第19話  第三巻 修羅の道 家門

 灘屋の総領である森岡洋介の、久しぶりの帰郷に親戚中が沸き立った。

 現在でこそ灘屋は廃家同然だが、親族一同は等しく洋介がいつ家門を再興するか、密かに期待をしていた。中でも灘屋の敷地と屋敷を買い取った門脇修二は、もし洋介が望めば、再び譲り渡すつもりでいるほどだった。

 洋介にとって修二は、実の兄とも慕う親戚一族の中では一番に気の許せる従兄だった。彼は幼い頃から洋介を実弟のように可愛がったが、洋介の母が不倫の末、男と駆け落ちしてから、いっそう頻繁に灘屋を訪れ、遊び相手となって寂しさを紛らわそうとした。洋吾郎と洋一が立て続けに逝去したときにも、修二は洋介の心の支えになろうとし続けた。

 門脇修二は子供の頃から喧嘩が滅法強く、世間からはいわゆる不良と呼ばれていた。中学校に進学する頃には、身長はすでに百七十センチを越え、二年生のときに通学していた中学校の番長になり――現在では古い言葉かもしれないが――三年生のときには近隣の六つの中学校の総番長になった。

 その後は、中学生相手では飽き足らなくなり、高校生を相手に喧嘩に明け暮れるようになった。それでも、一度も負けたことがなく、後にこの界隈だけでなく松江市から米子市に至る一帯の不良たちの間では、神格化されたほどであった。  

 その門脇修二がこの世で唯一恐れていたのが、自身にとっても母方の祖父である洋吾郎だった。修二によると、自身より遥かに小柄な洋吾郎なのだが、その両眼で睨み付けられると、蛇に睨まれた蛙のように身体が動かなくなるとのことだった。さしずめ、人間力の違いということなのであろう。

 だが、修二はそれでも灘屋にやって来ては洋介の遊び相手となった。洋介は子供心に、粗暴な振る舞いとは異なり、心根は優しい人間なのだと見抜いていた。

 修二は、中学校を卒業と同時に漁師となったが、腕が良くほどなくこの界隈でいう弁才師に取り立てられた。その頃は豊漁続きでもあったので、有能な弁才師である門脇修二の歩合金は相当な額となった。

 弁才師とは、魚の群れを探す責任者のことである。

 洋介が故郷を離れるとき、屋敷や船、網などの売却話を真っ先に門脇修二に持ち掛けたのも、最も信頼を寄せていたというだけでなく、彼がかなりの高収入を得ていた事実を知っていたからである。

 そうはいうものの、漁師になって僅か八年、到底十三隻の船全てを買い取れるはずもなく、定置網漁用の三隻と比較的新しい網の購入に止まった。また、門脇修二の親もいくらか都合したものの、全額を一括支払することはできず、洋介と修二の間で不足分は分割払いということで話を付けた。それも七年前に完済していた。

 門脇修二の屋敷、つまり元灘屋は浜浦のほぼ中央にあった。

 敷地は約七百坪。祖父が建てた平屋建ての母屋と、父が建て増した二階建ての離れがあった。

 洋介は、門から一歩中へ足を踏み入れた瞬間、懐かしさで胸が塞がった。その佇まいが、十六年前と寸分も違わなかったのである。

 門を入ったすぐ脇の松の木も、桜木も紅葉も、金木犀、銀木犀、椎の木、躑躅、石榴といった木々も、何一つ変わっていなかった。敷地全体を囲う白壁、屋敷の西側にある納屋と古井戸、そして物心が付く頃から祖母と一緒にお参りした『地主さん』の祠。

 地主さんとは、戦国時代に一時この地を支配していた尼子氏の落ち武者を手厚く祭った地蔵菩薩である。彼は浜浦を離れるまで、毎朝夕この地蔵菩薩へのお参りを欠かさなかった。

 こうして玄関先に佇み、屋敷内を見渡していると、幼い頃の思い出が走馬灯のように洋介の脳を駆け巡り、胸を締め付けた。

――やはり、幸苑の松とは枝ぶりが全く違うな。

 洋介はあらためて祖父洋吾郎が愛でた松の木を眺めながら、料亭幸苑の村雨初枝との会話を思い出して苦笑いした。

 門脇修二の家族は、洋介一行を歓待した。彼の家族は、妻の照美(てるみ)と八歳の長女洋美(ひろみ)、二歳の長男修(おさむ)である。

 とくに修二が南目を見るなり、

「おお、坂根君。久しぶりだがや」

 と笑顔で声を掛けたものだから、南目はことさら大きな身体を縮めるようにして詫びたものである。

 それというのも、後日南目は、門脇修二が山陰の悪童の間で語り継がれていた伝説の不良だと知ったからである。約百五十人のメンバーを従えていた暴走族の頭にとっても、門脇修二は憧れの人物だったのだ。

 洋介は真っ先に仏間に入り、線香を手向けた。彼は菩提寺に先祖の永代供養を依頼していたが、門脇修二は次男だったため、灘屋の仏壇をそのまま残し、護ってくれていた。

「洋介さん、私も回向させてもらって良いかしら」

 茜が神妙な面持ちで願い出た。

「おう。それは御先祖様もお喜びになるやろう。何かの縁だ、坂根と輝も線香を手向けてくれるか」

 と、森岡は頼んだ。

――御先祖様方、山尾茜と申します。どうぞ、宜しくお願い致します。

 茜は目を閉じ、心の中で祈った。

 しばらく合掌していた茜が、目を開けると何気に横を見た。

「これは」

 茜は目を剥いた。

 ほう、と洋介は満足気な笑みを浮かべる。

「わかるんやな」

 茜は、洋介向かって肯くと、

「なんだか、暖かい光に包まれているような、安心感を覚えるわ」

 もう一度、温もりを放つ先へ視線を戻した。

 灘屋の仏壇の横には、間仕切りの板を挟んで禅宗系の御本尊が祭ってあった。祖母のウメが信心した観世音菩薩立像である。

 一見したところ、荒削りで完成度は低いように見受けられたが、それでいて人の心を引き付ける魅力があった。

「もしかすると、案外茜にも霊感ってやつがあるのかもな」

「霊感? そんなものはないと思うけど、この仏像に心が惹かれるのは事実だわ。さぞかし値打ちのある仏像なのでしょうね」

「値打ち? これがそんなに高価なものなのですか」

 線香を手向け終えた南目が口を挟んだ。

「怒られますよ、輝さん」

 坂根がすかさず助け舟を出す。

「茜さんが言われたのは値段のことではなく、尊さのことですよ」

「そ、そんなことはわかっている。尊いということは貴重な品ということだろう」

 南目は坂根に向かって嘯くように言い、

「何か曰くがあるってことか、兄貴」

 と顔を向けた。

「曰くってほどじゃないが、なくもない」

 門脇修二、照美夫婦も仏間に入って来て耳を傾けた。


 それは六十年も前のことである。

 洋吾郎の母、つまり洋介の曾祖母に当たるトラも信心深い人間で、毎朝夕自宅の神棚、仏壇への読経だけでなく、村の神社や寺院への参拝も欠かさなかった。実は、トラは洋吾郎の実母ではなく叔母に当たる。このことが洋介の出生と将来に大きく関わるのだが、今はそれは置いておく。


 ある晩秋の、まだ夜が明け切れぬ早朝のことである。

 トラがいつのように浜浦神社へ参拝して帰宅しようとしたところ、神門横の軒下に若い男が蹲っていた。衣服は泥に塗れ、頭髪は埃と蜘蛛の糸に覆われ、髭は伸び放題といった有様だった。一言で言えば、軒下で一晩を明かした浮浪者の体であった。

