エトセトラ・プリズム

みやさかみこと

第1話

 みんなは、おかしいと思わないのだろうか。

 それとも、おかしいのはわたしの方なのかな。

 当たり前の日常に違和感を覚えたことはないのだろうか。

 夕焼け空を眺めていると、自分の足元がふわふわと歪んでしまう。

 こんな世界、消し飛んでしまえばいいのに。


 彼がクラスのみんなからイジメられ始めてから、今日で三日目。

 彼の机は油性マジックで書かれた罵詈雑言でメチャクチャにされ、登校してきた彼はそれを見てポカンと呆けてから、しくしくと泣き始めた。

「……ぷっ、泣いてるよあいつ」

「ふつう、あれくらいで泣くか? ダセぇやつ」

 ――あぁ、うるさいなぁ。

 わたしは極力、そういった面倒事に関わりあいにならないように視線を窓の外に逸らして、ぼんやりと青空を見上げた。

「ねぇねぇ陽菜(はるな)、今日の帰りコンビニよっていこうよ。ソフトクリーム、新作出たんだって」

「ふぅん。いいけど」

 幼なじみの香澄(かすみ)は下校時の寄り道を楽しげに提案し、わたしはそれに当たり障りなく適当に返事をする。

 いつもの会話。いつもの光景。

 つい先日まで、このクラスのイジメのターゲットだった香澄も、彼にターゲットが移り変わった今はこうして平和に何事も無くクラスに溶け込んでいる。

 わたしは、香澄がみんなにイジメられている時、なにもしなかった。

 イジメに関わるようなこともしなかったし、香澄を守るようなマネもしない。

 ただ香澄から話しかけられれば適当に返事をしたし、香澄はそれで満足していた様子だった。

 どうでもよかった。

 なにもかもが低次元で、煩わしい。

 小学校五年生という年頃は、無邪気に悪意を撒き散らかし、常になにか変化を追い求める。

 イジメだって一過性のムーブメントに過ぎず、きっかけは大なり小なり些細な理由で構わない。意味もない。

 そんな日常のなにもかもがわたしにはどうでもよくて、自分の身に降りかかりさえしなければ好きにしてくれていればいいと思う。

 ちなみに一時期というか、このクラスが編成されて最初の頃は、わたしがそのイジメのターゲットにされた事もあったけれど、首謀者を突き止めてそいつの頭をトイレの便器に突っ込んでやったらそれっきり、わたしにちょっかいを出そうなんて輩もいなくなった。

 このクラスは、腐っている。

 けれどたぶん、どこの学校も似たようなものだ。

 大人たちはみんな、問題の本質から目を背けて、「ケンカはやめよう」「イジメはよくない」なんて、薄ら寒い綺麗事を並べて事を治めようとする。

 そんなものが出来るんだったら、まずは自分たちが実行してみたらどうなんだって、ニュース番組を見るたびに鼻で笑ってしまう。

 この世界は、腐っている。

 けれどたぶん、誰もそれを直視しようとはしない。

 わたしだって嫌だ。汚いものを真っ直ぐに見るなんてごめんだ。吐き気がする。

 だから、この青い空の向こうを眺めながら思うんだ。

 どこかの誰かがミサイル飛ばして、こんなくだらない世界を全部吹き飛ばしてしまえばいいのに、って。



 「彼女」が産まれてきた事は間違いだった。

 それは、誰の目にも明らかだ。「彼女」は、そう思っている。

 ろくでなしの父親は妻子持ちの身分で彼女の母を孕ませ、金だけ掴ませて彼女の存在を、自分と、その家庭から遠ざけた。

 ある程度世間を知った時分にもなれば、そんな父の判断と行動も理解できるし、なにもかも無かったことにしようとはしなかった分、彼女は恵まれていたのかもしれない。

 しかし、母子家庭という、ただそれだけで、世間が彼女達を見る目は奇異なモノであった。

 だから彼女は、そんな周りの大人たちに媚びを売る手段を身につけた。

 母親譲りの金髪と、蒼色の瞳は物珍しさも相まって可愛らしく見えるらしく、彼女はそんな自分の希少価値を存分に利用した。それはそれで上手くいっていたし、彼女は何不自由なくそれなりに、幸せな生活を送っていた。


 彼女の母親が、死んでしまうまでは。


 幸せの幕切れなど、呆気無いもので。

 彼女の母親は過労で倒れて、そのまま目を覚まさずに逝ってしまった。

 彼女は、母親の亡骸を見てなおぴくりともしない自分の表情に、違和感を覚えた。

 いつの間にか彼女の作り笑いは、自分すらも完璧に騙せるほど精巧なものになってしまっていたらしい。

 彼女は笑った。からからと、いつもみたいに空っぽの笑顔で。

 母親の死をどこからか聞きつけて現れた彼女の父親は、独り残された彼女を見て、顔を歪めた。彼女が「今更よくもぬけぬけと顔を見せられるものだなぁ」と他人事のようにぼんやりとその顔を眺めていると、父親はなにを思ったか突然、彼女の事を抱きしめた。

 父親は、泣いているようだった。

 彼女は、どうしたものかなぁと呆けてしまったけれど、ついついそんな情けない父親の背中を、優しく慰めるように叩いてしまった。

「……すまない、美紗緒(みさお)。俺は、俺は……!」

「もう、いいよ……?」

 どうでも、さ。

 そんなニュアンスを込めた言葉だったのだけれど、父親は殊更に酷く泣きだして。

 彼女は父親には見えない角度でうんざりと表情を歪めた。

「なぁ……美紗緒……」

「うん……?」

「お前さえよければ、ウチで一緒に暮らさないか……?」

「……はぁ」

 それは、また。随分と、気前のよいお話で。

 しかし、恨みだとか呆れだとかいう感情よりも先に、彼女は自分の身の振り方を計算してしまう程度には賢しかった。このままこの男の提案を蹴ったところで、彼女は児童養護施設送りが関の山だ。それより幾分かは、この男の世話になったほうがマシな生活が送れる事だろう。そんな風に、彼女は考えた。

「……うん、ありがとう。お父さん」

 父親の肩が、震えた。

 重ね重ね、処世術というものは身につけておいて損のないモノであるな、と。彼女にはもう、プライドも、守りたいモノも、恩返ししたい人も残っていない。あとはそれなりに、適当に。余生を過ごすことが出来たなら。


 それでいいやと、彼女は思った。


 次の日から彼女に、義母と、義姉が出来た。

 家庭にとって異物である事を弁えている彼女は、完璧な立ち振舞いでそれなりに、上手く生活に溶け込んでいった。




 どんなに青空を睨んだってミサイルなんか飛んでこないし、突然の地震も起きなければ、竜巻がなにもかも吹き飛ばしてくれたりなんかもしない。この国は平和で、誰も彼もが幸せで、不幸なことなんてなにもない。そういうことになっている。

 くだらないと、いくらぼやいた所ででわたしもそのくだらない枠組みの一部であることには変わりなく。

 誰かがなにかしてくれるまで、自分でどうにかしようなんて気はこれっぽちもない。

 ただただ退屈だと心のなかでぼやきながら、あくびをするのだ。

「ほい」

「もがっ」

 大口を開けたわたしの口に、冷たいバニラソフトクリームの渦巻きが突っ込まれる。

 わたしはモガモガと言葉にならない抗議を香澄に向けたけれど、香澄はくすくすと笑ってわたしに突っ込んだソフトクリームをわたしの手に握らせた。

 仕方なしに、わたしはモグモグとソフトクリームを咀嚼し、その甘さと冷たい感触に頬を歪めた。香澄はわたしの隣に座って、舌先で美味しそうにぺろぺろとソフトクリームを舐める。

「美味しいね、陽菜」

「んー……、ふつう」

 わたしは素直に感想を述べて、香澄のマネをするようにぺろりとソフトクリームを舐めた。

 どこか遠くから聞こえるツクツクボウシの鳴き声。もうすぐ秋だというのに、元気なモノだなぁと感心する。蝉はその短い一生をあんな風に好き勝手に歌い尽くして死んでいく。あいつらの幸せって、そんなものでいいのかなぁ。

 わたしの幸せ。

 お父さんがいて、お母さんがいて、少し歳の離れた妹がいて。お父さんは優しくて、お母さんはちょっと口うるさいけどご飯が美味しくて、妹はわたしの事を大好きって言ってくれてめちゃくちゃ可愛い。わたしはわたしの家に生まれた事を呪った事なんかないし、幸せな事なんだろうと感じている。

 だったら、わたしの願望はいったいどこから湧いてくるのだというのだろうか。

 家族と、香澄と、学校と。

 わたしの世界、わたしの生活。わたしの全てはそんなちっぽけで狭いスペースに押し込まれていて、何不自由ないことそのものに物足りなさを感じているの?

 うまく言葉にするのは難しいけれど、きっとわたしはこの世界のなにもかもに、納得していないだけなんだと思う。わたしがこの世界で幸せに生きている事そのものに違和感を覚えていて、それは他人にも自分にもどうすることも出来ない問題で。

 だったらわたしは、この行き場のない感情をどこへ向ければいいのだろうか。

 幸せに包まれた平和な世界をぶち壊す理由が、わたしには必要だとでも言うのだろうか。

「ねぇ、香澄はさ」

「んー?」

「イジメられてる時、どんな気分だった?」

「んー……」

「わたしを恨んだりとかしなかったの。なんで助けてくれないんだろうって」

「思わないよー。だって、陽菜はちゃんと、私を助けてくれていたもん」

「はっ?」

 素っ頓狂な香澄の言葉に、わたしは思わず唇の端からバニラを零しそうになった。

「陽菜は私のこと無視したりしなかったし、私がイジメられたのは私が立ち回りを間違えたからだもの。陽菜が私の話をちゃんと聞いてくれてただけで、毎日私がどんなに救われていたか、陽菜は知らないでしょう?」

「わたしなら、やろうと思えばすぐにでも香澄へのイジメを止めさせる事もできたよ」

「陽菜ならそれが出来るだろうけど、私はそういう風な終わらせ方を望んでいなかったし。私のことは、私の問題。だから、陽菜が私の友達でいてくれただけで、私にとってはものすっごく、心強いことだったんだよ」

「そういうもんかねぇ」

「陽菜は、どうしてそんなことを聞くの?」

「……どうしてかなぁ」

 本当に、どうしてだろう。

 わたしに足りないものが、わたしには分からない。

 物足りない、満たされない。喉の渇きにも似た破滅的衝動はわたしの心の奥のほうでずっと燻ったままゆらゆらと揺れていて、なにかの拍子にいつか弾けてしまうのだろう。

 その時わたしは、どれだけの周りの人を不幸にするのだろうか。

 お父さんも、お母さんも、香澄も、妹も。そんなわたしを見て、どんな顔をするのだろうか。

 それを想像した時、少しだけチクリと心の奥の方に、刺がささった気がした。

 やるせなさがどっと押し寄せてきて、わたしはワシャワシャと髪の毛を乱した。

「――……あー! わっかんないなぁっ!!!」

「……ふふっ。わっかんないねぇ!!!」

 二人して、ベンチに座って大空の果てに向かって、大声で叫んだ。

 まだ他愛もない小学生でしかないわたし達はこんな風に、しゃにむに叫んで鬱憤を晴らすくらいしか、やり方を知らないんだ。

 声を揃えて、意味のない大声を力いっぱい叫んだ。叫び続けた。

 近所の家の犬が、呼応するかのように大きな声で吠えていた。




 学年的には「彼女」と同い年となる義姉は、それはそれは出来の悪い人間だった。

 要領が悪くて、勉強が苦手。スポーツもろくに出来ないし、友達も少ない。

 それ自体はまぁ別に、彼女には関係ないし、知ったことではない話だ。

 彼女と義姉の関係に決定的な亀裂が入ったのは、中学への進級の際だった。

 彼女は県下トップの難関を誇る中高一貫制の名門女子校に入学し、義姉は受験に失敗して公立校へと入学した。

 彼女と義姉の合否の結果が分かたれた時の家庭内の雰囲気といえば、それはもう居心地のよろしくない事だった。

 彼女は持ち前の処世術で義母とはそれなりに仲良くやっていたのだけれど、その時ばかりは義母も自分の娘にどう接すればいいものかと慌てふためいていた。

 父親の方はと言えば、仕事の忙しさを言い訳に我関せずを貫いていた。そんな父親の態度が義母にとってどれだけのストレスだったかは側で見ていれば彼女にはよく分かったし、彼女は彼女で大人たちの望む「良い子」を演じながらそんな義母を優しくフォローしてあげていた。

 面白くないのは、それはもう義姉の方であろう。

 自分の失敗、崩壊していく家庭、目障りな義妹。

 義姉は受験に落ちたその日から、引きこもりがちになった。

 彼女はそんな義姉にも優しく接してあげようとしたけれど、ドアを叩いても返ってくる返事は言葉とも呼べないような奇声だけだった。

 そんな義姉にいつまでも構っているのもバカバカしくなり、彼女はいつしか義姉と関わるのをやめた。


 中学校の入学式。父親はいつも通りに職場へと出勤し、母親は義姉の入学式へと出席した。

 彼女は独り、私立沖ノ宮女学院中等部の制服を着て入学式を迎え、新たな学校生活でもそのスキルと容姿を最大限に利用して立ち振る舞った。

 名門校だけあり、この学校はお金持ちの箱入りお嬢様だけでなく才色兼備な優等生ばかりが集まる立派な「箱庭」だ。

 彼女は、自分のスキルがこういった社会でどの程度役に立つのかを試すモノサシとして学校生活を利用した。その結果、彼女の周りには有益な人材が多数集まる事となったのだが、彼女はそんな自分の存在を「使える」としか思わなかった。

 端的に言えば、「何に使うか」までは思い至らなかった。

 きっと、母親譲りの容姿と、培った作り笑いを駆使すれば彼女は様々な事を成す事が出来るのだろう。いろんなモノを、ぶち壊すことができるのかもしれない。

 彼女は自分の手のひらの上で、そんな爆弾みたいな可能性を。コロコロと、サイコロのように転がして持て余した。

 彼女には、理由がない。存在している意味が無い。産まれてきた事が間違っている。

 だから彼女は、なにもしない。いつか誰かがこんな彼女を見つけて、利用してくれたらいいのにな、なんて。

 そんなことを思いながら彼女は、今日も。

 なにごともない、平和な毎日を過ごす。




「陽菜、陽菜っ!」

「ん、あー……?」

「ちょっとこっち、ついてきて!」

「ちょ、香澄……っ」

 四時間目の授業の間、ずっと机に突っ伏して居眠りしていたわたしは、昼休みのチャイムが鳴るなり香澄に叩き起こされて。その手を引かれて学校の隅まで連行された。

 給食の準備に入ったこの時間、この場所は人気がなく、香澄は誰かに見られないかと警戒しながら教室の窓から死角となる木陰へとわたしを押し込んだ。

「もう、なによ香澄」

「いひひ……、じゃーん!」

 香澄が嬉しそうに取り出したのは、タバコとマッチ。

 わたしは、げんなりとした顔で香澄の顔を見て。香澄は満面の笑みでわたしに応えた。

「なに、これ」

「お兄ちゃんのを、こっそりパクってきたのです!」

「それで?」

「陽菜といっしょに、吸ってみたいなって思って!」

 わたしはキラキラと瞳を輝かせる香澄を前にして、重い重いため息を吐いた。

 香澄はきょとんと首を傾げて、ぱちくりと瞬きしていた。

「香澄。ここは学校。あなたもわたしも未成年。わかる? ドゥーユーアンダスタン?」

「イエス! ハバナイスデイ!」

 駄目だこりゃ。どこか抜けている子だとは思っていたけれど、ここまで損得勘定の出来ない子だとは。

 けれどまぁ、香澄の気持ちもわからないではない。好奇心とスリルは欲望を満たす麻薬であり、それを楽しむ事が出来るのも後悔する事が出来るのも、禁じられている間だけ。子供のままでいられる今という時間だけ。だから香澄は、そんな今という瞬間を目一杯楽しみたくて、こんなバカなことをしたんだろう。

