第35話  第五巻 聖域の闇 不穏

 森岡は、大河内法悦との話を景山律堂に伝え、再び枕木山に関する資料の探索を依頼したが、大河内が指摘した資料を含め、鉱脈に関する記述は一行も見つからなかった。

 敵もさるもの、先手を打って証拠隠滅を図ったと見られた。

 そこで森岡は視点を変えた。

 史跡という観点から、総本山に拘ることなく広く世間に眼を向けたのである。

 森岡には当てがなくもなかった。高校時代の恩師藤波芳隆である。彼は、出雲大社の流れを汲む由緒正しい古社の神官で、宗教学にも造詣が深かった。

 一縷の望みを掛けて、再び藤波を頼ることにしたのだが、何分身体が二つも三つも欲しいほど多忙を極めている森岡である。藤波に来阪を願うことにした。

 十分な饗応と引き換えに大阪入りを承諾した藤波を、森岡は幸苑に招待した。

「先生、御足労をお願いし、申し訳ありません」

 森岡は神妙な顔つきで頭を下げた。

「なあに今日、明日と取り立てて急ぎの用事はなかったでの。美味い物を食わせ、美味い酒を飲ませてくれるらしいから、旅行気分で来たわい」

 藤波は幸苑の料理を口にしながら、満足の笑みを浮かべて言った。

「ところで、電話で言っておった枕木山だがの」

 はい、と森岡は期待の目で藤波を見た。

「わしなりに調べててはみたが、何もなかったわい」

「そうですか」

 森岡は落胆の色を隠せなかった。

「ただ酒を飲ませてもらうようですまんの」

 と、藤波はいかにも申し訳なさそうに詫びた。

「とんでもありません。先生にお調べ頂いて何もなければ、諦めも付くというものです」

 森岡は、さばさばした顔つきで言った。気持ちの切り替えの速さは彼の天性である。

 ビールグラスを置いて、ふっと藤波が息を吐いた。

「しかし、ずいぶんと大きくなったものだな」

「……」

「過日、十数年ぶりに会ったときも感じていた。そのときはまだ得心がいかなかったが、今日再会してみて素直にそう思う」

「誉め過ぎです」

「考えてみれば破天荒、いや破滅的だったわしのような教師を真摯に受け止めてくれたのはお前だけだった」

「それは違うでしょう。私が言うのもおこがましいですが、先生の授業は圧巻でした。尊敬していた学生は大勢いました」

「授業だけはの」

 と、藤波は寂しい目を森岡に向けた。

「だが、私の心の中に踏み込んで来たのはお前だけだった」

「私は運が良かったのかもしれません」

「運、とな」

「私は幼くして父を失っています。父も酒好きでした。当時は嫌悪感しか抱いていませんでしたが、先生の飲みっぷりを見て、父の面影を重ね合わしていたのかもしれません」

「なるほどの」

 藤波は感慨に耽ったように言うと、一転して意気込んだ声になった。

「実はな、わしもただ酒を飲むのは寝覚めが悪いで、これはと頼りになる人物を見つけておいた」

「あ、それはどうも」

 森岡も明るい顔になった。

「お前、『目加戸瑠津(めかとるつ)』と女性を憶えているだろう」

 藤波の目が悪戯っぽい輝きを放っている。

「『めかとるつ』って、まさかあの?」

 森岡が複雑な表情で問い返す。

「その目加戸瑠津じゃ」

「憶えているもなにも、クラスメートでした」

「それだけか」

 藤波は神職に携わる者とも思えぬ下卑た笑みを浮かべた。

「まあ、多少の恋心も」

 あった、と森岡は戸惑いながら答えた。

 目加戸瑠津は高校一年次のクラスメートで、入学早々から全校男子生徒の熱い眼差しを受けていたマドンナ的存在であった。

 彼女は正真正銘、深窓のお嬢様だった。

 先祖は鎌倉の御世、後醍醐天皇と供に隠岐に配流となったやんごとなき身分の血筋で、江戸時代からは千利休を源流とする観世流茶道の家元である。

 小柄で華奢な体つき、少女のような童顔だったが、近寄りがたいほどの凛とした気品を纏っていた。森岡は、瑠津をよく知る中学時代の同級生から彼女の生家のことを聞き、血筋の成せる業か、と納得したことを憶えている。

『目加戸瑠津』、下から読めば『つるとかめ』、すなわち『鶴と亀』という真に目出度い名で、いかにも女児誕生のときのために用意していた名のように見受けられたが、当人は不服のようで、朝礼時などの点呼の際、姓名で呼ばれることを非常に嫌っていた。

 そこで藤波に代わって点呼をしていた森岡は、姓だけを呼ぶようにした。ただ、彼女だけそのようにすると却って目立ってしまうため、他の者も同様とし、同じ姓の者のみ姓名で呼ぶようにした。 

 森岡は瑠津との出会いを追憶すると、今でも赤面する。ほろ苦い失恋を思い出すのだ。

 それは入学して二ヶ月が経った頃のことである。

 クラスの席替えがあったのだが、予め男女が均等に分布するよう配慮されてからくじ引きとなった。

 そのとき、小さな事件が起こった。森岡の右横になった女子生徒に目加戸瑠津が何やら話し掛けると、二人は席を替わったのである。

 森岡は、瑠津にとってその席が、授業を受け上で都合が良いのだろうとしか思わなかった。

 ところが、休憩時間になると瑠津が話し掛けてきた。クラスメートであるから、話し掛けられることなど当然といえば当然なのだが、彼女は実に親しみの籠った表情で身の上を訊いてきたのである。

――まさか、俺に気が有るのか?

 森岡もしだいに淡い期待を抱くようになった。

 それから、さらに二週間が経った頃である。

 瑠津が何時になく神妙な顔つきで森岡を見つめた。

 森岡はいよいよ告白か、と胸躍る想いになった。

 ところが、彼女の口から出た言葉は思いも寄らぬものだった。

「森岡君って、坂根君とお友達でしょう」

 一瞬、森岡は何を言っているのわからなかった。

「え? う、うん。秀樹は親友だけど……」

「でしたら、私を彼に紹介して下さらない」

 瑠津は、はにかみながら俯いた。

――そういうことか……。

 森岡は、席を替わったときからの彼女の言動を理解した。

 森岡には、怒りとか悔しさ、嫉妬などの感情は一切起こらなかった。坂根秀樹は親友であり、全ての面で自分を凌駕している男である。男の自分でさえ、惚れ惚れする男である。瑠津のようなお嬢様が恋心を抱くのは、自分ではなく坂根秀樹で当然だ、という思いがあった。

