インナーカラー

佳原雪

白黒二色のインナーカラー

狭い路地裏に鈍い悲鳴が響く。男がくぐもった悲鳴を上げ続けるのは、口に靴下を詰められ、足の指を折られているためだ。モノトーンのコートを着た人間は縄で縛られた人間の、足の指を無感動に折った。足から手を離すと、悲鳴はようやく呻きに変わった。

横で見ていた男たちにモノトーンのコートは目を向けた。男たちは口々に喚いている。

「嫌だ、やめてくれ! 逮捕は嫌だ!」

「なんで捕まんなきゃなんねぇんだ! 服を縫うなんてまっぴらごめんだ!」

ビルの隙間から光がさし、暗い路地裏にコートと同色の髪が浮かび上がった。表が黒で裏が白、彼の名はインナーカラー。シリアルサイコパスと名高い無慈悲なクライムファイターだ。

「だろうね。概ね同意見だよ」

インナーカラーは無表情で呟くと未だ喚いている男たちの顎をつま先で掬うように蹴った。

「服を縫うのは拷問だ」

呟いた声に応えるのは不快な呻きばかりだ。全てはやがて夜の闇に吸い込まれて消えた。




『見た目は大事だ』と人は言う。人は何かを判断するのに大部分を視覚に頼っていて、それは人間性も同じだという。服を着ること、装うことは社会へと踏み出す大きな一歩だ。着るものによって印象は操作される。

インナーカラーは眉根を寄せて早足に歩く。色とりどりのショーウィンドウ。立ち並ぶファッションビル。見せつけるような装飾。ここはきらびやかな街だ。インナーカラーはこの街が嫌いだった。

どの店に入っても、どの服を手にとってもインナーカラーの体が入ることはない。サイズの合わない服を着た人間は醜い。煌めくショーウィンドウに映り込む自分の姿を見て、インナーカラーは表情を変えないまま奥歯を強く噛み締めた。



布を切り、流行りの服の形に縫製する。そうして生産された服たちは店頭に並び、消費者のもとへ届く。流行りの服はボタンやポケットの形が違うだけで、インナーカラーにはどれもこれも同じように見える。それを、ファッショニスタと呼ばれるような人間は高く、そうでない一般市民は手の届く範囲の値段で買う。

インナーカラーは昨晩の軽犯罪者達を思い出した。服を縫いたくないとのたまっていた奴らだ。年号が変わってからこのかた、刑務所には縫製工場が併設されるのが当たり前になっている。大量生産品は国内で一向に減らない罪人達に縫わせ、服にかかる多大な人件費と運送コストを浮かせる。更生施設を兼ねた縫製工場の運用はこの街で試験的に始まったのだがどうやら試みは成功しているらしく、軽重とわず罪を犯した者を法的機関に引き渡すとそれに見合った懸賞金が支払われるようになった。(これは服の売り上げから出ていると言われている)

キャッチコピーは『犯罪を減らしてハイブランドの服を着よう』

正直、狂っているとインナーカラーは思った。この街は、犯罪と布切れにまみれている。誰かが外から火をつければミシンから出る機械油まみれの糸クズが燃えて何もかもが炎に消えるだろう。永遠などというものはどこにもない。


何も考えてこなかった艶やかな化繊のドレスを着た人間たちは、炎に巻かれ『助けて』と喚くことだろう。燃え盛る服を着ても脱いでも、そこに待つのはアイデンティティの喪失だ。この国の人間は服なしでは生きられない。私はそこにこう言ってやる、『嫌だね』と。

インナーカラーは可笑しくなって笑った。仮にそうなれば、全てが炎に消える。狂った価値観も、歪んだ美意識も。インナーカラーが激しく憎み、無くなればいいと思った何もかもが。脳の興奮と胸中に広がる虚しさとが拮抗する。口からこぼれた乾燥した笑いは雑踏にかき消されて聞こえなくなった。




