第27話  第四巻 欲望の果 秘仏

 台湾から戻って数日後のことである。

 森岡洋介は、久々に関西を訪れた真鍋高志を幸苑へ招待した。

 この夜はもう一人同席者がいた。JR新大阪駅界隈の大地主奥埜家の嫡男清喜である。

 森岡は、自身と年の近い二人を引き合わせた。実際には、真鍋は四歳年下の三十二歳、奥埜はさらに三歳下の二十九歳だが、森岡の関係者からすれば、数少ない同世代の知人に違いなかった。

 年齢が近いだけではない。両社とも不動産業を営んでいたことから、仕事上の付き合いも考慮してのことだった。事実、森岡自身も奥埜家と商業ビル共同建設事業を手掛けていた。急拡大するウイニットの本社ビルの建設である。

 候補となった土地は、地下鉄御堂筋線・西中島南方駅から西へ徒歩で一分も掛からない約三百坪余の更地だった。森岡が馴染みとしている活魚料理店の安兵衛とは、御堂筋を挟んで真向かいの一等地である。

 バルブ前は一坪当たり三十万円ほどの土地が、バブル絶頂時には同七百万円まで高騰した。現在は同二百万円まで下落していたが、それでも元値の七倍である。

 すでに、土地代金と建設費用を合わせた総額三十三億円余を奥埜家と折半することで合意し、建設作業を開始していた。もっとも、森岡の方は資金に余力がなかったため、一部を奥埜家が肩代わりしておくという条件になっていた。

 奥埜清喜がこの話を森岡に持ち込んだのには理由があった。例のレストランと同様、暴力団絡みだったのである。

 これほどの一等地である。奥埜家がその気になれば、単独で入手することなど容易かったが、元の所有者が『柳楽(なぎら)組』という京都聖義(せいぎ)会系の暴力団となれば勝手が違った。

 柳楽組は、時流に遅れまいとその土地を取得したのだが、売り手が見つかる前にバブルが崩壊してしまい、大きな痛手を負った。

 柳楽組は一坪当たり五百万円で取得していた。七百万円の高値が付いた時点で、首尾よく売り抜けていれば六億円の儲けとなったはずが、さらに高値を、と欲を掻き過ぎたのである。

 言わばババ抜きのババを掴まされた格好であり、しのぎに聡い極道者としては珍しい失策であった。

 奥埜清喜は、花岡組とのトラブルを解決した力量を見て、此度の土地買収を森岡に委託した。花岡組とは、前杉母娘に営業を委託しているエトワールに難癖を付けようとした暴力団である。

 森岡がこの話を真っ先に持ち込んだのが、その花岡組だった。本家の聖義会は、神王組、稲田連合、虎鉄組には及ばないものの、京都を中心に関西一円に勢力を誇る広域指定暴力団である。京都という土地柄から寺社の祭礼に伴う露店の元締め、つまり的屋が源流であった。

 花岡組と同様、元が的屋である。何らかの繋がりを期待してのものだったのだが、案の定、盃事こそ介してはいなかったものの、両者は良好な関係にあった。

 とはいえ、暴力団が相手である。相場より三割高の、一坪当たり二百六十万円まで値が上がったのであるが、それとて森岡であればこそ、その程度で収まったと言えた。奥埜清貴であれば、最低でも六割高の、同三百二十万円以上でなければ方は付かなかったであろう。

