第五章「東雲、覚悟する」

~混乱~

 所も日付も変わって、今日は月曜日、ここは学校だ。

「まずい」

 先輩の家で、二回目の卒倒をかましてからの今日である。

 あの後、気を失ってたのは、ほんの数分だったらしい。再び目を覚ますと、そこには誰もいなかった。廊下に出ると、たまたま葉月に会ったので、先輩の行方を聞いたら、こんな答えが返ってきた。

『兄は今、トイレにいるので、気にしないでください』

 ……本当に、先輩には申し訳のないことをした。

 しかも、妹にこんなことを言わせてしまったことすら、申し訳ない。

 恥ずかしさと申し訳なさで、僕は葉月に簡単な挨拶をすると、自分の荷物を抱えて、そそくさと逃げ帰った。先輩には、とてもじゃないが、会える気がしなかった。

 そして、迎えた今日である。

 あれから僕がどれだけ憂鬱だったか、誰にもわかるまい。しかも朝の駅での待ち合わせも、『先に行ってます』とメールを送って、早々に教室に逃げ込んでしまったのだ。

 だって気まずいだろう! あんなことがあった後で、いったいどんな顔をして会えばいいんだ!

「ああ、もう僕最低だよ。いくら何でもひどい」

 机に突っ伏して、盛大に後悔する。仮に、僕が先輩の立場だとしたら、とてもじゃないが立ち直れない。

 同じ男だからわかる。あの場で気絶はない。まだ、拒絶してくれた方がマシだ。

 いや、それはそれで傷つくのだけれど。まだ、気持ちのやりようがある。

 だって、ああやって迫るのって、本当に勇気がいることだろう。

 拒まれるかもしれない、おびえられるかもしれない。どれだけ勇気を振り絞っても、相手がたった一言、嫌と言えば、それ以上は進められない。もししたのなら、それは強姦だ。

 ――強姦? 男同士で、強姦罪って成立するんだろうか。

「うーん」

 実際問題、ホモってどうすんのかな。キスまでは女の子とするのと大差ないだろうけど。

 というか、僕はまあ、そもそも女の子ともしたことがないので、詳しくは知らないけど……まさかAVみたいなアクロバティックなことをするわけじゃないだろうし。

 先輩とAVみたいなことができるのか?

「いやいやいや!」

 無理だ。想像だけで、笑える。いや、まともに想像なんかしたくないのだけれど。

 大体どっちが、入れる、というか男役なんだ? でも、あの流れだと先輩だよな。やれと言われても、僕じゃやり方がわからないし。

 ん、でも、入れるってどこに? 穴がなきゃ入れられないよな。

「穴……って何だよ」

 盛大にため息をついて、前の持ち主が作ったのだろう、机にある小さな穴をシャーペンでぐりぐりとえぐっていた。いつか貫通するかな、これ。

「おはよー、東雲!」

「うわあああああ!」

 背後からかけられた声に、僕は飛び上がる。振り向けば崎田が、片手を上げた状態で固まっている。

「……どした? 俺、なんかしたか?」

「さ、崎田。悪い、先輩かと思った」

「ああ」

 と、苦笑して、崎田が納得する。それで納得してしまうのもどうかと思うが、今回は助かった。

「つーか、あの人、また何かやらかしたのか?」

「悪い。その話題には、今は触れないでくれ。頼む」

「あー、うん、なるほど」

 これだけで通じてしまうのもどうかと思うが、以下略!

「ま、正直、よく続くよな。俺、三日で別れるものとばかり思ってたぜ」

「へ?」

 かばんから教科書を取り出しながら、崎田はノートをうちわ代わりに仰いでいる。

「いやだって、どう見ても付き合い始めが変だっただろう、お前ら。だから――」

 そこまで言って、崎田がまた固まる。

 目を見開いたまま、冷や汗をだらだらと流し始めて、僕を――いや、僕の後ろにある何かを凝視していた。

「だから? どうしたというのだ、崎田少年」

 聞き覚えのある声がする。

 僕はさびついたブリキの人形のように、ぎりぎりと音をたてて、後ろを振り返った。

「元気そうだな、東雲」

 出、出たー!

「せ、せせ、先輩」

 初めて見た。先輩は笑っているが、いつものだらしない笑いじゃない。完璧な笑顔だ。人工的なまでに完璧な笑顔。

 黒い。どす黒いオーラが、うっすら立ち上っている。どことなく、葉月と笑い方が似ているなと思った。やはり、兄妹だ。などと感心している場合ではないのだが。

「あ、東雲。俺、ちょっと便所」

「ちょ、待って、崎田! 僕を置いてかないでーっ!」

「東雲」

 慌てて崎田のあとを追おうとする僕に、先輩が冷たい声をかける。

 僕の名前をそんなローテンションで呼ぶ先輩なんて、初めてだ。嫌だよ、これ、もうアウトじゃん。

 僕は半泣き、半笑いの状態で、先輩に向き直った。

「あ、せ、先輩。おは、おはようございます」

「おはよう。HRまで、時間あるよな? ちょっと来てくれないか」

 もちろん、これは誘いでもなければ、確認でもない。言うなれば、強制、あるいは脅迫である。

 僕に逆らえるはずもない。

「……はい」

 僕の人生は今日、終わった。

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