第20話  第三巻 修羅の道 結縁 

 墓参から戻ると、すでに灘屋の親戚一同が集まっていた。前もって、門脇修二から洋介帰郷の知らせを聞いており、心待ちにしていたのだという。

 洋介の父洋一の兄弟姉妹は八人いた。洋一は長男だったが第三子だった。その下に三男二女の八人である。次男と三男が都会に出た以外は、皆浜浦か近隣の村に住んでいた。五人のおじ夫婦やおば夫婦とその子供、つまり洋介の従兄弟連中も押し掛けて来ていたが、母方の親戚は一人も姿を現さなかった。過去の経緯が経緯だけに憚ったのである。

「おお、大阪にはこげな別嬪さんがおるだか」

「いやあ、まるで女優さんのようだがな」

「えんや。女優にもこないな美人は滅多におらん」 

 茜を見た男衆が口々に言った。茜は、その度に朗らかな笑みを返した。

 洋介は親戚一人一人に、茜を婚約者として紹介した。

「ほんとに、洋介にはもったいないのう。おらがもう十年若けりゃのう」

 などと、軽口を叩いた義叔父には、

「あんたなんかに茜さんが振り向くわけがないがね」

 と、叔母が嫌味を浴びせ、どっと座が沸いた。

 さながら、婚約披露を兼ねた賑やかな酒宴となった。昔話に花が咲いたが、誰も洋介の母小夜子の事には触れない気遣いをし、また彼の過去を問うこともしなかった。ただただ、現在の彼が成功を収めていることを喜んだ。洋介は、懐かしい顔また顔に囲まれ、久々童心に戻った心地だった。

 三間続きの宴席は溢れかえり、弾き出された女衆や子供らは台所で食事を摂ったり、席の後ろに、グラスや猪口、取り皿を置いたりして宴に参加したりした。酒の肴は鰤、真鯛、剣先イカ、鮑、サザエの刺身、蛸のからし和え、酢の物、椀物など、海の幸がふんだんに用意されていた。

 全て門脇修二が、洋介のために用意していたものだった。


「ああ、洋介さんが言っていたのはあれね」

 宴もたけなわの頃、座を外した茜が洋介の背中越しに声を掛けた。洋介が振り向くと、彼女は西の縁側から外を眺めていた。

 茜に寄り添った洋介は、彼女の目が墓地に向いているのを見て、

「そう。あれが迎え灯篭の火や」

 しみじみとした声で言う。 

「洋介さんの言ったとおり、幻想的だわね」

 茜も感慨深げに呟いた。

「最近は空き家も増えたし、一人暮らしの老人も増えて、灯篭の数もめっきり減ったがや」

 門脇修二が声を掛けた。そう言われれば、たしかに数は少ないような気がした。だがその分、満天に煌めく星々は、十六年前より輝きを増したように洋介の目には映っていた。きっとそれは、大阪という大都会で長らく星を眺めていなかったからだろうと洋介は思った。

 坂根好之と南目輝は、女衆の話の種になっていた。何しろ、洋介が目を掛けている二人のうち、坂根は県下に有名な坂根四兄弟の末弟であり、南目は老舗の名店和菓子屋の御曹司なのである。共に独身と聞いて、娘を嫁にどうかなどと持ち掛けられ、返答に苦慮していた。

 漁師の女房はすべからく酒が強い。二人は彼女たちから引っ切り無しに酌をされ、早くも酔いが回り始めていた。

 そのとき、

『ド・ドーン』

 という轟音が腹に響いた。

――雷?

 茜は気遣うように横を見た。

「花火が始まったんや」

 洋介は何事もないような顔で言い、

「茜のお陰で雷が鳴っても、もう魘(うな)されることもないやろ」

 と感謝の言葉を継いだ。

 その穏やかな表情から、

――もう、大丈夫だわ。

 茜は胸を撫で下ろしたものである。

 花火見物のためにある者は庭に出で、またある者は海岸まで足を運んだが、洋介はというと、門脇修二に離れの二階へ上がることの了解を求めた。

「おお、ええで。お前の部屋は洋美の部屋になっちょうけど、勝手に入ったらええ」

 修二は快く許可した。

 洋介は茜の手を引いて離れへ移った。洋介は、彼が使っていた懐かしい部屋の前に立ち止まり、声を掛けてみた。

「洋美ちゃん、いるかな」

「はあい」

 中から返事があった。子供たちの輪から離れ、一人で鑑賞しているようだ。

「洋美ちゃん、おじさんたちが入っても良いかな」

「良いよ」

 戸を開けると洋美が一人でいた。子供たちの輪から離れたようだ。

 二人が部屋に入ると、真っ暗闇の中、花火の光に窓から上半身を乗り出している彼女の姿が浮かび上がった。

「おじちゃんたちにも、ここから花火を見せてくれるかな」

 良いよ、と彼女は乗り出していた身体を部屋の中に戻して場所を空けた。

「有難う、洋美ちゃん」

 茜が肩に手を置いて礼を言うと、洋美は照れくさそうな笑顔を浮かべた。

「本当はこの窓から屋根へ上がると、もっと絶景なんやが、危ないから止めておこう」

「洋介おじさんは、屋根に上がっていたの」

 洋美が無邪気に訊いた。

「そうだよ。おじさんが子供の頃は、毎年屋根に上がって観ていた。火の粉が降って来るようで、そりゃもう凄かったよ」

「へえー、洋美も観てみたいなあ」

「だめだめ。夜はとくに危ないからね。洋美ちゃんがもう少し大きくなってからだね」

 洋介は諭すように言った。洋美は八歳、洋介が母を失った年齢だった。

 三人は、ときおり歓声を上げながら夜空を見上げていた。

 茜は刹那の輝きと我が身を重ね、喜びに打ち震えていた。振り返って見れば、自分の生い立ちを呪ったこともあったが、洋介のような本物の漢(おとこ)と出会い、結ばれ、生涯を誓い合った。

 洋介は少年のように純粋だが、妙に意固地な面があり、社会的立場とは別にして、一男性としては可愛らしくもある。三十六歳という若さで前途有望なIT企業を経営し、上場すれば数百億円の資産家になるが、金には全く無頓着で、強欲でもなければ傲慢でもない。それどころか、恩師の夢の実現のために奔走し、自らの金を惜しみなく注ぎ込んでいる。

 経営者としては実に敏腕で、近々一兆円規模の企業群を率いる総帥になることでもわかるように、彼の能力からすれば、実業家としてこの先どれだけの成功を収めるか予想も付かない。

 だが茜は、昼間の道恵和尚の言葉ではないが、何となく洋介の本領は別のところにあるような気がしてならなかった。

 花火は四十分ほどで終わった。数にして一千発もあったろうか。今やすっかり斜陽となった漁村の花火大会など、この程度のものである。都会の数万発の豪勢さとは比べようもないが、この小さな花火大会は浜浦の夏の風物詩として長年村民に愛されていた。

 花火大会が終わると、海岸からの海風に乗って『口説き』が伝わっていきた。もう一つの風物詩である盆踊りが始まったのである。


 離れから母屋に戻ると、酒宴が再開されていた。

 洋介と茜が座に戻ったときだった。また玄関に来客があった。

 宴会が始まってまもなくの頃から、遠縁の者、近所の者、洋介の同級生、幼馴染たちが酒や肴を手に手に訪れていた。皆、洋介の帰郷を知り、一目顔を見たいと願う者たちだった。彼らも、酒宴に加わっていたため、さらに二間の障子を外して宴場を拡げていた。