「どうです。真鍋さんも一枚加わりませんか」

 真鍋グループの関西での本拠地拡充計画を知っていた森岡が、奥埜清喜の同意を取ったうえで誘った。

「良いのですか」

 真鍋は恐縮そうな顔をした。柳楽組との折衝に、一切汗を掻いていないことで遠慮があったのである。

「本来であれば、京都が最適地なのでしょうが、新大阪から京都までは四十分ほどです」

「時間より、森岡さんの会社と同じビルに入れるなら、それに越したことはありません」

 真鍋は承諾の意向を示した。

「奥埜不動産(うち)が肩代わりしている額を真鍋さんの出資分に充てるという方向で進めましょう」

 と最後は奥埜が話を締めた。


 仕事の話が終わった後のことである。

「ところで、あの美形ママは奥埜さんの彼女ですか」

 この何気ない森岡の一言が思わぬ情報を齎すことになった。

「美形? 誰のことですか」

「惚けないで下さい。プロローグのママですよ」

 プロローグは、森岡が初めて奥埜清喜と出会ったスナックである。

「ああ、彼女ね」

 奥埜はとんでもないという顔つきで、手を横に振った。

「彼女は何でもありませんよ」

 たしかに惚けた芝居をしている風には見えない。

「私の勘違いでしたか」

「近所に住む幼馴染の妹で、ああ見えて苦労していましてね。十代で結婚したのですが、離婚してしまい、幼子を抱えた生活は苦しく、ホステスをしていたのです。幼馴染から彼女が独立したがっているので力になって欲しいと頼まれて、開店の面倒をみただけなのです」

「そうでしたか。これは失礼しました」

 森岡は勘違いを詫びた。

「しかし、バツ一とはいえ、あれだけの美人を放っておくなんてもったいないですね」

「なにせ、彼女が赤ちゃんの頃から知っていますので、妹のような感覚ですね」

 と笑った奥埜が、そうだと真顔になった。

「彼女の話で思い出しました。先日店の客とアフターで江坂のショットバーへ行ったそうなのですが、そのとき居合わせた客が森岡さんの話をしていたそうです」

「ほう」

「二人連れの若いサラリーマンだったそうです」

「森岡なんてありふれた名でしょう」

 人違いではないか、と森岡は言った。

「いえ。話の中に『ウイニット』という名が出たそうですから森岡さんに間違いないでしょう」

 なるほど、と得心した森岡に、

「今や時代の寵児になりつつある森岡さんは羨望の的ですから、噂話ぐらいはするでしょう」

 真鍋が事もなさげに言ったが、

「それが、そういう雰囲気ではなく、緊張した面持ちだったそうです」

 と、奥埜が単なる下世話な話ではない、と否定した。

「客の名前はわかりますか」

 森岡が訊いた。

 私は知りません、と首を振った奥埜が携帯を手にし、

「彼女に聞けばわかるかもしれません」

 と携帯の番号を打った。

 プロローグのママの返事は、自分は知らないが店のマスターであればわかるかもしれないというものだった。

 森岡は念のため店の名を聞くように奥埜に頼んだ。

「欧瑠笛という店だそうです」

 奥埜が携帯越しにママの返事を伝えた。

「珍しい名ですね。どこかで聞いたような……」

 森岡が視線を落として記憶を辿った。

「そうだ。ウイニット(うち)の野島が懇意の店ですね」

 森岡はそう言うと、

「今夜、行ってみます」

 え? という顔を二人がした。

「何か気になることでもありますか」

 真鍋が、森岡の顔を覗き込むよう訊いた。

「ええ、今はとくに何も……」

「日頃、歯切れの良い森岡さんらしくもない」

 真鍋がやんわりと催促した。

「では、堅く内密にお願いしたいのですが」

「それはもちろん」

 あまりの深刻な表情に二人は思わず息を呑んだ。

 森岡は名前を伏せて知人の災禍を話し、犯人を捜索していると告げた。

「まだ、何の手掛かりもないのです。ですから、どのような小さな情報でも……」

 欲しい、と森岡は呻くように言った。

 森岡が実名を避けたとはいえ、二人に打ち明けたのは少しでも情報網を広げるためだった。

「ま、まさか茜さんじゃないでしょうね」

 真鍋が腫れ物に触るかのように訊いた。

「心配には及びません」

 森岡は、まず真鍋の懸念を払拭し、

「彼女の送迎には、必ず二人の黒服が付いています」

 と説明した。

 森岡は鳥取から戻ると、神栄会の峰松重一に相談して、腕は立つが強面でない若衆を一人借り受けていた。そして、知人の弟と偽わってロンドの黒服として雇い入れてもらい、茜の身辺警護をさせていた。

