第36話  第五巻 聖域の闇 野望

 一週間後、森岡洋介は東京へ出向き、帝都ホテルのスイートルームにおいて、総務清堂の執事景山律堂と、仙台市北竜興寺の副住職で、全国の青年僧侶で組織する妙智会の会長弓削広大との密会に臨んでいた。

 景山と弓削は初対面と言ってもよかった。弓削が宗務で総本山に出向いた折、顔を合わせた際に会釈程度は交わしていたが、じっくりと話をするのは初めてだった。

 景山と弓削があらためて挨拶を交わした後、森岡は二人に腹を割った。

「今回は、相心寺の一色貫主を陥れたいと思います」

「一色上人ですか。なるほどね」

 景山が得心顔で言い、

「上人の高慢さは有名ですからね。一度鼻を折っておこうということですね」

 弓削も納得の表情をした。

「弓削上人、森岡さんの目的はそれだけではないようですよ」

「他にも何か?」

「一色上人は法国寺の件では清慶上人の腰巾着でした。これは、いずれ法国寺の貫主の座を狙ってのことでしょう」

 森岡の秘めた野望を知る景山は、何かに付け清慶の機嫌を取っていた一色魁嶺を揶揄した。

「ということは、本妙寺の後、神村上人を法国寺へとお考えなのですね」

 すばやく察した弓削が森岡を見た。

 森岡は黙って肯くと、

「先ほど陥れると言いましたが、姦計を用いるわけではありません。むしろ、一色上人の悪行を糾弾して膿を出そうという企みです」

 と少しも悪びれずに言った。

「悪行とは」

 弓削が訊いた。

 それは、と森岡はおもむろに口を開いた。

 一週間前、榊原壮太郎の会社を後にしたその足で、森岡は書道家北条仙流の許を訪ねていた。

 それは、彼のある閃きに基づくものだった。

 一年半ほど前、相心寺の一色貫主を訪ねたときの、床の間にあった見事な水墨画の掛け軸が頭の隅に残っていた。その折、目に入った『色翁』という落款が森岡の連想を掻き立てた。

 伊能剛史の報告では、作者は一色貫主の縁者ということだったが、もしかすると色翁という雅号は一色魁嶺本人ではないかということ。仮にそうだとすれば、彼の画家としての腕前は相当なものであり、天真宗の本山の貫主という地位を加味すれば、一幅百万円というのも、まんざらぼったくりではなくなる。

 むろん、揮毫料は免税ではない。初対面での一色貫主の意外な反応は、その揮毫料を正しく税務申告していないことによる後ろめたさではなかったかということ。

 そして、一色貫主が指定した『亀井一郎』なる銀行口座は、偽名口座あるいは休眠口座を買取ったものではないかということである。

 これは一色貫主を直に人物鑑定した蒲生貴市の見解とも一致を見ていた。蒲生貴市は退官したとはいえ、今尚プロファイリングの能力は一流である。

 これらの連想が一気に森岡の脳裡を奔った。

 森岡は、書道家の北条仙流を訪ねた後、次いで目黒澄福寺の芦名泰山にも色翁という雅号についての問い合わせをした。

 はたして北条仙流と同じく、芦名貫主からも間違いなく一色魁嶺の雅号であることが確認された。しかも芦名貫主からは、一色貫主は若い頃に何度も日展に入選したほどの腕前だったが、ここ二十年ほどは応募すらしなくなったという情報も得た。

 続けて、相心寺の護山会会員及び一色家が所有する無明寺の檀家等に、一色貫主の書画を購入していないかどうかの調査を榊原に依頼した。

 その結果、僅かな時間の調査にも拘らず、実に二十三名が一幅当たり五十万円から八十万円で購入していたことが判明した。このことから、時効に掛からない期間の収入は二億円を超えていると推察できた。

 また、指定振込口座は亀井一郎を含め七口座にも振り分けられていることから、脱税行為の可能性が高くなった。

 森岡は、一色貫主が日展に作品を応募しないのは、あえて有名になるのを避けたものと考えた。高名になれば、作品の価値は上がるが、マスコミを中心とした世間の目に留まることになる。一色貫主はそこから税務署に目を付けられることを恐れたと推量したのである。

「景山さん。相心寺と無明寺の会計報告を調べて貰えませんか」

「承知しました」

 本山相心寺はもちろんのこと、無明寺も宗門所有の寺院であり、会計報告は宗務院へ提出されているのである。

「もし一色上人が脱税行為を犯していれば、それを材料にして味方に引き入れるのですね」

 弓削が訊いた。彼もまた、坂東明園と斐川角雲水が久保側に付いても、一色貫主がこちらに付けば形勢は五対五となり、久田帝玄の裁定に委ねられることを承知していた。

「いいえ、違います。今回は寝返りを求めません」

「どうしてでしょう」

 景山も森岡の意図を測りかねた。

「今回は絶対に間違いがあってはなりません。一色上人は腹の内を見せない男です。こちらに服従すると見せ掛けて、土壇場でまた敵に寝返ることもしかねません」

「面従腹背を危惧されているのですね」

 はい、と森岡は肯いた。

「そのような危険を避けるためにも、確実な方法を取りたいと思います」

「と言いますと」

「宗務院への会計報告に不審な点があれば、税務署への申告を調査します。そこで脱税行為が認められれば、京都国税局に告訴し、そのスキャンダルを週刊誌に載せます」

「目に目を歯には歯を、ですね」

 景山が腑に落ちた表情で言った。

「そうです。その後……」

「規律委員会に掛ける、でしょう」

 弓削が森岡の言葉の続きを奪った。

「それもまた、御前様がやられたことをやり返すことになりますね」

 御前様とは鎌倉長厳寺の住職で、天山修行堂の正導師久田帝玄のことである。

 はい、と森岡は肯き、

「そこで、弓削さんには永井宗務総長に、景山さんには総務さんにそれぞれ具申して頂きたいのです」

 と二人に頭を下げた。

 本山の貫主である一色魁嶺の僧階は権大僧正である。したがって規律委員会は、全国に四十八ある大本山と本山の貫主の中から選ばれた五名に、総務の藤井清堂と宗務総長の永井大幹が加わった七名で開催される。しかし、いかに合議制とはいえ、総務と宗務総長が同意見であれば、他の者が異を唱えることは難しいと考えたのである。

