第10話 幸福画廊

最終話   「 幸福画廊 」


■■プロローグ


 【幸福画廊】

 その画廊の絵を見ると、人は幸せになるのだと言う。

 これまでに味わったことのないような幸福感を得るのだと言う。

 その絵を手に入れる為に世の金持達はこぞって大金を積むのだと言う。

 全財産を叩いても、惜しくないほどの幸福がその絵の中にはあるのだと言う。



 そんな不可思議な通り名を持つ館の一室。

 男の話し声が低く響く。

「……はい。今回のご子息様の絵のお話しはお断わりさせて頂きたいのです。大変申し訳ございません」

 送話口から甲高い女の声が漏れてきた。一方的な契約破棄の通知に対し、矢継ぎ早の苦情が申し立てられているらしい。途切れ途切れに聞こえるそれは罵詈雑言と呼ぶに近い。

「それは勿論です。全ては当方の落ち度ですので、違約金は如何ようにも。……はい。その件につきましては、後日改めまして。……それでは、失礼致します。男爵夫人」

 まだ、わめき足りなさそうな相手だったが、丁重な挨拶の後にそっと受話器を戻した。そして訪れる静寂。


「朱里、黒の絵の具が足りなくなりそうなんだ。出しておいてくれる?」

 その静寂を破ったのは、カンバスに向かって絵筆を滑らせていた少年だった。一礼して応じる。

「かしこまりました。すぐにお持ち致します、白野様」


 絵は既に仕上げの段階に入っている。

 その絵を男はじっと見る。姿形は違っても、それは自分自身の絵だと思えた。

 広い室内。高い天井。大きな窓に映る禍々しい三日月は黒く歪んで。

 横たわる影。刹那の咆哮。笑う口元。


 『幸福』と名付けられた絵が、そこにある。


■■1


「まぁったく何なんだよ、このゴミの山は!」

「こりゃ、ダグラス。ゴミじゃないわい。『貴重なコレクション』と言わんかい!」

 ブツブツと不平を漏らす男の頭を、老人が手にしたハタキでパタパタはたく。

「ゴミをゴミと言って、ナニがわ、わる……ハ、ハ、ハ、ハックショーン!」

 ハタキから舞う埃を吸って、盛大なくしゃみが飛び出した。

「……コンニャロ、爺い、ぶっ殺す!」

「わー、助けておくれ、小鳥ちゃーん」

「ダグラス刑事、伯爵様を虐めちゃダメ!」


 セント伯爵邸。その一室。

 小鳥が伯爵家の養女になることを承諾した。現在はその為の書類作成やらお披露目会の準備やら、それに伴う種々様々な雑事が進められている最中だ。老伯爵自身もこれを機に経営畑の仕事からは引退する予定で、その為の引き継ぎ作業も合わせて進行中である。

 つまり。セント老人は現在、多忙を極めている筈なのであった。


「で? それなのに、何で爺さんは悠長に部屋の掃除なんぞしてるんだ? ご丁寧に俺達まで駆り出して」

 折角の非番の日に招集を掛けられて、仏頂面のダグラスが訊く。悪びれもせず老人が答えた。

「折角娘が出来る事になったに、この屋敷は古いからのぅ。せめて小鳥ちゃんの部屋くらいは新しく改築しようと思うて。その為にはこの部屋の中身が邪魔なんじゃ」

 それに。小鳥が目を丸くする。

「え! 改築って、わたしの為なんですか?」

「うむ。どんなインテリアにしようかの?」

 にっこりと満面の笑みで問いかけられて、慌てて小鳥がプルプルプルと首を振る。

「そんな、勿体ないですよ!」

「そう言わんと。この屋敷に女の子の部屋が出来るなんて、華やぎがあってエエじゃないか。天蓋付きの真っ白いベットとか、可愛らしいピンクの鏡台とか、フリルとかレースとかリボンとか」

「……伯爵様、それはちょっと乙女チックすぎるんじゃあ?」

 フリルとレースに囲まれた部屋に立つ自分を想像して、小鳥は軽い目眩を覚えた。どう考えても似合わない。豚に真珠。猫に小判。木の上の猿も落ちてきそうだ。

 本当にこのまま養女になっちゃってイイのかしら? やっぱり、このわたしが伯爵家のご令嬢だなんて荷が勝ちすぎるというか、冗談ぽいぽいというか、常軌を逸してるというか……。


「『伯爵様』なんて、他人行儀じゃのぅ。そろそろ『じ~いちゃん』って呼んでおくれ」

 それでも。こんなに手放しで喜んでくれる老人に、やっぱり今回のお話しはなかったコトに……とは言いにくい。

「ほれほれ、リピート・アフター・ミー。『じ~いちゃん』」

「え? えぇっと、おじい、様」

「うーん、イマイチしっくりこんのぅ。そこはかとなく気兼ねを感じる」

「『クソ爺い』って呼んで欲しいとよ、小鳥」

 さあさあ、リピート・アフター・ミー。

 戸籍上は他人でも、身内以上に身内らしいダグラスが、憎まれ口の叩き方のお手本を示して見せた。


「ねぇ、この部屋のもの、ホントにどれでも貰っていいの?」

 大きなダンボール箱の中身を覗き込んでいた白野が、顔を上げて老人を見る。その手には箱の中から見つけたらしい小さな玩具が握られている。いつものクセで柔らかい栗色巻き毛の頭がほんの少し右に傾ぐ。


「おお、勿論じゃとも。そのブリキのロボットは、わしが子どもの頃に流行った冒険活劇のヒーローじゃぞい。それに目を付けるとは、流石は白野クンじゃの。目が高い」

 『鉄人108号』というてな、煩悩を片っ端からやっつける正義の味方のロボットじゃった。ショータローという名の少年操縦士の半ズボン姿がプリチーでの……。

「ふぅん」

 白野は、熱く昔語りを始めた老人の声を聞きながら、部屋をぐるりと見回した。壁には天井まで届く高い棚。床には大小沢山の箱が積み上げられている。そして、そのどれでもが種々雑多な品々で溢れていた。


 年季の入ったセルロイドやブリキのおもちゃ。小さな子ども用の乗って遊べる揺れる木馬。アーチェリーの的と弓矢。ラジコン飛行機。プラモデル。本や雑誌。スクラップブック。アンティークな型のカメラ。万華鏡に望遠鏡。


「……この部屋って、伯爵様のおもちゃ箱……いえ、宝箱なんですね」

 同じく部屋を見回して、小鳥がそんな感想を述べる。この部屋にはきっと老人の夢と想い出が詰まっている。セピア色に染まる古い優しい道具達。老人のしわくちゃ顔に深い笑みがたたえられた。

「じゃの」

「なーにが『宝箱』だ。ガラクタばっかしじゃねーか」

「いえ。そうとばかりも言えません。これなど、ベネディクト・キーツの初版本ですよ」


 鼻を鳴らすダグラスに、こちらはみんなと離れて一人、本の収められた箱の見聞をしていた朱里が、その中の一冊を取り上げて言った。どこかしら虚を突かれた口調である。

「あ? キーツ?」

「16世紀の哲学者にして詩人で……。どうしてこんな貴重な本が、こうもぞんざいに扱われているのです?」

 立ち上がり、胸ポケットから取り出したハンカチで本に着いた埃を丁寧に払う。咎められた伯爵がコリコリと頭を掻いてみせた。

「ここら辺にある本は、わしも装丁が気に入ったから集めただけで。中身は読んでおらんからのぅ」

「勿体ない。お読みになって下さい。折角の本が泣きます」

「老いぼれの目には、活字が小さすぎるわい」

「そちらの箱には、古い切手のコレクション・ファイルが収められておりましたし、ブリキやセルロイドの玩具にも熱狂的なコレクターは多いと聞き及びますし。……見る人が見ればこの部屋は、やはり大したお宝の山なんだと思いますよ、ダグラス刑事」

「へぇー、こんなガラクタがねぇー」

 ダグラスが老人とその収集品に目を向ける。相変わらず胡散臭そうな眼差しだ。


「おお、切手帳はそっちにあったか。そりゃ、白野クンにやろうと思うておったんじゃ。切手とは言うなれば、世界一小さな絵画じゃからのー」

 ほくほく顔の老人が、黒革のファイルを箱の中から引っ張り出す。パタパタと埃が払われて、「ほい」と白野に手渡された。


「よくもこれだけ、種々雑多にお集めになったものですねぇ」

 朱里が吐息混じりの声を出す。感嘆しているのか、呆れ果てているのかはちょっと判別がつきかねる。然るべき専門家を呼び寄せて、きちんとした目録をお作りになるべきだと思います、と如何にも彼らしいアドバイスを言い添えた。

「メンドウじゃのぅ」

「伯爵……」

「本の類は朱里、全部お前さんにやる」

「は?」

「折角やるなら価値の解る者がエエ。キーツだろうが何だろうが、遠慮せんで持っていけ」

「いえ、それは……」

「おい、執事。俺がその本押しつけられたら、漬け物石以下の扱いだぞ。それこそ勿体なくねぇか? くれるってんだから貰っておけよ」

 ダグラスが笑って言う。妙に納得させられてしまった。漬け物石にされるのは、流石に本が忍びない。

「……有り難く頂戴致します」

 よっしゃよっしゃと老人が頷いてみせた。


「そんでもって、ダグラスにもイイもんをやろうのー」

「俺は本もガラクタも要らんぞ!」

「ガラクタ、ガラクタと言うとるがな。お前好みの品だって、ちゃんとこの部屋にはあるんじゃぞ」

「……何だよ?」

「ほれ、この鍵でそっちの棚を開けてみぃ。左端の引き出しじゃ」

 疑い深そうな様子で、棚の鍵を開けたダグラスの目の色が唐突に変わった。

「うぉっ! これは……」

 瀟洒な唐草模様が浮き彫りにされたアンティーク拳銃のコレクション。

「ひっひっひ。喉から手が伸びとるぞぉ、ダグラス~」

「これ、俺が貰ってイイんだな? ってか、もう貰った。返さねぇ! 爺さん、ブラボー、愛してる!」

「……お前もゲンキンな奴じゃのぅ」

 抱きついて頬ずりせんばかりの男の様子に、老人が苦笑いする。


「とにかくじゃ。気に入った物はみんなして、どれでも好きに持ってお行き」

 老人が言う。男が二人。女の子が一人。少年が一人。四人の若者を見る老人の目は深い愛情で満ちている。


 捜せば捜すだけ、何かしら心惹かれる掘り出し物が出てくる。

 何時しか、室内は宝探しゲームの様を呈してきた。小鳥は洒落た細工のオルゴールをいたく気に入ったようだ。ネジを何度も巻き直しては可愛らしい澄んだメロディに、うっとりと耳を傾けている。箱の上ではカラクリ細工の木彫りの人形が音に合わせてワルツを踊る。


「朱里、あそこの模型飛行機取って」

 白野が、自分には背の届かない、棚の高い位置を指さして言う。

「これですか?」

「うん」

 手渡された模型の操縦席を興味深げに覗き込む。

「すごいなぁ。ちゃんと計器類まで一つ一つ書き込んである」

 尾翼やプロペラまで動かせる。

「ええ。職人芸ですね」

 本当に『おもちゃ』などと形容するのは、失礼な出来映えの芸術品だ。

「こういうの、ダグラス刑事が好きそうなのに」

 要らないの? と目で問いかける。それにダグラスがニンマリと笑った。

「俺はどっちかっつーと、ホンモノ嗜好でな。乗り物は自分で動かす方が好きなんだ」

「そっか」

「いかにも刑事らしいですね」

 納得したように白野が頷く。朱里も穏やかに相づちを打った。

 その様子に、ダグラスは心の中であーあ、と深いため息をつく。余りにも普段通りの二人で、何だか拍子抜けしてしまう。ずっと気構えていたこちらの方がバカみたいだ。



 ダグラスの懸念や心配を余所に。ほんの数日の仲違いの後、この二人の主従は何時の間にか元の鞘に収まってしまっているように傍目には見えた。いつもと同じ穏やかさ。茫洋と何処を見ているのか捕らえ所のない白野の瞳も、腹の底ではナニを考えているのか得体の知れない朱里の微笑みも、何ら以前と変わらない。


「これ、元の場所に戻しといてね」

 しばらくプロペラをクルクルと指先で回して遊んでいたが、やがてそれにも飽きたのか、白野は飛行機を朱里に渡すと、男達の間をスルリと抜けて離れていった。小鳥が何か見つけたのか、こっちこっちと白野に向かって手招きしている。それを見送ってダグラスが口を開く。横に立つ男にしか聞こえぬ程度の小さな声だ。


