なごり桜

陽澄すずめ

なごり桜

 ファインダー越しに見る風景は、記憶にあるのとそっくり同じだった。

 校庭を縁取るように植えられた桜の木を順になぞって、ゆっくりとカメラを動かす。時折あたたかいそよ風が吹き、はらはらと花びらが散る。満開の一歩手前の桜は、ちょうど今が見ごろだ。

 おそらくどのアングルで撮影しても、きっと見事な写真が撮れるだろう。しかしシャッターボタンに載せた僕の人差し指は、先ほどからずっと切り取るべき画を捉えられずにいる。

 披露宴の演出で使いたいから出身校の風景を撮ってきて、と彼女から渡された一眼レフは、僕の小型のデジカメよりもずっと重い。カメラを構えたまま懐かしい高校の校庭を見回すうちに、腕がしんどくなってくる。

 僕は一つ息をつき、カメラを下ろす。解放された目を春風がかすめ、レンズを通してあれほどはっきり見えていた桜の姿はたちまち滲んでいく。少し下がっていたマスクを鼻の上まで引き上げる。花粉症がひどくなるから、本当は早く撮影を終えなければいけないのだけど。

 桜が有名な僕の母校は、どうやら明日が入学式のようだ。校門の門柱に「入学式」と書かれた看板が立て掛けられていた。式の準備は午前中で終わったらしく、校舎にも体育館にもあまり人の気配はない。

 僕がこの高校に入学したのは、もう十五年も前のことだ。校庭を彩る桜を、よく教室の窓から眺めていた。出席番号で割り当てられた窓際のいちばん後ろの席で、春の日差しにぼんやりしながら。

 ふと、服の袖に花びらが一枚ついているのに気付く。それはよく見ると、ピンクというより白に近い色をしている。汚れ一つない、抜けるような白。

 記憶と照らし合わせながら辺りを見渡していると、校舎の昇降口が開いているのが目に留まる。それほど長居をするつもりはなかったのだけれど、気付けば僕の足はそこへと向かっている。少しだけ、校舎の中も見たくなったのだ。


 ■ ■ ■


 退屈な世界史の授業を聞き流しながら、僕はぼんやりと窓の外を見ていた。ゆったりとしたテンポで紡がれる小田じいの声は、さながら子守歌だ。古びた机が日差しであたためられ、ぽかぽかと気持ちの良い日だった。校庭の端では、整列した桜が風の吹くごとに花びらを散らしていた。

 いちばん後ろの席とはいえあまり大っぴらによそ見をするのもまずいので、僕は時おり前を向いて板書をノートに書き写し、ちゃんと小田じいの話を聞いているふりをした。でも校庭に向けていた目を黒板へと移すたび、外の明るさから急に視界が暗くなり、さらに眠気を誘われたのだった。

 そんなふうに不真面目に授業を受けていたせいか、僕はうっかり板書を写し間違えてしまった。いつものようにペンケースを探って――そこで初めて、消しゴムを忘れたことに気が付いた。一限目のことだった。

 僕は少し迷ってから、隣の席の女子に話しかけた。

「ごめん、消しゴム貸して」

 うちの高校の購買は、昼休みに近所のパン屋がパンを売りに来るだけで、文房具なんて売っていなかった。今日一日、書き損じのたびにこうして借りなければならないのか。そう思うと、ちょっと億劫になった。

 その子は僕の机の上をちらと見てから、自分のノートの上に置いていた消しゴムを手に取った。続いてどういうわけかペンケースから定規を取り出し、消しゴムのケースを外した。そして丁寧な手つきで、定規で消しゴムを二つに切り分けたのだった。

「あげる」

 そうして差し出された一片を、僕は呆気に取られたまま受け取った。どうにか礼を言うと、その子はふわりと淡く微笑んだ。長い髪が揺れ、セーラーの白襟から滑り落ちた。

 それが君と交わした最初の会話だった。

 君とは二年のときも同じクラスだったのだけれど、物静かであまり目立たないタイプという印象しかなかった。昼休みにはクラスの中でも大人しい子たちと一緒に昼食をとっているところを目にしたが、授業の合間の休み時間には一人で文庫本を読んでいることも多かった。僕とて積極的に女子と喋るタイプではなかったので、それまで僕たちの間に交流はなかった。

