あの月に、もう一度。

吾妻栄子

あの月に、もう一度。

「ご予約の方ですか?」


 ホテルウーマンはてきぱきとしながらも冷たさのない声を掛ける。

 私よりもたぶん年下で、まだ学生といって通る若さだが、慇懃な口調と笑顔はプロそのものだ。


「はい」


 相手に合わせて笑顔で頷く。

 我ながらぎこちない。

 年若いホテルウーマンはまるで見合い写真のアルバムのような受付のファイルを差し出した。


「佐藤朋子」


 ネットで予約した時に打ち込んだ名前を改めて姓名欄に一文字ずつ記す。

 二つ並んだ「月」の字が少し大き過ぎて「佐藤月月子」にも見える。

 でも、このくらいなら単に悪筆な女と思われるだけだろう。


「サトウトモコ」


 フリガナはこれだ。

 こうしてカタカナにすると、サトイモかトウモロコシの誤植みたいだ。


 住所と電話番号の欄には実家のそれを書き込む。


――私たち、うっかり家の外にも出られないの。


 最後に電話で話した母の声が蘇る。

 家に閉じこもっているなら、確実に連絡は取れるはずだ。


「ありがとうございます」


 ホテルウーマンは変わらず笑顔で告げる。


「九〇一号室になります。エレベーターはあちらです」


 ほっとして会釈すると、示された先に向かった。


 ※※※※※

 部屋の窓からは青灰色の海が見える。

 正月を過ぎたばかりの海はこんな色をしているのだ。


 テレビを点けると、ちょうど午後のニュースが始まったところだった。


「FS細胞論文の不正認定問題で、同論文の執筆を担当した医化学研究所の久保方明子くぼかたあきこ研究員の行方が分からなくなっています」


 画面には、青ざめた顔をした、虚ろな目の若い女の写真が映し出されていた。


「医化学研究所の発表では、同研究員の提出した辞表を本日付で……」


 テレビを消すと、部屋の中は元通り幽かな波音だけが聞こえてくる。

 ホテル特有の、壁の漆喰と各種洗剤の入り混じった匂いも浮かび上がってきた。


「佐藤朋子、か」


 これが今日一日の私の名だ。

 いや、あと数時間、か。


 どのみち日付が明日に変わる頃には、「佐藤朋子」も、「久保方明子」も、この世から消えている。


 ふっと息を吐いて、窓の外を改めて見やる。

 せめて、晴れ渡った空の下、真っ青な海に飛び込んで死にたかったけれど、もうその程度の幸運すら残っていないらしい。


 ※※※※※

「お祖母ばあちゃん、ごめんね」


 白い薔薇の花束を置いて、墓に手を合わせた。


「病気、治してあげたかったのに」


 私が第一志望の医学部に合格してすぐ、長らく難病を患っていた祖母は亡くなった。

 共働きの両親に代わって、何くれと幼い兄と私の世話を焼いてくれた、白い割烹着姿のお祖母ちゃんは、最後は自力で箸を持ち上げることすら出来なくなっていた。


「同じ病気の人も助けたかったのに」


 私の発見した万能細胞は誤りだったと世間は言う。


 この目で光り輝く細胞を見たというのに。


 論文が専門誌に掲載された後、私は十数冊に及ぶ実験ノートも公開し、研究所内でも外部でも再現実験に成功していた。


 それなのに、「人体への応用性には問題がある」という降って湧いたような批判を皮切りに、皆が急に掌を返して、私の発見どころか研究そのものを不正だと言い始めた。

 新しい万能細胞を認めると、先行研究の利権が危うくなると分かったからだ。


 研究者なら誰もが科学の発展のためには誠意と協力を惜しまない。

 そう信じて疑わなかったこちらが甘かったのだろう。


 マスコミは「天才女性医学者」から一転して「稀代の女詐欺師」と書き立てた。


 新しい万能細胞の発表時から外には出にくくなったけれど、不正疑惑が懸けられてからは、まるで銃剣のようなマイクや催涙弾さながら目の眩むフラッシュを連射するカメラを手にして私を追いかける人たちが増えた。


