三十体の偽非概念 (前編)

「刺突」の槍のような二本の腕を斬概念刀で凌ぎながら間合いを詰めた本物川は、その凌ぐ刃の運びをそのまま袈裟懸けの斬撃に繋げ、「刺突」を斜めに両断した。


げげげ、と血の泡を吹いて銀色の針金人間のような怪人は夜の路地裏の街路に倒れ、崩れたゼリーのような塊と化した。


「……五つ」


肩で息をしながら、本物川は倒した敵をカウントする。


『くそ、奴ら全部で何体いるんだ? 』


ミノルはそう尋ねずにいられなかった。


「数が多すぎて正確には……だが少なくともあと二十はいるな」

『持つのか? お前の、概念の力は』

「白旗を上げたら許してもらえると思うか? 」

『そうじゃない。一度戦闘から逃れて態勢を立て直して……』

「すまない。お喋りはここまでだ」


本物川が視線を上げると、夜の路地裏に異様な人影が集まりつつあった。

前方に、また振り向いた後方にも。狭い路地にひしめくように集まる異形の群れ。

小人のように小さな影。小山のように大きな影。四つん這いのけだもののような影もあれば金属部品で構成された機械のような影もある。機械のような影はご丁寧にパイプ状の部位から蒸気のようなものまで吹き上げている。

本物川は ちら、と視線だけを走らせて異形の軍団の位置関係をある程度把握すると、今度は人間にはない感覚--概念を走査する概念ならではの知覚の波紋を辺りに すぅ、と拡げた。

十七の、色や温度や形や大きさの違う概念が二手に分かれ挟み打ちの形で本物川を取り巻いているのが、彼女の感覚を通してミノルにも分かった。


「囲みを破って突破する。無理をするから、悪いが君にも負担を回す。苦痛だろうがなるべく耐えて、可能なら私にできるだけ深く同調してくれ」

『わ……分かった』


ミノルはそう言うしかなかった。


本物川は瞳を閉じた。

きゅんきゅん、と彼女の周囲の空気が鳴いた。

本物川が持てる概念の力でその周囲の物理法則を書き換える際、生じる落差が鳴らす空間ノイズだ。

初めは彼女が手にしたカッターの意匠を抽象化したような身の丈程の巨大な刀、斬概念刀の周囲に。

そしてそれを保持する腕に。肩口、両脚、胸、背中、耳や目鼻--。攻守、機動力、感覚に作用する様々な概念が並列励起されて本物川全体を包み込む。

本物川は瞳を開いた。

斬概念刀の刃が真っ赤な炎を纏い燃え上がる。

彼女が刀を握る手に く、と力を込めると、その炎は更に収束し魔物の咆哮のような音を立てながら青く、鋭く吹き上がった。


「行くぞ」

『お、おう』


ミノルは唾を飲み込もうとしたが、本物川のものとなった身体はそれを許さなかった。



---------------




「集合ーーー! 」


加野の号令でバラバラに遊んでいた子供と、子供会指導員として活動している大学生が集まる。

今日のくじら公園の土曜活動--通称「土活」には十数人の子供と、六人の大学生が参加していた。


くじら公園は北星ヶ谷の隣町、 先見台の団地の真ん中を四角く切り取る比較的大きな公園だ。

公園の大部分はだだっ広いグランドで、公園の入り口近くに鉄棒や屋根付きのベンチ、砂場、公園の名前の由来となった、くじらを模った滑り台とジムが合わさった遊具などが並ぶ。


指導案と呼ばれる計画書では、今日のメニューは「田んぼ鬼」、「やりたいこと会議の内容で決まった遊び」、「ドッジボール」の三種目。

そしておわりの会「言いたいこと言っちゃうぞ会」で締め、だった。


「今日はすくすく子供会からメイコお姉さんが遊びに来てくれていますー! 拍手ー! 」

ヘルプとして来ていた広澤メイコは立ち上がるとぺこりと頭を下げた。

メイコは集団の後方に立膝で待機する岸ミノルの様子をちらりと確認したが、彼は子供の様子に気を配っていて、彼女の方を見てはいなかった。メイコは小さく溜息をついた。



---------------



休憩時間、ペットボトルのスポーツドリンクを煽りながら岸ミノルは少し離れた所で子供たちに囲まれる鹿野リョウコの様子を見るとはなしに見ていた。


彼女は高学年児童とも幼児とも上手にコミュニケーションを取りながら、段々自らはその会話の中心から身を引き、子供同士のコミュニケーションが活発になるように話題を振ってゆく。