「……すんなり、『元鞘』ってか?」

「ご心配をお掛けしまして」

 特に、何の感慨も感じさせぬ声が応じる。問題を蒸し返されることは重々覚悟していたのだろう。あーあーそうかよ。一切、頓着しない腹づもりだな。この秘密主義の根性悪のへそ曲がり野郎め。全くかわい気のカケラもない。

 そうだとしたら、腹を据えてしまったこの男には今更何を訊いても無駄だった。良いように煙に巻かれて終わりだろう。

 ああ、なるほどな。そうやって傷口を広げ合いながらも、結局は離れられずに、ずっと今までやって来たのか。そりゃあ歪むわ。歪むわけだ。

「老婆心ながら言っておくが」

「はい」

「お前ら、歪みまくっとるぞ」

「……そうでしょうね」

「一度くらい、殴り合いでもしてみちゃどうだ?」

 それに。ご冗談を、と男が口の端を上げる。棚の方を向いて、模型を元の位置に戻した。そうして、お忘れですか? と低く呟く。

「私は『召使い』なんですよ」


 彼のたった一人の主人は、クッキーの絵柄の描かれた缶カンを、小鳥といっしょに開けようとしているところだ。かなり重いその中身が何なのか、持ち主である伯爵本人もとうに忘れてしまったらしく、まるで子どもに戻ったようなワクワク顔をして、二人といっしょに缶カンが開けられるのを待っている。

 いざ、フタを開けてみれば、中に詰められていたのは色とりどりのビー玉で。

「これ、僕欲しい」 と、白野が言った。


■■2


 古いオセロゲームの箱を小鳥が見つけ出してきた。チェスは難し過ぎだけど、これならわたしも出来ます、というので、夕食後、セント老人が相手をする。白野はダグラスに誘われてチェスを始めた。頭数で一人あぶれてしまった朱里は、これ幸いと老人から貰った本のページを捲る作業に耽溺している。


 オセロではゲームの性質上、4つの角を押さえる事が有利になる。一つ目の角を取った小鳥が嬉しそうにパタパタパタと老人の白いコマを黒に返す。それを見守る老人の目も笑っている。小鳥の有利になるように手心を加えてやる事も、彼にとっては楽しみの一つ、というところか。給仕が運んできた赤ワインで口を湿して、ふと思いついたようにこう言った。


「お前さん達、このゲームの名前がシェイクスピアの『オセロー』に由来しておるということは知っとるかの?」

「知らねー」

 いかにも気のない返事をダグラスが返した。こちらは、白野の手筋が朱里に似ていると言ってからかっていた所だ。僧侶のコマをないがしろにするのは悪い癖なんだから改めろ、と説教している。

「こういう事には、朱里辺りが詳しそうじゃが」

「ああ、いえ。戯曲を読むのはどうも苦手でして。シェイクスピアはあらすじ程度にしか存じません」

 水を向けられて、朱里が答える。

「わたし、TVで劇場中継してるのを観たことがあります。自分の部下に騙されて、奥さんを殺しちゃうんですよね、オセローって」

 老人が、うんうんと頷いた。


 肌の黒いムーア人であるが故に周囲から蔑まれている主人公オセローは、にも関わらず、美しく優しい女性、デズデモーナに愛され、結婚する。しかし、幸せは長くは続かない。オセローに恨みを抱く部下のイアーゴーによって、デズデモーナが浮気をしていると信じ込まされてしまうのだ。嫉妬に狂ったオセローは、必死で無実を訴える妻を無慈悲にも絞殺してしまう。

「オセローの黒い肌と白人の白い肌の色をコマの黒と白とになぞらえて、このゲームは『オセロ』と名付けられたワケなんじゃな」

 結局、後でデズデモーナの無実を知ったオセローも、絶望の余り剣で自らの喉を刺し貫いて自害する。シェイクスピア4大悲劇の一つである。


「非道いわよね。奥さんより部下の告げ口の方を信じて、自分を愛してくれていた奥さんを殺しちゃうなんて。オセローって最低!」

 まるで自分のことのように憤慨する小鳥に老人が言う。

「オセローという男の最大の悲劇は、自分の肌の色を卑下しすぎていたことじゃろうな。自分自身を愛せなかったから、人から寄せられる自分への愛も信じることが出来なかったのじゃろうて」


 自分で自分を愛せない、それはとても哀しいことだ。一つ間違えば悲劇を引き起こす元にもなる。

「戯曲の奇才がわしらに示してくれた教訓じゃよ。肝に銘じておかんとな」


 館に一行が戻って来たのは、もう遅い時刻だった。

 運転席から降りたダグラスが伸びをしながら、空を見上げた。月の綺麗な夜である。

「名月、名月。風流だねぇ~」

 いそいそとポケットから煙草を取り出すと火を付ける。こちらも丁度自分の車から降りてきた朱里に向かって箱ごと放る。

「執事、付き合え。月見て一服」

 それを、危なげなくキャッチすると、

「小鳥さん」

 白野に続いて、先に館に入ろうとする小鳥のことを呼び止めた。


「そろそろ、伯爵邸に移られるべきではないですか? 養女になることが決まったのだし、その方が何かと便利でしょう」

「わたし、まだ、ここのメイドですもん。もうしばらくは画廊に居ます」

「伯爵も、寂しがっておられるでしょうに」

「伯爵様は、わたしの好きなようにして良いって。だから、もうしばらくここに居ます」

「……」

 真っ直ぐに見つめてくる。きっぱりと言い切られて、朱里の方が黙ってしまった。小鳥は一旦こうと決めると、とても強情なところがある。おやすみなさい、と挨拶すると、そのまま屋敷に入って行った。

 そういえば、彼女がこの館に来たばかりの頃。さっさと追い払ってやろうとかなり虐めてやったのに、結局、出て行ってはくれなかったんでしたっけね……。

 困ったお嬢さんだ、と思う。全く、人の気も知らないで。


「小鳥だってバカじゃない。うすうすお前さん達のギクシャクぶりに気づいてて、ずっと心配してるのさ」

 背後から声が掛けられた。その主を睨む。

「ダグラス刑事、貴方もです。いい加減、アパートにお帰りなさい。ずっとここに居座ってないで」

「やーなこった! ベロベロベー」

 紫煙をブハーッと吹き出しながらのからかい口調に腹が煮える。全くもってしくじった。先日、殴っていいと言われた時に思う存分殴りつけておくべきだった。自然、煙草の箱を握った指に力が篭もる。


 剣呑な雰囲気を感じ取ったのか、男はひょいっと柱の影に非難した。おっかねぇなー、と言いながらもしゃべるのは止めない。

「そう睨むなよ。俺だって、心配してるんだぜ? なんせ、お前らときたら……」

 指折り数えて、ここしばらくの朱里と白野の動静を、あれやこれやと揶揄してみせる。

「白野坊やはアトリエに篭もりっきりだし、お前は必要最低限の事しか話さないし」

 二人して黙殺し合ってるのに、そのくせして互いに粘着臭を漂わせやがって。薄気味悪いったらなかったぜ。

「もう、大丈夫です」

「うーそーつーけー」

「言った筈です。貴方は小鳥さんを最優先になさるべきだと」

 小鳥さんが心配だったんじゃないんですか? そう言ってらしたのは貴方でしょうに。


 それに。「ああ、前言撤回」と、ダグラスが笑った。

「あいつは大丈夫だよ」

 あっさりと言い切られて、鼻白む。悠々と煙をふかす男の顔をまじまじと見る。

「何を根拠に」

「だって、俺の惚れた女だもんな。ってか、惚れた奴を信じなくて他のナニを信じるよ?」

 俺は、俺を信じてる。自分の見る目を信じてる。あいつは負けない。多分、何が起こっても。

「明確な根拠も裏付けもない自信ですね。呆れて言葉もありません」

 辛辣な言われように、苦笑するしかない。こいつがこんな風にイラついているのは、きっと不安の裏返しだ。ギリギリの崖っぷちに立たされている証拠だ。それでも助けを求めないのは……崖から飛び降りる覚悟が既に出来上がってるってことなんだろう。


 あーあ、と思う。どうして俺はこんなバカにかかずらわっているんだろうなぁ。だってなぁ、こいつらに何かあったら小鳥が絶対泣くもんなぁ。

 何だかムナシイ。

 自分以外の男どもの為に流される女の涙の心配をしているなんざ、俺も大概、大馬鹿だ。ああ、チクショウ。それもこれも惚れた弱みだ。しょうがない。

「だけど、それが愛ってモンだろ?」

「世間一般では、それを『思い上がり』と呼ぶのでは?」

 いつ何時でも、この毒舌だけは変わらないのが、何とも執事らしくて笑えてしまう。一本煙草を銜えた朱里に、ライターを引っ張り出すと投げてやる。


 思い上がりだろうが、何だろうが。

「信じる者は救われるんだよ! 知らねぇのか、このバァカ」

 かなりな勢いで飛んできたライターを片手で止めて。朱里も煙草に火を付ける。


 羨ましいことだ。自分に自信が持てるというのは。

 二筋の紫煙に煙る月を見上げて、そう思う。


「貴方は……怖くないんですか? 選んだ道を踏み違えていないかと不安になる時はないんですか? それとも、間違ったことがないんですか?」

 呆れた口調でダグラスが答える。

「お前バカか? 間違うことだってあるさ。しょうがねぇだろ、人間なんだから。失敗したなら、挽回すりゃあイイじゃねぇか」

「取り返しのつかない間違いだったら、どうするんです?」

「そりゃ、お前……」

 言いよどむ。男の方に顔を向けると、彼もこちらを向いてくる。

「その時になって考えるのさ」

「……太平楽ですねぇ」

「お前が、後ろ向き過ぎるんだよ」

「そうでしょうか」

 ため息が出る。何でこいつはこうなのか。


「お前な、もっと自分に自信を持てよな」

「根拠のない自尊心は持たない主義なんです」

「あのな、お前は顔もイイし、頭も良い。性格は……ちょっと難アリだが、それでも総合点としては悪くないだろ? もっと、客観的に自分を見やがれ」

「性格の善し悪しは、人物評価の上位に来るものではありませんか?」

「そう思うなら、改善しろよ」

「こればかりは、持って生まれたものですし」

「この、ひねくれもん!」

「知ってます」

 バリバリバリと頭を掻いた。何だかこの男としゃべっていると、こっちまでおかしくなってくる。あーあー、予想に違わず煙に巻きまくってくれやがることよ! 畜生め。



 パッと館の二階に明かりが灯った。カーテン越し、小柄な人影がおぼろに映る。その影がゆっくりと窓際まで近づいてきて、据えられたカンバスの前で腰を下ろした。

「坊やはまたアトリエか。若いのに働き者だこと」

「そうですね」

 白野様は、やはりあの絵を完成させるおつもりらしい。男爵家からの依頼の品。誰に見せられる筈もない幸せの絵を。


 幸福とは何なのか。

 考えれば考えるほど、どんどん分からなくなっていく。私が間違っているのか、白野様が間違っておいでなのか、それとも、誰しもが間違っているのか。

 その時になって考える、か。ダグラス刑事らしい言葉だが、確かにそれしかないのかも知れない。


「……そろそろ屋敷に入りませんか。春とはいえ、夜はまだ肌寒い」

 伯爵家から持ち帰った本やその他を抱えると、朱里はそう言って歩き出した。


■■3


 数日後。小鳥はセント伯爵のエスコートを受けて、とあるパーティに訪れていた。

 【幸福画廊】の依頼主である男爵母子。そのエドワード少年の誕生日のお祝いだ。伯爵家の娘になれば、当然、好む好まざるに関わらず、このような上流階級の社交場にも出席しなければならなくなる。

 手始めにこういう略式のパーティから徐々に慣れていくのが宜しかろう、とのセント老人の配慮だった。小鳥が、エドワードやその母親に一応の面識があるのも悪くない。


 立食形式の日中行なわれる会なので、ドレスとまではいかないが、それでも自分には分不相応だと思える伯爵が用意してくれた絹のワンピースを着て。小鳥は緊張した面持ちで伯爵の後ろに付いていく。

