第11話 壺の鳥

■■プロローグ


「これ、そなた。やはり故郷へ帰りたいか?」

 痩身の男がそう訊いた。それに、か細い女の声が応える。

「はい、帰りとうございます」

「それには、才人の助けが要ろう」

「嗚呼、それならば、そこなそれ。あの路地裏から何やら気配が……」

 その方を見遣る。腰の曲がった人影が角を折れて来るところだった。

「あれは違おう」

「いえ、あの方に付いて参りとうございます。その先に屹度……」

「そうか。それなら……」

 男がゆっくりと立ち上がった。その手には大きな包みを抱えている。


■■1


 取っ手や縁の部分に金の縁取りが施された、とても瀟洒な白磁の椀。側面には濃紺で描かれた鳥の絵がある。紅茶を注ぐと、器の白と紅茶の赤、それに紺の色の対比が、息を飲むほど美しい。小鳥は一口お茶を啜った。はんなりとした香りが鼻孔をくすぐる。とても幸せな気持ちになる。

「さて、どうじゃな? 茶器と茶葉の感想は?」

 手ずから茶をサーブする老人が、にこにこ顔でそう訊ねた。



 ここはセント伯爵邸。午後のお茶に招かれて、【幸福画廊】のメンツ、プラス、ダグラス刑事が、庭の一角に設けられた東屋に顔を揃えている。セント老人は先日、渡航先から戻ったばかりだ。旅先で見かけ、その美しさに惚れ込んで手に入れたという白磁の紅茶セットの自慢がてらに呼び出されたものらしい。茶葉も本場の特上級のものだそうだ。

 老人自ら茶を振る舞う辺り、その気合いの程が窺える。かなりな苦労をして買い入れた品だと思われた。


「とっても美味しいです、伯爵様」

 小鳥が答える。

「変わった鳥の模様だね。水墨画みたいな画風で面白い」

 その白野の言葉を引き取って、朱里が訊ねた。

「そうですね。これは……鳳凰でしょうか? 白磁と言えばC国が本場ですが、紅茶器でこの柄は珍しいですね」

「うむ、その通り。鳳凰じゃ。流石、朱里は雑学に事欠かんのぅ」

 老人の顔が、我が意を得たりとばかりにほころんだ。


 伯爵が『紅茶占い』をしてくれると言う。

 この占いには、内側が無地で白色のティーカップとソーサーを使う。先ず、ティーカップに茶こしを使わずに紅茶を注ぐ。そしてそれを飲み終えた後、底に残った茶葉の形で占うのだ。紅茶を愛するこの国で古くから親しまれてきた遊びである。


 小鳥は飲み終えたカップを両手で包むようにして持った。そうして言われた通り、左回りにきっかり3回、ゆっくりとカップ回す。ほんの少しだけ緊張した面持ちで、ティーカップをソーサーの上に伏せて置き、残った水分を落とした。

 他の者も老人に促されて、それぞれにカップを裏返す。

「どりゃどりゃ」

 老人が、水分の切れた頃合いを見計らって、カップを取った。底に張り付いた茶葉を確認する。


「……ふーむ。小鳥ちゃんの椀は、『何か新しいことを始めると吉』とあるのう」

「わー、何を始めようかしら」

 テニス、手芸、フラワーアレンジメント。やってみたいあれこれを、楽しそうに考える。


「朱里の椀は、『思い出を大切に』とあるな」

「そうですか」

 肝に銘じて大切に致しましょう。そう言って微笑むと、朱里は横に座る主を見る。それと視線を合わせた白野も、「ふふ……」と笑った。二人して何を思いだし笑いしているのか。相変わらず以心伝心で、薄気味悪い主従である。


「俺は、恋愛運か金運をみてくれ」

 ダグラスが言う。彼の椀を見た老人がにんまりとした。

「お前は『タイミングを間違うな』と出ておるわい」

「……何のタイミングだよ?」

「そりゃ知らん。自分の頭で考えることじゃな」

 不親切な占いだ、と文句を垂れるダグラスに、「小鳥さんの私室に入る時のタイミングじゃないですか?」と朱里が横から口を出した。

 ちょっと前のことになるが、ダグラスはついうっかりとノックを忘れて小鳥の部屋の扉を開けてしまい、丁度シャワー上がりでバスタオル姿の小鳥に、「うっぎゃあ!」と叫ばれたのだ。クッションと枕とぬいぐるみとヘアブラシが宙を舞った。ダグラスは頭にコブをこしらえた。


