この世で必要のないあなたへ

半社会人

この世で必要のないあなたへ

 赤い血が飛んでいた。


 ぴちゃ、ぴちゃ、ぴちゃ。

 

 水たまりのように広がる液体。


 錆びついたナイフ。


 両手を血に染めている我が子を眺めやりながら、榊丈弘は笑みを浮かべた。


 「お父さん……?」


 息子は疑うような色を目に含ませて、彼を見つめる。


 丈弘は息子の頭に手を乗せた。


 「よくやった。武。」


 「……?うん!!」


 理解という言葉からはほど遠いが、それでも父親に褒められて嬉しいのか、息子は勢いよくこくりと頷いた。


 丈弘は少し前に出て、血だまりの中に足を踏み入れる。


 ぴちゃ、ぴちゃ。


 まるで雨上がりの水たまりのようだ。


 童謡に出てくる歌詞の通りに、はしゃぐ息子。


 目の前の惨劇とは対照的な光景だ。


 丈弘はほくそ笑みながら、今も尚血液を吐出し続ける藤堂明の体を見つめた。


 もはやその瞳には、生前の熱っぽい光は宿っていない。


 やかましい口が開かれることも、もうないのだ。


 再び息子の頭を撫でる丈弘。


 「よくやった、武」


 息子は相変わらず、水遊びでもするように、つい先ほどまで生きていた、命の流れに身を浸している。


 体の内から、歓喜の叫びが湧いてくるようだ。


 『この世に要らない人間なんていない』。


 それが自分の口癖だった。


 そんな自分が……


 「悪いな、明」


 静かに遺骸に向けて、彼はそう呟いたのだった。


 *・*・*


 「『この世に要らない人間なんていない』……なんて臭いセリフが、よく吐けたもんだ」


 如月楓はそう言うと、ふんと鼻を鳴らした。


 彼は丁度、地方の国立大学が発行している学術誌を読んでいるところだった。


 ろくに高校も出ていない楓には、こんなアカデミックな代物が、肌に合うわけもなく。


 「寒すぎてじんましんが出てきた」

 

 これみよがしに両腕を掻きむしってみせる。


 私はステアリングを軽く握りながら、彼を横目で見やった。


 「元大学教授の言葉に、よくそんな文句がつけられたもんだな」


 榊丈弘。


 代々神主の家柄だったが、自身は日本古来の習俗に浸っているよりも、西欧由来の学問を修めているほうが楽しいという性格の持ち主で、その決意に違わず、東大で心理学を学んだ後、地方国立大学でつい最近まで教鞭を取っていた人物である。


 大分白いものが混じりはじめた髪の毛がトレードマークの、心理学者というよりは教会の神父を思わせる、柔和な態度の好漢だ。


 心理の世界ではかなりの影響力を持っており、最近はマスメディアでの発言も増えてきた。


 眼鏡の奥の瞳には、全ての悩める人の為に、親身になって打ち込もうという信念がうかがえる。 


 「大学教授がなんだっていうんだ。」


 「インテリだぞ。働きもしていないニートよりはましだとは思わないか」


 「ハロー効果だな。大学で教えているような偉い先生の言うことだから、こんな臭いセリフにしても、正しいことのように思われてくるんだ。だからこんな低俗なつくりの雑誌に、そんな歯の浮くような陳腐な言葉を並べても、馬鹿な国民は簡単に騙される」


 無駄に知識をひけらかす癖があるのが、楓の特徴だ。


 私が反論しようとするのを遮って、彼は得意気に続けた。


 「それに、君は言葉を知らないようだから説明してやるが、インテリっていうのは、そもそも社会における役割にすぎない。それは何も上級階級の人間ということを、表しはしてないんだぞ」


 「うっ……」


 思わず押し黙る。


 そうしている間にも、景色は流れていっていた。

 

 窓の外には、天蓋のように枝葉を広げる木々がのぞいている。


 楓は顎に手をついて、いかにも退屈そうに、投げやりな視線をそれらによこす。


 こんな美しい景色に対して、不遜な奴だ。


 「飽きてきたな。まだつかないのか」


 不満が多い……


 私はため息をもらすと、ちょっとばかりアクセルを踏み込んだ。


 体に馴染んだ愛車のことだから、わずかな動きでも、自分についてきてくれる。


 しかし山道の故か、ろくに整備もされていないので、どうしてもガタガタと、車体に揺れがきてしまう。


 私は意見の続きを述べた。


 「それでも、何の生産行為もしていない、ニートよりはマシだろう」


 「こんな臭いセリフを吐くような人間になるくらいなら、二ートの方がまだましさ」


 「……」


 なぜそんなに、自身満々でいられるのか。

 

 「……そうだな、要らない人間なんて、どの世界にもいるだろうからな」


 「よく分かってるじゃないか」


 楓には皮肉というものが通じない。


 揺れる度に痛む尻を我慢してまで、こいつに付き合うというのも馬鹿な話だ。

 