 結局、森岡の仲立ちで目加戸瑠津と坂根秀樹は交際を始めたのだが、ともあれ彼にとっては何とも面映ゆい名であった。

「わしの目には、むしろ彼女の方がお前に気があったように見えたがな」

「それはないでしょう。彼女は坂根秀樹と交際していました」

 森岡は取り合わなかったが、

「そうかな、彼女の心はお前に移って行ったように見えたがな」

「有り得ません」

 森岡はあらためて強く否定した。

「では、今度会ったら昔話に訊いてみると良い」

 藤波は意味深長な言葉を吐いた。

「は?」

「実はな、目加戸は京都の日本歴史学芸館というところで古文書を解読する仕事に就いているらしいのじゃ」

「古文書ですか」

「先祖が先祖だけにの。大学で日本史を専攻し、そのまま仕事にしたということらしい」

「そう言えば、高校時代にそのようなことを言っていました」

 森岡は、将来について雑談したときのことを想起していた。目を輝かせて自身の未来を語った瑠津に、森岡は何を言ったか憶えていない。その頃の彼に未来の展望など無かったのである。

「だからの。ひょっとしたら、手掛かりが掴めるかもしれぞ」

「可能性はありますね」

 希望の灯が射した思いの森岡は、

 先生はどうして、と訊こうとして、愚かだったと後悔した。

「……先生は観世流の高弟でしたね」

「今でも、ちょくちょく近況を知らせて来る」

「電話番号はわかりますか」

「もちろんじゃ。今から掛けてみようか」

「では先生、もし彼女の都合さえ良ければ、明日にでも京都に御一緒しませんか」

「わしが居っては邪魔じゃないかの」

 藤波がからかうように言う。

「な、何をおっしゃっているのですか。いくらなんでも、人妻に手など出しませんよ」

 森岡は動揺を隠すかのように、激しく手を振った。

「彼女はまだ独身じゃ」

「そうなのですか」

「案外、想い人を追い続けているのかもしれんな」

 藤波はじろりと森岡を見詰めた。

 森岡の面に困惑の色を看取った藤波は、

「それはそうと、この後はどこへ連れて行ってくれるのかな」

 と話を逸らした。

「北新地を予定していますが」

「それは楽しみじゃな。安月給じゃったから、北新地など二、三度しか行ったことがない。しかも安っぽいラウンジばかりだ。そこは高級クラブなのだろうな」

「そこそこには」

「お前のそこそこは期待できるからな」

 藤波は頼もしそうに笑った。


「ママ、俺の恩師の藤波先生だ」

 森岡が席に着いた茜に紹介すると、

「これは、まさに天女のような美しさだの」

 藤波は神妙な口調で言葉を紡いだ。

「まあ先生ったら、まるで神主様か何かのような口ぶりですね」

「ママ、本物の神主さんや。しかも、出雲風土記にも名がある由緒正しき古社やで」

「あら、これは大変失礼しました」

「さすがに天下に名高い北新地じゃの。ママさんだけでなく、皆美形揃いじゃ」

 恐縮して詫びる茜に、藤波が誉めた。

 茜は、ありがとうございます、と小さく頭を下げると、

「もしかして、先生が森岡さんの恩人というお方ですか」

 そうだ、と森岡は肯いた。

「お前、そんなことまで話しているのか。もしや、この別嬪さんはお前の……」

 恋人なのか、という顔の藤波に、

「まさか、私など見向きもされませんよ」

 と、森岡は大仰に手を振った。

 そうかな、と疑いの目をした藤波に、ふといたずら心が湧いた。

「まあ、良いわ。わしはこの別嬪さんと酒が飲めれば良い」

 上機嫌でそう言った後、

「それにしても、明日は楽しみだの、森岡君」

 とからかったのである。

「あら先生、明日は何かございますの」

 案の定、茜が敏感に反応した。

「うん。それがの、この男の『憧れの君』に会いに行くのじゃ」

「先生……」

 と泡を食ったように藤波の口を封じようとした森岡に、茜が詰め寄った。

「憧れの君ってどなたですの」

 目が吊り上がっていた。

 森岡は、背に冷や汗が伝うのを感じつつ、

「大昔のことだ。それに、明日は本妙寺の件に絡むことで相談したいことがあるからで、特別な感情など無い」

 と弁解に終始した。

「神村先生を盾にすれば、何事も罷り通るなどと思わないで下さいね」

 茜はすっかり女房気取りの口調である。傍から見れば、夫婦の痴話喧嘩だ。

 藤波はにやにやしながら、

――お嬢さんはがっかりするかもしれないが、先妻を亡くしたこいつも、やっと幸せになれるのか。

 と胸に熱いものを感じていた。


 日本歴史学芸館は京都市東山区にあった。この学芸館は政府の外郭団体ではなく、京都府、京都市、京都にある大学、民間企業が共同出資して、日本の歴史研究のために設立された組織である。

 とくに京都、奈良を中心に長らく日本の都があった畿内一円は、数多の古文書が残っている。その多くは私文書であるが、これらを解析することで、歴史の蓋然性の担保や当時の社会慣習、環境を推察することができるのである。

 目加戸瑠津は、この学芸館で主任研究員をしていた。

 二人は一階ロビーの喫茶室で彼女を待っていた。

「まあ」

 森岡を看留めた瑠津がその場で立ち竦んだ。

「先生も意地悪ですね。森岡君が同道するなんで、一言もおっしゃっていなかったでしょう」

 拗ねたような顔がまた魅惑的だった。彼女は二十年の時を重ね、大人の美を纏っていた。それは高校時代、童顔だった分だけ三十六歳にはとうてい思えない瑞々しい美しさだった。