 昨今の極道者は、一目ではそれとわからない者も多い。とくに経済ヤクザの中には、外見も物腰も一般のサラリーマンと変わらない者もいるほどである。

 さらに言えば、株式や債券を運用する者の中には、我が国最高学府の帝都大学卒もいるということであるから、いやはや何とも社会の表裏の境目の薄れた時代になったものである。

 ともかく、茜の心情を察している森岡は支配人の氷室のみに打ち明け、彼の協力を仰いでいた。

 森岡にすれば、瞳の災難は思いも寄らないことだったが、その一方で自身の配慮の欠如に忸怩たる思いにもなっていた。だからこそ、必ずや犯人を突き止め、苛烈な報復を、と心に決めていたのだった。

「茜さんとはどなたでしょうか」

 奥埜が遠慮がちに訊いた。

「北新地のロンドのママですよ」

 真鍋が代わって答えた。

「ああ、あの有名な……」

「ご存知でしたか」

「いえ、噂程度ですが、大変な美人らしいですね」

 祖父の徳太郎が、自身の嫁にと考えていたことなど知らない清喜は無頓着に言った。

「そりゃもう」

「真鍋さんはお会いになったのですか」

「森岡さんに連れられて三度ばかり」

「それは羨ましい。私も是非お目に掛かりたいものです」

「それなら、この後森岡さんが連れて行って下さいますよ」

「本当ですか」

 奥埜の期待の籠った目に、その予定ですと森岡は肯いた。

「もしかして、その茜さんこそ森岡さんの彼女なのではありませんか」

 奥埜がお返しとばかりにからかった。

「奥埜さん、婚約者ですよ」

 真鍋が再び代わって答える。

「ええ!」

 奥埜は唖然として森岡を見つめた。

 森岡は二人の会話を他所に、野島真一に連絡を取った。


 深夜一時、森岡と野島は江坂の欧瑠笛へと出向いた。

 むろん、蒲生亮太と足立統万、そして神栄会の若頭補佐の九頭目が同伴している。

 マスターの重谷は、緊張の面持ちで森岡に挨拶すると、

「野島さんからご依頼のあった件ですが、その日の伝票を調べてみたところ、おそらくその二人の男性客というのは、小椋さんと武藤さんだと思います」

「何者や」

 野島が訊いた。野島は重谷の小、中学校の先輩で、尚且つ極道絡みの金銭トラブルを解決してやっていた。

「普通のサラリーマンですよ」

「よく来るのか」

「いえ。月一ってところでしょうか」

「社長、単なる噂話ではないでしょうか」

 重谷の返事を受けて野島が言った。

「その二人が何か? 立派な企業のサラリーマンですが」

 重谷は不審な点は無いと言いたげな顔をした。

「どこや」

 森岡が訊いた。

「ギャルソンという有名な洋菓子屋です」

「何だと!」

 森岡は怒声のような声を上げた。

 野島らはもちろん、他の客も一斉に森岡を見た。

「いや、すいません」

 森岡は他の客に頭を下げた。

「大阪支店がこの江坂にあるので、月一程度で来てくれるのです」

 思いも寄らぬ森岡の反応に、重谷が弁解するように言った。

「柿沢がまた何か企んでいるのですか」

 苦い顔の森岡に野島が訊いた。彼は、片桐瞳の災禍を知らされてはいない。

「まだはっきりとは言えないが……」

 と曖昧に答えた森岡の脳裡には、ある思いが駆け巡っていた。

――柿沢康弘……瞳が聞いたという、やっちゃんとも符合する。

「二人が何か悪さでも仕出かしたのですか」

 重谷が顔を強張らせながら訊く。

「まだ何も話せないが、もしかしたら大変な情報を貰ったのかもしれん」

 森岡は呟くように言い、

「マスターには何か礼をせにゃならんな」

「では、これを機に森岡社長さんも足を運んで下さい」

「いや、俺は遠慮しておこう」

「……」

 重谷は露骨に肩を落とした。

「欧瑠笛(ここ)は野島の息抜きの場所や。俺が頻繁に顔を出したら、こいつが来れんようになるがな」

 森岡は苦笑いをすると、

