#20 これが僕の悪魔だ

 クルスとの念話は途絶える事は無かった。それどころかますます高度化していった。光景から抽象的な想いまで伝えたりやり取りしたりもできた。

 例えばこんな日があった。ギムマルグ社支所入り口の、日光の照らされる静かな部屋で、クルスと僕はただただ見つめあっていた。それだけで今日起きた事やクルスの今日の出来事がなんとなく伝わってくる。僕はただ宿題をやっていただけだし、クルスも普通に授業を受けていただけだ。そんな何でもない光景の、空気の味や、匂い、人々の揺れ動く波動がただひたすら伝わってくる。新しい感覚で物事を味わうからか、なんでもない日常がただただ愛おしく思えてくる。それがクルスと見つめ会う事だけで得られる感覚。まるで恋人のようだと想ったらクルスはふふふと笑った。それともこれは、恋のおかげなのかな。

 特別寮の中は基本的に宿題生活である。たまたま宿題を終えた者同士でトランプなどの遊興を行う者もいるが、僕はケイブと話す以外にとくにやりたい事などなかった。 一応元聖歌隊のフレデリック・マルジャーマンも寮の中にいるのだが、どう話しかけていいのか分からないし、聖歌隊になろうとして失敗した人です、なんて自己紹介はかっこ悪すぎるので気が進まない。

 すし詰めの宿題以外は野外の散歩しかなかった。学校に行こうと思えば行けるが、所詮忌むべき者として扱われるのでよほどの奇人以外は行きたがらなかった。厳密に教典で彼らに絶対触れてはならないとは書かれていないのだが(なるべく避けるべきとは書かれている)、もはやそういう暗黙の了解ができていたのは言うまでも無い。そして僕は国語の宿題をする。文中の人物の心情について僕はあれやこれや思いを馳せながら文章を書き綴る。まもなく処刑されるベルーイの気持ちについて答えなさい、そりゃ文章に書かれているだろう、と思いながら適当に連ねていく。クルスはどうやら校庭でスケッチをしているようである。(あら。)クルスは言った。(いつの間にそんな事ができるようになったの。) 僕は気づいた。ここにクルスはいない。校庭ということははるか遠くの筈である。(人のプライバシーを覗くなんて) ひい、ごめんなさい。(ははは、あなたがそこまで成長するとは予想しなかったわ。) 僕が特別寮でこの宿題をしている最中に、校庭の人と会話しているなんて、誰も思いもよらないだろうな、と僕は思った。もしも、これを無知な人が知ったら、悪魔の業と呼ぶのかな、と思った時、ああ、自分は単に偏見で否定されていただけなのか、という事を悟る。「悪魔の」声ではなく本当に聞こえてたのだと。

 そしてある日、久しぶりにネイスンが面会に来た。マルデナから紙を受け取ったので僕は大急ぎで面会室に向かう。ネイスンは僕を観て嬉しそうな顔をする。 「久しぶり。サリア。」

[久しぶり。ネイスン。]

そして二人は向かい合わせで座る。 「なんか見張られていたんだけど、こっそりトイレ行くフリしてなんとか逃げおおせたんだ。元気にしている?」

[元気だよ。]

「よかった。あのさ、」ネイスンは手短に用件を伝えようと焦っている。「声を取り戻す方法、まだ分からないんだけど、でも御業集の中に取り戻した人がいる事が書かれていた。」

 そうなのか?と僕は驚いてネイスンを見たが、ネイスンはなんだか残念そうな表情だ。

「でも、それは、どうやら理由もわからず声を取り戻したらしくて、それで悪魔の業を身につけたと見なされ、悟者たちにすごく残酷に殺されたんだ・・・」

 ああ、やはり、と僕は思った。アリュヌフの民と自称する人たちは、高みに達していると思いながら自分の理解できない事象に異常な恐怖を抱くのだ。

[一体彼らの中で本当の信仰者はどれくらいいるんだろうね。] という文をネイスンに見せたら、「サリア・・・?」と驚いた顔で僕を見つめる。

[気にしないで。] 僕は文を書き直して見せる。

「・・・クルスとは何の話をしているんだい?」ネイスンは訊ねた。

 僕は [今やおおよそ言葉にならない事ばかりで・・・] と書きかけて、ふと、ネイスンにも語りかける事はできるんじゃないかと思い至った。僕はネイスンを見つめる。

「サリア・・・?」(君、なんか妙だ。変わった?)