「お前さんを驚かしてやろうと思ってな」

 藤波は、してやったりという目をして言った。

 瑠津は少し顔を赤らめて、

「森岡君、お久しぶり。貴方の活躍は耳にしているわよ」

 と微笑んだ。

「俺の活躍?」

「京都はね、広いようで案外狭いのよ」 

 不審の色を見せた森岡に、瑠津はもっともらしいことを言った後、

「実は、学芸館の後輩研究員の親戚に本妙寺の関係者がいるらしいの」

 と種を明かした。

「関係者?」

「確か、護寺院の会長さんって言っていたわ」

「相馬上人かい」

 そう、と瑠津は肯いた。

「後輩はその相馬さんの姪御さんなの」

「ふーん、たしかに世間は広いようで狭い。僕はこれまで何度も同じような経験をしている」

 森岡は吉永母娘、鴻上智之との関わり、ギャルソンの柿沢父子と勝部雅春や阿波野光高との因縁を脳裡に浮かべて言った。

「最初、やり手の若者で森岡って名が出たとき、貴方だなんて思わなかった。その後、詳しい話を聞いても貴方とイメージが重ならなかった」

「そりゃそうだろ。わしなんか、今でも信じられないもんな」

 藤波が同調した。

「でも、さらに話が深まって行くと、ふと貴方の姿が頭の片隅に浮かんだの」

「ほう。どうしてかの」

「先生、彼って異様に一途じゃありませんでした」

「なるほどの」

 藤波は何度も顎を上下させた。

「それで、今日はどういう御用かしら。まさか、その本妙寺の件じゃないわよね」

「そう言われてしまうと、話し辛くなる」

「あら、本当にそうなの」

 と、瑠津はつぶらな瞳をさらに丸くした。

「私に何を聞きたいの」

「天真宗が所有する枕木山を知っているかな」

「ごめん、知らない」

 瑠津は申し訳なさそうに言った。

「いや、それは構わないんだけど、その枕木山についての古文書があるかどうか調べて欲しいんだ」 

「どういった類のことなの」

「とくにこれ、というのはない。というより、どんな些細なことでも良いんだ」

「うーん」

 瑠津はしばらく沈思した。そして、

「枕木山がそうかどうかはわからないのだけど……」

 と前置きすると、耳寄りなことを口にした。

「あの辺りの山はね。金鉱脈があるかもしれないの」

「金?」

「武田信玄の甲府金山は有名でしょう」

「それなら俺も知っている」

「武田の古文書によると、信玄は所領地の甲府、信濃の他にも周辺の山々を山師に調べされていたようね」

「他国を、か」

「当時の山師というのは乱破(らっぱ)が多かったから、軍事情報の収集も兼ねていたようね」

 乱破とは忍者のことである。

「信玄はいずれ上洛した後、織田と徳川は滅ぼす腹積りだったから、そのときまで隠匿していた可能性もあるな」

「その枕木山がそうだったかどうかは不確かよ」

「わかっている。目加戸さん、もう少し詳しく調べて貰えるかな」

「どうしようかな」

 瑠津は勿体ぶるように言い、

「見返りは何かあるのかしら」

 と訊いた。

「お礼なら、出来得る限りのことするつもりだよ」

「じゃあ、もしお役に立てたら、デートしてくれない」

「……」

 返事に戸惑った森岡に代わって、

「お嬢さんも、ずいぶんと積極的になったものだの」

 と、藤波が助け舟を出したが、

「あら先生、私も三十六歳の女盛りですのよ。いつまでも初心な少女ではありませんわ」

 瑠津は平然と一蹴した。  

「でも、それは冗談。できたら、学芸館に寄付をお願いしたいの」

 瑠津の面に憂いが宿った。

「うちは半官半民なのね。だから、片方の柱である民間支援の激減は痛いの」

 時代はバブル崩壊後の不景気の真っ只中にあった。IT関連企業以外の分野では軒並み業績の下方修正が続いていた。そのため、民間企業の多くは文化事業への投資を縮小していた。

「どれくらい必要なの」

「百万でも二百万でも……いくらでも助かるわ」

 瑠津は遠慮がちに言った。職場の後輩から聞いていた、本妙寺次期貫主を巡って活動しているIT企業経営者というのが森岡だとわかったが、多くを望むことはできない。

「そんなんで良いの」

「えっ?」

「学芸館の規模は知らないけど、焼け石に水じゃないのかな」

「ええ、まあ……」

 瑠津は口を濁した。

「遠慮せずに希望額を言ってごらん」

 森岡に背を押されて、ようやく瑠津は意を決した顔つきになった。

「当面、三千万ほど寄付して貰えると助かるわ」

「良いよ。五千万寄付しよう」

森岡は二つ返事で応じた。

「良いの?」

 もちろん、と森岡は請け負った。

「仕事の内容を吟味した上で賛同できれば、五千万とはいかないけど、二、三千万ぐらいなら来年以降も継続させてもらうよ」

「本当に」

「約束しよう」

 信じられないという顔の瑠津に、森岡は力強く顎を引いた。

「とても有り難い話だけど、ITってそんなに儲かるの」

「ううん、まあ」

 今度は森岡が言葉を濁した。

「お嬢さんや。こいつはな、とてつもない大金持ちになっているらしいぞ」

「大金持ち……」

 瑠津は首を傾げた。森岡のイメージとは一致しないらしい。

「なんというか、俺自身もピンこないのだが……」

 と煮え切らない森岡に代わって、

「近々、年商一兆円企業群のトップに座るそうだ」

 業を煮やしたように藤波が言った。

「一兆円……」

 あまりの多寡に呆然とする瑠津を他所に、

「どうしてそれを?」

 森岡は不審げに訊いた。

「坂根から聞いたが、悪かったかの」

「いいえ、隠しておくことでもないですから……でも、坂根からお聴きになったのはそれだけですか」

「それだけ、とはどういう意味だ。他にも何かあるのか」

「まあ、無くもないですが、先生はお知りにならない方が良いでしょう」

 森岡は厳しい眼つきで言った。

 藤波はごくりと生唾を飲んだ。彼は、出雲風土記にも記載がある古社の神官である。人を見る目は十分に養っている。

「ほう、お前がそのような目をするか。なにやら、違う世界にも足を踏み入れているようだの」

 森岡は黙って首肯した。

「とはいえ、別に犯罪に手を染めているわけではない。寄付は真っ当な金だよ」

 呆然とする瑠津に向い、森岡は真顔で言った。

 調べが付き次第、連絡を貰うという約束をして森岡は瑠津と別れた。

 

 東京永田町の議員会館で、秘書の金丸から森岡洋介に関する調査報告を受けた唐橋大紀は、唇を噛み締め、身を震わせていた。

 唐橋の私設第一秘書である金丸は、森岡の身辺調査を興信所に依頼した他、自らも浜浦に出向いて森岡忠洋に会い情報を収集した。

 通常、国会議員は『金帰火来』といって、週末の金曜日に地元選挙区に帰り、週明けの火曜日に東京へ戻るという日程を熟している。

 しかしそれは、陣笠議員、つまり次回の選挙に不安のある、その他大勢の議員が地元後援者との親交を深めるためであって、現職閣僚や唐橋大紀のような政権与党の重鎮など、盤石の選挙基盤のある大物議員はその限りではない。東京に残ってやるべき仕事が多いからである。その場合は、議員の妻女や秘書が役目を代行する。

 したがって、懐刀ともいえる金丸が、唐橋に代わって有力後援者と会うことに違和感はなく、選挙に向けての相談の合間に、さりげなく森岡の近況を問い質すことは容易であった。森岡忠洋にしても、取り立てて警戒する必要も感じなかったので知る限りのことを口にした。