「野島、この一件、はっきりしたらお前にも話すが、とりあえず俺に代わって、これまで以上に欧瑠笛(ここ)を贔屓にしてやってくれ。金は俺が出す」

 重谷の顔が、ぱあーと明るくなった。

「森岡社長さんのお墨付きが出たんですから、野島さん、真弓ちゃんを連れて毎晩でも来て下さいよ」

「真弓ちゃんって誰ですか」

 足立統万が冷やかすように訊いた。

「野島さんの良い人ですよ」

「マスター、余計なことを言うな」

 野島は怒ったような照れたような顔をした。

「お膳立てしたのはこの俺ですからね。忘れないで下さいよ」

「一生言われそうやな」

 胸を張った重谷に野島が苦笑いをした。 

 森岡は彼ら会話に、ときに肯き、ときに笑いながら憶測していた。

――寺院ネットワーク事業を潰されたぐらいで、しかもこちらには全く非がないことで、柿沢が恨みを抱くとは思えないが、彼の放蕩無頼の人生から鑑みれば、屈折した性格かもしれないし、裏世界の人間との付き合いがあっても不思議はない。

 些細な情報だが、ようやく手にした手掛かりである。

 森岡はさっそく伊能剛史に連絡を入れた。


 森岡は景山律堂から連絡を受け、東京へと出向いた。

 帝都ホテルのスイートルームにおいて、森岡との密談に臨んだ景山の表情は冴えなかった。鹿児島県鹿児島市にある菊池龍峰の自坊冷泉寺で、久田帝玄が別格大本山法国寺から持ち出した宝物の返還交渉をした景山は、その際菊池から法外な要求を突き付けられていたのである。

 景山は事前の打ち合わせどおり、法国寺所有の宝物を返却する見返りとして、本山の貫主就任に道筋を付けるという条件を提示したのだが、これに対して菊池は、申し出を辞退する代わりに五億円を要求してきたのである。

 菊池が石黒組から買い取った栄真大聖人の御真筆は、五千万円の値が付く国宝級の宝物である。宗門においては、最高峰の宝物の一つには違いないが、精々二倍の一億円が上限で、五億円というのはあまりに足元を見た物言いであった。さすがの景山も予想外の成り行きに言葉に窮し、返答を保留して戻ったのである。

 これは、明らかに森岡らしからぬ失策であった。

 法国寺の宝物紛失の事実は、当人の久田、元執事長の里見、石黒組幹部、そして菊池しか知らない密事のはずである。それを総務清堂の執事に過ぎない景山が知っている。まさか、帝玄本人が政敵ともいえる総務清堂に泣き付くはずがない。

 菊池の脳裡にある男の顔が浮かんだ。他ならぬ森岡洋介である。

 菊池も然る者、景山の裏で森岡が糸を引いているのではないかと疑った。たしかに彼にとっても、総務清堂は法国寺の貫主の座を巡って対峙した仇敵だったが、神村に対する敬愛ぶりからすれば、清堂に頭を下げてもおかしくはない。

 もし森岡が絡んでいるとなると、本山の貫主就任への協力など迂闊には乗れない、と菊池は警戒した。森岡の能力は、東京目黒の大本山澄福寺に芦名泰山貫主を訪ねた際、身をもって思い知らされている。

 そこで五億円を要求し、反応を見ようとしたのである。推察どおり背後に森岡がいれば、五億円は無理でも三億円は工面するだろうと踏んだのだった。

 このときの菊池には、総務清堂の協力を得なくても、自力で本山貫主への道筋を付ける自信があった。三億円が手に入れば、それがより確実になるという目論見であった。

「いやあ、迂闊でした」

 森岡はさばさばとした顔つきで頭を掻いた。

「おそらく菊池は、私の気配に気づいたのでしょう。だから、五億という法外な要求をしてきたのだと思います」

「私も同感です」

 景山は伏し目勝ちに言った。

 景山は、森岡に負い目のようなものを感じていた。菊池の法外な要求は彼の責任ではない。だが、あの静岡の夜、バーでの森岡の一言が胸に刺さったままの彼は、首尾よく交渉を纏められなかったことで、失策をしたような痛みを覚えていた。 