ビルとビルの隙間に入り、インナーカラーは目当ての店にたどり着いた。服が圧縮陳列された狭苦しい古着屋だ。基本的にこの街では他人の着た服には価値はない。ビンテージはそもそも流行らないし、ユーズド加工品はどれだけ破れていても新品だ。未使用の状態のまま機械にかけてそれらしく破く。何を買ってもぴかぴかの新品。ここは昔からそういう街だった。

営業しているのかどうか傍目からはよくわからない扉を開けてずかずかと入ると、新商品のコーナーからインナーカラーはピンタックのブラウスを手に取った。ファッションブランド『メニーアクス』の定番商品だ。ハンガーに手をかけ、端から順番に見ていく。並んでいるものはどれもメーカーの値札付、新古品と呼ばれる類のものだ。インナーカラーはタグを見た。サイズはすべてミディアム。什器のポップを見ると値段は定価の三割程度だ。インナーカラーは片端から手に取り、カウンターに積んだ。

「すみません、会計を」

少しだけ上ずった声を、インナーカラーは咳払いでごまかした。急に来てブラウスを十枚も買っていくインナーカラーを見ても店主は何も言わない。古着屋に来るのはこんな連中ばかりだからだ。

インナーカラーは財布から札の束とポイントカードを出した。店主はそれをうけとり、スタンプを押した。ポイントが全て貯まればオリジナルのノベルティがもらえるらしい。らしいというのは、ノベルティをもらった人間の噂を耳にしたことがないからだ。そうしてインナーカラーはどうみても服屋のそれではないカードを持って毎回この店に来る。

大量のブラウスを受け取り、インナーカラーは店を出た。そのまま路地を進み、地下へ降りる。迷路のように入り組んだ道を進み、古い建物のエントランスを抜ける。階段で、見慣れたパイプがインナーカラーを出迎えた。たくさんのパイプやダクトは空気や水を地下のあちこちに届けている。ここはその隙間だ。インフラの狭い隙間に作られた古い建造物の一室がインナーカラーの今の住処だ。狭いといっても、人ひとりが暮らすのには十分すぎるほどのスペースがあるので生活には困っていない。

インナーカラーは鍵を開け、部屋へ入った。部屋の中にはほとんど何もない。スリッパも、カーペットも、一般家庭にあるようなものは何もない。せいぜいワイヤーのくずかごと、充電器くらいだ。インナーカラーは靴を脱ぎ、帽子を壁にかける。モノトーンのコートは汚れているので椅子の背に放った。

インナーカラーは周りを確かめると、落ち着かない様子でウォークインクローゼットに入り、隠し扉を開いた。電気をつけると、隠し扉の向こうには、メニーアクスのブラウスやアクセサリー、インナーなどのウェアが並べられている。口の端を釣り上げて、インナーカラーはステップを踏むように歩き回る。変拍子で『ハッピーバースデー』の替え歌を歌い、買ってきたブラウスをそこへ並べた。整然と並ぶシャツは、ブティックを彷彿とさせる。インナーカラーは上機嫌で、今度は昔の流行歌を口ずさんだ。店舗の内線放送でよく聞いた歌だ。今となっては誰がおぼえているだろうか。

インナーカラーは歌い続けた。近しいものがみれば気が狂ったと思われることだろう。歌いながらブラウスを体に当てる。そうして、途中で歌詞が分からなくなって、同じフレーズを何度も何度も何度も何度も繰り返した。




身長163センチ、体重52キロ、Y体。インナーカラーの趣味は、派手と称される。




インナーカラーはテレビを見ていた。背後でドアが開く。

「ハロー、レディーメイデン。邪魔してるよ」

「あら、インナーカラー、仕事は見つかった?」

レディーメイデンと呼ばれた女性を、インナーカラーは形式的に睨みつけた。定職についていないインナーカラーの資金源は懸賞金だ。荒稼ぎしてはそのほとんどを服に突っ込むインナーカラーを、レディーメイデンはよくこうしてつつく。