 ネイスンの心の声と同調した。さあ、いくぞ。僕は変わった、いや、変わりつつある。聴こえるか、この声が。

「どうしたの?」(どうしてそんな、僕を、見つめるの、やめて。) ネイスンの目に映る僕の表情が、とても不気味に見えている。あまりにも、何もかも突き通そうとする眼差しに見えるらしい。そんなつもりはないんだけどな。大丈夫だよ。僕は君を受け入れているんだ。

「サリア?」(大丈夫?え?)

 聴こえてきたらしい。

「・・・。」(なにこれ、サリアの声?)

 そう。

(え?・・・・え?)

 ネイスン、これが僕の悪魔だ。見えないものが見え、聴こえない声が聴こえる理由。

(どういうこと?わからない、これは僕が勝手に考えているのかな、サリアかこっち見てるから、勝手に妄想しているのかな。)

 僕は急いで文字に書いた。[落ち着いて。妄想じゃない] ネイスンは後ずさりした。「サリア・・・そんな・・・」その尋常じゃない狼狽えぶりをみて、しくじった、と僕は思った。どうやらやってはいけなかったらしい。僕は会話板に文字を書いて見せた。

[ごめん。二度としない。]

 ネイスンはそれをしばらくみて、少し落ち着いたのか、椅子に座りなおす。

「いや、大丈夫、つまり・・・・」ネイスンは考えながら話していた。「君は人の心が読めるようになったし、それを伝える事ができるようになったわけか。」

 ああ。そうだ。と言おうとしたが、そういえば、クルスは出会った時僕に念話で伝えようとしなかった事を思い出した。あれはわざとなのかな。(わざとよ。)クルスの声が入ってきた。もうややこしいな。

「君、どうなってるの?」ネイスンは混乱した。

 僕は会話板に書いた。[この事は深く考えないでくれ。僕も今研究中なんだ。そして黙ってくれると助かる。]

 ネイスンはこくりと頷いた。

(馬鹿ねえ。相変わらず。)クルスの笑う声。(でも持たない人に語りかけるまでいったんだ。すごいね。) そしてクルスの声はしばらく途絶える。

 自分でも、自分の成長の度合いが分からないな、と僕は思った。そしてやっぱり、不用意に驚かせてしまうし、人前であまりこの事を表に出さない方がいいみたいだ。

 そう思いながら僕はただ世界に胎動する流れを感じながらそれを表に出すまい、出すまいと努力をする。宿題を進めるが、色んな事が聴こえたり僕を圧倒したりでなかなか頭の中は混乱している。文字もかなり激しい筆跡になっていて驚く。途中ペンを持ち損ね、机の上にころころと転がる。あっと思って手を机の下に置くと、ペンは机の下から、右斜めにむかって落ちて手の上に丁度収まった。僕は驚いてその机を見つめてしまう。一体、自分に何が起きているのだ。一体自分はどこに向かってるのだ。全てが都合よく向かっている気がして恐ろしくなる。それってアリュヌフの神の教えからしたら罪深い事だ。クルスは一体自分をどこに導くつもりなのだ ろう。彼女が悪魔とは思えない。だが、どんどんと自分自身が異質な存在になって いく気がして、恐ろしくなる。

 そして夏休み直前、前期終わりに向かう明くる日。風の吹く丘の上でそういえばなぜ、ネイスンだけに念話が聴こえたのか、落としたペンはなぜ自分の方に向かっていったのか、少しだけ理由を考える事にした。最初はクルスと念話ができた。クルスとネイスンとの関係の共通点は親近感であろう。ペンは自分にとっての道具だ。これも親近感だ。