「金は用意しましょう」

「五億丸々を、ですか」

 景山は驚きの目で森岡を見つめた。

「いいえ。二億か三億で十分でしょう」

「三億、それで手を打つでしょうか」

「おそらくは……」

「では、そのように伝えます」

「いえ、私が出向きましょう。どうやら駆け引きは無駄なようですので」

「正攻法で臨まれるのですね」

「ええ。でも、いずれ金は取り返しますよ」

 森岡は事もなさげに言った。

「どのようにして」

「それはゆっくり考えます。ついでに、この際ですから地獄に落とす手立ても一緒にね」

 森岡は不適な笑みを浮かべた。目の奥に底知れぬ悪意を看て取った景山は、思わず身震いをした。

「私は何を……」

 と言い掛けた景山を森岡が制した。

「いえ、景山さんはここまでです。貴方は将来の有る身ですし、いかに奸物とはいえ、同門を地獄に突き落とす策略に加担するのは心苦しいでしょう」

 森岡は穏やかな顔で言った。

 景山は、その口調の奥にある並々ならぬ決意を想像した。もし、菊池が景山の提案にすんなり応じていれば、辛酸を舐めさせるだけで終わったであろう。ところが、菊池の付け上がった態度に、森岡は息の根を止める気になったと理解した。だが、いったいどのようにして菊池を陥れるのであろうか。菊池は十分な用心をしているはずである。

 景山は、森岡の策略に興味を持った。

「困ったことが出来ましたら、遠慮なく言って下さい」

 森岡は景山を凝視した。その面に迎合は見受けられなかった。

「では、その節はお願いします」

 軽く頭を下げた森岡だったが、景山をこれ以上引き込む気は毛頭なかった。

「おっと、忘れるところでした」

 景山が話の終わりに思い出しように言った。

「先日の、カワハラなる人物ですが、私なりに調べたところ、勅使河原という人物が浮かんだのですが」

「立国会の会長ですね」

「見当を付けていらっしゃましたか」

 景山は感心したように言った。

「半信半疑でしたが、景山さんのお言葉で確信が持てました」

 森岡は頭を下げて謝意を示した。

 数日後に行われた森岡と菊池の闇の談合は、二億円で決着が付いた。まんまと大金をせしめ、尚且つ、後日総務清堂にも頭を下げさせた菊地はようやく鉾を収め、宝物を総本山に渡した。

 さすがに菊池も、総務清堂に逆らうわけにはいかなかった。何といっても次期法主が内定している清堂である。しかも、清堂の後の総務には永井大幹宗務総長が確実視されていた。

 妙智会の署名嘆願を巡って、一時は対立したかのように見えた両者だが、その後

永井宗務総長の諫言を聞き入れた総務清堂は難を逃れる形となった。もはや、二人の間にできた溝は埋まっていると見るのが常識的だった。

 であるならば、清堂の意を汲んだ永井大幹の時代まで逆風に晒される愚を犯すわけにはいかなかった。天山修行堂を通じての、天真宗の裏支配が困難になった現在、一旦身を引いて捲土重来を期するのが賢明な策だと菊池は考えた。我を張って表舞台での出世まで閉ざされるわけにはいかなかったのである。


