第2話

 

 休憩室に入ると、コーヒーのいい匂いがした。


「おつかれさまで~す。お歳暮で沢山貰ったらしいですよ。春さんもどうぞ~」


 見れば一杯ずつカップで煎れるドリップ式のコーヒー。有り難くひとつ頂戴することにする。


 今日は良い日だ。


 午後からの雪の予報は外れて散歩もできたし、夜中にぐずる人も少なくて気になってた備品の整理ができた。


「今日も早く来てお散歩に行ったみたいすね。春さんてほんとお人良し」


 汁まで飲み干したカップ麺の残骸をゴミ箱に放り込み、カレーパンを開けながら青年は笑う。午前三時に油物……若いなぁ。僕も二十年前はこうだったんだろうか? 昔過ぎて思い出せない。


「真理さんとお散歩するの好きですから。雪が降ったら出れなくなるし、今のうちにね」


 昼から出勤する遅番の事が多い僕だけど、月に数回は夜勤になる日もある。そんな時は早めに来て、ゆっくり真理さんとの日課の散歩を楽しむことにしていた。今日も、そんな夜勤の日。


「でも、就業時間前なんでしょ~? 夜勤の時ぐらい他の人にやってもらったらいいのに」


 夜勤バイト専門の彼は、彼女が僕以外の人とは決して散歩に出ないことを知らない。

 大学生は大概貧乏だ。サービス残業(勤務前だが)なんてもっての他なんだろうけど、僕にとって彼女との散歩は憩いの時間だ。


「あ。そうだ! 木曜パートさん達と飲みに行くんすよ。シフト大丈夫そうだから執事さんも誘ってって、お姉さま方が」


 『執事さん』は僕のあだ名だ。姫の世話をやくハルの姿を見て、パートの『お姉さま方』が命名した。


 痴呆が少し始まっている真理さんは、初めて僕を見た時に「王子様」と呟いた。

 三十代も残り僅かという歳になって、王子と呼ばれるなんてびっくりだ。一緒にいた医師は笑いを噛み殺しながら「彼はどちらかと言えば使用人ですよ」と真理さんに教え、僕はめでたく彼女の召し使いになった。


 真理さんは無邪気で可愛らしい。

 彼女はマリーというお姫様で、僕はハルという姫様のお気に入りの使用人という設定。あまりわがままを言わないお姫様はホームの他の職員達にも素直で優しく、皆に可愛いがられている。


 唯一の、どうしても譲らないわがままが僕との散歩だった。

 足の不自由な彼女は歩く姿を恥ずかしく思うらしく、あまり部屋から出たがらない。その彼女が僕との散歩は楽しみにしてるんだ。叶えてあげたいと思うじゃないか。


 それに


「今日、王子様に昇格しました」


 自分のカップを出しながら悪戯っぽくそう言うと、後ろでコーヒーを吹き出す音がした。


「マジで!? 大出世じゃないですか! ……いいなぁ春さん。俺も真理さんみたいな姫欲しい~~~」


 そう茶化して笑うこの青年も、実はマリーを可愛いがっている一人だ。ちょくちょく顔を見せに行っては、いつか自分にも役柄がつく事を楽しみにしている。夜勤だとなかなか会う事ができないのを悔しがっていた。


「ですから、執事はもういません。王子としては姫は渡せないので、かわりにお姉さんたち独り占めで可愛いがられてきなさい」


「は~い」


 くすくすとまだ笑う彼を見ながら、幸せな気分になる。出会った瞬間に王子から召し使いに転落して半年。やっと王子に返り咲けた。

 老いは醜いものじゃないし、痴呆は悪いことばかりじゃない。真理さんは僕たちにそう気づかせてくれる。彼女の周りはいつも暖かくて、優しい。


 雪が積もったら小さな雪だるまを作って真理さんにあげよう。彼女はきっと赤い手袋をして、嬉しそうに受け取ってくれるはずだ。



 僕のマリーはいつも無邪気で、可愛い。



  

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