 ウイニットが上場を予定していることはもちろんのこと、森岡の婚約者である山尾茜が松尾正之助の縁者であること、その松尾の所有する会社と味一番株式会社を含む数社の持ち株会社のトップに君臨する予定であることなどを話をした。

 いずれも、お盆の酒宴の際、南目輝が自慢げに漏らしたものであった。しかし、さすがに酔ってはいたものの、ブックメーカー事業の話は口にしなかったらしい。

 唐橋大紀がことさら後悔の念に苛まれたのは、森岡の昇龍の如き立身出世もさることながら、加えて神村正遠の薫陶を受けているという事実だった。

「わしとしたことが、手抜かりだった」

 唐橋大紀は呻くように言った。

 首相も務めた竹山中の急逝に伴う補欠選挙に、竹中陣営は満足な後継者を立てることができなかった。為に、島根半島界隈の地盤が唐橋大紀に戻った。取り纏めに尽力したのは、森岡忠洋をはじめとする灘屋の親戚の面々である。

 その際、何度か森岡洋介の消息が話題に上ったのだが、唐橋は潰れた家の者など気にも留めなかった。もっとも、森岡自身が消息を絶っていたので、彼の噂が浜浦に届くことはなかったのだが……。

 ただ、唐橋大紀は父大蔵から灘屋を恨んではならない、と釘を刺されていただけでなく、注視を怠るなとも忠告されていた。いま思えば、利発な子供だった森岡洋介の今日を予感してのことだったのかもしれない、と彼は悔いていた。

 現在の唐橋は、民自党最大派閥・阿久津派の後継領袖の座を巡って、宿敵議員と鍔迫り合いの真っ最中にいた。願望成否の鍵は、表向きには阿久津に対する忠誠心、すなわち禅譲後も彼を厚遇するか否かということになっているが、内実は金、資金力である。

 派閥の総領ともなれば、身銭を切って所属議員の金銭的面倒を看なければならない。お盆と暮れの、俗に言う『もち代』や選挙資金など、所属議員が多ければ多いほど、派閥維持は潤沢な資金が必要となる。故に、いかに強力なスポンサーを確保するかが最重要課題となる。 

 その観点からいえば、森岡ほど条件の揃った人物はそうそういるものではない。

 まず第一に、父大蔵と森岡の祖父洋吾郎の長年に亘る交誼である。最後は反目する形となったが、両人共に本意ではなかった。大紀には遺恨など微塵も無いし、森岡洋介には何の関わりもないことである。

 次に、森岡自身が資産家ということである。ウイニットの上場で一時的に巨万の富を得るだけでなく、年間売上一兆円規模の企業群のトップに君臨するとなれば、安定的な支援が期待できる。

 そして極め付けが神村正遠の存在である。神村の高名は唐橋大紀の耳にも届いていた。政権与党の重鎮たちの中にも、指導を受けている者がいることも知っていた。何といっても神村は、あの『歴代総理の指南番』と称された希代の大学者奈良岡真篤から後継指名された人物である。

――あのときの余裕は、たしかな理由に裏付けされていたのか。

 唐橋は、赤坂の事務所での面談を想起していた。

「まさか、そのような男だったとはい思いも寄りませんでした」

 金丸が嘆息した。

「灘屋一門が、これまで一片の揺るぎもなく彼を総領として扱ってきた所以だな」

 と、唐橋も切れ者秘書に同調した。

「虎鉄組とも円満解決したようです」

「そうか」

 唐橋は抑揚なく受け流した。森岡であれば当然だろうな、という思いがあった。だが、

「その場に宗光氏も同席していたようです」

 との秘書の言葉には驚愕した。

「なに!」

 さしもの大物政治家も二の句が継げなかった。

――いかにして、右翼の首領を引っ張り出したのか。

 思いはその一念だった。

 唐橋との面会を終えた森岡から東京での宿泊先を聞き出した金丸は、旧知の興信所に依頼して、森岡の行動を監視させていたのである。

「大魚を逃がしたかのう」

 唐橋は落胆の声で言った。

 面会の際の尊大な態度と、宗光賢治に関して何も助力できなかったことを照らし合わせれば、森岡が不快に思っていても仕方がないところである。

「森岡忠洋さんに仲立ちしてもらってはいかがでしょう」

 金丸が提案した。叔父と甥の関係に期待してのものである。

「それはできない。失策を重ねるだけだ」

 唐橋は強い口調で断じた。

 さすがに、魑魅魍魎が蠢く政界にあって出世を重ねた政治家である。森岡忠洋を介することは下策だと見切っていた。

 森岡洋介は凋落した灘屋を捨て、自力でここまで登り詰めている。いまさら、親族の言に耳を傾けるとは思えなかった。さすれば、森岡忠洋を使って圧力を掛けるという姑息な手段を用いた自分に嫌悪感を抱くかもしれない。唐橋大紀はそう考えたのである。

「では、どうのようにいたしたら」

「考えどころだの。こちらは一度失態を演じている。二度目はない」

「はい」

「焦りは禁物だ。あれだけの大魚だ。網に掛ける方策はじっくりと考えねばなるまいな」

 そう言った唐橋の眼は、いつもの老獪な政治家のそれに戻っていた。


 森岡洋介が推量したとおり、週刊誌によるスキャンダル報道、富国銀行の株式引き受け拒否、そして坂根好之の拉致監禁と、彼が自身に降り掛かる火の粉の対応に追われていた裏では、京都大本山本妙寺の新貫主選出の鍵を握る貫主たちが微妙な動きを始めていた。

