第26話  第四巻 欲望の果 雄飛

 森岡洋介は榊原壮太郎と共に、世界最大のウーロン茶製造販売会社・天礼銘茶の日本支社長林海徳と会った。

 南目輝の父昌義から協賛十社が揃い、出資が可能となった旨の連絡を受けて、停滞していた寺院ネットワークシステムについて、再開の見通しが付いたことを詳細に説明するためである。

 天礼銘茶の日本支社は神戸の中心部、榊原商店ビルとは幹線道路を挟んで斜向かいにあった。

 日本での総責任者である林海徳は五十歳。小太りの中背で、目、鼻、口、耳の創りが大きく福々しい顔をしている。いかにも華僑といった風体である。

 林海徳は、その昔火事で自宅を焼失するという災難に遭った際、榊原から深い温情を受けていた。

「森岡さん、久しぶりです」

 林は満面に笑みを浮かべて手を差し出した。むろん、日本語は堪能である。

 こちらこそ、と両手で握りながら森岡は深く頭を下げた。

「例の事業が中断してしまい、申し訳ありませんでした」

「頭を上げて下さい」

 労わるように手を森岡の肩に当てた林は、

「別段急ぐことではありませんから、そう気にすることはありませんよ。それに出資者の目途も付いたようですし……」

 と鷹揚に笑った。

「南目君の話だが、お前から報告を受けて、すぐに林さんに報告しておいたんや」

 榊原が横から事情を説明した。

「残るは、神村先生が無事本妙寺の貫主に就かれるだけですね」

「そのことでしたら、万全ですので御安心下さい」

 森岡が自信を込めた声で応ずると、林が突拍子もないことを口にした。

「では、どうです。私と一緒に台湾へ行ってみませんか」

「台湾ですと」

「えっ」

 急な誘いに、森岡と榊原が声を合わせて問い返した。

「本社社長の海偉に会って下さい」

 海徳と海偉は従兄弟である。

「以前依頼された中国十聖人の墨ですが、さらに収集を進めていったところ、意外なことがわかりましてね。直に海偉から話を聞いてみませんか」

「洋介、本妙寺の方も順調だし、気分転換に台湾へ行ってみるか」

 榊原が乗り気な素振りで言った。

「そうやな、爺ちゃんと海外旅行なんて、最初で最後かもしれんな」

 森岡は、林と榊原の誘いに快く乗った振りをしたが、実はある思惑があって彼自身、台湾行きを模索していたところだったのである。


 天礼銘茶を出たところで、榊原が話があると言って、森岡を自社に誘った。榊原商店の本社は、幹線道路を挟んで天礼銘茶の斜向かいにあった。ワンフロアーが二百五十坪の八階建ての自社ビルである。

 ならば、と森岡は蒲生に命じて、車を近所のケーキ店に向かわせ、店頭にあるショートケーキを総買いさせた。実に八十個余である。言うまでもなく、榊原商店の従業員への手土産である。

 もっとも、本社勤務の従業員は六十名足らずなのだが、細かい数の計算など面倒くさかったので、店頭に並べてあったショートケーキを全て買ったというわけである。

 大きめの収納箱六個分のショートケーキの山に、

 受付の女性は、

「まあ……」

 と呟いたきり、案内を忘れるほど呆気に取られていた。

 してやったり、と森岡はほくそ笑んだ。彼はこういう、ある意味で陽気な悪戯が大好きなのである。 

 会長室に入ってほどなく、コーヒーと手土産のショートケーキが運ばれてきた。

 榊原は女性秘書が退室したのを見計らい、

「お前に、福建銘茶から接触はないか」

 と訊いた。

「福建銘茶? なんやそれ」

「中国福建省に本社のあるウーロン茶製造販売会社やがな」

 福建銘茶は、中国最大のウーロン茶製造販売会社で、世界シェアーを巡って天礼銘茶と競っているライバル会社だった。

「ないけど、なんで俺に近づくんや」

「それは、はっきりとはわからんが、天礼銘茶のライバル会社やからな。どこからか寺院ネットワーク事業を嗅ぎ付けて、あわよくば……と考えていてもおかしくないやろ」

 なるほど、と肯いた森岡は、

「俺にそんな話をするということは、爺ちゃんには接触があったんやな」

「あった。しかも、榊原商店(うち)の上得意先である東京のある寺院からの紹介やった」

「ほう。さすがに本場の華僑の情報網やな」

「感心してる場合やないがな。まだ挨拶程度やったから軽くいなしたけどな。本格的に動くとしたら、お前にも何ぞ言ってくるかもしれんで」

 ふっ、と森岡は笑みを零した。安心しろという意味である。

「爺ちゃんもそうやろうけど、俺に林さんを裏切る気など爪の先ほども無いで」

「それもそうやな」

 と満足そうに言った榊原に、

「ついでと言っちゃなんやが、俺の方も爺ちゃんに相談があったんや」

「なんや、深刻なことか」

 榊原が身構える。

 森岡は顔の前で手を振り、

「ちゃうちゃう、他でもない、榊原商店(ここ)のことや」

「うち、てか」

「持ち株会社になったら、経営全般は俺が見るとしても、実際の全国の寺院回りや山林管理は誰かに任せにゃならんやろ」

「そりゃあ、そうやな」

 榊原は同調すると、

「お前の方で誰か目ぼしい奴はおらんか」

「実は当てがないこともない」

「ほう、誰や」

「ウイニット(うち)の幹部で住倉哲平という男や」

「住倉君? どんな男や」

「菱芝電気で俺の二年先輩でな、ウイニット創業以来、金庫番を任せている」

 榊原は目を細めた。

「信頼できるということやな」

 ふふふ……と森岡は薄く笑う。

「生意気なことを言うようやが、うちの幹部連中は皆信用できるやつばかりやで」

「なら、なんで住倉君なんや」

「俺の側近の中では、いやこれまで出会った中で、もっとも心の裏表が無く、正直で無欲な男やからや」

 榊原が思わず口元を綻ばせた。

「わしの想いを継ぐのに一番相応しい人物を選んでくれたのやな」

 と頭を垂れた。

 若い頃、破天荒な人生を送っていた榊原壮太郎は、大病を患ったのを機に、現在の寺院に仏具や備品を納入する仕事を始めた。そのとき榊原は、命を救ってくれた神仏に対する報恩感謝の印として、ほとんど利を乗せずに商品販売すると誓っていた。

 榊原は、後継にもその志を受け継いで欲しいと切に願っていた。彼はそのことを察してくれていた森岡に対して、感謝の念に堪えなかったのである。

「まだ、本人には話をしておらんが、たぶん大丈夫やと思う」

「せやったら、一度会わせて貰えんかの」

「先生の件が落ち着いたら、一席設けようか」

「頼むわ」

 榊原は片手で拝む仕種すると、

「なんや、お前の他に、もう一人家族ができるようで、なんとも楽しみが増えたわ」

 そう言って破願した。


 この時代の台湾へは、まだ短期滞在査証(ビザ)が必要だった。ビザが発給されるとすぐに、森岡と榊原そして林の三人は台湾の地に立った。

 森岡に同伴したのは、坂根、南目、蒲生と足立の四人である。峰松重一は神栄会の護衛を申し出たが、森岡はこれを固辞した。その代わりとして、伊能の人選で交流のある警備会社から選りすぐりの警護者を三名同行させた。

 週末を含む二泊三日の強行日程の宿泊地は、グランドホテル台北、通称『圓山大飯店』である。この世界に名立たる名物ホテルは台北市でもっとも眩しいランドマークであるだけでなく、東洋と西洋の設計美学を融合した現代における宮殿建築の代表でもある。

 故に、宿泊予約は取り難いホテルとしても有名でもあるが、そこは台湾でも屈指の大企業である天礼銘茶の社長直々のお声掛りである。森岡と榊原が泊まるスイートルームと隣接するツイン部屋四室も確保していた。

 圓山大飯店は、元は神社であった。日清戦争の結果、下関条約によって清朝より割譲されたのであるが、一九〇一年に台湾神社として建立された。戦後、神社は廃止され、ホテルが建設されたのである。

 その夜は、天礼銘茶本社会長・林海偉主催のウェルカムパーティが開かれた。会場はホテル内にある飲茶が絶品と評判の広東料理レストラン『鳳龍廳(ほうりゅうちょう)』である。

 林海偉は、この台湾全土でも有名な名店を貸切にしていた。

 森岡ら一行は九名。

 一方、天礼銘茶側は林海偉、海徳をはじめ、副総経理の要職にある海偉の息子海登(カイトウ)ら二十名を超えていた。どうやら、天礼銘茶以外からも参加しているようであった。その中に異色の人物が混じっていた。痩身の中背で浅黒い顔に目つきの暗い男は明らかに裏社会の人物とわかる。

 尚、総経理とは社長のことである。

 林海偉は非常に小柄な老人であった。

 年齢は六十五歳。従兄弟の海徳とは一回り以上年が離れていた。

 小柄とはいえ、さすがに世界最大のウーロン茶製造販売会社を作り上げた人物である。海偉には相手を威する存在感があった。白髪で柔和な笑みを浮かべてはいるが、眼鏡の奥の瞳は痛みを覚えるほど鋭い。

 森岡はその一種冷徹な光は、裏社会の人間が宿すそれに似ていると思った。

 台湾は中国ほどではないが、表と裏の社会の境界線が曖昧な国である。ちょうど、昭和三十年代の日本の社会構造に近いとみて良いだろう。政界、財界との繋がりが太く、したがって企業人の中にも裏社会からの転身者も多い。林海偉がそうかどうかはわからないが、目つきの暗い男を同伴していることからも裏社会と全くの無縁であるとは考え難かった。

 林海偉が伴った者の大半は彼の仕事仲間であった。言うなれば、これから共同事業を展開する森岡のお披露目と、同時に値踏みをしようというわけである。

「ようやくお会いすることができました」

 海偉が流暢な日本語で握手を求めて来た。台湾の七十歳代以上は、日本統治時代の名残りからほとんどの者が日本語を話せる。それ以下の年代でも、社会的立場の高い者は日本語の話せる者が多い。