学校では難しい、学年を超えた子供同士の交流--地域の子供同士の関係の活性化と深化は彼らの子供会活動の目標の一つである。とはいえ、それを表立って仰々しく教示するではなく、

自然な形でその種を子供たちに撒くような鹿野の技術に、ミノルは舌を巻いた。

ミノルが鹿野を気に掛け意識するようになったのは、その子供会指導員としてのさりげない実力の高さへの感動とそれに対する素朴な敬意がきっかけだった。

ミノルの憧憬の視線に全く気がつく様子もなく、口に手を当てて笑う鹿野の周りで、子供たちが一際大きな笑い声を上げた。


そんなミノルの五歩隣で、広澤メイコは持参した水筒の煮出しの麦茶を飲みながらミノルの様子を伺っていた。

会報委員の活動でミスを助けられて以来、メイコは自分の感情に訪れた変化を認めまい認めまいとしていたが、今日、今、ここに来てその変化を痛みと共に受け入れざるを得ない状況まで追い詰められていた。

彼女の小さな胸を満たす黒いわだかまり。

それが嫉妬だと、メイコ自身が明確に理解してしまったからだ。

岸が、加野を見ている。

加野の楽しそうな様子に微笑を浮かべながら。

それが今のメイコには刺さるように辛かった。

風にそよぐ艶やかな髪、大きく黒眼がちな瞳と整った顔立ち、均整のとれたプロポーションと全体に柔らかそうな身体つき、長野の名家の次女だと言う出自、相手を選ばず慕われる人望や、快活でありながら優しさや気遣いを欠かさない振る舞いの気持ち良さ……同じ女性でありながら、メイコが鹿野に勝っている部分は何一つなかった。

彼女は暗澹たる気持ちで俯いた。

今日にそなえて新調した有名スポーツメーカーの真新しいスニーカーが視界に入る。そのよそよそしい新しさすら、今のメイコには虚しく、忌々しいものに感じられた。


「ミノルー! 」

「おうリコ。どした? 」


岸の元に子供会の低学年の女子が駆け寄り、抱きついた。

岸はペットボトルの蓋を閉めて膝を折り、屈んでリコと呼ばれた子供の目線まで自らの目線を降ろした。


「ミノルは今好きな人いるのー? 」


リコの唐突な質問に、二人の大学生が息を飲んで固まった。


「……リコは? 好きな人いるのか? 」


全身を耳にして聴いていたメイコはその返しを 上手い、と思った。


「あたしはねー、好きな人が十五人いるのー」

「……マジかよ。ほぼ一クラス分の男子じゃん大変だな」

「そうなの。でもねー、好きな人いた方が楽しいよ。ミノルも誰か好きになった方がいいよー。モテそうだし」

「モテねーよ」

「嘘だー。ミノルかっこいいじゃん。優しいし。ミノルのこと狙ってる女子とかきっと一杯いるよー」


メイコは心の中でこっそり頷いた。

どうやらリコの中では普通より好きのハードルが大分低いらしい。


「どうかな……でも例えばさ。仮にそうだったとしても。俺が一杯の女子にモテモテだとしてもだぜ。自分が本当に好きなたった一人に振り向いてもらえなかったら……大した意味、ないよ」

「ふーん……? 」


リコはどこか釈然としない様子だったが、聞かない振りをしながら全力で聴いていたメイコは一つ得心した。

彼も片思いなのだ。

岸ミノルと鹿野リョウコは少なくとも現段階では付き合ってはいない。

そうである以上、まだ自分にもチャンスはあるのだ、とメイコは自分の中にある前向きさを目一杯掻き集めて、俯いていた顔を上げた。



---------------



「さ、好きなものを頼んでね。払いは私が持つから」


加野はそう言って二人の前にメニューを拡げた。

南星ヶ谷駅から徒歩で五分ほど、表通りから一本入った道にこじんまりと佇むレストラン「エヒトフルス」のボックス席で、である。


「そんな、いけませんよ」

「そ、そうです。私も自分の分は自分で……」

「はいはい。気持ちだけ貰っとくねー」

鹿野はミノルと広澤メイコの遠慮の言を遮り、おどけた仕草で手をひらひらさせて二人の意見に対する拒絶を示した。そしてアルバイトの給与が出たばかりであることを得意気に説明しながら鹿野はこの場を自分の奢りとすると押し切った。