 そのような折、森岡は片桐瞳の呼び出しを受け、京都祇園のお茶屋吉力に足を運んだ。傳法寺前貫主の大河内法悦と面談してから半月も経たないうちの祇園入りだった。

 森岡は蒲生亮太と足立統万、そして神栄会若頭補佐の九頭目弘毅を隣室に上げ入れ、残る影警護の二人は近くの喫茶店で待機させた。

 座敷では片桐瞳が一人で待っていた。料理は運ばれてなかったが、ビールと簡単なつまみが用意されていた。

 彼女は森岡を見るなり、

「洋介、忙しいのにごめんね」

 と顔の前で両手を合わせた。

「それはかまわんけど、何かあったんか、お姉ちゃん」

 森岡は深刻な顔つきで訊いた。

「その、お姉ちゃんっていうのは止めてくれない」 

 怒ったように言いながら、森岡のグラスにビールを注いだ。

「二人きりのときは、昔どおりでええやないか」

「でも、あの頃とは違うわ。私はともかく、洋介は世間が注目する新進気鋭の若手経営者だもの。そんな人にお姉ちゃんだなんて、恐れ多くて」

「社会的地位なんて関係あらへん。俺はお姉ちゃんと出会った頃のままの付き合いがしたいと思っている」

「出会った頃ねえ……」

 と感慨に拭けた様子の瞳の目が悪戯っぽい輝きを放った。

「ねえねえ、あの頃洋介は私のこと好きだったの」

 ぷっ、と口に含んだビールを吐き出しそうになった。

「いきなり、なんだ」

「私に想いを寄せていたの。それとも身体に興味があっただけなのかしら」

「正直にって、お姉ちゃんに恋愛感情はなかった」

「まあ、はっきり言うわね」

 瞳は少し落胆の口調で言う。

「といって、姉ちゃんの身体が目的だったわけでもないで。なんて言ったらええのかな。大学に入ってすぐ祖母が亡くなり天涯孤独になった俺は、運よく神村先生に拾われ、生きる希望が湧いていた頃やった。せやけど、先生のお寺での暮らしは緊張の連続で、たとえ先生が他出されたときでも、何か試されてはいないか、何か落ち度はなかったかと、一時も神経の休まることがなかった」

 森岡は神村の知人からの苦情を受けて、一旦経王寺を出たことがあったのだが、そのとき気の緩みを神村にこっぴどく叱責されたことを生涯の教訓としていた。

「そうだったの。私は神村先生の同伴とはいえ、まだ大学生だというのにお茶屋で舞妓や芸妓遊びに興じる能天気な奴としか思っていなかった」

「そういう俺にとっては、お姉ちゃんといるときだけが気の休まる時間だったんや」

「だったら、本当に姉だと思っていたの」

「恋人というよりはそっちに近い」

「だったら私たち近親相姦しちゃったのね」

 瞳は冗談のつもりだったが、森岡の表情が一瞬にして曇った。

「どうしたの、洋介。真に受ける馬鹿がどこにいるのよ。第一私たちは実の姉弟じゃないのよ」

 森岡の深刻な様子に、瞳もまた真顔になっていた。

「いや、なんでもない。ちょっと昔の嫌な思い出が蘇っただけだ」

「昔のって、なに」

「それは、お姉ちゃんにも言えない」

 森岡は強い口調で拒絶した。

 瞳は思わず身震いした。その苦悩に満ちた表情に、心底を覆い尽くす深い闇を垣間見た気がしたのである。

 そのとき、襖の向こうから気まずい空気を引き裂くような声が掛けられた。

「入ってええどすかあ」

 実に長閑な音色だった。

「鶴乃ちゃんの声やないか」

「あら、いけない。すっかり忘れてた」

 瞳が掌で額を叩くと、襖の向こうに返事をした。

「鶴ちゃん、どうぞ」

 襖を開けて、舞妓姿の鶴乃が入ってきた。

「いけずやわあ、瞳姉さん。いつまで待たせるんどすか」

 鶴乃は頬を膨らませる。

「ごめんなさい。つい話し込んでしまったの」

「うちのことを忘れるほど仲睦まじいなんて、宜しゅうおまんなあ」

 口調はのんびりとしたものだが、嫌味たらたらである。

「鶴ちゃん、機嫌直して洋介に酌をしてあげて」

 瞳は宥めるように言うと、腰を上げた。

「それじゃあ洋介、鶴ちゃんの話を聞いてあげてね」

「えっ、話って鶴乃ちゃんなのか」

「そうよ、言ってなかったかしら」

「聞いてないけど、瞳もいたら良いじゃないか」

「せっかくだけど、これから私はお客様と同伴だからそうはいかないの。どうぞ二人で燃え上がってちょうだい。それから、他の舞妓さんや芸妓さんにも声を掛けてあるから、鶴乃ちゃんの話が済んだら呼んであげてね」

 瞳は無責任な捨て台詞を吐いて、さっさと部屋から出て行った。

「森岡はん、うちと二人きりは嫌どすか」

「そんなことはない。日本一の舞妓を独占できるのやから、男冥利に尽きる」

「ほんまに?」

「ほんまや」

 森岡は気圧されるように言った。

 鶴乃は類い稀な美人である。素顔を見たときに想像した以上の、壮絶な美貌の持ち主だった。舞妓の化粧なので一般とは違うが、過日の素顔、眼前の舞妓の化粧から普段の化粧顔を想像すれば、なるほど各界の著名人が躍起になって口説いているのも理解できた。

「それで、話って何かな」

「へえ、その前に、もしうちの話が森岡さんにとって有益なことどしたら、鶴乃にご褒美をくれはりますか」

「もちろんや、ただで情報を貰おうとは思わんで」

「ほらな、話の前に鶴乃にもビールを一杯注いでおくれやす」

「おう、これは気が利かんことやった」 

 鶴乃は注がれたビールを一口飲んだ。

 鶴乃は十八歳だが、京都府の条例で舞妓の職にあるときは飲酒ができる。過日はプライベートだったので飲酒はしていなかった。

 ついでに言っておくと、京都や関西では芸妓というが、関東では芸者と呼ぶ。

「実は、蔦恵(つたえ)いう先輩芸妓の姉さんがいてはるんですけど、置屋も違うし、六歳も離れているのに、ほんに気安うてお互い何でも話せる仲なんどす」

「ほう。それは心強いやろうな」

 へえ、と肯いた鶴乃は、

「ところが、最近姉さんが元気がおへんのどす」

「困ったことでもできたのか」

「というより、近々身請けされる予定どしたが、流れてしもうたらしいのどす」

「なんでや」

「それが、相手はんが急に金が出せんようになったらしいのどす」

「わかった。その金、俺に出してくれと言うんやろう」

 過日、森岡が女性の難儀話に弱く、資金援助を惜しまないという話をしたばかりだった。

「話を先走る人は好きやおへん」

 鶴乃が駄々をこねるように、ぷいっとそっぽを向いた。

 好きになられても困ると思ったが、口にすれば藪蛇となる。森岡はぐっと言葉を呑み込んだ。

「話の腰を折ってごめん」

 と、森岡は素直に詫びた。

「そんなことを頼みはしまへん。そうではのうて、うちが伝えたかったんは、蔦恵姉さんを身請けしたい言うてはったのが坂東上人だということどすj

「な、坂東上人やと」

 森岡の声が上ずった。

「へえ。たしかに桂国寺の坂東上人どす」

 これもまた、過日鶴乃が瞳との仲を疑った際、森岡が坂東明園の名を出して弁明したことを覚えていたのだと付け加えた。さすがに、当代一の舞妓は如才ない。

「身請けの金額はいくらだった」

「なんでも小料理バーを開くとかで、当面の資金繰りや生活費やらで八千万と言うてはりました」

 京都では、畳敷きのカウンターバーで食事をしながら飲酒できる店がある。ショットバーと小料理屋を兼ね備えた店と言えばわかりやすいだろうか。畳敷きと言っても足を下に伸ばせるよう繰り抜いてあるので、カウンターの前に腰を下ろす形となる。

