第17話

「もしもし?」


 蓉姐の声は、今度は幾分和らいでいる。


「阿建(アジェン)ね? 蓉姐よ」


 卓子掛けの焦げ目は、ちょうど桃色の糸で刺繍した芙蓉の花びらの部分に出来ていた。


「阿偉(アウェイ)を出してちょうだい。」


 裏を返して確かめた限り、刺繍部分の糸が焦げ付いただけで、生地ごと穴を空けるには至っていない。

 焦げた糸を解いて、新たに縫い直せばいいだけの話だ。


 私は手持ちの包みから糸切り鋏を出し、元の刺繍と同じ桃色の糸を探す。


「どこにいるの?」


 どうも桃色の糸が見当たらない。

 さっきぶつかった時に、落としちゃったのかもしれない。

 仕方ないから、この赤い糸を使おう。


「どうしてあんたが出てくるの?」


 やっぱり、赤はやめて朱色にしよう。


「ねえ、小明(シャオミン)、阿偉と代わってちょうだい」


 この朱色も、ちょっと合わない気がしてきた。


「何を喋ってるの?」


 いっそ、全部解いて別の色で縫い直そうか?


「本当のことを言いなさい!」


 誰か一番いい方法を教えて!


「阿偉」


 蓉姐は打って変わって疲れた声を出した。

 この人の地声、本当はかなり低いみたい。


「出る前も、一度そっちに掛けたのよ」


 ふと目を上げると、姐さんは受話器を両手で包む体で話していた。


「また一人で賭博場(カジノ)へ?」


 まるで、黒い受話器の中に真珠か砂金でも詰まっていて、少しでも揺らせば中身が全てこぼれ落ちてしまうと恐れているかの様に。


「危ないのに」


 この人も、こんな心細い顔をする時があるんだな。


「あたし? 今日は散々だったわ。手直しに出した服は戻って来ないし」


 蓉姐の声が元の調子を取り戻したのをしおに、私はまた仕事に取り掛かる。


「仕立屋がしょっぴかれたのよ」


 焦げた花びらを間に合わせの色で縫い直すより、上からもう一つ新しい花を重ねて縫う案を思いついた。


「おまけに前にしつこくされて断った客に、うちの番号をいつの間にか知られてたの」


 本来の図案にない刺繍だと見た人にバレてもそこまで目に付かない様に、私は地と同じ白の糸を取り上げる。


「そいつ、薇薇を脅して聞き出したらしいわ」


 いざ縫い出すとやはり蛇足が目立つ気がしたが、とにかく縫い上げてしまうことにした。


「怖いったらないわ」


 姐さんはまた芝居がかった高い声を出す。


 焦げ目はもうすぐ新しい花の一枚目の花びらの下に消えた。


「アパートに帰ったら帰ったで、部屋までついてきた奴がいるのよ」


 針が思い切り指先に刺さる。


「葉(イエ)って男よ。同じ階に最近越してきたの。英国(イギリス)帰りだとか自慢してたわ。鍵は掛けたけど、まだドアの外にいるかも」


 そういや、鍵を開けっ放しだ!

 私は血の出る指先を食わえたまま、玄関に走った。


「阿偉、早く来てちょうだい」

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