#8 ある無名インターネッツ物書きの漸進

 疲れ果てていた白滝は、目の前で通過していく乗るはずだった電車を遠巻きに見ていた。もはや急いで駅の構内に駆け込む気力など残されていなかった。一ヶ月前の彼女であれば急いで駅の階段を駆け上がり、駅員に注意されながらもアスリートのような足運びで改札を抜けていただろう。

 だが、そうできないのにはいくつかの原因がある。

 一つは迫るブサフェスに向けて連日続いている幹事同士の会議や書類の作成や確認及び修正、一つは破談になった他大学との合同誌の件、そしてもう一つ――何よりも彼女の足枷となったのは、穐山のことだった。

 会議については幹事に任命された時から自覚していたし、就任する以前に副幹事を担当していた彼女にとっては、多少慣れたものだった。破談の件にしても一向に先方からの連絡はなかったから、薄々こうなることは感じていたし、白滝にとっては然程重要なこともでもなく、優先順位の高い事項ではない。

 しかし穐山のことについては、片時も頭を離れてくれない。彼が文芸サークルから姿を消してしまったのは、常々自分の責任だと自覚はあった。

 出版に踏み切ったのは、穐山への承認欲求のためだ。もっと自分を見て欲しい、自分について考えて欲しい。他の誰でもなく、自分を直視して欲しい。意識してもらうことで、他の人とは違うと、白滝は彼に改めて知って欲しかった。

 いつまでも同じ場所にいるのは嫌だ。

 あの頃から変わらないなんて、つまらないから。もう一段先へ上がりたかった。

 想いを寄せる少女のような願い。だがそれは図らずも諸刃の剣となり、穐山と白滝自身を傷つけた。自分の進んだ道は本当に正しかったのかと、踏切の前で虚空を見つめながら悩んだ。

 勢いと爽快さが取り柄の彼女がここまで物思いに耽ることは滅多なことではない。ファミレスのメニューを見れば三十秒で注文する料理を決め、欲しい物があれば即決で購入する。小説を書くのだって、ここまで身を焦がすように苦悩しない性分なのだ。

 電車の発車ベルが何度か鳴っていたが、白滝が乗るべき路線とは違うものだ。乗り換えアプリで次の電車までの時間を確認すると、しばらく時間が空いている。けたたましくなる発車ベルや、車両のブレーキ音に嫌気が差した白滝は駅に背を向けると、人の流れに逆らうように歩道を辿り、出たばかりの大学の方へと戻って行った。


 薄れた覇気のままで無人の部室の鍵を開けて、バッグの中からいくつかの書類を取り出すと、それを広げてペンを握った。いずれも近日中に提出しなければならない書類で、出来るだけ早く片付ける必要がある。

 内容はというと、展示場所についての希望だとか、どういった趣旨の発表をするのかだとか、必要経費はいくらだとか、備品に何が必要だとか、いずれも大した内容ではないもののいくつもの文書に分かれていて、その都度氏名の記入や捺印しなければならないのが面倒である。更に申請する書類は提出した後に審査があり、通らなければ何度も提出書類を書き直さなければならないし、場合によってはサークルの発表方針を変更しなければならない。

 文化系サークルを統括する委員会はともかく、厄介なのは学生課である。後者による審査は手厳しいことで有名で、部室と教務課での書類提出マラソンは文化系サークルの中で悪名高い。書類に一文字でも不備があればもちろん書き直しだし、教務課の(担当者による個人的な)意にそぐわない方針の発表などしようものならブサフェスへの参加は受理されない。

 学生からのヘイトを一身に買う気の毒な立場ではあるのだが、身から出た錆なので同情する者はいない。

「ふぅ……」

 ペンを走らせる音と深い溜息が交互に無音の部室に広がった。窓の外には藍色の空に零した絵の具のような夕焼けが微かに残って、家路を急ぐ車が時折付近の道路を通過している。

 既に他の部員は帰宅しただろうかと、四度目の氏名記入をしながら白滝はイメージした。そして自然と穐山のことが頭に浮かんだ。

 今頃何をしているのだろう、もう晩ご飯は食べたのか、もしかすると名藤と……彼の生活について想像した。そして自身が穐山に惚れてしまっているのだと、再認識する。

 手が届くはずの距離なのに届かず、どうしても素直になれない自分の心が憎い。もっと真っすぐな性格だったら、こんなことにもなっていないのに。今に始まったことでもない、きっとから、自分の手を引いてくれたから、想いは燻っていたのに。

