第2話 『瑠璃の島』


 空港の出発ロビーのラウンジで、搭乗までの時間を潰しながら、滑走路に駐機しているたくさんの飛行機を眺めていました。


 私の名前は、松武こうめ。とある巨大な新興住宅地に住む、専業主婦です。


 夫の休暇を利用して、久しぶりの海外旅行。とても楽しみにしていたのですが、空港内で何かトラブルがあったらしく、着陸する機は受け入れてはいるものの、出発はすべて停止になっているようでした。




「Excuse me, was there any trouble in the airport?

 (すみません、空港で何かトラブルがあったのですか?)」


「Sorry, I don't know, but it seems not to be an accident.

 (ごめんなさい、わかりません、でも事故ではないみたいです)」




 同じロビーで待っていらっしゃった外国人の方に、そう尋ねられたのですが、特に詳細なアナウンスもなく、事故ではないらしいと答えるのが精一杯。


 慣れない外国であまり言葉も通じず、なかなか情報も入らないという不安な状況で、こちらに英語が通じたことがよほど安心したらしく、手持ち無沙汰もあり、もし迷惑でなければと、少しの時間、お話しをすることにしました。


 アメリカから観光で日本へ来たというこちらのご夫婦は、その足でヨーロッパに住むお友達のところへ向かう途中だったそうで、よくよくお話を伺うと、どうやら私たちと同じ飛行機に搭乗予定だということが分かり、この偶然にさらに嬉しくなって、お互いに顔がほころびました。







 そんな話をしていた丁度その時、館内アナウンスが入りました。


 どうやら、遅延の原因はコンピューターのトラブルによるもので、先ほどその修理が完了し、現在問題がないかチェックしている最中とのこと、出発再開にはまだ1時間ほど掛かりそうだということを、英語と日本語で伝えていました。


 出発が再開しても、離陸の順番から考えて、私たちが搭乗する飛行機まで、さらに時間が掛かるだろうことは、言わずもがな予想がつき、お互いのうんざりした顔に、こんなとき国や文化を問わず思うことは皆同じなのだなと、思わず笑ってしまいました。


 せっかくこうしてお話ししたのも何かのご縁ということで、私たち2組の夫婦は、ラウンジ内のティールームで、ゆっくりお茶を頂くことにしました。


 日本で体験した多くの出来事を、楽しそうに話すご夫妻は、お名前をサンドバーグさんとおっしゃり、奥さんのシェリーさんの印象的な深いエメラルドグリーンの瞳に、私は以前にどこかでお見掛けしたことがあるような気がして、尋ねてみました。


 ですが、ご夫妻が日本を訪れたのはこれが初めてだそうで、これまでも日本人と関わることはほとんどなかったとのこと、どうやら別の誰かと勘違いしたのかも知れないと謝罪し、再び他愛のないお喋りで盛り上がりました。







 ふと、まだ自分が20代だった頃、会社の仲間たちと一緒に、この空港から旅行へ行ったときのことを思い出しました。


 当時、私は社会人になって3年目。社内で仲が良かった受付の梨花さんに誘われ、同僚7人で、南国の島へリゾートと洒落込んだのです。


 但しそれは、月曜祝日の三連休を利用して、金曜日の夜に日本を出発し、火曜日の早朝に帰国という強行スケジュールでした。







 参加したのは、私と梨花さんの他、同じ部署の智枝さんとさゆりちゃん、そして受付の乃理ちゃん。


 当初はこの5人で行く予定でしたが、乃理ちゃんの彼氏で、私と同じ部署の綿部くんがどうしても一緒に行くと言ってきかず、そこで、やはり同じ部署で私と同期の後藤くんも同行することになりました。




「何で、おまえの我儘に、俺まで付き合わされるんだよ?」


「まあまあ、後藤先輩、そんなこと言わないで! 可愛い後輩のためだと思って、お願いしますよ~!」


「おまえなあ!」




 生来のお調子者で、乃理ちゃんと一緒に行きたい一心の綿部くんに、無理やり引きずり込まれた形の後藤くんでしたが、悪魔綿部の『梨花さんの水着が見られますよ~』という一言に、参加を即決したのであろうことは周知の事実。


 社内でも群を抜いて美人で、社内外の多くの男性たちの心を魅了してやまない梨花さん。そのプライベートでの『水着姿』というオプション付きなら、心揺るがない男のほうが稀でしょう。まったく、しょうがない生き物です。