 もしかしたらクルスは彼女への恋心が、彼女と同調したい気持ちがこの読心の力を発揮させたのではないか、と僕は思い立つ。ケイブが聴こえなかった時に彼女は言った。

「そりゃ疑いながら見たって見えるわけないでしょ。」

 読心には愛情が欠かせない。するとネイスンも同じように読めた理由が分かった。僕はネイスンのように愛していないがネイスンを愛している。力には対象への愛情が欠かせないようだ。すると物事の原理は愛でできているのではないか、と僕はふと思い立つ。

「サリアは悪魔に憑かれているとは思えないんだ。」とネイスンがいったのも、それは理屈ではなく僕への愛故である。愛というのは相手を生かしておきたい生産的な感情なのだから、たとえ理屈じゃなくても、正しい方向に導く可能性はあるんじゃないかと思う。生かしたい気持ちが、生かす方向に実現化するからだ。というか、教典でも愛を肯定していたじゃないか。愛は世界の流れである、と。そしてその愛の流れをアリュヌフの神が決める・・・・。

 そこまで考えて僕は混乱した。なぜ、愛の流れを神が決めるのだ。望まない結婚が起こる事を、クルスを観てもわかるではないか。そうだ。観業集の中でも死んだ人がいたじゃないか。結婚を拒否して死んでしまった人。その望まない結婚は誰によって望まないのか。その問題を悟者たちは不協和音と決めて罰していた。本当にそれは不協和音として罰するべきなのか? 不協和音と呼ばれた者の意思は、神の中には存在しないのか? 自分が一度死を試みてわかったことがある。もしも神が望まれないのなら死ぬしかない。そういう事がまかり通っているのがこの学院の世界だ。僕はそれでも生きている。異常になりながら生きている。僕の存在は生きねばならない。なによりも死を強制する世界は、理由は分からないが異常な気がした。

 では、愛とは何なのか? アリュヌフの神が決めるのか、自分が突き動かされる自然 のものなのか、アリュヌフの神、アリュヌフの神って何だ? お前は一体誰なんだ?アリュヌフの神? 僕を制定する、お前は、一体、誰だ、いや、違う。そうでない。僕は最も危険な結論が今、脳裏に浮かんだ。




『アリュヌフの神は、神ではない。』




・・・・・・気持ち悪い、気分が、吐き気が、やばい、嗚咽、苦しい、何かが喉にこみ上げる、うえ、押さえる。しかし手からあふれ出る。黒い。黒い液体。草むらに僕は黒いドロドロの溶液を大量に吐いた。それは止め処ないように思えて、吐きながら青ざめ、怯えた。「ゼエ・・・ゼエ・・・」僕は喘ぐ。何だこれは。血ではなさそうだ。血の割にはあまりにも黒すぎる。濃縮して溶かされた炭のようだ。胸の中で空気が触ってくるような感じがしてすこし痛い。あまりにスッキリしたような快感。僕は空を眺める。ああ、何かが僕の身体から消えてしまった。アリュヌフの神を否定した、その時に。


”おめでとう。”


 声なき声がその時、始めて、いや、久しぶりに僕に語りかけた。


”お前は自分を鍛えるため、自分に相応しくない器に入り、苦しみ、今解き放った。お前は自由である。お前を束縛する者は、いない。”


「あなたは、一体、誰なのですか。」僕はそう叫んだとき、声無き声が消えるのを感

じ、同時に、自分の叫び声があまりにしゃがれた声である事に衝撃を抱き、そして ようやく自分は、声を取り戻した事に気づいた。風が吹き、草むらが揺れる。「あー。」 もう一度声を出して見た。かつての少年の澄んだ歌声の面影など無く、まるでヤス リを擦ったような荒れた声。声を取り戻したはいいのだが、もう、かつて聖歌隊を目指していた、純朴な自分は死んだんだと、そう気づいたときに、僕は黒い吐瀉物の上で、静かに涙をこぼした。風は吹く。木の葉は揺れる。学院の灰がわずかに舞い散り、 夏はまもなくやってくる。

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