 修二の妻照美に案内されて座敷に入って来たのは、島根県議会議員の船越だった。船越は、島根半島出身では唯一の県会議員で、浜浦生まれであった。

「総領さんが帰省されたと伺い、歓談中とは思いましたがご挨拶に参りました」

 船越は一番下座に正座し、上座の洋介に挨拶をした。

「船越さん、そげんとこはいかん。こっちに来てごしない」

 洋介の叔父である森岡忠洋(ただひろ)が船越を上座に誘った。洋一の末弟の忠洋は、松江市役所勤めをしている関係で、船越とはとくに付き合いが深かった。

 船越は洋介の隣に座ると、名刺を差し出し、

「洋吾郎さんには、私が県会議員に初当選した頃から、大変お世話になりました」

 と言って頭を下げた。

「微かに憶えています」

 洋介が記憶を辿ると、

「総領さんは、まだ小学校に上がる前だと思います。いつも洋吾郎さんの胡坐の上に座っていらっしゃいました」

 船越も懐かしげな顔になった。

「そういえば、船越さんだけじゃなかったのう」

 森岡忠洋がぽつりと零した。

「そうじゃった。お祖父さんが元気な頃は、それこそ大臣や偉い役人だってて頭を下げに来たがの」

 誰かがそう言うと、

「伯耆信用金庫の頭取や支店長、農協の組合長、郵便局長も金目当てによう来とったがな」

 とまた誰かが呼応した。

 洋介は幼少の頃を想起した。

 祖父洋吾郎の胡坐の上に座っていると、相手はいつも頭を下げていた。祖父の威厳に胸を高鳴らせ、胡坐の上で自身も得意満面になったものである。

「それがのう。お祖父さんや叔父さんが亡くなると、これまでの恩を忘れ、手のひら返したような態度を取りくさって」

 門脇孝明が吐き棄てるように言った。洋吾郎の長女の息子、洋介にとっては従兄である。

 その怒声が洋介を現実に引き戻した。

「どげなことだかい」

「それがのう、洋介……」

 孝明が言い掛けたとき、

「孝兄ちゃん、それは止めてごしない」

 と、修二があわてて口止めした。その厳しい目は、孝明だけでなく、その場にいた者皆の口を封じたため、洋介もそれ以上問うことはしなかった。

「すまん、すまん。座が白けてしまったの。さあさ、飲み直さい」

 修二は頭を下げながら、酌をして廻った。


 三十分も経ったであろうか、さらに三人連れの来客があった。

 応対に出た照美には面識のない男たちだった。一瞬警戒した照美に、腰の曲がった老人が穏やかな笑みを向け、

「総領さんが戻っておいでのようですな」

 と訊いた。 

「はい。戻っておられますが、どちら様でしょうか」

「ほうほう、申し遅れました。総領さんに『足立の爺』が参ったとお伝え下さらんか」

 照美はあっと目を剥いた。

「足立様とは……これは大変失礼しました」

 平身低頭で詫び、少々お待ち下さい、と言って座敷に消えたかと思うと、洋介が小走りで玄関にやって来て叫んだ。

「足立の糞じじいか!」

「おう。この糞童(くそわっぱ)が、ずいぶんと立派になったものよ」

 糞じじいと呼ばれた老人が相好を崩した。

「何年ぶりかな」

「ウメさんの葬儀以来じゃから、十六年振りかの」

 祖母ウメは、洋介が浪速大学に入学した年の初夏に心筋梗塞で突然死していた。洋介を送り出し、一人暮らしになった故の悲劇だった。

「そないになるか。しかし爺さんは元気そうでなりよりだ」

 洋介は、曲がった腰を伸ばした老人の肩を叩いて喜びを露にした。

「総領の活躍はわしの耳にも届いているぞ」

 足立と名乗った老人はそう言い、

「洋吾郎さんや洋一さんが生きておられれば……」

 と涙ぐんだ。

「爺は幾つになった」

「来年、卒寿じゃ」

「おお、九十歳か。長生きしたの」

 実の祖父に語り掛けるような親身の情に溢れている。

「なんの、わし如きが長生きしても何の役にもたたんわい。洋吾郎さんが長生きしておられたら、さぞかし世の為、人の為になったであろうにの」

 と、老人は鼻水を流して哭いた。洋介は込み上げる想いをぐっと胸に押し込み、

「昔話は後だ。さあ、爺さん。上がれ、上がれ」

 と自ら手を引いた。そのとき、壮年の男と目が合った。

「万亀男おじさんもお久しぶりです」

 洋介が声を掛けると、男は険しい顔つきで洋介に近づき、

「洋介君、後で話があります」

 と耳元で囁いた。

「この青年は?」

 軽く肯いた洋介は、もう一人の若者に目を遣った。

「孫の統万(とうま)じゃ」

「統万? ああ、一度だけ会ったことがある。ある、といってもまだ赤子だったが……」

 洋介は、万亀男の後ろで軽く会釈した青年を懐かしげに見て言った。

「総領、早速じゃが、酒を飲む前にちと頼みがある」

「なんじゃ、あらたまって」

「この孫をそばに置いてやってもらえんかの」

「俺に預ける、ってか」

 洋介は暫し沈思した。

「統万はいくつになった」

「二十八歳です」

「五年、いや三年でええ。是非、頼む」

 と、老人は曲がった腰をさらに折った。

「命の保証はできんで」

 洋介は真顔で釘を刺した。

「一旦預けたからには、総領の好きにしたらええ」

 老人が言い切ると、万亀男も承知しているという目をして肯いた。

「そうなら話は早い。では爺さん、明後日大阪に連れて帰っても良いか」

「統万、そうして貰え」

 有無も言わさぬ体で命じた老人に はいと統万が緊張の顔で頷いた。

「よっしゃ、これで決まりやな。とりあえず、一週間ほど俺のマンションに泊まって貰うから、身の回りの物だけを用意したらええで」

「総領のマンションに、ってか、それは……」

 老人が恐縮そうに言う。

「今さら、遠慮はいらんがな。その間に新居を用意しよう」

「総領、このとおりじゃ」

 と言って、老人は曲がった腰をさらに深く折った。

 この老人の名は足立万吉(まんきち)といって、洋介の祖父洋吾郎の義弟で、且つ盟友だった男である。洋介にとっては義理の大叔父ということになる。

 代々境港で、魚の荷揚げや生鮮加工品の製造を生業としていた。むろん、灘屋の荷揚げも彼らが請け負っていたが、洋一の死を機に荷揚げ作業からは撤退し、代わりに運送、流通業に力を入れていた。万吉は境港市民だが、島根半島出身で足立家には婿に入ったということもあってか、経営する生鮮加工品の製造工場には、半島の漁師の妻を中心に雇い入れていた。

 漁師の収入は水物である。少しでも生計の足しになればとの想いであった。洋吾郎と殊の外馬が合ったのは、義兄弟いう以外に、彼のそういった人情味溢れる郷土愛だったのかもしれない。

 足立家が経営する足立興業は、世間的には堅気で通っているが、実際は片足を極道世界に踏み入れている灰色世界の住人たちである。

 今や日本最大の暴力組織の神王組も、元は港湾荷役を生業としていた。仕事が仕事だけに気性の激しい男たちが参集した神王組は、戦後の混乱期には治安維持のため、警察の要請に応じ市民警護の役割も果たしていた。

 この足立万吉も例に洩れず、境港という船舶による外国人の到来繁多の街にあって、警察に協力し、市民の安全に寄与してきた。その後、戦後復興と共に警察力が増すにつれて治安維持の役目を終えたが、荒くれ共はそのまま足立興業に残り、現在に至っているのである。

 万吉自身は全くの堅気だったが、万亀男は神栄会の寺島龍司から『四分六分』の兄弟分の盃をもらっていた。言うまでもなく、寺島が六分の兄貴分、万亀男が四分の弟分である。

 とはいえ、足立興業はいわゆる企業舎弟とは異なる。暴力団の構成員や準構成員が資金獲得のために経営する、現在ではフロント企業とも呼ばれている企業があるが、足立興業はそういった従属的な経済関係は全くなく、対等な付き合いとしての経済活動であり、盃事である。

 峰松が、洋介と盃云々と言っているのと同種と言えば同種であろう。

 語弊を恐れずに言うと、かつての建設土木業界にまま散見される一種の風習、慣行である。

 言うまでなく、境港のような小さな街にも足立興業とは別に、正式というのもおかしな表現だが暴力団は存在する。

「こりゃまた、女神様の御降臨かの」

 万吉が茜を見た途端、曲がった腰を反り返した。

 万亀男は下ろそうとした腰を止めて見つめ、統万は目を見開いたまま唖然と立ち竦んだ。

「糞じじい、連れて帰ったらあかんで」

 洋介は詰るように言った。

「なんという言葉を……」

 恐縮して頭を下げた茜に、

「万吉爺さんはな、俺が幼い頃、しょっちゅうやって来ては俺の祖父さんと酒を飲み、酔うと必ず俺を抱き上げ『貰って帰る』と言って、実際に境港の自宅へ連れ帰るんや」

「あら、まあ」

「その度に、万亀男おじさんさんが送り届けてくれたんやがな」

「親父がすぐに寝ると問題はないのですが、家に戻っても酒を呷ったりして寝ないと、洋介さんを離しませんでね。洋吾郎さんから矢の催促に苦労したものです」

 万亀男が懐かしげに言い、

「この統万が生まれて、ようやく収まりましたがね」

 と笑った。

「洋介さんは嫌がらなかったのですか」

「なんが、肝が太かったけんね。笑ってござった」

 万吉が愛しげな目で洋介を見た。

「爺さん、まだ酒は飲めえかい」

 洋介の挑発めいた言葉に、

「まだ、酒の二合や三合は飲めるわい」

 と、万吉が胸を張った。

「じゃあ、酌をしよう」

 洋介が徳利を手に取ると、

「生きている間に、総領から酌をして貰えるとは思わんかった」

 万吉はまた涙を浮かべる。

 そこへ、修二が照美を伴って挨拶にやって来た。

「いやあ、万吉さんよくいらして下さいました」

 彼にとって万吉は、かつての仕事上の付き合い以上に特別な人物だった。

「万吉さん、万亀男さん、女房の照美です」

 修二が照れくさそうに紹介した。

「いつも主人がお世話になっております」

 照美は二人に酌をしながら礼を述べた。

「実はな、照美。万吉さんは命の恩人だが」

「え?」

 照美は初めて聞く話に驚きを隠せなかった。

 中学三年のとき、近隣の六つの中学校の総番長になった修二は、卒業と同時に漁師になったが、喧嘩っ早いのは相変わらずで、獲った魚の荷揚げで境港へ行っては地元の不良たちと喧嘩を繰り返していた。

 あるとき、修二に叩きのめされた不良が、兄貴分と慕うチンピラに加勢を懇願した。修二はそのチンピラをも痛めつけたのだが、これがいけなかった。チンピラは境港の暴力団の下っ端だったのである。、

 極道は面子を重んじる。たとえ下っ端であっても極道者が一般人に喧嘩で負けるなど有ってはならないのである。その暴力団は組の面子を掛けて修二を的に掛けた。

 いかに修二といえども、束になった極道相手では勝ち目はない。そこで彼は、いざというときの護身用に、刃渡り二十センチほどのナイフを手放さないようにしていた。

 事の重大さに気づいた修二の母が父である洋吾郎に救いを求め、洋吾郎が万吉に相談したと経緯があった。

「万吉さんが暴力団の組長さんと話を付けて下さったお蔭で命拾いをしたんだが」

 修二が決まりの悪そうな顔で言った。

「もしかしたら、俺にくれたあのナイフがそげだったのかい」

 洋介が思い出したように言った。

「ああそげだ。洋吾郎祖父さんから捨てろと言われたけど、良いナイフだっから捨てるのが勿体なくてな、お前にやったんだが。えらい迷惑だったの」

「いや、高校のとき役に立った」

「役に立ったって、洋介さん喧嘩でもしたの」

 茜が驚きの声で訊いた。

「喧嘩ってほどじゃなかったけど、親友に難癖を付けてきた上級生を脅すのに使った」

「まあ」

 開いた口が塞がらない茜を尻目に、

「さすがに、血は争えんのう」

 ふほ、ふほ、ふほ……と万吉が愉快そうに笑った。


 昔話が一段落した頃、トイレと断わって席を立った洋介の後をほどなく万亀男が追った。洋介の目の合図を受けてのものだった。

「今夕、東京ナンバーの車で、三人の怪しい男たちが境港に入りました」

「ほう、何者ですか」

「洋介さんを襲う危惧を抱いています」

「まさか」

 と、洋介は小さく呻いた。

 たしかに探偵の伊能剛史が東京の虎鉄組に襲撃されていたが、別格大本山法国寺の件は決着が付いている。いまさら、自分をどうにかしようとする目的がわからないのだ。

――それともRなのだろうか。そうであれば、蒲生を連れて来れば良かったか。

 と、洋介は唇を噛んだ。

「取り越し苦労であれば良いのですが」

 万亀男は厳しい目で応じた。

 境港市は、人口が三万七千人ほどの街である。重要港湾に指定されているほど船舶の往来が激しく、外国船の寄港も多い。従って昔から、いわゆる「他所者」に対しては警戒感が強かった。

 ホテルや旅館、民宿などもその傾向が残っており、違和感を抱いた客に対しては足立興業に一報を入れていた。民事不介入の原則が有る警察は、揉め事を事前に防ぐ手段としては当てにできないし、そうかといって暴力団へ相談などできはしないのである。

 ホテルの支配人には、東京弁を話す彼らが観光客でも釣り人でもなく、ましてビジネスマンには見えなかった。いや、ともすればその世界の雰囲気が漂う男たちに不審を持ったという。

「足立興業(うち)の者が見張っていますが、峰松がこちらに向かっています」

 万亀男は、森岡との関係を承知の目で言った。

 彼は峰松重一を呼び捨てにした。神王組随一の看板組織である神栄会の若頭にして、神王組本家の若頭補佐の要職にある峰松重一と、一地方都市の弱小組織、ましてや正式に傘下組織ではない足立興業の社長に過ぎない万亀男とでは、比べるまでもなく峰松の方が貫目は上であり、例えば共同で敵との抗争に当るときは、万亀男は峰松の指示の下に動くことになる。

 しかし、親分である寺島龍司の弟分ということは、峰松にとって万亀男は『叔父貴』に当るため、盃事上は万亀男の方が目上となるのである。

「峰松さん直々ということは、何か情報を握っているのでしょうね」

 洋介が安堵と不安の混じった眼で万亀男を見た。

「そういうことでしょうな」

 同意した万亀男は、

「しかし経緯は知りませんが、総領は神王組にとっても最重要人物らしいですな」

 と嘆息した。

「正直に言えば閉口しています」

「閉口?」

 万亀男は意外という顔をした。

「万亀男おじさん。これでも私は堅気ですよ」

 と、洋介は弱々しい笑みを浮かべた。

 そのとき、万亀男の脳裡にずいぶんと遠い昔の、ある夏の記憶が蘇った。

――ま、まさか、総領は……

 万亀男は思わず武者震いをした。

「どうかしましたか」 

 蒼白となった万亀男を洋介が気遣った。

「いえ、何でもありません」

 万亀男は慌てて取り繕い、

「この件は当方で方を付けるのでご懸念なく、という峰松の言伝でした」

 と気を取り直したように言葉を加えた。

「そうですか。大阪に戻ったら仔細を伺うとします」

 そう言い残し、トイレへ向かおうとする背に万亀男が声を掛けた。

「総領のお連れは大分酔っぱらっていますので、念のため統万を置いて帰ります」

 万亀男の配慮に、洋介は黙って感謝の頭を垂れた。

 洋介の背を見つめる万亀男の脳裡をある妄念が支配していた。

――まさか、総領は六代目の……そんな馬鹿なことが……いや、あの夏の六代目の執着振りを考えれば有り得なくもない。だからこそ、神王組は総領を丁重に扱っている……辻褄が合う。

 万亀男はもう一度ブルッと身体を振るわせた。


 二十二時になって、洋介と茜は照美が用意した浴衣を着て海岸に下りた。

 盆踊りが盛況となる時刻だった。酔い潰れた坂根と南目に代わって、統万が付き添った。南目はともかく、慎重居士の坂根にしては珍しいことだった。故郷に戻ったということで安堵感があったのかもしれない。

