第47話 明日の朝が来るまでに

 空に、島が浮いている。

 それは、まさしく大地をくりぬいてきて、そのまま空に浮かべた様にも見える風景だった。

 ――天鱗同盟、協定首都イーノルボン。

 石造りの建物が無数に並ぶ巨大な都市の中央。I.D.E.A.の人間が測れば地上一キロもない高さに、その“島”は浮かんでいた。

 島を囲むように建てられたひときわ高い周辺の建物からは桟橋が伸び、羽蛇や木でできた空船がまばらに行き来している。

 その“島”を上空から見れば、地上と同じように綺麗に管理された木々や草花がその表面を彩り、巨大な建物群がひしめいているのが解るだろう。

 誰もの目を引くその存在は、竜人、翼人ともにイーノルボンで暮らすものであれば誰もがその正体を知っている。

議場カルタド・コンベンタ

 政府機関、軍司令部、および同盟議会を集約した建物群が存在する、浮遊島。

“議場”の名は、天鱗同盟……すなわち、翼人と竜人が旧時代に相互扶助のために設けたかつての巨大な会議場に由来する。

 かつて巨大な地揺れや自然災害で大きく被害を受けた反省から、現在は土台ごと宙に浮いているのだ。

 空を飛べる翼人にはなんの不便もないが、竜人は空船や羽蛇を使わねばならないので『魔力の無駄だ』とたびたび批判を向ける巨大建造物。完成からまもなく五十年を迎えてもなお空に在り続ける存在は、現在の翼人と竜人の力関係を表してもいた。

 その中枢、いくつもの組織と会議の頂点に当たる、“翼竜会議”にて緊急の案件が報告されていた。

 竜人部族長会議から選ばれた竜人の代表が三人、翼長会議から選ばれた翼人の代表が三人。

 三人同士が対面するように席に着き、その入口側に報告者の初老の翼人男性が立っていた。


『ご覧の通り、ムルタール街道、ベムント街道、ナブートス街道上の、全部で三カ所。いずれも同程度の巨大な穴が空いています』


 議員たちの視界に術式で映し出されているのは、首都と主要都市を結ぶ三つの街道に大きく空いた穴。

 翼人の官吏が上空から見た視覚を術式として記録した映像だ。

 それは、“流星”が落ちてできた穴だと言う。

 流星の破壊力は凄まじく、轟音で首都の翼人竜人は皆飛び起き、近くの奴隷小屋は木の葉の様に吹き飛んだとか。

 幸いだったのは、夜間であったため隊商などの大規模な人の行き来がなかったこと。そもそも、首都をはじめとした街に当たらなかったことだ。

 被害といえば近隣の畑が軒並み使い物にならなくなり、魔力源たる人間どもが減りそうであることと、地面を這う竜人たちにとっては、大幅な迂回を強いられて迷惑だというところ。

 だが、見た目の衝撃は議員たちを動揺させるには十分だった。その上、まったく彼らの想像を超える言葉が、届けられていたのである。

『この前日、人間どもの長とみられる念が、この事態を予言しています。その上、新たに辺境駐屯地から上がってきた情報なのですが――』

 報告者がそう前置きし、議員たちの視界から映像が消える。

『流星が落ちた直後に、新たに辺境駐屯地に届けられた念があるようです。送られてきた物を、術式でそのまま再生します』

 報告者の念の後、次いで届いたのは別の存在の念。

 劣化してやや不鮮明なところはあるが、確かに意味を持った言葉の羅列だ。


『――こちらは、人類。アルフ・ルドラッド帝国です。昨夜、星を三つ、貴殿らの街道の上に墜としました。

 先にもお伝えしましたように、これは警告です。貴殿ら魔の者どもが、これ以上帝国の領地や臣民への侵略を行うようであれば、我々はさらに数多の星を貴殿らの街に降らせることになるでしょう。どうか諸君らの賢明な判断を期待します』


『以上が、辺境駐屯地へ届けられた念です。確かに現地の被害状況としましても、確かに自然災害と考えるには無理な点があります』

 再び議員たちの視界に術式で映像が映される。

『上空から確認した図ですが、それぞれの穴を直線で繋いだ場合、二辺が等間隔の三角形を描くことができます。その上、この“議場”を加えれば全ての直線が等間隔となり、正方形を描くことができます』

 机上には首都の地図の上に反映させた地図が置かれる。

 そこには、明らかに知性ある何者かの意図が介在したと思われる、正確な図形が描かれていた。

『以上の点から、我々同盟政府としては、今回の“流星事件”に、狩猟保護区の人間ども、ひいては先の強行偵察作戦が強く関連していると推測しております。この件について、狩猟保護区、およびかの“空船ども”への、今後の同盟の方針を議員皆様方から判断を頂きたく存じます』