 紳士淑女の取り澄ました笑い声。気取った会話。香水の匂いと格調高いクラッシック音楽の調べ。

 こういう雰囲気に慣れなくっちゃならないんだな。伯爵様に恥をかかせたりしないように、わたし、気を付けなくっちゃ。グラスを割ったり、毛足の長い絨毯に足を取られて転んだり、そんなドジをしないように。注意して、注意して、注意して。ああ、ホホホとかお上品に笑わなくっちゃあ。


「まあ、伯爵様。ようこそ」

 男爵夫人が老人を見つけて寄ってくる。後ろにはエドワード少年の姿もあった。

「誕生日おめでとう。幾つになったかの? エドワード」

「ありがとうございます、14です」

「ホホ……。14歳と申しましても、まだまだ子どもで。あら、こちらは……」

「【幸福画廊】の方ですよね。えっと、小鳥さんでしたっけ?」

「はい。お誕生日おめでとうございます」

 人懐っこく微笑んできた少年に、伯爵から預かっていた贈り物を渡す。少年が礼を言って受け取った。その隣で男爵夫人もお愛想笑いを浮かべているが、その銀縁眼鏡のレンズの下で小鳥がこの場にいることを快く思ってはいないことくらいは、ピンと来る。メイド風情が何をしに来た、と思われているのは絶対だ。何だか居たたまれない気分になる。


「おお、そうじゃ。この男爵邸は、亡き男爵が手ずから設計された庭園がそれは見事での」

 伯爵がポンと手を打つ。

「折角の機会じゃ。エドワードや。良ければ、小鳥ちゃんに庭を見せてやってくれんかの?」

 母親が嫌な顔をした。だが、伯爵の手前、何も言わずに送り出す。


「どうぞ。ご案内します」

 少年にうながされて、いっしょに庭へ出た。かしこまった雰囲気から解放されて、小鳥は、ほぉーっと息を吐く。少年がクスクス笑った。

「こういう集まりって疲れますよね。ちょっと待ってて下さい。何か飲み物を持ってきてあげます」

 そう言って、室内に一旦戻ると、ジュースのグラスを両手に持って戻ってきた。途中、母親と二、三言葉を交わしていた。どうせ、小鳥など良いようにあしらって、さっさとパーティに戻るように、とでも言われていたのに違いない。


 渡されたジュースをストローで一口吸い上げる。緊張で乾いていた喉に染み渡る。ああ、美味しい。

 庭園の中をジュースを片手にゆっくりと歩く。要所要所で珍しい樹の名前や、蔓薔薇のアーチの剪定法などを説明して貰った。樹や草が好きな子なのかな、と小鳥は思う。そういえば、母親と一緒に【幸福画廊】を訪れた時にも、彼は緑の描かれた一枚の絵を熱心に眺めていたんだっけ。


 しばらく行くと、蓮の葉の浮く池に出た。

「もう一週間も後だったら、睡蓮の花が咲いたのに。僕の誕生日、もうちょっと後だと良かったですね」

 ごめんなさい、と謝られて、思わず笑みがこぼれた。

「ううん。充分キレイなお庭。……ちょっとそこの石に座って休んでもいいかしら? 慣れないヒールの靴で足が痛くって」

「待って。服が汚れます」

「あ、そっか。こんな上等な服って着たことないから。うっかりしちゃった」

 エドワードが石にハンカチを敷いてくれる。小鳥は何だかこそばゆい気がして、うふふと笑った。

「こんな風に女の子っぽくエスコートして貰うのって、わたし初めて。ありがとう」

 少年がぽっと顔を赤らめた。そばかすの浮いた頬に似合う、年相応の表情だ。こんな風にしていたら陰気くさい感じも消えて、この子、とっても可愛いのに。



「良いのかな? 貴方のお誕生パーティでしょう? 主役がこんなに長い間消えちゃって」

「良いんです。僕の誕生日っていうのは名目だけで。その実は、母の母による母のための会ですから」

 そう言われて、パーティの顔ぶれを思い返してみれば、確かにみんな大人ばかりでエドワードと歳の近い子どもの姿など見かけなかった。

「学校のお友達とか、呼ばなかったの?」

「友達? 居ないです。……ああ、母が選んでくれた『ご学友』なら居ますけど。でも、友達って言うのは、親が金で雇うものなのかなぁ? 小鳥さんはどう思いますか?」

 僕が学校で誰と話をしていたか、とか、書店でどんな本を立ち読みしていたか、とか。そういう事を逐一母に報告してくれる、素敵なご学友なんですけどね。

「……」

 返す言葉が浮かばない小鳥を、気にした風もなく少年は話し続ける。

「学校も、もうやめたんです」

 成績が何故だか急に落ちちゃって。そうしたら、母が凄い剣幕で学校に乗り込んで行って、僕の成績が落ちたのは先生方の教え方が悪い所為だって。僕に最高の教育を与えるにはこの学校ではダメだって。

「もう、電光石火の早業で退学届けを出してくれちゃって。今は家庭教師が来ています。それもコロコロ変わりますけど」

 なかなか、母のお眼鏡に適う最高の先生は見つからないみたいです。

「……そう、なんだ」

「はい。『最高の』っていうのは、母お得意の口癖なんです」

 最高の環境。

 最高の教育。

 最高の友人。

 最高の愛情。

 母が思いつく限りの最高級の僕の人生。お母様がお決めになる輝かしい僕の未来。


「小鳥さんは、セント伯爵の養女になるんでしょう?」

「え? 何で知ってるの?」

 まだ、内緒の話なのに、と小鳥がビックリ顔になる。まだ水面下で話が進められているところで、公に発表されるのは、もっともっと先の話の筈である。

「母は地獄耳ですから」

 ゴシップネタならもう何だって知ってます。

 そんな風に母親を語る少年の口調は、いつも、どこか険がある。


「でも、よく分からないな。わざわざ貴族になりたいなんて。貴族ってそんなに良いものじゃないですよ。確かにお金はありますけど」

「……」

「ああ、ご免なさい。気を悪くなさったなら、僕謝ります。そんな意味じゃないんです」

 エドワードが慌てて弁解する。

 伯爵様はとても立派な方ですよね。あの方だけは、僕、本物の貴族だって思います。

「貴族に、本物とか偽物があるの?」

 小鳥の質問に、エドワードは、ちょっと考える顔になる。

「貴族って、人じゃないように思えるんです。何となく」

 男爵邸の方を見遣る。そよ風に乗って邸内のざわめきがここまで届く。パーティは宴もたけなわのようだった。紳士淑女の取り澄ました笑い声。気取った会話。香水の匂いと格調高いクラッシック音楽の調べ。


 あの中に、本当に心から僕の誕生日を祝ってくれている人など居ない。心から笑っている人だって居やしない。みんな綺麗に着飾って、それを互いに褒め合っておべんちゃらをして。そして、見えないところで散々悪口を言ってるんだ。舌を出して笑ってるんだ。きっとお母様と同じように。

 あそこに居る人達はみな、男爵とか侯爵とか子爵とか、爵位という名の金ぴかのメッキで飾り立てた醜悪な記号のように僕には見える。


「僕は時々思うんです。どうして貴族の家なんかに生まれてしまったんだろうって」

 贅沢ですよね。広い屋敷に住んで、冬は暖かく、夏は涼しく。美味しい物を沢山食べて、綺麗な服を着て、何不自由ない生活をして。

「分かってるんです。贅沢だなって。我が儘だなって。でも、どうしても僕は自分が不幸だと思えてならないんです」

 最高の愛情に育まれ、

 最高の環境の中で、

 最高の友人達に囲まれ、

 最高の教育を受けて、

 そして、最高の大人になる。

 でも、それは本当に『最高の人間』なんだろうか?


 僕は、世間知らずのお坊ちゃまだけど。それでも僕は、僕よりもずっと辛い境遇の人達が居ることくらい知っている。僕よりもずっと満ち足りていない人達を知っている。この世は沢山の貧しい人で溢れている。それを僕は知っているのに。だのに、僕はどうして自分を哀れに思うんだろう。自分の幸福を素直に喜べないんだろう。

 きっと僕も、金ぴかのメッキで飾り立てた醜悪な記号の一つなんだ。

「……そんな風に思うんです」


「うーん、確かにお貴族様って、すっごく肩が凝っちゃうわよね。ホホホって笑うのって、人としてどうかとわたしも思うわ。本当に楽しい時はギャハハって笑うものよねぇ。あと、グヘヘとかダハハとか」

 何となく、ダグラス刑事の笑い顔が頭に浮かんだ。ダグラスの顔はちっともハンサムではないけれど、人間味にだけは溢れている、と小鳥は思う。


 そんな小鳥の物言いは、エドワードの意表を突いたらしかった。母親似の細い目がほんの少し丸形になる。

「あは、あははは。小鳥さんって面白い人ですね」

「あ。年上をバカにしてるでしょう?」

「違いますよ」

「嘘。ぜーったいバカにしてた」

「あ、虫……」

 ふいに、少年がひょいっと指を差した。その先にある自分の左肩を見て、小鳥は「ふぎゃあ!」と叫んだ。ジタバタと奇々怪々な踊りを踊ってしまう。

 にじってる。にじってる。黒いのに赤や黄色の入り交じった、気持ち悪い毛虫がわたしの肩をにじってる~~~っっ! ひぃぃぃ~~!!

「わ、待って。僕が取ってあげますから」

 無理に振り払ったら、虫が潰れて服の染みになるし、それにコイツも可哀想です。

 そう言って、エドワードが虫を取ってくれた。なんと手掴みだ。あんな気持ちの悪い虫を素手で掴めるなんて、男の子ってエライ。スゴイ。


「うぅ、ありがとー」

「この幼虫、今はグロテスクですけど、蛹になって羽化したらとても綺麗な蝶になるんですよ」

「エドワード君は昆虫に詳しいの?」

 あ、樹とか花にも詳しいわよね。将来は学者さんになるのかしら?

「……いいえ。僕、頭悪いですから」

「わたしもおバカだけど、好きなことは頑張れるわよ」

 自然を大切にする仕事って、カッコイイと思うな。うん、エドワード君に向いてると思う。

 そう言ってやると、何故だかエドワードの顔が真っ赤になった。

「……?」

「あの、あの。絶対誰にも秘密ですけど」

「なに?」

「あの。僕、本当は、庭師になりたいんです。……ヘン、ですよ、ね?」

 言ってしまったことを後悔しているように、語尾がどんどん小さくなる。

「えー? ヘンじゃないわよ。庭師上等!」

 パーティで踊ったり、ただ笑ったりしているより、綺麗なお庭を造る方が、建設的でずっとステキだと思うけど。うーん、少なくともわたしは、そっちの方が良いな。毛虫は苦手だけどね。

「それに、『庭師男爵』って何だかカッコ良くない? 映画のタイトルみたいで」

「あはは、ほんとだ。意味不明でカッコ良いです」

「あ。また年上をバカにしたー」

「違いますってば」

 二人で笑い合う。そよ風がとても心地いい。


「小鳥ちゃん、そろそろお暇するぞーい」

 池の向こうから、セント老人がこちらに手を振っている。

「あ、伯爵様が呼んでる。じゃあね、エドワード君」

 今日はどうもありがとう。今度は画廊の絵が完成した時に会えるかしら?

「あの、小鳥さん」

「なに?」

 呼び止められて、振り返る。エドワードはちょっと言い淀んだが、すぐに口を開いた。

「あの子……白野君に謝っておいて頂けますか? 先日の母の失礼を。彼、すごく怒っているんでしょう?」

「え?」

「折角、白野君が親切に僕に飴をくれようとしていたのに、母が邪険に断わったから。彼が怒るのは当然だと思うんですけど。本当にご免なさいって、伝えて下さい」

「それ、どういうこと?」

 よく、意味が分からない。

「先日、【幸福画廊】から僕の絵の依頼を断わる電話があったって母から聞いて。それで、きっとこの前の事をとても怒っているんだろうって」

「え、それ本当?」

 エドワードの絵の依頼が断わられていた、なんて話、小鳥には初耳だ。驚いてしまう。


「最初は、自分の絵なんてどうでも良かったんだけど、白野君に会って、彼の絵を見て。そうしたら、彼に描いて貰えるならイイなって思えてきて。……本当は出来上がるのを楽しみにしていたんです。【幸福画廊】の僕の絵」

 だから、断わられたって聞いた時、すごく残念だったんですけど。でも、それも当然ですね。仕方ないんですけど、でも、ひと言謝っておきたくて。

「ちょっと待って。白野様はそんな事でお怒りになったりしないわ。とっても優しい方だもの」

 絶対、そんな理由じゃないと思う。白野様はそんな短慮な方じゃない。

 小鳥がそう断言すると、エドワードは俯いた。


「……それじゃあ、【幸福画廊】から断わられた理由は、何だろう? もしかして、僕の幸せが見つからなかったからかもしれませんね」

 そう言って、とても寂しいそうに語尾を弱めた。

「僕の『最高に幸せな笑顔』なんて。そんなのない気が僕もするから」


「そんな事あるワケないでしょ。君にだって、誰にだって、幸せはあるの。もう絶対!!」

 わたし、白野様に訊いてみるから。エドワード君の幸せの絵、ちゃんと描いてあげて下さいって、きっとお願いしてみるから。【幸福画廊】の絵は本当にステキなんだから。見る人は必ず幸せになれるから。だって、わたし、だからこそ、あのお屋敷でずっとメイドをしてるんだもの。だから、絶対大丈夫だからね、エドワード君!


