第4話

 仕事が終わり、一家で食事を終えた後に暗い作業場の隅に陣取って鉛筆を持つ。昼間カンナやチョウナが木を削る音が響く作業場に、鉛が紙を擦る音が降り積もる。始めたばかりの頃は慣れなかった音も、毎晩繰り返していくうちに気にならなくなった。

 自らの記憶を覗き、それを文字の形で書き記していく。経験のないことではなかったが、積み重ねた経験と知識だけが頼りの文章は出来が心許ない。これで良いのかと何度も自問しながら書き進めていく時間は、修験者か僧侶の修行のようでもあった。

 文字を紙の上に積み重ねていくごとに視野は狭くなっていき、周りの音も遠くなっていく。それが極まるような予感がした時、少し無遠慮に戸が開かれた。

「何だ」

 振り向いた末吉は吐き捨てた。その苛立ちにさらされた人影が、微かに身じろぎした。

「誰だ」

「吉原です、ここに人がいるとは思わなかったもので」

「何か用事なのか」

「いいえ、忘れ物を取りに来て」

「そうか。いや、入ってくるといい。気にするな」

 末吉が促してようやく丈作は作業場に足を踏み入れた。ともすれば慎重さに欠ける見た目ながら、その足取りは慎ましい。分をわきまえることもできる男なのだろう。

「社長はここで仕事をしておられるのですか」

 丈作は少し固さの取れた表情で訊いてきた。

「仕事というより、手慰みだな。誰かに求められてやっているわけではないし、必要も感じていない」

 言いながら丈作を傍に寄らせて、夜ごと書き綴ってきたものを見せた。緒言から始まって深耕の必要と利益と続き、犂の扱いを書き記す内容である。社長として時を過ごしていくと自身の内に自然と多くのものが降り積もっていって、その重さがある程度まで来ると形として降ろしたくなるものらしい。名前のない文章は、そんな末吉の欲求から生まれてきていた。

「これは農民たちに見せるものではないのですか」

「そのために書いたものではないが」

「もったいないのではないですか」

 丈作の言葉は意外な方向性を示して聞こえた。誰かに見せるつもりはなかったものが、純真な若者の目には外へ出るべき者のように映っている。それだけで価値が一つ生まれた気がした。

「そう見えるか」

「少なくとも僕には、そう思えます」

 末吉は一瞬考えて、紙の束を丈作に渡した。

「そう思うなら、少し読んでみてくれ。君の目から見て必要なら、何らかの形で世に出る必要があるものということだろう」

 手渡された紙の束を、丈作はしばらくまじまじと見つめていたが、やがて辞去した。まるでこの世に唯一無二の宝を手渡されたかのようと思った末吉は、自身を過大評価していると苦笑した。

 学校を出たばかりで若い少年の意見とはいえ、世に必要かもしれないと見られるのは嬉しいもので、こみ上げてくる笑みを抑えられない。紙の上を滑る鉛筆の感触も軽く、末吉は先を書き進めていった。

 

 数週間後に丈作は、感想と共に末吉の文章を返してきた。内容の詳しさを評価しながら、現場で使うとなれば必要ないと感じるものもあると、遠慮がちに言った丈作との推敲作業がその日の夜から始まった。作業場の片隅に紙を広げ、鉛筆を取って書き直す。紙代を節約するために、別の紙に書き写してからの作業である。一枚の紙に注釈を書き入れた後は手帳に議論の経過を書き写す。そうして夜ごと丈作と話し合い、文章を練り上げていく。いつしか自身も、自ら書いたものの価値を信じられるようになっていった。

 丈作と共に書いた文章が、『実験牛馬耕法』という著書という形になったのは大正九年(一九二〇年)のことである。その頃末吉は四二歳となり、会社も軌道に乗ってきた。老舗と肩を並べるほどではないものの安定した働きができるようになっていた。

 著書のおかげか、末吉の元には地元や遠隔地から犂の扱いを習いに来る若い農民たちが集まってくるようになった。多くは自ら学ばせてほしいと頼んでくるが、営業や指導を行った先で見つけた有望な若者を呼び寄せることもあった。新潟県初の講習生である石塚権治と半田忠一を勝永が見出したのは大正一〇年(一九二一年)のことであった。

 佐渡出身の二人は勝永に連れられて福岡の末吉の元へやってきた。後から訊くと、船で佐渡海峡を数時間かけて渡り、更に汽車で二日かけて来たということであった。長旅であったはずだが、二人は初日から疲れを感じさせない働きを見せてくれた。講習生は全体で約二〇〇人いたが、その中でも埋没しない個性を放つ二人であった。

「バネのような体だな」

 権治が田畑の中で犂や牛馬と格闘する時に見せたしなやかな動きを、末吉は率直にそう評した。小柄だが力強いその体躯は、草競馬における競争相手の小島を思わせるものであった。