「収入はあるし仕事のことをとやかく言われる筋合いはないはずだ。君こそ仕事は進んでいるのかい」

レディーメイデンは頬を膨らませた。インナーカラーはソファの周りを歩くレディーメイデンを目で追った。

「リズベスはいつも通り。何も滞っちゃいないわ。インナーカラーのおかげで縫製工場もあと十年は安泰」

「それは良い」

インナーカラーは深く吸い込んだ息を吐いた。レディーメイデンはインナーカラーの隣に座り、睫毛を伏せた。インナーカラーはいくつか予測を立て、レディーメイデンの言葉を待った。

「ねえ、インナーカラー」

インナーカラーはレディーメイデンと目を合わせた。

「断るよ」

レディーメイデンが露骨に嫌そうな顔をする。無言の抗議にインナーカラーは頭を振った。

「君がこれから言うのは『デザイナーにならない?』か『パタンナーやってみない?』か『一流のグランクチュリエに興味はない?』のどれかだ。他をあたってくれ、私は服飾に関わる気はない」

「残念。ねえインナーカラー、あなたと一緒に縫製工場を大きくしていくのは楽しかったわ」

「そうだね。君はそれでファッションリーダーに返り咲いた。そう、製作する側に回ってだ。それでいいだろ。この話はここまでだ、私は帰る」

インナーカラーは帽子を被り、コートを羽織った。レディーメイデンが慌てて呼び止める。

「待って、インナーカラー、メニーアクス社のデザイナーが生きてるって話は知ってる?」

「どういうこと」

インナーカラーは振り返らない。

「どこかで、いまだ服を作り続けているって噂があるわ。あなたも製作に回れば、会う可能性は」

「いいや。結構だ、レディーメイデン。……また来る」

インナーカラーは出ていった。レディーメイデンは鼻を鳴らした。いつもこうなのだ。メニーアクス社の話になるとインナーカラーは隠していた傷を触られたような、痛みに耐えるような顔をする。近頃は顔を背けることを覚えたが、あの様子では向かい合って話をすることはないだろう。レディーメイデンは閉まった扉に向かって、再度鼻を鳴らした。

「……臆病者」

レディーメイデンはそれきり口を閉ざした。昔のように、私が助けてあげるのにとは言えなかった。



インナーカラーはコートの胸元をかき抱いた。レディーメイデンに悪気がないのはわかっている。既製服乙女と呼ばれ、誰かの作った流行の最先端を駆けていた彼女が、新しいものを作り出す側に回ったことは喜ばしいことだ。しかし、メニーアクス社なき今、インナーカラーに何ができるだろう。服をデザインするといってもコミュニティへの帰属意識なんてものはインナーカラーにはない。所属するコミュニティを他人に開示するための服を、インナーカラーは作ることができない。体型のせいで他人と同じものを着る事が叶わなかったインナーカラーを、周りの人間たちはコミュニティの外へ押しやった。若きインナーカラーは呪詛を吐き、たまたまマジョリティ側に生まれたというだけで、体に合う服を何の疑問も抱かずに着る人間達を呪いながら生きてきた。

メニーアクス社のウェアはそんなインナーカラーの救いになった。

インナーカラーはメニーアクス社のウェアを買い求め、それを着て毎日を過ごした。インナーカラーにとって、幸せな時間だった。しかし、それも長くは続かない。特殊な体形をしているインナーカラーに合う服というのが、世間では受け入れられなかったらしい。当然と言えば当然であるが、そのままメニーアクス社は事業を畳み、インナーカラーは寄る辺を失った。

それからインナーカラーは服飾を勉強し、布を切り、ミシンの針を何度も折りながら、コートを作り上げた。着れないサイズの服を買い求めて、ばらしては戻し、糸を切っては縫い詰め、構造を学んだ。そうしてインナーカラーは服を作ることに執着し続けた。