 私はしばらく運転に集中することにした。


 都心から車を走らせて、もう既に二時間になる。


 最初の頃は狭いながらもまっすぐな道が続いていたが、国道を外れた辺りから、未舗装の場所が多くなってきた。


 土と落ち葉に溢れた、道ともいえぬ道を、慎重にステアを切って進んでいく。


 流れていく緑が、車の両側に覆いかぶさり、丁度天気が隠されてしまっていた。


 ただでさえ視界がはっきりしていないので、対向車がこないことを願うばかりだ。


 性能の割には高かった、愛車の車体がブルンとうなる。


 揺れる車内を必死に食らいついて目的地へと急いだ。


 楓のつぶやきは止むことはないが、集中した私には、それは、もはや聴覚を華麗に通り過ぎる、ただのBGMと化している。


 「まったく。そもそも大学教授なんていう御仁はだね……」


 住宅もほとんど建っていない山奥に至り、景色もなおいっそう暗くなっていく。


 木漏れ日が道の先を照らしていた。


 それを踏みしめるようにしながら、前方をしっかりと見つめる。


 ここまで来たら、もうすぐだろう。


 やがて。


 視界の先に、突飛な色調が飛び込んできた。


 山奥のことなので、事前に知っていたとはいえ、思わず驚きを隠せない。


 白。


 全てを白で覆われた、そこだけくっきりと空間を切り取ったような住居が、そこにあった。


 周囲が緑で溢れているだけに、余計にその輪郭がはっきり浮き出ている。


 形式は一般的な住宅と変わりないが、山奥で生きていくためだろうか、ところどころ、見なれない装備がついていた。


 その光景が幻想的で、思わず見とれてしまう。


 「……あっ!?」


 家の外観に集中しすぎて、いつのまにか、その白い外壁が、車の鼻先にまで近づいてきていた。


 慌ててアクセルを緩めてスピードを落とす。


 素早くハンドルを切った。


 ドンっ!!


 軽い反動が体に加わる。


 「ぐはっ!?」


 楓が何やら不満の声を挙げた。


 ざまあみろ。


 「……ついたぞ」


 ちょっとバツが悪い。


 やっとこさ煉瓦で区切られた前庭にゆっくりと駐車して、私は助手席のそのニートに声をかけた。


 楓は、憮然とした表情をこちらに寄越す。


 それからフロントガラス越しにその家を眺めて、再びふんっと、鼻を鳴らした。


 「悪趣味な家だ」


 「だから、彼の経歴を考えれば……」


 私の言葉など、そもそも楓には届いていないらしい。


 私がなんとか弁護しようとするのも無視して、彼は上体を気だるげに起こすと、軽く伸びをして、そのままドアを開けた。


 「『この世に要らない人間なんていない』、ねえ ……。そんなセリフを臆面もなく言えるような奴の子どもが、殺人を犯してるんじゃあ、世話ないわな」


 確かに、一理ある。


 ……まあ、彼がこうイライラするもの、分からないではないのだ。


 なにしろほとんど外出しないニートなのだから。


 彼の叔母さんの頼みを除けば。


 彼は、盲目の叔母さんにとっての、文字通りのプライベート・アイ。


 今回も、その彼女の頼みでやってきた。


 彼が挑むのは、殺人事件の調査だった。


 「……さあ、行くとしようか」


 私は嫌がる楓の背中を押しながら、心理学者の白い居城に、歩を進めた。


 *・*・*


 構図だけ見れば、簡単な事件だった。


 友人同士で、週末を山奥で過ごしている。


 忙しい都会から離れて、自然の雰囲気に心呑まれながら、体をゆっくり癒すのだ。


 しかし、無邪気な子どもの残酷な行為によって、そんな休日も、台無しになってしまった。


 「息子は……こんなことをする子どもでは、ありません」


 テレビでよく見知った顔が、涙で感情を露わにしていた。


 悲哀のためだろうか、白い髪を逆立たせ、顎髭も伸び放題にしている。


 お馴染みの清潔なイメージからはほど遠い。


 彼が体を震わせる度に、テーブルの上につり下げられた電灯が揺れた。

 

 楓は冷たい目で彼を見やった。

 

 「でも、実際にしたわけですからね」


 お前には慈悲というものがないのか。


 私がドンっと彼の足を蹴ると、楓はうろんな目でこちらを睨んでくる。


 本気で自分のどこが悪いのか、分かっていないような表情だった。


 「……私は自分の息子の性格くらい、把握しているつもりです。あいつは、こんな、大それたことをして、休日を台無しにするような子じゃあ」


 「心理学者でしょう、あんた」


 楓がイラついたように指でテーブルをトントンとたたく。


 「犯罪心理とやらにも通じておられるはずだ。中学生くらいなら、丁度抽象的な思考も出来るようになって、社会的存在としての自分を、作り上げ始める頃合いだ。そこで上手くいかないと、アイデンティテが拡散してしまって、ガラス細工のように、バーン。立ち直れなくなるというわけです。子どもが何をやらかすかなんて、分かったもんじゃありませんよ」


 「息子は……まだ、8歳なんですよ」


 「……早熟なお子さんですな」


 事前に子どもの年齢くらいの情報は掴んでおけよ。


 まあ、確かに大人でもほとんどの者が起こさない殺人をやってのけたのだから、ある意味で早熟と言えなくもないが。

 

 そんな成長、親にとってはありがたくもなんともないだろう。


 榊丈弘が黙りこんでしまったので、楓は首を静かに振って、背もたれにだらしなく体を預けた。


 気まずい沈黙に耐えられず、私も部屋の中を見回す。


 外見に反して、意外と広い家だった。


 玄関を抜けると、まずぴかぴかに磨かれた、フローリングの廊下が目に付く。


 両側にはそれぞれ家族の寝室が並んでおり、向かって右側の三番目だけが、バスルーム兼トイレになっていた。


 色とりどりの壁画が、ほどよい清潔さを醸し出している。


 そしてその廊下の突き当りにあるのは、我々が今いるリビングだ。


 初めてそこに入ると、わずかな空気の変化に、大抵の客人は驚くことだろう。


 家自体はうっそうとした繁みに囲まれているにも関わらず、どこからやってきているのか。


 緑を含んだ芳醇な日光が、大きな窓から差し込んでいた。


 それがちょうど全体的な雰囲気を明るくしていて、機能的というよりはむしろ殺風景と言ってもいいぐらいの家具しか置かれていない部屋にも関わらず、不思議と寒々しさを感じることはない。