 わたしを巻き込んで、わたしと過ごすために。

「はぁ……。今回だけ。これっきり。次はないから。いい? わかった?」

「うん! わかった!」

 本当にわかっているのかも怪しいけれど、香澄はいそいそと箱から紙巻たばこを二本取り出し、片方をわたしに差し出した。わたしはそれを受け取り、口に咥える。香澄もわたしのマネをするようにタバコを咥えて、マッチを擦って火を灯した。

 一本のマッチの灯火に寄せあって、わたしと香澄はタバコに火を移した。

 その光景はどこか、キスでもしてるみたいだなぁって、頭の片隅でぼんやりと思う。

「――……っ!? きゃふっ! げほっ、ごほっ! なん、なん……!?」

「あー……」

 香澄は実際に吸ってみるのは初めてらしく、思いっきり肺まで煙を飲み込んでむせ返ったようだった。わたしはそんな香澄の背中をぽむぽむと擦ってやる。香澄は涙目になりながら火のついたタバコを睨み、同時にわたしが何でもない風でいることに不思議そうに首を傾げた。

「これ、こんなのちっとも美味しくない……。陽菜、どうして……?」

「いや、わたしはお父さんのタバコをたまに貰ってるから」

「なっ!? ひ、ひどい陽菜! 私のこと騙してた!?」

「いやいやいや、聞かれなかったし、知ったこっちゃねーし」

 わたしは得意顔で頬を緩ませながら、吹き出す煙でポッポと輪っかを作って見せた。それを見た香澄は目の端に涙を浮かべたまま嬉しそうに表情を変えて、キャッキャと拍手した。

「こんなもんはさ。格好つけて子供が吸ったところで、なんにも格好よくなんかないし。隠れてこそこそ、見つかったらどうしようなんてスリルも、一過性のムーブメントでしかない。イジメといっしょ。こんなものに、憧れや罪悪感を覚えるなんてかっこ悪いにもほどがあるよ。……って、いつもお父さんが言ってる」

「……陽菜のお父さん、かっこいい」

「アホ。わたしが好奇心で吸ってみたいって言ったら、その場で吸わせるような駄目親だぞ。まぁ、おかげでこそこそ吸ってヘマするようなバカにだけはならずに済んだけどね」

「陽菜は、いつも吸ってるの?」

「別に。……ただ時々、無性に吸いたい気分になったときだけ、お父さんに貰いに行ってる」

「ふぅん。そっか、そっかぁ……」

「こんなモノでもさ。使い方次第では、わたしたちの生活を簡単に壊すくらいの起爆剤にはなる。それをこんな風に、危ない場所でリスクを犯してやるっていうのは、なにもかもぶち壊してやりたいって思うことと、同じ事なんだと思うよ」

「……じゃあ、なんで陽菜は、私と一緒に吸ってくれたの?」

「んなもん、決まってるでしょ」

 わたしは、呆れるくらいにキザでバカバカしく格好つけて言い放つ。

「友達だからよ。香澄は、わたしの友達だから。それだけ」

「…………ぷっ。あはっ、あははははっ!」

「どう? 格好良かったでしょいまの」

「全然! 超ヘンなの! ウケる陽菜! あはっ、あははは!」

「あー。もう気は済んだでしょ。わたし、お腹すいてるんだけど」

「あははっ、はは……っ。あー、おっかしい。うん、気が済んだ! こんな不味いもの、証拠隠滅!」

 用意のよろしいことで、香澄はビニール製の携帯灰皿まで取り出して、まだまだ吸える長さのタバコをその中に押し込んでグシャグシャともみ消した。わたしも適当に自分の吸っていた分を放り込み、後処理は香澄に押し付ける。

 くだらない毎日の中の、ほんの些細な出来事。

 少し手ほどきを間違えば、平和な日常をぶち壊してしまう危うい行動。

 わたしは、自分から自分の生活を壊したいとは、思わない。思えない。

 あくまで、誰かがなにもかもを根本からぶち壊してくれる日を、ただただ望んでいるだけだ。

 だからそれまでは、その日がくるまでは。

 わたしと、わたしの日常は守らなければならない。

 それが、わたしがわたしをわたしで縛った、わたしのルールだ。




「ねぇ美紗緒さん。軽音楽部に入りませんか?」

 そう彼女に声をかけてきたのは、クラスメイトの小野寺さん。いかにも古風でお嬢様然とした、黒髪のロングヘアーがよく似合う日本人形のような彼女から軽音楽部という言葉が出てくるのは、彼女にとって少しだけ意外だった。

 話を聞いてみると小野寺さんは昔からピアノを習っていたらしく、けれどもピアニストとしての自分の才能に限界を感じ始めているそうだ。ならば若い時分を楽しむために、趣味と割り切って自分のピアノの腕を活躍させる場を作りたいとのこと。そういう風に自分の価値観を割り切れる彼女の性格は、彼女から見ればとても立派なモノに見えた。きっと将来は、その経験と決断力を活かして大成することだろう。そんな風に、彼女は思う。

「うん、いいよ」

 彼女は特に躊躇してみせるでもなく、二つ返事で誘いに乗った。

 理由は二つ。

 ひとつは、彼女は中等部に入ったからといって特にこれと言ってやりたい事などなかったから。

 ひとつは、一番最初に部活動の誘いをかけてくれたのが小野寺さんだったから。ただ、それだけ。

 彼女は歌や音楽なんてまるで興味はなかったけれど、軽音楽部の先輩の演奏やライブビデオの映像を見よう見まねで歌ってみたら、大変ご好評を頂いた。

 先輩方曰く「天使の歌声」だそうな。言葉にすると、なんて安っぽいのだろう。

 小野寺さんのピアノの経験もキーボード役として軽音楽部に重宝され、彼女達はそれなりに部活動を満喫することとなった。

 彼女は父親に頼んで、ギターを買ってもらった。父親も昔、少しだけ嗜んだ経験があるらしく、彼女が軽音楽部に入ったと聞いた時はどこか嬉しそうだった。楽器屋でエレキギターとアンプ一式を購入した帰り道。車を運転しながら父親が話す昔話を、彼女はニコニコと愛想笑いを浮かべながら聞き流した。

 最初こそあまり興味は無かったものの、ギターというのは学べば学ぶほどに高等な技術を要求されるモノで、彼女としては少しだけ「出来ない」部分が現れるたびに、言いようのない手応えを感じていた。

 一週間、一ヶ月と練習して出来る事を増やしていくほどに、「出来ない」はどんどん増えていく。彼女は昼夜を問わず、ギターの練習にのめり込んだ。学校生活はテストの成績と生活態度さえ良ければ学校側はなにも言ってこないので、授業中に楽譜を読んでいようが机の下でこっそりコードの練習をしていようが、特にこれといって問題にはならなかった。

 むしろ、問題は家にいるときに発生した。

 とある日の夕方、いつものようにヘッドホンを通してギターの練習をしていると、ノイズキャンセラーも突き抜ける程の異音が彼女の部屋の壁に轟いた。

 音の発生源は、隣に暮らす義姉の部屋からだ。

 ドンッ! ドスッ! ガツンッ!

 何度も何度も、壁を破らんばかりの勢いで殴りつけるような音が響いた。

 やがて音に気づいた義母が、なにやら義姉と口論を始める。隣近所にも聞こえそうな奇声を発する義姉の言うところには、彼女の演奏があまりにも耳障りでろくに勉強に集中が出来ない、とのことだ。エレキギターの生音なんて、相当に神経を尖らせていないと聞こえもしないだろうに。

 相当に神経を尖らせているのだろう。

 彼女は空気を読んで、ギターを仕舞い眠ることにした。

 義母と義姉の口論は、彼女が眠りに落ちるまでずっと続いていた。


 とある冬の日。

 彼女が部室に顔を出すと、先輩方がなにやら黄色い声ではしゃいでいた。先輩たちのそんな様子を伺っていると、小野寺さんがどこか興奮した様子で彼女に手招きをした。

「……? なにか面白いものでもあるんですか」

「あ、美紗緒ちゃん。見てこれ、綺麗じゃない?」

 二年生の先輩が嬉しそうに見せびらかしていたのは、銀色の刃がギラギラと輝く、折りたたみ式のバタフライナイフだった。お嬢様方は物珍しげにそのナイフを眺め、先っちょのほうを突っついて、きゃあと怖がってみせたりしている。

「ほら、ウチって曲がりなりにもお嬢様校じゃん? なんかあった時のためにさ、護身用っていうの?」

 先輩はカシャカシャと変形させながらバタフライナイフを振り回して見せて得意げに胸を張って見せる。彼女は、上っ面だけで少しだけ興奮した様子を演じながら「かっこいいです、先輩!」なんて心にもない台詞を吐いて先輩を煽ててみせながら、心のなかでは鼻で笑っていた。

 きっとこの人達は、その刃物が持つ可能性や危険性を深くは考察していない。ただ手にすることへの充足感に満たされて、そこから先を思考停止している。それはたぶん、ナイフを持ち歩くなんてバカなマネをする人間のほとんどに言える傾向だ。それを手にした瞬間に、自分がどれだけのリスクを背負っているかなんて考えもしない。

 だからそういったものは、まともな人間は本来持つべきではない。

 けれども、彼女は別に彼女らの人生がどのような破滅を迎えようとも知ったことではないと思ったので、その場の空気に合わせて先輩を囃し立てた。

 そして彼女は先輩達とは違い、確かな可能性を認知した上でこう問う。

「……先輩、そういうのってどこで買えるんですか?」

 先輩はそんな彼女の問いかけに嬉しそうに笑いながら、ナイフの購入場所や経緯などを教えてくれた。

 彼女はその話を、とても真剣に聞いていた。




 わたしにとっては何事もない、穏やかな一年があっという間に過ぎ去り。

 気づけば季節は春を迎え、わたし達は六年生へと進級した。

 なにも変わらない。ただ、ひとまずの区切りへと向かって時間の針だけは止まらずに進んでいく。

 六年生へのクラス替えの際、わたしと香澄はクラスが別々となった。香澄以外に友達と呼べるような相手の居ないわたしは、クラスで孤立した存在となる。去年のわたしの悪評はしっかりとこのクラス全員に知れ渡っているらしく、わざわざ話しかけてこようなんて奴もいなかった。

 平和なものだ。

 わたしは小春日和に爛々と華やぐ窓辺の向こうを眺めながら、大きなあくびをした。

 香澄は休み時間になると時々、こっちのクラスにわざわざ遊びに来たりした。わたしはそんな彼女を無下にするでもなく、歓迎するでもなく。ただいつものように当たり障りなく接した。わたしにとっては、クラスが一緒だろうが離れていようが何も変わらない。香澄がわたしと友達でいたいのであればそうするし、離れていくのであればそれでいいと思っていた。

 実際のところ、物心ついた時からの幼なじみである香澄とは、何度かクラスが別々になった事もあった。けれど香澄は今までずっと、こんなわたしの友達であり続けた。それって、客観的に見ればものすごい事なんじゃないかなとすら思う。気が知れない。特に嬉しいとかは思わない。ただ、感心するのみだ。

 わたしにとって、家族は「家族だから」という理由だけで大切にする理由が生まれる。けれどそれ以外の他人は全て、関わらなければどうでもいい存在でしかない。香澄も同じだ。香澄からわたしに話しかけてさえこなければ、いつかはきっとわたしの世界から香澄は消えてしまうのだろう。それほどに、刹那的で儚い間柄である、はずだ。

 なにが楽しくて、わたしなんかに関わりあうのか。それは、幼なじみだからという理由だけで彼女にとっては意味があることなのかもしれない。

 わたしにとって家族がそうであるように、香澄にとってわたしは執着するだけの価値があるということなのだろうか。

「――……ねぇ陽菜、ちゃんと聞いてる?」

「うん、聞いてる聞いてる」

 香澄の話す内容なんてこれっぽっちも興味が無いので、生返事だけで対応する。いつだってそうだ。香澄はそれで満足だという。

 到底、理解できない。

 放っておけばいいのだ、わたしのようなモノは。ただ置物のように鎮座して、何か揉め事を起こすでもなくそっとしておけば良い。

 ヤブを突けば蛇が出る。他のクラスメイトはそれをよく理解しているだろう。

 香澄にとって良いか悪いか。客観的に見れば一目瞭然だ。香澄のことを思うなら、わたしの方から香澄を遠ざけたほうが香澄にとって良いに決っている。

 それすらもせずにただ緩慢と彼女の言葉のサンドバッグでいることをよしとしているのだから、わたしもほとほと人が悪い。最悪だ。

 香澄はいつまで、わたしの「友達」でいられるのだろうか。


 放課後。チャイムが鳴ると同時にわたしはランドセルを背負い、足早に教室を後にした。少し待っていれば香澄が一緒に帰ろうと誘いに来るのだが、それを待つ理由もないし、気分でもない。一人になりたい気分の時、わたしは香澄を放置して独りで帰る。そうすると後で顔を合わせた時にぐちぐちと文句を言われるのだが、知ったことではない。

 わたしは帰り道とは反対方向の道を歩いて、小高い山の見える公園へと足を運んだ。鬱蒼とした木々に囲まれて、中央には噴水が設置された綺麗な場所。わたしのお気に入り。このくらいの時間は幼稚園児やその母親が公園を占拠していて少し騒がしいが、夕食時にもなればそういった輩も居なくなり、公園はしんと静まり返る。

 夕日が傾いて風の音と噴水の匂いだけが公園を満たすその時間が、わたしは大好きだ。

 静かになった公園でひとり、ブランコに腰掛けて空を眺める。ぐっと背後に体重をかけて背筋を伸ばしながら「あーっ」っと意味のない声を上げてみたりしながら、独りの時間を満喫した。

「……飛んでこないなぁ、ミサイル」

 どんなに遠くを眺めても、飛んでいるのは飛行機雲とカラスくらい。太陽は爆発しないし、月は落ちてこない。

 いつまでも変わらない、いつまでも終わらない。当たり前の、平和な日常。

 いつまで待ってみても、誰もこの世界をぶち壊しに来てはくれやしない。わたしはこんなにも焦がれているのに。わたしが守ってきたものを全部台無しにして、無茶苦茶にしてくれる何かの登場を。そしてわたしはそいつに言ってやるんだ。「なんてことをしてくれたんだ!」って、とても嬉しそうに、涙を流しながら。

 だって、わたしは「悪く」ない。そいつが全部悪くって。ぶち壊した責任のなにもかもをそいつに押し付けて、世界を破滅させることができる。

 あぁ、それは、なんて素敵なことかしら。

 この腐った世界を全部台無しにして、わたしは可哀想な犠牲者のまま、大切な家族と一緒にこの世から消え去っていくんだ。

 ――いつからだろうか。

 こんなチグハグで荒唐無稽な思想を持つようになったのは。

 生まれた時からだったかもしれないし、なにかきっかけがあったのかも知れない。

 それはもうわたしにもわからないし、ただこういう「モノ」である自分が現実に存在しているという事実だけが。

 わたしの心を、苛み続ける。

 どうにか「したい」わけじゃない。どうにか「して」欲しいんだ。

 わかるでしょう、神様?