「ずいんぶんとお待たせしました」

 森岡は軽く頭を下げて海偉の手を両手で握った。

 寺院ネットワーク事業の発案からすでに一年が経っていた。原因は森岡の部下だった筧克至とギャルソンの柿沢康弘が結託しての裏切りだった。森岡はそのことに少なからず負い目を感じていた。

「まずはお近づきの印に一献」

 と、林海偉がビールの入ったグラスを差し出した。

 このとき、海偉は『乾杯』とは言わなかった。このような場合、日本では乾杯と言うが、台湾でいう乾杯は『杯を乾、つまり空にする』という意味であるから、グラスなり杯なりを飲み干さなければならない。

「皆を紹介する前に一つだけ言いたいことがあります」

 海偉があらたまった。

 森岡はグラスをテーブルの上に置いた。

「なんでしょう」

「今回、ようやく事業展開に目途が付いたとはいえ、私は一年も待ちました。これは事業利益を失ったとも言えるが、森岡さんはどうお考えになりますかな」

 口調は柔らかだが、突き刺すような言葉であった。隣席の海徳も思わぬ発言に顔色を失っていた。

「おっしゃるとおり、一年という時間を無駄にしたのは利益の損失も同然です。私が責を負いますので、何なりとおっしゃって下さい」

 森岡は淡々と言った。

「ならば、損害金として二億円を支払って頂けますかな」

「わかりました」

 森岡は眉ひとつ動かさずに即答したが、

 海偉の、

「もう一つ。彩華堂とかいう和菓子屋が参画するそうですが、遠慮してもらいたい」

 乾いた言葉には、さすがに苦い顔になった。

「理由を聞かせてもらえますか」

「事情は知らないが、ギャルソンという彩華堂の数倍も大きな会社を断っておきながら、いまさら彩華堂でもないでしょう」

「おっしゃることは理解できますが、そうしますと、振出しに戻ってしまい、また一から協賛会社を探さなければなりませんが」

「そのことなら心配ない。私の方で見つけておきました」

 海偉は同行者から一人の男を指さした。陳建銘(チンケンメイ)という五十歳台の男だった。受け取った名刺の肩書は『羅林食品有限公司』の総経理とあった。何を作っているかは知る由もないが、食品会社であることだけはわかる。

「日本でも評判のパイナップルケーキを製造しています」

「なるほど」

 と言った後、森岡は数瞬思考した。

「林さん。今二億円を支払うと申しましたが、今回の事業は白紙に戻したいと思いますので、墨を探して頂いた件も含めて、この際賠償金を明示して下さい」

「お、おい、洋介」

 榊原壮太郎が青ざめた顔で声を掛けた。

「爺ちゃん、すまんがこの話は無かったことにしたい」

 森岡は小さく頭を下げた。

「私たちとは手を切るということですな」

 海偉が低い声で訊いた。

「残念ですが、そういうことです」

「福建銘茶ですかな」

 海偉が鋭い眼で睨み付ける。

「あまり見縊らないで頂きたい」

 森岡も睨み返した。裏切りではないと訴えていた。

 その奥底に漂う鈍い光に、海偉は思わず身震いした。

――さすがだ……あの男が全幅の信頼を置くのもわかる。

 海偉は心の中で頷きながら、

「理由を聞かせてもらえませんか」

「貴方と私とでは、人生哲学が違うとわかったからです」

「な、哲学とな」

「甘い、とお笑いになるかもしれませんが、私は目先の利益より義と情を重んじます。その方がいずれ大利を生むと信じているからです。彩華堂の南目社長は私の窮地を救って下さいました。そのような恩人を切り捨てるのは人の道に悖るというものです」

「なるほど。たしかに青臭い」

 海偉は鼻で笑った。

「では、十億円を頂きましょうかな」

「承知しました。日本へ帰りましたらすぐに振り込みましょう」

 森岡はそう言って席を立った。

「爺ちゃんはこれまで通りの付き合いをしたらええ。だが、俺は今後一切、御免蒙る」

 森岡は坂根らに目配せをした。

 坂根、南目、蒲生、足立と護衛三人が一斉に席を立った。

 そのときである。

 あははは……と林海偉の笑い声が高らかに鳴り響いた。

 林海徳や榊原が目を丸くして見つめている中、森岡は厳しい視線を海偉に送っていた。

「いやあ、申し訳ありません」

 海偉は席を立って深々と頭を下げた。

「まさに、郭さんの言われたとおりの人物だ」

「総経理もお人が悪い。彼を試されたのですか」

 郭さんと呼ばれた老人が笑顔を作りながら森岡に近づいて来た。海偉より年長である。

 森岡は微かに見覚えがあった。といっても、いつどこで出会ったのかは思い出せなかった。

「お忘れですか、神戸の華人会館ではお世話になりました」

「華人会館……ああ、銘傑(メイケツ)さんのお父上様ですね」

 はい、と老人は肯いた。

 郭銘傑とは大学時代からの友人である。詳細に言えば、亡妻奈津美の短大時代の友人・江昭燕(コウショウエン)の交際相手が銘傑だった。つまり、両方の恋人同士が先に友人関係となり、お互いの交際相手を紹介し合ったのである。銘傑を除く三人は同い年だったが、銘傑は四歳年上で、知り合ったときはすでに日本の企業で働いていた。

 浪速府立大学への留学を終えても帰国せず、そのまま日本企業に就職した銘傑にはある重要な使命があった。

 現在、日本と台湾の間に国交は無いが、台湾経済界の非公式の訪日は再三ある。

 銘傑はその一行の通訳兼ガイド役を担っていたのである。むろん、訪日団の中には日本語を話せる者が数多くいるが、銘傑には及ばないうえ、彼は英語も話せたし、日本の内情に詳しかった。まさに打って付けだったのである。

 その後、銘傑は台湾に戻り、日本でいうところの経済産業省の役人になっている。しかも、外国企業局、つまり台湾に進出する外国企業への認可、管理監督する部署の課長に出世していた。

 国家試験制度が確立している日本では考えられない登用である。

 その郭銘傑と江昭燕は、日本でも結婚披露宴を行った。その会場となったのが、神戸の幹線道路から一本北の筋に有った華人会館だった。

 台湾も含め世界中に進出している華僑の絆は強く、日本においても例外ではない。この披露宴にも関西を中心に八百名の台湾人や中国人が参集していた。

 日本人の招待客は新郎新婦の大学時代の友人、会社の同僚らが中心だったが、その中に森岡洋介と福地奈津美も含まれていたのである。それどころか、森岡は友人代表のスピーチまで依頼されたのだった。

 その宴の中に、当然のことながら銘傑の父郭偉殷(イイン)も出席していたが、挨拶を交わす程度のことで、しかも十数年も前のことであり、偉殷の風貌が代わっていたため、森岡はすぐに思い浮かばなかったのである。

 郭偉殷は、台湾最大の建設会社『台湾工程股份有限公司』の董事長である。董事長とは役員会のトップの会長といったところである。台湾工程股份有限公司は、元は日本統治時代の会社を終戦と同時に、銘傑の祖父が受け継ぎ現在に至ったものである。

「気を悪くしないで下さい。林さんも他意があってのことではありません」

 郭偉殷が頭を下げた。

 森岡は、手を介して頭を上げさせたが、

「せっかくお会いできたというのに、大変申し訳ないのですが、やはりこの話は無かったことにさせて頂きます」

 森岡も丁重に腰を曲げて、その場を立ち去ろうとした。

 そのときだった。

 出入り口の扉の前にいた女性から声が掛かった。

「森岡さん、おじを許してやって下さい」

 必死の形相で懇願したのは、誰あろうその江昭燕だった。

 郭銘傑も隣に立っていた。林との会話で、森岡は二人が部屋に入って来ていたことに気づかず、二人は二人で、林海偉と森岡の間に流れる不穏な空気を敏感に察し、立ち止って成り行きを見ていたのである。

――おじ……。

 森岡は瞬時に頭を回転させた。おじ、というのは血縁の『伯父』または『叔父』なのか、ただ単に知り合いの年輩の男性のことに過ぎないのか。

 というのも、浜浦では『あに』もそうだが、『おじ』も、親族の伯父または叔父でなくとも、近所の顔見知りの年配男性を『……おじさん』と呼ぶ習慣があったのである。

「海偉おじさんは、本当の親戚なのです」

 昭燕は、私の顔に免じて……と頭を下げた。

 彼女にそうまでされると、森岡は強く出ることができなかった。

 森岡にとって昭燕は、まさに頭の上がらない女性だったのである。

 実は、森岡と奈津美の間を取り持ったのも昭燕なら、森岡がコンピューターエンジニアの道に進むきっかけを作ったのも彼女だったのである。

 神村正遠の自坊経王寺に寄宿した森岡を気に入り、是非とも我が娘を嫁がせたいと、福地正勝は森岡の世話をさせるため、奈津美を経王寺に通わせたが、森岡は丁重に断った。理由は、神村の許で一心不乱に師の思想哲学を学び取りたかったからである。

 深く傷心した奈津美は、一旦は森岡を諦めようとした。その彼女を叱咤激励したのが江昭燕だったのである。

 元気のない奈津美を励ましているうち、事の次第を知った昭燕が、『奈津美本人が嫌われたわけではないので、まだ脈はある』と、森岡の通う大学へ日参するように進言したのである。しかも、胃袋を掴むために弁当まで持参するようアドバイスしたのも昭燕だった。