「う……。お前、過ぎたことを何時までも」

「占いに従って、ちょっとばかり、過去を懐かしんでみたまでです」

 澄まし顔で答える執事の、その小面憎いこと。

「いつか、背後から殴りかかってやるからなー!」

 朱里は何処で身につけたものだか、格闘技にも秀でているのだ。警察学校で本格的な指導を受けたダグラスも、そうおいそれとは手が出せない相手である。


「それも、タイミングが大事よね」

 小鳥が、そうとどめを刺した。


 占いの最後は白野のカップである。老人が白磁の底を覗き込む。

「さて、白野クンのは……こりゃ驚いた。『女難の相』が出ておるぞい」

「えぇ!」

 皆が、一様に驚きの声を上げる。当の白野までびっくり目になっている辺りが面白い。

「女難の相って、坊やにか? 執事じゃなく?」

「それは、どういう意味ですか?」

「いーや、ただ何となく」

 ダグラスが空々しく口笛を吹く。


「それで、坊や。お前、悪女にでもとっ捕まってるのか?」

「……そんな心当たり、ナイなぁ」

「今、女性の依頼人がおるんかの?」

 首が振られる。男女の別に限らず、現在、【幸福画廊】への絵の依頼は一つも受けていなかった。

「あー、もしかして、ナタリー・サンクレアが、また押しかけて来るのかも!」

「いや、それはないでしょう」

 小鳥の叫びに朱里が答える。彼女は確かに悪女中の悪女っぽいが、次の映画撮影のため、海外に長期遠征中の筈である。画廊にちょっかいを出す暇などないだろう。


「まあ、白野クンを何処ぞで見つめておる女の子が、一人や二人おっても不思議はないからのぅ」

「……」

「女に災難を振り掛けられるのも、男の甲斐性と言うものじゃよ。まあ、頑張って受けて立つのが宜しかろ」

 ほっほっほ、と老人が笑う。


「『女難の相』と言っても、きっとまた、小鳥さんがお茶っ葉を白野様の頭にぶちまける程度の事なのではないですかねぇ?」

 またもや、過去を懐かしんで朱里が言う。

「ああ、アレ、面白かったから、またやってもイイよ」

「えー! 私が元凶なんですか!?」

 小鳥の顔が青ざめる。そう言えば、現在、白野に一番近しい女性というのは他でもない小鳥自身なのである。その事実が何となく嬉しかったり怖かったり。


 白野様に迷惑を掛けないように気を付けよう、と小鳥は思った。朱里さん用に楽しい過去を提供するのは、ゼヒゼヒ最小限に食い止めたいと、心の底から思うのだった。


■■2


「カップの鳥も美しいが、ほれ、このポットの鳳凰がまた見事なもんじゃろう」

 占いが終わって、また、伯爵の茶器自慢が始まった。


 確かに。小さな椀と違い、面の大きなポットに描かれた鳥の絵は、大きく羽を広げたダイナミックな構図であった。カップのそれより遙かに躍動感に満ちていて、今にも飛び立ちそうな風情である。

 絵を志す者らしく、興味深げに見入っていた白野が、不意に小さく疑問の声を上げた。


「あれ? この鳥、足に枷がある」

「な、なんじゃと?」

「あ、ホント。下の模様に紛れて分かりにくいけど、この鳥、鎖で繋がれてるわ」

 底辺にぐるりと巡らされた唐草模様。翼を広げた鳳凰はその上に立っているのだが、なるほど、その片足には小さな枷が嵌められており、細い螺旋状の鎖で唐草模様と繋がれていた。

