第44話
「ちょっと、休憩しようか」
薇薇(ウェイウェイ)はぷっくりした頬を手の甲で拭うと、鏡越しに声を掛けた。
太っているせいか汗っかきらしく、石榴色の旗袍の脇下がうっすら濡れて、そこだけ濃い紅(あか)になっている。
「そうね」
私より先に莎莎(シャシャ)が応じた。
こちらは全く汗の気配が無い。
どころか、あれだけ激しい動きをした後なのに薄青の旗袍にさほど乱れがないことからして、随分、踊り慣れているみたいだ。
「ちょっと、疲れたね」
本当はちょっとどころではなかったが、私はそう言って、自分の旗袍の裾を直す。
と、淡い橙色の裾の端っこがちょっぴり黒ずんでいるのが目に入った。
ハイヒールだと踊りはもちろん、裾を汚さずに歩くにも要領がいるらしい。
それにしても、この色だと埃(ほこり)や汚れが目立ちそうだ。
他の人の目には、大丈夫かな?
「菖姐(チャンねえさん)、こんにちは」
薇薇の声に目を上げると、鏡の中では、焦茶(こげちゃ)の地に白い花の模様が入った旗袍が新たに戸口に現れていた。
「こんにちは」
私は振り向いて、直接、声を掛ける。
「だあれ?」
焦茶色の旗袍の女はこちらには目もくれずに、鏡に向かってつかつかと歩み寄っていく。
壁一面に張られた鏡の片隅で立ち止まると、そこで女はふっと顔を横向き加減にして、流し目じみた表情を作って見せた。
「誰って訊いてんのよ」
鏡の中で、流し目が急に曇った風に細くなる。
「あんた、新入りでしょ」
――馬鹿じゃないの。
――気が利かないわね。
がさついた言い捨ての口調が言外にそう伝えていた。
「莉莉(リリ)……です」
こんな風に尋ねられて名乗るのは嫌だ。
「莉莉?」
そこで、相手は初めて振り向いた。
パーマをかけてはいるが、艶のない、パサついた、量の少ない髪。
一重瞼(ひとえまぶた)の細い目、しゃくれて尖った顎。
色は白い方だが、乾いた感じの肌をしていた。
年の頃は、二十歳(はたち)を過ぎたくらいだろうか。
どことなく、さっき擦れ違った菱姐(リンねえさん)に似ているが、
この人の方が年は若い筈なのに、妙に崩れた感じというか、もっとハッキリ言うと、荒れた気配がした。
「それ、お母さんのお下がり?」
私の旋毛(つむじ)から爪先まで眺め回すと、女はしゃくれた顎をツンと突き出した。
どうやら、この薄橙の旗袍が気に食わないらしい。
「田舎臭いわ」
薄橙色の裾に生じた微かな黒ずみに目を留めると、女はふっと鼻先で笑う気配を見せた。
嘲る時に細い目を更に眇(すが)めるのが、この人の癖みたいだ。
そうすると、余計に貧相な顔になるのに。
「蓉姐(ロンジエ)から戴きました」
かちりと女と目を合わせると、笑顔で告げた。
私はともかく、蓉姐はあんたよりずっと綺麗だし、垢抜けてもいる。
そう言ってやりたかった。
「この子、蓉姐の所でお世話になってるそうです」
薇薇があたふたと私と菖姐の間に入る。
「行きましょ、急がないと、屋台が売り切れちゃうわ」
薇薇と莎莎に引っ張られて、練習部屋を後にする。
菖姐は蛇の様な目でそんな私を眺めていたが、入り口の扉が閉まる瞬間、
この女がペッと床に唾を吐き捨てるのを私は見逃さなかった。
「菖姐はああやって絡んでくるから、流した方がいいわ」
階段を上りながら、薇薇が耳打ちする。
「あの人は僻みっぽいのよ」
莎莎も苦笑いの語調で呟いた。
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