 若い男の様子が気になったトラは声を掛けた。 

「そこの若い人、大丈夫ですか」

 だが返事はなく、弱々しい唸り声が返って来ただけであった。

 どうやら、トラが懸念した通りどこか患っているらしい。

 トラは迷うことなくその若者を灘屋に連れ帰った。

 医者に見せると、風邪を拗らせていて、肺炎になる寸前だということだった。

 トラは、その若者を灘屋の一室で養生させ、治療代も肩代わりした。霊験灼かな浜浦神社での出会いを疎かにできなかったのである。

 半月後、体力の回復した若者は、礼の代わりにと言って仏像を彫った。

「それが、この仏像や」

「なんや、ただの若造が彫ったやつか」

 南目は軽んずるように言った。

「お前は相変わらずやな。上辺や肩書きに拘っていると、いつまで経っても物事の本質は見抜けんぞ」 

 と、南目を咎める洋介に、

「その若者というのは、どうして仏像を」

 彫ったのか、と茜が話を戻した。

「それや、なんでも仏師になるための見聞を広めようとしていたということやった」

「仏師って仏像を彫る職人さんね」

洋介は小さく肯くと、

「そのために全国を回って仏像を拝観していたらしい」

 仏師を志していた若者は、由緒のある仏像を求めて全国を巡っていたのである。浜浦へ辿り着いたときには、旅費が底を付き、神社の軒下で野宿していたのだという。

「しかし、兄貴。こんな田舎に目の肥やしになるような仏像があるんか」

 南目が懐疑的な声で訊いた。

 森岡の眉間に皺が寄った。

「茜ならともかく、輝、お前は生まれも育ちも米子だろうが」

「近所には、行基和尚が開基したといわれる仏国寺という浄土宗の古刹があるんですよ」

 坂根が森岡の言葉の先を奪うように言った。

「それだけじゃないですよ。仏国寺には後鳥羽上皇と後醍醐天皇が数日逗留され、隠岐へ配流されたという伝えもあります」

 うむ、と洋介は肯いた。

「さすがは、坂根や」

 だが南目は、

「行基和尚って、聞いたことあるな」

 と捻って考え込んだ。

「お前、本当に立志社に受かったんか」

「裏口やないで。せやけど日本史は苦手やったからな」

 南目は頭を掻いた。

「まあ、中学、高校と碌に勉強しとらんやろうし、大学受験も付け焼刃やろうから行基和尚も知らんわな。坂根、教えてやってくれ」

 はい、と坂根が簡単に説明した。

 行基は朝廷の禁を破って民衆への布教活動をしたばかりか、併せて社会事業にも貢献し、民衆から篤く尊敬された奈良時代の高僧である。

 僧階の最上位である『大僧正』の称号を最初に授かったのも行基であった。

「その仏国寺には、出雲様式という重文に指定されている仏像が四体もあるのです」

「それを拝観しにこの地へ来られたのね」

 茜が得心顔で肯いた。

「ついでに、出雲大社の流れを汲む浜浦神社にも参拝しようとして病に倒れたらしいのや」 

「お名前は何という方でしたの」

「それが、祖母ちゃんから聞いていたんやけど、忘れてしもたんや」

「この御本尊様が若い頃の作品だとすると、きっと名のある仏師になられたことでしょうね」

「となるとや、この仏像は初期の作品ということになるから、相当な値がつくかもな」

「兄貴も俺と一緒やないか」

 間髪入れずに南目が口を尖らせた。

 あははは……その子供じみた不服顔に皆が大笑いした。


 荷を解いて一服した後、次に森岡らが足を運んだのは屋敷内の北西の角であった。

 灘屋には、民家にしては立派な祠があった。

「あれは地主さんといって、灘屋のそして俺の護り御本尊様だ」

「護り御本尊様?」

 茜が不思議そうに聞き返した。

「灘屋の者は、地主さんと呼んでいたが、正式には正一位月光地主大明神(しょういちいげっこうじぬしだいみょうじん)といって、大変に位の高い地蔵菩薩でな、戦国時代、毛利元就に滅ぼされた尼子の家臣の遺骨が祭ってあるねん」

 正一位とは、諸王や人臣における位階、神社における神階の最高位である。たとえば、源頼朝は正二位、北条氏の歴代執権は従四位でしかなく、徳川家康でさえも従一位に留まった。

 つまり、灘屋は民家にも拘わらず最高位神を祭っていることになる。

「そういえば、道端のあちらこちらに小さなお地蔵さんがあったわね」

「それも、全部尼子の兵の遺体を祭ったものや。この辺りは戦場になったらしく、灘屋だけでなく、祠を建てて祭っている家は多いんや」

 そう言った洋介が、ふふふと含み笑いをした。

「どうかしたの?」

「いやな、子供の頃、道端のお地蔵さんに悪さをすると祟りがあると祖母から戒められていたんやが、あるとき友人が俺の忠告に逆らって小便を掛けたんや」

 洋介は意味ありげな顔をした。

「どうなったの?」

「数時間後、友人のチンチンがパンパンに腫れ上がった」

「あははは……」

「まあ」

 坂根と南目は大笑いし、茜は顔を赤らめた。

「親は病院へ連れて行ったが、いっこうに治らんかった」

「それで?」

「原因不明の症状に、とうとう俺の祖母ちゃんを頼ってきた」

「お祖母様を?」

「祖母ちゃんはな、信心深い人で毎朝夕の読経を欠かさん人やったんやが、そのうち霊能力が付いたらしい。簡単なことやったら近所の相談に乗っていたんや」

「へえ、凄い」

 茜は素直な感想を漏らした。

「祖母の祈祷霊視で事情を知った親が、あわててその地蔵さんを綺麗に清めたら、たちまち腫れが引いたということや」

 洋介は懐かしむように言った。

 おそらく、霊とか神仏といった類のことについて、信じない人にとっては全く退屈な話であろうと思ったが、すでに洋介の人物に触れ、また神村とも親交を持つ三人は神妙な顔つきで納得の肯きをした。

 思い出話のついでとばかりに茜が訊ねた。

「ところで、洋介さんは霊を見たことがあるの」

 洋介は経王寺に寄宿していた際、神村に霊について問い、見解を聞いていたが、そのことには触れず、

「俺自身、正直に言えばこれまで霊を見たことは一度もない。祖母に言わせると、俺は正一位という最高位の守護霊様が護って下さっているので、他の霊が近づくことを許さないのだということらしい。俺は、その守護霊様すらも目にしたことはない。だがしかし、何がしかに加護されている、と感ずる時があることも事実やな。俺は、そういった世界が有る、無しに拘らず、あるいは信じる、信じないに拘らず、少なくとも人は自分自身の力で生きているのではなく、何かによって生かされている、あるいは何かによって助けられ、護られていると思う謙虚さを持つことが大切なのだと思っている」

 と言い切った。

 これは実に彼の率直な気持ちであった。


 灘屋で休息した後、洋介と茜は菩提寺である園方寺(えんぽうじ)へ参拝した。

 坂根と南目も同行した。

 園方寺は、鎌倉後期に建立された禅宗系道臨(どうりん)宗の古刹で、村の南東の外れにあった。 別名を躑躅(つつじ)寺と呼ばれるほど、春には境内の一面に種々の庭躑躅が咲き誇り、来訪者の目の保養となっている。

 この界隈は大変に信心深い地域で、浜浦の人々もそうであった。その証拠というのでもないが、園方寺に隣接して、大日如来を祭った『大日堂』という立派なお堂もあった。

 室町時代の前期、浜浦湾に流れ着いた仏像を漁師が見つけ、園方寺に持ち込んだところ、立派な大日如来像とわかり、村人から寄進を募って大日堂を建立したのである。

 密教における最高神である大日如来は、無限宇宙に周遍する超越者で、万物を生成化育する全一者とされている。つまり代表的な如来である釈迦如来、阿弥陀如来、薬師如来や観音菩薩、弥勒菩薩 、文殊菩薩、地蔵菩薩といった菩薩も全て大日如来の化身だということである。

 また、密教は一宗派というより教えの学び方であるから、浜浦においても道臨宗の園方寺と密教の大日堂が並存できるのである。

 神社にしても出雲大社の流れを汲む由緒正しき古社があり、他にも海の神・恵比寿様を祭った祠が南北に二ヶ所あった。千五百人ほどの小さな村ながら、村民は営々としてそれらを今日まで守り通しているのである。

 山門を潜って本堂を目にしたときだった。

 突然茜が、

「あっ!」

 と小さく叫んだ。

「どうしたんや、茜」  

「私、幼い頃このお寺に来たことがあるわ」

 茜の目は爛々と輝いていた。

「なんやて!」

 衝撃の一言だった。その刹那、彼女の言葉が刺激となったのか、森岡の脳裡にもある夏のシーンが蘇った。

「まさか、あのときの女の子が茜だったのか」

 何たる奇縁に、森岡は茫然として茜を見つめた。


 この園方寺で、また一つ奇しき赤い糸が手繰られることになった。

 それは森岡洋介が十二歳の秋だった。山尾茜は五歳ということになる。

 その日、洋介は園方寺から呼び出しを受けた。祖父洋吾郎、父洋一を相次いで亡くし、失意と落胆のどん底いた洋介を園方寺の住職は度々寺に呼んで慰めていた。

 灘屋は園方寺の最大の支援者だったので、さしずめ後見役を買って出ていたのだろう。

 ともかく洋介は園方寺に出向いた。

 庫裡の居間に通された彼は、そこで見知らぬ女性の背に隠れ、恥ずかしげに様子を伺っている少女を見た。おかっぱ風の髪型に、クリクリっとした大きな目。まるでフランス人形のように愛らしい少女だった。洋介はフランス人形など一度も見たことはなかったが、なぜだか少女の髪が黄金色に輝いていたとの記憶が残っていた。

