吉凶の兆し

中層の広い空間ではごくまれに雨が降る。人為的なものでも、まして設備の不良でもない。人間から排出された熱気が天井で冷やされて雲ができ、雨となって落ちてくるのだ。まだ地上の空が抜けるような青色であったころの清浄な雨と同じ原理で降るそれはしかし、地底の住人から凶兆として扱われている。

当然だ。空は病み、闇に閉ざされた地上の雨は止まない。


ミナバは飛び起きた。肌の上を滑り落ちていく玉のような汗は、ミナバに上層で暮らしていたころの記憶を想起させた。

ミナバ・モトガミは演奏屋だった。上層で楽器を弾き、その対価を得る。陽光の下、乾いた風を受けながら演奏を続けるのは並大抵のことではない。並大抵のことではないのだ。強すぎる太陽ランプの下で何時間も熱い風に晒され、演奏会では脱水症状や日射病によりたびたび死人が出る。

乾燥機の唸りはとどまるところを知らない。人々の晴天への渇望は、既に歪な欲望へと成り代わってしまっていた。

中層、アッパー階級もあつまる教会前で行われた式典の日。年に一度あるかないかの晴れ舞台、じっとりと滲む汗が揮発せず、人だかりの中、熱中症で彼は倒れた。気温も湿度も上がるばかり、教会付近に設置されていた大型の乾燥機のうちの一台がいつのまにか壊れていたことをを彼らは知る由もない。そのまま何もなければ死んだ彼の体は今頃乾燥機でミイラにされ、魂は女神のもとにいたことだろう。しかしそうはならなかった。

そうならなかったのは単に雨が降ったためだ。ぽつりと地面に跡を残す水滴は人々をパニックに陥れた。誰もかれも恐れ、逃げまどい、倒れていたミナバだけが広場に残された。ミナバだけが? 否、他にもう一人誰かいたのだ。雨を恐れずその場に残った、見知らぬ誰かが。ニカイドウではなかった、それだけは確かだ。

そいつはミナバの口に何かを流し込み、冷たい漿液で喉奥へと押し流した。恐らくそれは水だった。誰か知らないそいつは、どこからか液体の水を持ち込みミナバを助けたのだ。

意識が戻ったときには誰もいなかった。ミナバは動けるようになってすぐ、根城へ帰り、身を隠した。神聖なる陽光に倒れ、雨に降られたことを知られれば迷信深い上層の人間たちからどんな扱いを受けるかを、上へたびたび通っていたミナバはよく知っていた。

そうしてミナバは雨に溶ける綿菓子のように表舞台から消えた。


それからのミナバは雨に閉ざされた町の中で、ニカイドウに支えられて暮らしていた。ニカイドウは何も聞かない。外に出られなくなったミナバに働けと文句を言いつつも、なじりも問い詰めもせず、生かし続けた。ミナバは己の存在がニカイドウの負担になると知ってはいたが、だからと言ってどうすることもできず、ただただその環境に甘えた。甘えるしかなかった。彼は楽器を弾く以外の事は何もできなかったからだ。

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