第9話 森の奥に隠された神秘

 港町エヴァストの郊外には、鬱蒼とした森林が広がっている。


 かつて古代、この森林には森の神を祀るための小さな祠があったという伝説があるが、今はその形跡すら残されていない。

 後世になり、多神教の神殿が少し離れた場所に造られてから、その勢力に押される形で廃れたのだという。


 しかしこの街は、「神のしろしめす大地」と称されるほどに、一神教が普及したヒューリアック大陸の一角にある。

 あれほどの勢力を誇り、古代信仰を軒並み駆逐した多神教の神殿であっても、放棄され、打ち壊され、忘れ去られる運命をまぬがれることはできなかった。


 森林を神聖視することなく、街の中央に据えられた聖堂へと信仰の場を移した一神教は、森の神殿を意図的に忘却の彼方へと押しやった。

 今では野生動物の繁殖地に戻っており、薪を採りに入る付近の村人を除いては、この森に誰も立ち入らなくなった。


 ――どうやらこっちの魔力を見失って、引き返したようだな。やれやれ。


 森林を抜けるための往来がすっかり姿を消した今、通れる道は獣道しかない。それも途切れがちで、判別しづらい状態になっている。

 不審な追跡者はしばらく尾行を続けていたようだったが、森に入ってからは気配が途絶えていた。


 マカベウスは風の精霊を使役し、不審者の探索を続ける一方、みずからも神経を研ぎ澄まして、魔具が魔力を探知する際に発する微弱な波動を、逆探知しながら進んでいたのだ。


 魔力探知――それは、為政者が主導する魔導師狩りで使われている、特殊な魔具によるもの。魔力探知を行うための魔具はすでに、相当な数が出回っているという。

 むしろ探知される側のマカベウスは、まだ魔具の実物を目にしたことはない。しかし、その存在だけは何度も耳にしていた。


 昼なお暗い、鬱蒼たる原生林。数百年もの長い年月は、神殿を囲む林を人跡未踏の森林に戻してしまっている。

 安易な気持ちで踏み込んで、無事に戻れるような場所ではない。


「ね、ねぇ……。おじちゃんってば……。こんなところ、入っていいの……?」


 狭い獣道を先導し、注意深く進むマカベウスの白衣の裾を、テミスがしっかりと掴んで後に続いている。彼女は不安そうな顔つきで、何度も尋ねてきた。


 あまりにも不安なのか、テミスは何度も同じ質問を繰り返していた。さっきのでもう十三回目である。

 さすがに十三回目ともなると、泰然自若としたマカベウスも立ち止まらざるを得ない。


「あのな、お前ここまで来て何言ってるんだよ。ほら、目的地はもうそこだ」


 そう言ったマカベウスが指さす先、獣道が途切れ、大木や灌木が繁茂する茂みの向こうに、何か柱らしき人工物が立ち並んでいるのが見えてきた。


 灌木はまばらに点在しているものの、多くの人に踏み固められたせいか大木は生育せず、森林に埋もれることなく残っている。


 それは百年以上前のものと思われる、崩れかけた列柱が並ぶ遺跡だった。


 遺跡は神殿の跡と思われる。整然と立ち並んでいたはずの列柱は途中で折れ、無惨にも草地の上に倒れているものが多い。

 それでも散乱する瓦礫の量が、列柱の数よりも少なく見える。それはいくらかの石材が、建材として持ち去られたからなのだろう。


 壁が崩れずに残っているのは、かつて至聖所だったと思われる堅牢な石組みだけで、それ以外は若干の壁面を残して崩壊している。屋根はどこにも残っていなかった。

 長い年月で風化し、茶褐色に変色した大理石だが、ところどころ炭化した部分がみられるのは、かつて先鋭化した一神教徒による焼き討ちがあったことの証拠だ。


「わあ……。こんなところに、遺跡があったんだぁ……」


 遺跡を見るなり、嬉しそうに両手で顔を覆い、瞳を輝かせるテミス。

 魔術研究者の助手として古い魔具を扱ううち、彼女はいつの間にか、古代遺物に興味を持つようになっていたのだった。


「す、すごいよ! 遺跡だよおじちゃん! これはさっそく、探索しなきゃだよ!」


 飛び上がらんばかりのテミスは、立ち止まったマカベウスをもどかしげに追い越すと、灌木林を抜け、茂みの中から遺跡の広場へと足を踏み入れていく。

 それはまさに、幼い子どもが遊び場へまっしぐらに駆けていく姿そのものだった。


「おいおいテミス、ここは古い遺跡だぞ。地盤が弱くなってるから気をつけ――」


 それを見たマカベウスが、苦笑混じりに忠告しながら追いかけようとした、その矢先だった。

 駆けていたテミスが強く踏み込んだ瞬間、足元の地盤が突如として陥没した。


「うにゃっ……?」


 突然の出来事に、テミスはとっさに対処できない。

 わけが分からぬうちに、身動きすらできず、あっさりと穴に落ち込んでいく。


「にゃっ……にゃあああああーーっ!」


 悲鳴を上げながら、為すすべもなく落ちていくテミス。すり鉢状になった穴の直径は、五メートル以上もある。