「総領さんや。この女子(こ)と遊んでやって下さらんかの」

 住職が優しげな眼差しで言った。

 今になって思えば、没落の運命にある権勢家の総領と、的屋の親分を父を持つ娘。住む世界は違うが、互いに尋常ならざる未来が待ち受けているであろう二人に対する憐憫の情だったのかもしれない。

 その慈愛に満ちた語調に、自身の環境と重ね合わせ、少女に親近感を抱いた洋介は、住職の言い付けどおり彼女の相手をしようとした。

 だが人見知りをする性格なのか、警戒をしているのか、少女はなかなか洋介に打ち解けなかった。トランプ、おはじき、けん玉……洋介は少女が好みそうな遊びに誘うが、彼女はなかなか乗り気にならなかった。

 閉口した洋介は、何気に少女の膝頭を擽った。

 すると、少女は逃げる仕草をしながらも、クスっとはにかんだ。少女の反応に、今度は逃げ腰の少女の足の裏を擽ってみた。少女は、きゃっと悲鳴とも歓声とも付かぬ声を上げた。愛くるしい笑みが零れていた。

 そこから二人の距離は一気に縮まった。 

 広い庭に出て鬼ごっこやかくれんぼなどをして遊んだり、村中を散歩したりもした。少女は人見知りどころか、実はやんちゃな子供だった。散策の途中で、疲れたと言って洋介の背におぶられると、伸びをしたり、後方に仰け反ったりして、地面に落としそうになる洋介の胆を潰した。

 夕刻になり、洋介が辞去を告げると、洋介の足に纏わり付いて離れず、泣いて抗議した。洋介は、やむなく園方寺で夕食を取ったばかりか、とうとう宿泊までする羽目になった。それほど、少女は洋介に懐いたのである。

 洋介は少女が寝付いたのを見届けてから、迎えに来た祖母ウメと帰宅した。

 翌朝、少女は泣きながら洋介を探し回っていたという。

「そうか、そうか、あのときの少女が茜だったのか」

「ごめん。私は洋介さんのことまでは憶えていないの」

「そりゃあ、無理もない。まだ五歳だったからな」

「でも、この肌に感じる空気感と、誰かと遊んだおぼろげな記憶は残っている」

「うん、うん」

 と、洋介は何度も頷いた。

 広島の的屋は、中国地方一円を営業活動の範囲としている。

 島根には出雲大社をはじめとして古社が多く、その一つである浜浦神社の大祭には松江や米子からも参拝客が訪れていた。その日、秋の大祭に合わせて出張してきた父に、旅行がてら妻と茜も同伴していたのである。この頃は夫婦仲も良かったということなのだろう。

 当時の浜浦は、出雲大社への参拝客が、行きまたは帰りに立ち寄ることが多く、旅館、民宿はそれなりに整っていた。だが、園方寺本堂の裏手の三十畳敷きの大広間にはキッチン、トイレ、風呂が完備しており、旅館の三人分の料金を布施すれば十人が宿泊できた。観光ではなく商売にやって来た的屋一家にしてみれば、願っても無い宿泊場所だったのである。

「実はロンドで初めて出会ったとき、茜の眼差しに懐かしを感じていたんだ」

「あら、それじゃあなぜそのことを言わなかったの」

 咎めるように言った茜に、

「まるで陳腐な口説き文句のようだろう。とても言えやしなかった」 

 洋介は苦笑いした。

「洋介さんらしいわね」

 と、茜が微笑んだとき、

「何やら、楽しげですな」

 本堂から声が掛かった。

 会話の声が届いたのか、事前の連絡から訪山の頃合いだと見当を付けたのか、住職が本堂の入り口に出迎えていた。住職の導きで洋介と茜は本堂に上がったが、坂根と南目は庭先で待機した。

 園方寺の当代は、法名を道仙(どうせん)という五十歳過ぎの僧侶である。

 道仙は幼い頃、不明の高熱を発する大病を患い、一命は取り留めたものの、脳に障害が残るという災難に見舞われたが、不屈の精神と不断の努力によって、決して軽からぬ後遺症を克服した奇跡の人であった。

 長じて、寺院に生まれた宿世に従い、仏門に帰依してからは、大本山に於いて修行研鑽し、ついに田舎の末寺には過ぎたるほどの僧階・権僧正を得た。

 盂蘭盆の時期は、精霊棚の前で読経する棚経(たなぎょう)の務めがあり、住職は忙しい身であったが、道仙は夕刻に時間を割いた。

 さもあろう、代々灘屋は園方寺の最大の支援者であったし、洋介自身は灘屋を潰し、これまでのような支援ができない代わりに、永代供養のお布施として破格の金額を寄進していた。

 洋介が道仙と歓談していると、先代住職、すなわち道仙の実父道恵(どうけい)が顔を出した。洋介が訪山したとの知らせを受けて挨拶に訪れたのである。廃家となったとはいえ、洋介はこの界隈一の分限者であった灘屋の総領である。大阪で一旗上げて、まもなく過去の灘屋とは比較にならないほどの資産を手にする、と門脇修二から聞き及んでいた。

 その洋介が、いつまた灘屋を再興するとも限らない。そうなれば、幼少の頃から俊才だった彼が『ただの人』で終わるはずがない。必ずや、祖父洋吾郎を凌ぐ存在になるに違いない。その判断が洋介をことさら丁重に扱う所以であった。

 道恵の思惑は当っていた。

 いずれの日にか灘屋再興の腹を固めていた洋介が、地元への貢献を考えていたのは事実であった。彼は、密かに鳥取県の米子市と同境港市の間に広がる広大な平地の購入計画を立てていた。

 この一体に広がる田畑のうち、とりあえず一万坪を手に入れようと地権者との交渉に入っていたのである。

 使用目的は特に決めていない。ウイニットの技術部門の集約センターでも、味一番の新規工場、あるいは地元の産業に根ざした工場でも良かった。陸路は産業道路から米子道へ出て、中国道に繋がっており、関西地域へは四時間も掛からない。空路は米子空港に程近く、海路は国の重要港湾に指定されている境港がある。陸海空とも交通の便が良いわりには、一坪当りが三万円と手頃な値段であった。

 実を言うと、この購入計画にはもう一つ裏の狙いがあった。土地そのものの値上がりである。交通の利便性は申し分がないものの、なにぶんこれといった目玉産業がない。これでは宝の持ち腐れであるが、ここに来て中華民国(中国)の急速な経済発展により、注目を浴びるようになってきた。

 これまでの日本の海上物流の中心は、中東地域の石油や豪州の鉱山資源といった原材料を輸入し、工業製品を米国へ輸出するというものだった。そのため、船舶が停泊する港は太平洋側と決まっていた。ところが中国の経済発展により、日本海側の港湾及び都市が見直されようとしていたのである。

 まさか中国の沿岸部の港から出航した船舶が、わざわざ遠回りして太平洋側の港に寄港するはずもない。日本への輸出ならば、日本海側の境港や舞鶴、新潟あたりを利用するはずであるし、米国への輸出であれば、そこから津軽海峡を通って太平洋へ出るのが道理である。