ミノルはメニューに視線を走らせながら自分の食欲の方向と高過ぎない価格の妥協点を満たす料理を探った。


『ミノル』

「なんだよ、こんな時に……」


ミノルの内に潜む概念世界の住人、本物川の声を初めは鬱陶しく感じたミノルだったが、すぐに はっとなって席を立った。


「ちょっと、手洗って来ます」


そう言って足早にトイレに入り施錠すると、本物川に語りかける。


「まさか……偽非概念か⁉︎ 距離は? 種類はわかるか? 」

『すまない。そうじゃない』

「じゃあなんだよ」

『……ハンバーグ』

「はぁ? 」

『選択するメニューをハンバーグにしてくれないか。もし良ければ、だが』


ミノルは全身から力が抜けてしまった。長い溜息をつく。


「お前なぁ……先輩いるのに、俺すげえトイレ我慢してたみたいになったじゃねえか」

『すまない。……ハンバーグは諦める』

「……いや、いいよ。俺が早合点したのが悪かったんだ。ハンバーグな」

『そうか! ハンバーグにしてくれるか! ありがとう! 話しかけ方については以後注意する。感謝するぞ、ミノル』

「へいへい」


取り敢えず手を洗い、洗った手をハンカチで拭きながらミノルは席に戻った。

戻ったミノルが席に着くのを待たず鹿野が問いかける。


「あ、ミノル君。メニュー決めた? 」

「……季節野菜とハンバーグのプレートで」



---------------



とりとめもない会話と、ファミリーレストランでは味わえない少し贅沢な料理。

憧れの先輩と、ちょっと気になる男の子。

普段、色恋のイの字もなく、ギリギリの仕送りとバイト代を切り詰めながら灰色の世界を暮らしている広澤メイコにとって、とても貴重な、色鮮やかで充実した時間だった。


「ミノル君、ハンバーグ好きなのね。意外。もっと辛いものとか好きそうなイメージだった」


鹿野はパスタとセットのバケットを千切りながらそう言った。


「……最近仲良くしてる奴が、ハンバーグにハマってまして。その影響で」

「へえ。ケンジ君じゃないよね? 学部の友達? 」

「ええ、まあ。基本、先輩の仰る通り辛いもの好きですよ」

「だよね。なんかいっとき学食でカレーばっか食べてたでしょう」

「わ……なんで知ってるんですか。あの頃は、なんか辛いもん食べないと元気出ない感じだったもんで」

「メイコちゃんはあれよね、カレー、ルーから作るのよね」


二人の会話を聞きながらお冷やを飲み掛けていたメイコはそう話題を振られたことに驚いて軽くむせた。


「えほっ……ん。あ、はい」

「確か、お母さんがカレー大好きで、一人暮らしになる時にそのレシピを持たされた……んだったっけ? 」

「え、ええ。その通りです」


肯定しながらメイコは鹿野の記憶力の良さに驚いた。

確かに以前、一度だけ鹿野にそんな話をしたことがある。新入生歓迎企画の、カレーパーティーの時だったか。

正直メイコ自身、そんな話を鹿野としたことは今の今まですっかり忘れていた。だから余計に驚いたのだ。


「へえー。どんなカレー? 」


その話題に岸ミノルが食いついた。彼がカレー好きと言うのは本当のようだ。


「あ、いや。でもそんな特殊なカレーでもなくて……焦がし玉ネギを多めに入れて、みりんとお出汁で味を整えてガーリックチップ乗せてバターライスで食べるっていう……」

「……美味しそうね」

「……美味しそうだな」


鹿野と岸がほぼ同時に同じようなリアクションをした。

二人が吹き出し、メイコも釣られて笑った。

笑いながらメイコはこんなに自然に誰かと笑うのはどれくらいぶりだろう、と思った。高揚した気持ちが、彼女を少しだけ大胆にさせた。


「実は丁度、昨日作って冷凍した分があるんです。良かったらお裾分けしましょうか? 」


「是非お願い」

「是非頼む」


またも鹿野と岸のリアクションが重なる。そして再び三人は声を上げて笑った。



---------------



『ミノル』

「なんだよ」