 その陥没穴は、まるで精巧に仕掛けられた落とし穴であるかのように、テミスの身体を周囲の土砂もろともに、地中へと引きずり込んでいこうとする魔物のようだった。

 おそらく長い年月が経過するうちに、もともと地下に存在していた空間の天井部分が部分的に崩落し、地盤が薄くなっていたのだろう。


「ちっ……。お約束の展開、感謝いたします! わが主よ!」


 マカベウスは一瞬、聖職者にあるまじき皮肉を口にするや否や、すぐさま灌木林を抜けて走り出した。

 目指すはテミスが落ち込もうとしている陥没穴。運動不足な中年の彼でも全力疾走すれば、絶対に間に合わない距離ではない。

 案の定、陥没穴までは、あっという間の距離だった。


「テミス! 俺の手につかまれッ!」


 勢いよく走り込んだマカベウスは、陥没穴の縁にあった灌木を左手で掴むと、それを支えに全身を使い、右腕をテミスに向けて伸ばした。

 その結果、必死に差し伸べてきたテミスの右腕を、辛うじて掴むことに成功した。


「お、おじちゃんっ!」


 右腕を掴まれた瞬間、絶望に引きつっていたテミスの満面が、愁眉を開いたかのように輝いた。

 普段は引きこもりで、イタズラ好きのセクハラ変態中年ではあるが、やるときはやるのだ。


 陥没した土砂が、テミスとマカベウスだけを残し、盛大に地下の空間へと崩れ落ちていく。


 土砂の中には、地下空間の天井を支えていたと思われる煉瓦が混じっている。神殿跡の地下空間が、人工的に形成されていたことの証拠であろう。


 だが、無我夢中のマカベウスにとって、そんなことは関係ない。

 滝のように落ちていく土砂や瓦礫に抗うかのように、強引にテミスの身体を引っ張り上げる。


「よしっ……!」


 これで助かる。怪我人を出さずに済んだ――。

 テミスの身体を引っ張り上げつつ、マカベウスがそう確信した瞬間。


 マカベウスが左手で掴み、支えにしていた灌木が、根元からごっそりと抜けた。


「なっ……?」


「ひゃっ? お、おじちゃんのバカーーっ!」


 これで万事休す。崩れゆく瓦礫や土砂とともに、支えを失ったマカベウスとテミスの身体も、陥没穴の底へと落下していく。

 せっかく助かったと思ったのに、この結末とは。裏切られたテミスが、理不尽な悪口を大絶叫する。


 地下空間の天井は意外なほど高く、底まで十メートル以上はあろうかと思われる。


 瓦礫が堆積した底部には、若干の水が溜まっているらしい。この地下空間は、古代の地下貯水池だったのだろう。

 水が溜まっているとは言え、すでに相当量の瓦礫が底部に堆積している以上、そのままその上に落下すれば、無事では済まない。


「ちっ――。仕方ねえ! テミス、しっかり掴まってろ!」


 落下する寸前、とっさにテミスの華奢な身体を抱き寄せていたマカベウスは、そう叫びながら左手を穴の底部に向けた。

 それと同時に、マカベウスの全身から、赤黒いオーラとともに膨大な魔力がほとばしり出る。


 できればもう少し、秘密にしておきたかったが――と、マカベウスの心の中に少しだけ心残りが生まれたが、事ここに至ってはやむを得ない。


「――風の精霊よ、集え! 『野を打つ暴風』ブラスト・オブ・ウィンド!」


 自由落下するマカベウスがそう怒鳴った瞬間、周囲の空気が急速に冷たくなった。


 そうかと思うと、地下空間でありながら突如として、二人を取り囲むように、渦を巻く気流が生まれた。精霊の霊力による突発的な自然現象である。


 気流はすぐに突風となり、周囲の土砂を巻き込みながら、大嵐のように吹き荒れる。


 その突風は衝撃波まで伴い、まさに原野を渡る暴風のように土砂をぶつけ合って、ゴウゴウと響いている。


 その暴風はマカベウスの左の手のひらから、渦を巻きながら噴き出しているように見える。

 穴の内部にもかかわらず発生した暴風が、彼の魔力を媒介とした精霊の霊力によるものだということを、それが雄弁に語っていた。


「きゃっ……。お、おじちゃん――?」


 自由落下の速度が、ガクッと急激に緩む。

 マカベウスは精霊魔法「野を打つ暴風」ブラスト・オブ・ウィンドを穴の内部で放つことで、落下速度の緩和を狙ったのだ。


 落下速度が緩んだことを感じたテミスが、驚きに目を丸くしながらマカベウスの顔を見上げた。

 その視線に気づいたマカベウスは、必死に風の精霊を制御しながらも、ニヤリと不敵に笑う。


「どうだテミス、これが魔術だ。どこか痛いところはないか?」


「……うん」


 穴の底まで、ほんの数メートルばかり。二人は激突を免れたのだ。

 空中に静止するとまではいかなかったが、二人とも無傷で軟着陸できたのは言うまでもない。


「おじちゃん、ありがとう……」


 嵐が収まり、二人の周囲を包み込むように流れるだけとなった緩やかな気流に身を任せながら、テミスはほんのりと頬を染めてそう言うと、マカベウスの白衣の袖を握りしめた。

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