 すべての報告を終え、翼人の男性は一歩身を引く。翼人や竜人の名だたる名士たちは、かつてない事態に困惑を隠せないままポツリポツリと議論を始める。

『にわかに信じがたい話だとしか、言えんがね。仮に私が信じても、民や兵たちが信じるものか』

 最初に念を発したのは壮年の翼人の男性。

『同感ですな。仮に何者かが墜としたとして、御大翼ですら触れられぬ星を、どうやって墜としたというのです?』

 この中では最も若い竜人議員も、濁った笑い声とともに同意を示す。

 自分たちに隷属している“人間ども”を当然のものとして扱う彼らにとっては、まさに信じがたい事実だ。

『だが、かの空船の連中はそれを叶えるのだろう。天の御遣い、だったか』

『三万の将兵を食い殺した狂犬どもか。空から降ってくるような連中なら、やりかねん』

 ならどうするのか。誰かの問いに、最も好戦的で知られる竜人種最大の部族、ガバール族の長は言い張る。

『首都に守護結界を張り、同時にただちに外征軍全軍で討伐へ向かうべきだ。空船どもを叩けば、星も落ちぬだろう』

『馬鹿者が。全部でどれだけいて、どれだけが保護区に入り込んでおるかもわかっておらんのだぞ。目の前に見える連中だけを討ったところで、どこから次が湧いて出るかもわからんのだ』

『ならば、湧いてきた端から叩けば良い。魔力源の家畜どもは溢れんほど満ちたと聞いている。狩りながら殺せばいい』

『それができん相手だと言うことをもう忘れましたかガバール老』

 ガバールの族長は戦場から離れて長い。その頭脳はかつて兎人族との戦争にもならぬ虐殺で名声をほしいままにしていた時代のままなのだろう。周囲の議員たちはいつものことだと半ば呆れ、受け流しながら討議を進める。

『隠密寮からの報告では、土煙とともに一瞬で二百が吹き飛んだという。今回もそれに類する技が使われたのだろう。見えぬ攻撃は防ぎようがない。クメル軍司は防御術で防いでから場所を推定し羽蛇で叩くと言っていたが、あれはどうなったか』

『第一分団の……ゾール・ジンダの嫡男だったか。アレが言っていたはずだ。「光の後、炎と轟音が立ち上り、本隊の気配がまるごとかき消えた」と。クメル軍司の策は破れたのだろうな』

『どれもこれも、曖昧な話ばかりか。まるで霞を羽で扇いでいる気分だよ』

 空気が淀み始める。答えが見えない。

 議論が一巡、二巡し、念が散漫になり始めた、そんな時だった。


『――諸君』


 声が、空間を叩いた。

 重く響く念。同時に空気は唸り声のような震えを伝える。

 瞬間に議員たちは皆一斉に念を静め、誰もが背筋を伸ばし、その“声”に聞き入った。

 ただ畏れ、敬い、平伏すべき存在。

 翼と竜の同盟。その結節点となる、

『諸君が智慧を出し合う中で、失礼する』

 導きの翼龍。その者の声だ。

『ここまでの話は聞かせていただいた。家畜を増長させるばかりの“空船ども”には、いずれ天罰を与えねばならぬは明白。しかし、どうすればそれができるのかという手段が一向に見えておらん』

 導きの翼龍は、ここまでの議論をなぞるように告げる。

『大群で一斉に立ち向かわねば勝てぬ相手か? それとも、少数で長く戦えば倒せる相手か? そんな簡単なこともわからぬうちに、兵力を浪費するわけにはいかぬということは、やはり諸君らの総意のようだ』

 そして、それを叶えるためにどうすればいいのか。

 同盟の象徴にして、最大の権力者は告げる。

『敵地に忍び込ませた間者と協同し、攻め手を見つけるのだ。

 攻めねば、敵が何もしてこぬと言うのならば、好都合と見るべきであろう。向こうから仕掛けてこぬのならば、その間に牙を研ぐのだ。全ては、それからであろう』

 それは、数人の議員から出た案。導きの翼龍は、それこそが最善手であると導きの助言を下す。そして、

『今ここで、何もかもを定めるのは早計である。まずは、敵を知れ。これこそが諸君らへの導きである』

『はッ!』

 そして、念の気配はかき消えた。再び眠りについたのだろう。

 偉大なる存在の余韻に議員たちは各々頭を垂れ、そして告げられた導きを軸に、議論のとりまとめにかかるのだった。



「なるほどな。……奴らの報告に大きな嘘はないようだ」

 アルフ・ルドラッド帝国。ヴィルマニカ城。

 皇帝の居室の一つにおいて、ゼナルド・ヴェルトナード五世皇帝その人は密偵からの報告書を置き、小さく嘆息する。

 先の大規模防衛戦において、I.D.E.A.と征伐軍は大勝利を収めた。その報告に虚偽はなかったのか、改めて皇帝直属の密偵に調べさせたものだ。

 皇帝は未だI.D.E.A.に対し、警戒心を抱いている。

 たびたびティルヴィシェーナを通じて無理難題をふっかけてくる連中だ。特に、征伐軍を懐柔するために聖導騎士団から人員を寄越せと、ティルヴィシェーナ自身が先陣を切って殴り込んできたときはまったくどうしたものかと困惑した。

