第六話・指先ひとつで。

 暑い夏の午後、オフィスの隅の席で居眠りをしかけていた犬居誠人は、同じ部署の同僚である意中の女性が席を立つのに気づき、慌てて顔を引き締めた。一生懸命仕事をしているかのようにパソコンに向かいながらも、犬居はちらちらと女性社員を目で追っている。

 まっすぐな黒髪を後ろでまとめた女性社員は、作成した書類を上司に見せていた。上司はぱらぱらとそれをめくっては頷く。よくやった、と褒められ、少しはにかむ横顔が愛らしい。


 あ。


 犬居が、その女性社員の腕に蚊がとまっているのを見つけた。半袖から覗く二の腕にしがみつく蚊は、おそらく彼女の血を吸っているのだろう。

 何も気づかない彼女は、上司の確認した書類を別の部署に持って行こうと、出口のドアへと歩いていく。

 思わず犬居はそろりと立ち上がり、蚊に視線を固定したまま女性社員の背中へと近づいた。

 そして、蚊が彼女の腕を離れたその瞬間。


「あっ蚊だっ」


 犬居は普段の鈍臭そうな動きから一転、周囲が目を疑うような俊敏さで、両手に蚊をはさんで潰した。

 背後で急に鳴った、パン、と言う音に驚いた女性社員。びくりと肩を震わせ、犬居を睨むような顔で振り返る。

「ど、どうしたんですか犬居さん……」

「あっ、か、蚊です、あの、飛んでて」

「そうですか……」

 彼女はそれ以上追求せず、書類を抱えて出て行った。

 犬居はそっと手のひらを見る。ぽちりと赤い点。たっぷりと女性の血を吸った蚊は、犬居の手のひらにその全てをぶちまけて息絶えていた。

「あ、だ、誰かくわれちゃってますね。……て、手、洗ってきます」

 何かをごまかすように早口でそう言うと、犬居はばたばたとトイレへ向かった。



 トイレの個室。

 犬居は手のひらについた蚊の死骸を爪の先で丁寧に引き剥がすと、小さく呟いた。

「ごめんね、君も子孫を残そうと必死だったろうにね」

 そして、蚊を便器の中に落とし水を流すと同時、手のひらの血液に、べろりと舌を這わせる。

「ああ……」

 目を瞑り、今にも感激の涙を流さんばかりの表情で、犬居は小さく息をついた。

「ごちそうさま、確か君はO型だったね……おいしかったよ……」

 犬居は満面の笑みで個室を出て、手を洗う。鏡に写ったその顔は、元のつくりというよりも、内面からにじみ出る醜悪さによってひどく歪んでいた。

 昼休み。

 コンビニで買ったおにぎりとお茶を手に、ベンチに佇む犬居がいた。


 買ったはいいけど、胸がいっぱいで食べられる気がしないよ。


 はあ、と溜息をつき、再びへらりと気持ちの悪い笑みを浮かべたそのとき、犬居は先ほどの女性社員が数人の同僚と歩いているのを見かけた。

 引き寄せられるようにふらふらと立ち上がると、そのあとをつけていく犬居。どうやら女性たちはランチを食べ終わり、オフィスに戻る途中のようだ。

 工事中の道建物の横を歩いていたそのとき、異様な音と作業員の怒鳴り声のようなものが聞こえた。女性たちが振り返り、悲鳴を上げる。


 ちょうど犬居の真上に、鉄骨が落下しようとしていた。


 犬居も危険に気づき、避けようと踏み出す。先ほどの俊敏な動きができれば、なんとか衝突は免れるだろう。

 しかし。


「犬居さん!」


 意中の女性が叫ぶその声に、犬居は思わず足を止めてしまったのだ。そして次の瞬間には、犬居は落下した鉄骨の下敷きになっていた。

 女性たち、そして一瞬遅れて通行人のうち幾人かが犬居に駆け寄る。


 鉄骨は犬居の首を押し潰すようにして横たわっていた。血はとめどなく流れ、その生存が絶望的であることは傍目にも明らかだ。

 だが、泣き崩れる女性たちは知るまい。

 うつ伏せに倒れ、その表情を窺うことの出来ない犬居が、最後に何を思ったか。


 僕はまるで、君に潰される蚊だね。


 遺体を回収した者たちは、そのあまりに安らかな死に顔に戸惑ったという。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る