ようやく着れるコートができた時、インナーカラーは世間、自分を囲むコミュニティを見限った。服が自分で縫えるのなら、誰かの作った流行に従う必要はない。このとき、決意を示すために髪を白に脱色し、インナーカラーはインナーカラーとなった。




「インナーカラー」

白い丸襟ブラウスにフレアスカート。フリルのレースソックスにあまいキャメルのシューズ。歩いているときに声をかけられたインナーカラーだが、皆が皆似たような恰好をしているので、目の前の人間が誰か、咄嗟に判断がつかない。

「なに、誰……ボブヘアード? 何の用?」

間違っていなければ、これはレディーメイデンの妹分だ。インナーカラーは警戒した。こいつにはよく迷惑をかけられる。

「お姉さまのところから出てきたでしょ。で、今日もお断りしてきたんでしょ。お姉さまの申し出を断り続けるなんて言いい御身分じゃない」

ヒールを打ち鳴らして、ボブヘアードは噛みついた。インナーカラーはボブヘアードのつむじを見ていた。髪は根元から毛の先まで概ね同じ色だ。ボブヘアードの背はインナーカラーのそれに比べて随分と低い。

「君には関係ないだろ。これは私とリズの問題だ」

死ねばいいだの、お姉さまだってそう思っているだの繰り返すボブヘアードの身長をインナーカラーは目で測った。ヒールを抜けば154くらいだろうか。幅を考慮してもリズベスのサイズ範囲内だ。つまりそれは、インナーカラーが呪詛を吐いてきた人間たちと同じコミュニティに属しているということを示す。リズにもリズベスにも恨みはないが、このサイズに合わせて服を縫うなんてぞっとする。インナーカラーは目を細めた。

「リズに対する文句なら本人に言ってやってくれ。君からの忠告なら彼女も喜んで聞くだろう」

だんだん愚痴のようになってきたボブヘアードの一方的な会話を打ち切って、インナーカラーは立ち去った。

途中ボブヘアードの文句が聞こえた気がしたが、インナーカラーは無視した。




暗闇の中でインナーカラーは足の指を折っていた。捕縛した人間は、脱がせた靴下を口に詰めて足の指を折るのがいつものやり方だ。何年も続けてきたのでもうほとんど癖のようなものだ。インナーカラーは指に力を込めた。

レディーメイデンと夜の街を駆け回っていたころに一度、なぜ足の指なのか聞かれたことがある。インナーカラーは、その時のことを思い出そうとした。

「うん?」

通報を済ませ、インナーカラーは首を捻った。それは当然、手の指ではいけない理由があるからだ。それがなんだったのか思い出せない。一つ目は、捕まえた人間が逃げづらくなるようにするためだった。足の指が軋むのでは、普通の人間は走れない。そのためにわざわざ靴を脱がせ、足の指を折るのだ。それは覚えている。隣で見ていたレディーメイデンに陰湿だ、と言われたものだ。

もう一つの、重大なほうがどうにも思い出せず、インナーカラーは唸った。目を細めると、地面がゆっくりと揺れた。考えるには糖分が足りていない。何か口に入れなければならないだろうとポケットを探ったが、何も入っていなかった。家に帰ることにして、インナーカラーは汚れた服を着たまま路地を後にした。

家に帰る途中、酔っ払いに絡まれた。最近よく絡まれると思いつつ受け流していると、酔漢は調子に乗って聞いてもいないことを喋りだした。自分は一流ファッションデザイナーの知り合いがいるだの、美人の社長秘書に服を見てもらっているだの、反吐の出るような自慢話だった。適当に相槌を打ちながら距離を取るが、それがお気に召さなかったらしく酒臭い息でコスプレ野郎との誹りを受けた。いきなりあらわれたくせに面倒な野郎だ。インナーカラーは腹に数発お見舞いした。