 さしずめ、境港は絶好の場所に位置しているわけで、森岡は随時買い増しをする腹積もりでいたのである。

「なんとなんと、弁天様の御訪山とは、道仙や、これは当山の吉祥だがな」

 道恵は挨拶もそこそこに、茜を見るなり顔を崩した。

「そのことですよ。私も、総領さんはなんと見目麗しい女性を連れて帰って来られたものと、申し上げたところなのです」

 と、道仙もにこやかに応じた。

「方丈様も、御先代様もご勘弁下さい」

 二人があまりに褒め上げるものだから、茜は身の置き所がないほど照れた。

 方丈とは住職のことである。

 由来は、天竺の維摩居士(ゆいまこじ)の居室が方一丈だったという故事から、禅宗などの寺院建築で住持の居所を指したが、転じて住職の呼称となった。

「いやいや、茜さんに出会うて、冥途への土産話が一つ増えましたわい」

 と冗談を言った後、道恵が目を細めて凝視した。

「や、ややや……お嬢さんはもしや」

 茜と洋介がにこやかに肯くと、

「これはまた、いかなる仕儀でございますかな」

 今度は目を丸くして訊いた。

 洋介はこれまでの出会いからの経緯を掻い摘んで話し、二十四年前の思い出はたった今お互いに確認しあったと告げた。

「なんと、お二人を娶わせたのは拙僧でございましたか」

 道仙はいかにも自慢げに言った。  

 それから、ひとしきり談笑が続いた後だった。

 洋介が居住まい正した。

 道仙と道恵が洋介を見据える。

「さて、方丈様。実は亡き妻・奈津実の納骨と水子供養をお願いしたいのですが」 

「ようやく、その気になられましたか」

 道仙が労わりの笑みを投げ掛けた。

「御存知でしたか」

「片田舎の寺とはいえ、稀に総領さんの噂は届いておりました」

 道恵が代わって答えた。彼は差し障りのないように言ったが、実は洋介が神村の許に身を寄せたときから、ときに連絡を入れ、近況を伺っていたのである。宗派こそ違うが、そこは僧侶同士、しかも道恵は菩提寺の先代住職とあって、神村も差し障りのない程度のことは伝えていた。洋介自身も薄々感づいていたが、師の行動を詮索することはしなかった。

「総領さん。貴方はご自分の身勝手で、仏様に酷いことしておられたのをわかっておいでかな」

「はい」

 洋介は力なく項垂れた。

「ならば良いでしょう。これでようやく灘屋の嫁として祖霊様方に認められまする」

 道恵の目が柔らかいものになった。

「良い眼になられた」

「わだかまりが取れるのにずいぶんと時間が掛かりました」

 その表情は憑き物が取れたように明るかった。

 奈津実の遺骨は、福地家の菩提寺に一時預かりとし、併せて水子の供養も依頼していた。故郷である浜浦に屈託を残していた洋介は、本来納骨すべき灘屋の墓を敬遠していたのである。

「立ち入ったことを伺いますが、茜さんと一緒になられるのですな」

 道恵が訊いた。

「そのつもりです」

「それは良い、それは良い」

 道恵は感慨深げに何度も肯いた。そして、

「道仙や、この機会にあれをお渡ししたらどうじゃの」

 と持ち掛けた。

「そうですね。ようやくお渡しできますね」

 道仙はどこかほっとした表情で応じると、腰を上げて本尊の裏手に回った。

「私に渡す物とは何でしょうか」

 洋介には見当が付かなかった。

「実は、洋一さんから預かった品でしての。灘屋代々の家宝だそうです」

「家宝? そのようなものがございましたか」

「灘屋さんほどの家門ですぞ。家宝の無い方が不思議ですわい」

 道恵は冗談めいた顔で言うと、

「家宝には違いありませんが、ちと趣が違うようですな」

 と謎めいた言葉を継いだ。

「とおっしゃいますと」

「ご自分でお確かめ下さい」

 道恵がそう言ったとき、道仙が風呂敷包みを持って戻って来た。

 洋介は、その場で風呂敷の結び目を解いた。

 中に包んであったのは、輪島塗の大きめの書箱で、中央には灘屋の家紋である『丸に木瓜(もっこう)』の蒔絵が描かれてあった。

 洋介は蓋に手をやることなく、家紋を見つめ、

「大きめの書箱のようですが、遺言書でも入っているのでしょうか」

 と訊いた。

 道恵は首を横に振り、

「一切見ておりませんでの、私共にもわかりません」

 と言ったが、大まかな見当は付けていた。灘屋には秘事があり、菩提寺であることから園方寺の歴代住職はそれを知る立場にあった。眼前の家宝は、その秘事に関わることだろうと推察したのである。

「灘屋では、代々死期を悟った当主から嫡男へ手渡されたそうです。ですが、洋一さんが亡くなられたとき、総領さんはまだ十一歳でした。そこで亡くなる直前、私を病床にお呼びになり、後を託されたのです」

「父は熟慮の末、信頼の厚い御先代様に託したのでしょう」

「その折、この家宝は総領さんが成人されたときに渡して欲しいと申されました。しかしながら、総領さんは浜浦には戻って来られませんでしたので、今日までお渡しできなかったのです」

「それは、ご迷惑をお掛けしました」

 そう言って頭を下げた洋介に、

「ようやくお渡しすることができて、やっと肩の荷を下ろしましたわい」

 と、道恵は安堵の笑みを浮かべた。

「さて、これをお預かりした際、洋一さんより総領さんに言伝がありました」

「はい」

 洋介は緊張の面で道恵を見た。

「『洋介、ここ一番の正念場というときにこの蓋を開けよ』というお言葉でした」

「……」

 遺言の意味を推し量かる洋介に、

「どうやら、灘屋代々の申し送りのようですな」

 と、道恵が言い添えた。

「ここ一番の正念場ということであれば、今ここで開けるわけには行きませんね」

 そう言って、洋介は小箱を風呂敷で包み直した。

「さあて、総領さんはすでに幾つもの修羅場を潜って来られたようですから、この先小箱を開ける機会などありますかな」

 洋介の心中を推し量った道仙だったが、

「道仙や。今はそのように思っていても、人生はそうそう甘いものではないぞ。別に脅かす気などないが、この先総領さんが大きくなられればなられるほど、苦難もまた大きいものとなるのが人の世の道理じゃぞ」

 と、道恵に諭され、

「いかにもそうでした。私もまだまだですな」

 掌で額を二、三度叩いた。

 その道恵が思わぬことを口にした。

「さてさて、こちらの懸案も一つ二つ解決しましたし、総領さん、法国寺の件も久田上人に落ち着いて良かったですのう」

「え?」

 洋介は身体を堅くした。

 なるほど、別格大本山・法国寺の貫主を巡る藤井清堂と久田帝玄という、次期法主と影の法主の戦いは、天真宗のみならず他宗の耳目を集めたことを彼も承知していた。

 したがって、片田舎といえども京都に程近い出雲の地の末寺であれば、噂が届いてもおかしくはない。だが、なぜ自分がその一件に関わっていることを道恵が知っているのであろうか、と訝ったのである。

 道恵は、洋介の心中を読み取っていた。

「久田上人とは、大学の同級生でした」

「では、御先代様も帝都帝国大学だったのですか」

 洋介は得心顔で訊ねた。彼は道恵の僧階もまた、権僧正であったことを思い出した。道仙の艱難辛苦は語り草となっていたが、道恵が現帝都大学の前身である、帝都帝国大学出身であれば、さもありなんと思ったのである。

 考えてみれば、浜浦のような片田舎の末寺の住職が、二代続けて権僧正の位を授かることなど、稀有なことであった。昨今では、総本山に多額の上納をすることによって、僧階を得る、つまり『金で位を買う』という嘆かわしい風潮もあるが、園方寺はそこまでの肉山、つまり裕福な寺院ではない。

 両名とも正真正銘、弛まぬ研鑽の賜物として授かったものであり、おそらくは本山の役職の声も掛かったであろうと推察された。

 また、最前抱いた疑念も晴れた。道恵が久田帝玄と懇意であれば、彼を通じて神村と交流があっても不思議ではない。

 尚、肉山の逆、つまり貧しい寺院を『骨山(こつざん)』という。

「文学部の宗教哲学科で同窓でした。まあ、戦前の混迷期のこと故、たいしたことではありませんがの」

 謙遜した道恵ではあったが、洋介は思い出したことがあった。

 幼い頃、祖父から、

『洋介は、この界隈の村から戦後初めての帝都大出となるのじゃぞ』

 と言い含められていたのである。戦後と言ったからには、戦前には居たということになる。まさか、それが道恵だったとは知らなかった。

 ちなみに、この洋吾郎の言葉を実現したのは、坂根好之の長姉の真子である。

「私が関わっていたことを久田上人から聞き及びになられたのですね」

 そうです、と道恵が顎を引いた。

「まさか他宗の私が、彼の法国寺の晋山式に出席するわけにもいかなかったので、先日管長へのご挨拶に出向いた帰りに法国寺を訪ねたのです」

 園方寺が所属する道臨宗の大本山太平寺は滋賀県にあった。

「そうでしたか」

「何かの話に総領さんの名前が出たもので、私も彼も何たる奇遇に大いに驚きました。聞けば、帝玄を法国寺の貫主に押し上げたのは総領さんだとか。二重の驚きでしたが、さすがは洋吾郎さんが自慢されていた総領さんだと、感じ入ったものです」