『なぜ洋服の一部分をそんなに加熱するんだ? 』


夜の七時を回った自宅で、取り込んだシャツにアイロンを掛けていたミノルは、彼の身体の同居人からの素っ頓狂な質問に少し頬を緩めた。

観るとはなしに観ていたバラエティはいつの間にか終わり、テレビは変わってドラマを垂れ流していたが、ミノルはそれを全くと言っていいほど観ていなかった。


「加熱はしてるが、それが目的じゃない。この作業の最終目標は、服にできた皺を伸ばすことだ」

『皺を……伸ばす』

「皺が沢山入った服を着るのはみっともない、って文化上の価値観があるのさ」

『ふむ。……しかし繊維からなる生地に皺が寄るのは自然なことだろう。逆に皺がない状態が稀有な……不自然な状態の筈だ。なぜ不自然な方に上位の価値を見出すんだ? 』

「自然に任せるより人為的に管理された状態のものを尊ぶのさ。多分……希少価値じゃないかな」

『なるほど……人為的な加工がされているということで、その分のコスト……付加価値が服に加算される、ということか』

「……なんかピンと来ないけど、まあそんなようなもんだ」

『もう一ついいか? 』

「ああ」

『あれは何をしているんだ』

ミノルの顔が勝手にテレビの方を向く。本物川が質問の為に動かしたのだ。

テレビの画面では、ヒロインの女優と若手のイケメン俳優が熱烈なキスをしていた。

「あれは、キスだ」

『それは知っている。私は君の知識を参照できるから。愛し合うもの同士が愛を確かめ合う行為の内の一つなんだろう? 』

「……そうだ」

『なぜ、唇と唇を触れ合わせることが、愛を確かめ合う意味になるんだ? 』

「……」

『君の知識の中でもその辺りがぼやけていてよく分からない。説明してくれないか』

「えーと……」


【ピンポン】


その時、玄関のチャイムが鳴った。

ミノルは はい、と返事を返してアイロンの電源を落とし、誰だろうと訝しみながらアパートのドアに向かった。

魚眼レンズの嵌ったドアの覗き穴から表を確認する。

ミノルの鼓動が跳ね上がる。

そこに立っていたのは、彼が仄かに想いを寄せるサークルの先輩、加野リョウコだったのだ。

ミノルは慌てて玄関ドアを開けた。


「先輩……! どうされたんです?こんな夜中に」

「ちょっと話があって。お邪魔してもいい? 」

「あ、ちょ……五分……いえ、三分ください」


ミノルはドアを閉めると、光の早さで室内の、加野に見られたくないものをスキャンした。




ーーーーーーーーーーーーーーー



広澤メイコは自転車で岸ミノルの家に向かっていた。


住所はサークルの名簿から。スマートフォンで位置情報を調べれば、道順はすぐに分かった。

前カゴにはナフキンでお弁当包みにしたタッパー。中身は冷凍してチャック付きビニールに納めた特製のカレールーだ。

アポの連絡をしようかとも思ったが、ルーを渡すだけだし、最悪無駄足なら出直してもいい。

大学の裏側に住む彼女は、大学を挟んだ反対側の通りを新鮮に感じながら、岸がアルバイトをしているという大型スーパーの前を横切る。

ウィンドウを通して見る限りは、岸は少なくともそのレジには入っていない様子だった。

顔がにやける。鼓動が早いのは自転車を懸命に漕いでいるからばかりではない。

好きな人の家を訪ねる。思えば彼女に取ってそれは初めての経験だ。

好きな人に自分の作った料理を食べて貰う。この歳になるまで、バレンタインデーすらまとも参加してこなかった彼女に取って、思えばこれも初めての経験だった。

岸はどんな反応をするだろう。彼の事だからお礼を言ってくれるのは間違いない。今日の今日でアクションが速いことにはコメントするだろうか。本当に嬉しそうに顔をくしゃくしゃにする、あの笑顔になってくれるだろうか--。


最後の角を曲がり、岸のアパートが視界に入る。喜びに輝きかけた彼女の顔が、すぐ動揺に曇った。岸のアパートの二階の廊下に女性が立っており、それが彼女の知る人物によく似ていたからだ。