 今回の戦いはある意味、その権益を奴らがどう振るうのかと注目していたのだが、

 ……まともに使っている、ということか。

 多大な出費となるはずの大規模な正面戦闘をこなし、一方で彼らが得る利権は従来の約束の範囲に収めているようだ。

 皇帝にはむしろ、正直すぎるその動きが不気味で仕方がなかった。

 何か尻尾を出せばつるし上げることもできるが、なかなかその様子はない。むしろ、一部では馬鹿正直と言えるほどおおむね善政を敷いている。

「よくやっているようではありませんか。どこか不穏な点はありましたかな」

 皇帝の腹心である老宰相が同じ書類に目を通し、皇帝に問う。

「ないのが問題と言うべきか。つまり、我々の目が節穴であるという証左であろうからな」

 自分たちが見えていないものは存在しないと断言できるほど皇帝は愚かではない。

 見えぬところで“何か”は進んでいる。そう考え、備えておかねばいずれ帝国に災厄をもたらすことになるかも知れない。

 臣下はゲフォンと同じ。息を合わせ、堂々と任せ、しかし最後まで手綱は離すな。それは、かつて西方の大規模反乱を速やかに鎮圧した三代目皇帝の遺訓でもある。

「はは、陛下は手厳しい。確かに、あれほどの厄介をやられて頭から信用するのは愚かに過ぎますが」

「そうだ。征伐軍までもその手中におさめ、我々を恫喝してこの国をいかようにもできるはずの相手が、馬鹿正直にこちらのために働いているのだ。これほど不気味なこともあるまい」

 やがて反旗を翻して、帝都へ攻め入る。皇帝にはそういう未来がはっきり見えている。

 あの、魔龍すらしのぐ兵力をもって、奴らは何をしでかす気か。

 真実は分からない。だが、最悪の事態を“想像”し、備えることはできる。

「今後の対応は、どうなさいますかな」

「文句を言わぬうちは、奴らにはせいぜい戦ってもらうとしよう。だが、いささか元気に過ぎるようでもある」

 ティルヴィシェーナ。先代の献身の巫女。特にあの少女は、I.D.E.A.の連中に傾倒しすぎているきらいがある。

 完全に取り込まれてしまう前に、こちら側に引き戻さねばならないだろう。

「手綱を、引かねばなるまいな……」



 魔の者どもを撃退したニュースは、ザッフェルバルの中でも特に早く駆け回った。それは、最前線の街、ルタンでも同じだ。

「あの山の向こうで大きないくさがあったんですと」

「へえ。あの地響きの正体はそれかい」

「かみさまがたのやることはいちいち派手で飽きないねぇ」

「しかしなんだ。魔の者どもがすぐ近くまで来たって言うじゃないか」

「馬鹿言え。征伐軍だけじゃなくかみさま方がいらっしゃるんだ。」

「そんなに強いのかい。かみさまは」

「そりゃあもう。そのへんの商人は何人も助けられてるよ。空から落ちてきたかと思えば、魔物や盗賊はあっという間にノされちまうって具合さ。そんなかみさまが魔の者どもなんぞに負けるはずない」

 気楽で、無責任に飛び交う言葉。そんな街の人間の噂話を耳にした少女は、ふわりと視線を空に上げる。

「……かみさま、元気かな……」

 空にはかみさまのお兄さんがいるのだと。見上げた黒い点には、かみさまのお兄さんが時々乗っているのだと。

 この間までいなくなっていた黒い点は、今日はまた空に浮かんでいた。



 ルバスが三等法官に任じられ、ルタンで訓練を積んでいたある日。

 総督府から召集が来た。

 なんでも大神将を領都に招き、大々的な祝勝会をやるのだとか。警衛隊の優秀な法官も多く会に参加するほか、警備の名目で各地の法官も呼び寄せるらしい。

 一体どういう理由でひよっこのルバスが選ばれたのかはわからないが、ともあれルタンの数人の先輩とともに領都へ行くことになった。

 ……領都……総督代行……。

 もしかしたらお顔を拝見することすら叶わないかも知れない。

 でも、自分もその近くへ行けることだけが幸せだった。

 ティルヴィシェーナ・カンネ・ユーディアリア。

 気弱そうで、ぼやっとしていそうな少女。なのに、そうそうたる法官を前に、一歩も引かず激を飛ばして見せた傑物。

 領国教導官にはとても見えないその身で、けれども自身を法官にするための秘奥の法儀を堂々と謳って見せた本物。

 ルバス程度では届かないかも知れない。

 でも、いつかそこへ。



 I.D.E.A.と征伐軍で合同開催された祝勝会は盛大に執り行われた。

 ファドル・リフオン城塞ほかで何度かの派手な宴会はあったが、中でもザッフェルバル城で開催されたものは最も格式張った会となった。

 城内の巨大な迎賓の間を貸し切っての立食パーティ。本来の家主であるザッフェルバル家当主の少年もいるが、この晩餐会の中心に立つのはやはりティルだ。

「貴様らは運がいい。このような腹の据わった総督が引っ張っておるならば、ザッフェルバルもしばし安泰であろうな!」

 大神将がゲラゲラと機嫌良く大笑いしながら、遠慮容赦なくティルの背中を叩く。

「~~~!! え、ええ。ありがとうございます。閣下にそう言っていただけて誠に光栄です……」

 叩かれるティルは、極力痛そうな表情にならないよう必死に愛想笑いを取り繕っているようだった。

 そんな彼女の努力の甲斐あってか、周囲の人間はティルの様子には目もくれず、“偉大な大神将に気に入られる自領国の総督”という図にすっかり酔いしれているようだった。

 大神将は、曲がりなりにもそれだけの位にある傑物だ。

 彼のために仕立てられた絢爛にして豪華な大神将の威光を示す将軍服と、腰に差した宝剣“征伐の剣ゲルトコーズン”を当然のように身につけ、まさに相応しい威圧感を放つ人間を前にすれば、誰もが理解するのだろう。