「それが用意できなくなったと」

「へえ。急に融通できなくなったということでしたえ」

 森岡に直感が働いた。

――坂東は裏切る腹だ。

 現時点で神村支持は法国寺の久田、清門寺の戸川、経門寺の北見、法仁寺の広瀬、龍顕寺の斐川角、桂国寺の坂東の六貫主である。

 そのうち本妙寺の山際前貫主以来、揺るぎなく神村を支持してくれている戸川と北見の二人には、謝礼としてそれぞれ三千万円を前渡ししていたが、他の貫主たちとは成功報酬の形を取っていた。

「大変な情報を貰った。ありがとう、礼を言います」

 森岡は頭を下げた。

「森岡はんにとって有益やいうことどすな」

「大いに……」

「ほなら、さっきの約束は守ってもらいますえ」

「もちろんだ。なんでも言ってくれ」

「今は特に何もありまへんけど、いずれお願い申します」

「もうすぐ襟替えやろ、その費用を持とうか」

 襟替えとは、舞妓から芸妓になることである。

 言うまでもないが、現在の舞妓や芸妓は自由恋愛である。旦那と呼ばれるスポンサーに身請けされることも、花街を辞めて一般人に戻るのも自由である。ただ、舞妓になる前に多額の費用を置屋が肩代わりしているので、それが残っている場合は返済しなければならない。

「それは結構どす。もう旦那さんが付いておます」

「それは色事抜きで」

「もちろんどす」

 鶴乃がふくれっ面をした。怒った仕種が一層彼女を愛らしく魅せる。

「それは野暮なことを聞いてしまった。謝る」

 森岡は両手を顔の前で合わせた。

「でもうれしいわあ、森岡さんはうちの身体を心配してくれはったのでっしゃろう」

 と今度は明るい声で言う。その天真爛漫さが男の心を惹きつけてやまないのだろう、と森岡は思った。

「君なら、ちゃんとしたスポンサーが付くとは思ったが、つい訊ねてしまった。俺もまだまだ下衆やな」

 森岡は自嘲した。

「それで、蔦恵さんはどうなるのかな」

「へえ、それがまだ契約はしていなかったものの、不動屋さんと口約束をしてはりましたし、一度芸妓を辞める決心をしてはりましたからな、難儀なことどす」

「それなら、俺がその八千万を出すよ」

「ええ? 森岡さんが蔦恵姉さんの色になりはるんどすか」

 と、鶴乃が睨み付ける。怒った顔がまた壮絶に美しい。

「ば、馬鹿を言うな。俺だって色事抜きでスポンサーなることはある。現に瞳はビジネスライクで出資した」

「せやけど、それは瞳姉さんとは昔馴染みだったからでっしゃろ。蔦恵姉さんとは面識すらおへんのどすえ」

 森岡は驚きを隠せない鶴乃の顔を見据えた。

 一呼吸間をおいて、にやりと笑う。

「当代一の舞妓が仲立ちやないか」

 鶴乃はうっとりとした目で森岡を見返した。

「ずいぶんと粋どすなあ」

「もちろん、これは鶴乃ちゃんへのお礼とは別だからね」

「うちの方は五年後ぐらいになりますから、忘れたらあきまへんえ」

「わかった、約束する」

「ほな、指切りげんまん」

 鶴乃は小指を森岡のそれと絡めた。

「指切りげんまん、嘘吐いたら……」

 そこで、鶴乃は言葉を切った。

「嘘吐いたら、なに?」

「嘘吐いたら」

 と言って、鶴乃は絡まった小指を胸元に引いて、同時に顔を突き出した。

 二人の顔が接近した。

「容赦しまへんえ」

 鶴乃はそう囁くと、唇を森岡の唇に重ねた。

 その瞬間、森岡の股間に血が滾った。唇が触れただけで股間が膨張したのは初めてのことである。

――これはあかん。この舞妓(こ)の魔性は男を駄目にする。もし俺が惚れでもしたら、たちまち骨抜きにされてしまうのが落ちだ。

 目眩く官能の中にも、森岡は冷静に分析していた。


 森岡は、すぐさま谷川東顕、東良兄弟に神村支持者との面談を依頼した。

 すると、推量通り桂国寺の坂東貫主の挙動が不審だったとの結果が得られた。

 たしかに坂東明園は心の疾しさを隠し通せる人物ではない。裏を返せば、それだけ正直者ということであろうが、その彼が曖昧な返事に終始したということは間違いなく神村支持を翻意したと見るべきであった。

 片桐瞳が森岡の出資で祇園にクラブをオープンしたことで、彼女を愛人にとの望みを絶たれ、大金が必要でなくなった坂東の造反は考えられないことではなかった。だからこそ、その善後策として久田帝玄の法国寺貫主就任パーティーの二次会会場にクラブ菊乃を設定したのである。帝玄の威光は坂東の意思の重石になるはずであった。

 しかも、片桐瞳から蔦恵なる芸妓へ鞍替えしていたのであるから、多額の金銭が必要な坂東明園に裏切る意志は無かったはずだった。

 それでも坂東は裏切りを考えた。

――やはり、巨大な力が裏で働いている。

 森岡は顔を歪めた。

 というのも坂東が翻意しただけでは、神村の優勢は揺ぎなかった。


 現時点での各貫主の意向は、神村支持が六名、久保支持が四名である。


 京都 大本山  別格法国寺 久田   神村 

           傳法寺 大河内 (辞任) 

           本妙寺 ――

     本山    国龍寺 安田   久保          

           清門寺 戸川   神村     

           顕心寺 酒井   久保      

           桂国寺 坂東   神村 

           相心寺 一色   久保 


 関西  本山 奈良 桂妙寺 村田   久保  

        奈良 龍顕寺 斐川角  神村     

        三重 法仁寺 広瀬   神村 

        大阪 経門寺 北見   神村 


 この状況から坂東明園が久保支持に寝返れば、形勢は五名対五名の五分となるが、その場合は別格大本山法国寺貫主で、京都本山会会長でもある久田帝玄の裁定に委ねられるのである。そのことを重々承知しているはずの坂東が、敢えて実力者久田帝玄に対峙してまで、無意味と思われる裏切りを決めたのは何故か。

