~芽生え~

 しかし、だからといって、男子トイレの個室に連れ込むのはどうかと思います、先輩。

 個室というのは、本来一人で入るものであって、複数で入る場所ではないのです。

 狭い。二人で立てる広さではないので、僕は洋式の便座の上に座らされている。

 ……完全に、いじめの現場ですって、これ。

「東雲」

「は、はい!」

「その……」

 だが、そこまで言って、先輩は口ごもっていた。先輩自身、どう言っていいのか、考えてなかったみたいだ。

「あーと、その、なんだ」

 先輩は僕を見たり、目をそらしたり、怒ってみたり、困ってみたり、顔を赤くしてみたり、一人で百面相をしている。

 さすがに僕も口を挟めずに、じっと先輩の言葉を待った。

 ためらって、迷って、口を開きかけては閉じて、最後には困ったように――笑った。

「無理だ。本当は、怒ってやろうと思ったんだけど、東雲相手じゃ無理だ」

 先輩が僕に覆いかぶさるように、抱きしめてくる。

「ちょっと充電させて」

「充電って、先輩……」

「肉充電」

 なんていうネーミングセンスだ。

「部屋に戻ったら、東雲がいなくなってたから、すごく不安になった。嫌われてたらどうしようって、朝までずっと悩んでた。怖かった。でも――やっぱりお前の顔見たら、そんなこと、どうでもよくなって」

 僕の胸に顔をうずめながら、『東雲の匂いがする』とすりよってくる。

 いつものように、脂肪を堪能しているというよりは、本当に何かを充電しているかのようだったので、僕は抗わなかった。

 かといって、ずっと抱きしめられているだけなのもなんなので、どうしようかと頭を上に向けて少し考えた後、先輩の頭を静かになでてみた。

 一瞬驚いたのか、先輩の動きが止まったけれど、すぐにまた顔をうずめて、僕を強く抱きしめていた。

 先輩の髪は、柔らかくて、少し気持ちが良かった。

「……先輩、この前はすみませんでした」

 気づいたら、自然とそんな言葉が零れ落ちていた。

「ん」

 先輩は、それだけしか言わなかった。それだけで、許された気がした。


***


 チャイムの音が聞こえる。もうすぐ、HRが始まる。

「よし、充電完了!」

 名残惜しそうに、最後にぎゅっと抱きしめられると、先輩は僕から離れていく。先輩の体温がふわりと、抜けていってしまった。

「あ……」

 先輩と、視線がかみ合う。互いに沈黙する。

 この前と同じ体勢になってしまった。先輩も僕も、それを意識しているのか、互いに身動きが取れない。

 怖い、のとはまた違う。でも期待でもない。しいて言うなら、これは……好奇心?

「しない、んですか」

「それ、本気で言ってるのか、東雲」

「よくわからない、です」

「わかっててやっているなら、鬼だな、お前」

 先輩がもう、降参とでも言わんばかりに両手をあげて、立ち上がる。

「しないよ、今は。お前が俺のことを、『先輩、好きです。愛してます』って言ってくれたら、する」

「なんで、自分でそんな絶望的な条件出しちゃうんですか」

「ええ!? 絶望的ってほどじゃないだろ。東雲だって、もう俺のこと、好きなくせに」

「それはちょっと、保障しかねますね」

「えええ、だって今、めちゃくちゃいい雰囲気だったじゃないか、東雲のバカ!」

 壁に向かって、先輩は泣きまねをしている。

 滑稽な様子に、僕も思わず笑ってしまった。

 本当に、この人には敵わないな。

「ほら、もうHR始まりますよ。っていうか、もう始まってるんじゃないですか」

 先輩の背中を押して、二人で個室から出る。

 廊下まで出ると、もう誰もいなかった。教室の中からは、クラスのざわめきと、先生の声が聞こえる。

 案の定、間に合わなかったようだ。今から中に入ると、目立ってしまうし、少し待とう。あとで崎田から、どんな内容だったか聞いておかねば。

 ぼんやり、廊下に立ちつくしていると、隣から先輩が僕に向かって言った。

「東雲。今日からは、放課後、部活に行っていいぞ」

「どうしたんです。藪から棒に」

「今週は予定が入ってな。会えそうにない」

 会えないから、稽古に行っていい?

 おかしいな。理由になってないぞ。あれだけ稽古を嫌がってたのに。

 けれど、こちらには拒む理由もないので、僕はうなずくしかない。

「そうなんですか」

「寂しい?」

「だから、なんでそういう言い方を」

「俺は寂しい」

 首だけこちらに向けて、先輩が微笑む。

 本当は嫌いだったんだ、この角度。上から見下ろされてるって、嫌でも思うから。

 でも、そんな顔されたら、こっちだって強く出れない。

「……ま、まあ、たとえ先輩でも、誰かいなくなるのは、ちょっとは、その寂しいとか、思わないわけでもない、ですけど……」

 我ながら、表現がひねりすぎていて、何が言いたいのかわからない。

 先輩は僕の頭にポンと手を置くと、廊下を走っていく。笑顔で手を振りながら。

「じゃあ、またな、東雲!」

 僕はどうしようか迷って、ちょっとだけ、手を振り返した。

 先輩からは、投げキッスが返ってきた。

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