 この顛末は、菊地龍峰から瑞真寺門主の栄覚にも知らされた。

 受話器越しに、森岡をやり込めた仔細を意気揚々と述べる菊池と違い、栄覚の面からは血の気が引いていた。

 宝物流出という蛮行を初めて知った栄覚は、久田帝玄への強力な攻撃材料を逃したことになるが、そのことよりも、

――総務清堂が久田帝玄のために頭を下げただと? 森岡が二人の確執を取り除いたというのか……どうすれば、いったいどのようにすれば、そのような離れ業ができるのだ。

 と愕然としていた。

――これで、総本山と在野との間に楔を打つための画策は徒労に終わった……。

 栄覚は、すぐさま執事長の葛城を呼んだ。

 居住まいを質した葛城に向かい、

「是が非でも森岡と会わねばならなくなった。手立てを考えてくれないか」

 と頼んだ。

「何かございましたか」

「私の野望を阻むのは、神村ではなくこの男かもしれない」

「お言葉を返すようですが、それほどの男ですか」

「森岡が総務清堂と久田の仲を取り持ったようだ」

「まさか、そのようなことが」

 葛城は唖然として呟いた。

「先刻、九州の菊池上人から連絡があった。まず間違いなかろう」

「そこで、御門主が直接人物鑑定をなさるというのですね」

「後顧に憂いを残したくないのでな」

「しかし、御門主様の存在も相手に知れてしまいますが」

 葛城は懸念を指摘した。

「それは心配ない。他人に成りすまして会おうと思っている」

「……では、どのような設定にするかですね」

「そういうことだ。何か良い知恵はないかな」

 葛城は左手を顎の下に充て首を傾げた。

「なかなかに難題ですね」

「だから、君に相談をしているのじゃないか」

「はっ、恐れ入ります」

 葛城は満足そうに頭を下げ、

「では、奴の会社の主要取引先か、前職の関係者を使いましょうか」

 と提案した。

「森岡の前職は確か……」

「筧の話では菱芝電気ということです。菱芝の役員には立国会の会員がいたと思います」

「立国会……勅使河原か」

 門主は気のない声を出した。それが葛城には解せなかった。

「一つお伺いして宜しいでしょうか」

 葛城は顔色を窺うように言った。

「何かね」

「御門主は勅使河原会長と昔馴染みでございましょう」

「関東大学でゼミが同じだった」

 栄覚は渋い顔で答えた。

 栄覚と勅使河原は、私立の名門である関東大学在学中に知り合った。大いなる野望を抱く栄覚にとって、立国会の総帥を父に持つ勅使河原公彦は魅力的な人物だった。

 だが、交誼が始まってまもなく、彼の人格に疑問を抱いた栄覚は適度な距離を保つようになった。したがって、勅使河原は栄覚の真の野望を知らない。

「では、なぜ此度の画策に会長の助力を願わないのでしょうか」

「何が言いたいのかな」

「会長から資金提供を受ければ、森岡など何ほどのことがございましょう」

 葛城は鼻で笑うように言った。

「執事長は金銭的支援を断っている理由が知りたいのだな」

「はい」

「執事長は勅使河原と会ったことがあるかな」

「二、三度お会いしました」

「その程度では見抜けないのも無理はないか」

「はあ?」

 葛城は怪訝な面をした。

「執事長、彼の魂には『瑕(きず)』があるのだよ」

「瑕、でございますか」

「そうだ、瑕だ。瑕というのは『険(けん)』とは違うのだ」

「疵と険、でございますか」

 葛城はわけがわからない顔つきで訊いた。

「そうだな。樹木に例えるならば、険は『節』に過ぎないが、瑕は『裂傷痕』だ。共に御柱(おんばしら)には用いられないが、節であれば天井板、床板等に使い道はある。だが、裂傷のある木は廃材として他に転用するしかないのだ」