 洋介が浜浦を出るまでは、盆踊りは灘屋のすぐ脇で行われていた。浜浦は、決して広くない敷地に三百五十件余の家が立ち並んでいたため、路地は細く、まとまった広さの空き地はなかったが、一ヶ所だけ灘屋の南西の一角に、災害時の避難場所用としてそれなりの空き地があった。

 盆踊りはその空地で行われていた。しかも、洋介が幼少の頃は夜を徹して行われていたため、彼は盆踊りの口説きを子守唄代わりに聞きながら眠りについたものだった。

 その後、海岸を埋め立てて、老人福祉の一環としてゲートボール場などを整備した。近年では、盆踊りの櫓はそのゲートボール場に設営されているのである。

 海岸に着くと、すでに大勢の人だかりができていて、踊りの輪は三重にもなっていた。海岸通りに並んだ夜店の前には、色とりどりの浴衣を着た子供たちが、眠気も忘れて金魚すくいやら、的当てやらの遊興に没頭し、年に僅かの機会しか許されない夜遊びを満喫していた。

 洋介は、さりげなく茜の横顔を窺った。夜店を見て、的屋だった父を思い出したのではないかと気遣ったのだが、彼女は洋美と手を繋ぎ、綿あめ菓子を舐めていた。その穏やかな表情に、洋介はほっと胸を撫で下ろした。

 二人は、薄紫の生地に朝顔が描かれた揃いの浴衣を着ていた。実の母娘だといっても、誰も疑わないだろうと想った刹那、茜の姿が奈津実に、洋美の姿が見ることの適わなかった我が娘のそれと重なった。無事に生まれていれば、娘は洋美と同い年である。

――奈津実……。

 洋介が心の中で呼び掛けると、奈津実と女児が振り返り、

『洋介さん、茜さんと幸せになってね』

『パパ……』

 と微笑んだように見えた。その瞬間、洋介の眼に熱いものが溢れ出し、二人の姿が揺らいだ。

 そして、胸の奥底から、

――子供が欲しい。

 との切なる望みが込み上げてきた。


「洋介さん」

 統万の声で、洋介は我に返った。

「例の三人組が車でこちらに向かったそうですが、この状況を見てすぐに引き返したと見張りの者から連絡がありました」

 統万が耳打ちした。

「こ、この賑わいを見て凶行を諦めたかな」

 洋介は浴衣の袖で目を押さえながら言った。

「それと、峰松さんが境港に着かれたそうです」

「では、後は彼に任せよう」

 洋介の言葉に、統万が肯いた。

「洋介さんって、もしや灘屋の総領さんかね」

 統万の、洋介を呼ぶ声を耳に留めた村人が声を掛けた。

「はい、そうです」

「久しぶりですの」

 村人は懐かしげに言うと、

「総領さんは踊らんだかい」

 と踊りの輪に加わるよう促した。

「だいぶと踊っていないので、覚えているかどうか」

「なんが、子供の頃に覚えたもんは、いつまで経っても身体が忘れんけん」

 村人は笑い、

「お連れの別嬪さんは総領さんの嫁さんだかい」

 と冷やかすように訊いた。

「そうです」

「それなら、一緒に輪の中に入らさいの」

 洋介たちは急き立てられるように、踊りの輪の中に混じった。茜は洋介のすぐ後ろ、間に洋美を挟んで踊っていた。むろん、踊るのは初めてだったが、簡単な振り付けだったので、見様見真似でも十分もすればすっかり覚えてしまっていた。

 盆踊りに区切りが付いた頃、再び統万が、

「峰松さんらが例の三人組の身柄を確保したそうですので、私は一旦帰ります」

 と、洋介に耳打ちした。


 翌朝の五時過ぎに洋介は目を覚ました。

 真夏の時期、田舎の朝はすこぶる早い。朝の涼しい間に、農作業を済ませようとするからだ。屋敷の周囲のあちらこちらから生活音が聞こえ始め、洋介はすっかり目が冴えてしまった。

 横を見ると、茜は穏やかな寝息を立てていた。

 洋介は、気疲れしたであろう彼女を気遣い、静かに起き上がると、南側の奥の間に移動した。

 奥の間とは、母屋の玄関から一番奥、つまり西側にあたり、十二畳の広さに加えて床の間があった。畳敷きではあったが、絨毯を敷きソファーとテーブルが置いてあり、かつて洋吾郎が接客に使っていた部屋だった。奥の間の西続きに幅広の縁側があり、戸を全開にすると、午前中は涼しい風が吹き抜けたためとても快適だった。

 小学生の頃、夏休みになると午前中はこの奥の間で宿題に取り組み、午後は海水浴、夕方には南側の縁側でロッキングチェアーに腰掛けて本を読み、あれこれ空想をしながら転寝をする。それが洋介のお気に入りの過ごし方だった。

 母屋には、玄関から見て南北それぞれに座敷、次の間、中の間、奥中の間、奥の間と続いており、平屋建てではあったが十部屋あった。

 洋介が移った南側の奥の間と対になっている北側の部屋が、生前の祖父の書斎だった。昨夜、洋介と茜はその部屋で就寝した。

 しばらく、奥の間で寝そべっていると、修二の妻照美が小皿を手にやって来た。

「眠れませんか」

 照美は気遣いの言葉を掛けた。

「いえ。よく眠れましたが、子供の頃の習性なのか、物音に目が冴えてしまいました」

「広い屋敷なのに、外の物音がよく響きますからね」

 照美も苦笑いをしながら相槌を打った。

「これ、珍しいでしょう。食べてごしない」

 照美が差し出した小皿には、瓜が乗せてあった。

「おお、金瓜ですね。これは懐かしい」

 洋介は、思わず舌なめずりをした。

 熟れると皮が黄色に変色するため、この界隈では金瓜「きんうり」と呼んだ。味はマスクメロンに似て、甘くて美味しい。

 洋介が子供の頃は、小腹が空くと、畑で捥ぎ取ったこの金瓜を小川で洗い、小刀で割ってかぶりついたものだった。

 金瓜だけではない。山野に入っては西瓜、苺、枇杷、無花果、柿、梨、桑の実、山葡萄などの様々な果実類を、潮に浸かってはサザエやトコブシ、ウニなど新鮮な魚介類を食していた。トコブシとは小型のアワビのような貝である。当時はまだ乱獲前だったので、小振りなものであれば、泳ぎの苦手な洋介でさえ獲ることができた。

「最近、漁はどげですか」

「あんまり、ええことないです」

「そうですか。まあ、漁は水物ですからね。辛抱も大事でしょう」

 洋介の慰めがありきたりだったのか、

「ええ、まあ」

 と、照美は冴えない表情になった。

――他に何か、悩み事でもあるのか。

 懸念を抱いた洋介の前から、照美は逃げるように立ち去って行った。

 やがて、茜が姿を見せ、続けて洋美がやって来た。

「洋介おじさん、一緒にラジオ体操に行かん?」

「まだ、やっちょうかね。どこかな」

「大日さんだよ」

 洋美は愛くるしい笑顔を見せた。

 大日とは、園方寺に隣接する大日堂のことである。

「昔と同じだね。茜、散歩がてら行ってみるか」

 はい、と茜は快く応じた。

 門を出ると、大勢の子供に交じって大人も大日堂に向かっていた。

 洋介と茜は、洋美がラジオ体操をしている間、大日堂の周囲を散策した。

「こんなところに墓石があるのね」

 茜が大日堂の裏手の角にある古い石塔を見つけたようだ。

「ああ、その墓は吉三(きちざ)の墓だ」

「きちざ?」

「そうか、茜は知らんわな。八百屋お七の恋人と言ったら、わかるかな」

「八百屋お七って、江戸時代、火付けをして江戸の町を大火に包んだ罪で、火炙りの刑になったという、あのお七かしら」

「それや」

「へえ、お七の恋人って吉三っていう人だったの。でも、どうして江戸に住んでいた吉三の墓が浜浦にあるの?」

「それがな、お七は当時、数え年の十六歳だったということやから、満年齢では十四、五歳ということになるな」

「そんなに子供だったの」

「当時、十五歳以下は死罪にはならへんかったということや」

「現在の少年法みたいなものね」

「そういうことやな。当時は出生年なんていい加減なもんだったやろうから、お七が十五歳と言えば、死罪にはならなかったんやが、真っ正直に十六歳と言い張ったらしい」

「どうしてかしら」

「吉三に会えんのやったら、死んだ方がましと思ったのかもしれんな」

「一途だったのね」

「そういうことなろうな。それで、お七の処刑に責任を感じた吉三は彼女の魂を鎮めるべく、西国巡礼の旅に出たというわけや」

「その終焉の地がこの浜浦だったということね」

 茜が察したように言った。

「そういうことらしい」

 洋介は吉三の墓石に両手を合わせた。茜もしゃがみ込むと同じようにお祈りを捧げた。

「横にあるのは誰のお墓なの」

 茜の視線が傍らの石塔に向いていた。

「それは大田何某という公家の墓や」

「お公家さん?」

 茜は信じられないという顔をした。

「高貴な身分の墓が、こんな片田舎にあるのは不思議か」

「いえ……ええ、まあ」

 茜は口籠もった。

「昨日の仏間でも言ったやろ、隠岐があるからや」

「後鳥羽上皇や後醍醐天皇が配流されたのですね」

 うん、と洋介は肯く。

「せやから、近臣のやんごとなき身分の者も一緒に流されとるんや。そういった者の中には、途中で落命した者もいたんやな」

「そういうことですか」

 茜はようやく得心したようだった。

「浜浦だけやない。この界隈には仏国寺の他にも少なからず史跡があるんやで」

 洋介は茜の方に顔を突き出すと、

「案外、この俺にも高貴な身分の血が流れているかもしれんぞ」

 と怪しい笑みを浮かべて言った。

「まあ……」

 茜が口をあんぐりとしたとき、 

「洋介おじさん、茜おねえちゃん、どこにいるの?」

 ラジオ体操を終えた洋美の声が届いた。

 洋介は冗談を言ったつもりであろうが、実は満更的外れでもなかった。高貴というのは言葉が過ぎるが、灘屋が身分の高い武家の亜流であることに間違いはなかったのである。

 もちろん、洋介も全く知らない事実であり、一言付記すれば、本流には太平洋戦争開始以前から今日に至るまで、文字通り日本の精神的支柱である偉大な兄弟を輩出していた。

 

 屋敷に戻った洋介は朝食を済ませると、門脇孝明の家を訪れた。二日酔いで起き上がれない南目をそのままにして、坂根一人を伴った。昨夜、洋介が一人になった折、従兄の門脇孝明が近づいて来て、翌日の来訪を請うていた。洋介は、修二が止めた話の続きだと推察し、承諾していた。

 門脇孝明の家は、灘屋から北東の位置にあり、浜浦湾を挟んでちょうど園方寺と対極の位置にあった。

「わざわざ足を運んでもろうて、すまんの」

 玄関に出迎えた孝明が済まなさそうに言った。

「いや。昨夜、修二兄ちゃんが止めた話だらが」

「わかっちょったかい。だけん、おらがそっちへ行くわけにはいかんけんの。そいに他にも話があるし……」

「他にも?」

「まあ、そいは後だ」

 そう言いながら、孝明は応接間に案内すると、ほどなく妻女がビールとつまみを運んで来た。

「迎え酒といこうか。お盆だけん、朝から飲んでもええだら」

 孝明は言い訳をしながら、洋介と坂根のグラスにビールを注いだ。

「そいで、どげな話だかい」

 洋介は一口飲んでから訊いた。

「今年の三月だっただが、修二の船が沈んでしまっての、網も一緒に無くしてしまっただが、お前は知らんかったかい」

「いや、初耳だが」

 洋介は驚いた顔で言う。

「そげか。この海難事故は、国営放送のニュースでも報じられたけん、もしかしたら洋介も知っちょうかもしれんと思っちょったが」

「そう言われれば……」

 たしかに、島根半島沖で操業中の漁船が沈没したというニュースを耳にした記憶が脳裡の片隅に残っていた。事故が起こった時期は、久田帝玄の法国寺貫主擁立の件が大詰めに差し掛かっていた頃と重なっていたため、洋介は気に留めることがなかったのである。