 また、森岡が菱芝ソフトウェアでアルバイトをするきっかけとなったのは、短大を卒業した江昭燕が、その菱芝ソフトウェアでアルバイトをしていたからである。

 彼女が手にしていたプログラミングの書類に興味を持った森岡は、彼女の紹介で菱芝ソフトウェアでアルバイトを始めたのだった。

 森岡のスキルアップの速度は目覚ましく、十日間の研修を受けた後、半月で初歩的なレベル、三ヶ月で中位レベル、一年で高度なレベルのプログラミングを習得した。大学四年次には、書生修行の片手間にも拘らず、出来高制の一ヶ月のアルバイト料が三十万円と、当時の大卒者初任給の二倍を稼いでいた。

 奈津美との結婚は、福地正勝次第で有り得たかもしれないが、森岡がIT業界に進むことは、江昭燕と知り合わなければ、まずもって無かったであろう。

「貴女に頭を下げられたら、私はお手上げです」

 森岡はそう言うと、林海偉に向き直った。

「大人げないことを言いました。お許し下さい」

「いや、私の悪ふざけが過ぎたのです」

「いえ、そういうことではなく。実は私も林さんを試そうとしたのです」

「え?」

「貴方が私を試しておられるのはすぐわかりました。そこで逆手にとって怒った振りをして席を立てば、どのようになさるか試そうと思ったのです」

「な、なんと。私の謀を見破っていたと」

 はい、と森岡は申し訳なさそうに言った。

「では訊きますが、もし私が何もしなければ、貴方は黙って十億円を支払うつもりだったのですかか」

「もちろん、そのつもりでしたが、必ずや林さんは和解の道を選択されると信じていました」

「ははは……」

 林海偉は、再度高笑いをした。

「生意気でした」

「いやいや、お互い様ということで水に流しましょう」

「はい」

「では、話は無かった、というのは取り下げてもらえますな」

「どうぞ、宜しくお願いします」

 森岡は深く頭を下げた。

 ふう、と一同から安堵の溜息が漏れた。

「何をしていたんだ。もう少し遅ければ、取り返しの付かないことになっていたかもしれないのだぞ」

 偉殷が目を吊り上げて怒った。

「すみません、父さん。出掛け際に突然の来客があったもので」

 銘傑は肩を窄めて頭を掻いた。

「銘傑君夫婦も揃ったことだし、宴をやり直しましょう」

 海偉は、森岡らに席に戻るよう促した。


 二時間ほどの会食の後、林海偉が森岡をカラオケに誘った。林側は、海偉と海徳以外は三名を残して皆遠慮し、森岡側も榊原と護衛役三人の合わせて四人がホテルに残った。というのも、林海偉側の三人は明らかに黒社会、つまり暴力団関係者とわかったからである。おそらく、連れていかれるカラオケ店も林海偉もしくは、同行する三人の所属する組織の息の掛かった店に違いなかった。

 銘傑夫妻とは、翌日の夕食を共にする約束して別れた。

 海偉が森岡を連れて行った場所は、台北で一番の繁華街ともいわれる西門町地区

のメインストリートの外れにある高級カラオケクラブ店だった。

 広々とした室内には個室もあった。個室に通されると十数名のホステスたちが現れた。皆が美人でスタイルも抜群である。シルクのチャイナドレスのスリットが深く、動くたびに美脚が露になった。

 森岡はなんとなく日本のクラブとは違う、と思ったが、問い質すわけにもいかなかった。

 美形揃いの十数名の中でも、さらに一段と際立って若く美しい小姐が、

「何かデュエットしませんか」

 と日本語で話し掛けて来た。彼女は沈美玉(チンビギョク)と名乗った。

「日本語の歌は歌えるの」

「二、三曲なら」

 彼女は曲名を言い出した。中に森岡の歌える曲があった。森岡がその曲を伝えると彼女は何とも言えない笑みを浮かべて曲を入れた。

――どうやら商談成立らしいな。

 と、林海偉が密かな笑みを零した横で、海徳は苦虫を噛み潰したような顔をしている。

 翌日、郭銘傑から聞いた話では、普段この店にはその場でのお持ち帰りシステムはない。日本と同じで、ホステスを口説くには何度か指名して食事やデートにこぎつけるのだという。だが、特別な場合に限り即席の売春店になるのだという。つまり、森岡は特別な接待客だということなのだ。

 沈美玉は十七、八歳ぐらいだろうか。名は体を表すとはよく言ったもので、大きな目にやや濃いめの眉、上品な鼻と口と、まるでアイドルのように愛らしかった。

 カラオケを歌い終えた直後、彼女が小声で圓山大飯店のルームナンバーを訊いてきた。森岡が泊まるスイートルームは榊原が同宿しているが、寝室はリビングを挟んだ両側にそれぞれあってルームキーも中央扉と自寝室のそれの二つあった。

 森岡がルームナンバーと寝室の場所を教えて席に戻ると、海偉が『加油』と言った。『がんばれ』という意味の中国語である。

 これも後で判明したのだが、どうやらカラオケをデュエットすることが商談成立ということらしかった。


 森岡が部屋でくつろいでいると、ほどなく沈美玉がやってきた。

 彼女が部屋の中に入った途端、クラブでは気にならなかった香水の匂いが鼻腔に入り込み、性欲をそそった。

 彼女は薄く微笑んだあとバスルームに消えた。化粧を落とした顔も美しいままだった。元々薄化粧だったようだ。彼女がバスローブを脱ぎ捨てると形の良い乳房が露になった。だが、大胆な行動とは裏腹に身体は小刻みに震えている。

「大丈夫かい?」

 思わず森岡が声を掛けると、彼女は意を決したように寄り添ってきた。クリーミーな肌に石鹸の清々しい匂いが森岡を夢心地にさせる。

 危うくベッドに押し倒されそうになったところで、森岡はそれを押し止め、

「時間はどれくらいあるの」

 と訊いた。

 え? と美玉は戸惑った顔をした。彼女には意外な問いだったのだろう。

「別に時間は決まっていません。事が済めば帰ります」

「お金は?」

「林総経理から貰っています」

「そうか。じゃあ、少しだけ話をしてから帰りなさい」

 森岡はバスローブを掛けてやると、冷蔵庫の中からシャンパンを取り出し、グラスに注いだ。

「お話だけで、私を抱かないのですか」

「そういうこと」

「私が気に入らないのなら、別の女の子と代わります」

 沈美玉は落胆した声でそう言うと、携帯を手にし店に連絡を入れようとした。

「そういうことではない。君は気に入っている」

 森岡は彼女の手を止めた。

「じゃあ」

「なぜ抱かないのか、不思議かい」

 こくり、と彼女は肯いた。

「君だけじゃなく、僕は金で女性を買わない主義なんだ」

「……」

 彼女はまるで異星人を見るかのような目で森岡を見つめた。

 これは嘘ではなかった。森岡は菱芝電気時代、会社の先輩や取引先の担当者などに誘われて止む無く風俗店に足を踏み入れたことがあったが、その度に金だけ払って済ませていた。

「じゃあ、なぜ……」

「ルームナンバーを教えたのかって言うんだろう」

「はい」

「林さんの好意を無下に断るようなことはできなかったのだよ」

「まあ……」

 美玉は何とも言えぬ顔をした。

「周囲からは大馬鹿者だと思われているよ」

 森岡は苦笑いをした。

「そんなことはありません」

 彼女は強い口調で言った。まるで怒っているかのようだ。

「森岡さんは奥さんを深く愛しているのですね」

「女房はいないが、まあそういうことかな」

「独身なのですか」

「先妻とは死別したけど、婚約者がいるから独身とも言えないな」

「婚約者の女性が羨ましいです」

 と言った彼女の顔に憂いが宿った。

「どうかしたの」

「い、いえ」

 彼女は口籠った。

「心配事があるなら言ってごらん。僕にできることなら力になるよ」

「抱かれてもいないのに……」

 美玉は躊躇いを見せた。

「何にでも首を突っ込むお節介焼き、と周囲から呆れられているけど、僕の性格でね、困った人を放って置けないんだ。とくに女性の困った顔に弱い」

 森岡は苦笑いしながら、グラスにシャンパンを注ぐと、乾杯を催促した。一気飲みをさせて彼女に決断を促すためである。

 森岡の意図どおり彼女は重い口を開いた。

「実は、森岡さんに抱かれた後、あるお願いをするつもりだったのです」

「君を抱かなくても力になるよ。その願いとやらを言ってごらん」

「私を日本に呼んでもらえませんか」

「な……君を日本に?」

 さすがの森岡も予想外の展開だった。   

 沈美玉は十七歳。林海偉グループ傘下の芸能事務所所属のタレントで、現在はデビューを目指し、歌と芝居のレッスン中なのだという。

「台湾でデビューが近いのなら、日本に行く必要はないじゃないか」

 彼女は、虚ろな目で首を横に振った。

「デビューするためには、今日みたいなことを何度かしないといけないのです」

 ああ、そういうことか、と森岡は言葉の意味を理解した。

 現代の日本の芸能界ではほとんど無くなったが、終戦直後から高度経済成長に掛けていわゆる『枕営業』というのは珍しいことではなかった。テレビジョンが発展する前の時代は、地元の興行主――大抵は地回りの極道である――に身体を任せ、テレビ全盛時代になると、テレビ局の制作者、スポンサーといった権力者に媚びることになった。現代でも、枕営業とは違うが、生活の面倒を看てもらう金主を探す芸能人が少なからずいるのも事実である。

 台湾芸能界もまた、日本の昭和三十年代後半から四十年代頃のそれと思えばわかり易いだろう。さしずめ、沈美玉は林海偉の愛人というべきか、手駒の一人になっているということなのだ。

「言い難いが、林さんの愛人になれば、こういうことをしなくても済むのでは」

「私もそのように覚悟していたのですが、突然森岡さんの相手をするよう指示をされたのです」

「意味が良くわからないな」

「それは……」

 彼女は芸能界デビューしたいのはやまやまだが、台湾の芸能界だと、林海偉であれ誰であれ、早晩身体を売る破目になることが目に見えていた。日本であればそういうことはないと耳にしていたが、むろん日本の芸能界に伝手は無いし、それ以前に林海偉の承諾が必要である。