「お恥ずかしい限りです。私は、然したることは致しておりません」

 洋介は、老僧の誉め言葉に照れた。

「何をおっしゃいますか、帝玄は総領さんのことをえらく誉めておりました。あの男は、昔から滅多なことでは他人を誉めたりはしません」

「御先代、その話はもうこれくらいで勘弁して下さい」

 森岡はとうとう苦笑いをした。

 すると道恵が、

「じゃが、せっかく苦労して法国寺の貫主に就いたというのに、あやつ、殊の外浮かぬ顔をしておりましての、どうかしたのかと訊いてみたのですが、口を濁すのです」

 と首を傾げた。

 その訝しげな表情に、森岡は胸の中に細波が立つのを感じた。

「天山修行堂の後継の事ではないでしょうか」

 道仙が思い当たったように言った。

「おお、そうかもしれんのう」

 道恵が手で顎を撫でた。

「どういうことでしょうか」

「帝玄には息子がおりませんでの。一人娘の婿も坊主なのですが、天山修行堂を受け継ぐ器量が無いようで、あやつも悩んでいるのです。もう年ですからの、何時お迎えが来るとも限りませんでの」

「なるほど。しかし、天山修行堂は久田上人個人所有のお寺ですから、いざとなれば後継者はどうにでもなるのではないでしょうか」

「いえ、そのように簡単ではないでしょう。天山修行堂は、天真宗僧侶の僧階を決定するお堂です。荒行を導く導師ともなれば、相当に修行を積んだ者でなければなりません」

 道恵がやさしく諭した。

「私としたことが、そうでした」

 洋介は赤面して言い、

「具体的な後継の資格というのはあるでしょうか」

 と問うた。彼の胸中には、ある思惑が浮かんでいた。

「私の推測ですが」

 道仙が前置きすると、

「荒行五回達成というのが、大本山及び本山貫主就任への条件のようですから、天山修行堂の後継ともなれば、荒行を七回、できれば八回というところでしょうか。そうすれば、法主の資格とも符号します」

と説明した。

 洋介は感心顔で唸った。、

「良くご存知ですね」

「総領さん。坊主の修行方法や僧階の決め方など、どの宗派でも大差はありませんよ」

 と、道仙は笑って答えたものである。

 さすが、田舎の末寺には過ぎたる人物である。権僧正の僧階を得た力量は伊達ではない。

 大僧正だの、権大僧正だのと、高僧ばかりを述べてきたが、権僧正とて相当な位なのである。たとえば、天真宗に照らし合わせてみると、大僧正は法主を含めて二、三人――法主を退位した者は、そのまま大僧正の身分である――権大僧正は現役の貫主を含め百人前後、僧正は四百人ほどという少数である。権僧正は、さすがに二千人ほどいるが、これとて全体の十パーセント、つまり十人に一人の狭き門なのである。

 この割合は、他宗派とてそう変りがなく、おそらく全国全仏教宗派の末寺の大半は、天真宗でいうところの、僧都以下の者で占められていると推察できた。

「それとも、あの事やもしれんな」

 道恵が独り言のように呟いた。

「あの事、とおっしゃいますと」

「総領さんは、天真宗には法主と影の法主とも言われている久田帝玄以外に、もう一人隠然たる影響力を持つ者がおるのをご存知ですかの」

 洋介は、しばらく宙を見て思案すると、

「もしや、瑞真寺のことでしょうか」

 と問い返した。

 道恵は目を細めた。

「さすがにご存知でしたか」

「先代は人品骨柄の優れたお方でしたが、当代は才気に奔り過ぎて、何やら良からぬことを仕出かそうとしておるようですな。帝玄の憂いはそのあたりやもしれません」

「良からぬ企てとはいったい」

 どういうことか、と洋介は訊いた。

 だが道恵は、、

「それは、私の口からは申し上げられません。他宗のことですし、ただの推量ですからの」

 と口を閉ざした。

 そのとき、数人の男たちがどかどかと押し入って来たため、話はそこで打ち切りとなった。

 男たちは、園方寺の檀家役員たちだった。

「申し訳ありません。応接間でお待ち頂くように申し上げたのですが」

 道仙方丈の妻がすまなさそうに頭を下げた。

「灘屋の総領さんがおいでなのに、挨拶をせんわけにはいかんだら」

 総代が言うと、

「悪いけんど、おらは総領さんより、そちらのお嬢さんが目当てでの」

 副総代がにやにやと笑った。

「ほう。これはまた噂に違わぬ、いやそれ以上の美形だがな」

 もう一人の副総代が驚嘆の眼差しで言い、

 最後に相談役が、

「総領さんが、がいな別嬪さんを連れて帰らさった、と村中の噂になっちょうけんど、噂は所詮噂、がっかりさせられることがお決まりだと思っちょったが、なんとまあ、ええ目の保養になったがや」

 と感じ入ったように漏らした。

 小さな村は噂が広がるのが速い。森岡らが岸壁前広場の共同駐車場から門脇修二宅へ向かう道すがら、あるいは園方寺へ向かう途中、誰彼となく挨拶を交わした村人たちが、灘屋の総領のご帰還を触れ回っていたのである。

「これは皆さんお揃いで……明日の初盆供養のご相談ですか」

 顔を真っ赤にして俯いた茜の傍らで、洋介が訊いた。

「いや、他にちょっと込み入った相談もありましてね」

 道仙は苦笑いし、

「総領さん、私は失礼致します」

 と頭を下げ、役員らを連れて座を離れた。

「そのうち、総領さんを呼びに来ますよ」

 皆の姿が消えると、道恵が意味深いことを言った。

「私に何の用がありますか」

 訝る洋介に、

「ははは……最後の最後は、総領さんに頼ることになりましょうな」

 道恵は達観した笑みを浮かべた。

 然して、ほどなく総代が洋介を呼びに来た。

「茜さんのお相手は拙僧が承りますので、総領さんは相談に乗ってやって下さい」

 道恵に頭を下げられて、洋介は応接間へと移った。

「総領さんに相談とは、お金の無心ですよ」

 二人きりになると、道恵が茜に告げた。

「ああ、そういうことですか、安心致しました」

 茜は胸を撫で下ろしたように言った。

「ほっとされた? 金の無心に遭うのにのう」

「お金で済むことなら容易いことです。洋介さんは、きっとお頼みをお受けになりますよ」

「そうですか。欲の無いところは、昔とちっともお変わりにならないのですなあ」

 道恵は感慨深げに呟いた。

「御先代様は洋介さんの幼い頃をご存知ですか」

「ご存知もなにも、生まれたときから知っておりますわい。なにせ、洋吾郎さんの自慢のお孫さんでしたからのう。それに、園方寺(うち)は副業で幼稚園を経営しておりましたでの。拙僧が園長でしたわい」

 道恵は禿げ上がったつるつるの頭を撫でた。

「御先代様、洋介さんの子供時代の話をお聞かせ下さい」

 茜の頼みを、道恵はにこやかな顔で応じた。


 待望の跡継ぎ誕生に、灘屋は喜びに溢れかえった。

 とくに祖父洋吾郎のそれは尋常でなく、どこへ行くのも何をするのも片時も傍らから離さなかった。洋介は小学校に入る前に、すでに小学三年生程度の学力を備えていたほどの秀才で、街に出たときには駅やバス停、百貨店の商品の漢字などを読んだため、驚嘆する周囲の反応に洋吾郎は得意になったものだった。

 だが、洋吾郎はただ甘やかして育てたのではない。躾は厳しく、目上の者に対する言葉使いや、弱き者への慈愛の心など、ときに優しく、ときに厳しく灘屋の総領としてまさに帝王学を授けるかのごとく養育した。

 あるとき、友人に唆されて他家所有の山に入り、洋吾郎の好物である筍を取って帰ったときのことである。意気揚々と筍を差し出した洋介を、洋吾郎は烈火の如く叱り付け、不服顔を見るや平手打ちまでした。堪らず周囲の者がそこまで叱らなくてもと庇ったり、あるいは山の所有者が却って恐縮したりするほどの躾振りだった。

 その結果、洋介は強い者や上の者を挫き、弱い者や下の者に手を差し伸べるという仁義に厚く、不義不正を嫌う少年に育った。

「こういう逸話がありますでの」

 道恵が愛しみの表情を浮かべた。

「村の子供は数が少ないけん、小学生は上級生から下級生まで一緒に遊ぶことが多いのですが、秋になると、この裏山に分け入ってあけびや栗を採りに行ったものです。といっても、下級生は足手まといになるだけじゃが、穴場を伝えたり、採取方法を教えたりせんといかんのでの、連れて行くわけです。山から戻ると、大概この境内で収穫したものを山分けするですが、当然上級生が良いあけび、大きい栗を取り、下級生は残った屑のような物を与えられるだけでした。まあ、何の役にも立たんのじゃから仕方がないですがの」