 いつのまにか手は止まっていた。書類の記入は半分ほど終わっている。もう数分間集中すれば片付く文書だったが、ボールペンの芯を戻してテーブルの上にほうった。

 窓を開けて書類をテーブルの端にまとめると、そのまま突っ伏して目を閉じた。目が疲れた、指も疲れた。肩が凝っているし首が痛い。

 腕で視界に入ってくる蛍光灯の光を遮ったのに、どうしても頭から離れない男がいた。

 こんなの中高生の恋煩いと変わらない。二十歳ハタチを過ぎて純情なんてどう考えても恥ずかしい。いつまで青春を引っ張っているんだろう。同じ学科の女の子なんて、合コンで出会った年上の男とのセックスの話をしてるのに。こっちは高校時代からの同級生相手へ「付き合って欲しい」の一言も伝えられない。バカだ、本当にバカだ。いっそ街でナンパしてくる適当な男に酔った勢いで抱かれて処女を奪われた方が、余計なことを考えずに済むようになるかもしれない。

 でも、やっぱりそんなのはイヤだ。小説を書くためならいくらかの妥協を許せても、穐山とのことだけは自ら諦めたくなかった。

 真っ暗な中で伏せて考えているうちに、白滝の意識はどんどん遠くなってきた。最近はあまり寝つけていない。二、三時間だけ寝ては自然と目が覚めて、二度寝も出来ずに小説を書いたり作業を進めたりしていた。目が疲れるし肩も凝るのも当然だろう。各方面への折衝をするために、学内外問わず歩き回っていて、足にも痛みがある。

 いくら慣れているとはいえ、肉体には限度があるんだなと、彼女は今更ながらに思い知らされた。

 部室には自分だけしかいないことをいいことに、白滝は備品であるソファへふらふらと移動するなり横になって、背もたれの方へ顔を向けると眠ってしまった。他サークルの活動している音が気になったが、たまに窓から入ってくる風が心地よく、疲れた体には寝るに十分な環境だ。

 部室の鍵をかけるべきだったと思いながらも、体を動かしたくない欲求が勝り、そのうち気に留めることも出来なくなった。

 しばらくして、誰かが体を揺すりながら白滝を起こした。朦朧としているため誰が起こしてきたのかはすぐにわからなかったが、起こされた白滝は警備員が不審に思って起こしたのかと勘繰った。もしかすると遅くまで寝てしまっていたのだろうか。

「いつまで寝ているんだ、お前は」

 呼び起こしたのは、白滝にとって最も親しみのある声だった。それでいてしばらく聞いていなかった、一番聞きたかった声。子を嗜める親のように穏やかで、優しく語りかける声。

「起きるのを待っていたら、朝になってしまいそうだったからな。警備の人も来るだろうし、起こさせてもらった」

「おはよ……アッキー」

 弱々しく照れ隠ししながら、困り顔で見下ろしている穐山を見た。見つめられた穐山は、ここしばらくの取っていた態度の申し訳なさと気恥ずかしさで目を泳がせる。向けられた潤む瞳に耐え切れなかった。

「……お、はよう。あと、アッキー言うなっての……」

「あはは、なにそれっ」

「そりゃあ、色々あったし。お前にも迷惑掛けたから……。少し気まずいんだ」

「うん、ホントに。おかげで寝不足だし」

 安堵して頬を緩ませた顔は、穐山にとって蠱惑的だった。こんな白滝を今まで俺は知らなかったと、感心すらした。仰向けになってソファに寝そべる彼女の薄いピンク色の唇と、寝汗で額に張り付いた彼女の細い髪へ視線が動く。

 しばし二人の間に沈黙が浮遊した。穐山はいかにしてここ数日間の出来事について切り出すか、何度も頭の中で考えを巡らせて、口にしようとしては止めを繰り返す。

 白滝も彼が考えあぐねているのを察して、向こうから切り出すのを寝っ転がったままで待った。

「……迷っていたんだ」

 黙ったまま、彼女は続きを待つ。

 そして彼が抱えているものを自分に吐き出した時、自身も伝えるべきことを伝えようと、決意した。

「自分が何者でもないことが怖くて、白滝が、時津蒼がどんどん先へ進んでいるのを見て、俺はこのままじゃいけないって。ただの無名物書きだとしても一歩先へ進みたかった。でも、どうしたらいいかわからなくて……焦ってばかりで、ただがむしゃらに小説を書いていた」