「それにしても私を指してコスプレか、良い目を持っているようだ」

転んだところを靴をむしり、靴でさらに数発殴った。薄汚い、手入れのされていない靴だ。路地裏を歩いてきた自分のツートンカラーの靴のほうがよほど清潔そうに見える。

倒れ伏した相手の背広で手を拭うと、インナーカラーは靴をそろえて背中に置いた。インナーカラーは今度こそ、家に帰った。




音のない自宅でインナーカラーは冷めた作り置きのスープを食べていた。消毒のために加熱はしたのだが、熱くてあまり食べる気がしないので置いておいたら存外冷めてしまった。ジャガイモも玉ねぎも甘い。ぬるくてあまい味は、インナーカラーの数少ない好きなものの一つだ。こういうものを食べているとき、インナーカラーは愛について考える。

メニーアクス社がまだあったころ。メニーアクスブランドのウェアは、インナーカラーにとってこのスープのようなものだった。水のように当たり前にそこに存在するそれに、インナーカラーは当然のように惹かれた。甘く、刺激の少ないそれは、ともすれば価値の無いもののように思えるかもしれない。しかし、刺激のないこと、それこそが重要なのだとインナーカラーは考える。自分を害するものがなく、心穏やかに暮らせることが、愛でなければなんだというのだと。

こんなことを確か前にも考えていたと、記憶を探りながら、インナーカラーは目を擦った。瞼が重いように感じられ、インナーカラーは思考を放棄し眠ることにした。




「…………」

外を流れるダクトの音を除けば、聞こえるのはシャワーから発せられる水音だけだ。

ボディウォッシュに石鹸を含ませ、ごしごしと体を擦る。新しい剃刀を取り、手で顔に泡を付けて顔に刃を当てた。

顔から首、背中、肩と刃を当てていく。刃に湯を当て、剃り落したものを洗い流す。手首をぐりぐりと回し、剃り残しがないか確かめる。次いで、腹と腰、足回りを剃る。

肌を光に透かす。インナーカラーには、刃のあたった部分の肌の色が明るくなったように感じられた。地毛が黒いのだ。一度全身を流してから、思い出したようにインナーカラーは小さな鋏を取り出した。下腹部と鼠蹊に刃を当て、任意の長さにそろえる。インナーカラーは鋏を洗い、刃を振って水を切った。

再度ボディウォッシュを手に取り、インナーカラーは脇腹を洗った。肋骨が薄い皮膚越しに感じられる。インナーカラーは泡だらけの体に触れた。細い腕、肉付きの良くない薄い身体。

もう少し。こういう時に考えるのはそればかりだ。もう少しなんだというのだろう。体は小さくはならないというのに。インナーカラーはシャワーのコックを捻り頭から湯をかぶる。

髪を洗い、コンディショナーを塗りたくった。白い髪は痛みやすい。内側のためさして気になりはしないが、やはり見てくれは良いに越したことはない。

髪を流し顔をぐしぐしと擦ると、インナーカラーは髪を絞ってバスルームから出た。体を拭き、髪を乾かす。インナーカラーの髪は、内側になだらかに湾曲している。そのカーブが映えるように切られているので、インナーカラーは整えられて鏡に映る時間が一番綺麗だ。見てくれがいいというのはこの街の一般的な評価基準だ。それでもインナーカラーは他人にこの姿を見せる気はなかった。一番美しい姿は自分だけが知っていればいい。見栄っ張りな人間の多いこの街では珍しく、インナーカラーはそういう物の考え方をする人間だった。

鏡に向かい合い、インナーカラーは口の端を釣り上げた。化粧水を塗り、乳液を紅のように唇に引いたインナーカラーはタオルを放って、下着を身に着けた。そのままクローゼットに入り、隠し部屋の服に袖を通した。