「これじゃあ、飛べないよね」

「おいおい、爺さん。これって絵的に妙じゃねぇか? アンタまさか、偽物を掴まされたんじゃなかろうな?」

 芸術にさしたる興味もなく、ただぼーっと茶を啜っていたダグラスが、急に身を乗り出してくる。流石、刑事だ。犯罪の匂いにはすぐに飛びつく。


 伯爵が、じっと鳳凰を見た。問題の部分を指で擦ってみたりする。汚れの付着とか焼きムラとか傷だとか。そういう事にしておきたいが……どうやら、そのどれでもないらしい。

 足枷の付いた鳥の絵。考えたくないが、とてもとても変である。茶器の構図として有り得ない。

「一体、何処の店で買ったんだよ?」

「え、えーっと。実は、路地裏でな、奇妙な風体をした痩身の男に呼び止められて……」


 『もし、そこなご老人、あんた様はなかなかに審美眼のあるお顔立ち。素晴らしい茶器の一品が当方手元にあるのだが、それを買っては行きなさらぬか?』


 そう、手招きされたのだと言う。

「うっわー、怪しい」

「それは、かなり……」

 小鳥が不信の声を上げ、朱里も眉を寄せて語尾を濁す。ダグラスが訊いた。

「それで。幾ら払ったんだよ?」

「……」

 老人の口がへの字に曲げられた。ものすごく言いたくないらしい。

「こら、爺い!」

「……ボソボソボソ」

 蚊の鳴くようなその声に全員が耳を澄まし、次の瞬間、「えぇぇ~~~っっ!」と大合唱が鳴り響く。


「そりゃ、絶対サギだぁぁ~~~!!!」


■■3


 セント伯爵は、すっかり意気消沈してしまって、自室に戻ってふて寝してしまった。主人が天の岩戸よろしく引き籠もってしまった伯爵邸で、長居をするのも何かしら気が引ける。


 結局、予定より大分早い帰宅となった。朱里と小鳥はエプロンを身につける。急遽、今日の夕飯を用意しなければならない。

「しかし、伯爵にしては珍しい。大きなペテンに引っかかったものですねぇ」

 朱里が気の毒げな声を出す。

「爺さん、自分を占えば良かったのにな。きっと、『いかさま注意』の凶相が出ていたのに違いないぜ」

「でも、あのティーセット、本当に綺麗だったよ」

 白野が言った。

 特にポットの鳥の絵には凄みがあった。

 今にも陶磁の中から飛び出して来そうだと思ったもの。あの足枷に気づかなければ、値段も高めではあるけれど、けして法外とは言えないと思う。伯爵の目は間違っていないよ。

「僕、余計な事を言っちゃったかなぁ?」

 うなだれる。自分の軽口を非道く後悔している様子だった。


「いや、別に坊やが悪いんじゃないさ」

「そうですよ。お気になさらず、白野様」

「あ。もしかしたら」

 小鳥がポンと手を叩いた。

「あれって、偽物じゃないのかも知れませんよ。ほら、白野様は今、『ポットの中から飛び出して行きそうだ』って仰ったでしょ。そう思った誰かが、飛び出していかないように枷を描き足したのかも」

「ああ、絵画の世界でなら、そういう話も聞かない訳ではありませんね」

「でしょでしょー?」

 そういう迷信とか信仰めいた逸話は、ああいう古い茶器には、いかにも似合いな気がする。

「しかし、相手は陶磁器ですし。描き足しというのが利きますかどうか」

 男が首を捻る。折角の妙案だが、やはり無理を感じる。


 何事か考え込んでいた白野が、そこで口を開いた。

「ねぇ、朱里。鳳凰っていう鳥に、そういう物語はないのかな?」

「は?」

「ほら、ギリシャ神話に出てくるアンドロメダ姫は海の神ポセイドンの怒りを買って、生贄として鎖に繋がれてしまうでしょ? 鳳凰にもそういう伝説がもしかしたらあるんじゃないかな?」

「はぁ……成る程」

 そうだとすれば、陶磁器は本物だということで、それはめでたい話である。

「朱里、調べてよ」

「……それは、かなり大変な作業になると思うのですが……」

 じっと蒼い瞳が男を見上げた。朱里があらぬ方向に目を逸らし、天井辺りでグルリと視線を一周させて。そうして、しばらく後にもう一度主の顔を盗み見る。

 大きな双眸が未だ朱里を見つめている。ダメだ。根負けしてしまった。

「……分かりました」

 少年の顔が途端にパッと輝く。


 相変わらず、主人にだけは激甘な男だ。忠犬執事め。

 ダグラスは、そう思ったが、口に出しては言わなかった。


 朱里と小鳥が夕食の支度のためにキッチンに消えて、居間には白野とダグラスが残った。


「そう言やぁ、坊やはどんな女の子が好みなんだ?」

 不意に掛けられた問いに、白野がきょとんとした顔をする。

「何? いきなりだね」

「あー、いやぁ、何となく」

 何故か、問うた方が照れる。思春期真っ盛りの少年に年長の男が訊ねる問いとしては、そうおかしなモノでもない筈なのだが。煙草を取り出して火を付けた。煙を吸って、すぅーっと吐き出す。

