who is candy

朝の気配に目を覚ます。懐かしい人の顔が浮かんで、昔の夢を見たのだと気が付いた。

窓の外は微かな雨が降るようだ。櫛を通した髪にヘアバンドを着けて、黒いボタンの並ぶシャツに袖を通す。町に降る雨は音を立てる。硝子窓に額を当てて嵐の音を聞いた日々は遠い過去の話だ。あれからどれほどたったのか、私にはもうわからない。


洗面台に立って濡らしたタオルで顔を拭いながら、今日のスケジュールを思い出す。工場の点検は終わっているし、今月分の材料費の払い込みもした。部屋の掃除は昨日終えたし、特別の注文は昨日の納品で全部だった。鏡越しに覗き込んだ自分の青い目には一点の曇りもない。いつも通りだ、と思う。ソーダ色のキャンデーのような自分の目。キャンディとは私。黒い髪と青い目に、甘い名前。

私は部屋に戻り、状差しをかき回して便箋を探した。工場の状況報告を書くつもりでいたのだ。メッセンジャーが来るのはしばらく後になるでしょうけれど。ペンの蓋を外して、白い便箋にはいつもの通り、親愛なる、と綴る。親愛なる姉様へ。


姉様。淡い金髪と、白のヒールブーツ。思い出しながら、しずくさんを指す『姉様』は年嵩の女性への敬称でしかないのだ、と思う。そのことを本人に言えば当然、良い顔はされないのだろうとも。でも、私の本当の意味での『お姉さん』はチアキただ一人なのだ。心の中で、チアキさん、と繰り返し、なんだかむずがゆい気持ちになる。『お姉さん』。私のお姉さん。元気にしているかしら、と思う。知己であるらしい、しずくさんは私へ何も教えてはくれない。


便箋へとペンを滑らせた。何も教えてはくれないお姉様。私はお姉さんのことを知りたいけれど、しずくさんは違うのだろう。お姉さんたちは後に生まれた私よりもずっと大人だ。こうして手紙を書き続けて関係を保ったところで、期待した結末など来ないことはわかっている。それでも、繋がりを手放せない。僅かな可能性にもすがりたい。それで私は工場の経営状況と近況を定期的に送っている。全てを任された今、それは意味のないことだとわかっているのに。メッセンジャーもしずくさんもやめろとは言わなかった。だから、私は許される限り、自分の気が済むまで続けようと思っている。


封筒に折った便箋を入れて封をする。読んでくれているのかさえわからない。送りつけた手紙へ返事を求めるというのも変な話だ。これで、もし、何かの間違いで、お姉さんからお返事が来たなら、それはきっと素敵なことだ。あり得ない事が起きると良いのにと思う。工場を用意したのはしずくさんで、月に一度来るメッセンジャーは彼女の部下の方。お姉さんは私が今、どこにいるかさえ知らない。お姉さんに連なる人はもう居らず、ここにいてはそのあとさえ追うことは適わない。わかっている。

子供じゃなくなった私を置いて、お姉さんは行方を眩ませた。『捜し物』を見つけて故郷へ帰ったのだと今ならわかる。あの頃私へ語ったように、思惑を果たせたのかはわからない。理解するには幼すぎた。でも、きっと、と自分に言い聞かせる。望みは叶ったのだろう。だってここにはもういない。


私をなでてくれたお姉さん。『お姉さん』。短く切られた金の髪に低い声、両腕を広げても抱きつくのが一仕事だった大きな身体。背が高く、寡黙で、あまり笑わない。チアキさん。口に馴染まないそれが、男の人にもある名前なのだ、と気付いたのは何時のことだったろう。もしかしたら男の人だったのかもしれない、と最初に思ったのは何時だっただろうか。お姉さん。私の家族。性別なんて今更どっちだってよかった。おいで、といって私を手招くあの大きな手が好きだった。あの手が、私の手を握って、なんだって教えてくれた。字の書き方、針の持ち方、リボンの結び方。キャンディ、と呼ぶ声が、その心が、私に向けられていることが嬉しかった。


会いたいな、と思う。会って、ケーキを焼いてあげたいな、と思う。沢山いろんな事を教えて貰ったのに、結局今の私にできるのはそれくらいだ。工場を出て探しに行こうと思ったこともあったのに、結局はこの細い糸のような繋がりを手放す事もできず、私はここでケーキを焼き続けている。町の暮らしは笑ってしまうほど穏やかで、温い暮らしの中ではこのひりつく感傷を完全に消し去ることはできない。けれど、私のこの白昼夢じみた穏やかな暮らし、お姉さんがこれを叶えるがために私を『しずくさんの支配する』この土地へやったのだとしたら、そのことがきっと私の貰った最後の……目に見える愛なのだろう。

だとするなら、それが本当だとしたのなら。やっぱり私はここから出られないのだ。お姉さん。博識で優しい私の家族。どうか、あるがままで。たとえこの先もう二度と会うことがなくたって。


目を伏せてただ祈る。見下ろした靴の先はすれていた。投函がてら散歩にでも出ようか、と思う。あの明るい髪がどうにも懐かしく感じられて仕方がない。お姉さんも『姉様』も髪の色は金色で、黒髪なのは、私と、私の師だけだ。師は元気にしているだろうなと思う。いくつもの不安定な想像の中で、それだけは間違えようのないことだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

F×Ph×who 佳原雪 @setsu_yosihara

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