 小鳥は、そう一気にまくし立てて帰っていった。

 不思議な人だな、とエドワードは思う。何だか、いっしょにいると元気が出てくる。話をしていると「あはは」って声を出して笑いたくなる。「ホホホ」じゃなくて「あはは」って。

 春に咲くタンポポみたいな人だ。お母様はきっと雑草だって仰るだろうけど、明るい色の綺麗な花だ。


 エドワードはふと思いついて、辺りをキョロキョロ見回した。

「あ!」

 良かった。まだ木の幹に居てくれた。

 黒いのに赤や黄色の入り交じったさっきの毛虫を、もう一度そっと捕まえる。

 今はグロテスクでも、蛹になって羽化したらとても綺麗な蝶になるんだ。

 今は、ゼンゼン冴えないけれど……。


■■4


 ここ最近ずっと温かかったのに、今日は一転して肌寒い。『寒の戻り』と天気予報が告げていた。小鳥は早朝から自主的に床の拭き掃除に励んでいる。

 まだここのメイドです、と言った手前と、その割には最近ちっともそれらしい事をしていないという申し訳なさが手伝って、床を磨く作業にも力が入る。


 廊下の半分ほどを拭いた辺りでモップを動かす手を止めると、柄の先っちょに顎を乗っけて、ちょっと休憩。そうしたら、はぁ~というため息が勝手に口を突いて出た。

 エドワードの絵の事についていろいろ訊ねてみたいのだが、白野はアトリエに篭もりっきりだし、朱里は朱里で何かしら忙しそうにしているしで、未だそのチャンスに恵まれていない。第一、朱里に至っては、顔つきこそ普段通りだが、どこかピリピリと張りつめた物を感じて、普段にもまして近寄りがたい。


 一時期ほどではないにせよ、白野と朱里の関係も、未だにギクシャクしているというか、しっくり行っていないように思える。館の中も重苦しい空気が漂っているようで、朱里の作る美味しいケーキでのお三時だって、その所為か妙に味気なく感じる。美味しい物を素直にそうと感じられないのは、美味しい物への冒涜だ。生きる楽しみが半減する。もの凄く由々しき事態である。


 こんな風になったのは、確か、みんなでカーニバル見物に行った日の翌日からだったろうか。何があったのかなぁ、やっぱりエドワード君の言う通り、パレードの後で男爵母子に会ったことが原因かしら? それまでは、とっても楽しかったんだもんなぁ。

 あ……もしかして、わたしの養女話が出ちゃったから……とかとか?

 一瞬青ざめ、いや、それは有り得ない、と思い直す。

 朱里さんはわたしに早く出て行ってこそ欲しいのだし、ダグラス刑事は普段通りで変わらないし。白野様は……どうなんだろう? やっぱり、わたしがここから出て行くと嬉しいのかな?

 この館に雇い入れられてからの日々を思い返す。……色んな事があったけど、お世辞にも良いメイドだったとは思えなかった。役立たずの不出来なメイドだ。やっぱりさ、厄介払いが出来るのは白野様も嬉しいわよね?

「……」

 ズズゥーンと落ち込んできた。いけない、いけない。こういう時こそ、ポジティブに、アクティブに! 人生は前を向いて上を向いて振り返らずに歩くのだ。

 モップ掃除を再開する。ガシガシ、ゲシゲシ。ガシゲシガシ。


 コツーン、コツーン、コツーン……

 階段の方から音が聞こえた。「ん?」と耳をそばだてる。あ、また聞こえてくる。何だろう?

 不審に思って見に行くと、何か小さい物が軽い弾みをつけながら段々の上から落ちてくる。

 一階までたどり着いて、そのまま床をコロコロコロ……と転がって行くのを手で止める。

 また別の奴が落ちてきた。今度は最後から2段目辺りでキャッチする。手の中で鈍い光を弾いているのはビー玉だ。


 階上を見上げる。まだ薄暗い階段の踊り場に、小柄な影が座り込んでいた。

「白野様」

「小鳥ちゃん、随分早起きだね。もうお掃除してるの?」

「最近、伯爵様のお供ばっかりで、メイドとして失格でしたから」

「そんなの、気にしなくっていいのに」

「そうはいかないですよぉ」

 照れ笑いしながら、広い階段を登っていく。白野がビー玉を指で弾いた。今度は他のビー玉たちとぶつかり合って、すぐに止まる。明かり取りの窓から差し込み始めた朝の光がガラス玉を一瞬キラリと反射させた。

「それ、伯爵様から頂いたビー玉ですよね?」

「うん」

 そう言って、顔を上げた白野の瞳も朝日に映えて蒼を弾く。うっとりと見とれてしまう。大好きだなぁ、綺麗な色。

「白野様の瞳って、ホントに綺麗。透明で澄んでいて」

 やっぱり心が綺麗だからですね。目は心の鏡って言いますもんね。

「そんなこと、ないよ」

 手にしていた2個のビー玉を渡すと、白野が「ありがとう」と受け取った。



「あの、わたし、伯爵様についてパーティに行ったんですよ。男爵邸に」

 エドワード君のお誕生日だったんです。

「そう」

「それでですね。エドワード君から白野様に謝っておいて下さいって頼まれて」

 軽く小首が傾げられた。不思議そうに訊ねてくる。

「謝るって……何を?」

「パレードの夜の、お母さんの事。彼、とっても気にしてました。白野様が怒っていらっしゃるだろうって」

「……ああ」

 白野がエドワードにあげようとしたリンゴ飴を、母親がそれは辛辣にはねつけたのだ。それを思い出して、クスリと笑う。そういえば、あのリンゴ飴は結局、口も付けないまま、溶けて腐らせてしまったんだった。鮮やかな赤が折角キレイだったのに。


「あの、あの。差し出がましいかもですけど、どうして男爵家からの絵の依頼、お断わりになったんですか? この前は描いてるっておっしゃってたのに、描くの止めちゃったんですか?」

 意を決した小鳥の質問に答える白野の声は、至極あっさりとしたものだった。

「絵は、完成してるよ」

 予期せぬ答えに驚いてしまう。

「え? じゃあ、どうして断わったりなんか。やっぱり、あの時のこと怒っていらっしゃるんですか?」

「まさか。あのくらいのことで怒ったりなんてしないよ。僕はエドワード君の事、何となく近しく思ってるし」

「あ、そう。わたしも思っていたんです。似てらっしゃいますよね。何処かしら」

「リンゴ飴を知らないトコとか、ね」

 ふふっと笑う。

 学校に行っていないところも、お友達が居ないところも似ているんだと思う。白野様は何だか不思議な方だから。【幸福画廊】の画家だから。今までそれをおかしいと思ったことはなかったけれど、それはやっぱりおかしい事だと思える。とても不自然な事なんだと。


「あの子、ちょっと心配なんです。『自分に幸せなんてない』なんて言ってて」

「そう」

「でも、わたし安心しました。白野様が絵をお仕上げになったってことは、エドワード君の幸せは、ちゃんとあるってコトですもんね」

 ちゃんと、依頼通りの最高の笑顔が、絵の中にあるってことですもんね。

「……」

「白野様?」

 同意の言葉を返してくれない白野に、何だかちょっぴり不安になる。


「……ねぇ、知ってる? 小鳥ちゃん」

 コツンと白野の指でビー玉が弾かれた。コロコロ……と転がって、段から落ちる。コツーン、コツーン、コツーンと、遠ざかっていく小さな透明のガラス玉。

「この世には、『許される幸せ』と『そうでない幸せ』とがあるんだ、って」

「……それって、どういう意味ですか?」

「さあ? 僕には分からない。僕にはどうしてもその区別がつかないから」


 幸せという言葉には、無数の形があるのだけれど。

 僕には、その全てが等しく同じ重さに見える。そうしてそれは、とても罪深い事らしい。

 どうしてかな? 人はそれぞれ。生き方もそれぞれ。考え方だってそれぞれで。だから、『幸せ』って言葉だけ特別な秤にかけるなんて、てんでナンセンスだと思うのに……。

 人はどうして幸せでありたいと願うんだろう。幸せなんて結局は、ほんの一瞬で過ぎ去っていく、ちっぽけな感情の高まりの一つにしか過ぎないのに。ちょうど、このビー玉遊びみたいに転がっていくのは面白いけど、止まってしまえばそれで終わる。


「朱里がね、言うんだ。あの人達は『悪い客』だって」

 だから、僕の描いた絵も『悪い絵』だって。


「それって、朱里さんが勝手に依頼を断わったって事ですか?」

「……」

「そんなのって横暴です!」

 声が自然と大きくなる。

「だって、変です。折角白野様がお描きになった絵を、依頼人に渡さないなんて」

 いつも朱里さんが言ってるんじゃないですか。【幸福画廊】の絵はその人の為だけに描かれる特別な絵だって。その人以外が見ても決して幸せにはなれないって。だのに、依頼人に折角の絵を見せないなんて、そんなのっておかしいです。

「大体、許されるとか、そうでないとかって、一体何なんですか? エドワード君の幸せって何が描かれているんですか?」


「見たい?」

 不意に。ポツリと白野が訊いた。小鳥を見るその瞳の蒼が濃度を増す。

「……え?」

 何故だろう、なんだかいつもの白野様じゃないみたい。どうしてだろう。大好きな蒼い瞳が澄みすぎていて、ほんの少しだけ……怖い。

「エドワード君の幸せの絵だよ。……小鳥ちゃん、見たい?」

 白野が立ち上がった。膝の上に載せていた10個ほどのビー玉が、一斉に床にこぼれ落ちる。カツーン、カツーンと大きく跳ねて、そのまま階下へと転がり落ちて行く。沢山の硬質な音が屋敷の中に木霊する。


 そして、いつしか音は遠ざかり。

 蒼い瞳に射すくめられたように動けない小鳥の手を白野が取った。ゆっくりとアトリエの方へ歩きだす。小鳥を導く少年の手はとても冷たい。


 階段を登り切ると、そこに朱里が立っていた。白野が言う。

「今更邪魔するなんてナシだよ、朱里」

「白野様……」

「お前は、あの絵を処分しなかったよね? チャンスは何度でもあったのに、どうしても出来なかったんだよね? 何故だと思う?」

「……」

「それはね、これがもう決まっている未来だからだよ。小鳥ちゃんが絵を見ることは、もうずっと前から決まっていたんだ」

 この館に小鳥ちゃんを招き入れた時から。ううん、もっとずっと昔から。

 男の目が眇められた。弱く頭を振る。

「……間違っています」

「うん」

 そうだね。知ってるよ。


 白野に促されて、男の前を通り過ぎる。

「小鳥さん」

 朱里が呼んだ。

「あの絵を見たら、きっと後悔しますよ。知らない方が良かったと」

 それでも貴女は見たいんですか?