まさか--


急ブレーキ。自転車を降り、自販機の影に身を寄せて様子を伺う。

岸の住む二○一号室の前、手持ち無沙汰な様子のその女性がくるりとこちらを向く。廊下の灯りに照らされて、その愛らしい顔立ちがはっきりと見えた。


まさか--


メイコは冷や水を浴びたような思いだった。


手が震える。息の仕方が分からなくなって、酷く苦しい。寒気がするのに汗が出る。


まさか--いや、でも--


ドアが開く。笑顔で岸がその女を迎える。女は軽くお辞儀をすると、岸の部屋に入っていった。


ああ、そう。


ああ、そう。そういうこと。

そうよね。わたしがかってにもりあがっていただけ。

いつものことよ。

でもね。

そうならそうといってよね。


わたしみたいなみじめでねくらでバカなブスが


かんちがいしちゃうじゃない--。




---------------



「コーヒーでいいですか? 」

「あ、うん」

「砂糖とミルクは? 」

「ブラックで」


湯沸かしポットのにカップ二杯分の水を入れてスイッチを入れる。


ワンルームの真ん中の小さな座卓を挟んで加野の対面に座りながら、ミノルは加野の要件を想像し、嫌な予感がして身構えた。


「今、お湯が沸きますんで」

「ありがとう」

「で、先輩。お話、というのは……」

「……分かってるんじゃないの? 」


やはり。先週、ミノルが加野を落ちて来た鉄骨から庇った件だろう。異常な能力と状況。その話を食事会でしよう、とミノルは加野に語っていたのだ。

対面に正座する加野は眼の奥に、どこか迫力のようなものを宿していた。元々整った顔立ちだけに少し冷たい表情になると、その鋭さは際立った。


「メイコちゃんが同席してたら確かに切り出しにくい話題よ?けど、私がそれで誤魔化されて、流すと思った?」

「……」


静かだが強い口調だった。ミノルはこんな様子の加野を見るのは初めてだった。


「ふわふわ優しい先輩ならなんとなくでやり過ごせると思ったんでしょう?残念ね。私がみんなの前で見せてるのは、私の一側面でしかない」


ミノルは返す言葉がなかった。普段の加野は優しさや人の良さが印象的だが、今の加野は知的で怜悧な、遣り手の弁護士のような油断ならなさが表に出ていた。


「あなたは後日話すと約束した。その約束を果たして欲しいの。今、ここで」


追い詰められながら、ミノルは更に深く加野に惹かれている自分を意識した。


この人は賢い。一筋縄ではいかない。下手な嘘は逆効果だ、ならば--。


「分かりました。話せるギリギリまでお話します」


湯沸かしポットから沸かし終わりを示す電子音が鳴る。ミノルは一度席を立つと、二杯のインスタントコーヒーを携えて席に戻った。


「どうぞ。インスタントですが」

「ありがとう。頂きます」


言葉とは裏腹に加野はカップに手を付けず、見張るようにミノルを凝視する。


「まず、前提として--」


ミノルは深呼吸を一つすると、事態を彼なりに説明し初めた。


「僕が先輩に説明を渋ったのは二つの理由があります。一つ。とても信じて貰えないような内容なので、説明することによって先輩との関係が悪化するのを恐れたため。二つ。先輩をこの事案の……外側に置きたかったためです。万が一にも、巻き込みたくなかったし、今でもそう思っています」

「………」

「そういう事情だと知っても、説明を聞きたいですか? 巻き込まれれば、最悪命の危険もあることは、前回の……鉄骨の時のことを思い出して頂ければ分かって貰いやすいと思うのですが」

「……続けて」

「分かりました」


ミノルは口の中に乾きを感じて、自分の分のコーヒーを一口すすった。


「結論から言うと、今この街は、ある特殊なテロリスト集団に狙われています」

「……特殊なテロリスト集団? 」

「端的に言えば『超能力者のテロリスト集団』です」

「……」


加野の表情は動かない。ミノルは続けた。


「今まで隠していましたが、僕自身にもある種の超能力があり、ある人物に協力して、超能力によるテロを防ぎ、そのテロリスト達を排除する手伝いをしています」

「ある種の能力……って? 」

「言えません」

「鉄骨を弾き飛ばしたのが、あなたの能力? 」

「言えません」

「ある人物とは? 警察とかそういう組織の人? 」

「言えません」

「テロリストがこの街を狙う理由は? 」

「言えません」

「先月の北星ヶ谷の連続放火事件。あれもそのテロリスト達の仕業? 」

「言えません」

「証拠を見せて。あなたの超能力を」

「できません」

「……そんな話を信じろと? 」

「だから言ったんです。これが僕に話せるギリギリです。これ以上は先輩や、もしかしたら先輩の周りの誰かにも危険が及ぶ。今話した内容も内密に。できたら忘れて欲しいです。誰よりも、先輩自身のために」