 誰にも、自分自身にも理解されなくったって、神様くらいは理解しているはずだ。こんなどうしようもないわたしが、なんで生きているのかって。

 それはどこまでいっても、破滅するその瞬間への焦がれそのものだ。

 狂っていると、誰かに認めて欲しい。けれど、こんな頭のおかしな話、誰がまじめに聞いてくれるっていうのだろうか。

 お父さんのことを尊敬している。お母さんのことが大好き。妹は宇宙一可愛い。けれど、それでも。

 どうしようもなく、わたしの脳裏にこびりついて離れない、消えない、焦燥。

 だからわたしは、願い続けるしかない。いつか訪れる、破滅の瞬間を。

 わたしはブランコの上に立ち、キコキコと反動をつけて前後させた。振れ幅は次第に大きくなっていき、180度近く限界ギリギリまで全力で。

「あーしたぜぇんぶ……――ッ」

 その勢いに願いを乗せて、わたしは右足の靴を思いっきり蹴り飛ばした。


「――吹き飛べぇぇぇぇぇぇ!!!!!!」


 わたしの願いを乗せた靴は放物線を描きながらくるくると空を舞い、一本の桜の木の方へと飛んでいった。

 わたしはその靴の行くすえを眺めながら、ブランコの反動をゆっくりと小さくしていく。

 飛ばした靴が桜の葉を揺らした音が聞こえた。

 

 ――人影が、どさりと。桜の木から落ちてきた。


「…………へっ?」

 誰かの人影は桜の下で蹲り、プルプルと震えていた。

 わたしは一瞬、判断力を失い、しばらくぼんやりとその震える人影を遠目に、ただぼんやりと眺めていた。

「……いや、ちょっと、やばっ!?」

 ようやく、わたしの脳みそは自分がしでかした事を理解して、咄嗟にブランコから飛び降りて桜の木の下まで大慌てで走った。


 ――彼女は、舞い散る桜を全身に浴びながら、夕日に煌めく金色の髪をなびかせて、大の字で地面に横たわり、その宝石のような蒼い瞳で空を眺めていた。


 彼女のおでこには、小さなタンコブ。そしてその傍らには、彼女の蹴り飛ばした靴が転がっていた。

 わたしは恐る恐る、彼女の顔を覗き込む。彼女は放心したようにぼぉっとどこか一点を見つめたまま、瞬きひとつせずに硬直していた。

「……い、生きてます?」

「――うん、たぶんね」

 流暢な日本語で応えた彼女に、わたしはびくりと肩を震わせた。だって、どう見ても外国人の方だと思ったから、すんなりと日本語が通じたことにまず驚く。いや、そうじゃない。

 彼女が、あまりにも綺麗だったから、圧倒されていたんだ。

 細い顎筋、華奢な身体。顔のパーツはひとつひとつが作り物みたいに愛らしい。その髪の色と瞳の色は、いつか絵本で読んだ不思議の国のアリスが、絵本から飛び出してきたのではないかと。そんな寝言みたいな妄言がすらすら出てきてしまうほどに、彼女は美しかった。

 夕焼け空と、桜と、彼女がそこに横たわっている光景が。あまりにも、現実離れしている気がして。

 わたしの心臓は一瞬で、全部持って行かれた。

「あ、ああああの!」

「うん?」

 制服姿の金髪アリスさん(仮)は、視線だけを彼女に向けてやっぱりぴくりとも動かない。

「それ、靴。あの、えっと。ごめんなさい……」

「…………あぁ」

 金髪アリスさん(仮)はやっぱり視線だけで靴のほうを向いて、なにか納得したようにひとつ頷いて。

「ちょっとびっくりした。おかげでなんか、うまくいかない」

「えぇ、あ、頭とか打っちゃいました? ていうか絶対打ってますよね、やばいですよね……」

 中学生くらいに見えるアリスさん(仮)はゆっくりと身体を起き上がらせると、視線は真っ直ぐ向いたまま首の骨を鳴らすように右へ左へ頭を傾けた。そんな急に頭を動かしたりしたらまずいんじゃないかしらと止める暇もなく、アリスさん(仮)は自分の身体に異常がないことを納得したのか再びうんっと頷いて、わたしに視線を向けた。

「もう大丈夫、ありがとう」

 そう言って、「彼女は笑った」。

 わたしはその笑顔を見た瞬間に、背筋がぞっと凍えるほどの恐怖を感じた。

 だってその笑顔は、誰がどう見ても完璧で。

 一瞬の隙もないほどに精巧に作られた「作り物の笑顔」だったから。

 こんな表情が「出来る」人間を、わたしは知らない。見たことがない。

 いったい、どんな人生を歩めばこんな表情が出来るようになるのだろうか。

「……どうして」

「えっ……」

「どうして、そんな風に笑えるんですか」

 わたしは、感情が吐いた言葉をそのまま口に出していた。よくよく考えれば、失礼にもほどがある物言いだ。

 アリスさん(仮)は数瞬の間、わたしの放った言葉の意味を噛みしめるように何度か瞬きをしてから、

「――……へぇ」

 仄暗くて底が見えない、真っ黒で醜くて吐き気のしそうな本物の「笑顔」を、わたしに見せた。


 それが、わたしと美紗緒さんの出会いだった。




 彼女の笑顔が作り物だと見ぬける人間に出会ったのは、陽菜が初めてだった。

 どこかには居るのかも知れないなぁと漠然と、ぼんやりと思ってはいたけれど。こんなにも身近に住んでいて、まして年下の女の子だと、彼女は想像していなかった。

 陽菜は彼女の本質を少しだけ見ぬいた上でなお、彼女に懐いてきた。だから彼女は、飾らずに素のままでいられる彼女と話す時間を少しだけ、ほんの少しだけ楽しんでいる。

「美紗緒さん、桜の木の上でなにしてたんですか」

「空を見てた」

「わたしと一緒だ」

「陽菜はなんで空なんか見てたの」

「ミサイルが飛んでこないかなって」

「ふぅん」

「美紗緒さんはなんで?」

「手を伸ばせば届きそうな気がしたから」

 空の向こう、失ってしまったもの。彼女には、この世に未練などなにもない。

 ただひとつ、願うことがあるとすれば。

 いわゆる死後の世界なんてものがあるのならば、ちょっと手を伸ばせば届くんじゃないかなと、そう思って。

「……美紗緒さんは、こんな世界爆発しちゃえばいいのにって思ったこと、ないですか」

「――……んー」

 彼女は見上げる空に輝いた一番星をぼぉっと眺めながら、少しだけ真面目に考えて。

「無いなぁ」

 と、素直に答えた。陽菜はそんな彼女の答えにどこかがっかりしたように肩を落として、「そっか」と小さく呟いた。

「どうでも、いいんだと思う。この世界がどんな風に出来ていて、これからどうなっていくのかも、知ったことじゃない。あたしが生きていても死んでいても世界はなにも変わらないし、誰が生き残っても誰が死んでも関係ない。虚構なんだよ、あたしにとって。世界も、自分も」

「寂しいんですね、美紗緒さんって」

「陽菜は違うね。なんか、矛盾している感じがする」

「わたしは、ワガママだから」

 そう言って恥ずかしそうに笑う陽菜の表情は、どこからどう見ても、幸せな家庭に生まれ育った普通の女の子だ。大切なモノがちゃんとあって、けれどなにかに納得出来なくて、どうしもない閉塞感に苛まれている、普通の感情を持った女の子。彼女の「知り合い」にも何人か、こういう手合いの人間はいる。自分の感情と思考が合致しないことに違和感を覚えながら、虚量な世界に閉塞感を感じて生きている。それはごく普通の感性であり、思い悩み抱え込むような事でもない。

 ただひとつだけ、陽菜の特別なところを挙げるとすれば、陽菜はごく積極的に、本物の破滅を望んでいるということだ。

 だから彼女みたいな人間を真正面に見据えても、こんなにも平然と振る舞っていられるのだろう。

 陽菜は彼女の作り物の笑顔に怯え、本物の笑顔を見て目を輝かせた。彼女はそんな陽菜を見て、心の中がほんの少し、愉快な気持ちになった。

「美紗緒さんの制服、沖女の中等部ですよね。すごいなぁ。わたしも、美紗緒さんみたいに頭がよかったら、お母さんに怒られなくて済むのに」

「おこられる……?」

「うん。テストの点が悪かったら、すっごく怖い顔をして怒るの。なんで努力しないの、なんでもっと頑張らないのって」

「へぇ……」

 普通はきっと、そういうモノなのだろう。もしも彼女の母が生きていたとしたら、今の彼女を見てくれたなら。

 喜んでくれるだろうか。なにか間違えていたなら、叱ってくれただろうか。

 あまりにも。らしくないほど郷愁に満ちた感覚に、彼女は心のなかでへどを吐いた。

「頑張る理由がないのに、頑張れる方がどうかしてると思うんだけどなぁ」

 陽菜は唇を尖らせながら拗ねて見せて、地面に転がっていた小石をどこへでもなくポイっと放り投げた。

「陽菜の悩みってさ、案外ちょっとしたきっかけでなにもかも全部解決しちゃったりするものよ」

「……例えば?」

「恋人ができるとか」

「うぇー……?」

 陽菜は心底面倒くさそうな顔をして眉をひそめ、納得いかない様子でため息を吐いた。

「そういうの、全然イメージできない。漫画とかで読んでても、恋愛モノってあんまり好きになれないし」

「たぶんね。陽菜は知らないから今はそう思うだけ。一度知ってしまったら、病みつきになってしまうの。あたしみたいなのとは違って」

「美紗緒さんは、彼氏とかいるんですか」

「いた事もあるよ。今はいないけど。何人かと付き合ってみたりしたけれど、みんなね。あたしに執着を求めるの。もっと自分を大事にして欲しい、自分だけを特別に見て欲しいって。そういうのが、すごく鬱陶しくて。大体、上手くいかない」

「ほら、やっぱりすごく面倒くさそう」

「陽菜は違うよ、あたしとは。陽菜はね、ちゃんと大切にされた分、大切にしたいって思える子だよ。たぶんね」

「……なんでそんな風に思うの」

「おんなの勘」

 あたしが得意げに鼻を鳴らすと、なにやら陽菜のツボに入ったらしく。陽菜はお腹を抱えて笑い出した。

 妹とかいたら、こんな感じなのかなってふと思って。彼女の手は気づいたら、陽菜の黒い髪をそっと撫でていた。陽菜はそんな彼女の仕草に一瞬戸惑いながらも、そのあとはされるがままに彼女に頭を撫でられ続けた。

「……ふしぎ。美紗緒さんにこういう事されるの、全然嫌じゃない」

「子供扱いされるのは嫌い?」

「他人って、怖いから」

「ん。そっか」

 彼女はひとしきり満足するまで陽菜の髪を撫で続けた後、ふと空が暗がりを見せ始めた事に気づいて立ち上がった。桜の木に立て掛けておいたギターバックを肩に担ぎ、帰り支度を整える。

「あの、美紗緒さん」

「うん?」

「……また、会えるかな?」

「学校が終わった後はいつも大体、ここに居るよ」

「また、会いに来てもいい?」

「気が向いたら、構ってあげる」

 そんな彼女の物言いにどこか不満気に唇を尖らせながら、陽菜も立ち上がって自分のおしりについた土埃を手で払った。彼女は、こんな遅くに帰って親御さんは心配しないのかなぁと一瞬だけ思ったけれど、どうでもいいかと思い直して陽菜に背を向けた。けれど振り返り際に一瞬だけ見えた陽菜の俯いた顔がまるで、捨てられた子猫みたいに見えて。

 だから彼女はもう一度、陽菜に向き直り、イタズラ心いっぱいに彼女へ手招きした。

 陽菜は不思議そうに首を傾げながら、パタパタとした足取りで彼女に近寄る。彼女は耳を寄せろとジェスチャーし、こしょこしょと小声で陽菜の耳元に囁いた。

 彼女が知っている事を、少しだけ。

 そうしたら陽菜の顔はみるみる赤く染まっていき、まるで熟れたリンゴのようになってしまった。

「なっ、なっ、なっ……」

「試してみれば?」

「へ、変態! へんたい! ヘンタイッ!」

 イタズラの成功した彼女は満足気に頬を緩め、今度こそ陽菜を放置して家路へとついた。

 愉悦は、彼女にとってはとても貴重な、生きる理由だ。

 陽菜は彼女に関わることで、これからどんな存在になっていくだろうか。

 未知数で、不可解で、不明瞭で。

 彼女とってそれがとても、面白い。




 美紗緒さんが居なくなってからの公園で、わたしは一人ぽつねんと桜の木の下にたたずみ、火照った頬が冷めるのを待ちながら暮れなずむ空を眺めていた。夜の帳が下りるのに合わせるように風が少しだけ冷たくなり、ふと鼻筋を通ったどこかの家の夕ごはんの匂いにつられて、わたしはくしゅんとくしゃみした。

「……かえろう」

 わたしはランドセルを背負い直し、星の輝き始めた空の下をゆっくりぽてぽてと家へ向けて歩いた。

 ふと、ケータイの液晶画面を確認すると、四件の着信履歴と三通のLINEメッセージが届いていた。相手はほとんどお母さんから、うちメッセージ一通は香澄からだった。

 お母さんからのメッセージを先に確認すると、一通目は夕方六時頃に「どこにいるの?」という確認。もう一通は七時ごろに「早く帰ってきなさい」というお叱り。こりゃ帰ったら怒鳴られるなぁなんて思いながら、香澄からのメッセージもついでに確認する。予想通り内容は「なんで先に帰っちゃうの?」なんてお小言だった。

 わたしはそれぞれのメッセージに適当な返信を送りながら、頭のなかでは美紗緒さんの事を考えていた。

 彼女が一瞬だけ見せてくれた「本物の笑顔」を思い出すだけでわたしの心臓は、ズキズキと危険信号を発信し始める。

 あの人は危険だ。

 絶体に近づいちゃいけない。

 でないと、いつかわたしの世界のなにもかもを無茶苦茶に破壊してしまうような、そんな予感を感じさせる笑顔。

 最高に、素敵。そんな想い。

 きっと美紗緒さんのあの笑顔を見たことがある人はわたしだけだ。そんな気がする。美紗緒さんは誰にでもあんな風に笑うわけじゃない。

 わたしだけが知っている、わたしだけの美紗緒さん。

 気づけばわたしは、そんな美紗緒さんの虜となっていた。

 あの人なら、この世界を崩壊させてくれるんじゃないだろうか。わたしが守っているちっぽけなものをなにもかも無差別に破壊して、あんな風に笑ってくれるんじゃないだろうか。

 なんて醜くて、恐ろしくて、哀しい光景だろうか。想像するだけで、ぞくぞくする。他人に、誰かになにかを期待するだなんて感情を持ったのは初めての経験だ。だからこんなにも高鳴る鼓動と昂ぶりの解消の仕方がわからなくて、わたしの歩みはどこか浮き足立っている。

 家に帰り着くなり、お母さんにものすごい剣幕で怒鳴られた。

 やれ心配しただの、やれご飯が冷めるだの、連絡くらいよこせだの、お決まりの文句をみっちり聞かされて。それでもそれが終わればしっかりと温めなおしたご飯をきちんと振る舞ってくれるあたり、優しい母親である。妹とお父さんはもう食べ終わったらしく、リビングでゆったりとテレビを観ていた。