 森岡の脳裡を掠めたのは、

――坂東の裏切りが意味を持つための、更なる裏切りが画策されている。裏で意図を引いているのは、天真宗の影の実力者、瑞真寺の門主……。

 という確信であった。

 森岡は神村支持の五貫主の周辺と瑞真寺の調査を榊原に依頼した。そして自身は、もう一人の裏切り者は誰なのかを推測した。

 まず久田帝玄は消えた。法国寺の宝物の一件が解決を見た彼に、神村を裏切る理由は無い。

 次に奈良龍顕寺の斐川角貫主が消えた。貫主の次男勇次の件で面談に及んだときの印象からして約束を違える人物には見えない。

 三重法仁寺の広瀬貫主も問題ないと思えた。直接会ったことはないが、真鍋高志の話から地位や金に眼の暗むような人物とは思えない。

 残るは、清門寺の戸川と経門寺の北見ということになる。

 この二人とも面識はなかったが、ただ彼らは本妙寺の前貫主山際の時代から、山際そして神村を一貫して支持してきている。いまさら裏切り行為に及ぶとは考えられなかった。

 では、この五名のうち一体誰が裏切者なのか。それとも杞憂に過ぎないのか。

 森岡の推測は堂々巡りするばかりだった。


 一週間後、森岡は榊原の会社を訪ねた。

「言い難いのやが……」

 と、榊原が顔を曇らせた。

「坂東以外では斐川角上人が一番怪しいな」

「なんやて!」

 森岡は驚愕の声を上げた。何度推量を繰り返しても、久田帝玄と共に一番に消えた名だった。

「嘘やろ」

 と、森岡は初めて榊原の言葉を疑った。

「お前から貫主さんの息子との関係を聞いとったからな、わしも信じられんかったわ」

 森岡の心中を察してか、榊原も沈痛な面持ちである。

「しかし、あの実直そうな斐川角上人が……」

 森岡は信じられなかった。僅かな時間ではあったが、直に会話をしてみて、金銭欲旺盛な一色魁嶺や好色家の坂東明園とは違い、斐川角雲水には一心に仏道に邁進してきた清廉さがあった。とてものこと、裏切りなどという言葉が当てはまるような人物ではなかった。

「爺ちゃん、間違いないんか」

 森岡は念を押した。

「法国寺の久田上人、清門寺の戸川上人、経門寺の北見上人、そして法仁寺の広瀬上人の四人の周辺に異変は全くない。龍顕寺の斐川角上人のみ不穏な動きがあるのや」

「不穏な動きとは何や」

「龍顕寺の護山会会長の話によると、一年半ほど前、ちょうどお前が訪ねて行った頃から上人の表情が物憂げなものに変わったということや」

「心に重石を抱えているということか」

「会長はな、お前のお蔭で勇次とやらの問題が解決し、公私共に憂いは無くなったはずなのに、貫主さんは何を悩んでおられるのやろうと思っていたらしい」

「勇次の問題を抱えていたときとは違うということやな」

 うむ、と榊原は肯いた。

「息子の引き籠りはの、心配は心配だが、それが表に出ることはなかったらしい。ところが、近頃では法会の段取りなどで打ち合わせをしていても、心ここに在らずといった様子での、度々溜息を漏らしていたというのや」

「それは、たしかにおかしいな」

「となるとや、誠心実直な人柄の上人のこと、その悩みの種とはお前に対する罪悪感と考えられないか」

「俺を騙しているとでも? あまりに短絡過ぎやしないか」

「いいや、たぶん間違いない」

 榊原は断定口調で言った。

「何か他にも掴んでいるみたいやな」

 元より、榊原は当て推量で物を言う人間ではないと承知している。

「実はな。お前が斐川角上人を訪ねた一ヶ月ほど前、その護山会会長は龍顕寺で正体不明の男と出くわしたことがあったらしい。不審に思った会長は、何者かと訊ねたらしいが、斐川角上人の口は堅かったということや」

「正体不明やと」

「サラリーマン風の若い男だったらしいが、初めて見る顔で上人の個人的な信者という風でもなかったらしい。そこでだ、さらに執事の一人にも探りを入れてみるとな、なんと斐川角上人の方が下手に出ていたらしいで」

――はて? サラリーマン風の男とは、いったい誰に繋がるのだろうか。

 と、森岡は頭を捻った。

「どうしたんや、洋介。心当たりでもあるんか」

「いや、なんでもあらへん。それより、その男は斐川角上人より目上ということやな」

「あるいは目上の人物の使いということになるが、それでも、ただの使いに貫主の身分にある者が下手に出ることは、そうそうあることやないで」

 そう言った榊原の眼つきが鋭くなった。

「わしはな、洋介。その男は瑞真寺の門主の使いやないかと睨んどるのや」

――う、うう……。

 森岡の全身が総毛立った。榊原ほどの男が吐く言葉は重たい。

「お前かて、瑞真寺の暗躍を疑っとるから、わしに探らせたんやろ」

「ま、まあ、せやけど……だが、しかし」

 さしもの森岡でも、現実を消化するのに時間が掛かった。否定したい願望が邪魔をしているのである。

 無理もない。たしかに事が別格大本山法国寺に移ってからの種々の画策は、瑞真寺門主の仕業ではないかと疑っていた。つまりそれは、門主の主敵はあくまでも久田帝玄だということである。

 だが榊原の言葉を信じれば、門主の計略はすでに一年半前に始まっていたことになる。しかもその的は、久田帝玄ではなく神村正遠だったということになるのだ。

 榊原の言だけではない。現実に森岡の周囲で起こった様々な事件は、全て神村の懐刀として働く己の力を削ぐためだったと考えれば辻褄が合う。

 たとえば、理由が不明だった桂妙寺の村田貫主の造反も、門主が仕掛けたものだと推量すれば腑に落ちる。

――いや、まてよ。

 と、森岡はそこで別の連想が奔った。

 そもそも事の発端となった、本妙寺山際前貫主の不手際も門主の策略なのではないか。

 山際前貫主に神村を引き合わせたのは、現法主の栄薩大僧正であるから、いかに門主といえども、これ自体を阻止することはできない。そこで、後継問題で山際前貫主に圧力を掛けたのではないか。結果として、逡巡している間に山際前貫主が急逝してしまい、門主の思惑どおりとなった。

 そこまで用意周到あれば、

――坂東や一色も……。

 と思ったが、

――いや違う。

 とすぐに思い直した。

 門主の許に正確な情報が入っていたとすれば、懐柔は斐川角貫主一人で十分なはずである。三対八の劣勢から坂東、広瀬、斐川角の三貫主を寝返らせ、六対五に挽回したと安心させておいた方が得策だし、

――俺ならば、そうする。

 との考えに至った。

 現に、もし別格大本山法国寺の黒岩貫主が病に倒れず、あのまま投票による採決となっていれば、抱き込んだと思った斐川角貫主の再翻意によって五対六で敗れていたことになる。