 それに肝心のデッキ一体型のテレビにしろ、わずかな光沢を放つテーブルにしろ、適度なふんわりとした感触を残すソファにしろ、その他数々の家具類は、分をわきまえた配置をされており、なおかつ十分に広々とした印象を与えていた。


 周囲の環境のせいだろうか、みずみずしい香りまで漂ってきているようだ。


 「……はっ」


 そんなことにはかけらも興味がなさそうなニートも一名いるが。


 気を取り直して、私は出された紅茶に軽く手をつけながら、リビングの奥、丁度二階に上る階段へと目を向ける。


 ゆるやかな段差の先には、これまたあたたかな陽にさらされた、空き室がある。


 どうもまだ使用用途が決まっていないらしく、主に丈弘の息子の、武の遊び場になっていたようだ。


 ここは休暇を楽しむために、最近たてられたばかりの住居だそうだから、仕方ない。


 家具のない裸の床の上には、それでも落ち着いた空気が降りていた。


 つい先日までは。


 ……今は、真っ赤な血潮が、平穏な日常を裂くかのように、まるでほとんど生き物のいない、粘り着いた川の如く、床を流れている。


 ここで、榊丈弘の息子の武が、丈弘の友人の藤堂明を、ナイフで突き刺したのだった。


 「突然のことだったのです。亡くなった明は、数学者で、友人ですが、昔から、家族ぐるみで仲良くしていて。妻が死んだ後は、残された武と共々、特に親しくしてもらっていたのです。ですから、たまにはこちらも恩を返さなければと、最近作った別荘へ招待したところ、こんな、こんなことに……」


 頬に張り付いた涙を拭おうともせず、しばらくの沈黙の後、丈弘は口を開いた。


 「遺体発見時の状況を教えていただけますか」


 楓が感情のない声で質問する。


 丈弘がこくりと頷いた。


 藤堂明は、自分が子どもを持てなかった代わりに、友人の息子とまるで本当の親子であるかのように、親しく交流していたらしい。

 

 特に近年は、大学を定年退官したのを機に、父親の丈弘が本格的にテレビ出演等を行いはじめたことと比例して、子どもとの時間が持てなくなったため、必然的に、明が子どもの面倒を見ることが、多くなったようだった。


 肝心の明は丈弘より二つほど下の、まだ現役の教授とはいえ、もうほとんどお飾りみたいなもので、学部大学院共に、授業など受け持っていない。


 それでも研究に追われているのが学者のあるべき姿なのかもしれないが、彼にとって、もはやするべきことは若い時分に済ませてしまっていたのだった。


 今さら焦っても仕方がない。


 それよりは、友人のかわいい息子と交流するほうが、よほど有益というわけだ。


 そんな様子だから、世間では心理学をテレビで滔々と説いているくせに、自分の息子の心は他人に取られてしまっていると、丈弘は噂されたものだった。


 そしてそんな不穏な空気が水面下で漂う中で、悲劇は起こったのだ。


 「どうしてそんなものを持っていたのか、見当もつかないのですが……。私が武に、『明おじちゃんと遊んでおいで』って、昼食をとった後に言ったんです。自分は目を通しておかねばならない論文があったものですから。」


 「それで?」


 「それで……しばらくソファに座って最近の精神科学と心理学の関係について目を通していると、やがてドタドタ階段を降りてくる音がして、気がつけば、息子に手を引かれて、二階に上っていました。そこで、そこで、あの、おぞましいものを……」


 死体に慣れた鑑識ならなんてことないのだろうが、普段そんなものを見る機会がない一般人にとっては、眼前に横たわるそれを眺めるだけでも、大きなショックだったろう。


 遺体は、心臓に近い部分を、合計で三回ほど、刺されていたという。


 出血死だった。


 その時の様子を思い出したのか、丈弘の顔が青ざめる。


 「お子さんは、自分でやったと言ったのですか?」


 「え、ええ。……ナイフは死体の傍に落ちていましたが、はっきりと、自分で刺したという趣旨のことを言っていました」


 体をぶるぶると震わせる。


 「あの時の息子の目は、わすれられない……」


 再び押し黙る。


 楓は考え込むように、顎に手を当てた。


 それから、丈弘の衰弱した様子を観察すると、静かに口を開く。


 「武くんは、明さんのことが、嫌いだったんですか?」


 「まさか!!息子の嫌がるような人間を、別荘に呼びはしませんよ。私よりも、彼になついていたくらいです」


 そう口にした時に、丈弘の目に宿ったかすかな影を、私は見逃さなかった。


 「なるほど。殺すような動機はないと。ふうむ。……でも実際に手を下しているわけですからね。分からないなあ。」


 「心理学を学ぶ身ですが、私も、息子のことが、てんで分からなくて」


 悲しげな口調。


 楓は言葉を続ける。

 

 「それでも、何か父親なりに、思うことがあるでしょう。例えば、息子さんが、『遊び』という言葉に反応して、人肉を切り刻んでしまうような、シリアルキラーである可能性は?」