 出発当日は生憎の雨で、肌寒いくらいのお天気でしたが、すでに心は南国の島へ飛んでいた私たちには、それすらもアトラクションの一環でしかなく、全員が定時で会社を出ると、そのまま空港へと直行しました。


 夜の帳が降りた空港で乗り込んだ飛行機は、また格別の雰囲気を醸し出し、これから始まる旅への期待を否が応にも盛り上げます。


 一週間の仕事の疲れはどこへやら、機内での数時間、誰一人眠ることなく現地へ到着。今では考えられないそのタフさは、若さゆえのものだったのでしょう。


 タラップに出て、真っ先に出迎えてくれたのは、肌に纏わりつく南国特有の熱気を帯びたムッとする空気。加えて花の匂いなのでしょうか、突き抜けるようなその芳香に、ここが日本ではないことを強く印象付けられます。


 湿気の中には、かすかに海の香りが交じるものの、深夜の街は暗闇に包まれ、あたりの様子を伺うことは出来ません。迎えに来ていたバスに乗り込み、ホテルに到着してすぐにチェックインすると、荷物をほどくのもそこそこにベッドに倒れこみ、そのまま眠りに落ちたのでした。







 珍しく何の夢も見ず、どれくらい眠っていたのか、突然差し込んだ眩しい光で目を覚ましました。


 一瞬ここがどこなのか分からず、まだぼんやりしている頭で、ゆっくりと身体を起こすと、カーテンを開けて外の景色に見入るさゆりちゃんの姿がありました。


 私が起きたことに気づき、




「おはよう」


「おはよう。早いね」


「うん。それより、見て! 凄い景色!」


「すご…!」




 そう言って、彼女が指さす窓の外には、朝日に照らされ、一面黄金色に輝く海が広がっていました。


 昨晩は暗くて分かりませんでしたが、私たちが泊まっているこのホテルは、全室がオーシャンビューで、真下にはプライベートビーチも完備され、南国リゾートを味わうには、まさに完璧なロケーションです。


 まだ寝ていた乃理ちゃんも起こし、三人でこの絶景に感動していると、梨花さんから電話が入りました。7時に、朝食のビュッフェがあるレストランで待ち合わせの約束をし、急いで支度をして階下へと降りて行くと、




「乃理、こっちこっち~!」




 先に到着し、席を確保していたのでしょう。ニコニコしながら、大声で私たちに向かって手を振る綿部くんに、一斉に周囲の視線が集まり、急いで駆け寄ると、恥ずかしそうな様子でやめるように注意する乃理ちゃん。


 日本にいるときでも、突拍子もない行動をすることが多い綿部くんですが、如何せん、ここは外国。文化や習慣の違いから、変な誤解を受けてトラブルにでもなっては大変です。乃理ちゃんと、お目付け役の後藤くんからきつく叱られ、すっかりしょげてしまいました。




「さてと、今日の予定だけど、こんな感じでどう?」


「うん、いいね~」




 旅行中の予定については、何かと面倒見が良く、姉御肌の智枝さんが、予め皆の希望を聞き、オプショナルツアーの予約を含め、スケジュールを組んでくれていました。


 何しろ、3泊5日とは名ばかり、実際に使える時間は、土日の丸2日と、月曜深夜に空港を出発するまでの弾丸スケジュール、一刻たりとも無駄にすることは出来ません。







 朝食を終え、ホテルのロビーに集合し、朝からツアー主催の市内観光に参加。南国の人々は皆明るく、訪れる先々でショッピングに興じる私たちに、英語や片言の日本語でフレンドリーに話し掛けては、観光客である私たちを歓迎してくれました。


 でもそれは、観光を生業とされている方々の表の顔、かつてここは激戦の地として、数多の犠牲者を出した悲しい歴史の場所でもあります。


 一つ通りを中へ入ると、そこに生活の居を置く人々、とりわけ年配の方々の表情からは、私たちが話す言語に対し、どこか責めるように背を向けられている気がして、午後から訪れた戦争に纏わる記念館などを目にし、少しだけその理由を理解したのです。


 そんなネガティブな気分を払拭するように、夕方まではホテルのビーチでマリンスポーツに興じ、夕食はサンセットクルーズでのディナーに舌鼓を打ち、その後はホテルのラウンジでお酒を頂き、充実のうちに一日目は過ぎて行きました。







 二日目は、朝食を済ませた後、夕食までの間は、各自自由行動ということになっていたのですが、乃理ちゃんと二人っきりになりたい綿部くんが、単独行動を希望したため、全員で全力で阻止。