金ボタンが光る生成りのシャツだ。カフスにも同じ金ボタンが二つ並んでいる。インナーカラーは自分の姿を鏡に映した。鏡の向こうでは、上機嫌な黒髪が誇らしげに胸を張っている。似合っている。体に沿った服を着用するだけでこんなにも人間はまともに見える。インナーカラーは声を殺し、くつくつと笑った。

インナーカラーは服を脱ぎ、クローゼットから出た。クローゼットの中にかかっている古いグレーのピンストライプシャツに袖を通して襟を整える。

ファウルカップのバンドに風を通しているとアラートが鳴ったので、インナーカラーは洗濯機へ向かった。コートの洗濯が終わったのだろう。インナーカラーは、乾燥の終わったコートを、分厚いハンガーにかけて干した。強い繊維で織られた混ざり合わない白黒の生地は均整のとれた幾何学模様を描く。インナーカラーは嘆息した。どこへ行ってもどんな時間でも周りと溶け合わないダズル迷彩色のコートは、メニーアクスのブラウスとインナーカラーの意図を外界から覆い隠す。

インナーカラーは椅子に腰かけ、コートが冷めて生地が固まるまでをじっと眺めていた。





目を覚ましたインナーカラーは、見覚えのない天井に気が付いた。明かりも家の丸いシーリングライトではない。目を開けて静かに見回す。脳が回転を始め、だんだんと記憶が戻ってくる。そうだ、追ってくる誰かから地下を逃げ回っていて、たしか便所に潜んでいたはずだ。それでもここは地下の便所ではなさそうだ。というか、随分と広い。明らかに本来の目的で使用されていないであろう穴だらけのレストルームの比ではない。

催眠ガスでもまかれたのだろうか。目が覚めたのは僥倖だったと言える。いや、そのまま目覚めなかったほうがいっそ幸せだったかもしれない。それはどこまでも仕方のないことだ。インナーカラーは奥歯を噛みしめる。

立ち上がろうとして体が動かないことに気が付いた。椅子か何かに拘束されているようだ。なれない人間の犯行なのだろう、変なところに力がかかっている。インナーカラーは肩関節の心配をした。無理に抜けたら外れてしまうかもしれない。

「あら、インナーカラー、お目覚めかしら」

扉が開き、聞き覚えのある甘ったるい声が響いた。インナーカラーは顔をしかめた。

「ボブヘアード、君か」

「いい加減、協力する気がないのなら姉様に近づくのをやめてくれないかしら」

離しながらボブヘアードは近づいてくる。先に届いたのは温度の低い風だ。扉が開いた時に吹き込んできたのだろう。だが、インナーカラーは風の通る感覚に身震いした。寒い。

「……待て、コートはどこだ? リズを呼べ、私のコートはどこにある」

インナーカラーは話を聞かずに、再度立ち上がろうとした。

「そうね、その姉様からいいことを聞いたのよ。あなた、既成の服が入らないからそんな格好して町を駆け回ってるんですってね」

可愛そうなものを見る目でボブヘアードはインナーカラーを見た。実際に、何度か憐れむような言葉を吐いたが、それがインナーカラーの耳に入ったかどうかは定かでない。

「ボブヘアードには関係のないことだ」

インナーカラーはぬるい空気の流れが肌を撫でる気持ち悪さに耐えた。

「関係あるわ。あなたがあまりに姉様に関わるから、姉様もあなたのことを気にかけている。でも、そんなこと私は許さないわ。あなたは私たちと違うもの」

「違うのは当たり前だ。私もお前もリズも別の人間だ」

「でも、姉様はいまだあなたを諦めずにいるわ。私気付いたの、あなたが、私たちと同じになればいいんじゃないかって。気付いたかしら、新しく生まれ変わるあなたに、私からの些細なプレゼント」