 葛城は、栄覚の言いたいことがわかったように肯いた。

「なるほど、勅使河原会長に関しては悪評も伝わっております」

 だが栄覚は、

「勘違いをしてはいけないよ、執事長」

 と間違いを質した。

「はい?」

「善人、悪人とは違うのだ。そうだな、たとえば神王組の蜂矢は、険は有っても瑕は無い」

「うーん」

 葛城は考え込んでしまった。

「執事長は、荒行は何度かな」

「恥ずかしながら一度です」

 思わぬ問いに葛城は困惑顔で答えた。

――一度ではわかるまいな。

 栄覚は心の中で呟いた。

「さて、良い機会だ。以前約束した私の悲願を話しておこうか」

 と、栄覚が手招きをした。

「私は、ただ法主になるだけでは飽き足らないのだよ」

 と近づいた葛城に向かい不敵に笑った。

 葛城は、しばらく思いを巡らし、ふと思い当った。

「まさか、そのような大それたことを……」

 葛城は驚愕の面で栄覚を見つめた。

「勿体なくも、私は御宗祖様に連なる者の末裔であるからな。魂に瑕ある者を必要以上に近づけるわけにはいかない」

 そこで語調が変わった。

「そうは言ってもなあ、今はまだ立国会の力は必要なのだよ」

「おっしゃることはごもっともでございますが、お言葉を返して宜しいでしょうか」

「この際だ。遠慮はいらん」

「真の望みを果たすには、ますますもって会長の金銭的支援が必要ではないでしょうか」

「執事長、その心配はいらない。我が手には先祖伝来の家宝があるのだ。それも莫大なものがな」

「それでは……」

「なぜ、それを使わないのか、というのだろう」

 栄覚が葛城の言葉を奪った。

「ご賢察のとおりです」

「一つだけ問題があってな。私が法主にならないと、その伝家の宝刀は使えないのだ」

 はて、どういうことかと思案顔の葛城に、

「金のことは心配ない」

 と言った栄覚の面に陰影が宿った。

「それより、当寺が抱える積年の懸案の方が問題なのだ。今後大きな障壁となる可能性が大きい」

「以前おしゃられた負の遺産でございますね」

「処置を間違えば、私の野望どころか、この瑞真寺を宗務院に奪われてしまうかもしれない」

 栄覚は沈痛に顔を歪めた。

 葛城は、栄覚のこれほどまでの憂いを見たことがなかった。

「そ、それほまでの大事でございますか」

 うむ、と肯いた栄覚は、

「打ち明けるからには、骨身を惜しまぬ協力をお願いしたい」

 栄覚は、子犬が主人に縋るような目で葛城を見つめた。

「おっしゃるまでもありません」

――御門主をして、これほど不安な目にさせる懸念とはいったい何なのだ。

 葛城は息を呑んで栄覚の口元を注視した。

「実はな、執事長。当寺には御本尊様がいらっしゃらないのだ」

「な、にゃあ?」

 葛城はなんとも奇妙な声を発した。

「い、いま何とおっしゃいましたか」

「御宗祖様が手ずから彫られた最古の釈迦立像は御不在だと言ったのだ」

「ど、どこかにお預けになったのですか」

 葛城はその寺院と、返す返さないで争いになっているのだと思った。一般には知られていないが、他宗を含めままあることである。

「執事長、そうであれば苦労はせぬよ」

 栄覚はほろ苦い顔をして言った。

 葛城は愚かなことを口にしたと後悔した。貸与したのであれば、瑞真寺に瑕疵はなかった。

「御本尊様は盗難に遭っていらっしゃるのだ」

「な、なんですと!」

 驚愕の声を上げた葛城であったが、数瞬後、ふと得心した顔つきになった。

「それで、当寺は出開帳を封印してきたのですね」

「そういうことなのだ」

 栄覚は弱々しく肯いた。

 開帳とは、寺院で特定の日に、厨子の帳を開いて中の秘仏を一般に公開することである。とくに御本尊などは国宝や重要文化財に指定されているものが多いため防犯上のためと、数年から数十年に一度の開帳とすることで値打ちを高める狙いがあった。

 出開帳とは、所有寺院以外の場所に出張して開帳することをいい、所有する寺院で開帳することを居開帳といった。

 出開帳とする理由は簡単である。本来寺院の多くは山に有ったことから、多くの参拝客を集めるには不向きな場所が多かった。そこで、比較的市中にある寺院に依頼して場所を借り受けるのである。

 開帳する最大の目的は、仏の功徳を庶民に施すということだったが、江戸時代からは商業色が色濃くなっていった。すなわち、檀家や参拝客等からの布施や賽銭目的が主眼になったのである。

 出開帳で有名なのは、江戸時代の成田山新勝寺(なりたさんしんしょうじ)で、本尊の不動明王を江戸などの他の場所に移して開帳した。

 余談だが、歌舞伎の大名跡市川家の屋号を成田屋というのは、江戸時代の初代市川團十郎が、父の縁のあった新勝寺に子宝祈願したところ、見事嫡男を授かったことに始まる。

 初代團十郎は報恩に感謝し、座で『成田不動明王山』という芝居を上演したのだが、これが大当たりし、大向こうから『成田屋!』と掛け声が掛かった。そこで成田屋を屋号としたのが由来である。

