幻惑

 魔法使いはハッとして叫んだ。

「気を付けて!これも魔法よ!幻惑の魔法!感覚や認識を歪める類の!」

 魔法使いは仲間と離れないように手を掴む。だがまるでその手が動かない。


「もう!早く動きなさいよ!ヤツの術中にハマっているのよ?!」

 だが魔法使いもまた、気付いていなかった。彼女が見て仲間だと認識しているそれが、その場に石のように固められ、風化して朽ち果てつつある、遥か昔に同じ目的でやってきたであろう兵士だという事に。


 その石化した手がボロボロと砂のように崩れていくのを、魔法使いはまるで気付かずに引っ張っていた。



 戦士は不気味なその建物内の巨大な扉を開けようとして、バーンと音を立ててその扉が突如開いた事に驚きつつも、斧とラウンドシールドを強く握りしめ、建物の石の床を踏みしめていく。


『…お前は…誰だ…?』

 心の中に直接呼びかけてくるかのような、おごそかな響き。耳で聞いていないのにその声は戦士の脳に直接染み入って来ていた。


「なんだ…これは…?!」

 戦士の眼前には濃霧の中でもそれと分かるほどに巨大な影があり、それがゆっくりと大きく、あまりにも長いが故にすぐにはそれと分からないかのように、長い長い呼吸音を響かせるものがいた。


 あまりにも巨大な、コウモリのような羽根がゆっくりとゆらりと揺れる。重厚な爬虫類のものと見える、ウロコに覆われた巨大な尾。戦士は明らかに動揺しながらも息を呑んだ。

(この世で…もっとも…恐ろしいもの…!!)


 戦士は半狂乱で斧を構えて走っていた。なぜそうするのかも理解できないまま、周りに誰がいるのか、なぜ自分がここにいるかも理解できていないかのように、焦点の定まらない目で斧をその巨躯に沈み込ませようとする。


『…なぜ…戦おうとする…?』

 巨大な身体の持ち主は悲しいような、鬱陶しいような様子でそう、また荘厳な声で戦士に向けて呼びかけた。


 しかし戦士はその声が届いているのかどうかも定かでない様子で、とっくにウロコに通らぬまま、刃が欠けた斧をまた巨躯に振り下ろす。割れた鋼の刃が戦士の顔をかすめて血が出る。しかし戦士の攻撃の手は一向に止まない。


 巨躯の主は諦めるかのように、長く深く溜め息のような呼吸をすると、軽く尾を振っての鋭い一撃で、戦士の身体の深部まで達するかのような衝撃を与える。壁まで吹き飛んでそのままぶち当たり、ずるずると落ちた戦士の肉体は原型を留めておらず、そのまま全く動く様子がなかった。



 まるで動かない兵士の朽ち果てた石化した手を、握って引っ張っていた魔法使いの少女の前には、いつの間にか揺らめくような影がいた。それは黒いマントを羽織っておりこの者もまた、魔法使いといった様子の黒い男であった。


「早く!動きなさいよ!この!重いわね!」

 少女魔法使いの顔や容姿をジロジロと舐め回すように見つめ、ローブをめくりあげて服の中身も確認し、上半身の豊かな双丘や、下半身の柔らかな谷の輪郭を、まるで市場で果物の質をはかるかのように、指先でなぞりあげるようにして、黒い男は言った。


「まずまず…といった見た目だな…適度に熟れた身体もいい…処女ではないが…」

 魔法使いの少女はまるで、そのような恥辱の行為をされている事自体に、一切気が付いていない様子で、先ほどと全く同じ様子で石化した兵士の手を引っ張って、兵士に向けて罵声を浴びせていた。


 黒い男が不意に魔法使いの少女の顔の前に手をかざすと、魔法使いの少女はそのままそこに倒れた。

「喜べ…お前はこの魔王の女となるのだ…」


 魔王の背後をすぅっと通ろうとしていた、手錠をかけられたままの少女。気配をようやく察知して振り返った魔王はその様子に驚いた。

(いつの間に…?!)