「それで、どのような処分にするおつもりですか」

 景山が訊いた。

「一年間の職務停止で良いでしょう」

「そんなに軽い処分で良いのですか」

 景山は意外という顔をした。

「結構です。無理強いをすれば、免職に持ち込むこともできるでしょうが。今回の目的は一色上人を完膚なきまでに叩きのめすことではありません。彼の悪行を世間に知らしめ、十分に恥を掻かせ、プライドを傷付けたうえで、本妙寺新貫主選出の投票から外れて貰えればそれで良いのです」

 森岡は、藤井清慶の二の舞にならぬように、と手心を加えるつもりでいた。

 しかし……と景山が首を捻った。

「それでは、形勢は四対五となるだけで、以前として不利な状態です。あと一人はどうされるおつもりですか」

 当然の疑問である。

「誰を、どのように、とは申し上げられませんが、合議に欠席してもらいます」

 森岡は事もなさげに言った。その平然とした語り口に、景山と弓削も非情な一面を垣間見た気がした。言うまでもなく、四対四となれば久田帝玄の裁定となる。

 さてそこで、と森岡は隣室から蒲生亮太と足立統万を呼び入れ、ボストンバッグから一億円を取り出させた。彼はそれを五千万円ずつに分け、景山と弓削の前にそれぞれ積み上げた。

「総務さんと永井宗務総長に三千万円ずつ、二千万は御自身がお受け取り下さい」

「こんなには……」

 二人は一様に声を漏らした。

「お二人には、これからも何かに付けご尽力をお願いすることになります。憚りながら、この程度のことは大したことではありません」

 森岡は畏まった態度で言った。

 実は、ギャルソンの柿沢康弘に払わせた慰謝料の五億円を片桐瞳に手渡したのだが、その折彼女からクラブ菊乃をオープンした際に森岡が用立てた一億円の清算の申し出があった。

 思わぬ形で金が戻った森岡は、それを惜しみもなく二人に差し出したのである。彼の金銭に執着しない性格の顕れである。

 まずは森岡の推察通り、一色が脱税行為を犯しているかどうかが鍵であった。


 用件が済むと、森岡は蒲生と足立の二人を隣室に下がらせ、再び鼎談(けんだん)となった。

 さて、と森岡が仕切り直した。

「瑞真寺について、何かご存知のことはありませんか」

 静かな口調で訊いたが、途端に弓削の面から色が失せて行くのがわかった。

「何かありましたか」

 弓削が腫れ物にでも触れるかのように訊いた。

「お二人だけには、お話して置きますが、本妙寺の一件以降、裏で糸を引いているのは瑞真寺の門主ではないかと思うのです」

「何ですと」

 顔面を引き攣らせた弓削に対して、

「それは、有り得なくもないですね」

 景山は顔色一つ変えなかった。

――何か掴んだのかもしれない。

 景山の反応に、森岡は期待感を抱いた。

「何のためですか」

 弓削が訊いた。

 森岡も黙って景山の口元を注視した。

「おそらく、神村上人が邪魔だからでしょう」

「何の邪魔になるのですか」

 弓削が問いを重ねた。

「うほん」

 景山は一つで咳払いをして森岡を見た。

 森岡は何のための配慮かわからなかったが、黙って肯いた。

「総務さんは、現門主が禁断の野望を抱いておられるとお考えのようです」

「禁断の野望?」

 弓削は、暫し思いを巡らし、

「まさか、法主の座を」

 と口にするのも憚れる体で言った。

「えっ、法主?」

 と、弓削の言葉に森岡が敏感に反応する。

「どうやら」

 景山がゆっくりと顎を引いた。

――そういうことだったのか……。

 森岡は苦い顔で呻いた。栄覚門主が神村を敵視する理由に、ようやく突き当たったのである。

 弓削もまた、

「何という大胆なことを……」

 と言ったきり、二の句が継げなかった。

「王政復古ということですか」

 森岡が独り言のように呟く。

 王政復古とは言い得て妙であった。

 天真宗開祖栄真大聖人は、ただ血脈というだけで無能な者が法主になることを危惧して亡くなった。

 大聖人亡き後、高弟たちは師の意を厳密に捉え過ぎて、栄真の末弟である栄相の血脈を一切排除するという極端な慣例を創り上げてしまい、真に有為な血脈者をも世に埋もれさせるという結果を招いた。

 ともかく、これまで宗祖栄真大聖人の血脈者は一人たりとも法主にはなってはいない。もし栄覚門主がこの強固な慣例を打破し、法主の座に上がったならば、天真宗七百五十年余の歴史において驚天動地の一大変事となるのだ。

 在野僧侶が駆け上がることより数十倍、数百倍も難しい、というより端から全くの選考外に置かれているという絶望的な現実が、聡明な森岡をも不明にさせていたのである。

「では、神村上人も法主を」

 気を取り直した弓削が訊いた。

「はい」

 森岡が神妙に答えると、

「何と、これはこれで驚きですが……そこで、門主と神村上人がかち合うのですね」

 弓削は深刻な顔で言った。

 仮に栄覚門主を相手の戦いとなれば、久田帝玄と総務清堂の対決の比ではない事を弓削は承知していたのである。

「総本山において、前途有為な僧侶としては、まず滝の坊の中原上人が筆頭でしょう。少し水があいて、瑞(ずい)の坊の三輪上人、臨(りん)の坊の左右田上人、浄(じょう)の坊の篠原上人あたりでしょうが、在野といえども人物、識見、修行研鑽において神村上人が群を抜いています」

