数秘術師アレイスターの個人授業

小林稲穂

第一時限 魔術師と半群《セミ・グループ》

「『高等魔術師プロフェッサー』アレイスター先生。我々はなぜ数学マテマティカを学ぶのでしょうか」

 数式スペルに基いた魔力操作デフォーメーションで超自然現象を引き起こす『数秘術ニューメロロジー』。その根源をなす理論が数学マテマティカである。数秘術ニューメロロジーを専攻する『見習い魔術師ヴァレット』である私にとって、それは最も愚かな発問であると同時に、最も重要な発問でもあった。


「それは、数学マテマティカこそすべての原理だからよ、スー」


 アレイスター先生はもう何年も前から答えを用意していたかのようにきっぱりと答えた。この人はいつもこうだ。答えられることには、まるで作りおきの果実飲料でも出すみたいにすんなり答えが出てくるし、答えられないことは曖昧な助言すらしない。一か。ゼロ。まるでこの人そのものが数秘術のようだ。


魔法工学エンジニアリングという分野フィールドもあるにせよ、我々の目的はそのような目先の利益にはないわ。我々の努力が意味を成すまでには、大変な時間が掛かるの。我々が寿命を全うしたあとも、何百世代にもわたって研究は続くでしょう。そして、いずれ現れるであろう一人の天才が世界の根源ファンダメントへ到達し、その成果を持ち帰るための礎となるために、我々は今、数学を研究するのよ」


 大統一魔術理論グランド・ファンダメント。それがすべての純粋魔術師が共有する魔術という体系の真なる目的である。すなわち、この世すべての発生と過程を理解し、すべての未来を見通すことで、森羅万象を把握することだ。それはたかが人間ごときが神と同じ視線に這い上がる聖域への冒涜であり、神によって閉ざされたこの世界の扉をこじ開ける鍵でもある。


 『我々が寿命を全うしたあとも』などといういうわりに、その『計算魔カルキュレータ』アレイスター先生の容姿はもう五十年ほど前から変わっていないという。学生のような瑞々しさは失われ目元に浅い皺を刻み、そろそろ中年と呼ばれるあたりの顔つきだが、別の老教授が言うにはむしろ少し若返っている感じすらあるそうだ。魔術師にはそのような不思議な風体の者は少なくないが、この魔術師もまたそういった世の中のことわりの外にいる存在であった。現世での生命を限りなく引き伸ばし薄めることで、この長い寿命を保っているというのだ。


 快楽、幸福、充足感、そういったものを数百分の一にする代わりに、生命を数百倍に伸ばしているということらしい。何を食べても美味しいと感じないし、何をやり遂げても達成感はない。どんな音楽も小説もこの魔術師を楽しませることはなく、ましてや恋の喜びと悲しみなどというものとは全くの無縁である。配偶者はもとよりいないし、親兄弟や幼なじみの友人さえ、とうにこの世を去っているという。時間に置き去りにされた者の手の中に最後に残るのは、数だけというわけである。


 アレイスターは時折にこりと笑って見せるが、それは喜びや可笑しみの表現ではなく、現在の立場ポジションを守るための処世術の一環にすぎないという。それならばこの老魔術師を数秘術ニューメロロジーに駆り立てるものが何なのか、それはこの魔術師自身しか知らなかった。


「それで、今日は何を学ぶのですか」

世界の構造ストラクチャーというものよ。魔法幼学校エレメンタリでは、数の種類としてどんなものを習ったか覚えているかしら

「ええと、自然数ナチュラル整数インテジャー実数リアル複素数コンプレックスでしたっけ」

 私は魔法幼学校エレメンタリでの講義を思い出しながら言った。魔法幼学校エレメンタリでは特別優秀というわけではなかったが、それくらいの基本的な知識は問題なく身につけているはずだ。


「そうね。しかしもっと高度な数学になると、扱う対象は数以外のものにも及ぶわ」


「え?複素数コンプレックスよりもっとすごいものがあるのですか?」


「すごい、かどうか別として、あなたもすでに幾つか知っているはずよ。たとえば、向量ヴェクター行列マトリクス集合セット


「確かに、向量ヴェクターはまるで数のように足したり引いたりできますね」


「そこで、これらの対象を別々に研究するのではなく、それらの共通点に注目していくのが代数的構造ストラクチャーというものよ。さて、この高等魔法学校ハイスクールに備え付けられた黒板は今ひとつでね、数秘術式エクスプレッションを書くにはちと頼りないんだけどね」