 諦めかけていたところに、林海偉から森岡の来台を聞かされた。しかも、森岡であれば、日本でのデビューに力を貸してくれるかもしれないという。

 林海偉は、そうはいっても森岡がただで力を貸してくれるはずはないから、操を捧げる覚悟を決めたらどうだと助言されたのだという。

「林さんが、俺が面倒を看るのであれば、日本行きを許すと?」

 はい、と美玉は返事した。

 もちろん、彼女にも選ぶ権利を与えることにした。そこでカラオケクラブのホステスということにして森岡と見合わせたのである。

 その結果、少なくとも彼女は森岡を気に入り、どうせ好きでもない男に抱かれるのであれば、森岡の方が断然ましだと覚悟を決めたと告白した。

「それにしても、君が格段に魅力的なわけがわかったよ。タレントの卵だったとはねえ」

 森岡が沈美玉を見つめると、彼女は頬を赤く染めて俯いた。

 ただ単に美形というのであれば、茜や銀座のクラブ有馬の美佐子も引けは取らないだろうが、彼女には良い意味で異性を引き付ける魔性があった。日本人であれ台湾人であれ、この種の魅力がなければ芸能界では大成しない。逆に言えば、この異性を虜にするフェロモンがあれば、さほど美形でなくても売れるものなのだ。

「でも、森岡さんに断られたので、台湾に残るしかありません」

 消え入るような声だった。

「答え難いことを聞くけど、台湾では身体を売らないとデビューできないのかい」

「そのようなことはありません。でも、私の場合は家が貧乏でしたので事務所に借りがあるのです」

 沈美玉は唇を噛んだ。

 つまり、資産家の娘であれば、デビューまでのレッスン費用やデビュー後の衣装代などの経費は自前で賄えるが、そうでなければ立て替えてくれている事務所に返済しなければならない。そのためには、確実に『売れる』必要があるということなのだ。

「このままだと、君はまずは林さんに抱かれることになるのだね」

「そう覚悟していました。ただ、総経理がその気であれば、とっくの昔に……」

 抱かれていてもおかしくない、ということらしい。 

 生来、森岡はこの種の話に弱いのだが、それでもこの話には何か裏があるのではないかと疑念が浮かんだ。

 いわゆるハニートラップの臭いを嗅ぎ取っていたのである。中国当局が蝶蘭という諜報員を使って日本の国会議員である宅間を籠絡したようにである。森岡は民間人であるが、産業スパイということもある。

 ともかく、日本においては国家機密から産業技術情報まで、各国のスパイが跳梁跋扈しているのが現実で、その経済的損失だけでも、年に数兆円という試算があるほどである。

 林海偉が怪しいのは間違いないが、彼の目的がわからなかった。むろん、杞憂に過ぎないかもしれないが……。

「僕が支援するから、台湾でデビューするというのは駄目かな」

 沈美玉は悲しい目で首を左右に振った。

「それでは総経理の顔が潰れます」

 台湾はまた日本より遥かに対面を重んじる社会でもある。表現は悪いが、ある意味で台湾社会全体が日本の極道組織のようなものである。しかも、台湾有数の資産家である林海偉が、森岡でなくとも他人の力を借りて所属タレントをデビューさせることなど屈辱以外の何物でもないのである。

「では、君を抱いたことにして、僕が君を日本に連れて帰るというのはどうだろうか」

 彼女はまたもイヤイヤをするように首を振った。

「すぐにばれてしまいます」

「そこは、タレントを目指しているのだから、上手に演技はできないの」

「そういうことではなくて……」

 彼女は恥ずかしげに視線を落とした。その恥じらいが何とも言えず森岡の胸を掻き立てる。

「そうか、病院で調べられたらすぐにわかってしまうのだね」

 森岡は、彼女がまだ男を知らない身体なのだと気づいた。さすがに病院で検査をさせることまではしないだろうが、林海偉ほどの男である。彼女の嘘はすぐに見抜くだろうと思い直した。

「森岡さんは私が嫌いですか」

 身体を傾けるようにして言った。バスローブの胸元が少しはだけ、胸のふくらみが垣間見えた。森岡の脳裡に形の良い乳房が焼き付いた。

「今晩会ったばかりなのに、好きも嫌いもないよ」

「じゃあ、私のこと気に入りませんか」

 彼女はつぶらな瞳を真っ直ぐに森岡に向けている。

 森岡は、何やら真綿で首をし絞められているような、雪隠詰めに遭っているような気分になった。

「さっきも言ったけど、君ほどの女性を気に入らないわけがないだろう」

 そう言った森岡は、言い訳に終始している自分に嫌悪感を抱いた。十七歳の彼女の方が遥かに潔い。

「たとえば、身体を売るようなことさえなければ台湾で芸能活動をしたいかい、それとも日本へ行きたいかい」

「それは日本です」

 彼女は決然と言った。

「マリアのようになりたいです」

 マリアとは『マリア・テン』のことである。台湾では神格化された存在だが、台湾のみならず日本、中国、香港、タイ、マレーシア、シンガポール等でも絶大な人気を誇り、『アジアの歌姫』と称賛された歌手だった。

