舞原市奇譚

サンカク

第1話

 薄暗い校舎の中、わたしの足音が反響して響く。

 寒い、寒い、と心の中で念仏のように繰り返す。


 ただ呟くだけ。何一つ意味が無い言葉。

 それでも願うように繰り返す。 


 右手には空っぽのバケツ。

 中を覗いても、そこにあるのは本当の暗闇だけ。


 心のすきま風に、ため息を一つ。

 逃げていく幸せを誤魔化すように、ふと上を見る。

 

 電灯の微かな灯りが、夜の闇を少し和らげている。

 校舎の中が見える程度に薄暗い理由がこれ。

 それでも、光は本来の明るさを失ったままだ。

 

 あたしは心の疑問に蓋をして、教室の扉を開けた。


「――――」


 声にならない驚き。

 普段生徒が近寄らない教卓の上。

 そこに黒い姿をしたナニカがいた。



 第1話『ヨル』



 走る、走る。古ぼけたバケツを振り回すように、わたしは走る。

 白い息を追い越すように、静かな廊下でそれを追って走っていく。

 男より女の足が遅いとか、今は知るか。今はただ追いかけるだけ。


 暗闇の中でもはっきりと見える黒い姿。ヨルと呼ばれる猫の形をしたナニカ。それを捕まえるのが、ヨル当番であるわたしの仕事。


 めんどくさいとか、朝になる前から勘弁してよとか、そんな愚痴を今は忘れて、わたしはヨルを追いかける。


 走って、曲がって、上がって、下りる。

 普段なら怒られる行動のオンパレード。

 だけど、今はわたしの独壇場。


 そこにあるのは不思議な高揚感。運動と緊張で高鳴る心臓。頬の形が自然と変わり、心が明るく弾んでく。あと少し、あと少しで追い付ける。


「――――」


 荒い呼吸を押し殺し、ヨルに向かって手を伸ばす。

 わたしの指がヨルの身体を確かに捕らえた。

 捕まえた。喜びが心の奥から溢れそうになる。

 

「あっ!」


 しかし、ヨルは幽霊のように指の間をすり抜けた。でろでろ、とでも表現したくなるような形となって、わたしの手から逃げ出した。

 そのあと、すぐに猫の形を取り戻し、四本足で駆けていく。


 ふざけるな! と怒りたい。

 なんだそりゃ! と叫びたい。

 

 それでもわたしは女性だ。心の中で罵るだけに止めておく。

 このくそやろう、ぶっ飛ばしてやる。

 すぐに走って追いかける。

 だけど、


「お、追いつけない」

 

 ヨルはわたしの心の声を察知したかのように、さらに速度を上げて逃げていく。

 まるで優雅な夜の王。この世が自分の物だとでも言いたそうな足取りだ。


 わたしは足を止めて、ヨルが去っていくのをただ眺めた。

 その後ろ姿がどこかわたしを馬鹿にしているようで、妙に腹が立つ。


 ここ舞原市では常識なんて通用しない。夜を司る『ヨル』という奇怪な存在。世界中でここにだけいるナニカの一つ。電灯の灯りを妨げる元凶。

 それは転校生のわたしにとって、理解しがたい幽霊のような存在だった。


「あっ!」


 わたしから逃げたはずのヨルが宙に浮く。

 だが、それは新しい怪奇現象では無かった。

 わたしではない誰か――もう一人のヨル当番が獲物を横から掻っ攫ったのだ。


「調子はどうですか? ヨルは捕まえられましたか?」


 にっこりと、邪気のなさそうな顔で笑う久保西。わたしの胸中を知ってか知らずか、手に掴んだヨルを悠々自適に自分のバケツに入れた。なんか悔しい。


 久保西――彼はわたしの同級生で、今週のヨル当番の片割れだ。わたしがヨル当番を遂行できるのは彼のおかげだが、わたしにとっては苦手なタイプの男子だった。


 内心の複雑な感情を、引きつりそうな笑顔で隠して、わたしは手に持っていた空のバケツを見せた。


「やはり、空ですか」


 予想通りとでも言いたそうな久保西の声。邪気のなさそうな笑顔と無邪気な言葉が、わたしの疲れた心臓を抉る。悪意のない悪意は、真実という名の凶器だ。


「やっぱりって何よ!」

「いや、今までの結果から推測する予測、という奴ですよ」


 そうなのである。転向してから初めてのヨル当番。わたしから言わせれば、何だそりゃ、と言いたくなるが、郷に入れば郷に従え、である。

 それなりの転校暦を誇るわたしは、その地域の習慣には抵抗せずに流された方がいいってことも学んでいるのだ。


 だから、こうして黙ってヨル当番をやっているのだが、人間にはできることとできないことがある、ってこともわたしは知っていた。


「そうね。わたしもそう思っていたわよ。でも、今日が当番最終日なんだから、一匹ぐらい捕まえられてもいいんじゃないかしらね。むしろ、ヨルの方が気をつかいなさいってもんよ」