「胸がドッカーンなタイプがイイとか、清楚で白絹のハンカチでも持った楚々としたタイプが好みとか」


「うーん、そうだなぁ……」

 小首が軽く右に傾ぐ。

「朱里が女の子なら、僕、お嫁さんにするんだけど」

「ブホッ!」

 煙をあらぬ気管に吸い込んだ。ゲホゲホと咽せてしまう。

「……どっちかっつーと、逆じゃないか?」

 誰しもが、逆の配役を希望するのでは? とダグラスは思う。ってか、あんなにデカくて不遜な腹黒嫁なんざ、俺ならいらねぇ!


 花嫁衣装だって、絶対に白野の方が似合うだろう。試しに想像してみた。あ、すっげ可愛い。気は乗らないが、執事のそれも想像してみる。

「うっぷ」 黒衣の花嫁が出てきやがった。なんて不吉な……

 頭を振って、魔のイメージを追い払う。


「でも、料理上手だし、掃除だって完璧だし、僕の仕事に理解があるし」

 まあ、そりゃあそうなんだが。

「優しいし、美人だし、髪の毛だってサラサラで綺麗だよ」

 うーん、そう聞いていると、確かに理想の嫁さんだ。

「だがなー、あんな背の高い嫁はなー」

「そんなの」

 白野が、フンと鼻を鳴らした。

「僕の方が大きくなれば、イイんじゃない」

「!!!」

 オマエ、何センチに身長伸ばす気だー!!!

 ダグラスは雲を突くような長身の上に載った、白野の童顔を思い浮かべて、ガックリとうなだれた。イヤだ、そんなモン見たくない。


「お食事が出来ましたよ。 ……ダグラス刑事? どうなさいました?」

 エプロンで手を拭き拭き、部屋に入ってきた朱里が問う。ダグラスの顔色がとてつもなく青い。


「ねぇ朱里、身長を伸ばすにはどうしたら良いのかなぁ?」

「は? ……そうですね。やはり、煮干しとミルクと適度な運動でしょうかね?」

 事、ここに至るまで。前半部の会話を知らない朱里が、にこやかに答えた。

「ふぅん」

 白野が、ふむふむ、と何度も頷く。


 ダグラスは、白い仔ネコが煮干しを囓り、ピチャピチャとミルクを舐め、そして猫じゃらしであやされる姿をなんとなく想像してしまう。勿論、あやしているのは執事である。

 そう言えば、白野少年は、どことなーくネコっぽい。


 頭を振った。魔のイメージを追い払う。


■■4


「……もぅし、もぅし」

 不思議な甘い香りがする。誰かが僕を呼んでいる。


 白野は目を開けた。一面真っ白な世界である。足下には不思議な形状の蔓草がまるで道のように、一本真っ直ぐに伸びている。

「……もぅし、もぅし」

 声が呼ぶ。白野は蔓草の上を歩いて、声のする方へ進む。


 一人の女が道の途中に立っている。白野を見て手招いた。

「貴女、誰?」

 艶やかな黒髪を細い三つ編みに結って、腰まで垂らした女である。すっきりとした切れ長の目が印象的だ。繊細な鼻筋や顎のラインに品がある。C国の掛け軸に描かれていた天女のように、袖丈の長いドレスを着ている。両腕に細くて長い絹の帯を掛けている。

「お願いがございます、才長けたお方」

「ここは何処?」

「蛇を下されませ、才長けたお方」

「ヘビ? 何処にいるの?」

 キョロキョロとしてしまう。毒がないなら害はないが、あまり好きな動物ではない。


「此処に蛇は居りませぬ。どうぞ蛇を下されませ、才長けたお方」

「貴女、人じゃないよね。僕、怖いから帰っちゃうね」

 白野は女にくるりと背を向ける。数歩分、元来た道を引き返すと、背後で女がシクシクと泣き出した。

「……」

 それでも、追ってくる気配はない。更に歩を進める。女がさめざめと泣いている。そ知らぬ振りで歩き続ける。道はずっと続いており、世界は真っ白なままだった。


 白い世界に、濃い青の蔓草の道が細く伸びる。ただ、それだけしかない空間を、少年は黙々と歩き続ける。果てがないのか? と、訝しみ始めた頃、道の先に何かが見えた。勇んで進むと、驚いたことに、それは先程の女の背中だった。女はまだシクシクと泣き続けている。