「わかった。とりあえず君を二年間支援しよう。東京での生活、歌と芝居、ダンスと日本語のレッスン費用も僕が面倒を看る」

 彼女は日本語を話せた。だが、歌手や女優であれば発音も問題ないレベルであるものの、バラエティ番組でのトークとなると、機転を利かせるには物足りなさが感じられた。

「二年ですか」

「その間に、僕の方で所属事務所を決め、デビューのための根回しをする。だが、君の実力が伴わなければ台湾に戻ってもらう。それで、どうだい」

「ありがとうございます」

 それで、と彼女の目は訴えていた。

 森岡は観念したように彼女の肩を抱いてベッドに横たえた。


 林海偉の自宅では海徳が険しい表情で海偉を問い詰めていた。

「兄さん、どうしてあれほど可愛がっていた美玉を森岡に与えたのですか」

 台湾でも親戚の年長者は兄とか姉と呼ぶ。

「不満か」

「不満というより、兄さんが彼女を手放すとは思ってもみませんでした」  

「私も美玉は一生手元に置くつもりでいたのだが、実際に森岡と会ってみて気が変わったのだ」

「気に入ったのですか」

 ああ、と頷くと、

「想像以上の器だな。私の挑発を見抜いていたとは……」

「本当でしょうか。彼一流のはったりかもしれません」

「たとえはったりでも、私に対してできる者がいるか」

「いいえ」

 と、海徳は目を伏せた。

「しかも、逆にこの私を試そうとまでしたのだぞ」

「しかし、何も美玉を与えなくても……」

「森岡にやるぐらいなら、俺にくれとでも言いたいのか」

 海偉が海徳を見据えた。

「……」

 海徳は何も言えなかった。

「お前の気持ちはわかっていた。だが、状況も流動的になってきたことだし、諦めてもらうしかない」

「状況?」

「福建銘茶が森岡に近づく動きがある」

 福建銘茶は世界シェアーが天礼銘茶に次ぐ第二位の会社で、近年天礼銘茶を猛追していた。

「福建? そう言えば、あのとき兄さんが口にされていましたね」

 海徳は、鳳龍廳での森岡とのやり取りを思い出した。

「福建が森岡に近づくということは、寺院ネットワーク事業に関することでしょうか」

「そこまではわかっていないが、榊原さんに接触したのは事実だから、そんなところだろうな」

「まさか……」

 海徳は唸ると、

「その情報は榊原さんからですね」

「いいや」

 と、海徳は首を横に振った。

「え? では、いったいどこから……」

 海徳の驚きの眼差しに、

「向こうに潜入させた者から、連絡があった」

 海偉は平然と答えた。

「スパイを送り込んでいるのですか……さすがは兄さんですね」

「さすが、だと」

 海偉の目が鋭く光った。

「呑気なことを言っては困るぞ。福建銘茶が榊原さんに接触した事実の重大さがわからないのか」

 と、厳しい口調で言う。

 海徳は暫し思考した。

「向こうにも、こちらの情報が洩れている、と」

「そのように見るべきだろうな。至急、隠密裏に社内調査をしろ」

 はっ、と緊張の面持ちで承った海徳は、

「ですが、榊原さんはもちろんのこと、彩華堂の件でもわかるとおり、森岡は義理を欠く男ではありません」

 二人が裏切ることはないと言った。

「私もそう思うが、念を押しておくに越したことはない」

「しかし、美玉でなくとも他に女は腐るほどいます」

 海徳は、尚も食い下がった。

「そうだ。女は他にもいる。それこそ、新しい美玉を探せば良い。だが、森岡という男は滅多に出会えるものではない」

「それほどまでに、あの男を買っているのですか」

「企業経営能力はわからないが、頭脳と胆力、そして人を惹き付ける魅力は舌を巻かざるを得ないだろうな」

「たしかに、あの榊原さんがぞっこんになったほどですからね」

「あの食えない老人だけではないぞ。蜂矢にもずいぶんと見込まれている」

「蜂矢? 神王組の……」

 海徳の顔色が変わった。

「まさか」

「まさかではない。お前は神戸という御膝元に居ながら、そのような重要な情報も掴んでいないのか」

 と、海偉が睨み付ける。

「申し訳ありません。神王組の中では、京都の一神会との付き合いを優先していました」

 海徳は肩を窄めて詫びたが、悪びれた様子はない。

 一神会は、神王組の中では随一の経済ヤクザ組織である。海徳の判断は妥当であった。

「まあ、株式や商品相場だけを考えれば一神会との付き合いは大事だが、灯台下暗しだったな」

「蜂矢が森岡を見込んだというのはどういうことですか」

「ブックメーカー事業を森岡に託したようだ」

「ブックメーカーを……ほ、本当ですか」

 思わず海徳の口調が乱れる。

「あの事業は四年近く前に一度失敗し、神王組は大きな痛手を蒙ったはずです」

 海徳の言葉には、二度の失敗は絶対に許されないはず、との思いが込められていた。

「それを森岡が仕切るのだ。その意味がわかるな」

 海偉が不敵な笑みを零す。

 その瞳の奥の鈍い輝きに、海徳は海偉の深遠な狙いを理解した。

「ですが、そう簡単に森岡が受けるでしょうか」

「何としても受けてもらわねばならない。まずは正攻法で攻めるが、駄目なときは搦め手から、な」

「それで美玉を森岡に……」

 海徳は、ようやく諦めの付いた顔つきになった。

「台湾の黒社会を牛耳るためには、森岡の力が必要になる。そのためであれば美玉を与えても惜しくはない」

「美玉はスパイの役目も担っているのですね」

「森岡に愛されれば、の話だがな」

「森岡は女に一途な男と聞いています。恋人がいるようですし、上手くいきますか」

「だから美玉にしたのだ」

「たしかに美玉ほどの女であれば、いかに堅物でも骨抜きになる」

「それだけではない」

「他に何か」

「彼女に手を出さずにいたことが幸いした。女に一途な男なら余計に心に深く入り込める」

「まさか兄さんが美玉を抱いていなかったとは……」

 海徳は驚きを隠せなかった。

「美玉だけは、なぜかその気にならなかったのだが、こういうことなってみれば得心できる」

 海偉は、美玉と森岡の出会いをどこかで予感していたのだろうと言った。

「しかし反対に、美玉が森岡に取り込まれてしまったらどうするのですか」

 ふふふ……と、海偉は含み笑いをした。

「それでも良い」

「どういうことですか」

「榊原さんの後継者が決まったとの報告を受けたとき、私はその男に興味を抱き、密かに調べさせた」

「そのようなことを……」

「すると、森岡という男、頭脳明晰で人間的な魅力もあるが、ただ一つだけ弱点があることがわかった」

「それは……」

「情が深過ぎる」

 海徳は、はたと思い出した。

「おしゃるとおり、鳳龍廳での兄さんとのやり取りの中でも、彼は彩華堂という会社に拘っていましたね」

 うむ、と海偉は肯いた。

「しかも、事が女性に対してとなるとさらに弱く、頼み事をされたら断れない性格ときてる」

「身体の関係のない女性の頼み事が断れないのであれば、自分を愛してくれる女性の懇願なら、尚のこと断れるはずがない」

「そういうことだ」

 と、海徳は大きく肯いた。

「美玉には堅く言い渡してある。彼女も本省人である以上、いかに森岡を愛しても我々の悲願を蔑ろにすることはない。だから二人が相思相愛になれば良し、たとえどちちらかの片想いであっても、二人が関係を持ってくれさえすれば、森岡は美玉の頼みを聞かざるを得なくなる」

「となると、今夜が第一のヤマということですね」

「美玉は自分の家に戻っていないようだから、幸先の良い滑り出しと言ったところだろう」

 海偉は語調を強めて言った。

 ところで、と海徳が話を転じた。

「森岡が蜂矢からブックメーカー事業を依頼された情報はどこから得たのですか」

「知りたいか」

「できれば」

 海偉は一呼吸置いた。

「神州組の川瀬からだ」

「川瀬? 前にブックメーカー事業に出資を依頼してきた男ですね」

 神王組五代目から阿波野光高の後見役を任せられた川瀬正巳もまた金策に奔走した。とはいえ、事業が事業だけに対象者は限られていた。その点、林海偉は信用に足る人物だった。

「あのときは、もう一つ事業計画そのものに信頼感が持てなかったから出資は断ったが、何某かの金を掴ませて、新しい動きを知らせるように頼んでいたのだ」

「なるほど、それはわかりましたが、私に黙っていたのはなぜですか」

 海徳は不機嫌そうな顔をした。

「お前が一神会と付き合っていたからだ」

「良くわかりませんが……」

「川瀬の神州組はな、神栄会と同様、神王組発足以来の古参組で、後発組の一神会とはそりが合わないのだ。お前に伝えていれば、何かのときに川瀬と親しく言葉を交わすかもしれない。もし、神州組にスパイが入り込んでいれば、その後の一神会との付き合いに懸念が生じる」

「そこまで……」

 海徳は、海偉の深謀遠慮に言葉を失った。

「おいおい、この程度のことで驚くようでは困る。俺に何かあれば、まだ若い海登を支えられるのはお前しかいないのだぞ」

 海偉は、自身亡き後の息子の後見人として海徳を指名していた。

「期待に沿えるよう、一層精進します」

 海徳は、新たな決意を口にした。


 翌早朝、森岡がリビングに行くと、榊原はすでに起きていた。ソファーに座り新聞を読んでいる。日本の新聞は無いので英字新聞である。

 榊原壮太郎は英語が読め、話せる。世界最大の自動車会社ナショナル・モーターの日本代理店の権利を取得するため、米国で研修を受けた経験があった。英語はその時に修得していた。

「爺ちゃん、早いな」

「おう、お前も早いやないか」

 おもむろに新聞を畳み、老眼鏡を下げた榊原の身体が固まった。森岡の背に隠れるようにしている沈美玉に驚いたのである。

 昨夜、森岡は沈美玉の意思を再確認するため自室に泊めていた。

「お、お前……」

「彼女か、昨晩泊めた」

「泊めた、ってお前……」

 抱いたのか、と目が訊いていた。

「そういうことだ」

「お、お、おお……」

 榊原の相好が一気に崩れた。

「それは良い、それは良い。茜さんには悪いが、女遊びの一つもできん堅物じゃあ、この先大成はしない」

「英雄色を好むってか。俺は男の言い訳だと思うがな」

 いいや、と榊原は仰々しく顔を横に振る。

「昔から、男っていう生き物は女にもてたいから働くのが相場と決まっている。哲学だの、思想だの、信念だのと偉そうにいっても、所詮は美味いものを食い、良い女を抱きたいからや」

「言いたいことはわかる。女にもてたいのとは違うが、先生でも結婚されたぐらいやからな。所詮この世は男と女しかいないと痛感させられた」

 森岡は、神村は生涯独身を通すと確信していたが、九年前、十二回目の荒行を達成した直後、突如妻帯した。このことは、森岡が女性に対する考え方を変えるきっかけとなっていたのは事実である。 

