第三章(5)

 僕と高瀬さんは屋上で話し合った後、すぐ帰宅することにした。帰路では高瀬さんがイギリスで生活していた頃のことを話してくれた。その途中、喫茶店に目が行った。本当に何も意識せず、何となく視線がそこに向いた。そして、その視線がテーブル席に座る津島さんを捉えた。


「ねえ、堤君……」


 高瀬さんも津島さんに気付いたようだ。一方津島さんは俯いているだけで、目の前にあるカップに触れようとせず、僕達に気付く様子はない。


「僕、今から津島さんと話をしに行くけど、高瀬さんはどうする?」


 さっき高瀬さんのありのままを聞けたように、今なら津島さんのありのままも聞けるような気がする。それに、辛そうな津島さんを放っておくことなんてできない。


「そんな……堤君……」


 彼女は僕の袖を引っ張ってこのまま帰路を進むことを促す。僕が津島さんに会うことすら許せないのだろう。むくれているのかと思って高瀬さんの顔を見てみたが、実際は寂しそうな面持ちをしていた。


「ごめん。今、必要なことだと思うんだ。僕にとっても津島さんにとっても……それから、高瀬さんにとっても」


 高瀬さんの為にも、僕は津島さんと話しておくべきだと思う。津島さんが高瀬さんを嫌っている理由、津島さんの奥底にある苦悩を知るには今が最高の機会だと思う。


「分かったよ。でも、あたしは帰る。……またね」

「うん。また」


 高瀬さんは袖から手を放して、駅の方へ去っていった。出来れば高瀬さんにも来て欲しかったところだが、必要というわけではない。それに彼女には心の整理が必要だろう。

 さて、僕は僕がするべきことをしよう。喫茶店に入り、津島さんの席に向かう。もう少しで着くというあたりで津島さんが僕に気付いた。


「津島さん、ここいい?」


 僕は津島さんの向かい側にある席に触れ、津島さんの返答を待つ。


「ええ、構わないわ。……けど、どうしてここに? 高瀬さんはどうしたの?」


 許しを得たので、僕は席に着いた。


「津島さんが見えたから。高瀬さんはここに来るまで一緒だったけど、もう帰ったよ」

「そう」さっきから津島さんは俯いたままで、僕の方を見ない。きっと、高瀬さんと口喧嘩した後なので気落ちしているのだろう。それに、僕はその口喧嘩の目撃者だ。その僕と話すこと自体に気まずさを感じるのも分かる。

 そんなことを考えている間に、店員がお冷とおしぼりを持って来てくれた。注文はまだ決めていないので、店員には一旦戻ってもらうことにした。


「好きなものを頼みなさい。今日見苦しいところを見せたから、お詫びに奢るわ」

「いいや、そういうのは津島さんが楽しい気持ちでいる時がいい。それに僕は今日のことをあまり気にしてないから、僕に対しては謝らなくてもいい」

「そうね。それより、高瀬さんに謝らないといけないものね……」


 そう。津島さんが謝るべきなのは高瀬さんの方だ。


「あの後、高瀬さんは私のことで何か言っていたかしら?」

「まあ、津島さんの反応は普通だって」

「そう……。あれを普通で済ませてくれるのね……」


 津島さんは幽霊に対する自分の反応は異常だと思っていたということか――。


「高瀬さんには高瀬さんなりの考え方があるみたいだから。それより僕は、津島さんが無闇に幽霊を否定しているように見えたけど……間違いない?」

「ええそうね。幽霊に対する抵抗だけで高瀬さんを非難してしまったようなものね……」


 そこでようやく、津島さんが顔を上げて僕と視線を合わせた。


「それにしてもはっきり言ってくれるものね。堤君は……」

「悪かった?」


 そう訊くと、津島さんが微笑んだ。


「いいえ。気休めを言われるよりも、はっきりと責めてくれた方がいいわ」


 高瀬さんを理不尽に責めた自分を責めてほしかったのだろう。しかし最初から悪いと思っていたのなら、あそこまで高瀬さんを挑発することはなかったはずだ。つまり、あのやり取りの中で津島さんに反省を促す契機があった。