 「あるわけないでしょう!!」


 凄まじい形相で楓をにらみつける。


 楓は肩をすくめる。


 「まあ、そうかっかなさらないで……」


 「怒りたくもなりますよ。もう、何がなんだか……。私の教育が悪かったんでしょうか??常日頃から、私は、息子に、『この世に要らない人間なんていない』という言葉を、説き続けてきたというのに」


 お馴染みのフレーズが飛び出したせいだろうか、楓が盛大に噴き出した。


 この世の人間ではないものを見る視線を、丈弘が楓に寄越す。


 「……失礼」


 「でも、確かに奇妙ですね」


 空気が不穏になりそうなのを察知して、私は口を開いた。


 「それほどまでに、日頃から人命の尊さを教えてこられたのなら、例え父親が把握してないような動機があったとしても、殺人など犯さなそうなものですが」


 「そうでしょう?そこが分からないのです。私自身の口癖であると共に、息子の口癖にもなっていたくらいなのに……」


 「ミステリだな。ワイダ二ットだ」


 私はもう一回楓の足をドンッと蹴った。


 「……痛い」


 「息子さんは、今どちらに?」


 「保護されています。児童相談所の方に。何しろ幼いもので、責任能力も問えませんから。だた、今後どうなることか……」


 「そうですねえ……」


 楓が他人事のように軽快な口調で言う。


 実際他人事なのだが、こいつはもうちょっと、人の心というものに対して、考えた方がいい。


 「お子さんがどうなるかは取りあえずおいといて。こちらも小遣い稼ぎ……もとい、仕事ですので、やることはやらないと」


 「調査、ですか?」


 「ええ」


 楓はこくりと頷いた。


 ニートにしては俊敏な動きで立ち上がる。


 「まず、息子さんの部屋を見せてもらいますか?」


 その言葉を、これ以上ないほどの笑みを浮かべながら、発したのだった。


 *・*・*


 小ぎれいな部屋だった。


 家具と言えば勉強机と簡易な備え付けのベットくらいしかない。


 後はいくつかの本が、無造作に書棚に収められているだけだ。


 リビングとはうってかわって、こちらは日陰になっているのか、光りと言えば、天井からつり下げられた電灯によるものしかない。


 それでも子ども部屋らしく、どこか拭えない影があるような、不穏な暗さが漂っているわけではなく、机の上に並べられた絵本や、少しばかり乱れたベットを見る限り、むしろ健康的な空気が感じられた。