「それにしても、その可愛い子猫はどこで拾ったんや」

 榊原の言葉に沈美玉がムッと睨み付けた。気の強いところもあるらしい。もっとも、そうでなければ芸能界では生きていけない。

「爺ちゃん、彼女は日本語がわかるで」

「そりゃあ、失礼した」

 榊原は彼女に向かって軽く会釈し、

「その可愛らしいお嬢さんをどこで見初めたんや」

 と言葉をあらためた。

 森岡は林海偉の計らいであることを告げた。

「ほう。林さんも粋なことをするの」

「ほんまにな」

 森岡は彼女にわからないように目配せをした。 

 そのうち、皆がリビングに姿を現した。

「兄貴、彼女は……」

 南目は、昨晩カラオケクラブで森岡とデュエットをした沈美玉がなぜここにいるのだという顔をした。

 森岡の気性を良く知る坂根、蒲生もまた、この世の物ではないものを見ているような眼つきをしている。

「お前らも楽しんだだろう。死なば諸共だな」

 森岡は坂根と南目に向かって言った。新しい恋が芽生えていた二人も浮気といえば浮気である。

「旅の恥は掻き捨てと思い、遊ばせてもらったが、まさか女性に対して四角四面の兄貴が……」

 南目は、信じられないという顔を崩さない。

「茜には内緒やで。といっても、すぐにばれるやろうけどな」

 森岡は苦笑いした。

「それにしても彼女を宿泊させたということは、何か仔細があるのではないですか」

 さすがに坂根である。裏事情があることを読み取っていた。

「それや、洋介。堅物のお前がこのお嬢さんに手を出したのには理由があるのやろう」

 榊原も興味を示した。

 ちょうどそのとき、朝食のルームサービスが届いた。

「食いながら話すわ」

 森岡は沈美玉を皆に紹介してから席に着いた。

 森岡は、彼女の台湾芸能界での立場を説明し、日本芸能界でのデビューを支援する旨を伝えた。

「何ともお前らしいの」

 榊原が複雑な顔で言った。

「話を聞けば、林さんの薦めがあったということやから問題にはならんやろうけど、きちんと仁義を通さんと後々もめることになるで」

「この後、挨拶に行くつもりや」

 榊原は林海徳との付き合いから、台湾人が筋目を重んじる民族だと知っていた。

「しかし、兄貴。彼女を支援するって具体的はどうするんや」

 南目が訊いた。

「東京に呼んで生活費一切の面倒をみる。様々なレッスン代もな。そのうえで、テレビ局や広告代理店、出版社など各方面へ根回しをする」

「兄貴には芸能界にも人脈があるんか」

「ないこともない」

「誰や」

「学生時代に美咲こずえと何度か食事をした」

 美咲こずえとは、戦後日本の歌謡界に君臨し続けた女王である。

「美咲こずえやと」

 南目が目を丸くする傍らで、

「そういやあ、彼女の息子が芸能事務所をやっているな。神村上人も懇意のはずだ」

 と、榊原が肯いた。

「先生から紹介され、一度飲食したことがあるからどうにかなるやろ」

 森岡は曖昧に言うと、

「それより坂根、済まないが日本へ帰ったら東京へ行って住むところを探してくれるか」

「どこにしますか」

「青山辺りがええやろ」

「どのくらいの広さにしますか」

「それはお前に任せるが、第一の条件はセキュリティーのしっかりしたところを選んでくれ」

「わかりました。それで、彼女はいつ日本へ」

「林さんとの話にもよるが、パスポートと就学ビザが発給され次第ということになる」

「就学ですか」

「二年間は日本語学校で勉強することになる」

「なるほど」

 坂根が得心すると、沈美玉が席を立って、

「よろしくお願いします」

 と頭を下げた。

「兄貴が請け負ったんやったら間違いないから、安心してな」

 南目がいつものように能天気な声を掛けた。


 朝食の後、森岡は坂根と足立に彼女をタクシーで送らせた。

 沈美玉が部屋を出ると、榊原が森岡に話し掛けた。

「彼女の件、裏があると睨んでいるのか」

「まさかとは思うが、どうも彼女は林さんが差し向けたスパイのような気がするんや」

「何のために」

「それがわかれば苦労はせんがな。だから、彼女を抱いたんや」

「なるほど」

「抱かずに彼女を引き取ることも考えたんやがな」

「いや。抱いて正解やで」

「そうやろか」

「たとえばだ、悪人が自分の罪を問わないで欲しいと権力者に賄賂を贈ったとしよう。ところが権力者は、罪は問わないと約束したものの、賄賂は受け取らなかった」

 榊原は森岡を見据えた。

「悪人はどういう心境になると思う」

「疑心暗鬼なるな」

「そのとおりや。だからな、権力者が悪人の罪を許す気があるのなら、敢えて賄賂を受け取ってやるんや」

「そうすれば、林さんは色香に落ちた弱みを握ったと、安心するのやな」

「お前みたいな奇特というか、お節介な男は同じ日本人でも呆れるというのに、ましてや台湾人やで、何の見返りも無しに支援などすれば余計な警戒心を生ませるだけや」

 榊原の、そうだろうという顔に、森岡は小さく肯いた。

 

 昼前、森岡は林海偉宅へと出向いた。

 林の住まいは台北でも高級住宅街である『天母(テンム)』の一角にあった。日本人を含む外国人居住者の多い地域で、各国の大使館も集中している場所でもあった。

 林海偉の邸宅は天母の南にあった。敷地は二千坪もあろうか。樹木が生い茂る緑豊かな豪邸である。

 敷地玄関で訪ないを告げると、門扉が自動で開いた。煉瓦敷きの通路に従って家の玄関先に車を進めると、林海徳と数名の部下が出迎えていた。

 広々とした応接間には、すでに林海偉と沈美玉が待っていた。

「森岡さん、話は美玉から聞きました。彼女の日本デビューに協力して下さるとか」

 海偉は満足そうな顔で言った。

「微力ですが、出来得る限りのことはするつもりです」

「パスポートとビザの手配が済み次第連絡をしますので、宜しく頼みます」

 海偉は握手を求めると、部下に、

「例の物を持ってきなさい」

 と命じた。

 しばらくして戻って来た部下が手にしていたものは、中国聖人の墨であった。

 東京目黒の大本山澄福寺貫主の芦名泰山が書道を嗜むと知って、彼を籠絡するため、榊原壮太郎が最高級の墨の探索を林海徳に依頼した。海徳から相談を受けた海偉は、全世界に広がる自社の販売網を駆使し、中国十聖人の姿身の墨を収集することに成功した。

 だが、当初十体だと思われていた聖人は、実は十六体あるということが判明したのである。海偉はそれをも手に入れてくれていた。

「これが残りの六体です。どうぞ、収めて下さい」

「如何ほどでしたか」

「代金は結構です」

「そういう訳にはいきません」

「美玉がお世話になるのですから、これらはそのお礼とさせて下さい」

「それとこれとは別の話です。代金を受け取って頂かないと、この先の収集をお願いできなくなります」

 森岡は頑として受け付けなかった。

 海偉は海徳と目を合わせ、意を決したように口を開いた。

「実は、森岡さんに一つお願いがあるのです」

 あらたまった眼差しに森岡は緊張した。

「なんでしょう」

「貴方はブックメーカー事業を計画されていますね」

「えっ、はあ……」

 思いも寄らない問いに森岡は動揺した。

「神王組の蜂矢六代目からの要請を受けられたことは知っています」

「おい洋介、その話は本当か」

 榊原が驚きの顔で森岡を見た。彼は初耳だった。

「爺ちゃんには黙っていたが、六代目から直接要請があった」

「承諾したんか」

 ああ、と森岡は顎を引いた。

「うーん」

 と、榊原は黙り込んだ。

――清濁併せ呑むとは、まさにこの男のことをいうのか。とてものこと、わしの跡継ぎなどに収まる器ではない。

「その事業ですが、一枚噛ませてもらえませんか」

「林さんがブックメーカー事業を」

 森岡は驚いたように訊いたが、腹の中では、

――俺を台湾に呼び寄せた真の目的はこっちか。

 と苦々しい思いになっていた。

「おかしいですか」

「天礼銘茶さんは歴とした世界的企業です。いまさら賭博でもないでしょう」

 森岡は正論を述べた。ただ、その森岡にしても台湾の社会状況は知っている。大学生時代から、折に付け郭銘傑の話に耳を傾けてきていたのだ。台湾は日本以上に表と裏が密接な関係にある社会であるから、林海偉が裏社会に興味を持っていたとしても何らおかしくはない。

 だが、単なる興味というのではなかった。

「これは私たち林一族の悲願なのです。いや、本省人の、と言っても大袈裟ではありません」

 林海偉が深々と頭を下げた。

 その行為に沈美玉は唖然として森岡を見た。彼女にとって海偉は絶対者である。天礼銘茶の天皇でもある海偉が、他人に頭を下げたところを見たことがなかった。それが、若い日本人に懇願しているのだ。

 本省人とは、中華人民共和国(中国)が台湾を統治する前から台湾に住んでいた漢民族のことを指し、これに対して一九四九年の中国共産党との内戦に敗れた国民党とともに大陸から台湾に渡った人々とその子孫を外省人という。一八八五年に清が台湾を台湾省と改めたためこのような呼称になった。

 ただ最近の研究では、本省人は清の時代、漢民族に同化された原住民であるとしている。現代のモンゴル、ウイグル、チベットで見られる同化政策が台湾でも行われていたということである。

 外省人は台湾人口の一割強だが、一九八〇年代に始まった民主化以前は支配層のほとんどを占めていた。

 ブックメーカー事業と本省人の悲願を結び付け、その背景にキナ臭いものを感じ取った森岡はますます慎重になった。

「林さんの悲願が何なのか知る由もありませんが、私にそのような力はありません」

「謙遜しないで下さい。六代目は貴方に全権を委ねたと聞いています」

「何処からそのようなことを」

 蜂矢司との面談は、彼から要望のあった一度目も、森岡が返答するために願い出た二度目も共に密談であった。さすがに世界に冠たる華僑の情報網である。森岡は舌を巻かざるを得ない。

「全権委任など言葉のうえだけですよ。極道組織がそのように甘いものではないことなど林さんも十分ご承知でしょう」

 海偉は小さく肯いた。

「だからこそ、逆に六代目の貴方への信頼は絶大なものだと理解しています」 

 海偉は、蜂矢の言葉は本心だと見抜いていると仄めかした。

「とはいえ、日本の極道組織は神王組だけではありません」

「もちろんです」

 海偉にしても、東京には稲田連合と虎鉄組という巨大組織があり、彼らが黙って指を咥えているはずがないことはわかっていた。 

「日本ですらこの先どうなるかわからないのに、台湾に進出するなど、とてもとても」

 無理だ、と森岡は言った。

「そこを何とかなりませんか。私からもお願いします」

 海徳が堪らず助け舟を出した。

 森岡はしばらく目を瞑った。天礼銘茶は世界的企業で、その情報網が尋常でないことも目の当たりにしたばかりである。今後の良好な関係構築のためにも慎重な対応が必要だった。

「日本に帰ってゆっくり考える時間を下さい。今日のところはそれで良いですか」

「もちろんです」

 海偉の表情にいくぶん喜色が戻っていた。

 森岡が明確な返事を渋ったのは用心もあったからである。海偉は本省人の悲願だと言った。それはすなわち民族的悲願ということになる。下手に了承の返事などして、林海偉と敵対する側に漏れでもすれば、帰国する前に骸になる可能性すらある。海偉の側近の中に、敵側に通じている者がいることさえ考えられるのだ。


 その日の午後、森岡は郭銘傑の自宅に出向いた。銘傑とこの日の夕食を共にする約束をしていたが、林海偉の依頼を相談するため、急遽時間を空けてもらったのである。

 銘傑の生家は、林海偉と同じく天母にあったが、三男の銘傑は大同区に四階建ての小さな自宅ビルを建てていた。大同地区には台北最大の漢方、乾物街があり、お寺も多く下町の雰囲気を残すエリアである。交通の便もよく、商業エリアの中山区にも近くて便利な場所である。

 昭燕手作りの飲茶を口にしながら、森岡は銘傑に腹を割った。彼は真に信用のおける男なのだ。

「林さんが沈美玉をお前に……」

 銘傑がまずもって驚いたのはそのことだった。

「彼女を知っているのか」

 四歳年上の銘傑は、森岡のぞんざいな口の利き方を許している。

「そりゃあ、知っているさ。二年前の美少女コンテストで優勝した娘だからな。いつデビューするか注目されているよ」」

 台湾にもアイドル発掘プロジェクトがあるのだという。

「彼女はそんなに有望な娘だったのか」

 森岡の呟きに、

「そんな彼女を引き受けてしまったのだから、責任重いわよ」

 昭燕が脅かすように言った。

「台湾のファンのためにも是が非でも日本でスターにしなければと思っている」

 森岡があまりに深刻な顔をしたものだから、

「冗談よ、彼女なら放っておいてもスターになるわ」

 昭燕は笑いながらそう言うと、席を外した。森岡の話が重大なことだと察したのである。

「林さんの言う悲願というのに見当が付くか」

「お前、どうして直接聞かなかったのだ」

「あの場で訊いてしまうと、断れない気がしたのだ」

 そうだろうな、と銘傑は森岡の判断に理解を示した。

「ブックメーカー事業に参加したいということは、黒社会の賭博の勢力図を変えたいということだろう」

 黒社会とは台湾の裏世界のことである。

「それが悲願とどう繋がるのだ」

 森岡がわからないのはそのことであった。

「台湾の黒社会は、大きく本省掛と外省掛とに二分されている」

 本省掛とは本省人、つまり古くから台湾に住むヤクザを差し、外省掛とはその後、台湾に移り住んだヤクザということである。

 両者は激しい勢力拡大抗争を繰り返すことになったが、外省掛は蒋介石率いる国民党と共に台湾に移ったヤクザであるから、政界との結び付きは深く、つれて警察や軍隊とも融合するなどして勢力を拡大したのである。