 景山は永井宗務総長の後の、目ぼしい僧侶を列挙した。このあたりの状況把握に抜かりはないといったところだが、栄覚門主の眼にも同様に映ったということになる。

 その景山が森岡の異変に気づいた。

「どうかされましたか」

「先刻、『ずいの坊』と言われましたね」

「はい」

「ずい、とはどういう字ですか」

「めでたいことを意味する『瑞』ですか。それが何か」

「では、瑞真寺と同じ字ですね」

 転瞬、景山ははっとした顔をした。

「もしや、瑞の坊と瑞真寺の関係を疑っておられますか」

「いえ、縁起の良い字は誰でも使用したいものでしょうから、疑うとまでは言いませんが、何となく気になりました」

 森岡は率直な気持ちを述べた。

 このとき彼は、もう一つ胸の奥底を何かが叩いたような響きを感じていたが、その正体には行き着かなかった。

「貴方が気になると言われるのですから、一応調べてみます」

 景山が請け負ったとき、二人の会話をうわの空で聞いていた弓削が、

「しかし、いくらなんでも門主が法主になどとは……無理でしょう」

 と呟くように言った。

 弓削の疑念も当然である。

 法主、総務、宗務総長と二名の宗務次長は、いずれも総本山の四十六子院の合議、あるいは選挙によって選出された。だが、宗務次長が宗務総長へ選出される可能性は五十パーセント、つまり二人に一人の確率に対して――正確には宗務次長は二名いるので確率は、さらにその二分の一の二十五パーセントになる――宗務総長が総務へ選出される可能性は七十パーセント、つまり三人に二人の確率へと上がり、総務が法主へ上がるそれは、健康状態など本人に問題がない以上、ほぼ百パーセントの確率なのである。

 栄覚門主はその総務の牙城に挑むということなのである。いや、そもそもが総本山宗務の埒外に置かれている栄覚に、この強固な慣例システムを崩す手立てがあるとは思えなかった。

「今のところ、私も可能性は低いと思いますが、この先、強ち無理だとも言い切れません」

 景山が含みのある言い方をした。

「何かご存知なのですか」

 弓削は、催促するような目をした。

「総務さんは、門主と立国会の勅使河原会長との接触を懸念されておられます」

「えっ、立国会」

 とさらなる混迷の予感に、驚きの声を上げた弓削を前にして、

「やはり、そうですか」

 森岡は複雑な表情を浮かべ、

「会員という大スポンサーが付いているということですね」

 と強大な経済力を示唆した。

 立国会の会員は約三百五十万人。仮に布施という名の年会費を一万円徴収したとしても、毎年三百五十億円の集金力ということになる。

「それだけではありません」

 景山は鬱々とした面になった。

「勅使河原公彦は、企業群である勅使河原グループの会長、天真宗最大の壇信徒会である立国会の二代目会長の立場とは別に、単立の宗教法人『勅志(ちょくし)会』を所有し、これまた会員から布施を徴収するだけでなく、豊富な資金を流用して未公開株を買い漁り、上場後の利鞘を稼いでいると専らの噂です」

 噂ではなく事実だろうと、森岡は思った。

 須之内高邦による福地正勝の監禁事件は、味一番の未公開株を手中にし、上場させて巨万の利益を得ようとしたものであろう。

 なにせ味一番が上場すれば、株価は最低でも二倍、時が経てば三倍にも四倍にもなる可能性が大きいのである。

「今はまだ声は上がっていませんが、仮に立国会が他の壇信徒会を巻き込んで、『御門主を法主に……』と扇動したら、いったいどうなることやら皆目見当も付きません」

 景山の面に困惑の色が加わった。

 僧侶だけでなく、壇信徒まで巻き込んだ政争ともなれば、天真宗分裂の危機を孕む事にもなりかねないのである。

「私が言うのもなんですが、門主は何とも良いところに目を付けましたね」

 森岡の声には複雑な響きがあった。敵ながら着眼点の鋭さに感服していたのである。

しかも、勅使河原の経済力に頼らないのは、二人の関係が外に漏れるのを防ぐためとも考えられた。

「栄覚門主と勅使河原会長は、私立の雄である関東大学の同期です。もしかしたら、その頃より親交があったのやもしれません」

「しかし、いくら勅使河原会長が門主と組んでも、いきなり立国会の壇信徒がそれに従うとは思えませんが」

 との弓削の疑念にも、

「いいえ、とかく日本人は血統、血筋を重んじる民族です。だからこそ、天皇家という世界でも類の無い万世一系の家門を護り抜くことができたのでしょう。天真宗に、宗祖の血脈家が存在していることすら知らない信徒も多いことでしょうから、彼らにその存在を知らしめる際、強烈な衝撃を与える演出を加えられれば、一気に門主擁立の流れを創ることも、然して難しい事ではないと思います」

 森岡が冷静な分析で退けた。

 彼はその血統、血脈を重んじる日本人の体質は諸刃の剣だと考えていた。国難に当たっては、民族が一致団結するための強力な接着剤になるが、一方でたとえば創業者一族に阿たばかりに、新しい血を注入できず、衰退していった企業が多々ある事実も知っていた。