 絞り出す懺悔に似た罪悪感の籠る想い。そして苦心。しかし彼女とて否定出来るものではない。

「わたしも同じ。アッキーに認めて欲しくて、出版に踏み切ったんだけどさ。結局アッキーを傷つけただけだった。一歩先に進みたいなら、ちゃんと自分の言葉にして伝えればよかった。お互い、似た者同士なのかな。行き先が違うだけで、わたしたちは一歩先へ進みたかっただけなんだよ」

 穐山は物書きとして白滝に追いつきたかった。白滝は穐山との関係に進展を望んでいた。本音を伝えることに対して臆病な二人は、似ているからこそ、向き合うまでに多くの時間を要した。

「だから今度はちゃんと、自分の言葉で伝える。ねえ、アッキー。わたしはアッキーと今のままの関係はイヤだ。……ううん、ここで言葉を濁したってダメ……か。はっきり言う」

 一呼吸して――。

「わたしは、アッキーのことが好き」

 声は涙声になって震えてきている。気持ちで覚悟していても、残念なことに体までには行き渡らない。

 それでもここで臆して、また有耶無耶にしたくはない。だから、声が震えていても、これから先のことが怖くても、白滝は続ける。

「……高校の頃からずっと好きだった。だから、今の関係のままはイヤ。一人の女として……アッキーに認められたい」

 出版という形で伝えたかった存在の誇張を改めて言葉で伝える。目の前にいる白滝という女性を見て欲しいと、寝そべったまま真剣な眼差しで穐山に訴えかけた。飄々と穐山の油断を狙っては、軽率な発言をする冷たくて硬い仮面はそこになく、さらな一人の女性として忖度そんたくする。

 ここまで言われてしまえば朴念仁の穐山も、彼女の意図を理解出来た。だから突然想いをぶつけられた穐山はいかに答えるべきか逡巡した。

「すまん……今はわからん、よく」

 言った方は泣き崩れるのを耐え、言われた方は真顔のままで、しかして互いに心臓の鼓動は早まっていく。特に穐山は顔はゆっくりと赤くなっていった。

「……うん」

「いきなりだったから……。少し、待ってくれ」

 言い淀む穐山は頭の中で必死に伝えるべきことを考えた。彼女を女性として意識したことなど一度もない。自分たちは決して男女の関係にはなれず、良き理解者であり良きライバルだけの関係だと思っていたからだ。

 白滝が寝っ転がっているソファのへりに、穐山はストンと腰を落とす。呆然自失といった具合で、年甲斐もなく顔を赤くさせて黙り込んでいる。

 いや、待てよと穐山は思い出す。最後にうちへ来た時のこと、白滝はズボンの裾を引っ張って転ばせた後、覆い被さってきた。あれは、つまりそういうことだったのか……?

 あの時ははっきりと白滝から言われなかったために、ただ酔った勢いで挑発しただけと思い込んで気付かなかったが、『アッキーはさ、こんな風にされても、なにも思わないの?』という言葉は、つまるところ……。

「え、えいああ、ひ、いあ、わ」

 事実の発覚と同時に素っ頓狂な声が出た。

「……『もらい泣き』?」

「待て、違う、そうじゃなくて……だな」

 あの夜に白滝が何をしようとしていたのか気付くと、余計に恥ずかしくなった。ライトノベルに出てくる鈍感主人公に腹を立てる立場ではない。アレは白滝なりのアプローチで、何をしようとしていたかというと……。

「アッキー……?」

 体を起こした白滝は空いたスペースを穐山に譲り、穐山はおずおずと深く座り直して深呼吸した。横に座っている白滝にもはっきり聞こえているくらいにしっかりとした呼吸をしていたが、震えていた。