「……」

 白野は小さくため息をついた。どうやら、この世界を一周して元に戻ってきたらしい。

「貴女、誰?」

 もう一度問いかける。女は振り返りもせず、たださめざめと涙をこぼす。女の細い足首に枷が嵌められているのが見えた。鎖の先は蔓草にしっかりと結ばれている。それでこの場を動けないのだ。


 白野は歩き疲れた、と思った。元から絵を描くことばかりに明け暮れて、運動不足なのである。体力のなさは折り紙付きだ。

 一応の警戒で、女の手が届きそうにない、少しだけ離れた位置にペタリと座り込む。立て膝をついて、膝の上に頬杖をつく。

「ねぇ、貴女、ティーポットの鳥さんでしょう?」

 余り積極的に考えたくはなかったのだが、そうなのだろう。蔓草の道はポットの底に描かれていた唐草の文様だ。白磁器の世界だから、一面真っ白な空間なのだ。道を歩き続けて、元の場所に戻ってしまったのは、ポットの底が丸いからだ。


 ああ、なんて安直な世界……とか思う。多分、これは悪い夢だ。早く朝になって、朱里が起こしに来てくれないかなぁ。


「蛇を下されませ、才長けたお方」

 座した位置から仰ぎ見ると、鳥の女はなんだか朱里に似て見えた。長い髪に細身のすらりとした印象が、どことなく。

「困ったなぁ~」

 茫洋と呟く。


■■5


「白野様、どうなさったんですか? 随分眠たそうですケド」

「夢見が悪かった所為か……なんだか寝た気がしなくって」

 そう返事をする間にも、一つ大きな欠伸が入る。お茶を運んできた小鳥が笑った。

「あらぁ。それはイケナイですね」


 朱里は、早朝から図書館に調べ物に出掛けて留守だった。ダグラスも当たり前だが仕事に行った。

 欠伸を連発しながら、白野はスケッチブックにずっとペンを走らせている。

「今日は何をお描きになっていらっしゃるんですか?」

 小鳥が画帳を覗き込む。顔をしかめた。

「……ヘビ?」

「うん。ヘビ」

「白野様、ヘビ、お好きなんですか?」

「別に」

 じゃあ、どうして描くんだろう? 小鳥は深く首を捻った。


「蛇を下されませ、才長けたお方」

 また、真っ白な世界だった。ずっと唐草模様の道を歩き続けて、やっと女の元にたどり着いた。右も左もよく分からない世界だが、少なくとも、同じ方向にただひたすら歩いていれば、いつかは女にたどり着く。それだけが救いと言えば救いと言えた。


 昨晩の一周巡った歩数と比べてみて、今夜は逆の方向に進んだ方がずっと近かったんだろうなぁ、と思う。『鳥女まで後何メートル』とかいう標識を、道の所々に立てて欲しい。


「蛇を下されませ、才長けたお方」

「ヘビの絵、描いたよ。あれをどうすればいいの?」

「一匹では足りませぬ。もっと、蛇を下されませ」

 白野は、道に座り込んだ。大きくため息をついてうなだれる。


 明くる日も、そのまた次の日も、白野は白い世界の中を歩き続けねばならなかった。

 描いたヘビの絵は既に数十枚に上る。


「白野様、あの鳥の絵の事なのですが」

 毎日、図書館通いを続けている朱里が、中間報告を入れてくる。

 彼の作業も難航しているようだった。原書は全て複雑極まりない漢字の羅列で書かれているのだ。辞書を引き、その意味を知る為に更に別の辞書が要る。この男でなければ、とうに投げ出している作業だろう。

「鳳凰を退治する方法って、本のどこかに載ってなかった?」

「……は?」

「ううん、いいんだ。気にしないで」

 大きな欠伸をする。ちゃんと普段通りの睡眠時間を取っているのに、眠くて眠くてしょうがない。だが、絵を描かない訳には行かなかった。それにどうせ眠ったところで、夢の世界でしこたま歩かされるだけなのだ。まだしもヘビを描いていた方が楽である。