 もらった消しゴムは使われていない方だったらしく、どの角も真っ白でぴんとしていた。断面は滑らかで、迷いがなかった。僕のために、新しく作られた切り口。

 僕は書き間違えた一文字をさっと消して、消しゴムをペンケースの底に大切にしまった。これを汚したくない。そう思ったのだ。

 この日は、それ以上に書き間違いをしないよう気を付けながら、授業を受けたのだった。


 □ □ □


 昇降口は、新入生を迎えるためか、砂が払われてきれいに清掃されている。しかし上履きと埃の混ざった独特の匂いがして、思わず胸がざわつく。

 外の明るさに対して、校舎の中はずいぶん薄暗い。目が慣れるにつれ、高校生のころにタイムスリップしたかのような錯覚に陥る。

 整然と並んだ下足箱。傷の付いたすのこ。昔と少しも変わっていない。制服を着たクラスメイトたちが今にも僕を追い越していきそうな――そんな気さえするほどに。

 あのころの僕は、大人になった自分なんて思い描くことすらできなかった。定期的にやってくるテストのために数学の公式や英語の構文を覚え、やがて来る大学入試の心配をしながらも、迫田や高野と下らないことで騒ぐ毎日。未来のことなんて――卒業より先のことなんて、想像もつかなかった。

 最後に彼らに会ったのは半年前だ。結婚の報告がてら飲みに誘ったのだが、当然ながら二人とも高校時代より老けていた。そういう僕自身も腹回りに無駄な脂肪が増えた。おっさんになったな、などと言い合いながら、それでも高校生のころと同じように騒いだ。レモンサイダーのペットボトルがビールジョッキに変わっただけだ。

 靴を脱いで、薄暗い廊下を進む。靴下を通して、足の裏がじわじわ冷やされていく。ひたひたという僕の足音以外は何も聞こえない。廊下はこんなに長かっただろうか。

 やがて校舎の端の購買に行き着く。ここのクリームパンが人気で、僕もよく買いに来ていた。早く行かないと売り切れてしまうため、四限の終了と同時にスタートダッシュを切ったりしたものだ。

 高校の昼休みに購買の前にできていたような人だかりを、僕は最近経験していない。人を掻き分けてでも何かを手に入れたいと思うことが、大人になってからめっきり少なくなった。あのころ僕を突き動かしていた情熱は、いったいどこへ行ってしまったのだろう。

 僕は手にした一眼レフを購買のカウンターに向ける。シャッターを切ろうか迷って、結局やめる。

 空っぽの棚なんて、寂しいだけだ。


 ■ ■ ■


 委員長の号令が終わるか終わらないかのうちに、僕は教室を飛び出した。チャイムはまだ鳴り続けていた。でもクリームパンを手に入れるには、このタイミングでないと間に合わないことだってあるのだ。

 階段を一段飛ばしで駆け下りて購買に辿り着くと、さすがにまだ僕以外の生徒は見当たらなかった。でもあと数分もしないうちに人だかりができることだろう。

 僕は無事にクリームパンを二個買って、来た道を戻った。一つは自分の分だが、もう一つは間近に迫った定期考査のために必要なものだ。

 教室では既に迫田と高野が机を移動させて、弁当を食べ始めていた。

「おかえりー」

「お疲れー」

 僕は席に着き、自分の弁当を広げるより先に、戦利品の一つを高野に差し出した。

「ブツを入手してきました」

「おぉ、ご苦労」

 代わりに世界史のノートを受け取った。実はこの前の授業中につい居眠りをしてしまい、気付いたときには板書がすっかり消されていたのだ。頭の良い高野のノートなら、僕が真面目に書き写したノートよりもよほど見やすいだろう。クリームパン一つで見せてもらえるなら安いものだと思った。

「お前なー、テストが迫ってんのに授業中寝るなよな。いくら入試に関係ない科目とはいえさ」

「いや、だってさ、小田じいの声眠くなんない?」

 そう言えば、僕が君から消しゴムをもらったのも、小田じいの授業だった。

「とか何とか言って、ほんとは授業中に誰かさんばっかり見てるんじゃないの?」

 迫田がにやにやしながら言うので、僕は心臓が跳ね上がった。

「ばっ……! 違うって、今回のはほんとに居眠りだって!」

 思ったよりも大きい声が出た。僕は慌てて、君のいるグループを振り返った。君は特に気付いた様子もなく、僕に背を向けて食事を続けていた。その髪はまっすぐ襟の上に掛かっていて、そこからわずかでも動いた形跡はなかった。

 僕はほっとした。でも同時に、がっかりした。

「わかりやすいやつだなー」

 高野のあきれ顔。僕は何も言い返せず、クリームパンをちまちまと齧った。

 いったいどうすれば、君の視界に入ることができるのだろうか。


 □ □ □


 午後の光が差し込む教室は、電気がついていなくても明るい。窓際のいちばん後ろの席に座り、机にそっと手を置く。日差しが当たってとてもあたたかい。

 この席からは、教室じゅうが見渡せる。真面目にノートを取る高野、こくこくと船を漕ぐ迫田、そして隣の席の――。

 ふわりと甘いような、木の匂いがする。机の匂いだろうか。当時は意識していなかったが、毎日この匂いに包まれていたのだ。少し胸が苦しい感じがするのはなぜだろうか。

 僕はいったい何をしているんだ。こんなところまで勝手に入り込んで、誰かに見咎められたら何と言い訳すればいいのか。しかもこのマスク姿では、どう見たって不審者だ。いくら人気がなくても、昇降口が開いているので職員室には教員がいるはずだ。見つかる前に立ち去るべきだ。