 一方、マンションの駐車場に止めていた車は、ガラスというガラスが全て叩き割られ、ボンネットにスプレーで大きく「死ね」と落書きされていた。


 誰かが勝手に入ってきたのか、それとも同じマンションに住む人の仕業なのかは知れない。


 とにかく、もう、部屋を出なくてはいけないということだけは分かった。


 攻撃の矛先は家族にも及び、父の経営するクリニックは閉鎖に追い込まれ、母は教授を務めていた大学に辞表を出した。


 兄は勤務先のERで慰留されたものの、婚約を破棄された。

 先方の親が「久保方を名乗る家とは繋がりを持ちたくない」と言い出したのだ。


――自主的に辞表を提出しなければ、あなたを懲戒処分にして、億単位の賠償を負担してもらう。


 三年前、医学部を首席で卒業した私を「是非に」と医化学研究所に招聘した理事長は、まるで別人のように冷然とそう告げた。


 奨学金を受けながら苦学してきた身には、億単位の賠償など、想像もつかない。

 今、口座に入っている貯金を全部合わせたとしても、一億どころか、一千万にすら……。


 理事長は見透かしたような笑いを浮かべると、続けた。


――こういうお金の問題はね、ご家族にも累が及ぶんですよ。


 辞表は出したが、退職を依願したのは私じゃなくて、研究所の方だ。


「もうすぐお祖母ちゃんたちの所に行くから」


 花束の根元に結ばれた水色のリボンが風に吹かれて揺れている。


 自殺すると成仏できないというが、自分には今の生こそがもう地獄だ。

 この先、生きたところで、ここまで大々的に詐欺師のレッテルを貼られた研究者を受け入れる機関などどこにもない。

 ずっと医学一筋で生きてきたのに、今更、他の道など考えられない。

 世間にしたところで、私には死んでもらった方が、万事、都合がいいのだ。

 久保方明子は悪辣な詐欺女と決まったのだから。


 もう涙は尽きたと思っていたのに、また視野がぼやけてくる。


 専門に研究したことはないが、咲きかけの薔薇の香りにはもしかすると催涙効果があるのかもしれない。


 ※※※※※

 声にならない叫びが口から漏れる。

 冬の海は「冷たい」を通り越して肌を突き刺すように「痛い」。


 だが、ここで怯んではいけない。


 ストッキングとロングスカートの裾がぐっしょり濡れて重たく張り付くのを感じつつ、また深い方に歩みを進める。

 このまま波にさらわれて沖に流されれば、金槌の自分は確実に溺れ死ぬ。

 まして、ここは遊泳禁止区域で、地元の人もめったに近付かない浜だ。


――危ないから、あの浜辺には近づいちゃ駄目。


 お祖母ちゃんもよく言っていた。


 水の中に足を進めつつ、学生時代に法医学の講義で見た、水死体のスライド写真を思い出す。

 私もあんな姿になって新たな教材にされれば、幾ばくかでも医学に貢献できるかもしれない。


「あははははははは」


 こんな状況になっても、まだ、自分が医学の世界に寄与することを求めているんだ。

 もう、誰からも必要とされてないのに。

 邪魔な人間だから死ぬのに。


 日暮れ近い茜色の海の上に、空っぽな笑い声が響く。

 今になって空も晴れてきてくれた。

 お祖母ちゃんが亡くなった日の夕方もこんな風に真っ赤な夕焼けだった。

 天国から迎えに雲を払ってくれたのかもしれない。


 もう胸の下まで水に浸かっている。

 痛くも冷たくもない。


 こちらの目線よりも少し高い波が緩やかに近付いてくる。

 あれだ、あれに呑み込まれたら……。


 急に、鼻から口元を押さえつけられ、背後から物凄い力で引き戻される感触に襲われた。


 次の瞬間、鳩尾みぞおちに衝撃が走る。


 *****

 暴走族のバイクの爆音に似た響きで目を覚ました。


 どこだろう、ここは?