 わたしが「ただいま」といえば、みんなが「おかえり」と迎えてくれる。

 こんなにも、なに不自由ない平和な家庭に生まれ育って、なぜわたしはこんな風になったかなと時々思い悩むこともある。せめて妹には、まっとうに育って欲しいものだ。

「はるちゃん、おかえりー」

「ただいまー、なっちゃんー」

 ぴこぴこと小さな手を振ってダメな姉を迎えてくれた妹の菜摘(なつみ)のほっぺをムニムニと撫でる。まだ五歳の菜摘のほっぺはつきたてのお餅みたいにふっくら柔らかで、何時間触っていたって飽きやしない。ダメ姉、シスコン真っ盛りです。

 家でのこんなわたしを知っているのは、家族以外では香澄くらいだろう。クラスメイトにこんな姿を見られたらどうだろうか。――羞恥心で死ぬ。

 クラスではいつも機嫌が悪そうに振る舞って、他人が近寄ってくることを阻むわたし。その態度の正体はといえば情けない、他人が怖いからだ。

 他人というモノが理解出来なくて、無闇にわたしの内側を探られるのが怖い。だから、近づかれないように振る舞うの。土足で踏み込んできたならば、二度と近づいてこないように徹底的に叩き潰す。ただ、それだけ。

 家族はわたしを、無条件で愛してくれる。だからわたしも安心して、無条件で家族を愛することができる。

 他人は違う。隙を見せればつけいられるし、情が絡めば好意も悪意も二転三転当たり前。ひどくあやふやで、面倒くさい。

 利害や感情を鑑みてまで、他人と関わりあう理由がわたしには無い。理解できない。そんなものに振り回される生活なんてまっぴらごめんだ。

 ――……けれどきっと、美紗緒さんは違う。あの人のあの笑顔は、「利害や感情を鑑みるために作られた笑顔」だ。

 そんな風にしてまで、世間に溶け込んで。あの人は、なにを考え、なにを思って生きているのだろうか。

 美紗緒さんはきっと、わたしが知らないことを沢山知っている。わたしが知りたい事も、知りたくない事も、きっとわたしよりずっと色んな物を見てきている。

 美紗緒さんはこんな腐った世界で、腐ったような笑顔を取り繕って生きている。

 彼女の家族は、どんな人達なんだろうか。お父さんかお母さんはやっぱり、外国の人なのだろうか。

 もうご飯は食べただろうか。シャワーを浴びているだろうか。兄弟はいるのだろうか。寂しく、ないのだろうか。

 気づけばわたしは、美紗緒さんのことばかりを考えていた。美紗緒さんの事をもっと知りたくて、好奇心がうずいて仕方ない。

 綺麗な瞳。覗きこめば吸い込まれてしまいそうに深い、ラピスラズリのような蒼い輝き。

 あの瞳とあの醜悪な笑顔を思い出すだけでわたしは、心臓を鷲掴みにされたかのように興奮する。


「――……ん、ぁふ……――」


 部屋に戻って、ベッドに潜って。わたしはひとり、去り際に彼女が囁いた行為に及んでいた。 

 左手を股の間に添えて、優しく虐めるように指を動かす。右手は左の乳首をまさぐりながら、敏感な箇所を慣れない手つきでそっと触れた。

 ゾクゾクと走る快感に、呼吸が荒くなる。心臓を苛む熱がわたしの手を自動的に操っているかのように動かし、わたしを虐める。慰める。

「や……ぁん、はっはぁん……――!」

 真っ暗な部屋の中で一人行為を嗜み、気づけば興奮で頭のなかが真っ白になる。

 その一瞬ばかりは腐った世界も醜いわたしもなにもかもが思考から消え去り、感覚だけで一瞬を過ごし、果てた。

 わたしの体液でグショグショになったパンツを肌で感じながら、羞恥心と快楽に板挟みにされて枕に顔をうずめた。

「……こんなの、ずるいよ……」

 こんなコトで、こんなモノで。納得してしまえるならばわたしはどれだけ、ちっぽけな人間なのだろうか。

 一瞬だけ、それでもほんの一瞬だけ「それでもいいかな」って思ってしまった自分の頭を、拳でゴツンと殴りつけた。

 わたしの知らない美紗緒さん。わたしだけが知っている美紗緒さん。

 こんな卑怯な逃避の仕方を知っている美紗緒さんは、他にどれだけ醜い世界を知っているのだろうか。

 果てる一瞬に浮かんだ光景が美紗緒さんの笑顔だったことを意識した瞬間、わたしの頬の熱は限界を迎えた。




 彼女が家に帰ってきたって、誰も出迎えてくれはしない。

 父親は仕事だといって遅くまで帰ってこないし(本当かどうか、彼女の知ったことではない)、義母は父親に内緒でホストクラブに通っている(彼女にとっては、どうでもいい)。

 義姉は部屋に引きこもって滅多に顔を合わせる事もないし、彼女は義母が作りおきした夕飯を温めなおして、独りで黙々とそれを食べる。

 彼女はそれを寂しいと感じた事はないし、こんな状態が正常だとも思っていない。だからどうしたと、日々の糧を腹に収めるだけだ。

 この家がどのように崩壊しようとも知ったことではないし、例えその原因やきっかけが彼女自身だったとしても、気に留めるような事ではない。

 彼女はただ何も気づかないフリをしたまま、仮面を被って優等生を演じていればいいのだ。

 彼女の自室に戻る途中、廊下に人の気配を感じた。トイレにでも行っていたのか、珍しく部屋の外で義姉と鉢合わせた。

「ただいま、お義姉さま」

「……ちっ」

 義姉は学校にはそれなりにきちんと通っているらしく、公立中学の制服を着たままだった。彼女は作り笑顔を崩さないまま義姉とすれ違って自室に戻ろうとしたけれど、珍しいこともあるもので義姉の方から彼女に声をかけてきた。

「……あんたさ。なにやってんの? 小学生なんかと、あんなとこで話し込んで。は、恥ずかしいから、やめなさいよ」

 驚いた。見られていたらしい。いつからか、どこまでかは知らないけれど。

「偶然、知り合って。音楽の話をしていたらつい盛り上がってしまいまして」

「……はっ。なにが音楽よ。軽音楽なんて、気品のかけらもないわね、はしたない。まぁ? あんたみたいなのにはお似合い、よね」

「……くすっ」

「な、なによ……。なにその笑い方!? ばかにしてるみたい、見下しているの!?」

 彼女はずいっと身を屈めて、見上げるように義姉の瞳を射抜き、満面の笑みで謝罪した。

「申し訳ありません、お義姉さま……?」

「……ちっ、近寄らないでよベツバラ!!!」

 唐突に、義姉に突き飛ばされて彼女は身体のバランスを失い、廊下に転んだ。こんな風に倒れるのは、今日二回目だ。

「……はぁ、はぁ……、はぁ……」

「…………ぷっ、くすくすっ。あははっ、あはははははははははは……」

 彼女は、笑った。満面の笑みで、笑った。そうしたら義姉は怯えるように表情を歪めて、逃げるように自分の巣へと帰っていった。

「…………ベツバラ、だって」

 彼女は反芻して、その言葉を、意味を。咀嚼するように、噛みしめる。

「――……ママ」

 彼女は、ぽつりと。

 誰もいなくなった廊下で独り、つぶやいた。




 毎日、毎日、毎日。

 わたしは学校が終わるとすぐにあの公園へと向かい、美紗緒さんの姿を探した。

 ほとんどの場合わたしが先に公園にいて、後から美紗緒さんがふらりとやって来た。どんなに待っても来ない日もあったし、会えても一言も口を利いてくれない事だってざらだ。それでもわたしは毎日毎日、美紗緒さんへ会うために足繁く公園へと通った。

 美紗緒さんは機嫌がいい時は饒舌だけれど、殆どの場合はわたしの事なんかてんで無視して桜の木の下でギターの練習をしていた。わたしはそんな美紗緒さんの邪魔はしたくないから、だまって美紗緒さんが帰るまでじっと静かに、練習風景を眺めている。美紗緒さんはわたしが居ても居なくてもお構いなしといった様子で、わたしの存在なんかてんで無視して。ずっとギターの練習に打ち込んで、本当に気が向いたら時々わたしに話しかけてくれて、そして帰りたいと思った時に帰ってしまう。わたしは毎日、美紗緒さんが帰るまで美紗緒さんのそばに居て、気づいたら夜遅くになっていたりするから、そのたびにお母さんに怒られた。最近は、夕方六時を過ぎるような気配を感じたら一言だけメールを送ることにしている。それでも、あんまりにも遅く帰った日にはものすごく怒られるのだけれど。

「ねえ、陽菜。もしかしてさ」

「うん?」

「あなた、バカなの?」

「……それはどういうニュアンスで?」

「普通さ。飽きたりとか、怒ったりとかするものだと思うけど。こんな扱いされたら」

「そうかな。わたしは、わたしがこうしたいから、こうしてるだけだし。美紗緒さんには関係ない。でしょう?」

「――そりゃそうね」

 それだけ言うと美紗緒さんはまたふいと視線をギターに戻して、わたしの事なんか全部無視して自分の在り方に没頭する。

 そんな風に好き勝手に振る舞う美紗緒さんを見ているのが、わたしは好きなんだ。


 ある日、いつものように美紗緒さんに会いに行こうとした矢先、待ちぶせしていた香澄に捕まった。

「陽菜、いっしょに帰ろう」

「ごめん、用事あるから無理」

「用事ってなによ。最近いっつも私の事置いて帰っちゃう! はっ!? まさか、彼氏とかできちゃったりとか!?」

「ちがう。ウザい」

 わたしはグイッと香澄の肩を押しのけて通り抜けようとしたけれど、片腕を香澄に掴まれて引き止められてしまった。ため息を吐きながら振り返ると、香澄が涙目になって震えていたのでひどく驚いた。濡れた瞳に、キッと睨まれる。

「おばさんに聞いたよ。最近、帰りが遅くなる事が多いって。陽菜がなにやってるのか、私だって心配だよ! なのになによ、ウザいってなによ! 友達だから心配するよ! 当たり前じゃんか陽菜のバカっ!!!」

「あ、あー……あー……――」

 失敗した。こういう面倒事こそをわたしは回避しなければならないのだけれど。

 下駄箱を行き交う生徒たちの視線がチクチクと痛い。

 冷静に考えてみれば、ここ何日かのわたしの行動は明らかに異常だった。わたしが守るべき世界の常識を一歩踏み越えかけていた。

 わたしは、美紗緒さんの存在に期待するばかりに、自分から地雷の埋まった道に踏み入ろうとしていた。

 それじゃあ、意味が無い。美紗緒さんだけに執着していたら、いずれ終着点すらも見失ってしまうのかもしれない。

 わたしは反省しながら頬をかき、香澄の頭をポンと撫でた。香澄は鼻をすすり、射抜くようにわたしを睨みつける。

「……ごめん。今日は香澄といっしょに帰るから。だからもう泣かないで」

「……コンビニ」

「はい?」

「アイス」

「……はいはい」

「ベルギーチョコソフト!」

「うるさいな分かったよ、奢るよ!」

「……にへへー」

 言いたい放題言い切ると、香澄は機嫌を直したように頬を緩ませた。まったく、憎たらしい奴。

 二人で他愛もない話をしながらコンビニへと寄り道し、チョコレートのソフトクリームを二つ買って二人で並んで食べた。

 並木道の桜の花はもうとっくに散ってしまい、緑の葉を茂らせて季節の移ろいを示唆し始める。ぼんやりとそんな景色を眺めながらアイスを舐めていたら、ふいに香澄がわたしの方をじっと見つめながら口を開いた。

「……あのね、陽菜。話したくないなら、いいんだけど」

「話すつもりはないから聞かないで」

「……むぅー」

 唇を尖らせて拗ねた香澄は、大口を開いてがぶりとアイスにかぶりついた。冷たさにやられて、頭痛を堪えるように表情を歪める。バカ。

「……私ってさ、ちゃんと陽菜の友達できてるよね」

「不満に思ったことなんてないよ」

「私にも、話せないようなことなの?」

「…………心配させた事は、謝る。これからは、なるべく早く帰るようにする。けれど、わたしは見ていたいの」

「私も一緒じゃダメ?」

「だめ」

 即答した。何故なら、美紗緒さんの側に居ることでわたしが期待している事は、どこまでいったって、破滅でしかないのだから。

 香澄も、菜摘も、お父さんもお母さんも、美紗緒さんに触れられてはいけない。

 ただ漠然と、わたしにとっての平和な日常の中で、なにもかもが消し飛んでしまわなければ、意味が無いのだから。

 巻き込むわけにはいかない。どんな些細な事であれ、わたしはわたしの感情を自己完結させなければならない。

「……そっかぁ」

「ごめん、香澄」

「陽菜は頑固だからなぁ。きっと、自分がこうだって決めたことを、貫き通しちゃうんだね」

 見透かされているような気さえした。香澄は残ったコーンをかじりながら、納得したように頷いている。

 わたしは、不器用だから。これ以上うまくはやれない。香澄が離れていってしまっても仕方ないなと思ったけれど。

 香澄はやっぱり今までどおり、笑ってわたしの幼なじみのままでいてくれた。

「時々は、わたしといっしょに帰ってくれること。それが条件」

「うん」

「なにか悩んでることがあったら、ちゃんと相談してね……?」

「……うん」

 もしも、相談できるような悩みであったならば。わたしももう少しくらいはちゃんと、香澄の友達でいられたのかもしれない。

 誰にも話せない。誰にも知られてはいけない。わたしの想い。わたしの望む終焉。

 途方も知れないほどに下らなくてちっぽけな想いを美紗緒さんひとりに押し付けるわたしは。

 正真正銘、どうしようもないほどの愚か者だ。




 この数日間、陽菜は公園に現れなかった。

 彼女はついに愛想を尽かされたかなんてうそぶいてみたけれど、そもそも陽菜は愛想笑いのひとつも出来ない不器用な娘だなぁと思いだして、彼女は鼻で笑った。

「……? どうかされました、美紗緒さん」

「いいえ。なんでもないわ。ちょっと、思い出し笑いをしていただけ」

「……そうですの? なんだか、ちょっぴり寂しそうな笑い方に見えましたけれど」

「気のせいよ、きっと」

「……そうですわね。それにしても、素敵な公園ですね。いつもこんなところで練習していらしたの?」

「ええ。とても静かで、気に入っているの」

 夕刻過ぎからのこの公園は、本当に静かになる。生い茂る木々が街から届くノイズを阻んでいるかのように、草木が揺れる音と水の流れる音だけが辺りを支配する。寒気すらも感じさせるほどの静寂が、彼女の肌には心地いい。ひとりの時間を過ごすには、うってつけの場所だ。

 小野寺さんを連れてきたのは、ほんの気まぐれ。今日は諸々の都合により軽音楽部の活動も休みで、暇を持て余していた小野寺さんを彼女が誘った。

 理由も、意味も、そこにはない。他意もなければ、小野寺さんと仲良くしたいだなんて思っているわけでもない。

 だから、今日たまたま久しぶりに陽菜がここに現れたのは、ただの偶然。

 陽菜は彼女と小野寺さんが親しげに話す姿を少しだけ離れた位置からぼんやりと見据えて、棒立ちになっている。

 それに気づいた瞬間、彼女はなんとも言い知れぬ愉悦を感じて、心のなかでクスクスと笑った。

「……あら? あの子、美紗緒さんのお知り合い……?」

「ん……、あぁ。陽菜、こっちおいでよ」

 彼女が呼びかけると陽菜はびくりと肩を震わせ、おずおずと様子を伺いながらこちらに歩いてきた。警戒する猫みたいで、面白い。

 陽菜は彼女たちの側までたどり着くと、なにをどうすればいいのか迷っているような様子で彼女と小野寺さんの顔を交互に見つめて、しばらくしてから小野寺さんにペコリと小さく会釈した。小野寺さんはそれを見て優雅に笑い、陽菜に向けて手を差し伸ばす。