「ところで、肝心の門主とはどのような人物なのですか」

 森岡にとっては、もっとも気になることだった。

 景山は少し間をおいた。宗祖の血脈者への言及に言葉を選んでいるのだ。

「はっきり申し上げて評価は二分されています」

「と言いますと」

「さすが宗祖栄真大聖人の血を引く傑物と評価する者と、能力は認めるが人徳に欠けるという者たちに別れます」

 なるほど、と森岡は得心したように肯くと、

「景山さんはいかがですか」

 と意見を求めた。

 森岡は風聞よりも総本山の英才の評価が気になった。

「私は、幼少の頃より俊才の誉れが高い御仁だと承知しています」

 と差しさわりの無い言葉を選んだ景山に、

「それは、法主に相応しい器量と理解して良いのですね」

「有るような無いような」

 森岡の念押しに、景山は曖昧な物言いで応じた。

「先代の御門主は、大変に人品骨柄の優れたお方で、荒行修行も八回達成されています。それに比べ、現門主は才気に溢れてはいるようですが、己の才に溺れる傾向が垣間見えます」

 今度は少し投げやりな言葉を加えた。

 彼の心中には、分別が無いのであれば、いっそのこと暗愚なら何も問題は起きないものを、なまじ能力だけがあるためにいらぬ野心を抱いたりするのだ、との苛立ちがあったのである。

――御先代や大河内上人が濁した言葉はこのことだったのか。

 森岡もまた、園方寺の道恵和尚と大河内法悦の逡巡を思い起こしていた。

「しかし、門主はまだ四十代のはずでは」

 弓削は、未だ納得がいかない表情を崩していなかった。

「確か、四十七歳です」

「いくらなんでも、永井宗務総長の後というのは、早過ぎませんか」

 総務藤井清堂と宗務総長永井大幹の二代であれば、その政権は長くても二十年だと推測できた。となると、門主は六十代で法主の座に就くということになる。

「弓削上人。総務さんの懸念はまさにそこなのです」

「……」

 弓削には、景山の謎掛けがわからなかった。

「時間が有り過ぎると、さらに欲が湧くというものです」

 森岡は、枕木山に埋没しているかもしれない膨大な富は、そのための工作資金に当てられるのだろうということも推察した。

 全てを察した森岡とは違い、思いも寄らぬ話の連続に、

 弓削は、

「どういう意味ですか」

 と、ただ問いを繰り返すばかりだった。

「六十代で法主ともなれば、真の野望を実現する時間が十分にあるということです」

「真の野望ですと? 法主になるだけでは飽き足らないというのですか」

 弓削は目を剥いた。

「弓削上人。総務さんの憂いは、森岡さんの言われたように、門主が文字通り王政復古を画策されていることです」

 先代門主のように、真に優れた人物であれば、法主の座に就くことに何の異論もなかった。そもそも、宗祖家を不当に排除していることこそが問題なのである。

「ま、まさか、世襲ですか」

「はい」

 半信半疑の目で訊いた弓削に、景山は大きく顎を引いた。

 まさに総務清堂の危惧は、栄覚門主自身が法主の座にある間に、

『その座を宗祖家の世襲にせん』

 と画策することにあった。

「そこで、まずその足掛かりとなる法主の座を巡って、神村上人が邪魔だということですか」

 弓削の脳裡にも、ようやく事の全貌が浮かんでいた。

 法主の座を宗祖家の世襲にすることなど、一見荒唐無稽のように映るが、実はそうでもない。

 法主の選任が総本山四十六子院の特権事項となっていることに対して、在野寺院は幾度となく抗議の声を上げて来た。だが偏向な慣習は、一向に改善されてはいない。

 そこで、

『どうせ、在野が埒外に置かれているのなら、宗祖家の世襲にしたところで同じこと』

 と考える寺院が相当数いても、何ら不思議ではないのである。

 つまり、いざ決戦となった場合には、全国僧侶を真っ二つに割った、それこそ関が原の様相となるは必定と考えられた。  

「年が明けた頃から、瑞真寺の使いというのが何度か華の坊を訪れるようになりました。最初は深く考えていませんでしたが、おそらく瑞真寺は総務さんを取り込もうとしたのではないでしょうか。あの岡崎家での、総務さんの『頼み事』というのが気に掛かり、私なりに愚考したところ、そのあたりに行き着きました。門主に疑念を抱かれた総務さんは、もしものことがあれば、自分一人の力で阻止することは無理だとお思いになったのでしょう。ですから、久田上人や神村上人のお力添えを、森岡さんに仲介して欲しいと願っておられたのだと推察します」

 景山は、総務の苦衷を推し量った。

「栄覚門主が本格的に法主の座を狙う頃には、御自身も久田上人もこの世になく、頼りとなるのは、神村上人ただ御一人となるでしょう。いや、神村上人というより、森岡さん、貴方に期待されたのかもしれません」

「私ですと? 私は俗人ですよ、場違いにも程があるでしょう」

 森岡は忙しく首を左右に振った。

「仏道を極められた神村上人ですが、失礼ながら政争には疎いお方です。ですから、 総務さんは上人を傍らでお支えしている貴方に目を向けられたのだと推察します」

「……」

 景山の的を得た指摘に、森岡には返す言葉が見つからなかった。

「ともかく、御自身が存命中に、打てる布石は全て打って置こうとなさっておられるのだと思います」

「菊池の件で、御協力を頂いたのはその含みがあったのですね」

 森岡は腑に落ちたように言った。

「久田上人が法国寺の貫主に決定した後、総務さんは門主の野望を明確にお知りになられたのでしょう。ですから、森岡さんとの面会は総務さんにとっても満足のゆくものだったに違いありません」