「それで、何か分かったの?」

「あれは、鳳凰ではないようなんです」

「え?」

「形状が違うんですよ。寡聞にして、C国の吉鳥は一般に鳳凰とされるのだとばかり思っていたのですが、詳しく調べてみたところ、『鳳凰の体は、前半身が麟、後半身は鹿、頸は蛇、尾は魚、背は亀、頷は燕、くちばしは鶏に似る』 とあるんです」

 それは、かなりにティーセットの絵と違う。

「じゃあ、アレは何?」

「迦楼羅ではないか、と」

「カルラ?」

 こういう字を書きます、と朱里が紙に書いてくれる。複雑な、字画の多い文字なのに、既にソラで覚えている辺りが普通でない。

「金翅鳥王とも呼ばれる巨大な霊鳥です。神々が持つべき宝を奪った鳥としても知られています」

「やっぱり、悪い奴なんだ」

「……やっぱり?」

「気にしないでよ」

「はあ」

 朱里が訝しげな色を顔に敷く。

 そう言えば、ここの所、ずっと寝不足のご様子ですが、余り根を詰めて絵にのめり込まれませんように。

「たまには、外を散歩などなさってみては如何です? 歩くのは健康に良いですよ。……ア痛!」


 悲鳴を上げた。白野が朱里の髪の毛を、いきなり強く引っ張ったのだ。

「……何なんです?」

「……ゴメン」

 何だか、黒い長髪が無性に憎たらしくなっちゃって。


 睡眠不足もピークに達し、かなり情緒不安定な白野少年なのだった。


■■6


「これが、『女難の相』っていう奴だったんだなぁ」

 実際には、『鳥難の相』というべきだと思う。いや、それとも、『蛇難の相』か?

 描き上げたヘビの絵の枚数は、ちょっと尋常ではない量になってきていた。無限地獄にでも陥った気分である。

 それを象徴するかのように、今夜も真っ白いだけの空間が、ただ目の前に広がっている。

 もう、あの鳥女を捜して道を辿る気力もない。白野は唐草の道に座り込んだ。


 ああ、眠い。この世界に居るってことは、僕の本体は当然寝ているんだろうけど。それでも眠いものは眠い。これだけ一日中眠くって、体も疲れ果てているのに、不思議なことに食欲は普通にあったし、過労で倒れるとか、熱を出すとかいうこともなかった。

 でも、そんなこと、もうどうだって良い気がする。この眠さは限界だ。

 夢の中。白野はそこでコクリ、コクリと居眠りを始める。そのままゴロンと横になる。


「……もぅし、もぅし」

 女の声が響いてくる。

「……もぅし、もぅし」

「……ウルサイ」

「蛇を下されませ、才長けたお方」

 拒絶の意を表して、ゴロンと逆向きに寝返りを打つ。


「どうかどうか。あと10枚で御座います。それでようやく1000になります」

「……」

「……もぅし、もぅし」

 もそりと、体を起こす。大きなため息をついた。立ち上がって歩き出す。


 女の前に立った。

「蛇を下されませ、才長けたお方」

「ホントウに、あと10枚?」

「お礼に、神の宝物を一つ差し上げます」

「盗んだ物でしょ? 神罰が下りそうだから、要らない」

「それでは、何を差し上げましょう?」

「んー、どうしよう?」

 白野は迦楼羅を見る。彼女の背丈は自分より少し低かった。手を伸ばして、彼女の頭をポンポンと軽く叩いてみる。

 切れ長の黒瞳が驚いた様子で白野の蒼い瞳を見つめた。長く伸びる烏珠の髪。ほっそりとした肢体。涼しげな鼻梁。柳眉。紅い口唇。

「……霊鳥さんにキスしたら、祟られちゃう?」

「お礼に、ということですの?」

「前払いでイイかなぁ?」

 目が覚めたら10枚のヘビ、超特急で仕上げるケド。

 女が、ふぅっと透き通るような笑みを浮かべた。それに誘われるように、片手を女の頬にそえる。


 何処までも、真っ白な世界。青い蔓草の道が伸びる。

 その先で、二つの細い影がほんのしばらく重なり合って、そして離れた。


■■7


「え? まさか!」

 朱里の声が突然大きくなった。そして、ハッとしたように声のトーンを落とす。

「……そんな事が?」

 男は電話の応対をしている最中だった。白野のアトリエである。彼の視界の隅で、少年はソファーの上。数冊のスケッチブックを抱え込むようにして、ぐっすり眠り込んでいる。


「いえ。伯爵のお言葉を疑うわけではありませんが……。何にせよ、お気の毒でした。今後は、怪しげな商人から品物を買うのはお控えになった方がよろしいですよ。……ええ、全く。不思議なことがあるものですねぇ」