「はじめまして、小野寺です。美紗緒さんの、お友達?」

「…………………」

 陽菜は差し出された手をどうすればいいのか、それとも彼女の友達かと聞かれたことにどう答えるべきなのか迷っているような、そんなマヌケな表情でじっと小野寺さんの手を睨み続け、最後にはぷいっとそっぽを向いてしまった。

「……あらぁ、嫌われてしまいました?」

「この子、人見知りなの。ごめんなさいね、小野寺さん」

「まぁ、そうでしたの。残念ですわ。……あ、私そろそろ塾の時間ですので、失礼しますね」

「うん、さよなら。小野寺さん」

「ごきげんよう」

 小野寺さんは爽やかな笑みで彼女と陽菜に会釈し、公園を後にした。陽菜はしばらく俯いたままじっと地面と睨めっこしていたけど、そのうちプルプルと震えだして彼女の事を睨んだ。だから彼女は、思いっきり陽菜を嘲笑してやった。

「くすっ、あはは。あはははははっ!!」

「……わたし、人見知りなんかじゃない!」

「人見知りじゃない。それとも、あたしと仲良く話してる小野寺さんに嫉妬しちゃった?」

「なにさ、美紗緒さん。あんな風にいつも笑ってるの、気持ち悪い」

「そうよ? あれが普段のあたし。いつものあたし。普通のあたし」

「あんな美紗緒さん見てても、全然楽しくない!」

「陽菜だけだよ。あたしが素のままでいられるの」

 彼女がそう言うと、陽菜は頬をぽっと赤くして言葉をつまらせた。

「座りなよ。となり、空いたよ」

「むぅ……」

 陽菜はどこか納得できないと言った様子で頬を膨らませながら、それでも素直に彼女の隣にすとんと腰を下ろす。もうすっかり桜も散ってしまい、まだ一か月とたたないというのに、陽菜に出会ったあの日がずいぶん前のような気がする。無言でギターのチューニングをする彼女を陽菜は横目でチラチラと見ながら、いつものように静かに黙って、彼女の隣に座っていた。

「久しぶりじゃない。もう来ないかと思った」

「わたしだって、色々……。と、友達付き合いとか、あるし」

「へぇ。友達いるんだ。そういうのも、面倒臭がるタイプかと思ってた」

 図星だったのか、陽菜はそれ以上反論してはせず、視線をふいと空に向けて黙りこんでしまった。彼女は音の感覚を確かめながら、そんな陽菜の反応をひとつひとつ観察して、楽しんでいる。陽菜はなにか言いたそうに口ごもりながら、何度か言葉に出そうとしては躊躇して、悩ましげに足をバタつかせた。

 そうしてから陽菜は意を決したように彼女に視線を向けて、彼女は小首を傾げて陽菜の言葉を受け止める。

「さっきの人は、友達?」

「違うよ。あたしに、友達はいないもの」

 彼女がそう答えると、陽菜は意表を突かれたようにきょとんとして、ぱちくりと目を瞬かせた。

「友達ってさ。お互いがお互いを友達だと認識しあって、初めて友達だと呼べるものだと思うの。だからあたしに、友達はいない。だって、誰もあたしの事なんて知らないんだから」

「……わ、わたしは?」

「陽菜は、そうねぇ。あたしの中では、野良猫みたいなモノかも」

「に、人間未満の扱い……!?」

「誰だってそうよ。陽菜が特別なわけじゃない。あたしにとって、人間はみんな壁の一枚向こう側の存在で、決して真っ直ぐに視線を合わせる事はないの。陽菜ならあたしのそういう感覚、わかるでしょう?」

「けど、けれどそんなの。……絶対、寂しいよ」

「……そうね」

 彼女は陽菜の頬に手を伸ばして、彼女の肌の温もりを楽しむようにそっと撫でた。陽菜はどこか不安げな瞳で彼女をじっと見つめ、その頬に触れる彼女の手を握った。

「あたしが陽菜みたいに、まともな人間らしい感情を持っていたなら。今頃寂しくて、死んでしまっていたかもね」

「……美紗緒さんは、嫌にならないの。苦しくないの? あんな風に、誰とも真っ直ぐに向き合わないで生きていて、息苦しくて窒息してしまいそうにならないの」

「ならないわね」

 陽菜の声は震えていて、今にも泣きだしてしまいそう。

 彼女の言葉になんて耳を貸すから、こうなる。まともじゃない人間の感性に触れれば、まともな人間はいずれ折れてしまう。

 だから彼女は他人に迷惑をかけないように、仮面を被って生きる義務がある。まともな人間を装って、社会に溶け込む責任がある。

 産まれてきたことが間違いなのだからせめて、模範的に正しく生きてみせねばならないのだ。

「ねぇ、陽菜? あなたがあたしに何を期待しているのかはなんとなく想像できるけれど。やめておきなさい。あたしみたいモノのに関わったって、ろくな事になるわけがない。あなたはあたしと違って、ちゃんと感情があって、守りたい幸せがあって。それ以上に望むことなんて、なにもないと思うよ」

「……どうして。どうして美紗緒さんがあんな風に笑っていなきゃいけないのかなって。毎日、いつも、ずっと考えていて。頭から、美紗緒さんの本当の笑顔がこびりついて、離れなくて。どうしてこんな世界のために、美紗緒さんが我慢しなきゃいけないのかなって。美紗緒さんは、本当の笑顔で笑っていたほうがもっと、ずっと、素敵なのに」

「あたしが生まれたことにも、生きていることにも。意味なんて、ないよ」

「だったら、なんで美紗緒さんはそんなにも憎悪に満ちた目で笑うの? こんな世界、美紗緒さんが仮面を被ってまで守ってあげる価値があるの……?」

「陽菜は、優しすぎるよ。この世界がどんなに醜く腐っていたって、あなたひとりが抱え込むような事なんかじゃない。汚いものからは目を背けるのが普通。危ないものには関わらないのが普通。自分の幸せに精一杯なのが普通。陽菜は普通の女の子らしく、普通に幸せになればいいと思うよ」

「だったら! 美紗緒さんはずっと独りじゃん! 寂しいままじゃん! なんで誰も美紗緒さんをちゃんと見ないの? なんで目を背けるの? どうして美紗緒さんが美紗緒さんらしく笑っちゃいけないの!? そんなのおかしいじゃん、こんな世界のほうが間違ってる!」

 陽菜の口から溢れる言葉は頬を伝う涙と同じくらい熱くて、眩しくて。そんな陽菜を見ても、彼女の心は揺らがない。届かない。彼女の心はとっくの昔に、もう死んでしまっているのかもしれない。死人が生きてる人間とお話するなんて、それこそが間違いなのかもしれない。

「じゃあ、あなたがなんとかしてくれるの?」

 彼女の手を握る陽菜の手が、ビクリと震えるのを感じる。彼女は憎悪と侮蔑を込めた笑みで陽菜の瞳を覗き込み、捉えて掴んで逃がさない。心臓の奥の奥をナイフで突き刺すかのように一歩、深く寄り添って。彼女は自分の顔をそっとゆっくり、陽菜の唇に近づけた。

「――…………っ」

 陽菜は瞳をぎゅっと閉じて、それでも震える手は彼女の手を強く握って離さないまま。彼女の呼吸が肌に触れる距離まで近づくのを、じっと押し黙って耐えていた。

 ――このまま。

 陽菜の日常や、ささやかな幸せをなにもかも、ぶち壊す事も出来る。

 彼女に関わるということはそういうことだ。陽菜を奪って、陽菜を壊して、ズタボロになるまで弄んで。

 そうする事だって、彼女になら出来る。

 そうする事になんの躊躇も迷いもなく、ただ陽菜の人生を破滅させることだって出来る。

 陽菜の、望むままに。彼女が、手に握った賽を投げれば。

 だから――。

「――……ぷっ」

「――…………っ?」

「なに、赤くなってるの? キスでもされるかと思った?」

「――……なっ」

「くすっ! あはっ、あはははっ! ほんと陽菜、面白い! からかうと、素で反応してくれるんだもの。あははっ、あははははは痛だっ」

 彼女は左の頬を、平手で殴られた。

 彼女が笑みを崩さないまま陽菜の顔を見ると、陽菜は羞恥で顔を真赤にしながら涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃに歪めて、せっかくの可愛い顔を台無しにしていた。彼女を殴った右手で涙と鼻水を必死で拭いながら、それでも視線は彼女の瞳を睨み続けている。

「みくびらないでよ! 蔑まさないでよ! わたしは、美紗緒さんが思ってるような子供じゃない!」

「……子供じゃん」

「わたしは、美紗緒さんを救えるだなんて思ってない。思い上がってない。ただ、それでも、けど……っ。こんなの、ダメじゃん……っ」

「……言葉が足りない。彼女には陽菜が何を想っているのか、あたしには何も伝わらない」

「だったら、もういい!」

 陽菜ふいと彼女から顔を背けて立ち上がり、ランドセルを背負い直した。

 このまま放っておけば、陽菜は彼女から離れていくだろうか。もう二度と、ここには来ないかもしれない。

 彼女に背を向けたまま必死に顔を拭う陽菜の姿はとても痛々しくて、彼女の中にある嗜虐心を煽る。

 もしも。彼女の心にほんのヒトカケラでも良心というものが存在していたのなら、ここで全部オシマイにした、はずだ。

 けれど、濁って腐って底の見えない沼のような彼女の心は、陽菜の足をドロドロと絡めとって、逃がさない。

「ねぇ、陽菜」

「……なによっ」

「LINE、交換しようか」

「…………」

 陽菜は彼女の言葉を振り切るように何歩か前に歩いてから立ち止まり、何かに迷うように俯いて考えこんで。それから、無言でてくてくと彼女の隣まで戻ってきて、彼女と視線を合わせないままにペタンと座り込んだ。

「……するっ」

「……ふふっ」

 彼女と陽菜はお互いのスマートフォンを取り出し、登録画面を開いて端末を揺らした。

 衛星電波が彼女と彼女の距離を捉えて縛り付けて、無理やり繋ぎ止める。

 登録画面をじっと見つめる陽菜の表情はまるで、季節外れのナデシコの花のように揺れていた。




 自分で自分の考えていることが解らなくなるなんてことは、よくあることだ。思考と感情が合致しなくて、その歪みに悩まされて身動きが取れなくなる。わたしは美紗緒さんと別れてから早足で家路を歩き、頭の中でずっと美紗緒さんになんてメッセージを送ろうかなんて事を考えていた。

 美紗緒さんが何を考えているのか、さっぱりわからない。わからないけれど、それでも素直に嬉しいと思ってしまう自分が、情けない。

 喧嘩することすら出来ない。わたしは美紗緒さんと全然、対等なんかじゃない。

 もっともっと知りたいことがある。聞きたいことがある。踏み込んで、怖い思いをしたいと感じている。

 けれどわたしから見た美紗緒さんの距離はあまりにも遠くて、美紗緒さんは高く遠い位置から私のことを見下ろして、クスクスと笑っている。

 だから、手にしたこの足がかりをどうやって使うのが正解なのかわかりかねて、わたしは美紗緒さんへの最初のメッセージをなんて送るべきなのかなんて事に、ずっと思い悩んでいるのだ。バカバカしい。

 悩みながら歩いていたら家の玄関まではあっと言う間に辿り着いて、今日は夕飯の時間よりも早く帰宅した。

「ただいまー」

「はるちゃん、おかえりー」

「……ただいまなっちゃんー!」

 笑顔でお出迎えしてくれた菜摘をぎゅっと抱きしめると、ぽよぽよと柔らかくてふわふわと温かくて、わたしは思わず頬ずりした。

「ふあー。はるちゃん、くすぐったいー」

「うりうり~!」

「きゃー」

 菜摘を抱き上げると、いつの間にかもうわたしの腕力じゃ立っているのも辛いくらいに大きくなっていて。わたしはよたよたと覚束ない足取りで廊下を歩き、ふらふらクルクルと壁にぶつかったりしながらリビングに飛び込んだ。菜摘を抱っこしたままソファまで歩き、そのまま二人で沈み込むようにバタンと寝そべる。

 テーブルの向かい側でテレビを観ていたお父さんが、そんなわたしと菜摘を微笑ましげな視線を向けて、キッチンで夕食の準備をしていたお母さんが呆れたようなため息を吐いた。

「おかえり、陽菜」

「ただいま」

 家族がいて、友達がいて、当たり前の幸せがあって。

 そこに不満があるわけじゃない。自分から壊したいわけじゃない。

 だったらなぜ、どうして?

 わたしはこんなにも、美紗緒さんに惹かれているのだろうか。

 彼女の仮面の下に眠る絶望を、もっと知りたい。共有したい。

 それが、わたしの望む破滅だと知っていても。それが、わたしの望まない終わりだとしても。


 彼女ノ存在ガ、私ノ世界ノナニモカモヲ、塗リ変エテシマウ。


 鼓動と吐息に篭もる熱が、わたしの身体を焼き付けていく。

 こんなにも、誰かを想って苦しむくらいならばいっそ。

 美紗緒さんとなんか、出会わなければよかったのに。




雨が降っている。

 西向きの窓を叩く雨粒がノイズとなって、彼女の時間を阻害する。

 部屋を満たす空気はじんわりと湿り気を帯び、倦怠感からくる偏頭痛が彼女の脳を蝕む。

 窓ガラスに頬をあてると、ひやりと冷たくて彼女の体温を奪っていく。このまま霧になってしまえたならば、あの雲の向こうまで飛べるだろうか。

 あの雨雲を貫いた先にある空に、虹は輝いているだろうか。

 そんな事をぼんやりと考えていたら、唐突に彼女の部屋のドアがぶち破られんばかりの勢いで開かれた。彼女が視線をドアの方に向けると、ずぶ濡れ姿の義姉が気狂い染みた表情でそこに立っていた。

「……なにか用ですか、お義姉さま?」

「あんたがっ!」

 義姉は肩で息をしながらつかつかと彼女の前まで歩み寄り、手に持った封筒から何枚かの写真を取り出し、床に叩きつけた。

 その写真に写っているのは、ホストに狂う義母の姿と、どこぞの誰とも知れぬ女とラブホテルに入っていく父親の姿。

 ――ああ、なんだこいつ。今更になってこんな事を調べていたの?