 たとえば現在、日本でも有名な台湾の『プロ野球の闇賭博』の大部分を外省掛が仕切っていると言われているが、それだけで一年間の賭け金総額は一兆円を超えると推測されているのだ。一説には五兆円という話もあるが、裏社会の事だけに正確な数字はどこにもない。日本の地下経済が百兆円とも三百兆円とも言われているのと同様である。

 もし仮に五兆円であれば、人口やGDPの比較からして日本より相対的に多額になるが、これは多分に台湾人の気質によるところが大きい。台湾人は、口癖で『要不要賭?(賭けるのか?)』という言葉を、大人から子供まで口にする民族なのである。もっともそれは、ギャンブルというより人と意見が違う場合に、それを証明するためという性質が濃いのであるが……。

 ともかく林海偉は、その闇の利権を少しでも本省掛に取り戻したいという野望があった。野望というより悲願と言った方が正確だろう。というのは、現在中国は実質上の台湾併合を軍事や政治の面から推し進めているが、この正面突破は台湾人の強力な抵抗に遭い、頓挫することが目に見えていた。

 では中国が打って出る次の一手は何か?

 林海偉は、いずれ中国は『以経促統』という政策に転換すると推測していた。経済を以て統一を促す、つまり経済交流を拡大し、台湾の中国市場依存度を高めてから絡め取る戦略である。そのとき、手始めとなるのは間違いなく地下経済だと読んでいるのである。

「おいおい、俺はそんなややこしいことに巻き込まれようとしているのか」

 さすがの強心臓の森岡も、

――結論を先延ばしにして正解だった。

 と背に冷や汗を搔いていた。

「しかし、お前は台湾の宝石を受け取ってしまったのだ」

「あの状態に置かれて、断る方が馬鹿というものだろう」

 郭銘傑の皮肉めいた言葉に、森岡は口を尖らせた。

「それより、もし俺が林さんの要望を受け入れたとして、命の方は大丈夫なのか」

 暴力団同士の抗争にはならないのか、との問いである。

「全く無いと断言はできないが、その可能性はかなり低いと思う」

「そうなのか」

 森岡は意外という顔をした。 

「お前のブックメーカー事業は、英国政府公認のものだろう」

「そうだ」

「誰かが勝手に台湾でその手の事業をするというのであれば、暴力団は黙っていないだろうが、客がインターネットで英国のサイトに賭けるのだから文句を言う捌け口がない」

「表向きはそうであっても、水面下で蠢くのがヤクザだろう」

「たしかにそうだが、一昔前と違って今は警察の監視が厳しいから、末端のチンピラ同士の小競り合いはあっても、大きな抗争に発展することはない。ましてや、林さんのような台湾財界の大物の命を殺ってみろ。社会全体から反発を買うことになる」

「そうなのか……」

 森岡は考え込むような素振りをした。

「どうかしたのか」

「いや、なに、お前の話を聞いていて閃いたのだが」

 と、森岡が銘傑を見据えた。

「お前がやってみないか」

「何を、だ」

「そのブックメーカー事業だよ」

 銘傑はあまりの衝撃に口にしていた飲茶を吐き出しそうになった。

「ば、馬鹿な。冗談もほどほどにしろ」

「冗談ではない、本気だ」

「だってお前、さっきまで林さんの要望に困惑していたじゃないか」

「それはだな、むやみやたらに台湾の黒社会に手を突っ込んだりしてみろ、命がいくつあっても足りないだろうが。でも、そうでないならブックメーカー事業をこっちで展開しても良い」

「そうだとしてもだ。それなら林さんに仕切らせなければ、筋が通らないだろ」

「そうかな。お前がやっても十分筋は通ると思うがな」

「どういうことだ」

「林さんは本省人の悲願と言った。お前も本省人だろう」

「うっ」

 銘傑は言葉に詰まった。

「私利私欲ではなく、本省人の利益のためというのが本当であれば、お前がやっても良いはずだな」

 森岡はにやりとほくそ笑んだ。

「しかしなあ、林さんがそれで承知するか」

「承知させるのさ。もし、どうしてもお前では駄目だと言うのなら、林さんは嘘を言ったことになるしな」

「……」

 それでも銘傑は踏ん切りが付かなかった。

 森岡の口調がさらに砕けたものなった。

「お前、いつまで役人なんかやっているつもりだ。それとも国会議員に転出する気なのか」

「議員? 笑わせるな。俺に政界への興味など微塵もない」

「昭燕さんが反対すると思うのか」

「たぶん彼女は賛成するさ。早く何か事業を始めろとうるさいからな」

 江昭燕は林海偉の親族である。林一族は、誰もが何某かの商売を行い裕福な生活を送っている。銘傑の兄弟もまたしかりである。役人、しかも官僚の端くれであるから生活は安定しているが、昭燕は物足りなさを感じているらしい。

「ならば、何を躊躇うのだ」 

「俺には政界や当局へのコネが無い」

「役人のお前にコネがないだと?」

 森岡は不審の声で訊いた。

「就職とか認可とか表社会のことであればどうにでもなる。だが、黒社会の賭博に手を出すのだぞ。万が一を考えて命の保証を確保しておく必要があるだろ」

「さっき、大きな抗争は無いと言ったはかりじゃないか」

「それは林さんだからだ。林さんは政治家から警察権力、本省掛だけではなく外省掛の一部にも人脈がある」

「じゃあ、お前の親父さんはどうだ」

 銘傑の父偉殷は、台湾最大の建設会社・台湾工程股份有限公司の董事長である。

仕事柄からいえば、林海偉より黒社会との繋がりは太いはずである。

「むろんある。あるが、親父は生来正義感の強い性格で必要最小限度の付き合いしかして来なかった。だから、その息子、しかも三男の俺となるとさらに細くなる」

「それは困ったな。何とかなる方法はないのか」

「ないことはないが……」

 銘傑が口を噤んだ。

「方法があるなら言ってみろ」

「金が掛かる」

「金か。金なら俺が作る」

「簡単に言うな。一億円や二億円ではないのだぞ」

 銘傑は咎めるように言った。

「当り前だ。一億や二億のはした金で堪るか」

 森岡も吐き捨てるように応じた。

「お、お前……」

 銘傑が不思議そうな眼差しを向ける。

「考えてみろ。命の保証を得るための工作資金だぞ」

 自分たちの命の値打ちは低くはないと言った。

「そりゃあそうだが、桁が一つ違うのだぞ。少なくとも二十億円、下手をすれば倍の四十億円ぐらいは掛かる」

「なあんだ、そんなものか」

 森岡は木で鼻を括るように言った。

「なあんだって、だと。お前、ウイニット上場時の利益を吐き出すつもりなのか」

「ウイニットの上場は数年先のことだからな、間に合わない」

「じゃあ、どうするのだ」

「俺は作る、と言ったはずだぞ」

「……」

 銘傑には謎掛けが解けない。

「まず、台湾に新会社を二つ創る。一つはウイニットの子会社だ。日本人スタッフが三名、台湾人スタッフが十名程度の会社だ。もう一つは独立したIT関連会社で、十名程度日本から送り込み、百名程度の台湾人技術者を採用する」

「仕事はどうする。いきなり百名規模のIT会社を創って大丈夫なのか」

「独立IT会社は、ウイニットの子会社が日本本社から受注した仕事の下請する。今、ウイニットは山ほど仕事を抱えているからな、当面仕事には困らない。その後、台湾での受注を増やす努力をする」

「といっても、言語はどうするのだ」

 当然の懸念である。

 森岡も呼応するように肯く。

「問題はそこだ。コンピューター言語はほとんど問題ないとして、仕様書を日本語から中国語に書き変える作業が必要になるが、これは両方の言葉のわかるスタッフを揃えるしかないな。幸い、台湾には日本語が理解できる人間が多いから、アルバイトとして雇おうと思う。お前や昭燕さんのように日本語が堪能な者が最終チェックすれば、問題を最小限にすることができる」

 なるほど、と銘傑が肯く。

「高齢者の中には俺たちより日本語のできる人が多いから、彼らの再就職にも貢献することにもなるが、その分余計な費用が掛かるぞ」

「それはウイニットが負担するから心配するな。お前は、日本語の堪能な台湾人を数多く集めてくれたら良い」

「わかった」

 と、銘傑は肯いた。

「それで、その会社が数十億の利益を生むのか」

「馬鹿なことを言うな。IT会社がそんなに簡単に儲けられれば苦労せんわ」

「だったらどうするのだ」

「数年後に独立会社を上場させるのだよ」

「な、なに」

「ここでお前の今の立場が役に立つ」

 銘傑はピンときた。

「俺に証券局へ根回しをしろというのだな」

「その金は俺がすぐにでも出す」

「そうか、上場したときの利益を政財界にばら撒くという寸法か」

「違う」

「違う?」

「いくらお前が証券局の奴らに鼻薬を嗅がせても、上場までに二、三年は掛かるだろう」

「それはそうだな」

「それじゃあウイニットと同じだろうが」

「……」

「わからないか、未公開株だよ」

「未公開株……」

「資本金の一億円は俺が全額出す。六十パーセントをお前が所有し、残りの四十パーセントが贈答用だ」

 仮に二パーセントずつであれば二十名に手渡すことができる。未公開株については日本でも賄賂事件があったが、合法であればこれほど便利な利益供与の方法はない。

「お前の取り分がないじゃないか」

「台湾で金儲けなどするつもりはない」

 驚く銘傑に森岡は平然と言った。

「ともかく、上場時の時価総額が百億円であれば、四十名なら一億円ずつ、二十名なら二億円ずつばら撒ける。時価総額が二百億円ならその倍だ」

 銘傑は台湾の、日本でいう経済産業省の役人である。森岡は人気を煽って時価総額を上げろ、と暗に催促しているのである。また、未公開株を受け取った方も、少しでも値鞘を稼ぐため、有望株だと勝手に吹聴して回るはずである。