 彼は本物なのだと。

 その彼にいたく気に入られているティルの姿を見ることで、周囲の人間の反応は明らかにティルへ好意的な物となる。

 特に総督府の老人たちは権威に弱い。明確に反発する勢力は未だ存在するものの、様子見をしていた陣営が徐々にティルに付きつつある。

 これはある意味、総督府内の中立陣営を一気に味方へ引き入れるための宣伝戦略なのである。

 ……ということだから、がんばれ。ティル様。

 それも仕事だから、と。和貴は助け舟を入れたい気持ちをグッとこらえるのだった。

 ……でもマジ痛そうだなアレ……。

 レファさんに湿布でも渡しといた方がいいかな、と思いながら、和貴は会場内の見回りを続ける。



「お兄お疲れっ」

 すれ違いざまに、明里が手を挙げる。

「お疲れ。頑張って」

 和貴もすぐに手を差し出し、ぱしん。と明里と手を打ち合わせた。

 統合作戦本部に通訳要員としてかり出されていた明里とは、ここしばらくずっと顔を合わせていなかった。

 久々の再会だったが、今も彼女は通訳の仕事中。

 翻訳法儀が通じないうちのお偉いさんには、まだまだ通訳は必要だからだ。

 ……うん。頑張れ、明里。

 自分より、もしかしたらずっとよくできた妹。頼もしい背中に、和貴は小さく笑みを得る。



「そうそこでずばーんってやってやったのよ。ずばーんって!」

 八智の威勢のいい声に、和貴は不意にその姿を探す。

 すぐに見つかった。降下軍陸戦隊の正装で、威勢良く身振りを交えて話す八智と、周囲には同僚らしい陸戦隊の仲間たち。

 彼女は確か翻訳法儀が通じたはず、と見てみるとザッフェルバルの法官たちと何やら話しているらしい。

 先日の戦果だろうか。八智たちはいつも最前線で苦労をしているから語ることも多いのだろう。

 法官たちも実に興味深そうに頷いていた。

 だが、不意に一人の若い男が口を開く。三十代ぐらいだろうか。そこそこ腕に覚えがありそうな彼は、

「女であるにも関わらずまったく素晴らしい武勇だ。カンダ殿。どうだろうか。今度、俺と決闘をしてみないか?」

「えっ」

 その一言に八智は一瞬でフリーズする。というか傍で聞いていた和貴も一緒に固まった。

「そうだな。俺も興味ある。今の話が本当なのか確かめさせてくれよ、お嬢さん。……まさか嘘だなんて、言わないよな?」

 決闘を持ちかけた法官の友人らしき男も、真偽を見極めようという探りも込めて八智を煽る。

 ……あ、これは八智先輩……。

「やっ……やったろーじゃん! まとめてかかってこいやー!」

 和貴の思った通り、八智は見事に挑発に乗った。

「えええええ八智ちゃん待って考え直してお願いだから!」

「面白そうじゃねーか! なあタケ。パワードスーツつけたらやっちーでも結構いいとこ行くだろ?」

「……うむ」

「竹橋くんも! うむじゃなくてとめてー!」

「熊野……いっそもう諦めよう。なるようにしかならんぞこれ」

「三宅さんはあきらめよすぎですよっ!」

 ちょっと外交問題になりそうだった。

 和貴は自分で仲裁しようかなと一瞬思ったが、考え直して満葉を連れて来ることにした。安全第一。めんどくさい問題からは逃げるに限る。

 満葉からは「あのバカ……」とすごい嫌そうな顔をされた上、力及ばず決闘は改めてルールと日時を決めることになった。

 和貴はまた似たような胃痛のタネが発生しないことを祈るばかりだった。



「よ、腹黒」

「なんだぼっちメシ」

 和貴がかけられた声に振り向くと、案の定直哉が暇そうにしていたので、適度に嫌そうな顔を向けてみる。

「おう。寂しすぎて男に声かける有様だよ。少佐はあの通りだし、ヘタレは五秒で消えるし」

 少佐は征伐軍の法官たちとご機嫌だった。ヘタレこと結城少尉は行方不明で、こういう会だとよくあることらしい。

「本音ダダ漏れだな……」

「で、どうよ。そっちは」

「悪くない。領国の日和見どもは大半がティルにごまをすりはじめた。ティルとザッフェルバル家のちびくんとの関係も良好だ」

「そいつは上々。仕事は楽しんでやってっか」

「ああ。悪くない、かな。直哉は」

「天下無敵のエース様に振り回されて疲労困憊よ」

「ははっ。だろうね」

「おう。だが悪くない。今はまだ、な」

「……今はまだ、ね」

 含みのある言葉。それが示すのは、

「こっちの商売は結局、外交官様の手腕次第だからな。見通しは」

「サイコロの出目を待ってるところだよ。航宙軍の軌道爆撃は成功した。追加の犯行声明と脅迫文も送った。あとは向こう次第」

「ビビるかキレるか、さてどっち、ってことか」

「そうだね。……忙しくなったらごめん」

「半ギレでわめきながらひいこら働くから覚悟しとけ」

 冗談めかしたその言葉には、しかし戦争屋としての確かな自負があった。だから和貴も外交官として同じく返す。

「りょーかい。その時はまた派手な晩餐会で労うよ」

 直哉の実に嫌そうな表情がまた傑作だった。



 そうして平穏無事に晩餐会は終わりを告げる。

 賓客の見送りを終えて裏方が走り回る中で、ティルは一足先に自室へ戻った。

 仰々しい総督儀典正装をレファたち侍女の助けを得てすっかり脱いでしまうと、身軽な室内着へ着替えてしまう。

 皆には晩餐会の後片付けを手伝うように言って部屋から出てもらうと、

「ふぁ……ぁ……」

 ティルは自分のベッドへ飛び込んだ。

 誰も見ていないからいい、と自分に言い訳をしながら寝具の柔らかさに身を沈める。一人だけの時間の、少しばかりの贅沢だ。