「何でですか~! せっかく南の楽園に来たのに、ちょっとは二人っきりにさせてくださいよ~!」


「駄目なものは駄目だ! ここは外国なんだぞ!」


「知ってますよ、そんなこと!」


「あんたなんか放置したら、どうなるか分かんないでしょ!?」


「もう、僕だって大人なんですよ!?」


「だからこそ、尚更たちが悪いんだよ!」




 お目付け役の後藤くんと、裏番長智枝さんに、コテンパンに言われてしまった綿部くん。


 日本ならいざ知らず、この異国の地で、天然綿部が何かしでかしでもすれば、場合によっては国際問題に発展するかも知れず、大人の責任として、一日本国民として、決してヤツを野放しになど出来ません。


 仮に百歩譲って、綿部本人は自業自得だとしても、乃理ちゃんが巻き込まれることだけは、何としても回避させなければならず、苦肉の策で、当初、私と梨花さん二人だけで行く予定だった無人島へ、全員一緒に連れ立って行くことにしたのです。







 その島へは、一日2便(1往復)のセスナしか通っておらず、それ以外には、個別にセスナもしくは船をチャーターしないと行けないといった辺鄙な場所にあり、住民は勿論、駐在する人もいないという、正真正銘の無人島。


 定期便には、他にも数名の乗客がいましたが、島へ降り立ったのは私たちだけ。どうやら彼らは現地の方のようで、目的は観光ではなく、買い出しをしたらしい荷物を持って、その先にあるそれぞれが住む島へ帰る途中でした。


 セスナは、空港とは名ばかりの、コンクリートを敷き詰めただけのようなだだっ広いスペースに着陸。島内には、空港の周辺ですら売店一つなく、添乗員を兼ねたセスナの乗務員さんが、私たちと一緒にセスナから降りて来ました。


 慣れた様子で、大きなクーラーボックスを降ろし、小道を抜けたすぐの場所にあるビーチへ案内すると、私たち全員分のチェアーとパラソルをセッティングし、何度も帰りのセスナの時刻の確認をして、セスナは次の島へ向け飛び立って行きました。






 島に残されたのは、日本からやって来た同じ会社の同僚で、気心も知れた私たち7人だけ。


 周囲をビーチに囲まれ、徒歩でも1時間ちょっとというとても小さなその島は、ジャングルと言えるような場所もなく、特に危険な動物もいないそうで、サバイバルの経験などないない私たちでも、安心して過ごすことが出来ます。


 到着したのは、午前11時少し前でしたが、とりあえず、クーラーボックスから食べ物を取り出し、早めのランチを頂くことにしました。


 島内での食べ物や飲み物は、ツアー側が準備してくれるということで、サンドイッチ程度の簡単なものを想像していたのですが、ホテルのビュッフェで出されるようなお料理が一人分ずつ小分けにされ、アルコール類を含めた飲み物も充実しています。


 当初より安全を考慮して、ホテル主催のオプショナルツアーに申し込んだのですが、急な参加人数の増加にも関わらず、その対応も含め、ツアーのクオリティーの高さには心底感心しました。




「うまっ! この料理、最高っすね!」


「だろ? ここへ来て、良かったじゃないか」


「僕は最初から、ここへ来るの賛成してましたよ~!」


「嘘つけ、このヤロー!」




 当初、この島への強制連行に文句タラタラだった綿部くんも、すっかり満足したようで、ぶうたれた顔は、いつの間にか満面の笑顔になっていました。


 満腹になった後は、アクアマリンをちりばめたような海に入り、一泳ぎ。荷物の中にあった巨大な浮き輪に乗って浮遊したり、入り江に繋がれたボート(使用可)を漕いだり。


 よく見ると、浮き輪やボートの影にたくさんの小魚たちが集まり、人を恐れないのか、透き通った水の中に手を入れても、逃げる気配もありません。


 また、ビーチでは、顔だけ出した誰かを砂に埋めてみたり、綿部くん力作の『砂の城』をみんなで評価したり。


 私たちの他には誰もいない、まさにここはプライベートアイランド。南国の楽園で、贅沢な時間と空間を独占です。







 しばらくして、ビーチに飽きてきた私たち。




「ねえ、せっかくだから、島の周囲を散策してみない?」




 梨花さんの提案で、智枝さんとさゆりちゃんも行きたいと希望し、綿部くんは待ってましたとばかり、乃理ちゃんと二人で別行動を希望しました。


 まあ、私たち以外には誰もいない無人島ですし、最悪、島自体を爆破させるようなことでもしない限り、綿部くんを放牧しても問題ないだろうという結論になり、乃理ちゃんに綿部のリードを託しました。