 彼女はそんな義姉の姿を、哀れみとも蔑みともいえない笑顔で見つめた。

「……それで?」

「あんたがっ! あんたが来てから、この家は狂ってしまったのよ……! ぜ、全部あんたのせいよ! お母さんがおかしくなったも、お父さんが家に帰ってこないのも! 全部あんたが、あんたがあんたがあんたがあんたがぁ!!!」

「…………だから?」

 彼女は、笑った。穏やかで心優しい少女を装った笑顔で、義姉の目を真っ直ぐに見つめながら。

 義姉の握りこぶしが真っ直ぐに飛んできたので、彼女は軽やかに一歩下がってその拳を避ける。バランスを崩してよろめいた義姉を蹴り飛ばす事もできたけれど、それもしないまま軽やかにステップを踏む。なんとかバランスを取り戻した義姉は奇声を発しながら獣のように荒ぶった体当たりを放ち、それを受けた彼女は背後のベッドへとなぎ倒された。

 義姉はそのまま彼女の身体に馬乗りになり、何度も何度も彼女に拳を叩きつける。怨嗟の叫びと骨のきしむ音が、雨音と混じってノイズを奏でる。

 ――うるさいなぁ。

 ――そんなに邪魔なら、もっと早くこうしてくれていればよかったのに。

 ――そうすれば、もしかしたら。

 ――陽菜の、あの不器用な笑顔を知らずにすんだかも、知れないのに。

「……少し静かにしてよ」

 貫く。

 銀色のナイフが残響を切り裂いた。

「は?」

 義姉の腹部に突き刺したナイフを、彼女は躊躇なく引き抜く。飛び散った鮮血が窓辺を濡らし、滴る雨粒と一緒に流れていく。

「……痛、あぅぐぅぅぅぅ……!? 嗚呼あぁあぁ熱あぁあぁ……っ!!!」

 ベッドの上でのたうち回る義姉を放置して、彼女は部屋を後にした。

 もう少し、なにか感じるものかなぁと想像していたのだけれど。

 血に濡れたナイフを見ても、痛みにもがく義姉の姿を見ても。

 なんの感傷も覚えない自分に、ほとほと呆れるばかりだった。

 ため息を吐きながら懐にナイフをしまい、ふとケータイの画面を確認する。

 時刻は、夜の八時ちょっと過ぎ。LINEに、陽菜からのメッセージ。

『雨だね』

 そんな、他愛もない言葉が。あの子の人間性をそのまま表しているような気がして、彼女は思わず頬をゆるめた。

 彼女は雨の降りしきる窓の外を眺めながらなんて返信してやろうかなと、しばらく黙考する。

 雨音がブツブツとノイズのように響き、静寂が耳鳴りとなって鼓膜を揺らす。

 あまりにも静かすぎて、それすらも煩わしくて。なにもかもかき消して、目の前から消え失せて。

 そしたらふっと、陽菜のあの不器用で間の抜けた笑顔がパッと浮かんできて。

 ――だから。


『今から、会える?』


 彼女はそんなメッセージを、陽菜に送った。



 こっそりと、家を抜けだそうとしたのに。

 間が悪いのか、それともなにか勘付かれたのか、リビングから顔を覗かせたお父さんに見つかってしまった。

 お父さんはふわりとした笑顔でわたしの事を見つめながら、首を傾げる。

「こんな時間に、どこへ行くんだい?」

「……ちょっと、香澄のとこ」

「陽菜は、ウソが下手だね」

「う……」

 見透かされて、どうやって誤魔化そうか考えたけれどすぐに無駄だと悟って、お父さんには正直に話すことにした。

「……今すぐに、会いに行かなきゃいけない人がいるの」

「明日にしておきなさい。夜に一人で出歩くなんて、危ないから」

「ダメなの。今すぐじゃなきゃ、ダメなの」

 きっと、美紗緒さんが「今」と言ったからには、今でしか無い理由があるんだ。何があったのかはわからない。だけど、美紗緒さんが今、わたしに会いたいって言っている。

 わたしは、美紗緒さんに応えたい。たとえそれがどんな気まぐれであったって構いはしない。

 今すぐに、会って美紗緒さんを確認したい。予感にも似た何かが、わたしの心を突き動かす。今を逃したら、次は無い。

「お願い、お父さん」

 お父さんはじっとなにかを値踏みするようにわたしの瞳をじっと見つめて。

 わたしはその視線から逃げずに、じっと見つめ返した。

 十二年もの間。わたしを見守り続けてくれた瞳が優しく緩み、お父さんはうんとひとつ頷いた。

「後悔は、しないようにね」

「……はいっ」

「いってらっしゃい」

「行ってきます」

 わたしは深々と頭を下げてから傘を一本手に持ち、家を出た。玄関のドアが閉まる一瞬、振り返るとお父さんは胸のあたりで手を振りながら、パタンとドアが閉まるまで私のことを見送ってくれた。つくづく、ダメな父親だとわたしは思う。こんな風に、娘のワガママや身勝手を黙って許すだなんて、ろくなものじゃない。

 けれど、だからこそ。

 わたしは、この家に生まれたことを神様に感謝した。

 傘を開き、小走りで駆けながらあの公園を目指す。歩き慣れた道筋は夜の闇と雨の音に飲み込まれて、まるで知らない場所を初めて歩くときのように距離感がうまく掴めない。見慣れた看板、学校の校門前を抜けてからなお先も、こんなに遠かったものかと息を切らせながらわたしは走った。

 息も切れ切れにやっとの思いで公園にたどり着くと、辺りを囲う木々が影を作り公園の中はまるで深淵のように暗く、雨が木の葉を叩く音がザワザワとわたしの心臓を揺らす。

 わたしは真っ直ぐに闇の中を抜けて、いつも美紗緒さんと過ごした桜の木の下を目指す。噴水の横を通るとき、雨がバタバタと水面を叩く音が妙に耳に響いた。

 あの桜の木の根本に、薄っすらと光が見える。近づいて確かめると、美紗緒さんは傘もささずにずぶ濡れのまま、桜の木の下でケータイをいじっていた。その表情は暗がりに阻まれてよく見えず、液晶の輝きがぼんやりと美紗緒さんの蒼い瞳を光らせている。

 わたしにはその光景がひどく、痛ましいものに見えた。

「……なに、やってるんですか。美紗緒さん……」

「あ。やっと来た」

 美紗緒さんが話す声は弾んでいて、いつもよりずっと愉快げに聞こえる。だからわたしはもう一度、同じ質問を投げかけた。

「なにやってるんですか、美紗緒さん……っ!」

「ねぇ、陽菜。あたしさ……――」

 不気味に輝くラピスラズリが三日月を描き、優しくて醜くて美しくて歪な笑顔を、闇夜の下にゆらりと浮かべた。


「にんげん、殺しちゃった」


 なにかが。ガシャンと音を立てて崩れた。

 わたしは足に力が入らなくなり、美紗緒さんの前にぺたんと座り込む。

 美紗緒さんはなにが楽しいのか、ケラケラと笑いながらわたしの顔を見つめていた。

「……なに、笑ってるんですか」

「だって陽菜が、ほんとに来るんだもん。あははっ、おっかしいの。あはっ、あははは……」

「なにがそんなにおかしいんですか! なにがそんなにおかしいのよ!?」

「ほら、コレがあなたが望んでいたモノでしょう?」

 美紗緒さんは懐から何かを取り出して、カシャンと軽やかな手さばきで変形させる。美紗緒さんは手にしたソレをこの暗闇の中でもはっきりとわたしに認識できるほど近くにずいっと近づけた。ソレは、銀色に輝くナイフ。けれどその刃先は赤黒く濡れていて、生臭い鉄の香りがすんと鼻先を掠める。

 わたしは「ひっ」と小さく悲鳴を上げて、その刃先から逃げるように後ずさる。美紗緒さんはわたしのそんな反応を見て、またケラケラと笑った。

「コレが、あなたが望んでいた破滅。誰かが、なにかを失う瞬間。なにもかもが瓦解して、取り返しのつかない事態に陥って。気づいた時にはなにもかもが手遅れで、どうしてこんな事になってしまったんだろうなんて後悔して。そんなもの、なんの意味もないのに。失ったものは、決して帰ってはこないのに」

「……違う、違うよ美紗緒さん……」

「違わない。あなたが、望んだのよ。こういった事態を。ただ、今回はあなたは無関係だった。ただ、それだけの出来事」

「違う! 違う違う違う! わたしは、こんなの望んでいない! わたしはただ、美紗緒さんに……っ!」

「もういいよ、陽菜」

 そう言って、美紗緒さんは笑うのをやめた。

 残ったのは無機質で、感情の見えない人形のような残滓。わたしの知っている美紗緒さんはそこには居ない。目の前でわたしを見ている瞳の冷たさは、わたしの知らない人。

「これでわかったでしょう。あなたが、どれだけ恵まれた今を生きているのか。それを壊すっていうのがどういうことなのか、理解できたでしょう」

「……いや、やだ……」

「さようなら、陽菜」

 いってしまう。美紗緒さんが、どこか手の届かない遠くへ。

 物理的にはすぐ手を伸ばせば届く距離が、あまりにも厚い壁に阻まれて、遠くて。

 諦めるのは簡単だった。どうしようもなくて、仕方ないことだったって、今までどおりを今を生きればいいだけだ。

 けれど、けれどもそれじゃあ、今度こそ美紗緒さんが独りになってしまう。

 わたしには、それが、

「嫌だっ!」

 考えるより、感じるよりも先にわたしの手は、美紗緒さんの手を掴んでいた。

 美紗緒さんは振り返らず、ただ雨に打たれながらそこに立っている。

 今この手を離したら今度こそ、美紗緒さんには届かない。美紗緒さんが心の隅っこのほんの小さなヒトカケラで期待した「今」だけが、わたしと美紗緒さんを繋ぎ止める。

「離して、陽菜」

「いやだ……」

「離しなさい、陽菜」

「イヤだ……!」

「離せ」

「嫌っ!!!」

 わたしは、力の限り美紗緒さんの手を引き、無理やりこちらを振り向かせた。美紗緒さんの頬を伝う雨が、ポタポタと流血のように滴る。

 美紗緒さんは、抗わない。わたしを振りほどいて突き飛ばしていってしまうことだって出来たはずだ。

 だからわたしは、そんな美紗緒さんをこのままいかせるわけにはいかなかった。

 絶対に、後悔だけはしたくないから。

「……美紗緒さん、言ったよね。わたしに、あなたがどうにかしてくれの? って……」

「…………」

「……いいよ。わたし、美紗緒さんといっしょに、行く」

「陽菜。あなた、自分がなに言って……」

「わかんないよ! わかるわけないでしょ! 正しいとか間違ってるとか、理屈じゃない! けど嫌なの、だって仕方ないじゃない! わたしは、わたしは美紗緒さんの……」

 美紗緒さんの孤独に、気づいてしまったのだから。

 誰も気づかない。誰も直視しようとはしない。本当の美紗緒さんの事を、誰も理解しようとしない。

 そんな世界でたった一人、あんな風に笑い続ける美紗緒さんを。

 心のどこかでは理解している。きっと美紗緒さんにとって、わたしなんてなんの価値もない、壁一枚向こう側に居る他人の一人にしか過ぎないのだって。

 それでも今、わたしはそんな壁に開いた小さな小さな隙間に手を突っ込んで、美紗緒さんの手を掴んでいる。

 美紗緒さんを感じる。冷たくて、残虐で、泥濘んでいて、傲慢で。

 けれどそれでも、本当は美紗緒さんだって――。

「独りは、寂しいよ……。美紗緒さんが独りでいるのが、嫌なの……」

 わたしが望んだ、世界の破滅。

 生ぬるい産湯のような世界を沸騰させる、圧倒的な独善。

 美紗緒さんが望むなら、わたしの世界はきっと砕け散る。

 そして、また産まれる。わたしが守ってきた世界よりもずっと、希望に満ちた世界が。

 わたしが望み続けていたのは、誰かがではなく、わたしが幸せになれる未来。

 美紗緒さんと出会って、やっとわかった。

 わたしは、わたし自身を包む日常という殻を破りたかっただけだった。

 だったら、もののついでに破ってやる。

 美紗緒さんを閉じ込めるぶ厚い壁だって、わたしの殻と一緒にぶち抜いてやる。

「……お願い、美紗緒さん。美紗緒さんの側に、いさせて」

 雨あしが弱りを見せ始め、木の葉を揺らす音がぽつり、ぽつりと途絶えていく。

 やがて雨は止み、雲の隙間から薄っすらと月の光が顔を見せた。

 その光に照らされる美紗緒さんの表情は、わたしの知っている、嗜虐的で、血みどろで、愉悦に浸る歪んだ微笑みだった。

「……しょうがないな、陽菜は」

「うん、しょうがないだよ。美紗緒さん」

 だからわたしも、笑った。精一杯の笑顔で、笑い返した。

 握ったその手は鎖のように冷たく、鋼のように強く、翼のように軽やかで。

 わたしと美紗緒さんは足を並べて一歩を踏みしめる。

 

 ――わたしは美紗緒さんの、共犯者になった。




 陽菜を連れて夜の繁華街を歩く。こんな時間に出歩く事はあまりないのだろう、陽菜は少しだけ怯えた様子で周囲を見渡しながら歩いていた。彼女の方は、以前付き合っていた男の夜遊びに散々付き合わされた事があるので、夜の街を歩くのも慣れたものだ。

 顔見知りのホストや居酒屋の店員が、彼女へ気さくに声をかけてくる。そのたびに陽菜はびくりと肩を震わせていた。彼女はにこやかにソレらをあしらいながら、繁華街の裏手に位置するホテル街を目指す。

「怖い? 陽菜」

「怖くない。ぜんぜん、平気」

 強がりなのは、明白だ。繁華街を少しはずれた裏道の人通りは少なく、街明かりの加減が急に落ちたことに陽菜は目に見えて怯えている。彼女の腕に抱きついて離れない。歩きにくいから、少しだけ離れてくれないかなぁなんて思いながら、可愛いからそのままにしておこうと彼女は思った。

 とにかく、今夜の宿を確保しなければならない。まともなホテルならば事前予約もない中学生と小学生の二人組なんて泊めてくれるはずもないが、ここは夜の街。裏の顔に少しツテを持てばどうとでもなるもので。幸い彼女の外面は、そういった交渉事やコネ作りには困らない性質のモノなので、アテはいくらでもある。お金の方も、コンビニATMからとりあえず10万円ほどおろしておいた。世の中便利になり過ぎじゃないかしら、と彼女は思った。

 そうこうしている間に目的地に辿り着き、彼女は門を潜ろうとした。しかし陽菜の足がぴたりと止まり、腕を掴まれたままの彼女はぐいと引き止められる。

「あの、えっと。美紗緒さん……?」

「なに?」

「ここ、ここここってあのその、え……?」

「あぁ、大丈夫よ。ここの受付とは顔見知りだから、適当にチップ握らせれば入れてくれるわ」

「そそそそういうのじゃなくて、だってここ、ここ……!?」

 ――まともな宿に子供だけで泊まれるわけないのだから、まともじゃないホテルに泊まるしかないのだ。

 陽菜はラブホテルの看板と入り口を交互に見つめながら挙動不審に慌てふためいる。彼女はやれやれとため息を吐き、二の足を踏む陽菜の腕を無理やり引っ張って門をくぐった。

「……あぁ美紗緒ちゃん。いらっしゃい」

 ラブホテルのカウンターを務めるひげ面の男が一瞬訝しげな表情を向けたが、相手が彼女だとわかると途端に表情を緩めた。しかし、彼女にぴったりひっついて離れない陽菜に視線を向けると、やや首を傾げて見せる。

「こんばんは高杉さん。一晩いいかしら」

「構わないが……? 美紗緒ちゃん、今度はそっち系?」

「まぁまぁ。お礼は弾むから見逃してよ」

「ふーん……、ま、深くは突っ込まないけど。あまり危ない橋を渡らせないでよ、警察も最近なにかと煩くてさ。外出る時は裏口からにしてね」

「ありがとう高杉さん。お礼はいつものところに」

 部屋代の支払いだけ先に済ませて、彼女は未だビクビクする陽菜を引っ張りながら奥の部屋へと進んだ。本来、風営法という法律で未成年がラブホテルに宿泊される事は禁じられているのだが、ルールは破られるために定められているのだと豪語する悪党は世の中にいくらでもいる。そういう手合いは上手く付き合いば、いざという時に利用のしがいがあるということを、彼女は熟知していた。