 そういう意味では、黒岩貫主の急病は門主にとっても誤算だったのであろう。そして、森岡が全く接触しなかった法仁寺の広瀬貫主が神村支持に回ったこともまたしかりである。

 そこで今回、斐川角貫主の他にもっとも変節しやすい坂東貫主に狙いを付けた、と考えるのが妥当であった。

 あっ! と森岡は心の中で叫んだ。脳裡に正体不明の男の姿がはっきりと浮かんだ。

「爺ちゃん、さっきの正体不明の男やけど、風体はわかるか」

「小太りだったということやで」

「年は」

「三十過ぎといったところかの」

――三十過ぎの小太り……はやり、これもまた筧克至だ。

 森岡は、榊原に気づかれぬよう、必死に身体の震えを抑えた。

 斐川角雲水の許を訪れたのが筧だとすれば、栄覚門主と勅使川原の関係が明白となっただけでなく、栄覚の計略は一年半前どころか、さらにその一年以上も前、筧がウイニットに入社したときにまで遡るかもしれないという、実に深遠なものになるのだ。

 森岡は、想像を超える筧克志との悪縁の深さに嘆息し、同時に景山律堂が筧を知らなかった理由もわかった。

 筧が栄覚の指示によって総務清堂側に付いていたのであれば、彼にとっては吉永幹子も手駒の一つに過ぎなかったということなのだ。

「どないした、洋介。顔色が悪いで」

 榊原が気遣った。 

「いや、なんでもあらへん。ところで、爺ちゃん。二人が裏切る理由はなんやろ」

 森岡は動揺を仕舞い込むかのように話題を逸らした。

「坂東には、何某かの金が渡っているんないか」

「金か。まあ、あいつならそんなところやろ。出所は久保か」

「はっきりとした出所はわからんが、門主やないか」

「爺ちゃんが尻尾を掴めんなんて、余程のことやな」

 森岡はそう言ったが、門主が動いたのであれば、金ではないのだろうと思っていた。事実、坂東貫主は芸妓蔦恵の身請けを断念している。 

「斐川角上人の方はなんや」

「そっちは皆目わからんのや。ただ、金ではないようやな」

「やはり金やないのか、実に厄介やなあ」

 森岡は苦渋の面で言うと、しばし考え込んだ。

「ところで、他の四人は本当に大丈夫やろうか」

「そっちは間違いない」

 榊原は確信に満ちた声で言った。

 彼は、寺院周辺の至るところに人脈を持っていた。住職本人はもちろんのこと、妻女を始めとする家族、執事、弟子、檀家、護寺院、護山会と、ありとあらゆる方面との親交を保ち、調査の内容によって、接触する相手を選んだ。だからこそ、彼が掴んだ情報は信頼性が高いのである。

 森岡の表情がようやく安堵したものになった。

「そうか。なら、一人寝返らせればええということやな」

 門主は、神村支持者から板東貫主と斐川角貫主の寝返りを画策し、現状の四対六の劣勢から六対四に逆転しようとしている。ならば、逆に久保支持者から一人翻意させれば五対五の五分となり、久田帝玄の裁定にも持ち込むことができる。

「今度は誰を的に掛けるつもりや。もう一度坂東か」

「坂東なあ」

 と気のない返事をすると、

「ところで、問題の枕木山や瑞真寺について、あれから何かわかったかな」

 と、森岡は話題を転じた。

 森岡は、枕木山の秘密についての継続調査を依頼していた。

 榊原が苦虫を噛み潰したような顔をした。

「それやがな。枕木山の件もそうやが、瑞真寺も閉口したで。何人かにそれとなく訊いてみたのやが、話が瑞真寺に及ぶと、皆途端に口を硬く閉ざすんや」

「それは仕方がないで。瑞真寺には、探偵の伊能さんも痛い目に負うているからな。爺ちゃんもこれ以上の深入りは禁物やで」

「しかし、選りに選ってえらい化け物が出て来よったの」

 榊原は怯むように言った。

 瑞真寺は、総本山の中でも濃いベールに包まれている存在である。ましてや在野の寺院に当たって調査しようにも、限界があるのは無理もないことだった。そうかと言って、総本山に乗り込めば伊能剛史のようなこともある。さすがの榊原を以ってしても、瑞真寺には迫ることができなかった。

 森岡は、いよいよ本妙寺山際前貫主の急逝から始まった一連の動きの背後に、瑞真寺門主の影をはっきりと見た気がした。神村の前に立ち塞がっているのは、栄覚門主に間違いないとの確信を抱いた。

 だが、大きな疑問もいくつか残った。

 以前から抱いていたことだが、栄覚門主はなぜ勅使河原公彦と一線を画しているのか。勅使川原が後ろ盾であれば、門主の資金は無尽蔵ということになる。当然、森岡の坂東明園への買収工作など無力化することができたはずだ。だが、坂東に金が渡っていないのは明白である。

――栄覚門主が勅使川原と一定の距離を置いている理由は何だろうか。

 森岡は、むしろ金銭的な攻勢を掛けない門主に底知れぬ力量を感じた。

 もう一つは、栄覚門主がこれほどの周到な遠謀を企てる動機が不明なことである。

 真の血脈者として、神村正遠が周囲から宗祖栄真大聖人の生まれ変わりと称されていることに忸怩たる思いがあったにしろ、菊池龍峰のように嫉妬などという陳腐な劣情がその理由ではないはずだ。

「とりあえず、瑞真寺は横に置くとして、問題は誰を引き入れるかやな」

 森岡が自分で話を元に戻した。

「そう言うて、お前のことや、もう策は浮かんでいるのやろ」

 榊原は、森岡を覗き込んだ。

「まあ、おぼろげには」

 森岡は曖昧に答えた。

「やはり、坂東上人を引き止めるんか」

「いや、彼は当てにならん」

「斐川角上人を?」

「それも無理やろ」

「じゃあ、いったい誰や」

 榊原は焦れたように訊いた。

「はっきりと決めたら、爺ちゃんにも力を借りることになるが、いずれにしても今回は時間も無いことやし、少々荒っぽいことをせにゃならんかもな」

 森岡は榊原には言葉を控えたが、栄覚門主が相手となれば手段を選んでいる余裕はないと腹を括っていた。

 榊原の目には、そのような彼の表情がどこか物憂げに映っていた。際限の無い泥沼の戦いに、さすがの森岡の心も疲弊しているように映っていたのである。

「ところで、金は大丈夫なんか」

「おおきに。爺ちゃんのお陰で、松尾会長のところから二十億入るから心配いらん」

「それならええが、困ったら遠慮なく言いや」

 榊原は、実に愛情のある眼差しで言った。













 

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