「高瀬さん……、あなたと同じことを言っていたわね」


 自分を嘲笑うかのような津島さんの微笑みに対して、僕は津島さんを慰められるような優しい微笑みを返した。多分、上手く笑えていないだろうが――。


「似ていたけど、少し違う。高瀬さんは、嫌うなら嫌うために関心を持て、と言っていたけど、僕は別に関心がなくても嫌うのはいいと思っている。例えば、僕は春日さんに言ったよね。関心がなくても好きになることは仕方ないことだって」


 僕は好悪の感情と関心の有無は全く別のものとして考えていて、高瀬さんは双方を結びつけている。しかし、僕と高瀬さんの考え方には共通する部分がある。


「けど、高瀬さんの言い分なら分かる。つまり、幽霊を嫌うなら、幽霊の存在を肯定する人間と戦うなら、関心という誠意を見せろということだ」


 高瀬さんには、津島さんが終始幽霊に対する無関心を貫いていたように見えたのだろう。しかし無関心のままでは幽霊を嫌うことはできても、幽霊を否定することはできても、幽霊と戦うことはできない。幽霊と同じステージに立っていない。


「だから、高瀬さんは津島さんのこと『逃げてるだけ』って言ったんじゃないかな」


 津島さんが逃げていることが、高瀬さんには許せなかった。許せないのは心霊主義者の性質なのかもしれない。何度も幽霊に携わってきた人間として、ただ幽霊が否定されることに耐えられなかったのだろう。


「そうね。高瀬さんの言ったことは正論よ。けど……」


 津島さんの表情が切なさで歪む。抗うことができずに諦めたような悲愴感が浮かぶ。


「堤君。わたし、あなたに言ったわよね。信じていることがその人にとっての全てだ、って。それは春日さんが白川さんを美化していることもそうだし、私が幽霊を否定していることもそう。弱者はね、時に真実から逃げないといけないこともあるの。例えば極端な話、心の病が幽霊の所為でした、なんて言われたらどうすればいいと思う。そんな馬鹿げたことが現実に起こったら、私は何もできない。いえ、ほとんどの人は何もできないわ。そんなこと私は認めたくない。認めてしまったら、それを信じてしまったら、私は何もできなくなるのよ。そんなの嫌だわ」


 その真実は自分の無力さという傷になる。津島さんが言っていることは分かる。今の春日さんの状態も分かっている。自分が信じていることが真実と異なることに耐えられないことは分かり切っている。僕は思い切って訊いてみた。


「もしかしたらだけど、以前に似たようなことがあったの?」


 その瞬間、津島さんの眼が大きく見開かれた。そしてすぐに瞼を少し下ろす。


「そうよ。けど、ごめんなさい……。今その話はしたくないわ……」


 その時、津島さんは無力だったのだろう。詳細にとても興味があるのだが、津島さんが嫌だと言うのなら自重しておく。その内、彼女から話してくれることを願おう。


「僕こそ余計なことを言ってごめん。話を戻すよ。確かに君の言う通りかもしれない。その真実がどうでもいいと思っている場合は。それは逃げてもいいと思う。でも、春日さんは姉さんのこと……白川一魅のことね……彼女のことを知りたいと思っているなら、真実に目を向ける義務があると思う」

「そうね……それは分かるわ……。私だってそう思っているわ……。けど……」


 僕が言ったことは所詮詭弁なのかもしれない。けど僕は、自分が思っていることを言っているだけだ。津島さんも今はそうしているはずだ。


「やっぱり納得いかない? 理解が足りないのは僕の方かもしれない。でも、こうして自分が思っていることをありのままに話したかった。津島さんとそうしたかった。それは分かってくれる?」

「それは……勿論……」


 結局意見は合わなかった。しかし、意見を出せたことは有意義だったと思う。


「話が行き詰ったところで、ちょっと休憩にしよう。ごめんね、勝手に来て、気を遣わせちゃって。コーヒー冷めているかな……」


 津島さんの目の前に置かれているのは小さなカップだ。中身はまだ半分くらい残っているが、湯気は昇っているわけがない。


「謝らなくていいわ。堤君が来る前から結構放っておいたし……。それに冷めても美味しいものここのコーヒー。それより、そろそろ何か頼んだらどうかしら?」

「そうする」


 僕はメニューを開いて、その中からアイスコーヒーを選び、それを注文した。そしてしばらく会話を中断して、コーヒーを飲むことにした。津島さんは残りのコーヒーを少しずつ、行儀よく飲んでいた。僕も運ばれたコーヒーをゆっくりと口にした。