「こうめちゃんは? 一緒に行こうよ?」


「私、ここで待ってる。ちょっと眠くなっちゃって」




 せっかく誘ってもらったのですが、ランチを終えてから、どうにもこうにも眠くて、とても1時間も歩く気持ちになれず、ビーチでお昼寝しながら、お留守番をすることにしたのです。




「じゃあ、俺もここに残るわ」




 そう言ったのは、後藤くん。誰もいない無人島とはいっても、私が一人になるのを心配してくれての発言でした。


 すると、KY綿部が、またとんでもない発言。




「あ~、後藤先輩、こんな誰もいないビーチで、こうめさんに変なことしようと企んでるんじゃないんですか~?」


「はあっ?? おまえと一緒にすんな!!」


「そうだよ、後藤くんに失礼だよ! 相手が私じゃなく、梨花さんならいざ知らず!」


「おいっ!」「あのねっ!」




 思わず爆笑する面々。後藤くんの気遣いは嬉しかったのですが、いくら気心知れた相手とはいえ、やはりそこは気を遣います。




「ここはビーチだし、心配ないと思う。それより、危険な動物はいないって言ってたけど、ヘビくらいはいるかも知れないし、梨花さんたちと一緒に行ってあげて」


「ヘビ!? 島にヘビがいるんっすか!? 僕、ヘビ駄目なんっすよね!!」


「も、いいから! 黙って!」


「けど、ヘビ…!!」




 乃理ちゃんの肘鉄が脇腹に入り、声を失ってもんどりうつ綿部を横目に、後藤くんは、




「けど、ホントに一人で大丈夫?」


「うん。それに、爆睡してイビキかいてる姿とか、見られたくないし」




 そう言った私の言葉に、思わず表情を緩め、こっくり頷きました。


 この静かな島のこと、乃理ちゃんたちも、それほど遠くへは行かないので、もし何かあっても、大声を出せば聞こえるでしょう。


 そういうわけで、私たちは3組に分かれることになりました。




「ねえねえ、ヘビが寄って来ないようにするには、音を出し続ければ良かったんだよね?」


「それは、熊でしょ?」


「そっか! じゃあ、口笛を吹くんだっけ?」


「夜に吹くと、寄って来るって聞いたけど」




 梨花さんたちが向かった方向とは、反対方向へ歩いて行く綿部くんと乃理ちゃんの会話に失笑しながら、皆がいなくなったビーチで、ひとりチェアーに横たわりました。


 迎えのセスナが来るまで、2時間。聞こえてくるのは、静かな波の音だけ。目の前に広がるのは、一面の海。ところどころに島影が見えるものの、遮るものが何もないロケーションの独り占めは、最上の贅沢でもありました。


 いつも聞き慣れている都会の騒音とはまた違う『潮騒』の音色が、騒々しいほど耳に響いて感じられましたが、寄せては返す単調なリズムは、すぐに私を眠りに誘いました。







 どれくらいそうしていたのか、不意に大きな音と衝撃を感じて目を覚ますと、さっきまで静かだったビーチは、耳を劈くような爆音に包まれ、驚いて飛び起きました。


 ……もとい、飛び起きようとしたのですが、まったく身体が動きません。


 横たわったままの私の瞳に飛び込んできたのは、瑠璃色の海一面が黒ずんで見えるほどの、おびただしい数の軍艦と、空を覆いつくす戦闘機の群れ。雷鳴のような地響きを伴う爆音は、軍艦や戦闘機による爆撃や砲撃のようでした。


 何より私を驚かせたのは、さっきまで誰もいなかったはずのビーチを埋め尽くすたくさんの人、人、人…


 そのいでたちは、戦闘服にヘルメットを被り、苦しそうに蠢いている人、微動だに動かない人、さらに、倒れた人に覆いかぶさり襲い掛かる人…


 爆音と、怒号と悲鳴、火薬と血の臭い。さらに強烈な芳香を放つ南国の花の匂いが、熱帯の湿気を帯びた空気に入り混じり、思わず吐き気を催すほどです。







 その時、数人の兵士らしき人たちが、こちらに向かって走ってきました。手には銃のような武器を持ち、発砲を繰り返しています。恐怖と戦慄で、思わず身構えた私。


 今まさに、ぶつかりそうになり、目を閉じた瞬間、お互いの身体が映像のようにすり抜けたのです。どうやら、彼らには私の姿が見えていないらしく、直接私に危害が加えられることはないようでした。