 実際に見たことないのでなんとも言えないが、少なくとも、『人を殺しそうな』、少年の部屋には見えない。


 楓はドカドカと室内に入ると、軽く部屋の内部を見回した。


 「何か気がついたことでもあるのかい?」


 「ろくに本がないな。殺人を犯すような子どもだから、てっきり哲学書の類でも置いてあるのかと思ったが」


 「あるわけないだろう……8歳だぞ」


 「偉大な哲学者の中には、わずか2歳にして、人生の意味というものを考えたものもいる」


 本棚の前にかがみながら、楓が講義をするような口調で言う。


 一応大学出の人間として、最低限の教養を身につけているつもりの私は、過去の記憶を探ってみた。


 しかしいつまで経っても、哲学と言えば、何やら浮浪者のような風貌をした老いた教授が、存在の神秘とやらの講義をしていた光景しか思い出せない。


 「知らないな?誰だ?その哲学者は?」


 「僕だ」


 まるで当たり前のことを言うような口調だった。


 ……本当に、こいつの精神面におけるプラスさだけは、見習いたいよ。


 「それで、その偉大な哲学者様は、どうしてこんなところで、床にはいつくばっているんだ」


 いつの間にかシャーロックホームズのように床の細かなほこりまでも調べ始めた楓にあてこすりをする。


 彼は首を振って、素早く立ち上がった。


 「知らん。なんで僕がこうなったのか、自分自身に聞きたいくらいだ」


 おい哲学者よ。少しは考えたらどうだ。


 そんな軽口を叩きあっている間にも、楓は調べを進めていく。


 そもそも子ども部屋のことで、しかも清潔に整頓されているとあっては、調べようにもほとんどやることもないのだが。


 ベットの下を覗き込んだ楓が、神妙な口調で言った。


 「まったく。エロ本の一つも隠していないとは、健康的な子どもだな」


 「お前は8歳の少年を何だと思っているんだ?」


 如月楓のような、ニートでもあるまいし。


 楓は苦笑して立ち上がると、服を軽くぱんぱんと叩いた。


 「まあ、正直言って、見るべきものはあまりないね、ここには」


 お手上げだ、と言うように、ベットにドシンと腰かけて見せる。


 「おい、人の部屋だぞ」


 「あの心理学者様は、まだ論文を精査中だろうから、大丈夫さ」


 人が見ていなければいいなんていう話ではなく、言わば倫理的な問題なのだが、まともに楓とやりあッても、実のある話になるとも思えない。


 私は大きくため息をついた。


 「そもそも、丈弘さんも丈弘さんだ。こんな、得たいのしれないニート如きに、自分の別荘を好き勝手に捜査されるなんて」


 「……君は誰の味方なんだ」


 楓が呆れたような視線を寄越す。


 私は腕を組んだまま、壁に体重を預けるようにすると、その言葉に答えた。


 「だってそうじゃないか?いくら今日中に読まなければいけない論文だといったところで、仮にも客人なわけだし」


 「叔母の知り合いは、皆あんなものさ」


 楓がそう言って、前髪をいたずらに掻き上げる。


 本当に不遜な奴だ。


 そしてだらしない男である。


 ……如月楓はニートである。職はまだ持っていない。


 それゆえに、もう25になるいい年のおっさんなのに、自分の母方の裕福な叔母に、養ってもらっている。


 しかしこれだけ言うとただの人間の屑のようだが、……そしてその言もあながち間違ってはいないのだが、少なくとも彼は何も黙って叔母さんの好意に甘えているわけではない。


 楓は彼女の、プライベート・アイを努めているのだ。


 それは一つには、盲目の叔母さんの、文字通り『目』となって活動することが、しばしばあるということでもあるし。


 もう一つには、私立探偵(プライベート・アイ)として、いつも何かしらの不安に悩んでいないと安心できない人物である叔母さんの、もやもやを晴らしてあげているということでもある。


 言わばその行為の代償として、楓は叔母から援助を受けているのだ。


 まあ、それが働かない言い訳になりはしないが。


 今回楓がこの事件に乗り出したのは、叔母が心酔しており、またかねてからの知り合いであった心理学者、榊丈弘のピンチということで、関わることになったのだった。


 お金持ちというのは、色々な界隈に、知り合いがいるものらしい。


 人脈もくそもない楓とは、雲泥の差だ。


 「叔母さんの頼みなら、あの学者様も、無下には断れないだろうしね……。一応彼を助けてあげようとしているわけだし」


 そもそも若者の一人や二人が絡んだところで、どうにもなりはしまいと思いこんでいるふしもあるが。


 「それなら、何かもう考えをまとめているんだろうな、名探偵?」


 「まあ、それなりには」


 どこか浮かない表情だ。


 「実のところ、ほとんど解決に至っている」


 まさか!!


 まだ調査を初めて、一時間も経っていないじゃないか。


 「僕は天才だからね」


 臆面もなくそんなことを言う。


 「だが、証拠がない」


 「証拠?そもそも誰がやったていうんだ?」


 私の問に、楓はちょっとためらう様子を見せたが、やがて意を決したのか、しばし息を吸い込むと、静かに口を開いた。


 「……僕は藤堂明を殺したのは、榊武ではなく、その父親、榊丈弘であると考えている」


 「なんだって!!??」


 思わず大声を上げた私を、楓は「しーっ」と人差し指を唇の前に立てることで制した。


 「心理学者お得意の、カクテル効果でも発輝されたらどうするつもりだ」


 カクテル効果というのは、人の喧噪で華やいでいる時でも、自分に対する悪評なら、くっきりと耳に届くというアレである。


 よく心理学を紹介する時に、適度な例として持ち出されるアレだ。


 しかしこの場合、この家は水を打ったように静まりかえっているので、カクテル効果を持ち出すまでもなく、普通に悪評が聞こえてしまうだろう。


  私は声を落として尋ねた。


 「君が突飛なことを言うから!!」


 「どこが突飛なんだ??彼が殺された明を嫌っていたのは、半ば暗黙の了解だったんだろう?自分の息子を取られたような気分になって」


 「あくまで噂だ。憶測に過ぎない」


 「でも実際に明は死んでいる」


 「でも彼を殺したのは丈弘じゃない。その息子の、武だ」


 楓は首を振った。


 「だから、さ。普通に考えて、『この世に要らない人間なんていない』なんて臭い倫理的なセリフを、常日頃父から吹き込まれている子どもが、自分と仲が良い大人をナイフで刺殺したなんて考えるよりはさ、いくら紳士然とした佇まいの持ち主とはいえ、世の中を渡り歩くに至って、酸いも甘いも噛み分ける、いや、噛み分けざるを得ない体験をしてきたその父親の方が、よっぽど人を殺しそうだとは思わないか?」