「はい」

 茜はこくりと肯いた。

「ところがです。総領さんが最年長になると、様子が変わりました。収穫物を人数分に均等に振り分け、ジャンケンをして勝った者から選ぶようにしたのです。時には、最年少の子供が一番に勝ち、総領さんが最後っ屁になることもあったのですが、そのようなときでも、総領さんはにこにことしておられました。物影から様子を見ていた私は、感心したものでしたわい」

 その奇特な心根が捻じ曲がってしまった転機が、母の男との駆け落ち失踪だった。この事件が森岡の心に暗い影を落とし、卑屈な猜疑心という芽を伸ばしてしまった。しかし、それも神村との出会いによって少しずつ消え失せて行き、本来の義理人情に厚く、正義を尊び、不正を憎む性格に戻っていったのである。

「洋介さんは幼い頃から、欲が無かったのですね」

「総領さんのようなお方が我々の世界に入られれば、救われる者も多いと思いますがのう」

 道恵はしみじみと言った。

 茜は、神村をはじめ榊原荘太郎や福地正勝もまた、洋介の真の姿を見抜き、彼を慈しみ、手塩に掛けたいという欲求に駆られたのだろうと思った。

「茜さんは、総領さんの身に降り掛かった不幸をご存知かな」

「過日聞きました」

「そうですか。総領さんは話されましたか。余程貴女を愛していらっしゃるとみえる」

「まあ」

 茜は少女のように恥じらった。

「小学校の六年生といえば、立て続けの不幸が総領さんを襲った頃でした。それにも拘らず、下の者を慈しむ心をお持ちでした。将来、何者になるかと期待しておりましたが、現在の総領さんを見れば、洋吾郎さんをはじめ、冥途にいらっしゃる灘屋の皆様も喜んでおいででしょう」

 道恵は感慨に耽るように言うと、

「茜さんも相当苦労されたようですな」

 と、茜の目を見つめた。

「おわかりになるのですか」

 茜が優しく見つめ返した。

「はい。総領さんも貴方も、両眼の黒目の端に白い斑点があります。これは苦労をした者に出る斑点なのです」

「……」

 茜は、まさかという顔をした。

「本当ですよ。ただし、見える者にしか見えません」

 道恵は、暗に修行を積んだ者にしか見えないと示唆したのである。

「信じます」

 茜が神妙に言うと、

「素直で宜しい。総領さんとなら、必ずやお幸せになられますよ」

 道恵は慈愛溢れる声で言った。

「有難うございます」

 茜は胸を詰まらせながら頭を下げた。そこへ、洋介が応接間から戻って来た。

「大日堂を改築なさるそうですね」

 洋介は座るや否や道恵に言った。

「金の無心に遭いましたかな」

 道恵は気の毒そうな顔をした。

「ほんの少々」

 洋介は事もなさげな口調で答えた。

「少々とはいかほど」

「七千万ほど寄進のお約束を致しました」

「七千万?」

 道恵は、驚き入った様子で言うと、

「それでは、不足分のほとんどを総領さんに甘えたのですな」

 居住まいをあらため、両手を膝に置いて頭を下げた。

「御先代様、頭をお上げ下さい。私は祖父や父が生きていれば、そうしたであろうことをしたまでです。それに、大日堂は私にとっても思い出深いお堂です」

 洋介は鷹揚に笑った。

「おうおう、そうでした、そうでした」

 道恵もやんやと笑い、何度も両手を打った。

「お二人だけおわかりになるなんてずるいです。私にもお聞かせ下さい」

 茜の催促に、

「いや、大日堂では毎年春と秋の二回、お祭りがありましての、夜店も出て賑やかになるのですが、夜通しでお籠もりがあるのです」

「お籠もり?」

「お堂に籠もって、ひたすら読経を繰り返すんだ」

 と、洋介が言う。

「総領さんが、五歳のときでしたか、洋吾郎さんに連れられて大日堂前の沿道の夜店に参られたのですが、何せ人混みが凄くて、逸れてしまわれたのです。屋敷にお帰りになった洋吾郎さんは、総領さんが帰っておられないのを知って、たちまち蒼白になり、大事な孫が人攫いに遭ったか、海に落ちてしまったと、それはもうおろおろしておられた。落ち着き払っておられた洋一さんも意外でしたが、日頃威風堂々とされていた洋吾郎さんの、あのようなお姿は後にも先のもあの時限りでしたのう」

「お父様は豪胆な方だったのですね」

「いえ、豪胆なのは洋吾郎さんの方で、洋一さんは繊細な方でした。ですから、まるでお二人の人格が入れ替わったのかと思いましたよ。ともかく、警察はもちろん、村の青年団、婦人会と村人総出の探索になりましてな。漁師は船を出して湾内を捜索し、消防団は山狩りまでするという大騒動でした」

「それで?」

 茜はごくり、と唾を飲んだ。このとき茜は、道恵の話に夢中のあまり、洋介が一瞬だけ見せた陰鬱な顔を見逃した。

「総領さんは見つかりませんでの、洋吾郎さんは意気消沈、いまにも首を括らんばかりに憔悴し切っておられた。そのときでした。総領さんが、村のあるお婆さんに連れられて屋敷にお戻りになったのです」

「洋介さんはどこにいたのですか」

 茜の声が高揚していた。道恵は、茜の前に顔を突き出して言った。

「お堂の中です」

「お堂ですか」

「総領さんは、読経の響きに誘われるように中にお入りになり、正座をしておられたらしい。これはこれで奇特なことですが、堂内は薄暗いうえに、信者さんは誰もが読経に集中していたので、入り口の隅に座っておられた総領さんに気づくのが遅れたというわけですな」

 皮肉にも、大日堂の中だけが、村中の喧騒から隔離された世界だったのである。

 道恵は茶を一口啜ると、

「そこからが、洋吾郎さんの面目躍如でしての。その週の日曜日、総領さんの捜索に当たった者全員を屋敷に招待されて、慰労会を催されました。いやもう、二百人近くになりましたからの、母屋も離れも全ての部屋を開放し、庭にもありったけの茣蓙を敷いて、そのりゃあもう飲めや歌えの歓待でしたわい」

 と懐かしげに言った。

「私も良く憶えています。今となっては宝物のような想い出です」

 洋介が感極まった声で言うと、

「洋介さんは、皆様から愛されていたのですね」

 茜ももらい泣きをしそうになっていた。

「そりゃあもう、何といっても灘屋の総領さんですからの。現在でも浜浦の村人は、心のどこかで総領さんに期待しちょります」

 そう言い切った道恵の言葉は、二人の胸の奥にまで響いた。

「もっとも中浜屋だけは戦々恐々としておりましょうがな」

 道恵が苦笑した。

「先代様、もう何も気にしておりませんよ」

 森岡は遺恨はないと言った。

「これはこれは、総領さんは慈悲の心もお持ちのようですな」

 道恵は感嘆の声で言った。

 中浜屋というのは、かつて灘屋の底引き網漁の会社を共同経営していた家である。

 もっとも共同経営というのは名ばかりで、株式の九十パーセントは灘屋が所有していた。つまり資金のほとんどを灘屋が用立てていたのである。それでも、洋吾郎が中浜屋を経営の一角に加えたのは、底引き網漁という手法を提案したのが、中浜屋だったからである。

 それまで、浜浦だけでなく島根半島界隈の漁法は定置網漁が主流だった。

 近海に網を張り巡らし、魚の群れをその中に追い込み、一網打尽にする漁法である。

 これに対して、底引き網漁というのは網を張って船を走らせ、魚群を救い上げる漁法であり、トロール網漁ともいう。中浜屋がこの漁法を洋吾郎に提案し、資金の援助を申し出たのである。

 このように中浜屋は、洋吾郎に多大な恩を受けながら、洋介が株式とその他一切、それはつまり、門脇修二に譲った以外の全ての船と網の譲渡を申し入れたとき、足元を見るかのように相場の四分の一以下に買い叩いたのである。

「ですが、総領さんは許しても天の許さざる所業だったということでしょうか、ずいぶんと苦しんでおられるようですぞ」

「何かございましたか」

「近年の長引く不漁で、首が回らないようですな」

 道恵は、手を首の後ろを二、三度叩いた。

「御先代でも皮肉をおっしゃるのですね」

「中浜屋の横暴は酷かったですからな。洋吾郎さんに散々世話になったというのに、総領さんの足元を見て買い叩いたのはまだしも、その後も増長しましてな。修二さんに灘屋の屋敷を売れと迫ったそうです」

