第1-5話 灰色を照らす赤

 世界が、灰色に染まっていた。


 暗い。思わず空を見上げる。あれほど目映い橙色を放っていた太陽はどこにもなく、空は暗灰色の雲に閉ざされている。雲なのだろうか? どこにも切れ目のない平面的な空間がどこまででも広がり、周囲を影で覆っている。太陽がない代わりに灰色の空は薄ぼんやりとした燐光を放って世界を暗黒から救っている。


 静かだった。


 休日開放でグラウンドを使っていたはずの東中生、蒲小の子供たちの声も、車のエンジン音も、一切が消え去っていた。


 ――次元断層の隙間。通常空間と隔絶された、閉鎖空間。


 脳裏に、そんな情報が流れ込んだ。


 なんだこれは。いつからの俺の人生のジャンルは学園ものからSFへと切り替わったのだ。


 そんな俺の混乱に拍車をかけるように、それは現れた。青く光る、2mほどの人影。内部から光を放つくすんだコバルトブルーの痩身。目鼻立ちもなく、ただのっぺりとした、影絵から飛び出してきたようなモノ。


 だから、何なんだ、これは。

 俺の目の前で、人影は腕を振り上げる。

 緩慢な動きで振り下ろされたぬいぐるみの手のようなそれが、不釣り合いなほどの鈍い音を立てて周囲の墓石を3つほど半ばまで叩き折った。


 そんなアホな。


 いみじくも武道の類を齧っている身として断言できる。あれは異常だ。あんな腰も入っていないふわふわとした一撃にどうやってあれだけの破壊力があるというのか。いや、こんな悪い夢みたいな世界の中でファンタジーなバケモノに対して物理法則を説くのがどうかしているのかもしれないが、それでも俺はまだニュートン先生やアインシュタイン先生のしろしめす法則下の住人でいたかった。


 待て待て待て。何だこれは。何なのだこれは。涼宮の言動にあてられて、過去のトラウマがフラッシュバックを斜め方向に起こして俺の五感がありえない何かを見せているとでもいいやがるのか。


 頬を盛大につねってもなお冷めないこの灰色の悪夢空間の中で、俺は早々に踵を返して墓地からの脱出を図った。師匠よ、無事生きて帰れたら褒めていただきたい。勝ち目のない武は振るうべからずにょろよ、があなたのインストラクション・ワンだったからな。


 だがしかし、数歩進んだところで俺の歩みは無情にも強制停止を受けることとなった。冷凍庫から出しっぱなしになった保冷材のようなぶよぶよとした感触。どこからどう見ても透明な空間に、見えない壁が存在して俺の逃走本能を全力で拒絶してくれやがったのである。


 巨人に向き直り、その様子を警戒しながら左右へと手をやる。残念ながら壁はどこまでも伸びて、抜け穴などないようだった。しかも、巨人のいるあたりを中心に弧を描くように「壁」は存在しており、壁に触れながらカニ歩きをしたところぐるりと一周して元の場所に戻るありさまだ。


 脳内情報曰く「閉鎖空間」というらしいこの謎の悪夢時空を抜け出そうと俺が四苦八苦している間に、巨人は瓦割りを黙々と義務的に繰り返す空手家めいて墓石を砕いてまわっていた。世の怨霊のみなさん、あの罰当たりに祟りを起こしてくれまいか。そんな願いもむなしく、破壊活動は続いていく。


 と。俺は、自分が今立っている場所の違和感に気づいた。


 ちょっと待て。この場所、さっき最初に俺が「壁」にぶちあたったときには、「壁」の向こう側じゃあなかったか?


 俺の疑問を裏付けるように、巨人が派手な粉砕音を響かせるのと合わせて、俺が触れていた「壁」が、わずかに外側へと動いた。


 間違いない。この空間は、広がっていやがる。おそらくは、あの謎巨人が何かを壊すのと連動して。


 ――閉鎖空間は彼女の内的世界に眠る「世界の可能性」の卵。

 ――中で雛が暴れ、殻がひび割れれば、新しい世界が解き放たれ、元の世界を食い尽くす。

 ――閉鎖空間が元の世界を塗り替えれば、世界は作り変えられる。


 まただ。また、俺の脳内アナウンスが謎のSF情報を直接思考に叩き込んできた。


 って。ちょっと待て。なんだそのツッコミどころしかないけったいな設定は。

 アレが暴れたら暴れただけこの謎空間が広がって、放っておくと世界が滅びる?