 と、景山が肯いた。

「天山修行堂の件ですね」

「少なくとも、総本山と在野が一枚岩になる兆しは、門主の野望を阻止する強力な砦となります」

「どういうことか、私にも教えて下さい」

 一人蚊帳の外に置かれている弓削が、痺れを切らしたように口を挟んだ。

 景山は森岡の顔を窺った。

 森岡が小さく頷いたのを見て、

「森岡さんは、実質的に天山修行堂を手中に収めておられるのですが、久田上人亡き後であれば、いずれ総本山の手に渡す、と総務さんに約束されたのです。むろん、事は一朝一夕に運ぶはずがなく、ひと工夫もふた工夫も要るでしょうがね」

 と、弓削に説明した。

「なんと……」

 弓削は大きな溜息を吐くと、

「いやはや、私には驚くことばかりです」

 とうとう肩を窄め、その巨体を小さく丸めた。

「しかし、総務さんほどのお方が、今からそれほどまでに警戒されるということは、門主というのも余程の人物のようですね」

 森岡は、しだいに形付けられて行く門主の姿に怯むように言った。

 天真宗の歴史と現状を見れば、門主が法主の座を得るだけでも至難の技と言えた。それを時代の流れに逆行し、血脈家の世襲に改めるなど、それこそ現天皇家が政治の実権を握る、まさに平成の王政復古に等しい、一種の革命と言っても良い一大難事であろう。

 つまり栄覚門主は、天真宗の歴史のタブーに挑もうとしているのだ。その手段、方法はともかく、途方もない理想と飽くなき野望の実現に挑む姿勢は、森岡に織田信長や坂本竜馬といった革命児を連想させた。

 森岡は、後世歴史にその名を刻むことになるかもしれない門主に、血も凍るような畏怖を抱いた。

「ではお二人も、慎重のうえにも慎重に事をお運び下さい」

 森岡は、何時になく厳しい顔つきで忠告した。

 わかりました、と肯いた景山が、

「これはあくまでも総務さんの推量ですので、申し上げて良いかどうか悩みましたが……」

 と迷い顔で断りを入れた。

「何でしょうか」

 森岡が訊いた。

「門主が神村上人を敵視する理由は、法主の座を巡る争いだけではないのかもしれません」

「とおしゃいますと」

「森岡さんは密教の奥義伝承のことは御存じでしょうか」

「古くは弘法大師空海上人が唐の恵果上人から伝承したというものでしょうか」

「そう、それです」

「それが何か」

「先日、総務さんからお聞きしたのですが、現在の奥義伝承者は、どうやら神村上人らしいのです」

「何ですって!」

 森岡は驚嘆の声を上げた。

「本当ですか」

 弓削も目を白黒させた。

「さすがの森岡さんも御存じないのですね」

「先生からは何も……」

 聞いていない、と森岡は首を横に振った。

「その名の通り、まさに秘中の秘なのでしょうね」

 景山も得心した口調で言った。

「しかし、密教の奥義は真言宗に限ってではないのですか」

 森岡が疑問を呈した。

「これはまた、森岡さんの言葉とも思えませんね」

 景山が笑った。森岡も間違いに気づいた。

「こ、これはお恥ずかしい。宿敵ともいえる最澄上人も奥義伝承を欲し、宗派を超えて空海上人の弟子になったのでした」

 最澄上人とは、比叡山延暦寺を開基した天台宗の宗粗である。伝教大師と称される、空海上人と並ぶ日本仏教界の巨人である。

「そうです。仏教徒であれば、いや密教を極めんと欲する者であれば、広く門戸は開けてあります。そうでなければ、インドから唐、唐から日本へと伝承されるはずがありません。もっとも、以前は優れた能力を持った僧呂にしか伝承されなかったようですが、今はずいぶんと条件が緩和されて、阿闍梨という指導者の位を授ける儀式となっています」

 景山の口調がここで変わった。

「ですが、どうやら神村上人が継承した奥義は、その一般的なものではなく、古来のしきたりに則った厳格なものらしいのです」

「特別だと」

「一子相伝、とまでは言いませんがね」

 と、景山は肯いた。

「表向きは空海上人で途絶えたことになっていますが、その実は密かに継承されて来たということなのでしょう」

 なるほど、と肯いた森岡は、

「しかし、その奥義伝承と門主はどういう関わりがあるのですか」

 と訊いた。

「実は、高野山の前の座主であられた堀部真快大阿闍梨様も伝承者なのですが、大阿闍梨様から伝承されたのが瑞真寺前門主の栄興上人らしいのです」

「なんと、先代の門主はそれほどのお方でしたか」

 森岡が畏敬の念を込めた声で言った。

「栄興上人は荒行を十度達成された偉人です」

「それはおかしい。八度でしょう。先刻、景山さんもそのように言われたはずです」

 二人の会話を黙って聞いていた弓削が疑義を挟んだ。

「たしかに弓削上人の言われるとおり、妙見修行堂での公式な荒行は八度です。ですが、非公式に九度目と十度目の荒行を天山修行堂で達成されておられるのです」

「へっ、天山修行堂で。しかも非公式?」

 弓削が間抜けな声を発した。

「実は、その荒行の導師を務めたのが神村上人だそうです」

「まさか……」

 森岡も言葉を失った。

「考えてみて下さい。久田上人ご自身は八度の荒行しか成満されていません。神村上人の荒行を十二度導いたとはいえ、九度目以降は修行方法、経過内容等が記された古い文献に従ってのものです。実際に荒行に挑んだ神村上人の指導を仰ぐのは道理と言えませんか」