 そうは思っても、なかなか席を立つことができない。窓の外へと目をやる。桜の木が見覚えのあるレイアウトで並んでいる。僕は思わずカメラを向けて――やはり、やめる。

 僕は本当に、何をしているんだろう。一つ息をついて、ようやく腰を上げる。

 足音を立てないよう、来た道を戻る。教室の扉のくすんだベージュ、廊下に落ちた窓の影、階段の踊り場の傷。ファインダーを覗いては、すぐにカメラを下ろす。

 どれもこれもが、こんなにも変わらない。ただ、昇降口のたたきに揃えて脱いだ僕のスニーカーだけが、十数年の時の経過を教えている。

 少し冷えた靴に足を通す。コンクリートの地面に爪先を打つ音が、やけに大きく響く。顔を持ち上げ、外へ出る。

 その瞬間、正面から突風が吹きつけてきて、いくつかの花びらが僕に向かって飛んでくる。

 白い視界に舞い込む、桜の花びら――。

 心臓が大きく脈を打ち、一瞬、時間が止まる。

 そうだ、これに似た光景を、あのとき僕は見た。


 ■ ■ ■


 卒業式の朝は、身に沁みるほどの寒さだった。空はどんよりした雲で覆われて、まるで冬に逆戻りしたかのような一日だった。

 冷え切った体育館はぴんと空気が張りつめていて、どこか知らない場所に思えた。おかげで、卒業証書授与で名前を呼ばれたときに、ちょっと上ずった声で返事をしてしまった。そのときの自分の声がおかしな響きとなって、式の最後まで耳の中に残っていた。

 高校生活最後のホームルームが終わり、僕は迫田や高野と連れ立って校庭へ出た。

 そこで驚いた。外は――雪がちらついていたのだ。

「うわぁ、なごり雪だね」

 不意にそんな君の声が聞こえた。どきりとして振り向くと、君がクラスの女子たちと一緒に僕を追い抜いていくところだった。

 なごり雪。何となく、頭の中で繰り返した。

 君は僕に背を向けて、友人たちと写真を撮っていた。

 見慣れた君の後ろ姿。皺一つない白襟に掛かった、まっすぐの長い髪。その髪の上に、花びらのような粉雪がふわりと舞い降りるのを見た。

「声、掛けなよ」

 隣に立った迫田が、僕を肘でつついた。高野も同意するように頷いた。

 卒業式なのだから、一緒に写真を撮るぐらいなら不自然ではないはずだ。そう思うや心臓がきゅっと小さくなった感じがして、自然に背筋が伸びた。僕はインスタントカメラを握り締め、一つ息をつき、君の背中に目を戻した。

 すると先ほど君の髪を飾っていた雪は、もう、融けて跡形もなくなっていた。

 その瞬間、唐突に理解した。

 授業中に窓の外を眺める。

 購買でパンを買う。

 休み時間に迫田や高野とふざけ合う。

 ことあるごとに君の存在を意識する。

--これらの全ては、もう二度と戻らない過去になったのだ。

 何の変哲もない、でもここにしかない、高校生だった日々。教室の匂いや、君に焦がしたこの胸の痛みまでも、そっくりそのまま心の奥底に焼き付けて、大切にしまっておきたい。余計なことをして、万が一でも惨めに汚したくはない。ちょうど、あの消しゴムみたいに。

 そう思ったら、ただの一歩も動けなくなってしまった。

 僕は代わりに、カメラを空へと向けた。真っ白の視界に、去りゆく季節の忘れ物が、行き場をなくしたようにふわりふわりと漂っていた。


 □ □ □


 大きなくしゃみを、二つ、三つ。花びらを運んできた春風が、僕の鼻先をかすめていく。

 君は元気だろうか。

 試しに、三十歳になった姿を想像してみる。でも、ちっとも上手くいかない。いつまで経っても君は、セーラー服の少女のままだ。

 君が最後に立っていたのは、確かあの桜の木の辺りだった。

 僕は再びカメラを構える。

 ファインダーの奥で舞い散る桜吹雪の中に、あの日の君がいる。

 その背中を、決して振り向くことのない背中を、ようやく捉えてシャッターを切る。

 あたたかい風が吹く。くしゃみをまた一つ。滲んだ視界では、桜が何ごともなかったかのように花びらを散らしている。

 僕はこの先、何度立ち止まるのだろうか。

 何度、過ぎた日の残像を確かめたくなるのだろうか。

 顔を上げて、一歩を踏み出す。僕を追い越していく一片の花びらが、午後の光の中に融けて消えていった。



―了―

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