 言っていることには、確かにうなずける部分もある。


 しかし、私は納得がいかなかった。


 「そういう意見も、ありえるかもしれない。だけど、凶器のナイフから見つかったのは、直前にそれを握っていた、武の指紋だけだった。それに……」


 「ああ、それに」


 こくりと楓が首を上下に振る。


 「息子の武が、藤堂明を刺すところを、当時の『召使い数人』が目撃している」


 先ほどの丈弘の話には、一つ抜けている要素があった。


 それが、別荘にお世話係として連れてきてた、数人の召使の存在だ。


 召使といっても、最近雇った、言わば別荘専門のアルバイトのような存在だが、それにしても、贅沢な話である。


 国立大学の教授の給料は、私立大学と違ってそう高くはないと聞いた覚えがあるが、テレビ出演で大分儲かっているのだろうか。


 とにかく、息子の殺人には、目撃者がいた。


 「少しばかりベットの下に埃があったことを考えると、もう既に解雇しているようだがね」


 「というより、殺人の姿を目撃して、それでもなお働きたいとは、普通思わないだろう」


 しかし少なくとも、これで楓の説はなり立たないことになる。


 なにしろ目撃者がいるのだ。彼等が長年榊丈弘に仕えてきた召使というのならまだしも、しょせんバイトである。


 まさか、主人が殺害に及ぶ光景を目にしてまで、その息子に罪をかぶせるような、偽証をすることはないだろう。


 凶器のナイフから出た指紋や、武自身の自供などは、いくらでもごまかしようがあるとしてもだ。


 「お前も問題点が分かっているんじゃないか。どうしたって、榊丈弘に、藤堂明は殺しようがないだろう」


 「何も直接彼が手を下したと言っているわけじゃないさ。実行犯はあくまで息子の武だ」


 楓が人指し指を一本、ピンっと立てる。


 「ポイントは、なにも直接ナイフを握るだけが、殺人に繋がるというわけじゃないということだ」


 「……丈弘が教唆犯だと言いたいのか」


 「ご名答」


 鳴らせもしないのに指をパチンと鳴らそうとする楓。


 案の定苦戦していたが、こいつがどんな醜態をさらそうと、そんなことは私の関心にはない。


 私は再び記憶を掘り起こした。


 「……本人の言だけならまだしも、いくつかの雑誌のエッセイでも、彼は子どもに『この世に要らない人間なんていない』と、教え込んできたことが示唆されている。そんな価値観を、それこそ8歳にして身につけている子どもに、どうやって殺人なんかを指示できるというのだ」


 人を殺すことは、文字通り『この世に要らない人間』の存在を認める、あるいは出現させる行為ではないか。


 私のそんな当然の疑問も、楓は軽く笑っていなした。


 「いくつか方法はある」

 

 「本当か?」


 「心理学者様の部屋に行ってみようじゃないか」


 そういって突然ベットから立ち上がると、すたこらと子ども部屋から廊下へと歩きだしていく。


 「実のところ、この事件は、そんなに複雑な代物じゃないんだよ」


 相変わらずペースの読めない奴だ。


 私は不満を抱きながらも、急いで楓の後を追うことにした。


  *・*・*


 息が詰まるような緊張感が、糸のように丈弘の体に絡みついていた。


 あのおかしな青年達は、果たして真相にたどり着いただろうか??


 自分はもしかしたら、あの盲目の女性の援助を、引き受けるべきではなかったのかもしれない。


 しかし、なにぶん体裁もあるし、彼女ほどの人物を無下に扱っては、後々芸能界で支障が出そうだった。 


 どのみち自分の計画は完璧だ。心配することなどない。


 必死でそう言い聞かせるものの、しかし論文の内容は一向に頭に入ってこない。


 丁度精神分析について述べられているもので、相変わらず古臭いものが好きな自称精神科医どもが、フロイトやらラカンやらを持ち出している。


 今回の事件を同僚なら、どう評するのだろうか?エディップス・コンプレックスが云々、象徴界と現実界の橋渡しが云々。


 馬鹿らしい。全ては自分の掌の上なのに。


 興味を持てなかったのと、神経がたかぶっていて集中できなかったのもあって、丈弘は精査を諦めることにした。


 まあ、所詮自分はマスコミ御用達の御用学者だ。彼等の求める意見だけ、適当に言っていれば問題ない。


 もはや自分と息子、二人の進む道は決まっているのだから。


 ノックの音がした。


 思わずびくんと体を震わせる。


 その機械的なノックの音は、殺された藤堂明の特徴だったのだ。


 大学の中で生きていくことを諦め、全てを若者との交流になげうつ覚悟を負った、悲しい男の……。


 だがそのために、私の息子を奪っていくことは許されない。


 自分を奮い立たせると、彼は声をノックの主に向けた。


 「どうぞ」


 入ってきたのは、例の青年達だった。


 当たり前だ。今この家には、彼等と丈弘しかいないのだから。

 