 ……疲れた……背中が痛い……。

 改めて大神将に思い切りはたかれた背中の痛みを自覚し、ティルは思わず背中をさする。

 悪い人ではないのだけれど、少しばかり加減の効かない困った人。だけれど、いま味方をしてくれる人の中で、帝国内の発言権が最も強い人でもある。

 後々の立ち回りを考えるのなら、今後も近くに置いておくべき人間――そう背中を押してくれたのはカズキだった。

 事実、大神将への覚えをめでたくしようと、ティルに友好的な態度を取る老人たちの姿はそれを如実に現していた。

 今回の大戦果もある。総督府内は少なくとも、これで目立った反発は抑えられるはず。征伐軍とザッフェルバルとの協力も少しずつ進むだろう。

 問題は、

 ……魔の者ども。

 敵と交わした言葉。その断末魔まで、ティルは脳内ではっきりと再生できた。

 また繰り返すのだろうか、と少し背筋が冷える。わかり合えない相手を、わかり合えないと断じ、殺す。

 これから一体、何度繰り返せば終わるのだろうか。

 ……カズキさん。

 初めて協力を持ちかけたあの日。カズキは“もし戦端を開いたなら、魔の者どもを滅ぼすことになる”と言った。それは“大虐殺”だとも。

 だから、ああして言葉を交わした。見下され、馬鹿にされ、まったく悪意なく家畜と切り捨てられても食らいついた。

 追い打ちのように脅しの言葉を伝え、いまはただその結果を待つばかり。

 ……本当に、これでよかったんでしょうか。

 結果など、はるか未来にしか分からない。カズキが言う言葉だ。チキュウの歴史も、帝国の歴史もどちらも語っている。

 時の為政者が良かれと思って起こした行動が、時に成功し、時に失敗し。後世から見れば当時とがらりと評価が変わったりもする。

 わかっていても不安は募るばかり。だから、ティルはメールを打ち始めた。不慣れな手つきで、ニホン語の辞書と例文を開きながら。



 晩餐会は終われど、主催側の裏方はまだまだ忙しい。

 I.D.E.A.外交部儀典室、そして総督府の面子は未だに片付けに奔走している。

 帝国や総督府との折衝をその任とする和貴たち大陸南西課も、総督府の侍従たち同様に手伝いに駆り出されていた。

「あら。カズキ様」

「レファさん。どうも」

 和貴が城の廊下でレファと顔を合わせたのは、そんな時だった。

 知らぬ仲でもない。軽く会釈をして隣に並ぶ。

 しばらく隣り合って歩くうち、どうやら目的地までの道のりはしばらく同じようだ、と察した時だった。

「確かに、あの時のあなたの言葉通りでした」

「……すみません。あの時のって」

 さすがにあまりに唐突だったので、和貴は即座に白旗を揚げる。わかったつもりで生返事をするのがまずい話らしいことだけは察したが、いつの話だっただろうか。

「彼女の背を支えると」

 言われてようやく思い当たる。皇帝に初めて謁見した日のことだ。

 たしかに、あの時レファに「ティルを支える」という旨の言葉を伝え、彼女もこうして同道することになったのだ。

「あなた個人はまだまだ信用に値しませんが」

「うぐ」

「あなたの属する組織が、ティル様を守る意思と、力を持っているということは、信じてもいいと思えました」

「それは、……ありがとうございます、ですかね」

 和貴の言葉にレファは肯定も否定もせず、話を続ける。

「でも。国とは時に身勝手なものです。帝国もそうやってティル様を棄てたのですから」

 それを言われれば否定のしようがない。

「同意します。僕個人の力では、どうにもできないことがある」

 本音を伝えると、ギロリと睨まれる。

「だから――だからあなたは信用ならないと申し上げているのです」

 レファの言葉に、和貴はようやく彼女が言いたいことを理解した。

「…………ああ。確かに、おっしゃる通りです」

 意志があっても、力がない。いや、意志すら明確に示してはいない。

 そうだ。どれだけ言葉を尽くし、心を尽くしたとしても、和貴は未だ組織の駒でしかない。

 和貴はティルの味方ではない。

「ティル様は、あなたを信頼されています。事あるごとに、カズキさんは、カズキさんなら、とおっしゃいますから」

「ええ、それは……」

 ありがたいことだと思う。外交官として、相手方の信頼を得ることができたということだから。

 しかし、レファはそれ以上を求めているのだ。

「私の半生はあの方とともにありました。いまさら、この生き方を変えるつもりはありません。この身に代えてもあの方をお守りします」

 だから、とレファは言う。

「もしもあなたが組織のくだらぬ都合とやらでティル様の敵になるのなら、私はこの世界の誰よりもあなたを恨みます。どうか、心にお留めくださいませ」

 おそらくは、これまでで一番の睨みが効いた言葉。

 和貴は少しの怯えを混ぜた愛想笑いを浮かべ、去っていくレファを見送るしかできなかった。

 その姿が見えなくなってようやく、和貴は一つ大きなため息をついた。

 ……キッツイな。

 その言葉は、無慈悲なほど正確にティルと和貴の現状を言い当てていた。

 和貴は確かに、I.D.E.A.の側の人間だ。ティルと触れ合う機会を得たところで、軸足は明確ににある。それは、自分自身の領域を守るための一線だった。

 和貴一人ではできることなど知れている、いざとなれば組織を動かすために組織の中にいなければならない――いろんな言い訳が思いつくが、結局そこから離れるのが恐ろしいだけだ。

