Epilogue

 後日談。

 というか結果だけ言うと、春哉は死んでいない。

 傷は深くしばらくは入院だが、刃は心臓まで達していなかったのだ。


「まさか僕を殺すために作った手帳に助けられるなんてなぁ」


 あの時たまたま見つけた手帳を胸ポケットに入れたままにしていたおかげで、心臓までは刃が届かなかったのだ。手帳には大穴が開いてしまったが……。


「あの……その……」


 あの日以来、桜子はすっかりしおらしくなってしまった。

 それは自分が今までしてきたことがどういうことだったのかようやく理解したからだろう。

 それは罪の意識とは少し違う。どちらかというと捨てられるのではないかという恐怖に近い。

 小さな子犬のように終始震えていた。


「桜子さん」

「ヒゥッ!!」


 ポンっといつものように頭に手を置く。ビクンと彼女は震える。ここまでがワンセット。

 まずは安心させよう。目の前にいる女性は野生動物と変わらない。

「……ふぇ?」

「僕は絶対にあなたを許さない。だからずっとあなたの傍にいますから」

 桜子の目から涙が自然と溢れてくる。

 結局彼女が求めていたのは死ではなかったのだ。誰かに自分を拒絶してほしかった。両親の愛を勘違いした自分を「お前は間違っている」と強く否定してほしかったのだ。

 あの時、春哉が桜子の一撃を避けなかったことが、桜子にそれを気付かせてくれた。湧き上がって来たのは嬉しさや高揚感ではなかった。


 絶望。


 死ねばなくなってしまう。そんな当たり前の、どうしようもない恐怖。

 人間としてのまっとうな感情を桜子はあの時、少しだけ取り戻した。

「大丈夫ですよ。心臓は綺麗って先生にも言われましたし」

 春哉は冗談を言って笑顔を見せる。


「……春哉くん」


「まぁ胸はパックリいきましたけど」

「ふぇぇ……」

(あれ? これなんか面白いぞ……)

 最近珍しい桜子の態度を見続けたせいか、春哉の中でSの心が芽生え始めた。


「おじゃまします!!!!!!!」


 大声をあげ、小日向朝子が病室に入って来た。

「こらー! 病室では静かに!!」

「はぅ……」

 ナースステーションのおばちゃんに怒られ、朝子は小さくなってしまった。

「朝子くん。お見舞いに来てくれたのかい?」

「はい。先輩大丈夫ですか? 刺されたって……」

 朝子は普段の彼女には珍しい心配そうな沈んだ顔で聞いた。

「あぁ、ちょっと通り魔に襲われちゃってね。心臓には達してないから傷口が塞がれば退院できるよ」

 桜子は今回の件に関わっていない。春哉の証言で、そういうことになっている。


「……ところで先輩。隣の綺麗な方は誰ですか?」

「ん? この前紹介しただろ? 桜子さんだよ」

「え!?」

 朝子は驚いた。前に見た時はもっと暗い感じの印象だったはずだ。

「記憶を失ったりとか?」

「いいや」

「催眠術?」

「いや」

「……調きょ――」

「そんなわけないだろ……」

 春哉は後輩の言葉に頭を抱える。

「だって前より綺麗な目をしていますよ?」

 それは確かに彼女の言うとおりだ。

 あの日を境に、桜子の暗くまどろんだ瞳はもう見なくなった。春哉に依存しているところは未だ変わっていないが、それでも彼女にとって春哉がどういう存在なのか。そこに大きな変化が生じたのだろう。

「小日向さんよね。わざわざ春哉くんのお見舞いに来てくれてありがとね」

 にっこりと桜子は朝子に笑みを見せる。そこには以前の暗い狂気的な笑みは全く見えなかった。

「……眩しい」

 朝子は持ってきた花を花瓶にさした。


「今日はもう一つ用事があって来ました」

「ん?」

 コホンと朝子は咳払いをして宣言した。


「式美春哉。私はあなたが好きです!!」


「「……」」

 突然の告白に二人は茫然としている。

「えへへ。一方的に私がダウンしていましたが、考えてみれば私、まだ告白していませんでした」

 チロっと朝子は下を出す。


「なっなっなっ……」

 桜子はプルプルと震え始めた。

「ダメ……」

「桜子さん?」


「ダメーーーーーー!!」


「ヘブッ!?」

 桜子は勢いよく春哉に抱き着いた。

「ダメよ。春哉くんは私のだもん。絶対誰にも渡さないもん!!」

「見苦しいですよ。確かに私ではあなたの美貌には勝てないかもしれません。ですが断言しましょう。先輩を一番愛しているのはこの私です!!」

「あなたなんてまだお子様じゃない!! そんな貧相な体で春哉くんを満足させれると思っているの? 大人の恋愛に口を出さないで!!」

「はぁ!? 言いましたね? 私だって脱げばナイスバディだということを思い知らせてやりますよ!!」

 春哉は左右からガッチリとホールドされる。


 プチッ。


「「あ……」」

「あう……」

 胸の傷を縫っていた糸が切れる音がした。春哉はがっくしと項垂れる。

「春哉くん!!」

「先輩!!」


 消えゆく意識の中、ナースコールが何度も響き渡る。

 二人で何度もボタンを押したため、うるさいと怒鳴るナースのおばちゃん。その場で正座させられ二人は怒られている。春哉は再び縫合するために体を持ち上げられ、担架に乗せられる。

 正直めちゃくちゃ痛い。


 だけど。


 何故だか心は幸せでいっぱいだった。

 あの時もしも手帳がなければ。

 あの時もしも別の急所を狙われていたら。

 一歩間違えれば確実に死んでいた。

 この傷だって死ぬほどではないもののかなり深い。重傷だ。


 それでも。

 

 後悔はない。むしろ――


 今この瞬間がとてもいいなと思えた。



 桜子さんの殺人レシピ  完

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