「……」


加野は席を立った。


「馬鹿にして」

「……」

「あなたがそんな人だとは思わなかった。あなたの言うとおり、この話は忘れることにする。憶えていて思い出したって、腹が立つだけだから」


ミノルは何も言わなかった。最早どんな言葉も、加野の心には届かないだろう。


「時間を取らせて悪かったわね。さようなら超能力者さん。せいぜい頑張って世界を救ってね!」


足早に部屋を去る加野が閉めたドアがバタンと大きな音を立てた。

その振動に座卓で湯気を立てる一口も飲まれなかったブラックコーヒーが、同心円の波を浮かべた。



---------------



夜道に、ぱたん、ぱたんとサンダルの足音が響く。

ミノルはどこかぼんやりした頭でさっきの加野とのやり取りを反芻しながら、大した目的もなく最寄りのコンビニを目指していた。部屋に居ても落ち着かず、眠気も食欲もなく、テレビを観る気にも風呂に入る気にもなれず、なんとなく外に出て、ふらふらとコンビニに向かって歩き始めたのだ。

十月初旬。外は意外に寒く、ミノルは一枚上着を羽織って出るべきだったなと思ったが、すぐにその思いもどうでも良いことと意識の外に流した。


『ミノル』


どこか遠慮がちに、本物川が話し掛けてくる。


「……なんすか? 」

『力になれなくてすまない』

「お前が謝ることじゃねえよ」

『あの場で、加野リョウコに対して全てを打ち明けても良かったんじゃないか? 』

「お前が変身して見せて、か? 」

『そうだ。概念うんぬんは解りづらいかも知れないが、何か異常な事態に君が巻き込まれている証拠にはなっただろう。それだけで、加野リョウコが馬鹿にされたと感じる状況は避け得た筈だ』

「先輩にも言ったけどさ」


ミノルは足を止めて、深く息をしながら夜空を見上げた。


「先輩には、この件の……俺たちの戦いの外側にいて欲しいんだ。俺にはお前がいるから、奴らに対処できるが、先輩はそうじゃない」

『それは……その通りだ。だが、その為に君は、好意を寄せる加野リョウコと決別した』

「言葉選びに遠慮がないな」


ミノルは苦笑した。


「だからそれでいいんだ。逆にがっつりこの件に食いついて来られて、付きまとわれたりしたら……。俺とお前の近くにいればいた分だけ、危険な目に合うリスクは高まるわけで」

『好きな相手を失うのが辛くはないのか? 』

「自分の事情に巻き込んだ挙句、自分の腕に抱かれて息絶える好きな人を見るくらいなら、嫌われた方がマシさ」

『私は正直、人間の文化や感情を理解するのが苦手だ』

「……」

『私は君の脳の然るべき記憶領域から、それらをデータとして参照することができる。だが、データとして記憶されている君の感情、思い、文化や生き方みたいなものは、君によって再生されないかぎり、その本質を現さないのだ』