「あれは修二兄ちゃんの船だったかい、知らんかった」

「間の悪いことに、船は昨年購入したばかりだったし、網はその日が使い初めだったがや」

 船が沈没した原因は、網に入った魚の量が多過ぎたためであった。網に入った魚の量が多過ぎると網が切れてしまうため、頃合を量って適当に逃がす作業を行うのだが、このときは逃がす量を間違えてしまったというのだ。

 それでも、通常は重量に耐えかねて、網自体が切れてしまうものなのだが、皮肉にも新網ということで、切れずにそのまま船諸共海底の藻屑となったのである。

 数万、数十万匹の魚群は、たった一匹のリーダーによって泳ぐ方向を定めている。このとき、リーダーは海底の方向へ泳いだため、群れがいっせいに同じ方向へ向かったのだった。

「損害はなんぼだったかい」

「そこだ。幸い、人身事故にはならんかったけん、そっちの保証は助かったが、船が三千万と網が一千万だったちゅうことだ」

「三千万?」

 洋介は、安いという顔をした。

「中古船を購入していただが。新船だったら、もっとえらい目に負うちょうがな」

 門脇修二は洋介から三隻の船を譲り受けたが、そのうち型の古い一隻を廃船とし、代わりに中古船を購入していたのだという。

「なるほど。そいでも合わせて四千万か……大損だの」

 洋介が心痛な声で言うと、

「中古船は保険に入っちょったが、耳糞ほどでの。三千万以上の損害で、全額を伯耆信用金庫から借りちょったけん、返済は大変だが」

 と、門脇孝明も同情した。

 浜浦は小さな漁村だが、一応はそれぞれが法人を組織していた。灘屋が健在のときは、洋吾郎または洋一を頂点とした一法人組織だったが、灘屋の没落と共に大小の組織に分散した。その設立の際、個々の所有する船や網の資産価値が異なったため、会社組織は税法上の便宜享受のための方便で、実態は個人営業の集合体に過ぎなかったのである。

 したがって門脇修二の借り入れも、形式上は会社が借主であったが、修二が個人保証をしていたのである。つまり会社の返済を修二が補填していた。といって、あからさまに現金を渡すのではなく、給料等の支払いを減額するのである。

「それで、現在漁はどげしちょうだかい」

「船は、お前から定置網用の六隻のうち三隻を買っちょったけん、探索船の他に古いのをもう一隻持ちょうし、網ももう四網持ちょうけん、漁そのものは出来るけんど、借金を返すほどは魚が獲れんだが」

 探索船というのは、他船に先んじて海に出て、魚影の群れを探す小型船のことである。したがって船足は速いが、網を積載していないし、獲れた魚を貯蔵する倉庫も狭かった。 

 尚、弁才師はこの船の責任者を指す。

 さて、この界隈において『お前』と言葉は、目上あるいは年長者に対する敬称であり、年下には『わい』という言葉を使う。だが、灘屋の総領である洋介には、たとえ年長者であっても、特別に『お前』という言葉を使うのである。

「それはそげだらな」

 洋介も相槌を打った。心の中で、今朝の照美の憂いはこのことだったのか、と合点がいっていた。

「そこでだ。修二はもう一度借金して船と網を買いたがっちょうけど、伯耆信用金庫が貸してごさんのだが」

「そりゃ、前の借金もほとんど返済しちょうらんのに、新しい金は貸し難いだらの」

 洋介の、まるで伯耆信用金庫の立場を代弁したかのような発言に、

「お前までそげんことを言うだか。伯耆信用金庫は、お祖父さんには散々世話になっちょって、ちょっとぐらい恩を返してもええだらが」

 孝明は憤然として咎めた。むろん、洋介に向けてではなく、伯耆信用金庫を詰ったのである。

 洋介と孝明の祖父である森岡洋吾郎は、伯耆信用金庫設立時の功労者として、同行の歴史に名を留めていた。

 伯耆信用金庫は、米子市に本店を設立してまもなく境港支店を開設し、漁師を対象に顧客の獲得を目指した。だが後発組だったため、顧客の獲得は難航を極めた。

 そのとき、島根半島界隈一の分限者だった灘屋の当主洋吾郎が、漁師仲間を説得し、伯耆信用金庫との取引を開始させたのである。その数は七百にも上った。現代であればともかく、設立したばかりの伯耆信用金庫にすれば途方もない数であった。

 これを補佐したのも足立万吉だった。漁師を説得した洋吾郎に対し、彼は妻女を口説いたのである。

 この功績に感謝した伯耆信用金庫は、新任の頭取は必ず灘屋に挨拶に訪れ、境港支店の支店長は毎月一度ご機嫌伺いに顔を出していた。

 門脇孝明もそのことを承知していた。だからこそ、修二の苦境に手を差し伸べない伯耆信用金庫に立腹していたのである。

「そいでな、洋介。お前から伯耆信用金庫に話をしてくれんか」

「おらが?」

「潰れたといっても、お前は灘屋の当主だけんな。お前から話をすれば、向こうも考えるのと違うかの。それに……」

 孝明が口を濁した。

「なんだかい」

「いやあ、言い難いのだけんど、修二の話では、お前は二、三年もすりゃあ何十億という金が手に入るそうだがの。そのお前が保証人になってやれば、伯耆信用金庫も金を貸すと思うだが」

 新たな借金を加えると、総額は一億円近くになる。その額は水商売も同然の、しかも斜陽となった漁師や、田舎のサラリーマンの収入で返済できる多寡ではない。灘屋の親族には保証人になれるほどの高給取りも資産家もいなかった。もちろん、それなりの地主はいたが、如何せん土地そのものが安価なので担保価値が無いのである。

「そういうことだかい」

 洋介は孝明の意図を理解した。

「おらが、洋介に頼めと何度も言ったって、修二はああいう性分だけん、よう頼まんだが。だけん、おらが出しゃばったことをしちょうだが」

「孝兄ちゃん、ようわかった。そのことはおらが何とかするけん心配せんでもええ」

「そがか。力になってやってごすか」

 孝明が肩の荷を下ろしたかのように言った。

「そいで、もう一つの話とは」

 なんだ、と訊いた。

「おお。そいが、石飛将夫のことだがな」

「うっ」

 ビールを飲もうとした洋介の手が止まった。

「私は退席しましょうか」

 気を使った坂根が腰を上げようとしたが、

「ええ、ここに居れ」

 と、洋介は手で制した。

「将兄ちゃんがどがしたかい」

 これもまた説明を加えると、この界隈では実兄、親戚の年長者だけでなく、近所の男性年長者に対しても『兄』という言葉を使う。正確には兄(あん)ちゃんと呼ぶ。

「お前が、石飛将夫の消息を調べちょうと耳にしてな、伊能さんじゃったかの、彼に話をした後、おらなりに調べてみたんだが」

 そう言った孝明は、洋介の厳しい目に、

「いや、お前がなんで将夫のことを調べちょうか、詮索するつもりは毛頭無い。おらも友達だった将夫の消息が途切れて二年も経つので気になっただが」

 と言い繕った。洋介も孝明に他意があるとは思っていなかったが、つい神経質に反応したのである。

「大阪での、偶然将兄ちゃんに出会っただがの、だいてがおらの顔を見ると、逃げるように立ち去ったけん、気になっちょうだが」

 洋介も咄嗟に誤魔化した。

「父親が灘屋の金を大分ちょろまかしちょったけん、会わせる顔がなかっただら」

 孝明は推量して言った。

「そいでの、父親が死んだ直後に連絡があった以降と、証券会社をクビになった後の二年間を調べてみたんだが」

「何かわかったかい」

「大まかにはの」

 伊能が訪ねて来た数日後、門脇孝明は石飛将夫が一番親しかった同級生を思い出した。その同級生は、現在広島市内に住んでいたため、孝明は彼の実家に出向き、電話番号を聞いて掛けてみたのである。

「どうやら、高校卒業までの四年間は、鹿児島のある寺院に寄宿しておったみたいで、証券会社を解雇された後は、西成で日雇いの建設労働者をして食い繋いじょったみたいだが」

「あっ」

 坂根の顔色が一変した。洋介を刺した犯人は、建設労働者風の身形だったと記憶していた。

「伊能さんに連絡しようと思ったけんど、お前が盆に帰って来ると聞いて、直接話をしようと思っただが」

「孝明兄ちゃん、だんだん。こんで、おらの方はもうええだが」

 穏やかな口調と裏腹に、洋介は鋭い眼つきで、今後の調べは不要の意思を伝えた。 

 孝明にも意が伝わったようで、

「そ、そげか。お前がそげ言うなら、もう終わりにするけん」

 と気後れするように言った。


 門脇孝明宅を辞去した洋介は、帰宅の道すがらある人物に電話を掛けた。

 話を済ませた直後だった。

 背後からの駈けるような足音に、洋介が振り返ると、手にナイフを光らせた釣り人風の男が突進して来た。さらに、その右手やや後方から、もう一つの物体が重なって映り込んだ。

 坂根は洋介の電話の邪魔にならないようにと、少し前を歩いていた。昨夜、神栄会の峰松重一が不審な三人組を取り押さえたとの報を受けて、気を緩めるという隙もあった。

「社長!」

 只ならぬ気配に振り返った坂根が絶叫した。彼にとっては悪夢のような光景の再現だった。 

――やられた!

 洋介も目を瞑り、身を硬くした次の瞬間、

「ぐえっー」

 とまるでヒキガエルが押し潰されたような声がして、大きな物体が身体のすぐ脇を通り抜けた感覚が奔った。

 おもむろに目を開けると、足元から右手方向の五メートル先に二人の男が折り重なるように這い蹲っていた。

 何事が起こったか、と唖然と佇む洋介に、

「社長、大丈夫ですか」

 と聞き慣れた声が届いた。

 暴漢からナイフを取り上げ、ワイヤーのような細紐で手際よく両手を後手に縛った男が目深に被った野球帽を脱いだ。

「蒲生!」

 洋介は驚嘆とも安堵とも付かぬ声を上げた。

「蒲生君、どうして君が……」

 近づいて来た坂根も訝しげに訊いた。

「話は後で。こいつをどうしますか」

 元SPが冷静な声で指示を仰いだ。

「おお、そうやな」

 洋介は落ち着きを取り戻すように言うと、辺りを見回して村人が無いことを確認し、

「そこに俺の車がある。それに乗せて足立興業に連れて行く」

 と指図した。

 明け方まで及んだ盆踊りのお蔭で、いつもと違って人通りのなかったことが幸いした。


 足立万亀男は驚愕と同時に恐縮した。

「これは迂闊でした。私の失態です」

 と深く頭を下げた。

 通常、暴力団の抗争に於いて放たれる、いわゆる『ヒットマン』というのは三組編成が常道である。本宅と愛人宅、そして飲食やゴルフなど、生活実態に標準を合わせる機動部隊である。

 余談だが、いわゆる『鉄砲玉』とヒットマンとは違う。たしかに、ヒットマンの役目を鉄砲玉といわれる使い捨てのチンピラが担うこともあるが、その場合は人材の少ない弱小組織かあるいは陽動作戦、つまり本命のヒットマンの隠れ蓑としての役割でしかない。

 本来のヒットマンは、殺害専門のプロに委託するか――この場合は足が付かないように外国人が雇われることが多い――幹部候補生が選ばれる。つまり、組への貢献と服役という実績を積み上げさせ、箔を付けさせるのが目的である。