「……ええ」

 小鳥は少し考えて、そして静かに頷いた。

「見たい、わ」

 だって、わたしはまだ何も知らない。知らされていない。そんな気がする。

 はっきりと意思表示した小鳥の顔を白野が見る。そしてふわっと柔らかく微笑みかけた。小鳥ちゃんなら大丈夫。そう言われたように思う。掴んでいた手をキュッと握る。

「さあ、小鳥ちゃん。こっちだよ」


 そうして、小鳥はアトリエへと導かれる。


■■5


 濃い絵の具の臭いが鼻を突く。多いというよりも、散乱していると形容した方が正しい程に、沢山の絵が置かれている部屋。白野のアトリエ。

 中央にその存在を誇示するように置かれている絵があった。

 薄暗い室内。よく見えない。小鳥は少しだけ近寄ってみる。もうあと少し。目を凝らして、息を止めた。

「……」


 背景は広い室内だ。高い天井と上質の家具。お金持ちの邸宅であることがすぐに分かった。右側に大きな窓。そこに奇妙な物が浮かんでいる。いびつに歪んだ三日月だ。月なのに何故か黒い。不可思議な天体の昇る空は毒々しい赤の絵の具で塗られていて、その禍々しさに叫び出してしまいそうな不安を覚える。

 だが、本当に怖ろしい物は、絵の中央にこそあった。

 一人の少年が笑っている。エドワードの顔をしていた。限界まで見開かれた目、上がった顎、引きつった頬。大きく開けられた口と高々と振りかざされた両腕からは、彼が雄叫びをあげているのか、それとも哄笑しているのか、咄嗟の判断はつきかねた。

 勝ち誇った笑み。いびつな笑み。狂喜。狂気。そして、凶器。


 足下には血に染まり、ぽっかりと虚ろな目をこちらに向けて、横たわったエドワードの母親の姿。既に絶命しているのは……それだけは確かな事だった。怖ろしい死の気配がカンバスの中から押し寄せてくる。恨めしそうに空を掻く指の先には、ひび割れて歪んだ彼女の銀縁眼鏡が落ちている。


 ケクッともグゥとも形容しがたい異様な音が喉から漏れた。ツバを飲み込んで声を捜す。必死の思いで絞り出す。

「……エ、ドワードくん?」

「そうだよ、小鳥ちゃん。これが、あの子の幸せの絵」

 これが、あの子の最高の笑顔。

「……嘘、です」

 嘘。こんなのは幸せの絵じゃない。笑顔なんかじゃ絶対、ない。


 白野様……白野様は……

「エドワード君の最高に幸せな瞬間は、あの子がお母さんを殺す時だって、そう仰るんですか!?」

 叫んだ。叫んだ途端、ツンと鼻に熱い物が込み上げた。不意に視界がぶわっとぼやける。ぼやけた白野が頷いた。

「うん」

「嘘!!」

「嘘? どうして?」

 白野の小首がゆっくりと右に傾ぐ。

「小鳥ちゃんはエドワードじゃない。あの子の苦しみも喜びも他の誰にも分からない。彼の人生を歩むのはこの世で唯独り、彼だけだよ。それなのに、彼ではない小鳥ちゃんに、あの子の人生の何が分かるの?」

 とても静かなその口調が堪らない。いつも通りの優しい声が耐えられない。イーゼルを力任せに引き倒した。ガッターンと大きな音を立てて、不吉な絵が床に落ちる。

 信じられない。どうして、どうして? どうして白野様がこんな絵を描くの?

 禍々しい黒い月の上にパタパタと水滴がこぼれ落ちた。やるせない涙が溢れて落ちる。

「こんなのって非道いです……これが幸せだったら。じゃあ、幸せって何なんですか?」

 わたしが信じていたものって、一体何だったんですか?


「でも、そうなんだよ。小鳥ちゃん」

 僕は幸せという人の感情だけを視る。不思議なんだよ、人間は。ものすごく哀しんでいたり、憤っていたり、苦しんでいたり。でもその中にこそ本当に。とても強い、絶望的なまでに凄まじい幸福感があったりする。


「他人の不幸を喜ぶ人も居るよ。自分自身の死すら願って止まない人もいる。……きっとこの世の全てのことは、どれも誰かの幸せで、そして他の誰かの不幸なんだよ」

「違います。こんなのって間違ってる。こんな絵は幸せの絵なんかじゃない! 【幸福画廊】の絵じゃない!」

 【幸福画廊】の絵は、もっと優しくて、温かで、わたしが本当に大好きな……希望の絵なのに。そうでしょう?


「……じゃあ」

 白野が口を開いた。

「小鳥ちゃんには、それが出来る?」

 小鳥ちゃんが、この絵を希望に変えてくれる? 僕の望みを叶えてくれる?


 アトリエから飛び出して、そのまま階段を駆け降りようとする小鳥を朱里が止めた。肩を掴んで引き戻す。

「お待ちなさい! 何処に行くつもりです?」

「男爵邸に行くのよ! 決まってるでしょう!」

「……バカな事を」

 男が鋭く舌打ちをする。

「行ってどうするんです? あの母親に知らせるんですか? 貴女の息子さんの幸せは貴女を殺す事ですよ、と? それとも、あの少年に、貴方は近い将来きっと母親を殺すでしょう、とでも予言してやるつもりですか?」

 それこそ、最も残酷な仕打ちなのではありませんか。まだ起こってもいない事で、貴女は彼らを責める気ですか?

「だって……こんな事、止めさせなくちゃ」

「無理です」

 どのみち、あの絵が現実になる正確な時間は、私たちには知りようがない。手の下しようがないんです。

「じゃあ、あの子の傍にいるわ。そしてその時、わたしがあの子を止めてあげる」

 それに、朱里が酷薄な笑みを浮かべた。

「そんな事が本当に出来るとでも思うんですか?」


 エドワード少年の性格から推して、あれは決して計画されて起こるものではないでしょう。突発的に衝動的に起こるだろう悲劇です。

 今この瞬間にも、あの絵の光景は現実の物として起こっているかも知れない。一時間後かも知れない。一週間後かも知れない。一年先かも。その間、ずっと見張っているんですか? あの親子に悟られることなく。そんな事が出来るとでも思うんですか?

「け、警察に……」

「ダグラス刑事に話したところで、彼にもどうにも出来ませんよ。彼は警察官で、警察とは既に起こってしまった事件に携わる機関です。【幸福画廊】の不可思議など、信じる者は居やしません」


 小鳥の目からパタパタと涙がこぼれ落ちる。男のスーツをわし掴んだ。その手が白く震えている。

「ねぇ、教えてよ。じゃあ、どうしたら良いの? どうすればエドワード君を救えるの?」

「何も、出来ないんですよ」

 これまで私は沢山の絵を見てきました。そして知った。【幸福画廊】の絵は覆せない。運命は決して変えられない。あの母子の未来は、私たちには変えられません。

「だって、【幸福画廊】の絵は人を幸せにしてあげる絵でしょう? 今までずっとそうだったじゃない!」

「それは、貴女の勝手な思い込みです。この屋敷のほんの一部だけを見て、全てを知った気になっていただけです。この屋敷は夢物語じゃない。もっとリアルでドロドロとした現実なんです」

「非道い……」

 俯いて低く呟く小鳥の言葉に、男もまた目を伏せる。

「だから、見るなと言ったんです。知らない幸福を甘受している方が、きっと人は楽園にいられる」

 あのアダムとイヴのリンゴの物語のように。


「とにかく。私たちには何も出来はしません」

 あの絵をなかったことにするしか。貴女は何も見なかった。何も知らされなかったんです。ここから去りなさい。そして全て忘れて下さい。……良いですね?


 トランク一個分の荷物を纏めた。伯爵様は好きにして良いと仰った。だから、急ですが今日からお世話になります、と言っても、きっと何も聞かずに優しくわたしを迎えて下さる。

 トランクを持って下に降りると、階段脇に立て掛けたままのモップに気が付いた。

「お掃除、途中だったっけ……」

 やりかけたことをそのままにして行くのはイヤだ、と思う。小鳥は荷物を置いた。代わりにモップに手を伸ばす。


 何も出来ない、と言われた。わたし達は無力だと。

 もう止まったと思った涙が、またじんわりと滲んできた。小鳥は服の袖口でぐいっと目を擦った。モップを握り直して床拭き作業を再開する。ガシガシ、ゲシゲシ。ガシゲシガシ。


 ひねくれてささくれだった気分のままに、花瓶でもスリッパでも何でもかんでも投げつけて、壁を蹴ったり殴ったり、目につく物全てに当たり散らしてやろうかなんて、そんなことも思ったが。多分そんな事をしても空しいだけだ、分かってる。

 ただ落ち込んでいるだけなのなら、それくらいなら、こうやって体を動かしている方がずっといい。


 親の敵でも討つような勢いでモップを動かす。ガシゲシガシ。床の隅の飾り台の下までモップを伸ばすと、何か小さな感触がした。もう一度その辺りを掃くとコロコロ……と台の下からビー玉が転がりだしてくる。

 朱里が踏んで滑ったら危ないからと、一つ一つ拾い集めていたようだが、どうやらその目を逃れた一個らしい。

 屈み込んで拾い上げる。そのままポケットに入れようとして、その手を止めた。綺麗な水色のビー玉だった。白野の瞳の色によく似ている。グズズッと鼻を啜った。


 あんな綺麗な目で、白野様はいつも何を視ているんだろう。何を感じているんだろう。何を想っているんだろう。そして、朱里さんは? 彼は何を考えて、白野様のお側に居るのかな?

 二人とも、わたしとは違う物を見ているの? ずっと同じお屋敷にいて一緒に暮らしてきたんだのに。わたしとあの人達とは何かが違う。そんなのって怖い。何だか怖い。


 ふと。シン……と静まりかえったこの建物を意識した。照明がきちんと点けられているのに薄暗く感じる。すっかり馴染んだ筈のこの館。壁に掛けられた沢山の絵が。高い天井が。美しく装飾の施された柱の一本一本が。小鳥をじっと見据えているようで、今にも押しつぶされそうで。……怖くなる。



 外の方で音がした。車が入ってくる音だ。外を覗くと、ダグラス刑事の車だった。あちらも小鳥に気づいたのか、車内から手を振っている。思わず、玄関口へ転がるように走り出る。

「わわ、何だ、何だぁ? どうしたんだよ、小鳥?」

 車のトランクから何か大きな荷物を取り出そうとしていたダグラスにしがみつく。突然抱きつかれた男が目を白黒させている。

「刑事、刑事、刑事ぃ……」

「何だ? お前目が赤いぞ。何かあったのか?」

 非道く心配そうな声で訊かれて、逆に何も言えなくなった。朱里が言っていた通り、ダグラスに話してもどうにもならない。きっと困らせるだけだ。

 第一、自分が今この屋敷をどう思ってしまったかなんて、そんなこと口に出せる筈がない。ずっとずっと、ずっと大好きだったのだ。それなのに、自分の好きという気持ちを裏切るようなこと、口が裂けたってわたしには言えない。


「……何でもない」

「あ?」

「何でもない! ゼンゼン絶対何でもない!」

「意味分かんねぇなぁ。 ……お前、ホントに大丈夫なのか?」

 今すぐ爺さんトコに行くか? そうしても誰もお前を責めないぜ。この館の問題は、あいつら主従の問題だ。お前がわざわざ網引を喰らう必要はない。多分、執事もそう思ってる。

 真面目な様子でダグラスがそう言った。この人も感じ取っているんだ、と思う。この屋敷の異質を。


「でも……」

「ん?」

「わたし、まだ画廊が好きだもの」

 だから、もう少し頑張ってみる。わたし、ここに居る。自分に何が出来るのか考える。

「そうか」

 ニカッとダグラスが笑った。お前、見かけに寄らず根性あるよな。そういう所に惚れてるよ、などと言われて、また涙が出そうになった。

 悲しい時にも涙は出るけど、嬉しい時だって涙は出る。小さな幸せだからこそ涙が出る。白野様は、それを知っていらっしゃるかな? ほんの少しだけ疑問に思った。


「ねぇ、その荷物、何なの?」

 トランクの中の大きな包みを見て、小鳥が訊いた。

「ああ、そうだ。運ぶの手伝ってくれよ」

 急いで設営しないと始まっちまう、とダグラスが時計を覗く。うん、まだ小一時間あるな。

「だから、これ何?」

「望遠鏡だよ。こっちの方は投影板」

 わざわざショップで買ってきたんだぜ、投影板。望遠鏡は爺さんのガラクタ部屋のお古だけどな、とゴソゴソ荷物を引っ張り出す。

「へ?」

「昔は黒い下敷きで観たもんだけど、それだと赤外線を通すから目に良くないんだとさ。まあ滅多に観られるもんでもないし。これなら全員で太陽観れるし……」

 その「太陽」という単語で思い出した。

「ああ、日食観ようって言ってたわよね。そう言えば」

 ダグラス刑事、わざわざその為に昨日は夜勤入れて、その代わりに今日の休みを貰うんだ、って言ってたんだっけ。こういうのが好きだなんて子どもみたいなトコあるなぁ、とおかしくなる。

