えているし聞こえているはずなのに、まるで何も見えていないかのような…そんな曖昧な感覚。夢を見ているように歩き、物を食べていた。眠っているのか起きているのかもハッキリしない感覚。


 ただ少女に分かっていたのは自分の弟や母を犯し、父と共に全員を無惨に殺して財産も何もかも奪い尽くして、家を土足で踏み荒らしたのが自身と同じ「人間」だという事であった。


 少女は自身に対しても他者に対しても、もはや拭いきれないかのような恐怖心や不信感を抱いてしまっていた。心を閉ざし切ってしまったのだ。


 曖昧な意識のままイケニエに捧げられ、ナイフでの自害も止められ、もはや死ぬことすらも出来ない。少女の意識はさらに奥へ、絶望へと深く深く潜って行った。だがそんな心の奥、深海の彼女にふと、冷たい何かが触れた。


 それは弟がイタズラでよく自分の肩に乗せてきた、トカゲやヘビの身体の感触に良く似ていた。ウロコがあまりにも大きく、それでいてまるで剣のように立派な爪を持っている。少女は人ならざる感触と、そのゆったりとした呼吸から、それがとてつもなく強大な存在だと理解した。


(ああ、このお方は私を終わらせてくれるのだ)

 少女はふと緊張の糸を解いて、深くリラックスした。ようやく死ねる、という安堵が心を満たし、微笑みと共に頬をすうっと涙が伝う。


 少女の口からはいつの間にか、無意識に言の葉が零れ落ちていた。

「ありがとう…」

 少女に触れていた感触の主は、少女自身すらなぜ発したか理解出来ないその言葉に、困惑している様子であった。


 しかし当の少女はそれを知らぬ様子で、ひどく疲れていたのを思い出したかのように、すっと気絶するように眠りへと落ちていった。



 勇者は巨大な扉を意を決して開けようとしたが、魔術的な動作で勢いよく扉が開いて、そのあまりの勢いに少したじろいだものの、改めて背中に背負った聖剣をしゃらんと抜き、もう片手に持っている紋章の付いた木製の盾を握りしめる。


 歩き出していくとその部屋自身は濃霧には覆われているが、先ほどの部屋とは様子が違う。結界が張られて効果範囲が区切られているのか、この部屋には幻惑の魔法がかかっていない。


(それにしても)

 勇者は見上げる。

(なんて巨大な像だ…何かの宗教の象徴なのだろうか…?)


 勇者はそれを人工物だと思い込んでいた。濃霧の中でゆっくり近付いていくと、その輪郭がゆっくりとした、緩慢な動作で肩を上げ下げして…生きている事に気が付いた。明らかに人ではない輪郭。


 だが勇者の興味は足元にいる見覚えのある影に移っていた。

「大丈夫か?!」

 それは僧侶であった。


 何も聞こえていない様子の僧侶を見て、勇者はしゃがみ込んで手を取る。ようやく曖昧な笑みを浮かべてリラックスした様子の僧侶が言った。

「ああ…あなたは…人間なのですね…」


 勇者は初めは僧侶が何を言っているのか理解できなかったが、ペタペタと手で床を触ったり、勇者の頬を触ったりしている様子と、目の焦点が一切合わない様子から、勇者の表情が暗くなる。


「魔法か…呪いか…何かの効果を受けているのか…」

 勇者は巨大な生き物を睨む。だが僧侶はその何者かへの敵意を感じ取ったのか、言い聞かせるように言った。


「この優しい手を持つあなた様が…もしも…勇者様であるなら…」

 勇者は巨大な生き物を見る度に高まる狂気から、かろうじて意識を逸らす事に成功し、何とか僧侶の言葉に耳を傾ける。


「あのお方…この部屋にいる強大なお方には…意識を向けないで差し上げて…」

 勇者はまたその言葉の意味や僧侶の意図がまるで掴めずにいたが、僧侶の普段からの思慮深さを考え、それを守ろうと考えた。


「ああ…分かったよ…」

 勇者は僧侶の手を優しく握りなおす。僧侶は微笑むと言った。

「あのお方は悪い方ではありません…呪いがかけられているだけなのです…」


 僧侶が呪符をこっそりと勇者の身体に貼る。本来は魔獣などに貼ってその位置を掴むためのものだが、四感を封じられた僧侶にとっては、それは補助系の精霊魔法を祈りによって使うにしても、必要な動作であった。


 すると勇者の目がまた別の影に留まる。それらは魔法使いや戦士…の着ていた服に見えた。だがもはやそれは…人の形を成していなかった。勇者の身体が激しい怒りに燃えて、それに合わせて手が震えだす。


 僧侶は勇者の手から激しい敵意を感じて、それが恐らくはこの部屋にいる強大な存在に向けられていると知るや、指を噛んで血で簡易魔法陣を書きつつ言った。

「勇者様…怒りに身を任せてはなりません…あなたはもはや…唯一の希望なのですから…」


 何も聞こえていない様子の勇者は剣の刀身に超振動の魔法的効果を施すと、自身の脚にも神経伝達速度上昇の効果を施し、心臓の拍動のスピードを上げる効果も施して、部屋にいる「それ」に限界を超えた速度で向かっていく。


「あぁあぁぁああっ!!」

 部屋を埋め尽くすほどに巨大な生物である「それ」は、見れば見るほどに狂気に魅入られていく。だがもはや勇者の正気は、自身が狂気に魅入られているという事にすら気付けないほどに、致命的に失われていた。

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