 そう言って、アレイスターは次のように書いてみせた。


    (a + b) + c = a + (b + c)


足し算アディション結合法則アソシエイティヴィティ?」


「ええ、足し算アディションね。変数ヴァリアブルの扱いは大丈夫かしら。たとえば、代入魔法アサインメントを使うとこうなるわね」


    (1 + 2) + 3 = 1 + (2 + 3)


変数ヴァリアブルaに1を、bに2を、というように代入アサインメントしたわけですね」


「このプラスは、ただの数の足し算アディションを表すこともあるけど、それ以外のものを示すこともあるわ。さっき言ったでしょう?高等魔法学校ハイスクールではナンバー以外のものも扱うって。たとえばこんなのはどうかしら」


  ({1, 2, 3} + {4, 5}) + {6} = {1, 2, 3} + ({4, 5} + {6})


集合論セットですね。たしかに、+を和集合ユニオンだと考えれば上の術式エクスプレッションは成り立ちますね。しかし、幼学校エレメンタリでは集合の和は+ではなく∪という演算子オペレータで表したと思いますが」


「ここでは記号が何かは問題ではないのよ、スー。これを表すのに別の記号シンボルを使っても構わないの。重要なのは、数の加算も、向量ヴェクターの加算も、集合の和も、結合法則アソシエイティヴィティという共通した性質を持っているということなの。たとえば、こんな例だってあるわ」


 そういうと、アレイスター先生は次のような式を書き始めた。たしか、私も外国語の授業で習ったことがある文字だ。


  ("色は" + "匂えど") + "散りぬるを" = "色は" + ("匂えど" + "散りぬるを")


「これも数学マテマティカなんですか?まるで古典文学リテラチャーですが」


「ちゃんと公理を定めて曖昧さなく扱えれば、たとえこんな文字の操作でも数学の対象よ。この場合、演算子オペレータ+は数の加算を表しているわけじゃない。文字列どうしの連結を意味しているの」


 アレイスター先生は、黒板に式を書き足してゆく。


   ("色は" + "匂えど") + "散りぬるを"

  = "色は匂えど" + "散りぬるを" 

  = "色は匂えど散りぬるを" 


   "色は" + ("匂えど" + "散りぬるを")

  ="色は" + "匂えど散りぬるを"

  ="色は匂えど散りぬるを"


「これで、文字列が計算の対象でも、さっきの式のような結合法則が成り立つことがわかったでしょう。こんなふうに、結合法則アソシエイティヴィティを満たす数学的対象と演算子の組み合わせはいろいろあるのよ」


 まさか数学の授業で古典文学が出てくるとは。もっとも、これはどんな文字列にでも言えることだ。数学が扱う対象は、まさしくこの世のすべてに及ぶ。


「そして、この結合法則アソシエイティヴィティを満たすような数学的対象オブジェクト演算オペレーションの組み合わせを、『半群セミ・グループ』というの」


 『半群セミ・グループ』。幼学校エレメンタリで私たちが結合法則アソシエイティヴィティと呼んでいた概念は、こうして数学世界全体の巨大な構造ストラクチャーの一部として組み込まれた。


「これは普段は数や向量ヴェクターといった肉に覆われて見えなくなっている数学世界の骨組みストラクチャーよ。こうやって、数や集合や文字列といったものをバラバラに扱うのではなく、その共通点を探して抽象化アブストラクトする。これはまさに数学という学問の基本的な方向性であり、我々の探し求める数学の根源はこの先に存在すると考えられるでしょう。この方向性は究極的には、集合セットに理論を集約する伝統的統一魔術理論トラディショナルセオリである公理的集合論アクシオマティック・セットを基盤とし、それはいずれ対象オブジェクトアローに理論を集約する新魔術理論、圏論カテゴリーへと昇華するかもしれないわね。しかしそれはずっと先の話になるでしょう。あなたがそれを見届けるかどうかはわからない。スーは自分の生涯を数秘術ニューメロロジーに捧げるつもりなのかしら」


「……どうでしょうか」


 私にはまだそれだけの覚悟はない。まだやってみたいことも、行ってみたい場所もあるし、できたら恋のひとつくらい経験してみたい。でも、そうやって個人的な願望を抱く者に、大統一魔術理論グランド・ファンダメントへの到達など程遠い夢であるのは確かであった。それは、私の眼の前で静かに微笑むアレイスター先生が数秘術にその生命のすべてを捧げながら、未だ根源の片鱗すら掴めていないことからも明らかだった。

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