「真っ黒い月みたいに、太陽が欠けていくんだぜ」

「……え?」

 ドキリ、と胸が鳴った。月……黒い月……真っ黒な……

「肉眼では分かりにくいが、この投影板ならそういう風に……」

 ダグラスの声が遠くなる。音という音が遠のいていく。キーンと耳鳴りがした。


「……い、おい、小鳥?」

 急に呆けたように固まってしまった小鳥の肩をダグラスが揺すった。ハッと我に返る。

「何だよ? どうし……」

「ダグラス刑事、車貸して!」

「へ? お、おい、小鳥!」

 有無を言わさず、運転席に乗り込むと、小鳥は車を急発進させた。


 砂煙が上がる。望遠鏡の包みを抱えたまま、呆気にとられた顔つきで車の走り去った門を見るダグラスの方へ、朱里が駆け寄ってくる。

「ダグラス刑事、小鳥さんは? どうしたんです?」

「分からねぇ。俺が一緒に日食観ようって言ったらよ」

「……何ですって?」

「だから日食だよ、部分日食。皆既日食とまではいかないが、今日のは結構欠ける筈なんだぜ。お前、新聞読んでねぇのかよ」

「……」

 今日の新聞は流石に読む気も起きず、置きっぱなしで。だが。……ああ、そうだ。以前、読み飛ばした小さな記事。老婦人の訃報が載った日の新聞だ。そこには、近く天体ショーが観られると……。

 朱里の顔が青ざめる。

「しまった。あの黒い月は……そういうことか。今日だったのか!」


 館を振り返った。二階の南端。アトリエの窓。そこに白い影が立っている。

 白野と朱里の目が合った。蒼い蒼い、透明な瞳……。


「お、おい、執事。お前まで何処に行くんだ!?」

 無言のまま、男が自分の車を駆って門を出て行く。為す術もなく見送って、ダグラスも館を見上げた。白野が無表情にこちらの方を見下ろしている。


■■6


 ダグラスは階段を駆け上がる。アトリエへと飛び込んだ。白野に掴みかからんばかりの剣幕で迫る。

「おい、坊や。どういうことだ? 執事は血相変えて何処へ行った? 小鳥は何処へ行ったんだ? お前、知ってるんだろう?」

 対する少年の声は、非道く物憂げで疲れているようだった。小さく答えが返る。

「うん、知ってる」

「あいつらは何処に行ったんだ? これから何が起こるんだ!?」

「知ってるけど……分からないよ。だって、僕は神様じゃ、ない」

 僕にだって、分からないことはある。だって、自分の絵に介入するなんて初めてだもの。本当は僕にだって……。ううん、きっと僕にこそ。何一つ分かってなんていないんだ。だから、周囲を苦しめる。


「……最初から、僕の事なんて嫌っててくれれば良かったのに」

「なんだと?」

 ダグラスが眉を寄せた。聞き返す。

「僕を好きだって言ってくれる人はみんな、不幸になってしまうから」

 ダグラスがまじまじと白野を見る。大きく息を吸って、そして吐いた。苦々しく首を振る。


「……ああ。何となく分かってきたぞ、お前ら主従が妙チキリンな理由が」

 お前ら、本質的にすげぇ似てんだよ。その所為だ。

「執事も、坊やも、自分の事をものすごく嫌っているだろう? 疎んじているだろう? そこが似てるんだよ。……それに気づかない、とぼけたトコも似てるんだな」

 お互いに傍にいて為にならないと思ってるから。だから、話がややこしくなるんだ。もっとな、シンプルで良いんだよ。

「人間、最初は自己愛から始まるんだぞ。自分を好きになれない奴が、他人を先に好きになったら。そりゃ、歪むに決まってる」

 しかも、それが双方向ともなれば尚更だ。歪みまくって破綻する。


「どうして、そんなに自分のことを嫌うんだよ? 自分が可哀想だと思わないのか? お前ら、まるで『オセロー』じゃないか。シェイクスピアの教えを破って、悲劇の主人公になっちまう気か?」

 戯曲に託して、あの時、爺さんが言いたかったこと。爺さんの危惧。ちゃんと聞いてたか、お前。


「だって、僕は絵を描くことしか出来ないんだ……」

 言われて、床に仰向けに倒された絵に目を留めた。ダグラスがギクリと肩をすくませて凝視する。眉間の皺が深くなる。


「おい! 言えよ。何がどうなっている? この絵は何だ?」

 細い肩を掴んで揺さぶった。白野はされるがままに目を閉じる。ダグラスの怒声が大きくなる。

 僕はずっとずっと、考えてた。たった一枚の絵を描きたくて。朱里に本当の幸せの絵をあげたくて。僕に出来ることは、もうそれだけしかなくって。

「白野! 答えろ!」


「……僕の絵が間違うことが、朱里の幸せだと思う」

「何だって?」

「小鳥ちゃんが変えてくれるんだよ。僕の絵を……別の未来に」

「その為に、小鳥を利用するのか?」

「そうだよ」

「甘ったれんな!」

 高く頬の鳴る音がした。倒れかけた体を胸倉を掴んで引きずり起こす。


「この馬鹿ガキが。小鳥をダシに使えば、幾らあの忠誠執事でも、流石に愛想を尽かして自分を見限ると思ってやがるな」

 そんな事をあの男が本気で喜ぶと思ってるのか? あいつがお前の意図に気づけないほどボンクラか。あいつがお前を嫌いになるか? あいつにお前を見捨てられるもんか。

 あいつがお前自身にお前を嫌わせるような、そんな馬鹿をむざむざやらせると思うのか?

 ダグラスが吠える。

「言え! 二人は何処だ!? 何処へ行った!?」


 パッパーとクラクションが鳴らされた。そんな事、気にしてられない。小鳥はアクセルを踏み込んだ。赤信号を突っ切って、更にスピードを上げる。男爵邸へ着きたい。ああ、そうよ。一刻も早く。


「……お願い、間に合って」

 どうかお願い。わたし、信心深くないんだけど。だからこんな時、何の神様に頼んだら良いのか、ゼンゼン分からないんだけど。それでもお願いしてしまう。


 朱里さんの言うとおり、知りすぎることはとても怖い事だと思う。とても辛いことだと思う。でも、知らない所で誰かが泣いているのは、もっと嫌。わたし、バカでおっちょこちょいで、全然取り柄なんてないけれど。誰の力にもなれないけれど。それでもただ一つだけ。一緒に泣いてあげることならわたしにだって出来ると思う。

 辛いねって、切ないねって、シンドいよねって、みんなで一緒に泣きたいの。だって、そうしたら、いつの日か、こんなコトもあったよねって、いっしょに笑うことだって。 ……ねぇ、出来るかもしれないじゃない。


 わたしは神様じゃないから。ただのちっぽけな人間だから。器用じゃないから。バカだから。ご免なさい。一度知ってしまった以上、やっぱり知らない振りは出来ません。



 白野様の絵は幸福の絵だもの。【幸福画廊】の絵は希望だもの。何時だってずっとそうだったもの。わたし、それも知っているもの。だから、あの絵だって、きっと幸福に変えられる。あれはその為の希望の絵。そうよ。わたしは絶望なんかしない。絶対に絶対に諦めない!


「幸せ」って言うのは、なかなか見つけられないけれど、本当はそこかしこにあるんだと思う。ありふれていて目立たなかったり、透明すぎて見えなかったり、当たり前すぎて感じなかったりするんだと思う。私たちは沢山の幸せを見過ごしている。

 だって、こうして、ここに居て、息をして、誰かと時を分かち合える。それは、当然のように思えるけれど、本当はすごい偶然なのだ。神様が与えて下さった奇蹟なのだ。


 私、【幸福画廊】が好きなの。【幸福画廊】の絵が大好き。

 だから、お願い。間に合って!


 そこの角を曲がったら、目指す男爵邸はもうそこだ。

 ああ……でも、もう太陽が……太陽が欠ける……!


 今日は朝から肌寒いからと、お母様は暖炉に火を起こさせた。少し重ね着をすれば済むことなのに。お母様は贅沢がお好きだ。それが貴族としての特権だから当然だっていつも仰る。

 もう、陽も高く昇って部屋の中は暑いくらい。でも、その温かさの所為か黒い毛虫はとても元気だ。キリで穴を開けた小箱の中で精力的に葉っぱを食べる。


 エドワードはこっそりと庭に出て、新しい葉を摘んで来てやった。古い葉から新しい葉へ移し替えてやると、何だか毛虫も嬉しそうに見える。

「美味しいかい? いっぱい食べて、早く綺麗な蝶々におなり」

 箱への収まりが良いように、枝の何カ所かを園芸用のハサミで切ってやった。


 コンコン、と扉がノックされた。

 エドワードは慌てて箱のフタを閉める。机の上で本を読んでいる振りをする。

「エドワード、入りますよ」

 扉を開けて、母親が入ってくる。にこにこと傍に寄ってくる。

「なんの本を読んでいるの?」

「セント伯爵様から頂いた本です」

「どれ……」

 と、母親が本を取った。パラパラと捲る。すぐに不愉快そうに本を閉じた。

「もっと良質な本をお読みなさい、エドワード」

「え、でも、とても面白いのに」

「これは貴方に相応しい本ではありません。伯爵様ももうお歳なのね。最近は若い娘になど現を抜かして」

「小鳥さんの事ですか?」

「ええ、そうですよ。全く、どうやって取り入ったんだか。伯爵様も耄碌なさったものだわ」

 あんな下賤な小娘を養女にしようだなんて。汚らわしい。

「そんな。あの人は……」

「とにかく。こんな本は読まなくていいの。お母様が貴方に相応しい本を沢山買ってあげますから」

 男爵家を継ぐ貴方には、最高の本を与えなくてはね。わたくしは貴方のためを思って言っているのよ。分かっていますね、エドワード。

「……」

 少年は眉を寄せる。

 お母様は『僕の最高』が欲しいのかな? それとも、ご自分の願う『最高の息子』が欲しいのかな? 時々、お訊きしてみたくなる。



「あら、何かしらね? 変な音が……」

 母親が怪訝な顔をして、耳をそばだてた。

 カサカサ……カサカサカサ……

 エドワードには分かった。虫が草を食む音だ。青ざめる。

「その箱からね。お見せなさい」

「イ、イヤです。これは……」

「お母様の言うことが聞けないの、お寄越しなさい!」

 奪い合う内に箱が床に落ちた。弾みでフタが開く。中身が覗いた。


「ひぃっ、毛虫!」

「お母様、待って、待って下さい!」

「なんですか、こんな汚らわしい物を!」

「ああ……!」

 母親の手が虫を箱ごと暖炉の中に放り込む。箱の隅に黒点が浮かび、続いてポッと火がついた。すぐさまメラメラと燃え上がる。

「どうして……?」

「あんな物を飼うなんて。喘息の発作の元にでもなったらどうするの?」

 お母様は貴方のためを思って言っているのよ。貴方のことだけをいつだって思っているの。お前の幸せだけが望みなの。分かっているわね? 分かっているならお返事しなさい、エドワード。

「……エドワード?」


 黒いのに赤や黄色の入り交じった僕の毛虫。醜い毛虫。

 今はそうでも、蛹になって羽化したら、きっと綺麗になれたのに……!


 親ダカラッテ

 愛シテルカラッテ

 全テハ 僕ノ為ダカラッテ

 僕ノ本当ノ幸セヲ オマエナンカガ 勝手ニ 決メルナ!


 少年がハサミを握りしめた。


「ひぃぃー! な、何をするんです、エドワード!」

 血しぶきが飛んだ。もう一度凶器を構える少年と母親との間に、駆けつけた小鳥がその身を躍らせる。

「ダメ、やめてー!」

 息を詰めた。何故か覚悟していたような衝撃はなく、その代わりに何か冷たい感触がサラリと小鳥の頬を撫でた。

「……?」

 固く閉じていた目を開ける。自分を庇うように覆い被さった影がある。頬にあたる真っ直ぐな長い黒髪。

「……全く、貴女ときたら、ムチャクチャだ。 ……死にたいんですか?」

 貴女に万一の事があったら、私は何と言って刑事に詫びれば良いのです?

 笑った気配がした。こんな時にまで、憎たらしいほどいつも通りの、斜に構えたその口調。

「あ……」

 ゆっくりと頽れる長身。その脇腹に突き刺さった刃物。血が流れる。

「そんな……嘘でしょ? こんなこと……」

 嘘、嘘だ。嘘だって言ってよ。

「朱里さん!」



 母親と朱里が倒れている。その横で、放心したように立ちつくすエドワードと、ひざまずく小鳥。床にはおびただしい血が点々と。

 窓から見える太陽が急に明るさを取り戻した。不吉な色に空を染めた日食が今、終わろうとしていた。


■■7


 ジジ、ジジ……と微かな音が聞こえてくる。ひどく小さな音だ。高くなったり、低くなったり……何だろう?