「楽譜は音楽じゃない、みたいなもんか」

『そうだ。だから私には君の正体というか、君そのものを評価するのが難しい。君の総体を私が完全に理解するには、理論上、ほぼ無限の時間が掛かる』

「その前に普通に死ぬな」

『だから、切り取ったほんの一部から君という存在の在り方を類推するのだが』

「道理だな。人間はみんなお互いにそうしてる」

『私は君に敬意を払う。君の考え方ややり方は美しい。そして何より、今のところ知れば知るほど、君を好きになっている』

「……んだよ急に。慰めのつもりか? 」

『なるほど。これが照れる、という感情か』

「言ってろ。憑依合体ゴスロリ生命体が」


ゆっくりと近づく見慣れたコンビニの看板。煌々と灯りを漏らすそのウィンドウ。

少し理屈っぽい所があるが、ミノルは話し相手としての本物川を、今は素直にありがたいと感じた。


「……ハンバーグでも買って帰るか」

『……』

「ハンバーグ。好きだろ? 」

『……』

「なんだよ。怒ったのか? 」

『……偽非概念だ』


地上四メートルはゆうにあるコンビニの看板。そのロゴを、人型の黒い影が ふわり、と遮った。


『浮揚……』


本物川が緊張する。右手にはミノルの意図とは別のところで、既に黄色いカッターが握られている。

本物川が、す、と周囲に感覚の波紋を拡げる。


『障壁、溶解、共振……刺突』

「え⁉︎ い、一体じゃないのか? 五体? 」

『それも違う』


火の点いた紙が下から上に燃え上がるように、ミノルの足元から揺らめく光が立ち登りミノルの身体を下から上に舐めてゆく。

光の通過した後は既に男子大学生の姿はなく、初秋の夜風にツインテールをなびかせるゴシックロリータの衣装に身を包んだ少女の姿があった。


「加野リョウコを遠ざけたのは英断だった。七、八……九……集まってくる。大勢だ」

『まさか……! 』

「多数で少数を包囲殲滅する。戦術的には合理的、だな」


空気を割いて、本物川の右手のカッターが長大な刀身の剣と化した。



---------------



本物川は寸暇も置かずアスファルトを蹴って異形の人影の一つに駆けた。敵が体勢を整える前に先手を打とうという腹だ。

が、その足元が突然ふわふわと不確かになった。

「う……! 」

遂には足そのものが地面から離れて、彼女の体はそれまでの慣性のまま回転しながら空中に浮いて漂った。

「これは……浮揚……? 」

ちらと視線を夜空にやれば、コンビニの看板の側で浮揚の怪人の影が肩を揺すって笑っている。

ならばと本物川は、手にした斬概念刀を脇に抱えるように後ろに向け、強い燃焼の力を刀身に沿って後方に激しく噴射した。

その勢いで彼女はロケットのように地面すれすれを滑るように駆け抜け、そのまま異形の一人に殺到するとそれを斬って捨てようとした。

だが。


【ごおん! 】


分厚い鉄板をハンマーで叩いたような音が辺りに響き渡る。

本物川の必殺の刃は、影の直前で見えない壁に弾かれ、跳ね返された。姿勢の維持に重力の助けを得られない彼女は大きく体勢を崩してまた空中にくるくると回転する。

「……障壁! 」

影の中でも細身の、女性のようなシルエットが、爛々と光る眼を蔑むように細めた。その後ろから、カエルのように小さな影がジャンプして、姿勢の制御を取り戻そうとする本物川の頭上を取った。そいつは空中で器用に顔を本物川に向け、何かの液体を吐き掛けた。咄嗟に本物川はその大部分を斬概念刀をかざして受け止める。すると--。

「なに⁉︎ 」

斬概念刀の液体を受け止めた箇所が、水飴のようにとろん、と溶け落ちる。受け切れずに飛び散った飛沫は、本物川のゴシックドレスのそこかしこに白い煙とともに穴を穿った。

「溶解! くっ」

溶解箇所が手元まで侵食し、堪らず本物川は愛刀から手を離す。

斬概念刀はその形を保てずに、光の粒子を放ってどろどろの黄色い粘液となり夜の闇へ落下して行った。

その時、不意に重力が元に戻った。半端な姿勢のまま不随意に地面に吸い寄せられる本物川は受け身も取れないまま、左半身を下にアスファルトに叩きつけられた。

「ぐうっ……」

地に伏し苦痛に唸る本物川が身を起こそうとしたその時。

「あぁあぁあぁあッッッ!!? 」

衝撃波が彼女を包み込んだ。

いや、違う。その激しい振動は彼女自身の内側から湧き出ていた。

彼女の骨が、内蔵が、血肉が、何かの作用で細かく、しかし激烈に振動させられているのだ。

「げ、おっ!」

本物川の口から血が迸る。

その目が視界の端に捉えた彼女に向かって両手をのばす毛むくじゃらの怪人もまた、彼女と同じか、それ以上に振動している。

「共振……か! 」

なんとか起き上がろうとする本物川だったが、骨と筋肉は像が滲む程に振動しており全く言うことを聞かない。

あと数分もすれば、まず骨の接合部が砕け、続いて骨そのものも文字通り粉砕され、本物川の体は陸に揚げられたクラゲのように支えのない肉の塊となって地面にだらしなく拡がるだろう。

だが、敵はそれすら待てないようだった。

本物川の前に進み出た鋭い槍のような腕を持つ怪人は、自らの腕同士を研ぐかのように擦り合わせた。

一瞬、その火花が明るく周囲を照らした。

「……刺……と……つ! 」


じわじわと体を振動で破壊される苦痛と衝撃の中で、本物川の絶望がミノルの絶望と重なった。

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