 酷い言い草だが、わたしにとっては本気だ。本気で相手に気をつかってもらわなければ、一匹も捕まえられる気がしない。


「それに久保西くんが、毎回そんなに捕まえてくるのも腹立つのよ」

 

 彼の持つバケツには、真っ黒い猫のようなナニカが何匹も寛いていた。これが『ヨル』なのだ。外見は子猫のようだが、実体は違う。


 捕まえようとしても手をすり抜ける不思議な体。見つめていると吸い込まれるような奇妙な感覚を覚える瞳。舞原市の人々は昔からいるものだと馴染んでいるが、異邦人のわたしにとっては奇妙で不気味な存在だった。


「僕はこういうモノに好かれ易い体質なんです。そのあたりも考慮して、僕と安西さんをいっしょの当番にしたんだと思いますよ」


 たぶんその通りだろう。ヨルは不思議と彼から逃げようとはしない。

 わたしがいなくとも、彼がヨルを全て捕まえ、朝に帰すだろう。

 つまり、あたしは役立たず。いなくてもいいのに担ぎ出され、しなくてもいいのにやらされる。これは虚しい苦行だ。


「うーん、まあ、ここに長年住んでる人でも、捕まえるのが苦手っていう人はいますし、それほど気にすることじゃないですよ。幼稚園児なら捕まえられる方が少ないでですから」

「わたしは幼稚園児以下か」

 

 現高校生の嘆き。

 まあ、経験値的に言ってしまえば、わたしが舞原市に住んで一ヶ月も経たない。幼稚園児どころか、赤子みたいなものだ。そのぐらい、ここは外とは違う場所なのだ。


 さすが現代の魔境と呼ばれる場所なだけあるよなぁ、と今更ながら感心してしまうわたしであった。


 

 /



 ヨルが入ったバケツを、校庭に置いた。

 わたしのは空だけど。


「寒いねぇ」

「寒いですねぇ」


 わたしは手を擦りながら、朝日が昇るのを待つ.

 始めのうちは待ってることも新鮮だったが、一週間もやってれば飽きる。ちょっと欠伸が出そうになるが、いちおう男子が隣にいるので我慢した。


「けっきょく、ヨルって何なんだろうね」


 舞原市では『ヨル』とは夜を司る者と言われている。夜になるとヨルが現れ、朝と共に帰っていく。


 だが、建物内部にいるヨルは朝になっても帰らず、その建物の中を夜にしてしまうらしい。だから、ヨル当番が建物の外へとヨルを連れ出して、朝に帰す必要があるのだ。それがわたしの聞いたヨルのお話。

 


「さあ? ヨルはヨル。考えても無駄ですよ」

「でも、疑問に思わないの? 理解できないモノが近くにあるって怖くないかな」


 朝日が昇る。ヨルは一斉に鳴く。

 猫の声で、猫ではないナニカが朝の訪れを告げる。


「ねえ、安西さん」


 久保西がにっこり笑って、わたしに話しかける。


「この舞原市には理解できないことがたくさんあります」


 それは無邪気な子供を見る、大人のような表情だ。


「でも、それはここだけの話じゃないと僕は思うんです。外の世界だって理解できないことは、たくさんありますよ」


 ヨルは空へと散っていく。朝だ。一日の始まり。

 幻想的で美しい光景だが、それと同時に得たいの知れない恐怖も感じた。

 自分が知らないモノへの恐怖。理解できない出来事に対する拒絶。

 

「だから、それとどうやって付き合っていくのか。それが重要なんだと思います。自分さえ見誤らなければ、例えそれが理解できない恐ろしいモノでも、案外何とかなるもんですよ」

「……あんた難しいこと言うわね」

「先に言ったのは安西さんですよ。まあ、気楽に気楽に。そのうち他にもいろんなことが起きて、嫌でも慣れますって。それが人間ですから」


 そうかもしれない。

 たぶんそうだろう。

 こうして、わたしが舞原市で体験する始めてのヨル当番は終わりを告げた。



 /



「それじゃ、終わりましたし、帰ってまた登校しましょう」

「学校来たのに、また帰るのも面倒よね。なんか腹立つし」

「腹を立てても休めませんよ」

「休もうと思えば休めるわよ。わたしの仮病を舐めないでよね」

「ねえ、安西さん」

「なによ」

「舞原市へようこそ」


 その表情は悪戯好きの子供のようだった。



<ヨル 完>



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

舞原市奇譚 サンカク @sikaku

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