 妙に重く感じる目蓋を開くと、そこに二つの『蒼』があった。

 見知った色だ。切なささえ感じるような、とても深い蒼の瞳。

 綺麗な色だ、と思う。初めて目にした日からずっと魅せられ続けてきたそれが、涙に濡れて曇っている。心が痛んだ。

「……どうなさいました? 怖い夢でもみましたか? ……ホットミルクを召し上がりますか?」

 掠れ気味の声でそう訊ねると、少年が顔を大きく歪ませて肩口に顔を埋めてきた。小さく謝罪の言葉を繰り返す。

「……? 何を謝っておいでです?」

 小刻みに震えるその頭を撫でてやろうと手を上げて。自分の腕から伸びる点滴の細いチューブに気が付いた。じっと見る。何か判然としない、と言う風に白い天井を見上げ、次いで緩慢な動作で辺りを見回す。白野の背後にダグラスと小鳥の姿を見とめて。朱里はそこでゆっくりと一つ瞬きをした。

 まるでずっと泣いてでもいたように赤く目を腫らせた小鳥。その肩を抱いているダグラスの顔はしかめ面だ。


「ああ……」

 吐息のように、「そうか」と呟く。上げたままだった手を、そっと白野の頭に載せた。栗色の髪が指に絡む。

「……状況を説明して頂けますか、刑事? 記憶がかなり飛び飛びで」

 朱里がベッドの中からそう訊ねた。

 ここは病院。あの日食のあった日から既に丸一日経っている、とダグラスが告げる。


「お前、刺されて死に損なったんだよ。坊やも小鳥も、一睡もしないでずっとお前に付き添ってた」

「小鳥さん……怪我は?」

「わたしは平気」

 男が安堵の息を吐く。

「貴女を巻き込んでしまって、すみませんでした。許して下さい」

 言われて、小鳥が首を振った。もう一度強く。涙が溢れる。


 朱里はゆっくりと上を見る。白い無機質な病院の天井。同じく無味乾燥なデザインの実用本位な照明に、一匹の羽虫がとまっている。それが、ジジ、ジジ……と微かな羽音を震わすのを、見るともなしに目で追った。白野の髪をゆったりとした手つきで撫でてやる。

 ジジ、ジジ……と鳴く羽虫の音に、刹那の光景が甦る。

 広い室内。高い天井。大きな窓に映る禍々しい三日月は黒く歪んで。

 ……そして、横たわる血まみれの影。


 結局、白野様の絵のままにあの母親は刺されてしまった。やはり、どれほど足掻いたところでこの運命は変えられなかった。……空しい真似をしたものだ。

「ダグラス刑事も。……無理に巻き込んで、無駄にあなた方を苦しめてしまいましたね」

 すみません、と目を伏せる。ジジ、ジジ……と羽虫の音。


「……いいえ」

 短い沈黙を破ったのは、小鳥だった。

「いいえ 無駄じゃ無かったわ」

「え?」

 朱里が低く問い返した。小鳥の言葉をダグラスが引き取る。

「生きてるよ。母親。切りつけられはしたが、お前ほど重症じゃない」

 言葉の意味が飲み込めず、未だ不明瞭な顔つきの男のために、もう一度、ゆっくりと繰り返してやる。

「……いいか? 男爵夫人は死ななかった。坊やの絵は間違ったんだ」


 不意に。朱里が手の平で顔を覆った。

 その頬を伝った何かについては、言及しないでおいてやろう、とダグラスは思う。男同士のオフレコだ。こいつには万宿万飯の恩義って奴があるからな。


 今日の所はもう帰る。まあ、ゆっくり養生しろ、というダグラスの言葉を汐に、小鳥が立ち上がった。白野も少し遅れて立ち上がる。

「……白野様」

 それを朱里が呼び止めた。

「少しだけ、ここに残って下さいませんか」


 ダグラスが訳知り顔に頷いた。

「じゃあ、俺達はロビーで待ってるから。話は手短かにしておけよ」

 長話は疲れるからな。腹に穴が開いてるんだ。医者の言うことは聞いておけ。

「すみません」

 小鳥を促して部屋を出て行く。



 二人になった。所在なげに立ったままの少年に、椅子を促す。

 そして、ゆっくりと語り出す。

「貴方様が分からないと仰るのなら、それでも良いんです。私にだって、幸せの何たるかなど、きっと生涯分かりはしない。私たちは神じゃない。分かる筈がないんです」

「……」

「私がそれを知りたくて、ただその為に館に留まっていると。 ……そうお考えですか?」

 否定の意味で巻き毛が振られた。朱里がゆっくりと瞬きをする。手を軽く組んで上を見つめる。


「白野様、貴方は思い違いをしていらっしゃいます。私が昔、逃げ出したのは、貴方が怖かったからじゃない。私は私自身が怖かったんです」

 あの時、私は貴方を殺そうと思った。もうそれしかないと。それが貴方の為だと、そう思いました。そして、それをして差し上げられるのは私しか居ないのだ、とも……

「朱里……」

 あの日、落ち葉の舞い散るテラスで、白野を殺す自分自身の幻を見た。激しい陶酔感があった。甘美な夢に酔いしれた。同時に、その恐ろしさと背徳に心が震えた。私は、私が怖かった。


「あの男爵親子の絵を見た時、私にはあれが自分の姿に見えました」

 私とあの母親は似ています。白野様とあの少年が似ているように。ですから、あの絵は白野様の願望かと思いました。これが貴方の幸せかも……と。

 すみません。私こそが最も貴方を苦しめた。

「すみま……」

「そんなこと……!」

 男の言葉を少年が遮る。

「そんなこと、ある筈ないよ。だって、僕は……」

 お前が僕の執事でいてくれて、ずっと傍にいてくれて。

「僕は、ずっと幸せだった」

 だからこそ。それを失うことだけが。もういっそ、自分で壊してしまいたいくらいに怖くって。

 ずっとずっと怖くって……


 声を上げて泣きじゃくる少年の頭を撫でてやる。気が付けば、先程の羽虫が居なかった。開けられた窓から巧く逃げ出せたのだろう。今頃は開放の喜びにその羽を震わせているのだろうか。


 日が経って。血色の戻ってきた男の病室に、数人の見舞客が集まっている。


「本当にそれでいいのか、執事?」

「はい」

 起訴はしない、と朱里は言った。このまま立件されなければ、エドワードは未成年だし、貴族階級でもあるので、今回の事件はうやむやに闇から闇に葬られる。それには多分、セント伯爵も尽力を尽くしてくれることだろう。

 人を傷つけた加害者だと、エドワード少年だけを責める気になどなれなかった。その意味で言うなら、母親も朱里も、そして白野も加害者だ。逆にエドワードこそ、一番の被害者であったかもしれない。

「分かった。んじゃ、そういう風に上司には言っとく」

「よろしくお願い致します」


 ノックが鳴らされ、セント老人が入ってきた。どうじゃ、具合は? と、訊いてくる。

「うむ。窶れとってもハンサムじゃな。何やら廊下で看護婦どもが、誰がこの部屋の検温に来るかで揉めておったぞ。看護婦を食い物にしとるのか?」

「人聞きの悪いことを仰って」

 朱里が老人を睨む。冗談じゃ、冗談じゃ、と老人が笑った。

「まあ、そう睨むな。見舞いの品を持ってきたでな」

 供の男に目配せする。大量の本が入った紙袋が差し出された。本を置くと、一礼して退室していく。

「活字中毒のお前さんには、これが一番の土産じゃろうと思うての」

「助かります。禁断症状で手が震えかけていたところです」

 ゲンキンにも、途端に相好を崩した朱里に、一同が笑う。


「ここに来る前に、男爵夫人の病室にも寄ったんじゃが……」

 怪我は大したことはないが、息子に切りつけられた心の傷の方が大きいようでの。しばらくは療養が必要じゃろう。

「ガキの起訴はしないんだとよ」

 そう報告されて、そうか、と老人が頷いた。エドワードは田舎の親戚にでも預けられることになるんじゃろうな。そういう事なら。


「エドワード君は草花の好きな子ですから、それはいいお話しだと思います」

 小鳥が言った。少し落ち着いたら、彼に会いに行きたいが……どうだろう? あの子は会ってくれるかな?


「ところで、小鳥ちゃんや」

「はい?」

「わしの所に来てくれるのはいつ頃になるんじゃろうかの?」

 老人が訊いた。小鳥は現在、朱里の居ない館に留まり、家事一切を賄っている。缶切り一つ巧く使えない白野を一人で館に残しては、確実に飢え死にさせてしまう。当の白野はというと、その事実をきちんと認識しているのかどうか、一人窓際に陣取って、外の景色を写生している。

「何なら朱里の退院まで、白野クンもわしの所に来てくれておっても構わんのじゃが」

 寧ろ、その方がわしは楽しい、と老人が言う。


 突然、小鳥が今にも泣きそうな顔になった。

「あ、あの。伯爵様」

「ん?」

「すみません。今回のお話し、やっぱりお断わりさせて下さい!」

 床に着きそうな程、頭を下げる。

 ごめんなさい、ごめんなさい。今更こんな事言い出すなんて、伯爵様、ごめんなさい。

「わたし、やっぱり伯爵令嬢なんて、そんなガラじゃありません。ホホホって笑うの無理なんです。わたしがわたしじゃなくなっちゃう」


 間があった。老人がガックリと肩を落とす。深い深いため息をつく。

「あぁ、まぁたダメじゃったか……」

「ごめんなさい!」

「まあ、しょうがないのぅ。こうなることは予想しとった。」

 どういうワケか、わしが爵位を譲りたい奴は、みーんな、そーゆーのに興味を抱かない奴ばかりじゃて。

 ……わし、もしかして何か呪われておるんじゃろうか?

 真顔で訝しむ老人に、ダグラスがブハーッと吹き出した。腹を抱えて笑い出す。地上最強の老獪爺いが何を言う。どうせ、既にその白髪頭の中では次の養子縁組の手管でも虎視眈々と思案中に決まっている。2手先、5手先、10手先でもお茶の子だ。何せ、爺いはチェスの名手。同情して油断したらすぐに王手を掛けられる。


「まあ、養子縁組はナシとしても、たまにはわしの仕事の手伝いもしてくれるんじゃろう、小鳥ちゃん?」

「はい、それは勿論です」

「うんうん」

 老人が満足そうに頷いた。



 ……と、言うわけで。

「白野様! 朱里さん!」

 名前を呼ばれて白野が振り向く。朱里も本から顔を上げた。それにピョコンと頭を下げる。

「これからもメイドとして、末永くよろしくお願いします!」

「え……」

 朱里が呆けた顔をした。

「そういう話になるんですか?」

「そういう話になるんです♪」

「えー、そういう話って、こーとーりー!!」

 小鳥に振り向いて貰えないのは美形の雇い主どもの所為だ、と常々快く思っていないダグラスが恨みがましい声を出す。

「ダグラス刑事、そこで何故私を睨むんです? 私の責任なんですか!」

「坊や、物は相談だが……俺さぁ、本格的にお前んちにお引っ越ししちまってもイイか?」

「冗談じゃない!」

「あ、イイなー。わしもお引っ越ししてこようかのー」

「賑やかで楽しそうだよね」

「白野様!」

 朱里が慌てた声を出す。


「やっぱり、ダメですか?」

 小鳥が悲しそうに訊く。しょげかえる。それに、「全く……」と苦笑した。

「【幸福画廊】の事など、もう嫌いになられたものだと思っていましたが、違ったんですか?」

 小鳥は朱里の怪我に責任の一端を感じて、それで暫定的に屋敷に留まっているのだとばかり思っていたので。こちらの方が面食らってしまう。

「私たちが怖くはないんですか?」

「ちーっとも!」

 わたしは【幸福画廊】が怖いんじゃない。画廊の絵が、赤の他人の苦しみまでもみんな抱えてしまうから。わたしたちの魂はこんなにも汚れているのに、それを彼らが許すから。彼らが奇麗すぎるから。あんまり奇麗過ぎるから……だから、二人が怖かったんだ。