「それは、たしかに……」

 弓削が唸った。

 荒行成満の鍵は、導師の経験に基づく助言である。荒行を幾度も成満した者ならではの実感であった。

 だが、

「しかし、神村上人が十度目の荒行を成満されたのは十八年前です。となると栄興上人は六十歳を超えているはずです」

 と疑問も呈した。

 荒行は体力、精神力の限界に挑む危険な行である。六十歳を超えての挑戦は無謀とも言えた。

「仏道の神髄を極めんとする凄まじい執念の一言に尽きます」

「そのようですね」

 森岡も景山に同調した。 

「その過程で、直にその力量を知った栄興上人が神村上人に伝承したという経緯だそうです」

 景山は、一旦言葉を切り、息を整えた。

「しかも、伝承の場は高野山の奥ノ院のとあるお堂。堀田真快大阿闍梨様が立会人だったそうです」

「天真宗の僧侶が高野山で、ですか」

 弓削が信じられないと言った顔つきで言った。

「それだけ、お二人が秀でたお方だということでしょう」

 ふむ、と首を傾げたままの弓削とは違い、 

「総務さんは良くお調べになられましたね」

 と、森岡が感心顔で言った。

「門主の野望を阻止するためにも、必死で瑞真寺をお調べになったのでしょう。法主様にまでお訊ねになったほどです」

「法主さんに?」

 森岡が首を捻った。

「実は、堀部真快大阿闍梨様は、当初伝承を栄薩現法主様にとお考えになったようなのですが、法主様は遠慮されたようです。何かの折に、その事実を法主様からお聞きになっていた総務さんが、あらためてその際の詳しい経緯をお訊ねになったのです。すると、法主様はご自分が辞退する代わりに栄興前門主を推薦されたそうなのです」

「なぜですか」

 弓削も訝しげな顔をした。

「おそらく、御自分より器量がありながら、日の目を見ることのできない栄興前門主のお立場に同情されたのでしょうか」

 景山の推量に、

「なるほど、法主さんの御人徳を考えれば有り得ますね」

 弓削は得心したが、

「しかし、そのことと現栄覚門主との関りは」

 と、森岡が迫った。

「栄覚門主は栄興前門主に、つまり実父であり師に、自らを伝承者にと懇願したそうですが、お前は神村上人に遠く及ばぬ、とにべもなく退けられたそうです」

「なぜそれを」

 知っているのか、と森岡が訊く。

「栄興前門主が神村上人への奥義伝承を法主さんに報告されたとき、そうおっしゃったそうです」 

「またしても、先生に対する嫉妬ですか」

 森岡が苦々しい顔をすると、

「憎悪も加わってかもしれませんね」

 と、弓削も言葉を加えた。

「まさしく、実子である栄覚門主の気質を懸念された栄興前門主が、堀部真快大阿闍梨様に奥の院の使用を願われたということだそうです」

 景山も同調した。

「ところで、神村上人が現継承者だと言われましたが、次の継承者は決まっているのでしょうか」

 弓削が興味深げに訊いた。

「そこまではわかりません」

 と答えた景山が、

「いつもお傍にいらっしゃる森岡さんは、何かお気づきになられませんか」

 と視線を向けた。

「そのようなこと、全く視界の外のことでしたので見当が付きませんが、ただ天真宗内には候補者はいないのでしょうね」

「どうしてでしょうか」

「お話を聞いた限りでは、神村先生も栄興上人も荒行を十度達成されています。もしそれが天真宗僧侶における資格条件の一つだとすれば、少なくとも現在の天真宗に条件を満足している僧侶は一人もいないと承知しています」

「いえ、それは少し違います」

 景山が異議を唱えた。

「たしかに、お二人とも最終的には十度以上荒行を達成されていますが、栄興前門主が奥義を伝承されたときは、まだ八度しか達成されていなかったと伺っています。つまり、継承者がこれはと思う人物であれば伝承できるということです」

「そうなのですか」

 弓削も意外という顔をした。

「もっとも、栄興前門主にしろ神村上人にしろ、奥義を継承した者は身に圧し掛かる責任の重さに慄き、更なる高みを目指して修行を重ねられたのでしょう」

 景山の達観した口調に、森岡も顎を引いた。

「先生は三十八歳で十度目を達成された後、十一度目までに六年の間があります。なるほど、その六年の閒に、先生は栄興上人の荒行を導かれ、反対に御自身は栄興上人から密教奥義を継承されて、その後の二度の荒行へと繋がったということですか」

 森岡は大学時代を思い出していた。

 神村が度々修行に入ったため、会えない時期が多々あったのだが、ちょうど新生活を始めたばかりの頃で、深く関心を抱く心の余裕がなかった。

 そういうことなら、と森岡が意外なことを口にした。

「お二人にも十分チャンスがありますね」

「えっ?」

「はあ?」

 景山と弓削は呆気に取られた声を発した。

「それは有り得ません」

 いち早く我を取り戻した景山が断じた。

「いや、有り得ます。お二人ともその若さで五度の荒行を達成されています。しかも此度のご支援で先生の眼鏡に適っています」

「それとこれとは話が違うでしょう」

 弓削も恐れ多いといった面で否定した。

「栄興上人は荒行の過程で先生の力量をお認めになったのですよ。人の世の縁なんて同じようなものでしょう」

 年齢から言えば、神村から直接伝承されることはないが、その次の候補として推薦される可能性を森岡は示唆したのである。

「……」

 二人の口から言葉が出ない。

 森岡は泡を食ったような顔が可笑しくて、

「まだ先のことですよ」

 気持ちを解すように言い、

「それはそうと、栄覚門主は是が非でも密教奥義継承者という箔を付けたいでしょうね」

 と話題を栄覚門主に戻した。

 二人は我に戻ったかように顔を引き締めた。

「ただの法主ではないと証明したいでしょうからね」

 弓削が皮肉を込め、

「森岡さんの『強烈な衝撃を与える演出』という言葉ではありませんが、信徒に宗粗の血脈者であることを公表するとき、さらに密教奥義の継承者の立場を付加できれば、法主への流れを止めることができなくなるかもしれません」

