嵐を凌ぐは傘一本

ひっきりなしに乾燥機が唸り、抜けるような青天井は太陽ランプで温められる。乾いた風が頬を撫ぜ、照りつける熱と光は砂漠のようだ。水の一滴もない。上層では流行り病が恐れられている。万物を等しく濡らす通り雨のようなそれはインフルエンザだ。凌ぐ傘はワクチン一本。罹患すれば隔離施設へ送られ、戻っては来られぬ。

雨が降ることを上層の人間は酷く恐れる。その思いが大型すぎる乾燥機を唸らせ、人々の声を、生活を、それからの人生を奪っていく。流行り病。雨を恐れるあまり節度を忘れた人間への罰。


イリヤは情報屋だった。過去形だ。様々な情報を得るためも上層に出入りしていたところ、なにやら運命の導きがあって舞台の上で歌うことになってしまった。低くない舞台の上で脚光を浴びるのはくらくらする仕事だった。比喩ではない、低光度太陽ランプを長時間浴びていると体力が削られ、瞼の裏に星が飛ぶようになるのだ。劇場内でハミングするように唸る乾燥機も厄介だった。乾燥機の吐き出す風は乾いていて、吸い込むたび喉は貼りつきそうなほどに乾燥する。油、潤滑剤、増粘剤、ゼリー飲料。アッパーの紅茶はとろみがついている。理由など、考えるまでもない。

人間が暮らすには過酷な環境。上層は砂漠のようだ。漿液を酷く恐れ、渇き乾いた人間の狂気はとどまることを知らず。また今日も乾燥機は唸りをあげる。

喉は限界だった。綱渡りの生活の中でイリヤは心を壊した。

同業者から仕事を選んでいるとの誹りを受けてもイリヤはなにも感じなくなっていた。舞台挨拶や司会、歌っていたころのコネクションを利用して茶会に参加しては、菓子を貪り、卓上の砂糖をくすねて舌下に流し込むだけの生活をしていた。一時の快楽と虚脱感を与えるのみで、向精神薬でないそれは慰めにもならない。緩いゼリー状の紅茶も流動性のないカクテルもいい加減頭に来ていた。茶会では乾いたものだけが本物だ。彼のひび割れた心も然り。

そんな中、イリヤが唯一好ましいと思えたのは、茶会にゲストとしてよく呼ばれていた演奏家だ。力強さと凄みを感じる音色は、唸る乾燥機の音を飲み込み、虚無が満ちた頑なな心へも抵抗なく入りこんでくるようだった。演奏が終わるたび、イリヤはささやかながら拍手を送った。

ほどなくしてイリヤは復帰した。いつか、彼の演奏で歌うことを夢見て。


人気が出れば、それだけ要求にも無理が通るようになる。夢のため、イリヤは歌い続けた。煌めく舞台、強すぎる太陽ランプの脚光に判断が狂ったのだろうか。半年続けたある日、イリヤは流行り病の嵐に巻き込まれた。貴族共々隔離施設送りになった彼は、少なくない対価を払って薬を手に入れ、それとばれぬように隔離施設から戻ってきた。そこには、生の痛みも乾きの苦痛もない。どうせ皆死ぬのだ。温かな施設の室内に太陽光ランプの作る強い影などありはしない。隔離施設は死ぬのに適した場所だった。

だが、イリヤはぬるく湿ったそこから抜け出した。書面上ではナキ・イリヤマという人間がいたことになっている。そして、それは死んだ。そういうことになっている。


ちょうどそれは祭りの日で、教会前は人でごった返していた。人ごみの中は嫌に暑くて、イリヤはシャツの襟もとを二つ外して、袖をまくっていた。さざめきの合間から聞こえてくる音はあの演奏家のものだろうか。ぼんやり立ちつくしていると突然わっと人が沸き、悲鳴が聞こえた。ぽたりと頬を叩くものがあって、不審に思って見上げた空には不透明の雲がかかっていた。イリヤは頬を拭う。室内の雨雲は空調が健全に運営されている証拠だ。上層では雲一つできないどころか、飲んでいる茶が勝手に減っていく始末だ。しかしいやに湿気っぽい。演奏はいつの間にか消えていた。


まばらになった人波の中でイリヤは大柄な男が倒れているのを見つけた。ふと嫌な予感がして駆け寄れば、地面に伏せるのは件の演奏家だ。雨が降ったので仲間にも置いて行かれたのだろう。浮かぶ苦悶の表情は、覚めない悪夢に魘されているようにも見える。悪夢のようなもんだ、とイリヤは憔悴しきった脳で思う。このまま死ぬに任せるのも慈悲なのだろうと思いつつもイリヤはポケットから『緊急』、グラニュー糖と食塩の混合物を取り出した。口の中に流し込み、持っていたボトルから出した水で嚥下させる。

「迎えに来たのが女神じゃなくてゴメンなァ……」

イリヤは眉を下げて笑おうとした。水が口へ吸いこまれていく。幾らか和らいだ表情を確認すると、イリヤは男を日陰に運んだ。手持ちの水がなくなったことに気付き、焦ったイリヤは住処へ駆けた。新しい飲み水のボトルを持って戻ったときには、男はどこかへ消えていた。


それきり男を見ていない。下層に下ったのだろうか? イリヤは昔のツテを当たり、男を探した。目立った目撃情報もなく、一年がたった。もはや消えた演奏家を覚えているものなどなく、死んだのだろうとどこへ行っても聞かされた。

傷心のままイリヤは下層へ下り、死に場所を探した。何しろ地下街は人間の最後にはふさわしくない場所だ。どこもかしこも不自然に湿り・乾いていて、湿度の上下を怯える街に心安らぐ場所などありはしない。

イリヤは隔離施設を思い出した。死ぬのに適していた場所は、今はただ遠い。今の彼は健康だった。

そうして、せめて最後くらいは美しい水に触れていたいと教会地下に潜ったイリヤは、廃墟の街へたどり着き、ニカイドウとミナバに出会った。


◆◆◆


「探したよ、死んだんじゃないかって、諦めてた。俺ね、女神が迎えに来るのをずっと待ってたんだ。来なくてよかったって、今なら言えるよ。アンタが女神に連れてかれてなくてホントによかった」

「女神……お前、まさか教会演奏会ん時の……?」

イリヤはぱっと笑った。

「そう! そうさ、あの時から、ずっと、探してたんだ。会いたかったよ、ミナバサン!」

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