 銘傑は思わず唸った。

「これがお前の錬金術か……」

 と言ったところで、あることに気づいた。

「台湾での会社設立、上場……お前、まさか俺の立場を視野に入れ、端から俺に持って来たのじゃないか」

 森岡がにやりと笑った。

「ようやく気づいたか。台湾黒社会の現状を聞いてから、お前に勧めるかどうか決めるつもりだった。ところが、林さんから思わぬ申し出があって困惑していたのだ。だが、お前が引き受けてくれれば俺もやりがいがある」

「気持ちは嬉しいが、昭燕が何と言うか……」

「それもそうだな」

 森岡にも銘傑の懸念は理解できた。

「じゃあ、昭燕さんにも中に入ってもらおうか」

 昭燕が話の輪に入ったところで、森岡が大まかに説明した。

「森岡さんにここまでお膳立てしてもらって断わる法はないじゃないの。あなたが断るのなら、私がやらせてもらうわ」

 と、彼女は一も二もなく賛成した。彼女の方が肝が据わっているようだ。

「……だそうだぞ、銘傑。そろそろ腹を括ったらどうだ」

 森岡に続き、昭燕も催促するような目で銘傑を見た。

「二人にここまで言われて、断るわけにはいかないな」

「良し」

 と、森岡は膝を叩いた。

「日本に帰ったらさっそく一億円を振り込む」

「資本金のか?」

「違う、当座の軍資金だ。さっそく証券局など関係部署の懐柔に使ってくれ」

「わかった」

 と応じた銘傑が不安な顔を覗かせた。

「林さんはどうするのだ」

 仲間外れではないか、と指摘した。

「そこだ。実はもう一社、広告代理店会社を設立し、お前と林さんに株主兼役員になってもらう」

「ブックメーカー事業会社だな」

「違う、違うがな」

 森岡は強い口調で否定した。そこに侮蔑の臭いを嗅ぎ取った銘傑はムッとなった。

「なんだと!」

「あなた」

 昭燕があわてて諌めた。

「森岡さんの話を聞きましょうよ」

「俺がブックメーカー事業をやろうと思ったのは、英国政府公認のライセンスを取得したからだ。つまり、インターネットで英国の会社に賭けるのであれば日本の警察当局も取り締まりができないのだ」

「それはわかる」 

「警察当局だけではない。極道の世界も同じだ。日本国内で賭博場を開けば彼らの沽券に係わるが、英国の会社に賭けられたら文句の付けようがないからな」

「俺もそう思う」

 森岡は顔を銘傑に近づけた。

「台湾も同じだろう」

「では台湾の客も、英国のお前の会社に賭けるというのか」

「そうすれば外省掛との余計な悶着が避けられる。さっき、お前自身がそう言ったろうが」

「そうだが、それでは俺のすることは無いじゃないか」

 銘傑の疑問はもっともである。彼は、台湾に森岡のブックメーカー事業会社の子会社を設立し、インターネットを駆使した事業展開を図るとばかり思っていたのだ。

「大ありだよ」

 ここからが本論だ、と森岡は言った。

「まず、英国の会社には台湾部署を独自に設ける。そうすれば台湾からの掛け金を把握できるからな。そこから配当金と諸経費を引いた残りがお前の取り分ということになる」

「広告代理店というのが受け皿になるのだな」

「そのとおり」

「しかし、話を聞けば聞くほど俺の出番は無いように思うが」

「お前には、台湾での販促をしてもらう」

「販促?」

「闇の野球賭博の客をブックメーカーに向かせるという重要な役目だ」

「具体的には何をすれば良いのだ」

「基本的にはコマーシャルということになる。テレビ、ラジオ、新聞、雑誌、インターネットとあらゆるメディアで告知しろ」

「費用はどうするのだ」

 銘傑の間の抜けた問いに森岡は嘆息した。

「俺は不安になってきたぞ。お前、役人なんぞになったせいで感性が劣化したのじゃないか」

「代理店の取り分があるじゃないの」

 昭燕が助け舟を出した。

「彼女の方が切れるみたいだな」

 森岡はもどかしげに笑った。

「十年後、日本の売り上げ総額は一兆円を見込んでいる。配当金に八十五パーセントを充てる。他に神王組へ四パーセントを上納し、諸経費が六パーセントと見込んでいる。つまり、利益は五パーセントということになる。台湾がどの程度になるかわからないが、仮に日本の十分の一としても五十億円が代理店の取り分となる」

「その金で販促しろというのだな」

「台湾の闇の野球賭博の掛け金は、少なくても年間一兆円を超えているだろう」

「さすがに良く知っているな」

「その一割を取り込めれば五十億、二割なら百億が取り分ということになる」

「百億……」

「もっとも、初期段階の費用は英国の俺の会社から補填してやる」

「広告代理店の方はお前も株主になるのだな」

 いいや、森岡は首を横に振った。

「俺が関与するのはウィニットの子会社だけだ。広告代理店の方もお前の好きにして良い。利益配分も上場時の利益もな」

「それじゃあ、お前は本当に骨折り損じゃないか」

 心配はいらない、と森岡が笑う。

「諸経費の中の一パーセントをコンサルティング料として貰うし、ソフトウェア開発はウィニットが独占する」

「コンサルティング料というのはわかるが、ソフトウェア開発って何だ」

「賭けの対象となる品目は、まず全世界向け共通のものを提供するが、各国の実情に向けて特別な品目を用意することになる。その場合は専用のソフトウェアを開発する」

「上手いことを考えるものだな」

 皮肉気な言葉に映るが郭銘傑にそのような意図はない。心底から感心しているのである。

「たとえば、台湾の野球賭博には複雑なハンディが付くな」

「お前、賭けたことがあるのか」

「ないさ、だが日本の野球賭博も同じようなものだ。といっても、日本でも賭けたことは無いぞ」

 森岡は銘傑の疑念の目に答えた。

「ともかく、そのハンディは台湾人だから判断できるのであって、野球に興味のない国にとっては到底理解できないだろうし、賭ける気もしないだろうな」

「それで台湾専用になるということか」

「むろん、費用はその国に出してもらうが、いちおう全世界に販売させてもらう」

「じゅあ、広告代理店は本当に俺と林さんで仕切って良いのだな」

 銘傑が念を押した。

「構わない。台湾には台湾の流儀があるだろうから、俺は一切口を挟まない。ただ、株式はお前と林さんが三十パーセントずつを所有し、残りを政財界のお歴々に所有してもらった方が良い。それと役員にも名を連ねて貰え」

「わかった。お前の言うとおりにしよう」

「本来であれば、広告代理店の株もお前に六十パーセントを渡すつもりだったのだがな」

「いや、俺にはIT企業もあるし、林さんに参加してもらった方が心強い」

「これで決まったな。この件は俺が林さんと話を付ける」

「明日、日本へ帰るのだろう。時間は大丈夫なのか」

「帰国する前に大まかな話をする。一度帰国してから、もう一度こちらに来る。そのとき、もう少し詳細に話を詰めよう」

「宜しく頼む」

 銘傑が頭を下げた。

「そうだ」

 と、森岡が思い付いたように言った。

「そのときは婚約者を紹介するよ」

「えっ? 婚約者……」

 昭燕が複雑な声を上げた。

「愛する女性ができた」

「ようやく気持ちの整理が付いたのね」

「なんとかね」

 森岡は昭燕の心情がわかっていた。日本への留学生時代、昭燕と奈津美は実の姉妹のように付き合っていた。そのような彼女にしてみれは、肉親の夫が遠ざかってしまったような寂寥感を抱いたのだろう。

「奈津美同様とはいかないだろうけど、宜しく頼むよ」

 森岡は小さく頭を下げた。

「森岡さんがどんな女性を選んだのか、お会いするのが今から楽しみだわ」 

 そう言った昭燕の瞼が潤んでいた。

「もう七年にもなるのね」

「早いね」

「奈っちゃんが生きていれば……」

「生きていれば?」

「さすがに奈っちゃんが惚れ込んだ男だけのことはあるけど、生きていればさぞかし彼女の自慢顔が鬱陶しかっただろうなあ、と思ってね」

 昭燕は泣き、そして笑いながら言った。


 翌日、森岡は林海偉と海徳の二人だけを圓山大飯店の部屋に呼び出し、了承の旨を伝え、併せて周囲には断られたことにして欲しいと申し出た。言うまでもなく、台湾のブックメーカー事業から、彼の影を消し去るためである。

 いずれ蜂矢には打ち明けるつもりでいたが、台湾の、とくに外省掛には自身の関与を知られたくなかった。

 森岡は、最後まで郭銘傑にも林海偉本人にも『本省人の悲願』の内容を聞き出すことはしなかった。それは彼が、実に台湾民族あるいは国体に関わることだと推察していたからである。

 郭銘傑と知己を得たときから、少なからず台湾について学習していた。そこから見えてくるものは、おそらく中国との関わりのあることに違いない。つまりは、親中国として取り込まれるか、はたまた独立を保つかである。

 このときの森岡に明確な政治的イデオロギーは確立していない。ましてや他国のことである。彼にそのような極めて高度な政治問題に関わるつもりはなかったのである。 

 沈美玉は、無事日本の芸能界でデビューを果たし、歌手、女優として一世を風靡するマルチタレントになるのだが、それは数年後のことである。












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