『これは夢だわ。何て嫌な夢。早く目を覚まさなければ』




 そう、冷静に判断して、このシチュエーションで考えられるのは、ただ一つ。私は悪夢を見ているのだということ。どんなに悲惨な状況が目の前に広がっていても、これは夢なのですから、何も恐れることなどないのです。


 ただ、厄介なことに、まるで金縛りに遭っているかのように、身体が凍り付いて動きません。ジタバタしてもどうにもならず、このまま解けるのを待つしかないのかな、そんなことを考えていた時でした。







 不意に、何かが足に触れた気がした次の瞬間、誰かに足首をつかまれた感覚がありました。




『何…?』




 さっき身体をすり抜けていった兵士たちとは違い、その感触は夢にしては妙に生々しく、しかも相当強い力で握り締めた掌や指から伝わる体温までが、はっきりと感じられるほどなのです。


 金縛り状態の中、唯一動かすことが出来る目だけを、恐る恐るそちらに遣ると、そこには二人の男性の顔がありました。




『!!!』




 必死の形相でこちらを見つめるその顔は、一人は東洋人、もう一人は西洋人、ともに血まみれなのが分かります。


 ふたりのほうを見遣った私と目が合った瞬間、私の足首を握り締める手にさらに力が加わり、その痛みと恐怖で、思わず悲鳴を上げたのでした。








 恐怖と痛みで発した悲鳴も、金縛りに遭っている状況下では声にならず、必死で抵抗しようにも、指一本動かすことも出来ません。


 おまけに、彼らが握り締めている足首は、緩まるどころか、ぎりぎりと焼け付くような痛みを伴いながら、さらに力が込められ続け、痛くてたまりません。


 夢なのに、これほどの強烈な感覚を伴うことなど、かつてなかったことで、それ以上に、得体の知れない二人に、足首を掴まれている恐怖と相まって、鼓動が激しさを増します。


 よもや、これは夢ではなく、私はどこか別の世界、あるいは時代へ迷い込んでしまったとでもいうのだろうかと、そんな考えが頭を過ったときでした。







 あまりの恐怖に、目を閉じていた私。不意に、顔のすぐ傍に気配を感じ、見なければ良いものを、恐る恐る目を開けると。




「!!!」




 わずか数十センチの距離に、私を覗き込むようにして見ている二つの顔が、視界に飛び込んで来たのです。


 呼吸をするのも忘れるほど硬直した状態で、目を閉じることも出来ず、いっそのこと気を失ってしまえたなら、どんなに幸せだろうと思うものの、妙に冷静な意識は、はっきりとふたりの容姿を私の瞳に焼き付けました。


 東洋人の方は、すっきり整った顔立ちに、切れ長の目、左目尻の下に小さな泣きぼくろが一つ。西洋人の方は、エメラルドのような、深いグリーンの瞳の色が、とても印象的です。


 年齢はふたりとも20代前半~中頃といったところでしょうか。いずれもまだ若い兵士で、出血しているのか、それとも誰かの返り血なのか、周囲の激しい戦闘に加わっていたのだろうと想像がつきます。


 すると、次の瞬間、私の耳に、はっきりとした声が届いたのです。




「Take me with you.(連れて行って)」




 英語でそう言うと、彼の瞳から涙が零れ落ちました。


 決して恐怖を払拭出来たわけではありませんが、自分と同年代らしき彼らの身の上に何が起こったのか、少し興味を抱いたのも事実。


 すると、今度は東洋人の方が話しかけて来たのです。




「おかげで、やっと帰ることが出来ます」




 そう、彼が話したのは、流暢な日本語でした。


 思わず彼を見つめ返した私に、きりっと結んだその唇の端が、かすかに笑ったような気がして、私も何か話そうと口を開こうとした瞬間、激しく揺さぶられ、目が覚めました。







 目の前には、呆れたような顔をしている後藤くんの顔があり、あの二人の姿はどこにもなく、一瞬、どっちが夢なのか混乱しました。




「後藤くん… あの二人は?」


「おいおい、まだ寝ぼけてるの? っていうか、この状態で、よく爆睡し続けられたもんだよな」




 そう言われ、ようやく周囲の騒々しさに気が付いた私。どうやら、ビーチに隣接する空港に、セスナが着陸しているようで、そのけたたましいエンジン音が響き渡っていたのです。