 そして、それが分かった以上そんな事で怖がるなんて、バッカみたい。


「あのね、小鳥ちゃん。僕もずっと訊いてみたかったんだけど」

 白野が言う。

「はい?」

「小鳥ちゃんは怒ってないの? 僕のこと」

「へ? どうしてですか?」

「だって、僕が小鳥ちゃんを屋敷に呼んだのは……」

 利用するためだったのに。

「へ? 利用って?」

 小鳥が怪訝な顔つきになる。

「わたしメイドなんですから、利用っていうか、どんどん使って頂かないと、お給金頂きにくいですよぉ」

「え、えーっと……」

 困った。意味が通じない。


 窮する白野に、ダグラスが助け船を出した。

「『玉子が先か、ニワトリが先か』って話なんだよ。要するに」

「えー、そんな難しいこと言われても……。えーっとえーっとぉ」

 うんうん呻る。事件の後、ダグラスから一応の説明と解説を受けてはいたものの、実を言うとこの話、小鳥にはチンプンカンプンだったのである。小鳥の所為で運命の歯車が大きく動いたのだ、などと言われても、ナニ、それ? 新興宗教? としか思えない。ものすごーくマユツバっぽい。

「えーっとえーっと、とにかくですね!」

 小鳥が自分の膝をボコンと叩く。

「そんなコト、どうだってイイんです! わたしやっぱり【幸福画廊】が大好きですもん。第一、玉子だってニワトリだって、どっちもとっても美味しいでしょ?」


 白野の瞳が丸くなった。呆然とつぶやく。

「美味しい、んだ」

「美味しいんですか」

「美味しいのかよ!」

 ダグラスが目を白黒させる。たったその一言で、この深遠なる話題に終止符を打ってしまう気か。それで済ませちまうのか。ポジティブ・シンキングにも程がある。

「……俺、時々思うけど、お前って、つくづく大物だよなぁ~」

 マジで尊敬してしまう。何なんだ、この理不尽なまでの傍若無人な前向きさは。


「ふぉっふぉ、確かにこの世は色んな隠し味が利いておるから、面白いんじゃよな。それを知っとる小鳥ちゃんは、この中で一番の知恵者かもしれんのぅ」

 老人がさも可笑しげに笑った。

 禁断の知恵の実を食べてしまったイヴは、例え楽園を追放されても、その事にクヨクヨしたりしないのである。食べた以上は飲み下して消化して、血にも肉にも変えるのである。アダムのようなへっぴり腰の男なんかとはワケが違う。


「参りました」

「うん。降参」

「俺も、全面的に降伏する」

 男達が揃って小鳥に白旗を揚げた。


■■8


 朱里は坊主嫌いなだけでなく、とんでもなく病院嫌いでもあるらしい。

「せめて、あと一週間」という医者の説得も、看護婦達の縋る涙も意に介さずに、さっさと退院の日取りを決めてしまった。

 まあ、白野坊やの金魚のフンである粘着執事が、坊やと一つ屋根の下でないと落ち着かないというのは当然至極という気もするが。

 白野の方も、「僕、昨日は嬉しくって眠れなかった」なぞと、恥ずかしげもなくにこにこしていて……。相も変わらず、薄気味悪い主従だぜ、付き合いきれん、とダグラスは思う。


「じゃあ、わたし、退院の手続きをして来ますから」

 小鳥が言った。

「んじゃ俺は、そこらで一服してくるわ」

 狭苦しい個室の中で、主従痴話を眺めている程、ヒマじゃない。

「あ、私も行きます」

 さっさと服の着替えも済ませて、帰る気満々の朱里が立ち上がるのを、小鳥の声が一括した。

「朱里さんはまだダメ! おなかに穴が空いてるクセに、煙が漏れたらどうするの!」

 そんなバカな……。いや、もう傷は塞がっていて……

 朱里が小さくゴネるのに、カカカと嘲笑って言ってやった。

「家に戻っても当分は安静にしてろ、って医者に言われてるんだろう?」

 まあ、煙草もまだまだ「おあずけ」だわな。諦めろ。



 プカプカと煙草を吹かし終えて、そろそろ頃合いかと戻ってみると、ちょうど病室から出てきた看護婦と入れ違いになった。処方された内服薬を届けてくれたものらしいが、なにやら赤い顔をしている。ダグラスに会釈するのもそこそこに、ナースセンターの方へと小走りに戻っていく。そして、他の看護婦達とキャーキャー浮き足だった様子で何事か囁き合っている。

「……何だぁ?」

 首を捻りながら、ドアをくぐった。固まった。


 ベッドの端に腰掛けた朱里の長い黒髪を、白野がチマチマチマチマ三つ編みにして遊んでいる。しかも一本編みじゃない。髪の束を幾つにも分けて編んでいるので、かなり斬新な髪型が仕上がりつつある。

「お前ら、ナニやってんだぁ~?」

「ダグラス刑事、良いところへ。助けて下さい」

「朱里、動かないでってば」

 情けない声を出す男に少年が抗議する。


「看護婦共が黄色い声で騒いどるから、何事かと思えば……」

「白野様、いい加減になさって下さい。大体どうしてこういう……」

「だって、ダグラス刑事が、何でも遠慮せずに本音で行け、って言ったから。僕、昔から一回やってみたかったんだよね。これ」

 男の首筋に貼り付いて、少年は真面目な顔で髪を編む。チマチマチマチマ、チマチマチマチマ。もの凄く真剣で。そして、もの凄く楽しそうだ。


「刑事、恨みますよ。白野様に何を吹き込んだんですか?」

「俺が知るか! 俺だって陰険執事の無様な姿なんぞ見たくないわい」

「でも、かわいいよ」

 男達の目が点になる。

「この男にそんな形容をするかー?」

「私も産まれてこの方、『かわいい』扱いは初めてです」

「わ、白野様。ナニ楽しそうなことやっていらっしゃるんですかぁ?」

 小鳥も部屋に戻ってきた。ナースセンターの看護婦さん達がキャーキャー言って喜んでたから、何かあると思ってました。わーい、眼福。

 この光景を『眼福』扱いできる小鳥の脳構造もどうかと思うが、白野の方もやっぱりかなーり、どうかと思う。

「看護婦さん達が喜んでたって。ほら、やっぱり似合うんだよ」

 いや、それは違うって!


 相変わらず、この坊やはやっぱりどこかずれている。朱里はよくもメンドウを見るものだと思うが、まあ、下世話な心配は止めておこう。人の幸せはそれぞれなのだ。


「よぉーし、完成!」

 台所に仁王立ちで、小鳥が高らかに宣言する。今日の夕食は、朱里の退院祝いの宴をやるのだ。セント伯爵も招いてあるので、小鳥はやる気満々で、ものすごく張り切ってご馳走を作った。オードブルもスープもサラダもメインディッシュも、デザートだってバッチリだ。


 伯爵は上物の酒など土産に持参して来ている。

 朱里はまだ飲むのは体に毒じゃよなぁ、白野クンとダグラスとわしとで、見せびらかしながら飲もうなぁ~などと、愉しげに意地悪の算段をしている。ダグラスと顔を見合わせて、キシシと嗤う。


「白野様、お夕食にしますから、朱里さん呼んできて頂けますか?」

「うん」

「ああ、坊や」

 ダグラスが白野を呼び止めた。ポケットから引っ張り出した封筒をホイッと渡す。

「これ、俺からの詫びだ。この前、引っぱたいちまったからな。……執事の退院祝いも兼ねて。良いモンだぜ」

 そう言って、ウインクをしてみせる。

「……?」

 軽く首を傾げながら封の中身を改める。その手の動きが不意に停まった。蒼い瞳がほんの少しだけ見開かれる。

 そのまま俯く少年の頭に、ポンと手が載せられた。

「な? イイだろ?」

 コクンと頷く。

「もっと、欲しいだろ?」

 もう一度。

「じゃあ、行って執事を呼んで来い」

 背中を叩いて送り出す。


「ねぇ、朱里。幸せって何だろう?」

「さあ、私にもよく分かりません」

「じゃあ、いつか幸せが何か分かったら。そうしたら、朱里に幸せの絵、描いてあげるね」

 約束だよ。

 指切りげーんまん!


 肩を揺すられて目を覚ました。夢と同じく目の前に蒼い瞳があって、まだ夢の続きかと思う。

「朱里、寝てた?」

「……ああ、少しうとうとしていました」

 そう言って、軽く顔を擦る。

「小鳥ちゃんが、パーティ始めましょうって?」

「もうそんな時間ですか?」

 顔を洗って、服を変えて、じゃあ、行きましょうか、と言う男を引き留める。

「あ、待って。その前に、ちょっとだけアトリエに寄ってくれる?」

「構いませんが?」

 男が応じる。



 そして。白野に手を引かれて、朱里は一つのカンバスの前に立った。白い布の掛けられたカンバス。二人が遠い昔に約束し、まだ未完成のカンバス。結局このカンバスは、今も変わらず白いままだ。

「……」

 それでも良いのかも知れない。いや、きっとその方が良い。多くのことを望む気はない。今、私は満ち足りている。


「ねぇ、朱里」

 そんな物思いから、澄んだ声が引き戻した。

「はい?」

 蒼い瞳が朱里を見上げる。

「あのね、僕、今度こそ本当に少しだけ分かったって思うんだ」

 何をです? と訊ねようとした男の横で、白野がゴソゴソと封筒を探る。そして、その中から何か紙片を取り出すと、それを布の上からカンバスにピンを使って押し留めた。一枚、更にもう一枚。

「幸せってさ、きっとこういう事だよね?」


 それは、あのカーニバルの折りの写真だった。美しい山車が通るのに歓声を上げている白野。その横には写されるのを嫌がって、仏頂面の朱里が居る。もう一枚には、ダグラスが小鳥にウサギのぬいぐるみで殴られている決定的瞬間が写されていた。それを見ているびっくり目の白野と苦笑顔の朱里。

「……白野様、笑っていらっしゃいますね」

「うん。朱里も、ね」

 写真の中から、パレードの喧噪が聞こえて来る。賑やかな音楽。踊る人。上がる歓声。そして、笑顔。


「このカンバス、いつか写真で一杯に埋まるかな?」

 これが、僕たちの大切なアルバム。

「ああ、それは……」

 男が微笑む。

「とても、幸せな事ですね」


 いつか。たわいのない日常という名のモチーフで、このカンバスが埋められる日を夢想する。白い布地が風に揺らめき、光を弾いてきらめいた。

 二人は、絵のないカンバスをじっと見つめて佇んでいる。


■■エピローグ


「ウッキャアア~、このホイップクリーム、何で、何で塩辛いの~~~っっ!?」

「小鳥。お前、まぁた、塩と砂糖を間違えたのか~!」

「ほっほー、こりゃあ、辛い辛い」

「爺い! てめぇ爺いのクセして血圧に悪そうなモン舐めてんじゃねー!」


 穏やかな静寂を打ち破って。階下から喧噪が響いて来る。

 階段の丁度踊り場で。階下に向かう途中だった白野と朱里は息を合わせたかのようにピタリと歩みを止めてしまった。何となく顔を見合わせて、それから同時にため息をつく。


 私がフルで動けるようになるまで、この館の食糧事情は一体どうなってしまうのだろう? 多少の無理は承知でも、これはやはり、早々に現場復帰を果たさなければ……。

 朱里が、心中密かに悲壮な覚悟を固めているその横で、何故だか白野も珍しく腕組みなどして考え事をしている。そして深刻そうな渋面を作り、声を密めるとこう言った。

「あのね、朱里。小鳥ちゃんには内緒だけど……」

「はい?」

 背伸びをしてこっそりと耳打ちしてくる少年に合わせ、長身がほんの少しだけ傾けられる。その耳元に、そっと本音が告白された。


「この世で一番知るのが怖い事ってさ、小鳥ちゃんの料理の出来映えじゃないかと思わない?」

 それに。男が吹き出した。傷に響くと言いながら、それでも笑いが止まらない。腹を押さえて、痛い、痛いとヒクヒク痙攣しつつ、呼吸の合間に「ですが」と言う。


「……それが一番怖い現実だとしたら、この世は怖れるに足りませんね」

「うん。だよね」

 そして、笑顔。それを見る男の笑みも深くなる。




 【幸福画廊】

 その画廊の絵を見ると、人は幸せになるのだと言う。

 これまでに味わったことのないような幸福感を得るのだと言う。

 その絵を手に入れる為に世の金持達はこぞって大金を積むのだと言う。

 全財産を叩いても、惜しくないほどの幸福がその絵の中にはあるのだと言う。



 【幸福画廊】


 そこは不可思議な人生の一瞬が描かれるところ……。

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