 ……信用しなくて正解ですよ。レファさん。

 いよいよの場合は、和貴はティルを見捨てるだろう。そうならぬよう死力を尽くす意志はあるが、I.D.E.A.と敵対して殉死を選ぶほどの覚悟はない。

 そこまで自分の心に愚直になれる自信はなかった。

 けれど、自分がいなくともティルは大丈夫だ、と思う。レファがいればきっと大丈夫だ。

 ……こういう考えが透けて見えるのが、きっと良くないんだろうけど。

 つらつらと考え事をしながら片付けを終えると、不意にワンドのにメッセージが来ていることに気付いた。

 あけぼし艦内と共通規格の通信アンテナを立てまくった結果、ザッフェルバル城も当たり前のように電波が届くようになって久しい。

 いまやルタンや、ファドル・リフオン城塞ともほとんどリアルタイムでの通信が可能だ。

 誰だろう。名前を確認して心臓が跳ねた。

 ティルからだった。



「すみません。夜分遅くにお呼びだてしてしまって。いま薬湯ミュアムを入れますね」

 ザッフェルバル城、総督私室。

 和貴が訪れれば、正装を外し、身軽な室内着になったティル本人が出迎えてくれた。

「こんばんは。こちらこそ」

 なぜか最近、私室にレファを含め侍従たちがいないのだが、不便はないのだろうか。……と思うも、和貴自身は特に不便はないのであえて聞いていない。

 後付けのコードから電気を取った電気ポットに、ティルもすっかり慣れた様子でお湯を沸かし、カップにお湯を注ぐ。

 そこに帝国原産の乾燥した果物や薬草を混ぜたティーバッグを漬け、ゆっくりと抽出する。

 いわゆる帝国でのハーブティーのようなものだ。少し甘みと酸味があって、生姜湯のように身体が温まる。冬場には欠かせない。

 二人で向かい合い、ひとしきり薬湯に口を付けると、ティルが本題を切り出した。

「今回のこと。自分の中でちゃんと整理しておきたいなと思いまして。……カズキさんのお考えも聞かせていただければと」

「なんなりと」

 小さく薬湯に口を付けながら、ティルがぽつりぽつりと語り出す。

「私は……魔の者どもを恐怖しています。もしくは、憎んでいる、のかもしれません」

 それは無理のないことだろう、と和貴も思う。

 残された逸話、実際に戦った人間の証言。先日のルタン遭遇戦での警衛隊の末路は、和貴も映像でも見た。

「それでも、実際に言葉を交わし、言葉を交わせる相手だとわかって……」

「迷ってしまわれましたか」

 和貴の言葉に、ティルはこくん、と頷く。

「私は、人を殺したのでしょうか。それとも、人ならざる何かを……? あれは本当に、手をかけてよいものだったのでしょうか」

 その恐怖は、和貴も少なからず理解できた。

 オベルムと名乗った存在の言葉と断末魔は、和貴も横で確かに聞いていたから。

 ……初めて、ティルが人を殺した、ということなのかな。

 ルタン郊外遭遇戦での警衛隊の一件を警衛長の暴走が原因とするなら、ティルの命で直接人――知的生命体たる竜人を仮にそう定義するなら――が死んだのは初めてかもしれない。