 先頭の青年はどことなく穏やかな顔つきをしているが、後ろに控えている方はどこか顔を蒼くしている。


 失礼な奴と、礼儀をわきまえている奴の二人組と、丈弘は記憶していた。


 あるいは彼女の甥と、その連れか。


 どのみち、何の役割を果たすこともなく、この家を去ることになるだろう。


 礼儀を知らない方が口を開いた。


 「お時間よろしいですか?」


 「構いませんよ。丁度、紀要論文を読み終えた所ですから」


 何気ない調子で、傍のローテーブルの上に、冊子を置く。


 「こちらこそ、客人に対して、何のおかいまいもいたしませんで」


 「いえいえ。美味しい紅茶をいただきましたから。それに、面白い発見もありましたし」


 面白い発見?あるわけないだろう、そんなもの。


 丈弘がわずかに眉をひそめるも、男は気にした様子がない。


 ただ訳知り顔で頷いているだけだ。


 冷たい汗が、丈弘の背中を走る。


 後ろで控えていた方が大声をあげた。


 「うわあ……すごいですね。こんなにも本で一杯の部屋は、初めて見ました」


 すっかり感動しているようだ。まるでクリスマスプレゼントを与えられた小学生のように、くるくると辺りを見回している。


 ここまで露骨に好意的な感情をあらわされては、悪い気はしない。


 「すごいなあ……やはり全部資料ですか?」


 「まあ、仕事柄、どうしても心理学関係の書籍が多くはなりますよね。でも、大衆文芸とかも、読んだりはしますよ」


 にっこりとした笑顔を返す。


 確かに、書籍の収集には自信があった。


 自身もぐるりと部屋を見回す。


 その書斎は、丈弘が一番力を入れたところで。


 リビングに代わる、家族皆の団欒の場でもあった。


 といって、図書館のように、規則的な配列を意識しているわけではない。


 背表紙を見ても分かるように、著者の名前もバラバラなら、型にもそれぞればらつきがある。


 なにより置き所がなくて、多くの本がまるで部屋からあふれださんばかりに、四方に積み上がっている。


 日の当たりも弱く、その山々が作る影によって、部屋は埋め尽くされていた。


 しかし、同時に心地良かった。


 生活感に溢れているとでもいようか。


 そして、決して不快でない、知的好奇心をくすぐるような匂いが、鼻先を漂い、思わず本に吸い込まれそうになる。


 味わいのある煤けた空気が、満ち満ちていた。


 「すごいなあ……さすが大学教授だ!!」


 礼儀を知った男は、礼儀正しく賞賛を惜しまない。


 丈弘は苦笑した。


 何も大学教授だから、こんなものを設けたわけではない。


 これは自分の生来の性格なのだ。


 家族で読書を楽しむための。


 彼はそこまで思考がいたって、最愛の息子のことを思い出し、胸が痛んだ。


 武……


 礼儀を知らない方が口を開いた。


 「漫画はないんですか?」


 にやけた表情。


 丈弘は眉を顰める。


 礼儀を知っている方が、大袈裟に慌てて止めにかかった。


 「おい、楓!!そんな無粋な質問をするもんじゃない!!」


 どうやら楓という名前らしい。脳細胞の無駄かもしれないが、憎しみを込める意味もあるから、暫定的に覚えていてやることにしよう。


 丈弘は吐きすてるように言った。


 「漫画なんて、あんな子どもに悪影響を与えそうな本、置いてありませんよ。万一武が読んで、非行にでも走ったら大変ですからね」


 その口調には、どこか皮肉が交じっている。


 「おや、意外と古いタイプの人間なんですねえ。今時漫画ごときに目くじら立てていたら、深夜アニメなんか見てられませんよ」


 「……当然、そんなものも見せやしません」


 丈弘の気分を害したような表情と、何がおかしいのか、対照的に、その反応を楽しんでいるような男ー楓の表情。


 先ほどの皮肉にも気付いているのかいないのか。

 

 どうにもしまらない、軽薄な男だ。


 「どうしてですか?だって、所詮は、漫画やアニメなんて、空想の産物でしょう?僕は幼い子どもに悪影響を与えると言うなら、日本文学とかの方が、よっぽど強い可能性を秘めていると思いますけどね。源氏物語を読んで、源氏の真似をしようとしたらどうするんです?」


 幼稚な反論だった。丈弘はわざとらしく鼻を鳴らす。


 楓は続けた。


 「というより、あらゆるものは悪い影響を与えうるとも思いますよ。僕にしてみればね。本当に心優しい子どもに育てたいなら、それこそルソーの『エミール』みたいに、自然に帰すしかないのでは?」


 まあ、あんなもの僕は信じちゃいませんが、と、楓はにやにや笑いをさらに広めて言う。


 「……そういうのは、釈迦に説法というんですよ。私は心理学者であり、且つ父親です。少年少女の心の働きも、当然熟知している。他人に口を出される筋合いはない」


 嫌悪を含ませた丈弘の声。


 特にお前のような若造には、という言葉は、胸の中に呑み込んでおいた。


 「…………そうでしょうか?本当に疑問をさしはさむ余地がないと、お思いですか?」


 楓がピョンと人差し指を突き上げる。


 そして、今までとはうって変わった、真剣さを湛えた彼の目が、丈弘を睨んだ。


 「っ!?……」

 

 思わず背筋が自然と伸びる。


 「……どこが疑問だと言うんです?」


 「あなたがエキスパートだということ。そこなんですよ、ポイントは。あなたは心理学者なんだ。それも、国内でも有数の、ね」


 後方に控える礼儀を知った男は、あわあわとして、再び楓を止めようとしていた。


 しかし、楓の耳には、そんな声は届いていない。


 「それなのに、父親であり且つ有能な心理学者であるあなたがいながらにして……お子さんは、残念ながら、殺人という大罪を犯された」


 これは皮肉なのだろうか。


 空気が、変わった。


 反射的に息が詰まる。


 槍のように鋭い視線が、丈弘を射抜いた。


 「……随分失礼ですね」

 

 「失礼だけが、取り柄のニートですから」


 誇るべきでないところで、胸を張ってどうするんだ。


 むかむかする。

 

 丈弘の青筋が、ピクピクと動いた。


 「あなたの叔母さんの顔を立てて、今まで黙っていましたが……」


 「叔母さん?」


 キョトンとした顔。

  

 その反応を受けて、丈弘は余計に怒りを倍増させた。


 「はっきり言って、そんな社会不適合者に、ズカズカ土足で踏み込まれてきては迷惑なんです。しかも、私がもっとも傷ついている部分を、遠慮なく抉ってこようとするとは……。」


 グラグラ煮え立つ熱をエネルギーに、目の前の楓を睨む。


 「……確かに、息子を殺人に図らせた時点で、私は無能なんでしょう。しかし、先ほど言った通り、それをあなたに指図される覚えは」


 「無能だなんてとんでもない。むしろ、あなたはかなりの有能ですよ」

 

 しかし、丈弘の体内で沸き立つ熱の沸騰は、静かな楓の態度で冷まされてしまった。


 楓の後方で、度肝を抜かれたように男の動きが止まる。

 

 「っ!?」 

 

 「『何が言いたい』、という顔をしていますね」


 「それはそうでしょう。君は何を……」


 「息子に上手く殺人を教唆したという点で、まことに心理を分かっていらっしゃる、と言っているんです」


 パチパチパチパチ。


 楓が、へたくそな拍手を両手で打つ。


 「教唆?」


 「そう、教唆。あなたは子どもから悪影響を与えるメディアを遮断する代わりに、もっと効果的な殺人教唆を、間接的にふきこんだのです。ここに並べられたいくつかの書物と、息子さんの何とも殺風景な部屋を見て、確信しました。」