インナーカラーは自分の体を見た。首の大きく開いた丸襟のシフォンブラウス、ベージュのバルーンパンツ、なぜか靴と靴下はそのままだ。インナーカラーは絶句した。

「大きい服を都合してもらったの、似合っているわ。ずっとこうしてみたかったんでしょう」

体の入るサイズの流行りの服。インナーカラーが昔欲しがって結局手に入らなかったものだ。インナーカラーは目を見開いた。レディーメイデンが漏らしたのだろう。心の中でリズに悪態をついておく。そうして、目を細めると首を振った。こんなのはクソッタレだ。『インナーカラー』の人生への冒涜だ。

「そうだが、私は他人と同じ服を着るのにはもう嫌気がさしている。コミュニティの中でドングリの背比べをするように個性を競い合うのも、好きだからとずっと同じものを着続けて流行遅れと言われるのも、逸脱して異分子として排除されるのも、もうごめんだ。過去のリズは私を既存の型にはめることこそが私の救いになると信じていたようだが」

唸るような低い声でインナーカラーは言った。無理に腕を引き抜き、椅子を蹴って立ち上がる。紐が、足元へ落ちる。

「自分と違う格好をする私が怖いか、ボブヘアード。怖いだろうな。お前はずっとぬるま湯に浸かって、何も考えずに生きてきたんだ」

インナーカラーは後ずさったボブヘアードの手を掴んだ。力を込めると、手の中が軋んだ。命乞いをするボブヘアードをじっと見て、インナーカラーは足の指であらねばならぬ理由を思い出した。指を折ってしまうと縫製工場へは送れない、ただそれだけのことだった。

縫製工場へ送ろうが送るまいが、自分で布を縫えるようになった今のインナーカラーには関係のないことだ。服飾に関わる人が少しでも増えれば、メニーアクスのようなファッションブランドが育つ基礎ができればと、最初は確かにそう思っていたはずだった。だからあの日インナーカラーはレディーメイデンと一緒に夜の街へ飛び出した。そのはずだったのに、もうそれも惰性でしかない。インナーカラーはボブヘアードに目を向けた。燃えるような目には虚無と後悔と身を焦がすような絶望が渦巻く。それを覗き込んだボブヘアードは悲鳴を上げた。

インナーカラーは掴んだボブヘアードの手を引いた。よろめくボブヘアードにインナーカラーは顔を突き合わせた。

「お前はデザイナーだったか。……リズの妹分だ、手は勘弁してやる」

インナーカラーは首を摘まんでねじり上げた。ボブヘアードの口から甲高い呻きが漏れる。耳元のため非常に煩い。

三つ小さなあざを作って、インナーカラーはボブヘアードの足を払って膝を折らせた。これで、今着ているような服はしばらく着られないだろう。

この国の人間は服なしには生きていけない。魂が求めてやまないのだ。服を着ろ、対峙した相手の網膜に刻み付けてやれ、自分という存在を全世界に知らしめろ、と。そしてそれはどうやら自分も同じことのようだ。この国の人間は、服を着ることから離れられない。転んだボブヘアードの肩を固め、インナーカラーは問うた。

「私のコートはどこだ」




コートを取り戻したインナーカラーはリズを探して歩いた。リズはインナーカラーに仕事を斡旋しようとするが、インナーカラーはそれを断り続ける。当たり前だ。メニーアクス社は倒産し、類似のウェアを扱う店舗はついぞ現れなかった。インナーカラーには帰るべきコミュニティがない。

リズベスは大衆向けだ。レディーメイデンは自分の育った文化を後世に残すような仕事をしている。大変結構なことだ。だが、自分にはそれはできないだろう。大衆向けにメニーアクス社のようなものを作る? ノーだ。そんなことはできない。自分が着れないものを作るなど言語道断だ。だからと言って自分向けのサイズで作れば、メニーアクスの二の舞になることは明白だ。リズは友達だ、友達に迷惑はかけられない。