「ほう。うちの屋敷を」

「天下を獲ったつもりだったのでしょうな。あるいは灘屋に代わって浜浦を仕切ろうとしたか。いずれにしても、その象徴として灘屋屋敷を手に入れようとしたのです」

「それで、修二兄ちゃんは、なんと?」

「この屋敷は一時的に預かっているだけで、いずれ洋介に返すつもりだと、きっぱりと断ったそうです」

「修二兄ちゃんがそんなことを」

「中浜屋は、『洋介なんぞに何が出来るものか』と、腹立たしい捨て台詞を吐いたそうですぞ」

 道恵は憎々しげに言った。

「私のことで御先代が立腹されることはありませんよ」

 洋介は笑った。

「いかにもいかにも、拙僧もまだケツが青いですな」

 道恵は照れ笑いを隠すように額をぴしゃりと叩いた。

「しかし、近年の不漁はそれほど酷いですか」

「拙僧は八十一歳になりますが、これほどの不漁は初めてですな」

 一転、道恵の顔が曇る。

 この頃の不漁と洋介が小学生の頃の不漁とは意味合いが違っている。不漁の主な原因は共に海水温度の上昇であるが、洋介が子供の頃のそれは一時的な気候変動に過ぎず、近年の場合は根本的な地球温暖化が原因だと考えられた。加えて、外国船による違法操業や乱獲も不漁を加速化していた。


 さて、道恵がこれほどまでに心を掛ける裏には灘屋の家格があった。

 代々灘屋は、界隈の大地主で網元だったが、経済力だけでなく政治的な影響力を持つようになったのは、ひとえに洋介の祖父洋吾郎の功績である。

 長年に亘って浜浦をはじめ近隣の村々の発展に寄与してきた洋吾郎だったが、それを決定付けたのは、ある権力者との出会いだった。

 島根県松江市を本拠とし山陰一帯に跨り、テレビ局、新聞社のマスコミ関係から、電鉄、バス、タクシーの運輸業、ホテル、ゴルフ場の不動産関連まで幅広く事業を展開している山陰興業グループというのがある。

 地域産業の発展はもちろんのこと、福祉や文化の向上にも大きく貢献している、いわゆる地方財閥であり、経営するのは終戦直後から今日まで、島根の政治経済の首領である設楽(しだら)家である。

 設楽家の先祖は、戦国時代の下克上で中国地方一帯を支配した毛利家の山奉行を務める重臣で、中国山地の材木の管理一切や、島根県の石見、兵庫県の生野の両銀山の差配も任されるという要職に就いていた。

 その後毛利家は、輝元が関が原の戦いで西軍の総大将に祭り上げられたことから、徳川幕府によってそれまでの約百二十万石から周防、長門二国の約三十七万石という、実に三分の一以下の大減封の憂き目に遭ったが、短期間にも拘らず良質の石見銀によって設楽家は相当な蓄財に成功していた。

 明治維新で士分が剥奪されたとき、当時の設楽家の当主は迷うことなく林業に手を付けた。各樹木の分布図等、先祖が調べ上げた膨大且つ詳細な山野の調査資料が手元にあったからである。

 結果的にはこれが功を奏した。敗戦によるGHQの占領政策によって農地解放が行われたが、山林は対象外であったため、設楽家の資産はそのまま残ったのである。終戦後は、その資産を元手に現在のような事業展開を図ったという経緯だった。

 経済だけでなく、先代の当主・二十三代設楽幸右衛門基法(こうえもんもとのり)は、四期十六年の長きに亘り、県知事を務めたため、政治的な影響力も絶大であった。

 その権勢を端的に物語る逸話がある。

 後に首相を務めた竹山中が小学校六年生のときだった。たまたま、授業参観の様子を目にした幸右衛門基法は、竹山の利発さに感じ入り、彼が中学校を卒業すると同時に、書生として手元に置いた。

 竹山は地元の高校、大学を出た後、山陰新聞社に入社するや、ほどなく青年会議所の会頭に選出され、その後島根県議会議員を経て、四十歳で衆議院議員選挙に初当選した。

 これらは、全て設楽幸右衛門基法の引き立てによるものだった。国会議員になった竹山は、その後も順調に出世街道を驀進し、とうとう頂点である総理大臣まで上り詰めたのである。

 当時、島根では竹山中を『竹山さん』と呼び、設楽幸右衛門基法を『だんさん』と呼んだ。だんさんとは『旦那さん』、つまり一家の支柱という意味である。

 島根における序列は、一国の首相より島根の主の方が上ということなのだ。まさに設楽家の威光の程を物語る逸話であろう。

 その設楽幸右衛門基法と森岡洋吾郎の交誼は、洋吾郎が知事である幸右衛門基法へ陳情をしたことに始まる。

 浜浦は、島根半島の日本海側にある漁村である。近接の街までは、いくつもの山々を越えたため車でも一時間以上要した。村には小さな診療所があったが、重病や大きな怪我に対処することはできなかった。

 そのため、漁師が作業中に事故を起こしても、たとえば漁の最中であれば、そのまま船で街まで運んだが、港での作業中であれば、手遅れになることも多かった。むろん、そのような実情は浜浦に限ったことではなく、近隣の村々は同じ悩みを抱えていた。

 そのため、近隣の村人の総意として、浜浦から街までの四つの山々のうち、難所である二ヶ所のトンネル開通を町長が陳情した。しかし、権力者を前にして緊張の極みに達した時の町長は、十分な交渉もままならず、トンネル工事は後回しとなった。

 責任を感じた町長は、再度の陳情のとき洋吾郎に同伴を願った。洋吾郎は町の公的な役職にはなかったが、島根半島界隈の絶対的な実力者であり、町長ですら洋吾郎の後援なくしては当選しないという状況にあったため、その内情を知る幸右衛門基法は同席を承諾した。

 このとき、幸右衛門基法にはある思惑があった。

 子飼いである竹山中の国政への進出である。

 保守王国である島根は、選出議員四名全員が政府あるいは政権与党の幹部を務める重鎮ばかりで、それぞれ票田が区割りされていた。そういった状況下、いかに幸右衛門基法といえども、彼らの牙城を崩すのは容易ではなかったのである。

 例に洩れず、当時洋吾郎は政権与党である民自党総務会長の要職にある唐橋大蔵(からはしだいぞう)を後援していたため、島根半島界隈の票は、その大半が唐橋に流れていた。幸右衛門基法はそこに目を付けたのである。

 当時の島根県の人口は約七十万人、有権者は約五十万人であった。投票率は全国一位の八十パーセント超だったので、有効投票数は約四十万票強となる。

 選挙制度は中選挙区制の全県区で、当選者数は四名だった。したがって、当選ラインは約七万票となった。

 対して島根半島のうち、洋吾郎の威勢が届いた範囲の人口は約二万二千人、有権者数は約一万四千人、投票率は九十パーセントを超えていたので、有効投票数は約一万三千万票であった。このうち、確実に洋吾郎の影響が及ぶのは八割弱の一万票余りである。上下を考えれば、二万票余ということになる。実に、当選ラインの七万票の約三十パーセントに当たった。とてつもない大きな影響力だと言えるだろう。

 設楽幸右衛門基法は、トンネル工事の予算化の見返りとして、洋吾郎に選挙協力を求めた。

 方や長年の盟友である唐橋大蔵、方や村民の生命に関わる福祉、この両者の板挟みになった洋吾郎は悩みに悩んだ。

 だが、それから数日後、揺れる胸中の洋吾郎を震撼させる事故が起こる。灘屋のてご漁師の一人が、巻き網の機械に手首まで挟まれ、切断された挙句、出血多量で死亡してしまったのである。この惨劇に衝撃を受けた洋吾郎は、断腸の思いで『自主投票』という決断をしたのだった。

 洋吾郎は、唐橋大蔵に腹を割って虚心を述べた。土下座をして詫びる洋吾郎に、唐橋はこれまでの後援に謝意を述べただけで、恨み辛みは一言も口にしなかったという。

 洋吾郎自身はどちらにも与しなかったが、実娘の百合江、つまり洋介の叔母が婦人会を組織し、竹山中の票纏めに当たった。百合江は、その後も婦人会会長として、永らく竹山の後援会婦人部門を統括指導して行くことになるのである。

 唐橋大蔵は政権与党の重鎮ではあったが、島根の首領である設楽幸右衛門基法と面と向かって対立することはできなかった。自身の力量は互角でも、子孫のことを考慮しないわけにはいかなかったのである。