「正直に言うと、付き合うとか、好きだとか、そういうのはよくわからない。慣れていないのもあるが、俺は今まで白滝のことをそういう風に見たことがなかった」

「……うん」

「認めて欲しいとか言ってたが、出版もこの事に関係があったんだな?」

「そう。でも不器用だね、わたし。肝心な時に空回りした。本当に言いたいことは言えないんだよ、弱いから」

 弱いから、仮面を被ることで偽る。強い自分に見せかけるための武装だ。

「でも、言えてスッキリしたかも。まさかアッキーから部室に来てくれるとは思わなかったけどね。伝えられる機会があって良かった。それに……」

 ぐい、と距離を詰めて、穐山の顔を覗き込み、微笑んだ。

「いまのアッキー、すごくいい顔してるよ。アッキーも何か見つけられたんじゃない? ……本当の自分の気持ち、とかさ」

 それだけ言うと満足して立ち上がろうとする。穐山は即座に彼女の腕を掴んだ。彼なりに、このままではいけないという直感が働いたのだ。

「待っ――」

 充血した目を隠すように、白滝は瞳を逸らす。

「今日のことは忘れていーよ。明日からは、前みたいにいつも通り」

 明日には何もなかったことになる。すれ違っていた日々から今日までのことをリセットして、魔法が解けたシンデレラのように仮面で偽り続ける白滝へ戻ってしまう。素顔を見せている今だからこそ、伝えなければならないことがある。

「俺は白滝のこと、好きとか嫌いとか、まだわからない。いや……嫌いではないし、むしろ好意的に思っている方だ。だからこそ見苦しいだとか、俺の出した答えに満足出来ないなら、軽蔑するなりこの手を振り切るなりしてくれ」

 白滝は空いた手で胸を押さえながら、不安に駆られていた。穐山が言わんとしていることに、微かな期待と恐怖がごちゃ混ぜになっている。だから彼の手を振り切れなかった。どんな言葉だとしても、彼の口から与えられるものがあるのなら、どれだけ汚れきったメッセージだとしても受け止める覚悟がある。

「俺なんかで良ければ――お前の恋人というやつに、してはくれないだろうか」

 恋愛や恋仲というものを実際には知らない穐山が導き出した答え。

「えっ……?」

 振り向いた白滝の瞳が、水滴の零れた水面のように揺れ動く。

「それで、付き合ってみて……だな。お互いにこれまでと違う部分を見ていけたらと思う。知っての通り、俺は誰かと恋愛なぞしたことはない。だから、お前との手さぐりになる……だろう」

 最初こそ白滝をしっかりと見据えて伝えていた穐山だが、次第に言葉尻は萎んでいき、目を合わせるのも困難になった。出会ってからこんな風になった試しなど一度もない。

「……手さぐり、ね。ぷふっ」

 白滝は目の前の男が挙動不審になっていくのに我慢出来ず、思わず噴き出した。

「ん……納得出来ないならいいんだ。わからないなりに答えを出してみたが、気に障ったのなら――」

 髪の毛を搔きながら困る穐山に、「そーじゃない」と笑いながら首を横に振った。

「あははっ、涙引っ込んじゃった……。うん、なるほど。アッキーとはそれくらいの関係の方がいーのかも。改まって付き合うっていうのも変な感じするし、アッキーって不器用そうだから、一人で走るより、一緒に歩くくらいがちょうどいいでしょ」

 彼らしい返答だと納得した。大きな一歩とは言い難いが、たとえ小さな一歩でも進めた。白滝はそれだけで十分に満足出来た。

「それじゃ、こんなこと言うのも変だけど。改めてよろしくね、アッキー」

 これまでに穐山が見たことがないほどに華々しい笑顔を向けられると、思わずたじろいだ。白滝に可愛らしい一面があるというのを今の今まで知らなかったからだ。

 早速彼女の知らない一面を知らされたところで、穐山は安堵した顔で頷く。

「ああ。よろしく」

 白滝はまた明日になれば仮面を付けるだろう。強い自分を見せるために、偽った側面で幹事を演じる。しかしそれはこの密室での漸進を知らない者たちの前だけであり、これからの白滝は穐山の前でのみ武装するための仮面を脱ぎ捨てる。

 強い部分も、弱い部分も、きっと穐山は受け入れてくれると、彼女は信じているから。

「ねえ、今度はアッキーが見つけたものを教えてよ」

 楽し気に、いたずらを考えるような無邪気さで、彼女は訊ねる。

「もちろん。俺もお前には話さないといけないと思っていたんだ」

 夜が更けて他に誰もいなくなった部活棟には一つだけ明かりの点いた部屋があった。穐山はここ数日間のこと、そして自分が成すべきことを白滝に全て語った。

 一人の良きライバルとして、良き理解者として、そしてこれから共に未知を紡ぐ者として。見出した本当の自分の在り方を思うままに主張した。

 そんな彼を見て、白滝は終始「いい顔をしている」と思っていたのであった。

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ある無名インターネッツ物書きの愚痴 夏野陽炎 @kagero_natsuno

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