 ふざけるな。そんなのは、もっと、マッチョでハリウッドな人間とか夢見がちな女の子を巻き込んでやってくれ。

 俺はもうそういうのはすっぱり諦めて、平々凡々に可愛い女の子つかまえて普通の青春をあいつの分まで謳歌すると決めたのだ。


 なのに、なんで。そういうトンデモ設定を一番望んでいて、けれど、触れられなくて変人扱いされて世界に絶望しちまうような奴を放っておいて。俺みたいないい加減なクソ野郎の前に、出てきやがるのだテメェは。


 脈絡のない思考。行き場のない怒りの熱を、呼吸に乗せてゆっくりと吐き出す。


 何で急にやる気になったかって?

 決まってる。灰色世界の中心で電動芝刈り機の如く墓石を薙ぎ倒してやがった野郎がたった今腕を振り上げたその先にあったのが、さっき俺が花を手向けたばっかりの、昔の知り合いの墓だったからだ。


 これが夢だろうが、現実だろうが。それが物理法則を蹴っ飛ばして謎のスーパー墓石割をやらかすバケモノであろうが。ようやく穏やかに眠れるようになったアイツを叩き起こそうっていうなら、こっちにも取るべき態度がある。


 すみません師匠。腕っぷしがちょっと強くなっただけでクラスメート一人守れなかったあなたのクソ弟子は、あなたとの約束すら守れませんでした。


 振り下ろされる腕は緩慢だ。割り込むのは難しいことじゃない。


 岩をも砕く破壊力。それは、いくら相手がオカルト謎バケモノ巨人野郎であろうとも、速度と質量によるものであるはずだ。ならば、速度が遅いなら質量がデカいはず。


 足腰に揺らぐ様子なし。崩し技は望み薄。迫りくる腕。真正面から受け止める? 馬鹿か。墓石みたいに背骨ごと折られておしまいだ。ならば。せめて。遅さを信じて、その軌道を斜めに受けて逸らしてずらす――。


 が。は。


 巨人の一撃を受け流そうと触れた瞬間、息が、奇妙な音を立てて歯の間から漏れた。関節という関節が軋みキャパシティオーバーを盛大にアピールする。重い。なまじ人型をしていたから甘く見ていた。これは、生身で立ち向かっていいようなモノじゃない。遅いからこそ絶望的なほどの猶予をもって圧倒的な圧力が半身に襲い掛かる。受け流す? これを? どうやって? プロレスラーの前に蟻が立ちはだかって進路を変えようとするようなものだ。


 けれど。あの日は守れなかったのだ。その場にいることさえできなかったのだ。あいつを追い詰めたものに、触れることさえできなかったのだ。


 今は、その場に、俺は立っているのだ。立って、触れる、殴れるものが、敵なのだ。


 それに。世界がお終いになるのに、最後に見たのが涼宮のあんな顔だなんて、笑えない。


 だから、守らないと。俺はヒーローなんかじゃない。空が飛べるわけじゃない。光の弾丸が出せるわけじゃない。輝く刃で敵を一刀両断できるわけでもない。

 それでも、こいつの前に、立ちはだからないと――。


 ――その申請を、承諾する。


 激痛が、灼熱が、腕を焼いた。灰色の世界を裂くように、赤の光が瞬いた。

 ぴくりとも動かなかった巨人の腕が、逸らされ、あいつの墓石の脇の石だたみを砕く。


 今までこちらのことを気にするそぶりもなかった巨人が、初めて俺を向いた。注意を引けたのをいいことに、体をずらして墓石から奴を引き離す。


 俺の腕からは、現在進行形で赤い光が漏れ出していた。漫画やアニメなどではよく見る、そして現実にはありえない、オーラだの気だのが溢れ出すイメージ。


 それが、「守るための力」であることを、俺はなぜだか、理解できてしまった。


 わかってるさ。俺の理性はそれがトンデモな妄想みたいな非現実的なもんだと警鐘を鳴らしている。けれど、その電波的妄想の産物が、あいつの最後の居場所を守る役に立つんなら、今の俺にはそれだけで手持ちのチップ全額賭ける価値がある。


 頭が痛い。世界が揺れる。思考が分裂して、視界はノイズ混じりだ。この非常識な状況に脳が悲鳴を上げているのか、それとも謎の赤い光に気力を食いつぶされているのか。


 巨人が両の手を振り上げる。OK。そういうことなら、こちらも――


「なるほど? それが、君の能力っていうわけだ。でも、それじゃあ5秒後君は死んじゃったよ?」


 と。

 ぐい、と襟を掴んで俺を引き寄せた闖入者の声に、俺は聞き覚えがあった。


 振り下ろされた巨人の両腕から俺を救い出したのは、俺の腕のそれと似たような赤い光を目に宿したこと以外、昼休みに飯を食ったときと同じ胡散臭い笑顔を浮かべた級友、中臣だった。

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