 和貴も意図して記憶の底に押しとどめていたが、オベルムの言葉と断末魔ははっきりと思い返すことができる。

 だが、答えは簡単だ。人間は人間同士ですら殺し合いをやる。その理屈はつまり、

「なら、むざむざ彼らの家畜になる道が正しかったとお思いですか?」

「……それは、違います」

「なら、選ぶ道は一つだった。……大丈夫。間違っていません。仮に間違っていたとしても、僕らも同罪ですから」

「カズキさん……」

 そう。あの場では選択肢などなかった。

 敵が共存を選ばず、どちらかの死か隷属を求めるならば、こちらも拒絶で返すほかないのだ。

 答えなど結局、ない。

 本当の結果なんて、後世の歴史家に聞かねばわかるまい。そして、その時には全てが手遅れなのだ。

 今この瞬間に生きる人間は、自分がいかに愚かであろうとも、自分たちが想像しうる限りの最善手を打ち続けるしかない。

 それは、ティルが総督になってこの方、口を酸っぱくして言い続けた。迷うのは正しい。けれど、行動を起こした後に気に病むのはよくない、と。

 彼女もきっと頭では解っている。けれど心がついてこないのだ。

 だから。

「だから、これは僕の――ただの感想になるしかないのだけれど」 

 どれだけ理屈をこじつけたところで、正誤をつけようのない行為への、ただの一個人の感想を。

「僕は、ティル様はちゃんと、できたと思います」

 いつも通り、背中を押すように伝える。



「そう……ですか」

 ティルには、それで十分だった。

 小さく頬が緩み、背中の重みが嘘のように抜けていく。

 自分自身で何十回と言い聞かせた言葉なのに、カズキが口にしたというだけで。

「えへへ……。そうですよね……」

 頭で解っていたことを、カズキから言って欲しかっただけ。たったそれだけのために彼をここに呼びつけたのだ。

 知識や経験を求めたわけではない。たぶん、その声が聞きたかっただけなのかもしれない。

 でも、たったそれだけが、やはり今のティルには必要だったのだと解る。

 さっきまで味も分からなかった薬湯が、今はこんなに美味しく感じるのだから。

 ……私は、だめですね……。

 色んな人に頼ってばかりで。自分で自分を奮い立たせることもできないなんて。

 借りてばかりで、何を返せただろう。

 ……カズキさんには、何をしてあげられたのだろう。

 思い、そして不意に気づく。

 カズキの望むこととは、一体何だっただろう、と。

 I.D.E.A.のことは、丁寧に教えてくれた。本来なら、交渉相手たる帝国に漏らしてはならないはずのことまで「ティル様なら黙っていてくれますよね?」と悪戯っぽく笑って。

 けれど、彼自身のことは。

 これだけ頼った恩人のことは、何も。

 ……私は、この人のことを、何も知らないんだ。

「カズキさんは――」

 気付けば、唇は動き出していた。

「はい」

「私は、カズキさんのために何ができますか?」

「僕の願いは、あなたの願いを叶えること。それが僕らのためにも――」

 ……違う。

 いや、違わないだろう。それもカズキの本心の一つだ。

 でも、その奥にまだ何かがある。それを知らなければ、きっとずっと借りっぱなしになってしまう。

 だから、踏み込もう。ティルはそう決めた。

「私は……薄っぺらな人間です」

「ティル様……?」

「だから、私はたぶん、生まれたときから刷り込まれた――帝国のために、という役割に、すがることでしか生きていけない。それ以外に何もない、空っぽな人間です」

 まずはティル自身のことを、腹の内を。すっかり知られてしまっているかも知れないけれど、改めて自分の口から語る。

「でも、だからこそ、たった一つのその仕事に、自分の存在する意味を感じています」

 存在意義を。自分で知っている限りの、自分の想いと願いを。

「難しいことも、つらいこともありますけど、それでもこの数ヶ月。皆さんと一緒にザッフェルバルの総督をやらせてもらって、もっと何かをしたいと……私たちの足下に、背後にいる皆さんを守り、ここで暮らす皆さんのために、何かをしたいと思うようになりました」

 だから。

「だから、私は今でもここにいます。ここにいて、帝国のために、臣民のために、何かできればと思って、私、ティルヴィシェーナ・カンネ・ユーディアリアはここにいます」

 教えて欲しい。

「カズキさん」

 あなたの。

「“カズキさんの”願いはなんですか」

 あなた自身の。

「カズキさんは、どうして私を助けてくれるのですか」

 願いは。

「どうして、あなたの――I.D.E.A.のために、働こうと、思うのですか」



 踏み込まれてしまった。それが和貴の偽らざる本音だった。

「僕の、願いは……」

 言うべきか、言うまいか。嘘は得意だ。自分を偽るのは、特に。

 どうでもいいことで飾り、言うべきことを隠せば、それだけで場は流れる。

 適当に耳障りのいい何かをでっち上げてしまえば、彼女は納得する。

 だが、止めた。

 レファの言葉がきっかけになったかどうかは分からない。

 あるいはティルの言葉に、それだけ重みを感じたのかも知れない。

 ……よし。

 ひとつ息を吸い、和貴は覚悟を決めた。

 彼女ならきっと。そんな身勝手な期待に背を押されるように、

「僕の願いは、この世界の色んな風景を見て感じることです」

 少しずつ、言葉を選ぶ。

「帝都や、領都や、フーダ城塞、ファドル・リフオン城塞――これまで見たもの以上に、この惑星の見たことない景色を、見に行きたい」

 本当の願いの綺麗な部分。ここまではきっと分かってもらえるだろう。

「そのためにこの世界そのものを平和にしたい。自由で安全な交通の確保。そのために魔の者どもとも、一刻も早く和解の道を見つけたい」

 ……でも、ここからだ。

 帝国を愛する彼女は、許してくれるだろうか。

 帝国を存在意義そのものとする、彼女は。

「そして、叶うなら。僕はこの土地で暮らしたい。僕と僕の仲間がこの星に、この土地に、根付いていく足場を創りたいと思っている」

 ゆっくりと、過分な願いを告げていく。

 和貴たちはあくまで客人。この星には存在しなかった存在だ。それを、

「帝国に訪れた旅人、客人としてではない。住民としてこの土地で生きて、――帝国から独立した安全な領地をこの土地に得たい」

「……!」

 ティルの表情にも流石に小さな動揺が走る。

 それは侵略、あるいは征服を企図した言葉だからだ。

 ……当然、だろうな。

 本当ならば秘匿すべき、I.D.E.A.の真の意図。

 じわじわと既成事実を積み上げて、可能であればなし崩し的にザッフェルバルをそのような地域として認めさせようと考えていたのだ。

「もちろん、ここが君たちのかけがえのない土地だと言うことは、解っている。それを力任せで奪うことが、間違ったことだということも。だから、できるだけ真っ当な手段で、この星の土地を得たいと思ってる」