 少女はゆらゆらとどこへともなく、揺らめく炎のように、漂うように歩いていた。明らかに何も見ていないかのような目を見て、魔王は頷いて言った。

「ほう…小娘…お前…この幻惑が通じないという事は…既に…」


 魔王はまるで子猫でも掴むかのように、少女の肩を掴んで引き寄せ、髪をなでる。

「…既に…狂っているな…?お前…」

 少女の目は相変わらず何もない中空に固定されている。


 魔王はくっくっと笑いながら、倒れている魔法使いの肢体を眺めて言う。

「…人間には、視覚…目、聴覚…耳、嗅覚…鼻、味覚…舌、触覚…皮膚」

 少女の髪をまたなでて魔王が囁く。


「これらの五感がある…この女は今や触覚以外の全てが封じられている…」

 魔王が魔法使いの少女を軽く足で靴越しに小突く。曖昧なうめき声が漏れる。

「愛するか愛されるか…そのどちらかで、一つずつしか解けていかぬ呪いだ…」


 魔王が少女の目を見つめる。相変わらず少女の目は何とも焦点が合っていない。昏くよどんだ深い瞳だ。魔王はますます少女を気に入った様子で言った。

「お前にも同じ呪いをかけてやろう…我が妻となるのだ…ゆっくりと…な」


 くっくっと魔王の笑い声が薄く響く。もう少女の目も耳も鼻も舌も、全く何一つ感知できなくなっていたが、少女はまるで動じる事もなく、ただそのまま魔王の腕の中にいた。


 この世でもっとも恐ろしいもの…そう戦士が呼んだそれがいる巨大な部屋に、魔王は手錠を解いたイケニエの少女を、魔法使いや僧侶が、ぐったりと横たわっている辺りに放り投げると言った。


「またしばしここを留守にする…いつも通りだ」

 先ほど荘厳な声で戦士に語りかけていた彼は、また深くとてつもなく大きく長い呼吸音を響かせつつ、会話を諦めているかのように魔王の言葉を聞き流していた。

「そいつらはお前が食料にしてもいいし、生きていれば私の遊び道具にする」


 魔王は巨大な部屋の壁一面に差し込まれている、本のいくつかを魔法にて引き出して手元に引き寄せると、黒いマントの中の異空間へといくつかをしまい込み、本を食い入るように見てブツブツと呟きながら、また深い瘴気の中へと消えていき、大きな部屋の扉が勢い良く閉まった。



 初めに目を覚ましたのは魔法使いだった。一番初めに彼女の脳裏に浮かんできたのは困惑だった。起きているのに、何も見えず聞こえず匂わず、起きたての口の中のあの気持ちの悪い感覚すら曖昧だ。


 あるのは皮膚感覚だけだった。魔法使いは手のあるはずの辺りをつねってみる。確かな痛みがある。夢ではない。それが彼女にとっては何よりの悪夢だった。

「何よ…これ…」


 自分で発しているはずの声すら聞こえない。魔法使いは恐ろしくてペタペタと石の床を這いずるように動き、空気の流れのある方向へと当てもなくさまよう。

「ここはまだあの幻惑の魔法の部屋なのかしら…?」


 魔法使いが空気を掴むように手を泳がせる。

「それにしては瘴気がないわ…ここには魔法の気配が一切ない…」

 床をなで回す魔法使い。


「瘴気の付着が薄い…この感覚障害は、さっきまでの空間系の魔法じゃあ…ない…?」

 ふと魔法使いの手が冷たい感触の何かに触れる。

「ひっ…?!」


 一瞬手を引っ込めつつもおそるおそる、それに触れる魔法使いの指先。逃げようとするそれは、まるでウロコのような形をしている。魔法を師から教わった頃に触った事のある、爬虫類のような感じの冷たさと感触だ。


 だが不可解なのはそのウロコの大きさだった。以前触れた事のあるもっと南の大型爬虫類の皮でも、これほどの大きさではなかった。尋常ではないほど巨大で硬い。それでいて魔法的防護の力もある。これではあらゆる武器も魔法も通じないであろう。


 これほど大きな現存する爬虫類となると…そう魔法使いが思索を巡らせていると、とある可能性に思い当たる。ふと、魔法使いの顔から、一気に血の気が失せる。

「まさかこれ…これが…この世でもっとも恐ろしい…あの…」

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