 森岡の場合は暴力団同士の抗争とは違うが、峰松重一に取り押さられた三人組が本隊だとしても、別働隊の懸念を抱く必要はあった。

「いや、私にも気の緩みが有りました。この蒲生が気を回してくれたお陰で助かりました」

 洋介は万亀男を庇うように言った。事実、彼には相手が神栄会との関係を掴んでいれば、迂闊には手を出せないだろうという油断があった。

「この方は?」

「私の護衛役の蒲生亮太といいます」

「後ろから、体当たりされたとか」

「高校、大学とラグビーをやっていました」

「なるほど」

 万亀男は得心したように肯いた。

「大学日本代表レベルだったようです」

「ほう、それはなかなかのものですな」

「ラグビーだけではなく、柔道、空手、合気道の有段者で、逮捕術でも全国表彰されたこともあるのです」

「逮捕術?」

 統万が驚いたように訊いた。

「彼は元SPです」

「ということは、元警察官ですか」

 統万の声には、足立興業のようなところに連れて来て大丈夫か、という響きがあった。

「統万、彼は全て承知のうえだ」

 と、洋介は統万の懸念を取り払った。その言葉に、

「では、この男も神栄会に渡しましょう」

 万亀男が躊躇いもなく言い切った。

 

「どういうことや」

 足立興業からの帰途、洋介が蒲生に訊いた。

「社長に休暇を頂いたので東京に帰ったのですが、叔父から『大馬鹿者』と一喝されましてね。すぐに後を追ったというわけです」

 と影警護に徹していたことを告げた。

 叔父から叱責を受けた蒲生は、その足で東京を発ち、夜を徹して東名、名阪、中国道、米子道を走破し、早朝浜浦に着いたのだという。

 お盆の間、盆踊りの櫓を設営するため、北岸に臨時特設されていた村の共同駐車場に車を止めたときである。元SPの勘が働いた。蒲生は釣りもそぞろに、しきりとある方角に視線を送る挙動不審な男を看とめたのである。

 そこで蒲生は、車から降りると灘屋へは向かわず、漁協の建屋に身を隠しながら張り込みを続けた。すると、しばらくして男が注視していた方角の家から森岡と坂根が出て来たのだという。

「叔父さんという方もなかなかの人物だが、蒲生君もさすがだな」

 坂根の言葉に、

「叔父も元警察官でして、警護の仕事をしていながら帰郷などという機会が一番危ないのがわからないのかと怒鳴られました」

 と、蒲生は苦笑いをした。

「何にしても、お前のお陰で助かった。いずれ、叔父さんにも礼を言わなあかんな」

 洋介の言葉に、

「礼など気になさならいで下さい」

 と遠慮した蒲生が、

「しかし、殺意はなかったようです」

 と含みのある言葉を吐いた。

「なぜですか」

「ナイフの切っ先は腹ではなく、太腿辺りに向いていました」

 坂根の問いに蒲生があっさりと答えた。さすがに警護のプロである。切迫した中でも、冷静沈着に暴漢を観察していた。

「警告ということか」

 そう言った洋介の脳裡には、

――瑞真寺……。

 と、伊能の受けた災禍が過ぎっていた。


 門脇宅に戻ると、玄関先で南目と照美が待ち構えていた。

「兄貴、どこへ行っとったんや」

「ちょっと野暮……」

 と、洋介が言い終える前に、南目の目にこの場に居るはずのない男が映った。

「蒲生君。なんで君が此処にいるんや」

 咎めるような口調である。

「昨夜、電話したじゃないですか」

 蒲生は呆れた顔を返した。

「電話?」

「こちらへ向かうと言いましたよ。そしたら、浜浦までの経路と共同駐車場から灘屋への道筋を教えて下さったではないですか」

 えっ? 南目の口が半開きになり、

「すまん。酔っぱらっていて何も憶えてちょらん」

 と頭を掻いた。

「しかし、何で気が変わったんや」

「東京に戻ってもつまらないので、田舎のお盆行事を楽しみたいと、皆さんの後を追ったのです」

 蒲生は洋介の指示通りに、南目には海岸での異変を知らせなかった。直情的な南目の性格を憂慮した洋介の気配りである。

「統万も加わったことやし、四人の役割分担でも相談しようか」

 洋介がそう言ったとき、

「洋介さんに来客です」

 と、照美が遠慮がちに口を挟んだ。

「私に? 誰ですか」

「それが……」

 照美の顔つきが厳しいものに変わった。

「浜崎屋の叔父さんです」

「利二(としじ)叔父さんが」

 洋介は訝しげに宙を見た。

 浜崎屋というのは、母小夜子の実家の屋号で、利二は母の実弟、つまり洋介の叔父に当った。姓は佐々木である。

「後の二人は」

「慶吾さんと達也さんです」

「叔父さんと達兄ちゃんか、三人揃って何の用かな」

 佐々木慶吾は小夜子の末弟、達也は利二の長男である。

「お盆なんで、仏さんを拝みに来たということですが、できれば洋介さんにも会いたいそうです。修二さんが相手をしていますが、どうしますか」

 照美が窺うように見る。

「会いたくなければ、どこかで時間を潰されたらどうですか」

 洋介と義叔母との曰くを知っている彼女が気遣った。

「いや。三人が雁首揃えて来たということは、会えるまで何度でも現れるでしょう」

 洋介は腹を決めたように言うと、お母屋に上がって奥の間で洋美と修の遊び相手をしていた茜にも同席するよう願った。

 二人は、三人の待つ離れの応接間の扉を開けた。門脇修二の姿はなかった。気を遣い退席したようだ。

「おう、洋介。懐かしいのう」

 真っ先に利二が声を掛けた。その顔には、いかにも取って付けた笑みが張り付いている。

「ご無沙汰しちょうます」

 洋介は軽く会釈をした。

「慶叔父さんも久しぶりだの、盆で帰っちょったかい」

「あ、う、うん」

 慶吾は歯切れの悪い返事をした。達也も硬い表情である。

「その人はお前の嫁さんかい」

 利二が話題を茜に向けた。

「まだ、一緒にはなっちょうらんけど、そのつもりだが」

「がいな美人だの」

「山尾茜です。宜しくお願いします」

 茜は緊張した声で言った。彼女も用向きを薄々察しているのだ。

「ところで、おらに用って、なんだかい」

 洋介はいきなり本題に入った。

 利二から笑みが消えた。

「実はのう、お前に頼みがあってやって来ただが」

「おらに頼み?」

 洋介が利二に鋭い視線を送った。

「どげなことだかい」

 利二は甥の圧力に身を縮めながら、

「いまさら、どの面さげて頼み事なんぞ、と思うだらなあ。けんど、もうお前しか頼る者がおらんだが」

 と苦渋の面で言った。

 洋介は視線を弱め、苦笑いをした。

「まあ、そう難しい顔をせんと、話してみっさいの」

「実はの、お前に金を借りたいだが」

「金? なんぼだかい」

「それが、その、五千万ほど」

「五千万? そげな大金を何に使うだかい」

 洋介の問いに、利二は言葉を躊躇い、慶吾の顔を見た。そして慶吾が肯いたのを見て意を決した面になった。

「香夜(かよ)の手術費用に充てるだが」

「かよ?」

 洋介は初めて耳にする名だった。

「お前の姪になるだが」

「おらの姪?」

 思わず洋介の声が上ずった。一人っ子の彼には兄弟姉妹などいないのである。

「小夜姉さんと駆け落ちした男との間に娘が生まれての、寿美子(すみこ)というだが、その寿美子が結婚して生んだ娘が香夜だがな」

「ああー、そういうことかい」

 小夜子が灘屋に嫁いだのは二十一歳であった。七年後に洋介が生まれ、彼が八歳のとき男と駆け落ちをした。小夜子が三十六歳のときである。たしかに子供が生まれていても不思議はなかった。

「手術ってどげなことだかい」

「それが、香夜は生まれ付いての心臓疾患持ちでの。いろいろ治療はしたんやが、後はもう移植しかないということだ。日本ではドナーが見つかりそうもないし、アメリカで手術を受けさせたいんだが」

「それは不憫だの。しかし、渡米して心臓移植手術となりゃあ、五千万では話にならんだら」

 うむ、と利二は応じた。

「費用は二億ほど掛かあが、民間団体の募金協力で一億が集まった。寿美子の夫の親が三千万と、おら達が出し合って二千万を用意しただが。だけん、あと五千万ほど足らんのだが」

「なるほど。向こうの親は三千万も出したかい」

「普通のサラリーマンだけんの、退職金の前借りまでしてくれたらしい」

 ふーん、と洋介は頬を緩めた。

「もし手術が出来んと、どげんなあかい」

「余命は二年と言われちょう」

「まあ」

 茜が思わず嘆息した。

「手術したらどげだかい」

「成功したら、激しい運動は出来んが普通の生活はできるということだが」

「そげか」

 そう言うと、洋介は瞑目して思案に耽った。

「お前にとって、寿美子はこの世でたった一人、血の繋がった妹だし香夜もまた姪だ。なんとか助けてごさんかの」

 利二が頭をテーブルに擦り付けるようにすると、慶吾と達也もそれに倣った。だが、洋介は顔色一つ変えずに思案を続けた。

 長い沈黙のときが流れた。

 利二は堪え切れず、

「無理だわな。虫のええ話だわなあ」

 と落胆の声で呟いた。

 やがて、洋介はふうーと息を吐いて、おもむろに目を開けた。

「このこと、寿美子さんは知っちょうかい」

 洋介は、実の妹に『さん』付けした。いきなり顔も見たこともない妹の存在を知らされたのである。戸惑いは当然だろう。

「いや、寿美子夫婦は何も知らん。というか、小夜姉さんは灘屋のことは胸に仕舞って何も話しちょらんけん、お前と兄妹だということも知らん」

 そうか、と洋介は呟くと、

「利叔父さん。悪いけんど、おらはこの世には血の繋がりよりも、もっと大事なものがあると思っちょう」

「うっ」

 利二は、洋介の血を吐くような言葉に答える術を持たなかった。慶吾と達也も断られたと思った。

 ところが、同じ口から意外な言葉が出た。

「ええよ。一億円用立てるが」

「一億?」

 利二は目を剥いた。

「あい。口座番号を教えてごしない。そこに振り込むけん」

「いや、一億もいらんけん。五千万でええだが」

 利二は、喜びと困惑の入り混じった顔で遠慮した。

「心臓移植となりゃ、後々も金が掛かるかもしれん。その度に、無心に来られても迷惑だが」

 洋介はつれない素振りを見せた。浜崎屋の三人は戸惑いを隠せなかった。

「この先、何があっても二度とお前には迷惑を掛けんけん」

 利二が念を押すように言った。

 その必死の形相に、

「叔父さん。洋介さんの本心は別ですよ」

 と、茜が穏やかな声を掛けた。彼女には、照れ隠しだということがわかっていたのである。

 茜の言葉の意味に気づいた利二は、

「おお、ほんなら、後で電話するけん、頼むわ」

 と顔の前で両手を合わせ、拝むようにした。

「ただし、条件が一つある」

 利二は息を呑んだ。

「どげなことだ」

「寿美子には俺が用立てたことを黙っていてごしない」 

「しかし……」

 言い澱んだ利二は、助けを求めるように慶吾を見た。寿美子から、どのように金の工面をしたのか、と問われたとき答える術がないのである。

「浜浦出身の資産家に頭を下げたとでも言えばええがの」

「それで、寿美子が納得するだらか」

 利二が不安な顔を覗かせた。

「出来ないのなら、悪いけどこの話は無し、ということになるが」

「わ、わかった。何とかするけん。援助してくれ」

 利二があわてて頭を下げた。

 だが……と洋介が首を捻った。

「なんでおらに頼もうと思っただかい」

 洋介が資産家になった事実は、門脇修二ら父方の親戚と菩提寺の道恵、道仙父子しか知らないはずだと訝った。父方、母方の親戚筋は互いに疎遠のはずであるし、道恵と道仙は口が堅いと承知していた。

「おらが、ITの専門雑誌を見ての。お前が何百億の資産を手にすると知っただが」

 初めて達也が口を開いた。

 何百億円というのは少し誤解がある。全額を現金で手に入れることはないからだ。その大半は保有する自社株の時価総額であり、会社を手離す気がない限り、売却することはないのだ。だが、洋介は細々しい説明を避けた。