リズの好意に応えたいとは思うが、自分にできることと言ったら、人間の指を折って縫製工場送りにすることくらいだ。それもいつかは限界が来るだろう。

いや、それとももう来てしまったのだろうか。服飾にこだわる事で保たれていた社会性は、指折りを躊躇わなくなったことでゼロになってしまったのではないか。インナーカラーは唸った。このままではだめだ、新しく何かを始めなければいけないのはわかっている。工場生産のメニーアクスブランド品だってこのところ入荷が少なくなってきた。救いはなく、自分は服から逃れられない。それだけはもうどうにならないことだ。それでも、何をすればいいかがわからない。




「インナーカラー!」

「グッドアフタヌーン、レディーメイデン。邪魔してるよ」

リズが部屋に戻ってきたのは日付が変わった頃だった。リズが部屋に入ると、インナーカラーはソファに腰かけてテレビを見ていた。

「うちのボブヘアードが迷惑をかけたようで」

「本当に。サイズの合わない服を着せられたのがとても迷惑だった。風邪をひくかと思ったよ」

「よく言っておくわ……ところで、何か用だったんじゃない?」

膝を抱えて変わり映えのしないニュースを見ているインナーカラーにレディーメイデンは目を向けた。

「いいや」

用事がないわけがない。おそらくインナーカラーはこの時間までレディーメイデンを待っていたのだ。しかし、レディーメイデンがその理由を問いただすことは躊躇われた。本人が言いたくないと言っているのなら聞かないでやるのもやさしさだろう、レディーメイデンはそれと知らずインナーカラーを追い詰めた前科がある。

「…………何か食べる?」

「そうだね、もらおうかな」

レディーメイデンは立ち上がった。インナーカラーはそんな彼女の背を目で追った。

気を使われているのはインナーカラーにもわかっている。インナーカラーはその気遣いに応えるすべを持たない。冷蔵庫を覗いているレディーメイデンの背中を追いながら、インナーカラーは何でもない事のように声をかけた。

「レディーメイデン、リズベスのウェアは素材に対して機動性が悪い。これは自慢なんだけど、私の着ている服のほうがよほど動きやすい。そうだね、ティーンもターゲットにしているなら何とかしたほうがいいんじゃない」

「インナーカラー。気付いてる?私がレディーメイデンだったころと同じこと言ってるわ」

「そう?」

「そうよ。ブランド名が違うだけ。それで、改善点は?」

レディーメイデンは机にチーズとビスケットを置いた。インナーカラーはビスケットを受け取り、もそもそとかじった。

「肩と袖の接続が悪い。もう少し袖を膨らませるべきだ」

「それ、パターン引ける?」

「なぜ聞く? 引けないわけが……」

インナーカラーがはっとして、口に手をあてる。しまったと思ってももう遅い。レディーメイデンは微笑んだ。

「いや、何でもない。聞かなかったことにしてくれ」

「作品の応募、何時でもお待ちしておりますわ、インナーカラー先生」

レディーメイデンはおどけて笑った。インナーカラーの顔にかっと朱がさした。

「うるさい、私は帰る……邪魔したな」

インナーカラーは乱暴に帽子を掴んで立ち上がった。かけてあったコートを羽織り、首元まで閉める。レディーメイデンは頬を膨らませてビスケットをつまみ、玄関の扉が開かれるのを見ていた。インナーカラーは今夜はもう戻っては来ないだろう。いつものことだ。ビスケットが割れ、ぱりぱり音を立てた。

レディーメイデンは出ていくインナーカラーの背を見送る。もう一枚ビスケットを手にとって、口へ運んだ。戸口で、インナーカラーは立ち止まった。レディーメイデンは顔をあげた。人型に切り抜かれたシルエットは、薄暗闇を背に、躊躇うように振り返った。響いてきたのは、先ほどとは打って変わって小さく弱々しい声だった。

「すまないリズ、君は……いい奴だ」

去り際の一言にレディーメイデンはビスケットを取り落した。既に扉は乱雑に締められ、部屋の中には『また来る』の一言とビスケットの転がる乾いた音だけが残っていた。

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インナーカラー 佳原雪 @setsu_yosihara

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