 景山も暗い声で同調した。

 森岡は二人に小さく肯き、

「そのためにも、神村先生の継承者を必死に探し出し、籠絡しようとするでしょうね」

 と苦々しい顔つきで吐き捨てた。


 東京から戻った森岡洋介は息を吐く暇もなく、南目輝、蒲生亮太、足立統万の三人と斐川角勇次を伴い、奈良の本山龍顕寺に貫主の斐川角雲水を訪ねた。雲水を説得するためではない。森岡は彼に確かめておきたいことがあったのである。

 斐川角雲水とは、勇次の件で面談して以来、二度目だった。

 裏切りが露見したことを知らない雲水は、森岡に会わないわけにはいかなかった。

「貫主様、私への裏切りの理由は何でしょうか」

 森岡は、雲水が着座するや否や唐突に切り出した。その方が腹を読まれない分、本音が出やすいからである。

「え?」

 案の定、いきなりの言葉に雲水は目を剥いた。実に率直な反応だった。 

 驚きの反応したのは雲水だけではなかった。同行した勇次と南目も唖然と目を剝いた。

「親父、社長を裏切っているんか」

 勇次が半信半疑の口調で訊いた。

 雲水は苦悶の表情で沈思していたが、やがて、

「ああ、裏切っている」

 と気後れした表情で答えた。

「なんでや、親父!」

 勇次はいまにも殴り掛からんばかりに叫んだ。

「落ち着け。俺は怒っているんやない。貫主さんの苦衷を知りたいんや」

 森岡は勇次を宥めると、雲水に向き直した。

「貫主様、口幅ったいことを言うようですが、此度の裏切りは不問に付します。息子さんもこのままウイニット(うち)で働いて頂きます」

 元来森岡は、白黒、敵味方をはっきりと区別する性格だった。まして裏切りなど、絶対に許さなかった。その彼が、このような態度に出たのには理由があった。菊池龍峰に追い詰められたときの、茜の怒りに任せて拳を振り上げるだけでは能が無い、という助言である。

 森岡は、まずは雲水の言い分を聞こうとしたのである。

「その代わりといっては恐縮ですが、理由だけでもお教え下さいませんか」

 森岡は丁重に請うた。

 斐川角雲水は葛藤した。森岡とは、息子勇次が世話になるという条件で、神村支持の約束を交わした。その約束を破ったのに、いや破ったのではない、最初から欺いていたのにも拘らず、怒りをぶつけるどころか、許してくれたうえで息子もそのまま預かるという。

 裏切者に対する寛容な態度に、雲水は森岡の度量の大きさを看た気がした。さすがは、影の法主とも称される久田帝玄や明治以来の傑物と名高い神村正遠の懐刀だと感心もした。

――この男なら信用できる。

 と、雲水は自分自身に言い聞かせた。

 いや、それより何より、仮にも本山貫主の立場にある者が、如何なる理由が有ろうとも、人を欺くことなど言語道断の所業だった、とずっと恥じていた。

「他言無用に願えますか」

 雲水は観念した表情で言った。森岡は、目顔で四人に席を外させた。


 雲水の告白に寄ると、山際前貫主の急逝によって本妙寺の次期貫主の件が合議に持ち込まれた直後、栄覚門主の使いだという男が訪れたのだという。用件は、神村の貫主就任阻止に協力して欲しいというものだった。

 男は栄覚門主自筆の手紙を持参していた。そして、早晩神村の腹心である森岡洋介という男が、神村支持を依頼しに訪山するであろう。どのような条件を提示するかはわからないが、その折には承諾する振りをして欲しい、と言い残して去った。

――やはり、そうだったか。

 森岡は唇を噛んだ。

 なるほど、栄覚門主ほどの人物であれば、周囲に榊原壮太郎のような情報提供者がいてもおかしくないし、森岡と同様に探偵を雇っているかもしれない。何よりも立国会と繋がっているのであれば、森岡に無くて栄覚に有るもの、すなわち全国に散らばる無数の壇信徒から情報を得ることができる。栄覚の野望など知らない壇信徒であれば、喜んで情報を提供するに違いない。

「私も、まさか貴方が愚息の就職を条件にされるとは思いも寄らぬことでしたので気が咎めましたが、門主の御意向であれば、逆らうこともできませんでした」

 斐川角雲水の表情には、苦渋が滲み出ていた。

「その男の名前を教えて下さいませんか」

「鴻上智之と名乗っていました」

「な、本当ですか!」

 つい声が昂じてしまった。使者は筧克至であるとの思いを強くしていた森岡は、まさか寺院ネットワーク事業を任せた鴻上の名が、雲水の口から洩れるとは思ってもいなかったのである。

「間違いありません。名刺を渡されましたから」

 雲水は怯むようにように言った。

「申し訳ありません。声が大きくなってしまいました」

 森岡は詫びを入れると、

「どのような風体でしたか」

 と確認した。

 榊原の話では、男は小太りだったはずである。

「三十歳過ぎの小太の男でした」

「どういうことだ」

 森岡の口から思わず声が漏れた。

 榊原壮太郎が龍顕寺の護山会会長から聞き出したサラリーマン風の男の容姿とは一致するが、痩せ形で高身長の鴻上本人とは、外見がまるっきり違っているのだ。まさか、偶然に同姓同名であるはずもない。

 森岡は頭の整理に時間を費やした。

 数瞬の静寂の後、

「何かご不審な点でもありますか」

 と、雲水が気遣った。

「いえ、ちょっと偶然が重なったものですから」

 森岡はそう言い訳すると、ともかく一時鴻上のことは放念した。

 そして、

「宜しければ、貫主様がそこまで御門主に義理を通される理由をお聞かせ願えませんか」

 と遠慮勝ちに請うた。

 雲水は、茶を一口啜ると、

「先代の御門主が命の恩人だからです」

 と告白した。

 今を遡ること三十年前、斐川角雲水が四十二歳のときである。彼はこの年、妙顕修行堂において五度目の荒行に挑戦していた。雲水は在野の僧侶だったが、最初の三度を久田の天山修行堂、後の二度は妙顕修行堂で荒行に挑戦していた。