「達兄ちゃんが、なんでITの雑誌を?」

 読むのかと訊いた。達也はトラック輸送の仕事に就いているはずである。

「仕事の暇潰しに読むのだが、どうせなら、くだらん週刊誌よりITを勉強しようと思っての……この年でパソコンも触っているだが」

「ふーん」

 と鼻で返事をした洋介に、達也は恐縮した。目の前にいるのはITのプロ中のプロなのである。

「そいだいてが、お前に頼むのは虫が良過ぎるちゅうことは重々わかっちょる」

 すかさず利二が弁明した。洋介が達也に立腹していると誤解したのである。

「利叔父さん、それはもう気にせんでええだが」

 洋介は微笑しながら言った。

 利二は、ふうと安堵の息を吐くと、

「そげか。そげなら……」

「どげしたかい」

 利二が神妙な顔つきになった。

「そげなら、一度小夜姉さんに会ってやってごさんかい」

「お袋に? お袋はどこにおるだかい」

「浜崎屋(うち)に泊まっちょうだが」

「浜浦に戻っちょっただかい」

 極めて冷静な声だった。その落ち着いた響きは浜崎屋の三人、そして茜にも意外なものだった。

――やはり、あれはお袋だったか。

 洋介は、昨夕の墓参帰りの視線を思い出していた。

「おらがの、連れて帰ったんよ」

 これまで沈黙を通していた慶吾が気まずそうに口を開いた。

「慶叔父さんが」

「小夜姉さんたちはの、浜浦を出たものの行く当てがなくて、俺を頼って広島に来たんよ。俺が仕事の世話をしてやって、住むところも近所に見つけてやったんよ」

 小夜子と駆け落ちした男は境港に住んでいたが、浜浦と近いということで仕事を止めて広島に移ったのだという。

「慶叔父さんに世話になっちょったらかい」

「世話っちゅうほどでもないけど、そういうわけで小夜子姉さんの家の事情は何でもわかったんよ。なもんで、洋介君に頼んでみたらどうやって助言したのも俺なんよ」

 慶吾が極度に緊張していた理由だった。

「ということは、お袋は現在のおらのことも知っちょうだの」

「ああ、がいに出世したと喜んじょうがの」

 利二が顔を綻ばせる。

「自分が引き取らんで良かったとも言っちょった」

「引き取る?」

「ウメさんから聞いちょらんかったかい」

「いや、何も」

 洋介は困惑の顔で言った。

「まあ、そげだらの」

 と、利二は納得の顔をする。

「実はの、洋一さんが亡くなってウメさん一人になったとき、小夜姉さんはお前を引き取りたいとウメさんに願い出たんだが」

 まさか、と洋介は息を吐いた。

「そがんことがあっただかい」

「だいてが、ウメさんはきっぱりと断らさった。何と言ってもお前は灘屋の総領だけんな。小夜姉さんは、ウメさんの年を心配してずいぶん粘っただが、ウメさんは頑として首を縦に振らんかったらしい。けんど、それは正解だったが。ウメさんの手で育てられたお前は、こがいな出世をしただけんの」

 利二は何度も肯いた。

「ようわかったが。そいで、お袋の男はどげしちょうだ」

「四年前に癌で死んだが」

「そげか。そいなら、お袋は一人で暮らしちょうだの」

 いや、と利二は首を横に振る。

「それが寿美子の夫はがいにしんびょな男での、小夜姉さんを一人に出来んと、一緒に住んでごいちょうのよ」

 しんびょというのは『やさしい』という意味の方言である。

「ほう。なかなか良い男のようだの」

 洋介は目を細めた。 

「そげだが。そいで、どげだ。会ってやってごさんかの」

 利二がもう一度頭を下げた。

「いや。止めておく」

 洋介はきっぱりと断った。

「やっぱり、まだ恨んじょうか。そりゃあ、そげだらな」

 利二はうな垂れた。

「誤解してごっさあな。今は会えんということだけん」

「うん?」

「おらはの、今大きな仕事をよおけ抱えちょうだが、だけん他の事に気を取られたくないんだが。一、二年もすりゃあ、全部落ち着くと思うけん、そのときに会うだが」

「ほんとか」

「あい。それに、そっちも香夜ちゃんの手術で、気が気じゃないだろうけん。手術が成功した後の方がお互い気掛かりがのうてええと思うが」

「言われてみればそげだの。お前がその気になってごいたなら、慌てんでもええわの」

 利二も納得したように言った。

「利叔父さん、お袋に伝えてごっさい。おらはもう恨んじょらんけん、と」

「おうおう」

 利二の顔が明るくなった。

「正直に言えば、高校を卒業するまでは恨んじょった。恨んで恨んで、恨らみ尽しちょった。親父が悪いのはわかっちょったが、そいでも恨まずにはおれんかった」

「そりゃ、そげだら。どげな理由があろうとも、子供を捨てる親は最低や」

 利二も洋介の手前、小夜子を詰った。

「だいてがの、今はお袋に感謝しとる」

「感謝?」

 意外な言葉に、利二は怪訝な目をした。

「感謝というのは、おかしな言い方かもしれんが、とにかくお袋がいなくなってごいたけん、かけがえのないお方と巡り会えたと思うちょる」

「神村上人のことかの」

 洋介は無言で肯いた。

「もし、この身に不幸がなく、灘屋の総領として平々凡々に生きちょったら、神村先生とは出会っちょらんと思うだが。これは皮肉じゃないけんの」

「そげか、そげに凄いお方か」

「生仏様みたいな人だが。あんな尊いお方の傍に居れるなんて、おらはがいに幸せ者だと思っちょる」

 洋介は清々しい顔つきで言った。その表情に嘘はないと利二は安堵の息を吐いた。

 洋介は、元々佐々木利二にぶつけた辛辣な言葉ほど母を恨んではいなかった。父洋一の暴力が酷かったことを記憶していたし、母がいい加減でふしだらな人間ではないと信じていたからである。

 小夜子が苦労人だったことも知っていた。先の戦争で父を失い、母正江の力になり、四人の弟と妹を育てた。そのため学校もろくに通えず、知らない文字も多かったことも承知していた。

 小夜子の父の義一郎は、戦争も中盤から終盤に差し掛かり、敗戦の色が浮かび始めた一九四三年の夏に徴兵され、四五年の春に栗林中将で有名な硫黄島で戦死した。

 小夜子が九歳のときであった。

 そのとき、彼女の下には利二をはじめ四人の弟と妹がいた。一番下の慶吾はまだ二歳であったから、正江のお腹にいたときに徴兵された義一郎は、我が子の顔を見ないまま戦地に赴いたことになる。もちろん、浜崎屋が特別だったわけではなく、日本全国に似たような境遇の家族が何万、何十万いたことであろう。

 小夜子は十五歳から二十一歳まで、郵便局の嘱託配達員として働き家計を助けた。浜浦界隈の村々に郵便物を配達する仕事だったが、怖がりの小夜子は苦痛でならなかった。

 というのも、郵便局が所有している三台の自転車は、正規社員が独占するため、必然的に小夜子は徒歩になったのだが、当時は道路など整備されておらず、隣村へは山道を歩くことが普通であったからだ。むろん、車一台が通れるほどの道路はあるが、山道を歩く方が近道なので上司がそのように命ずるのである。

 たしかに、山道というのは不気味である。真夏の昼までさえ、幾重にも重なる木々の枝は、陽光を閉ざし、鬱蒼とした草の葉は視界を遮った。小夜子は、薄闇の中を手探りしながら進まねばならなかった。

 理不尽な扱いを受けたこともあった。現金書留の紛失があると、いつも真っ先に小夜子が疑われた。嘱託社員であるし、浜崎屋が貧しいことを誰もが知っているからである。その後、濡れ衣だったことが判明しても、誹謗中傷した局員らは謝りもしなかった。小夜子にとっては耐え難い屈辱だったが、弟妹のために辛抱した。 

 その小夜子に幸運が訪れた。

 そのときは、と但し書きを入れなければならないが、十八歳のとき灘屋の総領である洋一との縁談が持ち上がったのである。

 当時の浜崎屋は、いつしか若者の溜まり場のような存在になっていた。もちろん、後家の正江の男狂いなどではない。誰もが等しく美形の小夜子を目当てに集まったのである。小夜子は村一番どころか、島根半島界隈の男どもの噂に上るほどの美人だった。控えめで物静かなうえに、貧しい家計を助け、弟や妹の面倒をよく見る働き者という評判も青年たちの心を捉えていた。

 当然のことながら、村に喫茶店などあるはずもなく、若者は互いの家に集い酒を飲み、管を巻くのが専らであったが、それぞれの家にとってみれば迷惑なことでもあった。とくに兄が嫁を娶っている家の弟は気を使わなければならなかった。

 その点で浜崎屋は好都合であった。

 きっかけは遠縁の若い漁師が魚を差し入れたことだった。浜浦界隈では、至極日常のことで、現在でも魚や野菜をお互いに分け合っている。

 通常であれば、それで終わりだったが、あるとき正江はお礼にと酒を出した。すると、若い漁師はそれならと持参した魚を捌いて刺身にした。その折の歓談が余程楽しかったのであろう。若い漁師は、次の機会に友人を連れ立って浜崎屋を訪れた。正江は嫌な顔一つせず歓待した。

 そのうち三人、四人としだいに仲間が増え、とうとう十数人もなった。青年らは酒も肴も持参するようになり、手土産として、魚や野菜の他に珍しい菓子や日用品なども持参するようになった。

 また、漁師だけでなく種々雑多な職業に就いている若者が集まったため、薪割りや屋根、壁、電化製品などの修理を行うようになり、正江にとってはまことに重宝する若者の集会となっていた。

 だが、度が過ぎると波紋も呼ぶ。浜浦の人々は、正江が若い男を漁っているのだとか、小夜子の婿になる男を品定めしているなどと口々に噂をした。

 そのような悪評を一掃したのが洋一だった。あるときから洋一がその仲間に加わったのである。

 界隈一の分限者で、権勢家でもある灘屋の総領が輪に入ったのである。陰口を叩いて、万が一洋吾郎の耳にでも入ろうものなら、どのような咎めがあるとも限らないと村人は恐れ、口を噤んだ。洋吾郎は決してそのような心の狭い人間ではなかったが、村人たちは勝手に洋吾郎の人物像を創り上げてしまっていたのである。

 若者が浜崎屋に集う理由は、小夜子目当て以外にもう一つあった。

 義一郎の弟である威三郎の存在である。威三郎は浜浦では伝説の勇士であった。帝国軍人だった彼はマレー海戦で戦死していた。

 威三郎は、当時の日本人にしては身長が百八十五センチを超える大柄で、しかも筋肉隆々、運動神経も抜群だった。為に、浜浦ではただ一人、志願して職業軍人となり、最前線へと送られてたのである。そして、名誉の戦死である。

 灘屋の墓は丘の頂上にあり、他家の三倍の広さがあったが、唯一それに匹敵するのが威三郎の墓であった。浜崎屋の墓ではない。あくまでも威三郎個人の墓である。

 甲種合格の威三郎の戦死に関しては、国から弔意の印として弔慰金と丁重に埋葬するよう墓石が下賜された。

 開戦後しばらくは日本が優勢だったこともあり、威三郎は名誉の戦死として国士扱いを受けたのである。為に、権堂正虎といった大名ほどではないが、一般の三倍の墓石が祭られていたのである。

 終戦から十年も経っていない頃である。歓声を上げて威三郎の出征を見送った少年たちは、威三郎の武勇伝を聞きたがったというわけである。

 洋一が浜崎屋に顔を出すようになったのは、彼の取り巻きから浜崎屋での会合を聞いたからである。灘屋の総領である洋一にはいわゆる腰巾着が多くいた。その中の一人が浜崎屋に出入りしていたのである。