 その後、ぼそぼそとした話し声が少し続いて。朱里は受話器を元に戻した。そのまま、顎に片手を宛てて、しばらく何かを考えている様子だった。が、やがて、「……ふむ」 と小さく一人頷くと、眠る主人の傍に寄り、屈み込んでその肩を揺する。


「白野様」

「ん……なに?」

 少年が顔をしかめる。眠すぎるよ。もうちょっと寝せて。

「伯爵の紅茶器の件ですが」

「……うん?」

 夢うつつの声が応じる。


「ティーポットの鳥の絵が、突然消え失せてしまったそうなんです。まるで飛び立ってでもしまったように、きれいさっぱり白磁の肌から居なくなっているそうですよ」

「……」

 薄目を開いた。指で目をコシコシと擦る。


 つい、先程まで夢を見ていた。

 夢の中だと分かるのに、いつものような白い世界でないことが、なんだか奇妙な事に思えた。


「……もぅし、もぅし」

 迦楼羅の声が聞こえてくる。

「念願の1000の蛇で御座います。あれ、嬉しや」

 パーンと何かが砕ける音が響いた。そして、翼の羽ばたく音。

 そうして、夢はそこで途切れた。


 白野はスケッチブックを開いた。パラパラと一冊目を捲り、続いて、次のスケッチブックにも目を通す。更に次。それら全ページ。1000匹描いた筈のヘビの絵が、全て忽然と消え失せている。跡形もない。筆圧の痕さえ見あたらなかった。

 ヘビは居なくなってしまった。「やはり」 と言うべきなのだろうか?


「ねぇ、迦楼羅とヘビの関係っていうの、もう分かっていたりする?」

「はい。迦楼羅はヘビを常食としています。平たく言えばエサですよ」

 クスリ、と笑みがこぼれた。

「……ヘビを食べて、霊力を取り戻したんだな」

 それで、枷を壊して、飛び去ってしまったのだろう。帰りたい場所へ。彼女の世界へ。

 もう、きっと。僕は白磁の夢を視ないだろう。


「白野様、伯爵がひどくお嘆きでしたよ」

 例え、まがい物の疑いがあろうとなかろうと。あの陶器の肌に描かれた鳥の美しさは本物だった。セント老人にとって、手痛い損失だと言える。

「貴方様でしょう? 一体、何をなさったのです?」

 そう言って、軽く主人を睨め付ける。白野がバツの悪い表情を浮かべた。

「えーっと……」


 俯いて、上目遣いに睨む男の顔色を伺う。

「……あのね、伯爵の紅茶占い、すっごく当たっていたんだけど。その報告だけでは、悲しみは埋められない……かなぁ? やっぱり……」


 とても弱った顔をする少年に。朱里はふっと視線を和らげると、微笑んで、その栗毛の頭に手を載せる。

 ポン、ポン……といつものように軽く二回。


■■エピローグ


「あ、そうだ。朱里、待って!」


 そんなに眠いのでしたら、ちゃんと寝室でお休みなさい。

 そう促されて、パジャマに着替えるとベッドの中に潜り込んだ。朱里が、まだ明るい外の光をカーテンを引いて遮ってくれる。

 それでは、お休みなさいませ。そう一礼して出て行くのを、慌てたように呼び止めた。男が戸口で振り返る。


「迦楼羅が神様から盗んだ宝物って、何だったの?」

「『不死の霊薬・アムリタ』だそうです」

「ふぅん」

 ベッドの中から、長身の男を見る。

 切れ長の黒瞳が自分のことを見返している。長く伸びる黒髪。涼しげな鼻梁に柳眉。そして、口唇。


「……うん」

 お礼はアレにして正解。小さく呟く。

「……何ですって?」

「ううん、いいんだ。気にしないで」

 布団を頭まで引き上げて潜り込む。

「おやすみなさいませ、白野様」

「おやすみ、朱里」

 静かに扉が閉じられた。



 もしも。

 そう。もしも、彼が女の子だったなら。きっと、あんな恋をする。

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