 この荒行には、この回から踏破行が加わっていたのだが、その九十二日目に彼を悲劇が襲った。

 荒行の後半に入った雲水の体力消耗は酷く、脱落は時間の問題と思われたが、今回の荒行を成満すれば大本山・本山貫主の資格を得られることから、彼は無理を通していた。

 荒行も最終盤に入ると、体力は限界に達し、半ば意識朦朧のまま山野を歩くこともある。その日の雲水はまさにそのような状態であった。

 然して彼は踏破行中に意識を失い、山中に身を横たえてしまったのである。四月初旬とはいえ、標高千二百メートルの山中である。

 寒さは斐川角雲水の体力を奪い、絶命までは時間の問題と思われた。

 その絶体絶命の危難を救ったのが、同じく踏破行を行っていた瑞真寺先代門主の栄興であった。

 瑞真寺は世襲が許されている寺院であるから、必ずしも荒行を敢行する必要はないのだが、彼は敢えて妙顕修行堂において荒行を遂行していたのだった。

 瑞真寺へと運ばれた雲水は、手厚い看護により一命を取り留めた。雲水が命の恩人と言ったのは、まさしくこのことであった。

 それから三年後、雲水は見事五回目の荒行を達成し、現在奈良の本山龍顕寺の貫主としてあるのだ。

「なるほど、良くわかりました。話をお伺いして、貫主様が門主の指示に従われるのは至極もっともなことだと思いました。ですから、どうぞお気兼ねなく」

 森岡は、雲水の心中を察して言った。

「ただ一つだけ、本日私が参ったことは無かったことにして頂けませんか」

「無かったこととは」

「私が貫主様の裏切りに気づいたことを内密にお願いしたいのです」

「それは」

 雲水は困惑の表情を浮かべた。

「もし、門主から確認があったときは事実を述べて頂いて結構ですので、敢えて貫主様からの報告は控えて頂けませんか」

 雲水は暫し沈思した後、

「では、私はこのままで良いのですね」

 と訊いた。

 はい、と森岡が肯いた。

「合議、投票の際は栄覚門主の指示通り、久保上人を支持して下さって結構です」

 その言葉に、雲水は居住まいを正すと、

「承知しました。貴方に対する最低限の誠意だと思います」

 と承諾した。

「ありがとうございます」

 と頭を下げた森岡は、

「御門主の意向を伝えに訪山したのは立国会の者ですね」

 と訊いた。

「勅使河原会長の命を受けたと申しておりました」

 雲水は小さく肯いた。

「最後に確認したいのですが、もしや鴻上というのはこの男ではありませんか」

 森岡は、内ポケットから一枚の写真を取り出して訊いた。

 彼は榊原から聞いた三十過ぎの小太りという風体から、もしやと思い、念のため持参していたのである。

「そうです。この男に間違いありませんが、なぜ貴方が鴻上を知っているのですか」

 驚く雲水に向かって、

「貫主様、この男は筧克至というのが本当の名です」

 と、森岡は落ち着いた声で答えた。

――これで筧克至と栄覚門主の関係も明確になった。

 そう確信した森岡は頭を整理した。

 筧は立国会の勅使河原を通じて、栄覚門主の指示を受け、総務清堂側に付いたのであろう。そもそも、ウイニットに入社したのも、門主の命を受けてのことだったのかもしれない。

 内通が発覚し、総務清堂を担ぎ出せなくなったが、門主や立国会の会長と知己があれば、寺院あるいは壇信徒をターゲットにした通信販売の事業化は十分可能である。筧は己の野心への協力を条件に、此度の役目を請けたものと推察できた。

 また、筧にそれだけの後ろ盾があれば、何度も寝首を搔こうするのも肯けた。

 森岡は、栄覚門主による神村潰しの計画が、山際前貫主逝去の一年も前から実行に移されていた事実を突き付けられても、もはや爪の先ほども驚きはしなかった。

 栄覚の力量を嫌というほど見せ付けられた彼は、誰が、何時から、何を画策していたとしても、何ら不思議ではないと達観していたのだった。

 そして、これほどまでの深慮遠謀から鑑みれば、総務清堂の懸念も早晩現実のものとなるかもしれないと思った。

 もっとも森岡にとっては、神村が法主に就任した後でさえあれば、総務清堂の懸念などどうでもよかった。神村の意志は尊重するが、天真宗の法主の座がどのような仕組みで決定されようとそれほどの関心は無かったのである。

 だが栄覚門主は、恩師神村正遠を標的としている。神村の法主への最大の難敵が栄覚である以上、『打倒栄覚門主』は必須の目的となった。

 森岡はギュッと唇を噛んで、栄覚の出鼻を挫くためにも本妙寺の戦いには是が非でも勝利しなければならないと気力を奮い立たせた。

――そのためには枕木山の秘事では弱い。仮に水晶鉱脈を失っても栄覚には勅使河原という強力な手駒が残っている。何としても新たな攻撃材料を手に入れなければならない――それこそ栄覚門主を一撃で倒せる強力な武器を――それともいっそのこと、勅使河原に対して坂根拉致への仕返しを実行し、奴の金を根こそぎ奪い取ってしまうか。さすれば、枕木山の秘事の暴露は、栄覚門主に大きな打撃を加えることになる。

 森岡は様々な考えを巡らしながら奈良の龍顕寺を後にした。






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