 洋一は、この時代の片田舎の青年にしては珍しく、東京の私立大学の雄・関東大学に進学していた。子供の頃より読書好きの彼の夢は小説家になることだった。それが無理であれば、せめて本と関わりのある職業に就きたかった。出版社でも司書でも本屋でも良かった。

 だが、それが儚い夢であることは洋一本人が一番よくわかっていた。ならばせめてもと、洋一は文学三昧の学生生活を送るべく、関東大学の文学部進学を洋吾郎に懇願したのである。卒業したら必ず灘屋を継ぐということが条件だった。

 大学の三回生まではお盆と正月の数日しか帰郷しなかったため、洋一は四歳年下の小夜子の存在を知らなかったのだが、卒業を控えた四回生の夏、長期帰省した洋一は初めて小夜子を見たのだった。

 いや、美しく成長した小夜子を、と言うべきだろう。子供の頃は何度か顔を合わせていたはずである。それはともかく、偶然玄関先に出た洋一が封書を配達に来た小夜子と出くわしたのである。小夜子を一目見て、洋一は胸にときめきを覚えた。小夜子も恥ずかしげに俯いて封書を手渡すと小走りに走り去って言った。

 それから数日後、取り巻きから浜崎屋の噂を聞いた洋一は居ても立っても居られず、すぐさま彼らと供に浜崎屋を訪れたのだった。

 洋一は、大学を卒業し浜浦に帰郷して洋吾郎の興した会社に就職すると、正江に小夜子を嫁に貰いたいと申し込んだ。正江は大変に喜んだが、肝心の小夜子は逡巡した。洋一が嫌いなわけではなく、もう少し弟や妹が成長するまでは、と遠慮したのである。

 その心根にますます惚れ込んだ洋一は、それから二年待ってようやく灘屋に迎え入れたのだった。

 しかし、そのように相思相愛だった洋一と小夜子が、無残にも夫婦別れをするのであるから、人の世は無情なものである。

 洋介は一部始終を祖母のウメから聞いて知っていた。だからこそ、母にあのような仕打ちを受けても恨み切れないでいたのである。

 話が纏まり気が大きくなったのか、達也がつい軽口を叩いた。

「神村先生の他にも、こげな別嬪さんとも知りおうたしの」

 洋介がにやりと笑い、咎めるように言った。

「達兄ちゃん、茜はの、松尾正之助の縁者だが」

「へっ? 松尾正之助って、あの世界の、かい」

 達也は顔を引き攣らせた。

「他に松尾正之助がおうだかい」

「洋介さん……」

 何か言おうとした茜を洋介が目で抑えた。

「神村先生と松尾正之助の縁者、おらほど果報者はおらんと思うだが」

 あははは……と洋介は高笑いをした。

 浜崎屋の三人は、その笑い顔を暫し唖然として見つめていた。


 午後になって、門脇修二宅に一人の訪問客があった。差し出された名刺には『山陰銀行米子支店・支店長萱嶋正隆(かやしままさたか)』とあった。

 応対した照美が戸惑いを見せると、

「こちらに森岡洋介様がおいでと伺い、参上致しました」

 男は丁重に頭を下げた。

「いやあ、お盆休みのところ、申し訳ありません」

 奥から洋介が顔を出し、萱嶋を奥の間に通した。門脇修二を同席させるよう照美に頼むと、彼と一緒に娘の洋美がやって来て、洋介の胡坐の上にちょこんと座った。

「こら、洋(ひろ)ちゃん。邪魔だけん、向こうに行っちょれ」

 門脇修二が注意したが、

「だって、洋介おじさんのそばが良いもん」

 と言い張り、洋美は洋介の胡坐の上から離れようとしなかった。

「修二兄ちゃん、このままでええが」

 洋介はそう言うと、萱嶋に視線を移した。

「萱嶋さん、話は伝わっていますか」

 はい、と萱嶋が頷く。

「小田島頭取から連絡があり、森岡さんの意に沿うよう差配せよとの指示がありました」

 洋介は、かつて鳥取県妙見寺での法要に参列した折、名刺交換をした地元財界人の中に山陰銀行の頭取・小田島光徳(みつのり)がいたことを思い出した。

 そこで、門脇孝明宅から帰宅の道すがら、小田島に電話をした。さすがに銀行の頭取である、ウイニットの森岡洋介と聞いて、二年後に上場を予定している企業だと調べを付けていた。

「では、さっそく用件に入りましょう。まず、山陰銀行の米子支店さんに口座を開き、二億円の定期預金をします」

「有難うございます」

 萱嶋は頭を下げた。

「その定期預金を担保に、門脇修二に対する融資枠を設定して頂きます。枠はどれくらいになりますか」

「ちょっと、待ってごしない。洋介、おらへの融資枠ってなんじゃ」

 話の内容が自分のことだと気づいた門脇修二があわてて口を挟んだ。

「今後、修二兄ちゃんの資金繰りの便宜は、山陰銀行さんでやってもらおうと思うだが。そいで、米子支店の支店長さんに来てもらっただが」

「待て待て、おらに対する融資って、お前が担保を出してくれるだか」

「まあ、そういうことだが」

「そげなことはいけん。なんぼなんでも、そこまで世話になるわけにはいかん」

 修二は強い語調で断った。

「その話は後でするとして、萱嶋さんどうでしょう」

 洋介は、門脇修二の口を封じ、話を先に進めた。

「森岡様でしたら、最大九十五パーセントまで大丈夫です」

「一億九千万ですね。では、それでお願いします」

「承知致しました」

「そこで、融資枠の中から、門脇修二の伯耆信用金庫の借金分を清算して下さい」

「残額はいかほどでしょうか」

「修二兄ちゃん、なんぼああかい」

 萱嶋の問いに洋介が催促した。

「いやあ、それは……」

 修二は躊躇った。

「ええけん。なんぼだかい」

 洋介は強い口調で重ねた。

「元金と利息を合わせて、三千二百万円ほどだが」

 このあたりが灘屋の総領としての生まれ持った威厳なのである。かつて悪童として界隈にその名を轟かせた、しかも兄同様の修二でさえ気圧されたように答えた。

「承知しました。私の方から先方に連絡致します」

 萱嶋がそう言うと、何を思ったか、洋介は洋美の頭を撫で、

「洋美ちゃん、これでええかな」

 と承諾を得るかように訊いた。

「ええよ」

 洋美は、まるで主人であるかのように振舞った。

「洋美ちゃんの許しが出たし、これで決まったの。では支店長、口座を開設する書類を頂けますか」

 萱嶋を通した部屋は、在りし日の祖父洋吾郎が接客をしていた奥の間であった。洋吾郎の面影を浮かべた洋介は、つい同じ振る舞いをしたくなったのである。

 話が纏まり、雑談に移ったときだった。萱嶋が洋介の顔色を窺うようにして口を開いた。

「あのう、森岡様。お聞きしたところによりますと、御社は二年後に上場なさるとか」

「その予定です」

「然様でしたら、その折にはいくらか、当行にご預金頂けないでしょうか」

 ウイニットが上場すれば、洋介の懐には七十億円から百億円近い巨額の金が転がり込む予定である。大銀行にとっては然したる額ではないが、地方銀行の一支店にとっては、手を拱いている多寡ではなかった。

「その件は、今後の御行次第ということにして置きましょう」

 洋介が因果を含めると、

「門脇様には重々配慮致しますので、ご検討のほど宜しくお願いします」

 萱嶋は緊張の声で答えた。

「さて、話は変わりますが、中浜屋への融資は山陰銀行さんですよね」

「中浜屋? どうしてそれを……」

 知っているのか、と萱嶋は訊き掛けて、

「うちの融資で灘屋さんの物件を購入したことをご存知だったのですね」

 と納得の顔をした。

「売却額は数億円でしたのでね。手持ちの金だけでは足りないことを知っていました」

「いやはや、余計なことをしたのでしょうか」

 萱嶋はばつが悪そうに訊いた。

「とんでもありません。山陰銀行さんが中浜屋に融資をして下さったので、現金化できたのです。余計なことどころか感謝しています」

「それをお聞きして安心しました」

 萱嶋は胸を撫で下ろしたように言った。

 だが、それも束の間だった。

「焦げ付きはいくらですか」

 それは……と萱嶋は苦い顔をした。顧客の守秘義務があるからだ。

「山陰銀行さんはどうなさるおつもりですか」

 萱嶋の苦衷を察した洋介は質問を変えた。

「正直に申し上げまして、扱いに苦慮しております」

 苦い顔が、さらに苦虫を潰したような顔つきに変わった。

「担保は船舶と網ですよね」

「はあ、そうですが……」

 萱嶋は口を濁した。

「なるほど、株式と……屋敷と土地も担保に入っていますか」

 洋介は鎌を掛けたが、萱嶋は動じなかった。さすがに重要拠点の支店長である。

 だが洋介の、

「どうでしょう。いっそのこと屋敷と土地以外を取り上げてしまっては……」

 との言葉には、

「い、いや。それは……」

 と動揺を露にした。

「お言葉ですが、処分に困ります」

 土地とか商業ビルであれば処分の仕様もあるが、紙屑同然の株式や船舶と網では扱いに困るのは当然だった。

「私が買い取りましょう」

「えっ」

「何だって?」

 萱嶋と門脇修二が同時に声を上げた。

「元は灘屋(うち)の物ですからね。私が買い戻すのが筋とも言えます」

「洋介、お前浜浦へ帰って来るだか」

 修二が喜色の含んだ声で聞いた。

「いや、そうではないが」

「なら、船と網を買ってどげするだ」

「それは、考えがあるけん」

 洋介は明確な返事を保留すると、

「焦げ付きはいくらですか」

 と再度萱嶋に聞いた。

「七億円です」

 これまでが嘘のように躊躇いもなく打ち明けた。不良債権が回収されるかも知れないのである。支店長としては手柄となる案件だった。

「七億は高過ぎますよ」

 洋介は、山陰銀行も損を被れと示唆した。

「むろんです。五億円ではどうでしょうか」

 萱嶋もそれは十分理解していた。目前の将来を約束された青年実業家とより親密な取引関係が生まれるのであれば、二億円の損切りは十分許容範囲内である。

「ただ、二年ほど私への貸付にして頂けますか」

「上場までですね」

「はい」

「それまで引き続き株式と船、網を担保にさせて頂けるのであれば結構です」

 萱嶋は笑みを零した。

 山陰銀行にとっては、貸付先が中浜屋から資産家である森岡洋介に変更になることで、不良債権から優良債権に変わることを意味していた。

「では、中浜屋への対応は萱嶋さんにお任せします」

 萱嶋は承知した、とばかりに答えた。

「おっと、うっかり大切なことを忘れるところでした」

 辞去しようと、一旦腰を上げた萱嶋が、そう言って再び腰を下ろした。

「小田島から言伝がありました」

「頭取から」

「富国銀行に怪しげな動きがあるとのことでした」

「富国銀行……」

「失礼ですが、富国銀行は御社の株の引受け予定先ではありませんか」

「そうですが」

「僭越ながら、そのあたりのことはないでしょうか。この件の窓口支店の支店長とは大学時代からの友人だそうで、先日プライベートで飲食したとき、小田島にポロリと悩みを溢されたそうです」

 萱嶋は遠慮がちに言った。

「それがウイニット(うち)のことだと?」

「上から再検討せよ、との圧力があったとのことです」

「……」

「小田島は、もしものときは山陰銀行(うち)でお引き受けます、とも付け加えておりました」

 そう言い残して席を立った萱嶋を照美が見送った。

「洋介、これはいけんが」

 萱嶋の姿が見えなくなったのを確認して、門脇修二は恐縮の体で言った。

「まあ、ええがの」 

「ええことないが」

「修二兄ちゃん。おらはのう、親戚の中で修二兄ちゃんが一番本当の家族に近いと思ちょうだが。だけん、おらにもしものことがあったときは、遺産のうちの何ぼかを、修二兄ちゃんか子供たちに相続する遺言書を作っちょうだが」