「佐渡の人たちはひらけとります」

 仕事の合間で丈作と話をした時、佐渡出身の二人をそう評した。農に関することを懸命にやるのは当然だが、歌がうまく、共に過ごしていて飽きることがないそうだ。

 末吉自身も感想は同じで、密かに接し方について悩んでいたのがばかばかしくなるほどであった。初めどこまでやれるか見極めるために安定性を欠く無床犂をあてがい、彼は苦労しながらも要点を押さえて使い方を覚えていった。佐渡の暮らしがどうであるのか末吉自身も関心があり、丈作を通じて様々に聞くことができた。二人がいた一ヶ月間、末吉にとっても良い時間であったが、丈作にとっても生涯の友人を得るかけがえのない機会となったようである。二人の関係は後年まで続き、佐渡と福岡でそれぞれに仕事をしていくことになる。

 権治にとって、末吉もまた大きな存在となったようであった。彼が集めた写真の中にはフロックコート姿の末吉を写したものがあったが、隅には恩師の文字が添えられていた。


 権治が去ってからの一〇年間で、末吉の会社はいっそうの成長を遂げた。はじめ近くの業者に頼んで取り寄せていた犂や鞍に使う樫は足りなくなり、大分県から取り寄せる必要が生じるほどであった。その時には丈作をはじめとする社員を買い付けに行かせ、無床犂より安定性の高い短床犂を大量生産するようになった。権治はちょうどその時期に講習を受けに訪れた。

 近隣の農民への技術指導、遠隔地へ技術の種をまく活動、そして牛馬名人としての名声、それらが評価された結果であろう、昭和二年(一九二七年)には末吉の功績を伝える顕彰碑が実家(現・福岡市東区多の津)に建立され、同時に末吉の銅像まで建てられた。顕彰碑に刻まれた文言の中には、

「幼ヨリ牛馬ニ親シミ殆ンド寝食ヲ共ニスルノ愛畜家ナリ」

 とある。草競馬で築いた名声や、犂の扱い、趣味とまで言われた獣医学の知識を伝える言葉である。それが後世まで自分の家の庭先に残ると思うと、誇らしいような気恥ずかしいような複雑な気分であった。

 成長を続けた長式農具製作所は、最盛期には五〇人の職人を抱え、木工、鍛冶、鋳物の各部門に分かれていた。犂耕の実習生も変わらずに受け入れ続け、九州大学や福岡県農業試験場の斡旋により、犂のふるさととも言うべき朝鮮半島や中国大陸出身の若者も学びに来ていた。日本にとどまらない若者たちの学びに、一六歳で始めた犂の改良が最高の形で結実したのを感じた。

 犂も会社も昭和一〇年代は最高潮であったが、その時代を末吉が長く見ることはできなかった。長末吉は昭和一一年(一九三六年)、五八歳でこの世を去る。その葬式には社員だけでなく地元の農民、更に教えを受けた遠隔地の農民まで参列した。それは犂が必要とされている時期に関わることのできなかった末吉の無念が呼び寄せたのかもしれない。

 一年後、日本は日中戦争の勃発にはじまり各国との戦争へ踏み込んでいく。戦争の激化に伴って慢性的な物資不足となり、日本は民間にその解決を求めた。

 昭和一九年(一九四四年)、金属の供出が銃後に要請される中、末吉の銅像もその対象となった。以後は作り直されることもなく、長家の庭先には顕彰碑だけが残って、末吉の功績を後世へ伝え続ける。

 長式農具製作所は末吉の死後、息子が継いだ。当時は犂が必要とされていた時期であったが、昭和二〇年代から注目されるようになった耕耘機と入れ替わるように、会社も歴史を終えた。農業の機械化が本格化する直前のことで、以後日本の農業は機械化をはじめとする技術革新が加速していくことになる。

 末吉はそのような未来を見ることはできなかったが、彼の残した足跡や業績は日本各地に残る。丈作と共に書き上げた『実験牛馬耕法』のとある一冊は、遠く青森県の古書店に流れ着いていたし、北陸から東北にかけて多くの馬耕記念碑が建てられた。新潟県における犂の普及を担ったのは、末吉を恩師と仰いだ石塚権治である。彼は農業の機械化によって犂が必要とされなくなるのを見届け、平成一〇年(一九九八年)に佐渡の実家で亡くなった。

 筥崎宮から馬が走る音が聞こえなくなり、講習生たちが汗を流した田畑の上には建物が建てられた。末吉が生きた時代と風景は大きく変わり、農業のやり方も変化した。それでも顕彰碑をはじめ、末吉の功績や存在は次代へ受け継がれていく。

 長末吉。彼は牛馬名人にして犂の名人であった。牛馬と農業が密接に関わっていた時代に生きた名人である。

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牛馬名人 haru-kana @haru-kana

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