 部屋に辿り着いて鍵を閉めるまで、ついぞ陽菜は彼女の腕から離れなかった。

 彼女は陽菜の黒髪に手を伸ばし、わしゃわしゃと撫でる。陽菜はきょとんと彼女を見上げて、可愛らしく首を傾げた。

「いいかげん離れてもらえないかな。暑いのよ」

「わ。ご、ごめんなさい」

 やっと陽菜の拘束から開放された彼女は部屋の奥へと踏み入り、ベッドへとすんと腰を下ろす。陽菜はキョロキョロと部屋の中を見渡しながら、所在なさげにそわそわとしている。

「案外、普通の部屋だね……」

「普通じゃない部屋もあるけど、ソッチのほうがよかった?」

 陽菜は顔を真赤にしてブンブンと首を横に振った。

 彼女は、これからどうしようかなんて考えながらふと、そういえばずぶ濡れだったなぁと今更のように思い至る。

「とりあえず、シャワー浴びてきたら?」

「え、いやいや。わたし、そんな濡れてないし。美紗緒さんこそお先に、どうぞ」

「……そう? じゃあ、お言葉に甘えて」

 そう言って立ち上がり、彼女はシャワールームへと足を運ぶ。そのときふと、彼女のいたずら心が顔をのぞかせた。

「……ねぇ、陽菜」

「うん?」

「いっしょに入ろうよ。背中流してあげる」

「い……っ!?」

「嫌なの?」

「か、からかわないでよ美紗緒さん! いいから先入って!」

「なに恥ずかしがってるの。別にいいじゃない、女の子同士なんだから」

「いや、だからそうじゃなくって、えっと、えぇっと……」

 ドギマギする陽菜を眺めているのも面白いなと思ったけれど。彼女はつかつかと陽菜に歩み寄り、ひょいと肩を抱いてそのまま脱衣所へ連行した。

「へ、や、なっ……?」

「おりゃー脱げー」

「きゃああ!!! ぎゃああああ!!!」

 彼女はほんのり濡れた陽菜のスカートのホックを無理やりずらし、そのまま引剥がした。陽菜は大仰に悲鳴を上げて抵抗したけれど、体格差では彼女に敵うはずもあるまい。そのまま勢いで真っ裸にされると、陽菜はその場に泣き崩れた。

「うぅ……、ひどいよ美紗緒さん……」

「早く入っちゃわないと風邪ひくでしょ。あたし嫌よ、病人の看病なんて」

 言いながら、彼女もずぶ濡れになった自分の衣服を脱ぎおろす。まとわりつく布切れの感触から開放され、ようやくひと心地ついた気分となった。

「ほら、立って」

 いつまでもメソメソしている陽菜の腕を引き、二人で一緒にシャワールームへ入る。蛇口を捻ると心地よい温度のシャワーが放たれ、彼女は陽菜へその矛先を向けた。温度差が肌を焼く感覚が陽菜を襲ったらしく、一瞬ビクリと肩を震わせる。けれど次第に体が温まっていく感覚に、陽菜は心地よさそうに表情を緩めた。

「髪、さらさらしてる。黒い髪って、ちょっとうらやましいな」

「えー……、美紗緒さんは金髪のほうが綺麗じゃないですか」

「生意気」

「きゃー」

 二人で子供みたいにはしゃぎながら、心地良い湯気を浴びる。まだまだ未発達な陽菜の体は、彼女には健康的で引き締まって見える。胸なんてまだまだこれから大きくなるんだろうなぁって思いながら、おもむろにそのまな板のような胸に触れてみた。

「――…………ふっ!?」

「ふむ。これはこれで意外と」

「なにするんですかぁ!」

 勢い任せに拳が飛んできたので、彼女はそれをひらりと避ける。当然、陽菜はバランスを崩してすっ転びそうになったから、彼女は優しく彼女の腰を掴んで支えたのだけれど。密着姿勢で壁に押し付けるような体勢になってしまった。

 顔が近い。呼吸が聞こえる距離。情気で真っ赤に染まる陽菜の頬。

 幼い唇。まだ、なにも知らなさそうな。

 ――このまま奪い取ってしまったら、陽菜はどんな表情をするのだろうか。

「……み、美紗緒さん……」

「なんで赤くなってんの、陽菜」

「美紗緒さんが、近いから……」

「いや?」

「う、うぅ……」

 さらさらと水の流れる音がする。触れ合う肌の向こうに陽菜の心臓の音を感じる。

 激しくて、苛烈で、幼くて、尊い。

 彼女とは違う、普通の感情を持った女の子。

 陽菜は恥ずかしそうに彼女から必死で視線をそらし、彼女の手から抜けだそうとしてもじもじと身をよじった。

「い、いい加減からかうのやめてよ……。わたし、そういうのじゃない……」

「試してみる……?」

「美紗緒さんが本気じゃないから嫌!」

 今までになく強く抵抗され、彼女は一歩たじろぐ。陽菜は息を荒くしながら彼女の瞳をぶち抜くように睨みつけて、今にも彼女に噛み付いてきそうだ。

「わたしは、美紗緒さんの側にいたいだけ。美紗緒さんが望んでくれるなら、それでもいい。けど、そうじゃないってわかるから、嫌。嫌だよ……」

「……そう。ごめんね、陽菜」

 傷つけて、いたぶって、引き裂いて。

 彼女の側にいる限り、陽菜の心は徐々に徐々に疲弊していく。彼女はなにも感じない。繋がらない。いずれ破綻する。そんな未来は分かりきっている。誰も幸せになんかなれやしない。

「謝らないでよ。優しいふりをしないで。わたしまだ、本当の美紗緒さんと話していない」

「本当の、あたし……?」

「ずるいよ、美紗緒さん。そうやって気づかないふりして、わたしの事も本気で傷つけようとしてない。わたしは、本気なのに」

「……理由がないよ。感情では、あたしは動けない」

「理由にはなれなくても、きっかけくらいにはなれる」

 陽菜は歪んだ顔を両手で覆ってぐしゃぐしゃと拭って、濡れた黒髪をかき上げながら瞳を開く。

 強い意志、確かな覚悟。彼女には、備わっていないチカラ。

「わたしが、本当の美紗緒さんが本当に笑えるように、本当の美紗緒さんを知るきっかけになる」

「言ってること、無茶苦茶じゃない?」

「理屈なんかで、こんな所までこない。わたしは、本気だ」

「……ふっ、くっくっ……。くははっ…………」

 嗤える、と。彼女は思う。

 ――なんで逃げないの、なんで目を背けないの。

 ――こんなにも醜くて救いようのない人間を前にして、どうしてそんな瞳が出来るの。

 ――面白い。面白い面白い面白い。

 ――ゾクゾクする。鼓動が震える。

 ――わからない。理解できない。理屈じゃないから、面白い。

 ――互いの心の音はきっと、聞くに堪えない不協和音を奏で続ける。世界のノイズを生み続ける。

 ――だったら、その波長がぴたりとあった瞬間に、彼女はどんな表情をしているだろう。

 陽菜が、彼女の胸に顔を埋めた。彼女の腰に手を回して、ぎゅっと抱きしめてくれた。

「ほら、ちゃんと聞こえる。美紗緒さんの音。わたし、もっともっと聞きたいよ。美紗緒さんの奏でる本当の音」

「――……ほんとうに」

 どうして。

 陽菜だったのだろうか、と。彼女は思う

 陽菜の人生は、もっと輝かしくあるべきだ。もっと温かくて、有意義で、素直で穏やかな人生を送るべきだ、と。 

 そうでなくて理屈に合わない。なのに、どうして彼女と出会ってしまったのか。

 理屈ではないと陽菜は言う。彼女の本当の笑顔とやらが、見たいという。

 だったら何処で間違えたのだろうか。なぜ彼女は笑えない。

 陽菜に出会った瞬間? 違う。父親に引き取られた時? 母親が死んだ日? 彼女は一体、いつから笑っていなかっただろうか?


 ――こんなにも、誰かの人生を狂わせてしまうならば。

 ――ねぇ、ママ?

 ――どうして、あたしは産まれてこなければいけなかったのかな。




 夜が明けて。カーテンの隙間から零れる日差しに気づいてわたしは目を覚ました。

 隣には、同じベッドに潜って眠る美紗緒さんの寝顔。わたしの体は美紗緒さんの手足にがっちり拘束され、わたしは人間抱きマクラ。

 美紗緒さんの寝顔は、なんだか無防備で可愛らしい。とても繊細で、綺麗な肌。柔らかくて、温かい。おっきな犬みたい。

 わたしはもぞもぞと手を伸ばし、美紗緒さんな陽に輝く金色の髪をそっと撫でた。美紗緒さんはくすぐったそうに眉をしかめて、わたしを拘束する手足のチカラをより一層強める。

 普段からこれくらい甘えてくれれば、もっとやりやすいのだけれど。

 どうすればいいのか、どうするべきなのかなんて、わたしには検討がつかない。

 わたしは、こんな生活がいつまでも続くだなんて思っていない。そんな夢見がちな子供でもない。

 美紗緒さんが本気で望むのならばそれでも構わないけれど、もしそうならばきっと今頃わたしと美紗緒さんはこの街からもっと遠くへ旅立っているはずだ。 

 美紗緒さんは別に、警察に捕まることを恐れたりしているわけではない。逃げようだなんてつもりもない。

 美紗緒さんが誰かを殺したのだというのが本当だとしたら、今すぐにでも警察に行くべきなのだろう。

 じゃあ、なぜ? なぜ美紗緒さんは今、わたしの隣で眠っているの?

 今のこの状況は、美紗緒さんのただの気まぐれだ。美紗緒さんはわたしが居なくても生きてはいけるし、同時になにかの拍子に簡単に死を選んでしまうのだろう。そんな予感。

 それでは、意味が無い。いっしょにいられる時間も多分、限られている。

 わたしが美紗緒さんのきっかけに、美紗緒さんが自分から壁を突き破るようなきっかけに、ならなければいけない。

 美紗緒さんが、ちゃんと本物の笑顔で笑えるような、きっかけに。

「……言うほど、簡単じゃないよね……」

 美紗緒さんは、孤独であることを望んでなんかいない。けれど、孤独であることが一番正しい在り方だと思い込んでいる。感情を一切排除して、理屈だけで生きているんだ。だから簡単に、ニンゲンを殺せてしまう。

 人間は、感情で世界を動かしている。おそろしく厄介で、傲慢で、理不尽な世界。

 わたしは、人間の感情と一定の距離を置くことでなるべく世界と関わらないように生きてきた。

 そんなわたしとは真逆に、美紗緒さんはたぶん、感情をすべて理屈で計算して、他人の感情をコントロールしながら生きてきた。

 そんな美紗緒さんを相手に、わたしに今、出来る事はなんだ? 考えろ、考えるのを止めるな、考え続けろ。

 今、美紗緒さんの手をつかむことが出来るのは、世界中でたった一人、わたしだけなのだから。

 ふと。美紗緒さんのみだれた髪の隙間から、赤い光が見えた。

 陽射しを反射して煌めくその宝石は、普段は美紗緒さんの長い髪に隠れて見えないらしい。美紗緒さんの耳に飾られた、小さなルビーのピアス。

 わたしは――ほんとうになんとなくだけれど――その宝石に違和感を覚えた。

 なんというか、美紗緒さん「らしく」ない。似合わないわけではないけれど、美紗緒さんが自分を着飾るという行為そのものに感じる、違和感。

 違う、そうじゃない。これは、執着だ。

 普段は誰に対しても一枚の壁越しに接する美紗緒さんが、「眠っている間も肌身離さないまでに」大切にしている、何か。

 美紗緒さんが何かを、誰かを大切にしている。それはつまり――、

「……難しい顔してる。かわいい」

「――おはよう、美紗緒さん」

 何かが、繋がりかけようとした瞬間に美紗緒さんが目を覚まし、わたしの頭の中で繋がりかけたパズルは見事に何処か記憶の隅っこに消えてしまった。こんな時、自分の頭の構造の悪さに嫌気が差してしまう。もう少しで、何かが掴める気がしたのに。

「なに考えてたの?」

「美紗緒さんのピアス。綺麗だなって」

「…………あぁ。コレ、形見なんだ」

「形見?」


「ママの」


 あ。


 ――なにもかも、全部持って行かれた。感情の全て、感覚の先っぽまで。美紗緒さんが見せた、一瞬の表情に。胸が熱くて、思考がぼぅっとする。金縛りにあったみたいに体が痺れて、美紗緒さんの輝きに飲み込まれそう――


「……陽菜?」

「美紗緒さんは、……やっぱり」

「なんで、泣いているの……?」

「だって、……だって美紗緒さんは……ぅ、ふぇっ……」

「わけがわからない」

 美紗緒さんの指先が、わたしの髪を絡めとる。頬を優しく撫でられて、やわらかな指先がわたしの涙を拭う。

 わたしは、止まない涙の向こう側にやっと、わたしがやるべき事の方向性を見つけた。

 わたしが絶対に、美紗緒さんの側に寄り添ってみせるから。

 だからあともうちょっとだけ、待っていてね。美紗緒さん。




 ホテルをチェックアウトした彼女と陽菜は電車を乗り継ぎ、江ノ島まで足を伸ばした。

 駅を一歩出るなり潮の香りが二人の鼻をかすめる。観光客の波に流されながら歩くと、長い橋の向こうに浮かぶ江ノ島の姿が見えた。

 陽菜は今にも走り出しそうなくらいウズウズと肩を揺らしながら、キラキラと目を輝かせて彼女を見上げた。

「わたし、江ノ島って初めて来た! 海きれい、ひろーい! 空気おいしいー!」

「お腹すいてる? なにか食べる?」

「うん!」

 今朝の陽菜の涙の意味は結局、彼女には理解出来なかったけれど。すっかり機嫌は治ったらしく、彼女の隣に並んで歩く陽菜の足取りは軽く、声は弾んでいる。

 彼女はすっかり陽菜のペースにのせられてこんなところまで来てしまった。けれど。

 もしも警察が動いているのだとすれば、彼女はとっくにお縄に付いているはずだ。自分の容姿が目立つことくらいを、彼女は理解している。

 警察が動いていないということはつまり、父親は自分のメンツと保身を選んだという事なのだろうと、彼女は理解した。

 彼女にとって、父親の行動や思考を読むことなんて容易い。義母の方は自分の意思では動けないタイプの人間だ。義姉がどうなったかなんて興味はないけれど、少なくとも父親が世間体が崩れることを恐れて事態を秘匿しているであろう状況は想像できる。だとすれば彼女は、いつまで陽菜を振り回さなければいけないのだろう。

 生きていても死んでいても陽菜を縛り付けるくらいならばいっそ、誰かに裁かれてしまいたいのだけれど、なんて自分勝手な思いに、彼女はふける。

「美紗緒さん、アレ食べたい!」

「んー、どれー?」

 陽菜は体は小さいくせに、どこに入っていくのだろうというくらいよく食べた。そんな食べっぷりを眺めているだけでも、彼女は楽しい。

 楽しんでいる。彼女は、楽しんでいた。

「美紗緒さん、あそこ行ってみよう! 展望台!」

 陽菜は彼女の腕を引っ張り、彼女はそんな陽菜に誘われるように歩き。海の風と、島の音と、人の波に包まれながら彼女の意識は、陽菜に全部注がれている。これではまるで、彼女は陽菜の。彼女は陽菜の、――?

