最終話・君に逢いたくて。

 犬居誠人は結婚式を翌日に控え、ホテルのベッドに座っていた。

 ホテルのバスローブ姿、緊張の面持ちで手揉みをする彼にそっと寄り添うのは若い女性。結婚式の新婦となる恋人だった。


「誠人さん」

「ああ……うん、だ、大丈夫、落ち着いてる、落ち着いてるよ」

 引きつった笑みで女性の手を取る犬居。女性は「そうは見えない」と笑い、犬居の白い手に自分の手を重ねた。

 女性の左手薬指には、小さなダイヤモンドの埋め込まれた細い指輪が嵌っている。犬居が数ヶ月前に贈ったものだ。

「誠人さんならちゃんとやれるよ。式の練習、何度もしたじゃない」

「うん……そうだね。君が隣にいれば、きっと、大丈夫だ」

 犬居は頬を微かに紅潮させ、女性の瞳を覗き込んだ。女性は優しげな微笑を浮かべてそれを見つめ返す。


「……きれいだ」


 じっと女性の目を見つめたのち、犬居は止めていた息を吐き出しながらこう言った。

「ありがとう」

 くすぐったそうな表情でそう言いながら、女性はぱちりと大きくまばたきをする。

 犬居はその睫毛の上下するさまに見惚れ、もう一度「きれいだ」と繰り返した。

「ほっ、本当に、僕でいいんだね?」

「何を言ってるの、今さら」

 ふふ、と笑う女性の手を取り、さらに問いかける犬居。

「ね、ねえ。変な話、してもいいかな」

「なあに?」

 犬居はどもりながら、それでも相手の目をしっかりと見つめたまま、こう続けた。

「本当におかしな話、だと思うんだけど……わ、笑われてもしかたないようなことなんだけど、聞いてくれるかい?」

「もちろん」

 恋人の返事を聞いた犬居は大きく息を吸い、吐き、もう一度吸って、語りだした。


「僕ね、ずっと君に逢いたかった気がするんだ」


 いつも伏せがちな、黒目の異様に小さな犬居のその目が、一瞬手元に視線を落とす。

 そして、もう一度、恋人の大きな瞳に、上目遣いに焦点を合わせた。

「本当に、生まれる前から、ずっと、ずっと、君に出逢いたかった」

「…………」

 女性は黙ったまま、犬居の目を見つめ返している。その表情からは、それを聞いてどう思っているかは読めない。

「う、生まれ変わりとかそういうやつなのか、分からない、んだけど……何て言うか、き、君に出逢うために、何度も、何度も人生をやり直してきたような、……そんな気さえするんだ」

 犬居の表情と声色は真剣そのもので、なんとか自分の感覚を相手に伝えようとしているのが見て取れた。

「だ、だから、僕は、君に、えっと、君だけをずっと……」


 そこで犬居の言葉は途切れる。

 相手の女性が、犬居の唇を自分の唇で塞いだからだ。


「…………」

「…………」

 そのまま一拍、二拍。くちづけが終わり、再び見つめ合う。


 しばらくして、茶色の瞳をゆっくりと瞬かせて、女性が口を開いた。

「誠人さんの言う意味、ちゃんと解ったわけじゃないけど……それがとっても、嬉しい言葉だってことはわかるよ」

「…………!」

 笑い飛ばされると覚悟していたらしく、青白かった顔を真っ赤にしていた犬居が、目を見開く。

「だからね、きっと私たちが出会えたのは、最後の答えなんだね。……これが、私と誠人さんの終着点で、始まりなんだ」

「始まり」

「私、子供は二人くらい欲しいって、前から言ってるでしょ」

 はにかんだように笑む恋人、いや、もう妻となるその女性をしばらくぼんやりと見つめたのち、犬居は目を潤ませながら微笑んだ。

「そっか。……うん、素敵な家庭を、作りたいね」


 やがて二人はそっと抱き合い、どちらからともなく唇を寄せた。



 犬居がすやすやと寝息を立て始めた頃に、女性のスマートフォンに電話がかかる。

 マナーモードに設定されたスマートフォンはぶるぶると振動し、女性はそれをそっと持ち上げると、眠っている犬居を残して部屋を出た。

 バスルームに入ると、通話ボタンを押す。


「もしもし?」


 声量は抑えられていたもののその印象は鋭く、声は犬居と会話をしていた時より若干低いものだった。

「ええ、あの人すっかり私のこと信頼してる。なんか、私と出会うために人生何度もやり直した気がするだとか、電波みたいなことまで言ってるわ、ふふ」

 嘲るような口調で放たれた言葉。話しながら、女性はバスルームの壁にかけられたシャワーのヘッドをつつっと指でなぞる。

「大丈夫、事故っぽく殺す方法はばっちり。あなたこそ、事後処理の方、頼りにしてるから」

 大きな鏡、その中の自分を見つめながらにやりと笑う女性。しばらく電話の相手の声に相槌を打ったのち、くるりと体ごと振り返った。

「ええ、保険はしっかり。子供作りたいって言ったらすぐよ、ちょろいもんだわ」

 バスルームの中をきびきびとした動きで歩き回りながら、女性は笑みを崩さない。

「ええ、じゃあ手筈通りに。……愛してるわ、あなた」

 電話を切ると、女性はもう一度鏡に向き直り、優しげな微笑みを作る。犬居に向けていた、聖母のような表情。

 そして部屋に戻り、大きなベッドの隅の方を遠慮がちに使って眠る犬居の横に潜り込むと、ゆっくり目を閉じた。

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痴情のもつれで。 涙墨りぜ @dokuraz

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