「相続の遺言書? ほんとだか」

「ああ、嘘じゃないだが。だけん、この二億円は生前相続のようなものだと思ったらええだが」

「そいにしても……」

 それでも躊躇いを見せる修二に、

「子供の頃、修二兄ちゃんが、おらが寂しがらんようにと、しょっちゅううちに来て遊んでくれたことを今でも覚えちょうだが。おらは、その恩を一生忘れけん。まあ、今回のことはあのとき受けた情けへの礼だが」

 洋介がしみじみと語ると、

「だんだん、洋介」

 門脇修二は、涙ながらに頭を下げた。

 洋介は、中浜屋から底引き網漁の会社を買い戻したあかつきには、修二に任せるつもりでいたが、このときは秘めた思惑を心に仕舞った。


 近いうちの再会を約束して門脇修二宅を離れた洋介は、その足で坂根秀樹を訪ねた。好之の実兄秀樹は、浜浦から西へ五キロに位置する諸角という小さな村に住んでいた。

 中学時代からの大親友だったが、脳内出血で半身の機能を失い、車椅子生活を余儀なくされていた。

「おう、久しぶりやな」

 洋介は明るい声を掛けた。三年ぶりの再会だった。

「う、うん。お、お前も元気そうだな」

 坂根秀樹は、口元を歪めながら必死で言葉を紡いだ。

「大分、回復したやないか。この分なら、さらに回復が見込めるの」

「が、頑張るわ」

 秀樹は森岡の激励に答えると、

「こ、この綺麗な女性は、お、お前の彼女だか」

 と訊いた。

「ああ、婚約者や」

「そ、それは良かった。お、お前もやっと、き、気持ちの整理が付いたようだな」

 秀樹は安堵した笑みを浮かべた。

「山尾茜です。洋介さんから、お話は伺っています」

「よ、洋介にはずいぶんと、世話になっています」

 秀樹は傍らのパソコンに視線をやった。

 洋介は、秀樹にソフトウェアー開発の仕事の便宜を図っていた。懸命なリハビリにより、半身機能がある程度回復したとき、秀樹に提案したのである。本来、帝都大学法学部卒という優秀な頭脳の持ち主である。その気になれば、一定レベルのソフトウェアー開発も可能と見込んでのことだった。

 半年前、秀樹が前向きな気持ちになった折を見て、野島に命じ簡単な仕事を選んで発注させていた。現在では、月額二十万円程度の製作が可能になっていた。

「秀樹、今日は仕事の話もあるんや」

「し、仕事? ちょうど、野島さんから貰った仕事に目鼻が付いたところだが」

「そう思ってな、考えて来たんや」

「……」

 あらたまった物言いに秀樹は緊張した。

「実はな。昔俺が考案した株式売買の法則をソフトウェアー化して、儲けようと思うのや」

「株のソフト?」

「兄貴、社長は中学、高校時代に株式を研究され、大学時代にはその法則で大儲けされているのや」

 戸惑いを見せた秀樹に好之が補足した。

 洋介は、霊能力者である老婆から株式相場を教えられ、その後の研究から独自の投資方法を編み出していた。簡単にいえば、株価の始値、高値、安値、終値と出来高には一定の相関関係があるというものである。

 洋介が株式投資を実践に移した大学時代には、インターネットなどなく、彼がこれはと目を付けた十数銘柄の値を追って行くのが精一杯だったが、昨今は日本全国の株式市場の全銘柄、全数値がパソコンに取り込めるようになった。

 このシステムを利用して、洋介が編み出した方法をプログラム化しようというのである。

「ち、中学時代から? 洋介、お、お前勉強もせんと、そんなことをしてたんか」

 秀樹は中学、高校と洋介の成績が上がらなかった理由を初めて知った。

「そこでや。そのソフトウェアー製作をお前に任せたいのや」

「お、俺にできるだあか」

 秀樹は不安げな目をした。

「この仕事は、俺個人の依頼やから納期はあらへん。せやから、お前のペースで製作すればええ。システム設計とプログラム仕様書も野島がプライベートの時間を割いて書いたから、これまで通り彼と連絡を取ったらええようになっとる」

「だいてが、どのくらいのボリュームかの」

 秀樹は不安を隠さなかった。

「さあな。これまでのペースで半年分くらいかな」

「そがいにあるだか」

「とりあえず開発費用として五百万用意した。それと、このソフトを駆使して株式指南のサイトを開設するつもりやから、その管理もお前に任せたい」

「え?」

「お前の頭脳は俺以上や。必ずやさらに効率の良い方法に進化させてくれると思う。サイトは有料にして、システムが弾き出した推薦銘柄を随時掲載していったらええ。アフィリエイトを含めた収益は俺とお前で折半やで」

 洋介は悪戯っぽい目で言った。

 秀樹は酷く驚き、

「な、なんぼなんでもそれはいかん」

 と首を振った。

「遠慮するな。現在の俺があるのはお前のお陰も大きい。そのくらいの報酬は当然やで」

 洋介は神妙な声で言うと、

「まあ、儲けは人気サイトになったらの話やけどな」

 と笑った。

「だんだん、だんだん」

 秀樹は目を赤くして、ただただ頭を下げた。


 坂根秀樹と別れた洋介は、南目宅にも立ち寄った。

 南目輝の生家は、米子市内から少し離れた閑静な住宅街にあった。さすがに老舗の名店だけあって、灘屋にも劣らない立派な屋敷であった。

 応接間での昌義との面談には、後妻の友恵と息子、つまり輝の弟に当る悠斗(ゆうと)も同席していた。

 輝は立志社大学を卒業してから洋介の独立に参加するまでの間、生家の和菓子屋・彩華堂を手伝っていたが、会社を実子である悠斗に継がせたい友恵の反対もあって、本社の販売店ではなく、子会社である原材料の仕入れ会社でアルバイトをしていた。

 したがって、森岡洋介の来訪と聞いても、友恵は同席に難色を示したが、いつにない昌義の強硬な主張もあって渋々顔を見せたのだった。

 それぞれが自己紹介した後、

「悠斗君、有難う」

 洋介がいきなり礼を言った。

「兄貴……」

 輝が言葉に詰まり、皆も驚きの目をした中で、

「どういうことですか」

 と、悠斗が困惑顔で訊いた。

「いま、お兄さんが私のことを『兄貴』と呼んだだろう。君が生まれてくれたお蔭で、私は義弟を持つことができた」

 洋介は自身は一人っ子だったので、ずっと兄弟を渇望していたことを告げた。

「何の、こちらこそ森岡さんにはいくら感謝しても感謝し切れません。輝の更生ばかりでなく、私の命も救って頂いた」

 昌義が丁重に頭を下げた。洋介は大学時代、昌義の心臓手術のため、特殊な血液の確保に奔走したことがあった。

「命を救って頂きながら、一度お会いしただけで満足にお礼が言えず恐縮しておりました。重ねてこの輝の人生まで救って頂き、私にとって森岡様は仏様のようなお方です」

「全て仏縁によるものです。然したることではありません。それより、此度は私の窮地を救って頂けるとのこと、こちらこそ感謝しています」

 洋介は両手を膝に置いて頭を下げた。

「よして下さい。御恩のほんの一部をお返しするだけです。現在、うち以外に七社の賛同を得ています。残りの二社もほどなく見つかるでしょうし、見つからなくともうちがもう五千万出せば済むことです」

 昌義が笑って言った。

「そのことですが、南目さん。寺院ネットワーク事業とは別に、台湾と香港、上海に店を構える気はないですか」

「はい?」

 南目昌義は素っ頓狂な声を出した。

「台湾は以前から親日ですし、香港、上海は日本ブームが巻き起こっています。いずれ、日本の食文化が彼の地を席巻することになるでしょう。和菓子とて例外ではありません」

「なるほど」

「憚りながら、私が事業資金の後ろ盾となります」

「貴方が後ろ盾って、たった今、うちから支援を受ける話をしていたではないですか」

 友恵が溜まらず横から口を挟んだ。

「友恵、失礼なことを言ったらいけんぞ。森岡さんはこの若さで、すでに数百億の資産家だ」

「しかし、それならなぜ」

 友恵は合点がいかない顔をした。

「寺院ネットワークへの出資はな、ただ金を出せば良いというものではないのだ。寺院を通じて商売の種を拡げて行くことが肝要で、それが世間の信用に繋がるのだ」

 昌義が噛み砕いて言うと、

「海外出店の前に、もし全国寺院で販売するとなると、工場の生産能力が足りません」

 不安の種を告白した。

「その件ですが、どうです、新工場を建設されませんか」

「そのことは私も考えましたが、適当な土地が手に入りません」

「ご心配なく、米子と境港の間の土地を取得しています。南目さんが入用の分を譲渡しましょう」

「森岡さんがあの付近の土地を」

「すでに五千坪を取得しました。今後、三万坪まで買い付けるつもりです」

「しかし、なぜまた貴方が……」

 と問おうとして、

「貴方のことだ。何か深いお考えがあるのでしょうな」

 昌義は勝手に得心した。

「台湾、香港、上海への出店は、天礼銘茶の林海偉さんに助力を願おうと思っています」

「天礼銘茶とは、寺院ネットワーク事業の出資者ですね」

「彩華堂さんとは事業仲間ということになります」

「世界最大のウーロン茶製造販売会社とうちが仲間ですか」 

「近々、ナンバー三で日本支社長の林海徳さんを御紹介しましょう」

「なんと、それは心強い。なんだか、どちらが手助けしてもらっているかわかりませんな」

 昌義が苦笑いをした。

「その後は、全世界に出店されることをお勧めします。その折は林さんだけでなく、この輝君も頼りになることでしょう」

「輝が? どういうことですかな」

「今はまだ詳細は申し上げられませんが、近い将来、輝君は私が手掛けるインターネット事業の一つを継いで、世界を又に掛けることになります。各都市に事業所を開設しますので、彩華堂さんが出店されるときは、すでに下調べが終了しているというわけです」

「輝さんが貴方の事業を受け継ぐのですか」

 友恵が驚愕の面で訊いた。

「十年後には売上高一兆円を見込んでいる大事業です」

「まさか、ご冗談を……」

 友恵は木で鼻を括ったように言う。

「冗談ではありません。この事業には、松尾正之助氏にもご協力を願おうと思っているのですから」

 洋介は真顔で言った。これはまだ彼の思惑に過ぎなかったが、いずれ挨拶に出向かなければならないと思っていたのは事実だった。

「松尾正之助って、あの世界の?」

「はい」

「あははは……何を言い出されるかと思いきや、ホラ話も大概にして下さい」

 とうとう友恵は取り合わなくなった。

「友恵、お客様に失礼だぞ」

「まあ、まあ」

 昌義が叱責するのを森岡が宥め、

「嘘ではありません。奥様、横にいる婚約者の山尾茜は、松尾正之助氏の孫娘なのですよ」

 と紹介した。

「え? まさか」

 友恵は蒼白の面で茜を見た。

 茜は門脇修二宅で森岡が母方の親族を驚かせたときとは違い、悠然と笑みを湛えて肯いた。

「悠斗君、私が君に礼を言ったのは、この事業はお兄さんにしかできない仕事だからだ。君が生まれてくれたお蔭でそのお兄さんと出会うことができた」

 洋介はそう言うと、坂根に視線をやり、

「この坂根は松江高校で常に一番の成績を残し、帝都大学法学部への進学も可能でしたが、浪速大学を選択し、事実上首席で卒業した英才です。しかし、その彼をもってしても、ウイニットはまだしも、このインターネット事業は受け継ぐことができないでしょう」

「森岡さん、それは本心ですか」

 昌義も半信半疑で訊いた。

「こう言ってはなんですが、高校時代に暴走族を束ねていた彼の胆力が活きる仕事です」

「な、なんと……」

 言葉を失った昌義に、

「怪我の功名、といったところですか」

 洋介は笑って言い、

「輝君は義弟も同然、これからは親戚付き合いをお願いします」

 と再び頭を下げた。










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