「……美紗緒さん? どうしたの、ぼぅっとして」

「……え。あたし、ぼーっとしてた?」

「うん、ぼーっとしてた。……疲れた? どこかで休む?」

「……風邪でもひいたかな」

 生まれてこの方、彼女は病気らしい病気になんてかかったことがないのだけれど。それだけに、彼女の身体は耐性が無いのかもしれない。そういえばどこか肌がヒリヒリと熱い気がするし、陽菜を見ていると視界がぼやける。心臓の奥のほうがチクチクと痛いし、胃の奥からなにかがせり上がってくる感じがする。

 彼女の思考は、うまく纏まらない。まるで、陽菜と初めて出会ったあの日のあの感覚のように、ふらふらする。

 心地よい。まるで、夢に抱かれているような、ふわふわと足元が浮つくような。

 だから、怖い。今にも飛ばされてしまいそうで。

 知らない感覚がする。何度も来たことがある場所なのに、陽菜が隣に立っているだけ景色はまるで彩りを変えてしまうような。


 ――いい加減、認めたらどう?


「……そういうわけに、いかないじゃない」

「え、なにか言った?」

「……陽菜は可愛いなぁ」

 彼女が陽菜の髪をくしゃくしゃと撫でると、陽菜はツンと唇を尖らせて彼女を睨んだ。

 認めたからって、どうなるというの。

 陽菜と一緒に、居ていいわけがない。彼女がそれを、望んで良いわけがない。

 こんな時間は彼女の気まぐれで、陽菜はただ巻き込まれているだけ。それで終わってしまえば、いいのだ。

 これまでも、これからも。

 彼女は――、

「わぁ……! すっごい景色ー!」

 陽菜の歓喜の声にはっと顔を上げると、目の前にはどこまでも広く遠く広がる海と空と水平線。展望台のふもとから眺める景色は、まるで星の果てを眺めているかのようにどこまでも大きく深く、彼女を飲み込んでしまう。

 彼女は、知っている。この景色を見たことがある。

 けれど、知らない。彼女は今日はじめて、陽菜と一緒にこの景色を眺めた。

 こんなにも海が空が輝いて見えたのは、初めて。陽菜と、初めていっしょに見た景色。

「……ねぇ、美紗緒さん」

「うん……?」

「綺麗だねぇ」

「……そうだね」

「ねぇ、美紗緒さん!」

 陽菜は陸地と断崖を隔てる柵の上にぴょんと飛び乗って腰掛け、彼女と視線の高さを合わせて彼女の瞳を覗きこんだ。

「……危ないよ、陽菜」

 陽菜は、とても下手くそな作り笑いで精一杯明るく振る舞って見せながら、彼女にこう言った。

「このまま、どこかに飛んでいってしまおうか!」

 陽菜は柵に座ったままプラプラと足を揺らし、まるで彼女を値踏みするみたいな微笑みを向ける。陽菜の背中には断崖絶壁。なにかの拍子に柵から落ちてしまえば、


 ――確実な死が待っている。


 ドクン。ドクン。ドクン。ドクン。

 だからどうし――危ないよ、陽菜――にをやっているの。

 彼女には関――降りて、陽菜――には、いかないじゃない。

             ドクン。ドクン。ドクン。ドクン。


「――はるな」

「わたし、本気だよ」

「はるな」

「わたしの全部、美紗緒さんにあげる」

「陽菜っ!!!」

「だからっ――」

 陽菜は、笑った。太陽みたいに温かくて、カサブランカのように気高い眼差しで。

 陽菜の身体はふわりと背後に傾き、陽菜の伸ばした手が海に吸い込まれてしまうように、遠くへ――。


「――はるなぁぁぁぁあぁ!!!!!」


 考えるよりも、感じるよりも疾く、彼女の身体は動いた。

 彼女の身体は陽菜の伸ばした手を掴みとり、必死でこちら側に引っ張り戻す。

 どさり、と。気づけば彼女は空を見上げて倒れこみ、陽菜の小さな体躯を全力で抱きかかえていた。

 陽菜の体は、びっくりするくらい軽くて儚くて、今にも溶けてしまいそうなくらい震えている。

 彼女の胸に顔を埋める陽菜からは、嗚咽混じりの震えた声が伝わってきた。

「――……馬鹿かぁっ!? なに、やってるのよ陽菜ぁ!!!」

「――……怖かった。し、死ぬかと思った……」

「死ぬに決まってるでしょ!? 怖いに決まってるじゃない!! なんで、あなたは……!!!」

「けどっ!! ……信じてた。美紗緒さんが絶対に、わたしの手を引っ張ってくれるって。黙って見てたりしないって、一緒に飛び降りたりしないって。だから、信じてよかった……。よかったよ、美紗緒、さ……ぁ、ふぇ……うぅ……っ!」

 ――わけがわからない。頭がどうにかなりそう。信じるってなに。

 赤の他人の陽菜がどうして、彼女の行動一つに命を預けられるっていうのか。

 理屈じゃないっと、陽菜は言う。ならば、なにが。

「……なんで、そこまでするのよ、出来るのよ。あんたは……」

 彼女の為に、命を投げ捨ててまで。

 そこになんの価値があるのか。なんの意味があるのか。彼女が居ても居なくても世界は変わらないけれど、陽菜が居なくなったらきっと悲しむ人がいるはずなのに。

 彼女とは違う、陽菜は違う。だったら、

 

 彼女の腕に抱かれる陽菜が、ゆっくりと顔を上げた。

 涙と鼻水でグシャグシャに崩れた彼女の顔は、今までに見たどんな光景よりも、ひどく彼女の心を焼いて。


「――……愛してるよ、美紗緒さん」


 彼女の心が、砂糖菓子のように溶けていく。


「――……なに」

「愛してる。愛してます。言葉なんかじゃ足りない、理屈なんてどうだっていい。美紗緒さんに初めて会ったあの日から! わたしが生まれてきた事全部、美紗緒さんに出会うためのものだったんだって、そういうものなんだって……!」

「だ……」

「美紗緒さんがいない世界なんて嫌! 美紗緒さんがつまらなそうに作り笑顔で笑っているのも嫌! 美紗緒さんがわたしがいなくても関係ないって想っているのも嫌! 美紗緒さんが美紗緒さんが、ひとりぼっちな世界なんて嫌……!!!」

「あた……」

「だからっ!!! ……もう、おしまいにしようよ。美紗緒さん……」

 陽菜の両手が、彼女の両頬を優しく包む。二人の瞳は真っ直ぐに、輝きが繋がり合うように。

 陽菜の、笑顔が。こんなにも、彼女の心に踏み込んで。

 どうして、こんなにも近くにいたのに気づかなかったのだろう。

 陽菜はずっと、彼女の側にいてくれていたのに。

「美紗緒さんに普通の感情がないなんて嘘。美紗緒さんは笑うし、泣くし、怒るし、楽しいって思うし。じゃあ、美紗緒さんが足りないって思っていることってなんだろうって、ずっとずっと、考えていたの」

「……答えは、分かったの?」

「美紗緒さんはね、どうやって誰かを愛すればいいのかわからないだけ。損得や理屈じゃない、無条件の愛を知らないだけ」

「…………はっ」

 汚い言葉。心が濁る。――信じてあげられたなら――彼女の、心がかき乱れる。

「きっとね。わたしに出来る事は、ここまで。けどね、本当に嬉しかった。……嬉しかったよ? 美紗緒さん……」

「なにが……」

「美紗緒さんが、わたしの手を掴んでくれたこと。やっと、美紗緒さんがわたしを見てくれたから」

 陽菜はその瞳に大粒の涙を浮かべながらはにかんで笑い、その頬を伝う雫はどんな宝石よりも綺羅びやかに輝いて。

「……最悪だ」

「うん、ごめんね。美紗緒さん」

「謝ってすむようなことか」

「うん」

「陽菜」

「なに?」

「……家に、帰る」

「……うん、わかった」


 ――こうして。

 彼女の世界は終わりを迎えた。

 ガラガラと崩れていく壁の向こうに見える景色は、どこまでも果てなく遠くて気が狂いそう。

 けれど、きっと大丈夫。何故なら……――、




 怒られるかなって、思っていたのだけれど。

 家に帰ったわたしの顔を見るなり、お母さんは泣きながらわたしを抱きしめてくれた。

 ケータイの電源はとっくに切れていたし、まるで連絡も取れないものだから、警察に届けるべきか相談していた矢先にわたしは帰ってきたらしい。

 家まで送ってくれた美紗緒さんを見て、お母さんは困惑気味に表情を歪めたけれど、お父さんは柔らかく微笑みながら、美紗緒さんにお礼を言っていた。

 美紗緒さんも美紗緒さんで、お父さんの前ではあの気持ち悪い作り笑顔をしないで、ただどこか寂しそうに笑いながら頭を下げた。

 美紗緒さんはそのまますぐに帰ってしまったけれど、お父さんもお母さんも、わたしにとやかく問い詰めたりはしなかった。

 ただ、無事に帰ってきてくれたのだからそれでいいよって、そう言ってくれた。

 温かな家。優しい家族。不満なんて、なにもない。この幸せだけを守っていければきっと、それでもいい。

 けれど、わたしには出来てしまった。こんな平穏な日常を、ぶち壊すだけの理由と、目的が。

 だから、わたしは、

「お父さん、お母さん。お願いがあるの」

 こんな優しい世界の壁を、ドンと強く叩いて砕く。

 壁の向こうに見える世界はどこまでも遠く果てしない。けれど、一人じゃない。

 歩こう。わたしには、それを成し遂げるだけの決意があるのだから。




 帰るなり、彼女は父親に一発殴られた。義母は病院で義姉の看病につきっきりになっているらしい。生きていたのか、大した生命力だ、なんて彼女は思う。

 間抜け面で義憤にかられる父親の顔が、彼女には今はもう見るに耐えないほどに醜く見える。

「なんのつもりだ、美紗緒。お前は、育ててやった恩も忘れて……!」

「…………はっ」

 思わず、嘲笑が零れる。顔を真っ赤にした父親がもう一発拳を振り上げたけれど、彼女はふいとそれを避け、足を引っ掛けて転ばせる。父親はマヌケに床に転がり、怒りと混乱で目をグルグル回しながら彼女の顔を睨んだ。

「誇り、メンツ、世間体。まぁ、なんでもいいけれど。貴方の娘よりも、大事なものなのでしょう。それはまぁ、仕方ないわ。そういうものだもの、人間って」

「……美紗緒、お前……?」

 彼女は懐から、義姉を刺したナイフを取り出し、刃をむき出して父親の足元に投げつけた。床に突き刺さったソレを見て、父親は血相を変えてたじろぐ。

「警察に突き出すでも、今ここであたしを殺すでも。好きにすればいいわ。そうすれば、あなたの気が済むのでしょう?」

「美紗緒ぉ! お、おま、お前……!」

「……出来るはずないのよ。貴方は誰よりも、自分の事が大切なのだもの。義姉(あいつ)の為にさえ、何も出来ない。そこに、愛はあるの……?」

「馬鹿なことを言うな! 俺は、お前たちの……!!!」

「だから。……なんだというのよ」

 感情をむき出しに言葉を放てば、こうも鋭敏に他人の心を抉ることが出来るものなのか。

 父親は瞳の輝きを失い、もはや彼女の目を見ようともしない。

 結局。

 陽菜の言ったとおりだった。

 理屈ではない、感情でもない。掛け値なしに誰かのために動くことが出来る理由があるのだとしたら、それは。

「貴方は、誰も愛してなんかくれなかった」

 こんな父親に作られた彼女であっても。

 きっと、陽菜に出会えたことでやっと、思い知ることが出来る。

 この世界で、独りで生きていくことなんか出来やしないのだと。




 季節が過ぎ去り、冬を越えて。

 わたしは誰にも、香澄にすらも悟られずに、壁を破って走り抜けた。

 それに気づいた時には誰も、わたしの存在を覚えていなくて。けれど香澄だけは、そんなわたしの手を掴み、問い詰めた。

「……なんで、言ってくれなかったの」

「ごめんね、香澄」

「なんで、一言相談してくれなかったの!? 学校、受験するって、隠さなくったって……」

「ごめん」

「……なんで、謝るの……。どうして……」

「香澄の事だからさ、知られたらもしかしたら、追いかけてくるんじゃないかなって思って」

「……なによ、なんで!? 追いかけちゃいけないの、そう思ったって当然じゃない!」

「迷惑なの」

 言葉は、ナイフ。使い方を誤れば、簡単に人を殺してしまう事ができる。

 わたしの言葉を聞いた香澄は、絶望に瞳を濁らせて、震えながらわたしの事を見つめた。

「なに、それ」

「きっとね、わたしは香澄の気持ちに応えられない。わたしはわたしの道を見つけて、わたしはわたしの全部を、その道を歩くために注ぎたい。だから、香澄の気持ちが、迷惑」

 痛い。心が痛い。

 握ったナイフはわたしの心をも抉り、傷つける。

 他に、やり方はあったのかもしれない。けれどわたしは、不器用だから。

「わたしは、香澄の一番には、なれないよ」

「…………そんなの、なんで陽菜が勝手に決めちゃうの。なんで私ばっかり、こんなに寂しくて、苦しくて!」

「ごめんね、香澄」

「…………ひどいよ」

 わたしはその瞬間、心に一本の線を引いた。

 この線を踏み越えられる人は、この世界でたった一人。

 わたしの抱え込める全ては、その一人の為だけに存在している。

 だから、たとえ幼なじみでも、親友でも。

 もうわたしの中に、彼女が入り込めるスペースは、残っていない。

「友達だって、思ってたのに……」

「……友達としてなら、またいつでも会えるよ」

 こうして。

 わたしはひとつの世界に終わりを告げた。

 さぁ、そろそろ行かなくちゃ。

 あの人を、迎えに行かなくちゃ。




 彼女が中等部入って三度目の、桜が咲き誇る季節を向かえる。

 あの日以来、彼女は陽菜とは会っていなかった。公園にも顔を出さないし、LINEで連絡も取っていない。

 けれどついさっきふと、陽菜からメッセージが届いた。


『今から会えませんか』


 春休み、穏やかな陽射しが空を華やぐ時間帯。あの公園のあの桜の下で、彼女は陽菜が来るのを待った。

 ひらひらと、風に舞う桜の香りが心地よくて、ついうとうと眠ってしまいそうになる。

 そんな彼女の頭をふんわりと、懐かしい温もりがそっと触れる。

 彼女はそれに気づいて目を覚まし、ゆっくりとまぶたを開いた。

「……髪、切ったんだね。美紗緒さん」

「……眼鏡、似合わないね。陽菜」

「死ぬほど勉強したもん。視力だって、捧げたさ」

「あたし、そこまで愛されてる?」

「そうだよ」

 そう言って陽菜は身を包んでいたダッフルコートを脱ぎ捨てる。コートの下から覗かせる、彼女が着ている学生服。

 私立沖ノ宮女学院中等部の制服が、陽菜の体を包んでいた。

「卸したて、お店で着てそのまま来たんだから。誰よりも、お父さんよりもお母さんよりも妹よりも先に。美紗緒さんに見てもらいたかった」

「ふぅん……」

「……ビミョーな反応。すっごく、頑張ったのに……」

「ねぇ、陽菜……」

「うん……?」

 彼女は陽菜の手を引き、隣に座らせ、その頬に手を伸ばし。


 ――そっと顔を近づけて、唇と唇を重ね合わせた。


 鼓動も、血の流れも、時間も、全てが陽菜と繋がっている感じがする。

 熱に侵されて、思考がぼやけて、感情にノイズが走る。

 それがきっと、彼女の答え。

 彼女はそっと陽菜から離れて、その双眸をじっと見つめた。

 陽菜は、笑った。花が揺れるように、そよそよと。

 彼女も、笑った。それ以上、言葉は必要なかった。


 彼女と陽菜は手を繋ぎ、もう一度優しくキスをする。

 公園を包む風の香りだけが、彼女と陽菜の行く末をそっと見守ってくれていた。

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エトセトラ・プリズム みやさかみこと @EdensLord

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