 黙っている間に問題を整理しよう。ここに来た目的、津島さんが高瀬さんを嫌っている理由と津島さんの悩みを知ることは概ね達成されたとみていいだろう。とはいえ津島さんの奥底にはまだ大きな苦悩があるようだが、今のところは現在直面している問題に関連することが聞けたのでよしとする。

 さて、ここからどうしよう。僕は津島さんの力になりたい。これほど興味深い人だ。彼女の悩みが解決できるものならそうしたい。そして、より仲を深めたい。僕はそれが出来ているだろうか。いや、まだ出来ていないだろう。さっきの議論にしたって、僕は自分が思っていることをそのまま口にしただけで、津島さんの考えは二の次にした。それが決して悪いことだとは思っていない。むしろ津島さんの為になると思って発言したまでのことだ。しかし本当に津島さんの為になったかどうかは分からない。


「ねえ、津島さん。高瀬さんのことどう思う?」


 とにかく自分の思いを口にするだけではいけない。津島さんのことをもっと理解するように努めるべきだ。これはそのための質問だ。


「そうね。口喧嘩しか碌にしていないから、かなり主観が入ると思うけど……、とても強い人だと思うわ。幽霊に関して確固たる信念を持っているわね。幽霊の話をする時だけ目の色と発言力が違うもの。意外だったのは幽霊に関して論理的に話していたことね。幽霊を信じる人ってもっと理屈を無視するものとばかり思っていたわ。それと、あの言葉をちゃんと覚えているわ。『真実は――人よりも高みにある』だったわね。彼女はその高みをひたすら真っ直ぐ突き進んでいるように感じる。きっと、私のようなただ人を助けたいだけの素人と違って、幽霊に関しては経験が豊富なのでしょうね。私のような人間だって何回も相手にしたに違いないわ。私なんかと意識がまるで違うもの……」


 僕は茫然としてしまった。津島さんって実は俗にいうツンデレなのではないだろうか。


「津島さんってもしかしたら、高瀬さんに対してものすごく興味持ってない?」

「えっ?」今は結構真面目な話をしているので、津島さんの可愛さを表現するのは控えよう。津島さんは高瀬さんへの関心を自覚していなかったようだ。


「どうして……そうなるのかしら……?」

「今まで僕が高瀬さんの話を聞いて、高瀬さんから感じた彼女の人物像を考えるに、津島さんが今言ったことと一致する。ということは、津島さんは高瀬さんに関心を持っていたということだ。でないと、高瀬さんのことをここまで言えない」


 僕が答えると、津島さんが大きな溜息をついた。


「そうね。これが、嫌いだけど関心がある、ということかしらね。だから、あれだけ噛みついたのかしらね。まったく、自分で自分をおかしく思うわ」

「いいんじゃないかな。今の津島さん、すごくいいと思う」


 津島さんは恥ずかしそうに目を逸らしてしまった。


「そう、ありがとう」


 それから、彼女は僕を見据えた。真っ直ぐな強い視線が僕の瞳孔に突き刺さった。何だか、高瀬さんを相手にしているような気分だ。


「あなたのお蔭で自分がすべきことが分かったわ。あの子の言う真実とやらを聞いてみようと思うの。それが私の義務だと思うから……」


 そうか。それはとてもいいことだ。僕は満面の笑顔を浮かべて答えてあげた。


「ありがとう」

「ええ。それと、春日さんのことも覚悟を決めようと思うの。やっぱり、無理をして真実を伝えるのは駄目だけど、それでも徐々に受け入れてもらえるようにしようというのは最初から考えていたわ。でも、まだ覚悟が足りなかったみたいね」


 それは姉さんの為にもなる。津島さんが僕の考えを受け入れてくれてとても嬉しい。


「うん。分かった。ありがとう」


 もう一度笑顔でお礼を言うと、津島さんも屈託のない笑顔を返してくれた。


「こちらこそ、お礼を言うわ。ありがとう」

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