 慎重に言葉を選ぶ。露悪的にならないように。けれども、偽善にならないように。

「他に手段がなければ、どんな手を使うことも厭わない。言い訳はしない。僕は、僕のために、君たちの庭に僕らが暮らす場所を創ろうとしている。ここで暮らし、この星を自由に旅する日を手にするために」

 それが本音。

「だから僕は、I.D.E.A.のために働く。――例え、組織の都合で、ティル様を利用することになっても」

 そうして和貴は、取り返しのつかない言葉を終えた。



 きれいもきたないもまぜこぜの本音。

 ティルの予想を超えた言葉。それはきっとカズキだけでなくI.D.E.A.の奥に隠れた真意の一端でもある。

 ……帝国の支配の及ばない、独立領。

 薄々感じてはいた。客人である彼らの領域には、帝国は常に一歩踏み込めずにいた。

 だが、彼らはその領域を広げ、土地までもそうしようというのだ。ならばそこに在る住人は? 帝国だった場所は、どうなるのか。

 ぐるぐると思考が巡るが、ティルはそこで一旦止めた。

 ……いま大切なのは、そこじゃない。

 ティルが聞いたのは、カズキの本心だ。

 彼はそれを答えた。もっとこの世界を見たい、と。

 そのために魔の者どもを抑え、帝国から土地を、権利を奪い去ろうとしている。

 きっと嘘はない。ここまで過ごして来た時間がティルにそう確信させていた。

 ……なら。

 ティルは、少しだけ迷う。

 帝国を大切にしたいという願い。それは今も変わらない。

 けれども、和貴の言葉を信じるならば、もう一つの願いは、それと相反する未来を招くかもしれない。

 ……私は、どうしたい?

 だから、今浮かんでいる言葉は、きっと今までの自分からの決別になる。

 すぐに大きくは変わらない。けれどもしかすると、結末を大きく違えることになる。

 本当にいいのかと自分に問う。何度も問う。しかし、迷う意志は、結局のところ肯定に小さく傾いたまま動かなかった。

 あの日、命を救ってもらってから、今日までずっと歩き方を、手の伸ばし方を、大切な物のつかみ方を教えてくれた人が。

 追っても追っても、どこまでも追いつけなかった人が。

 ……私のわがままで、全部を晒してくれたのだから。

「私は、帝国と臣民を大切に想っています」

 それは大前提。おそらく、ティルの中で生涯揺るぐことのない軸。

「だから、I.D.E.A.の皆様が帝国に仇を為すなら、きっと私は全力で抵抗します」

「……ええ。存じております」

「でも」

 でも、だ。

 難しいかもしれないけれど。もしも叶うならば。

「……?」

「私はあなたの願いのために、できる限りのことをしたいです」

「え……?」

「自分のため、帝国や臣民のため。それだけでなく、私を助けてくださった、カズキさんのためにも」

 これは恩返し。

 自分の願いのため、力を尽くしてくれたカズキへの。

 帝国のために。その想いは変わらない。

 その中で、自分もできることをしたい。帝国を捨てて、とまでは言えないけれど。

 けれど、カズキ一人のためぐらいなら、きっと。

「だから、どうか――」

 自分も精一杯頑張るから、

「これからも私を助けていただけませんか。帝国のためでも、総督代行のためでもなく、ティルヴィシェーナのために」

 ……私のわがままも、聞いてくれませんか。


* 


 和貴は息を呑んだ。

 ティルの真っ直ぐな瞳。少し震えた手。

 和貴の突飛な言葉に、彼女が打ち返してきたのは、真っ直ぐな取引。

 和貴がいつだかに教えたとおりだ。相手が欲しがる利益を差し出し、自分の要求を叶えろ、という原則そのままの。

 ……あなたと私のために、か。

 それは、ともすれば彼女の目指す道を踏み外すかもしれない言葉。

 だからこそ軸足は失わない、と前もって宣言するのが彼女らしくもある。

 ……まったく。ああもう、まったく。

 軸足は失わない。けれど、互いにできることを尽くす。

 それは、お互いのこれまでを写し取るようであり、しかしまったく違う場所へ踏み出すための言葉。

 和貴が見えていなかった――見ようとしていなかった自分を、突きつけられる言葉でもある。

 ……そう。僕も、君の力になりたい。

 自覚させられた……あるいは、再確認させられたと言うべきか。

 この子の行く先を見てみたい。それ以上に、その頑張りに手を貸したい。

 初めて助けたあの日から、和貴はずっとそうだったのだから。

 「わかりました」

 だから和貴は、まるで根負けしたように笑う。胸の内に湧き上がるものを綺麗に覆い隠そうとして。

「僕は――僕のできる限りで、僕のために頑張ってくれる、あなたのために、力を尽くしましょう」

 これは密約だ。

 I.D.E.A.と帝国。どちらをも少しだけ謀った、壮大な悪巧み。

 だから和貴は思いつきで言ってみる。小指を差し出して、指切りげんまんという儀式があって、と。

 伝えるとティルは嬉しそうに小指を差し出した。その指に、和貴も小指を重ねる。

 そしてここに、二人だけの密約は成った。


「約束、ですよ」

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