 結局、一年後の衆議員選挙では竹山が当選し、落選を気に唐橋は潔く政界から引退することとなった。しかし釣り好きの唐橋は、隠居後もしばしば浜浦を訪れ、洋吾郎と酒を酌み交わした。

 結果的に子飼いの竹山中が衆議院選挙に当選したことで、洋吾郎と設楽幸右衛門基法との蜜月時代が始まった。

 二ヶ所のトンネル工事に加え、浜浦界隈の全道の舗装化と道幅拡大、そして浜浦の港湾整備事業が開始された。これらの公共事業が、後に浜浦を中心として島根半島界隈全体に多大な恩恵を齎すことになるのである。

 それから五年後、洋吾郎は六十八歳でこの世を去ったが、その後も設楽幸右衛門基法は洋吾郎との約束を守り、島根半島地域の生活環境と福祉の充実に尽力した。

 さて、洋吾郎の葬儀に際して弔辞を読んだのは、日の出の勢いの竹山中ではなく、隠居した唐橋大蔵であった。洋吾郎の遺言だったのである。

   

 園方寺を辞去すると、四人はその足で墓参した。

 森岡家の墓は、村の北西に広がる田畑の先の小高い丘にあった。丘の東斜面を造成して、村の共同墓地としたものである。

 洋介には、お盆の墓参りは一家揃って正装で参ったとの記憶が残っている。祖父と父は羽織袴、祖母と母は着物、そして洋介自身は半袖のカッターシャツに半ズボン、首には蝶ネクタイを締めていた。

 灘屋が特別なのではない。灘屋ほどではないにしろ、他家も一様にきちんとした身形で墓参していた。普段着で参る者など一人としていなかった。これもまた、宗教心というか、先祖に対する信心深さの一端を表しているといえよう。

 陽はその身のほとんどを西の山々に隠していたが、残照は天空を蜜柑色に染め上げ、地に広がる稲穂を黄金色に煌かせていた。

 草むらでガサッという音がした。

「茜、水端は蝮がいるから気を付けろよ」

「きゃあー」

 茜は少女のような声を上げ、森岡に抱き付いた。

 その微かに怯えた横顔は夕日に映えて神々しく、生き馬の目を抜くと言われる北新地で、最高級クラブを経営するママであることなど、想像もできないほど幼かった。

 広島、大阪と都会育ちの彼女は、田舎の自然溢れる風景に感じ入っているようだった。

 洋介は、ふとそのような茜をからかってみたくなったのである。からかいといっても、蝮がいるというのは嘘ではない。もっとも、田畑の畦道は草が刈ってあるので滅多なことでは遭遇しない。

 森岡家の墓は、丘の山頂にあった。

「兄貴、これは何の木や?」

 南目が山頂の切り株を見て訊いた。

「松の木や。根を見たらわかるやろ」

「え? これが松ってか」

 驚く南目の傍らで、

「松って、これほどの巨木になるものなのですか」

 坂根も驚き顔で訊いた。

 かつてこの丘の頂上には、大人三人が手を回しても足りないほどの太い幹の巨木が聳え立ち、四方八方に伸びた枝々は、まるで墓地全体を覆い尽くす傘のようであったが、数年前に枯死したということであった。

「この松は特別だったんや」

 洋介が意味深い口調で言うと、

「特別って何が」

 茜の興味も引いたようだった。

「死人の養分を吸ったんやな」

「養分って、骨でしょう」

 洋介は黙って首を横に振った。

「俺が子供の頃までは、浜浦はまだ土葬やったんや。せやから『人の血や養分を吸って成長した』と村人たちは口にしたものなんや」

「そういうことですか」

 茜が得心した口調言うと、坂根と南目もなるほどと、小さく肯いた。

 灘屋の墓はその松の切り株の横にあった。広さは三畳ほどもあり、他家の五、六倍はあった。

 坂根と南目は松の切り株に腰掛けて待機していた。

 洋介と茜は、三基の墓石を丁寧に洗い、花と線香を手向け、水を供えた。

 代々の先祖に向かって、洋介は無事の感謝と、茜との婚姻を報告し、茜は森岡家の一員になる了承を請うた。

 洋介の顔はいつに無く神妙なものだった。

 先妻である奈津実とは、一度も帰郷することがなかった。むろん、墓参もしていない。近頃の彼は、奈津実の死はこうした不敬に対して、先祖の勘気を蒙ったためではないかと真剣に思うことがあった。だからこそ、此度は子孫としての務めを果たそうという気になったのである。

 墓参が終わると、暫し眺望を愛でた。

 浜浦は、島根半島の漁村の中ではもっとも大きな村であった。半島には三十余の漁村があるが、出雲風土記に『……の浦』と記載があるのは浜浦を含め四村しかなかった。その他の村は皆『……の浜』である。

 また、同風土記に、浜浦には『三十の船、泊(はつ)べし』とあることから、当時より最も大きな港だったことが窺える。歴史学者の中には、この船とは『軍艦』ではないかと説く者もいるが、反論する者もいて定かではない。

 ただ、天然の良港であり、太平洋戦争前には軍港として使用可能かどうか調査が行われたからしても、全く根拠の無い説でもないだろう。

 ちなみに軍港の話は、調査の結果、水深が浅く大型の船舶が停泊できないため、不適格となった。

 墓の頂上からは、その浜浦湾と村落が一望できた。

 洋介にとっては懐かしい風景であったが、十六年ぶりに観たそれは全くの様変わりをしていた。

 少年の頃、釣りをした磯や夏休みに海水浴をした浜は、影も形も無いほどにコンクリート整備されてしまい、秋に栗やアケビを探しに分け入った山々は開拓されて、一般家屋や老人福祉会館、近年隣村に落下した隕石を保管、展示する施設などに姿を変えていた。

「隠岐諸島は見えないのね」

 茜がいかにも落胆したように言った。

 違う、と洋介は笑い、

「隠岐は北方だから、あの山の向こうだよ」

 と左手を指差し、間違いを正した。 

「あっ、そうか。あの海は東方面に広がっているのね」

 茜は、ペロッと舌を出しながら首を竦めた。

 その愛らしい彼女の仕草に、洋介の胸に温もりが拡がっていた。感傷に咽ぶ自分への心遣い、つまりわざと間違えたとわかったのである。

 洋介は、親戚の墓にも立ち寄ってから、墓地を後にした。

「あれ、もしかして灘屋の総領さんですか」

 その途中、またしても誰彼となく声が掛かった。そして、傍らの茜を見て、はっとしたような顔つきをした。茜の垢抜けた容姿が印象的なのだろう。

「そうです」

 洋介はその度に軽く会釈を返した。

 日が沈み、ようやく暑さが峠を越したのを見計らって墓参りに向かう人々であった。彼らは洋介と茜の顔を見ると、ある者は驚いたように、またある者は不思議そうに話し掛けた。洋介には、彼らが何者であるかわからなかったが、彼らは皆、その面立ちから洋介だとわかるのである。これもまた、幼い時分から注目されて育った証である。

 一行が灘屋の敷地の角に差し掛かったときだった。

 洋介は突然足を止めた。左斜め後方から熱い視線を感じたのである。しかし、彼が振り返ったときには、誰の姿もなかった。

「どうしたんや、兄貴」

 南目の声には警戒の色が滲んでいた。

「誰かに見られていたような気がしたのが、勘違いらしい」

「いいえ、前のこともあります。誰かに監視されている可能性はあります」

 坂根も、かつての凶刃を脳裡に浮かべたのか、不安げな顔つきである。

「まさか、浜浦でどうこうしようとは考えんやろ」

「なんでや」

 南目が納得のいかないような面で訊いた。

「この村はよそ者が入り難い土地柄や、もし見知らん者がうろちょろしとったら、すぐに駐在の耳に入るようになっとる」

 田舎の村というのは、他所者に対して排他的なところがある。村人の人間性というのではなく、治安維持のためである。

「現に、他所者ではないけど、私たちのことは村中の知るところなっていますよ」

 茜が苦笑いしながら言った。

「それは社長が灘屋の総領だからではないですか」

 坂根の言い分は当を得ていた。

 だが洋介は、

「もちろんそれもあるが……」

 曖昧に言葉を濁した後、

「皆が待っているやろから、はよ帰ろうか」

 と話題に蓋をするかのように語気を強めた。

 このとき彼の胸の中には、

――あの道筋の先には……まさか……?

 との想いが過ぎっており、心中穏やかではなかったのである。









  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る