 まさか、この男……


 手に汗が滲むのを感じながら、丈弘は唇を噛んだ。


 「キーワードは……『この世に要らない人間なんていない』。そう、例の臭いセリフですよ」


 「……」


 沈黙がわだかまる。


 「臭い」という言葉は、さすがに強すぎると思ったのだろうか、楓はバツが悪そうに、ガシガシと頭を掻いた。


 丈弘は、今まで感じたことのない暑さを、感じていた。


 口が上手く開かない。


 「ま、まあ、それが幾分陳腐な言葉であることは認めますがね。」


 何とか数語口にする。


 この男。どうしてこうも正確に……


 倒れそうになるところを、なんとか踏ん張った。


 全身に力を込める。


 そうだ。こんな男に、見破られれるわけには……。


 丈弘の脳裏には、急にその部屋の書籍が、一斉に襲いかかってくるような幻覚が浮かんだ。


 「そうだ、楓。そんな模範的な言葉を教え続けただけで、いったい何で殺人なんてやらかすというんだ」


 遠くで名も知らぬ男が喚いている。


 「ふっ……」


 楓は、薄く口角を吊り上げた。


 「確かに、その文言だけならば、まったく何の害もないように見えますね」

 

 「ならば」


 「し・か・し」


 と優越感一杯に、彼は指を振る。


 「言葉なんていうものは、解釈しだいでなんとでもなるもので」


 例えば、と楓は、その『真実』を告げた。


 「確かに、『この世に要らない人間なんていない』。それは真実です。ですが、丈弘さん、あなたは心理学者らしく巧みに、その裏に隠された言葉も、息子さんに、お伝えになったのではないですか?」


 「……どういうことです」


 もはやその答えを知りながら、丈弘は尋ねた。


 楓はにこやかな笑みを浮かべる。


 そして、敗北を告げるその内容を、音に乗せた。


 「『この世に要らない人間なんていない』。そして、『どんな人間にも、使いようはある』」


 ……そうだ。そうなのだ。


 この世に要らない人間なんていないのだ。


 どんな人間にも、『使いよう』はあるのだから。


 「……つまりあなたのこの言葉は、通常世間の人が言うところの、人間としての尊厳を認めた意味合いではなかったのですよ」


 楓の視線が憎い。


 ただ一人の感情であるにも関わらず、丈弘が今まで積み上げてきた全てが、部屋の四方から、彼を睨んでいるように思われた。


 体が重い。

  

 立っているのも限界だ。


 「……何を、何を言いたいんです……?」


 それでも何とか、言葉を絞り出して見せる。


 「あなたが言いたかったのは、『この世に要らない人間なんていない。人間としての尊厳を別にすれば』、ということだったのですよ。そしてあなたは、まだ幼い我が子に、心理学者らしい、実に巧みな方法で、この価値観を染み込ませた」


 ……この男は、全てを見抜いているのだ。


 悪寒がする。


 皮膚感覚まで、おかしくなってしまったようだった。


 ……もう、どうしようもないのだろうか。


 さきほどまでの自信は、すっかり崩れ去ってしまった。


 この男の、言う通りだった。


 息子には、『この世に要らない人間なんていない』。『尊厳を度外視すれば、どんな人間でも、使いようがあるのだから。』


 そう教え込んだのだ。


 例えば、戦争。


 大量死にまみれた戦場においては、個々の人間は度外視される。


 そこでは、どんな人間をも必要とされるのだ。


 ただ、都合の良い『コマ』として。


 例えば、経済。


 資本というのは、個人を離れて暴走する化物だ。


 そこでは、どんな人間を見捨てることなく呑み込んでいく。


 ただ、都合の良い『コマ』として。


 ……挙げていけば、枚挙にいとまがない。


 この書物の山の中には、その例になるようなストーリが、いくつも埋まっていることだろう。


 あの男を殺させた時にしても、そうなのだ。


 「おじちゃんと、遊んでおいで」


 私は、ただそう言うだけで良かった。


 「発見当時、警察に報告に行っていた召使たちは、現場に戻った時に、両手を血に染めてはしゃいでいた武君を見たそうです。いったい、どういう『遊び』をしていたんでしょうね?」


 私が指示をすれば。


『この世に要らない人間なんていない』。


 その価値観を骨まで染み込ませた息子が、どう行動するか、想像が出来た。


 事件当時の様子を顧みるに、恐らく彼等は、色鬼をしていたのだろう。


 ほとんど家具のない、この白い家には、『赤色』はないから……。


 息子は、遊びの為に、ただ『赤色が欲しかっただけ』なのだ。


 だから、その為に。

 

 退官を間近にして、大学からはほとんど不要とされている老人を。


 『必要』と、したのだった。


 「くくく、あはははははは」


 笑いがこみ上げてくる。


 こんなにも、あっけないものなのかと。


 「上手いことやりましたね。教授」

 

 焦りのためか、疲れのためか、もはや目の前の男の顔も、蜃気楼のように判然としない。


 いつの間にか、床に膝をついている自分に、丈弘は気がついた。


 そして。


 「どうだい。こんなニートでも、少しは必要な時があるだろう?」


 相棒に向かって嬉しそうに口にする、如月楓の声を、聞いたのだった。


 *・*・*


 了。

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