 秘仏の開帳は毎月、毎年、七年、三十三年、六十年に各一度と周期的に行われるのが多いのだが、瑞真寺の本尊は三十三年に一度の周期で開帳していた。ところが、一七三五年(享保十九年)の開帳以来、厨子の帳は開いていない。

 瑞真寺の御本尊は、宗祖栄真大聖人の処女作という秘仏中の秘仏であり、ひとたび開帳すれば巨万の富が転がり込んでいた。現在であれば、他に収入の道を求められなくもないが、江戸時代の瑞真寺であれば、出開帳ほど確実で高額な布施を見込める事業はなかったはずである。

 然るに、なぜ瑞真寺は出開帳を中止したのか。瑞真寺の歴代門主はその疑問に、『開帳するかしないかは当寺の勝手』と、口を揃えて苦しい抗弁を繰り返していた。不幸中の幸いと言うべきか、当時の瑞真寺には檀家がなかった。したがって、信者から必要以上の突き上げを食らうことがなかったのだが、当然のことながら末寺も無い瑞真寺は経済的困窮を強いられることになった。

「しかしなぜまた、盗難などに」

 遭ったのか、と葛城は訊いた。

「江戸享保時代、鎌倉の長厳寺で出開帳をした後、帰路の途で紛失した」

「長厳寺ですと? 最後の出開帳は目黒の澄福寺ではないのですか」

「公式の記録ではそういうことになっているが、実は長厳寺が最後なのだ」

「なんと、それで犯人はわかっているのですか」

「残っている備忘録には、長厳寺の寺侍と下働きの小者が姿を暗ましたとある」

「御門主は長厳寺の仕業と疑っておられるのですね」

 栄覚は憎々しげな顔つきで肯いた。

「当時の栄経(えいきょう)門主もそのように思われ、人を使って水面下で詮索されたようだが、長厳寺が首謀者だという確たる証拠は見つからなかったようだ」

「鎌倉を蛇蝎(だかつ)のごとく毛嫌いされておられる理由がようやくわかりました」

 葛城は得心の顔で言った。鎌倉とは久田帝玄のことである。

「御先祖様方の屈辱を晴らすため、何としてもあ奴に鉄槌を加えてやらねばならない」

「いかにも」

「そこでじゃ。この負の遺産を私の代で清算してしまいたいのだ」

「私に手立てを考えよ、と?」

「済まぬが頼む」

 栄覚が深々と頭を下げた。

「頭をお上げ下さい。御門主様のお役に立てるのであれば、これに勝る喜びはございません」

 ありがとう、と言って頭を上げた栄覚に葛城が言葉を続けた。

「もし、当寺の御本尊が長厳寺に渡ったのであれば、もしかしたら闇社会に流れている可能性があるのではないでしょうか」

 久田帝玄は、稲田連合傘下の金融会社からの借金の形に法国寺の宝物を渡していた。法国寺の宝物に手を出すくらいなのだから、秘仏である釈迦立像も手放しているのではないか、と葛城は推量したのである。

「なるほど、私としたことが迂闊だった」

 栄覚は唇を噛み締めた。

「菊地上人に確認を取ってはいかがでしょう」

「電話の話では、彼が手元に置いたのは一品で、御宗祖様のご真筆だったということだ」

「そうなりますと、残るは稲田連合ということになりますね」

「奴らではどれがどれだか見分けが付くまい」

 栄覚は悔しげに言った。

「お言葉ですが、そうとも限りません。昨今の極道者は目敏いですから、仏像の目利きもいるはずです」

「となると、稲田連合に伝手は無いが……」

「それは私がどうにかしましょう」

「手間を掛けるな」

 と、栄覚は感謝の言葉を掛けた。

 はっ、と葛城は居住まいを正した。













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