 薄暗い中では、床から全身に伝わる緩やかな揺れと磯の香りで船の上らしいとしか分からない。


 胸からストッキングの爪先までぐっしょり濡れていて寒い。


 不意に、上から話し声が漏れてきた。

 何を話しているのかは聞き取れない。


 どうも、日本語とは響きが違う。

 もしかして……。


 打ち付けるような足音がこちらに近付いてくる。

 思わず身を竦めると、眩い懐中電灯の光が顔いっぱいに当たった。


 どうやら二人の男が降りてきたらしい。

 並んだ影から察せられる。

 私には解せない囁きが両者の間で交わされた。


「ナマエ、ネンレイ」


 顔を照らし出す灯りが上下する。

 どうやらこちらに質問をしているらしい。


「あなたの名前と年齢を言いなさい」


 懐中電灯を持たない方の影から声が飛ぶ。

 まるで日本語教材のCDみたいに正確な発音だ。


「私は……」


 言い掛けてから、頭が真っ白になる。


「私は、佐藤朋子です」


 ホテルの受付で書いた、「佐藤月月子」の字面が頭の中に蘇る。


「年齢は二十九歳」


 佐藤朋子でも久保方明子でも年は変わらない。


 沈黙が流れた。

 暗い船室の中に、波の音だけが規則正しく聞こえてくる。


「到着は、明日みょうにちだ」


 あまりにも正確なために、機械のように感情の見えない日本語で告げると、より黒い方の影は足早に元来た階段を上っていった。


 懐中電灯を掲げた方の男はまだその場に立っている。

 灯りが私の顔から足元までなぞるように降りて、それから胸の辺りにまた戻った。


 そんな風にされると、服が濡れて体に張り付いた感覚が急激に蘇って、全身がびくりと震えた。


 男はまるで武器でも掲げるように懐中電灯を向けたまま、ゆっくり近付いてきた。


 唐突に、階上から短く怒鳴る声が飛ぶ。

 今度は懐中電灯を持った男がびくりと身を震わすと、一目散に階段を駆け上っていった。


 どうやら、先に戻った男が「来い」または「戻れ」と命令したらしい。

 恐らく、先に姿を消した日本語の達者な方が立場は上なのだろう。


 開け放たれた扉から、月明かりがうっすら差し込んできた。

 閉め忘れたのか、それとも、こちらに何が出来るわけでもないから開けておいても安全だと判断したのか。


 と、船室の床に毛布じみた布が一枚転がっているのに気付いて取り上げる。

 だいぶ擦り切れているが、これに包まれば少しはましなはずだ。


 ごわついた布を広げ、背中全体を覆うようにして包まって床に蹲ると、ようやく体温が戻ってきた気がした。


 私、どうなるんだろう?


 先ほどの二人の様子からすると、「サトウ・トモコ、二十九歳」と名乗ったこちらを取り合えずは生かしておく方向に判断したように思える。


 まあ、彼らが用無しと見切ったところで、多分、また海に投げ込まれるだけの話だ。

 この辺りの方が水深はあるし、サメもいるかもしれない。


 痛い思いをして死ぬのは嫌だが、サメに噛まれてショック死する場合なら、あっという間だ。


 サメが口を開けて待ち構えている暗く冷たい水の底に沈んでいく場面を思い描きながら、開け放された船室のドアを見上げても、嘘のように静かな月明かりだけが差し込んでくる。


 今日、ホテルの部屋に一泊分多目に用意した宿泊代と荷物一切を残して出た後、家族宛の遺書をポストに投函し、お祖母ちゃんのお墓参りをして、海に入った。


 彼らには「佐藤朋子」と名乗ったし、「久保方明子」としての自分を証明するものは何も身に着けていない。


 運転免許証も、ここ二日間はずっとオフにしていた携帯電話も、ホテルの部屋に置いたバッグの中だ。


 今、何時か分からないけれど、ホテルのスタッフが異常に気付いたとしても本格的に動き出すのは本来チェックアウトになる明日の朝くらいだろうな。


 家族に遺書が届くのは明後日あさって明々後日しあさって


 どのみち、自分が残した痕跡は浜辺に脱ぎ揃えた靴で終わっているから、日本では「自殺」と処理されるだろう。


 遺体など見つからなくたって、久保方明子が生き続けるべき理由は、もうどこにもないのだから。


 今までの私を知る人たちにとって、「久保方明子」はあの浜で死んだ。


 お祖母ちゃんの墓前に供えた白薔薇の花束に結ばれた水色のリボンが風に弄られて揺れている姿が何故か浮かんできた。


 あの墓には、今日の日付と共に私の名前も遠からず刻まれるのだろうか。


 階上に戻っていった二人は休憩でもしているのか、話し声らしきものは何も聞こえてこない。


 彼らがこれから生かすも殺すも、それは「佐藤朋子」であって、始めからこの世には存在しない人間なのだ。


 蒼白い月の光だけがよすがになる船室の中、私はいつの間にか微笑んでいる自分に気付いた。(了)

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