「嘘っ! もう出発時間!? やだ、急いで準備しないと!」


「落ち着けって。あれは、俺たちが乗るセスナじゃないから」




 後藤くんに時計を見せられ、出発までにはまだ1時間以上あることが分かりました。彼の話によると、こういうことです。


 梨花さんたちと島の散策に出かけ、概ね4分の3ほどまで歩いたところで、この島に向かって来るセスナが見えたのだそうです。私たちが乗るセスナが来るまでにはまだ時間があり、どうやら別の機らしいことが分かりました。


 そうなると、ひとりビーチに残してきた私のことが気に掛かり、みんなが口々に心配したため、代表して一足先に後藤くんが走って戻って来てくれたのです。


 ところが、ビーチに戻ってみると、この大音響の中、爆睡している私のあられもない姿があり、起こしてもなかなか目覚めない神経に、半ば呆れていたのだと。


 すると、そこへ二人っきりで出かけていた乃理ちゃんと綿部くんも戻って来て、私たちの姿を見つけると、急いで駆け寄り、




「ああ、良かった! 先輩、戻ってたんっすね!」


「うん。飛行機が来たから、ひとり残ってる松武が気になってさ」


「さっき、むこうにある入り江の船着き場にも、クルーザーが入って来たのよ」


「へえ、この島って、案外人気スポットなのかな?」




 ホテルのツアー担当者の話では、この島へ入るには許可が必要で、学術的な調査等を除き、その権利を持っていないと難しいようなことを聞いていました。


 ですから、正確に言うと、私たちが乗ってきたセスナも『定期便』ではなく、この島に観光する人がいるときのみ、普段は上空を通過する便が寄り道してくれているだけなのです。


 ですが、これだけのロケーションを持つ島ですから、口コミで観光客に広まれば、相当な集客に繋がることは想像に難くなく、そうなれば、有償でも権利を手に入れようとする人や企業が、大勢参入してきてもおかしくありません。


 なぜそうならないのか、何か入島を制限する理由でもあるのかは知り得ませんが、このビーチから齎される極上の贅沢の一つは、誰もいない無人島を独占出来ることでもあり、人が溢れかえる光景は、その魅力を激減させてしまうジレンマが付き纏います。


 そんなことを話しながら、立ち上がろうとしたとき、足首辺りに激痛が走り、思わず声を上げました。




「ちょっと、こうめちゃん、何これ!?」


「何がどうなると、こんなんなるんすかねぇ~?」


「ってか、これちょっと酷いぞ」




 眠っている間に、太陽が傾いたのか、それともパラソルが風でずれたのか、南国の灼熱の太陽に晒されていた足首部分は、日焼けを通り越し、やけどのような状態になっていました。


 すぐに、冷たいミネラルウォーターで患部を冷やそうとしたのですが、まるで熱湯でも掛けられたような痛みが走り、さらに悲鳴を上げた私。もうこうなってしまうと、下手に手出しせず、ちゃんとした治療を受けたほうが賢明です。


 恐るべき、南国の太陽。こんなことになると分かっていれば、もっと念入りに日焼け止めを塗っておいたのにと、今更後悔しても後の祭りでした。







 その時、小道のほうからやって来る人の気配があり、見ると、ご家族連れと見られる数人の人たちが現れました。


 私たちに気付くと、こちらに向かって軽く会釈をし、私たちも同様に返しました。言葉は交わしていませんが、一連の立ち居振る舞いから、おそらく日本人であることが分かります。彼らは、少し離れた場所まで歩いて行き、海のほうを指差しながら、何かを話していました。


 その中の一人は、こうした南国のリゾート地ではあまり見かけないような高齢の女性。家族旅行と言ってしまえばそれまでですが、どこか私たちのような能天気旅行とは、違う雰囲気が感じられます。


 ほどなくして、今度は乃理ちゃんたちが戻って来た道から、西洋人の一団が現れました。こちらもさっきのグループと同様に、ひとりだけ高齢の女性が含まれていて、ビーチにいた私たちに気付くと、明るく『Hi !』『Hello !』と声を掛けてきて、私たちも笑顔で『Hello !』と返しました。




「あの人たち、さっき僕たちが見た船に乗ってた人だよね、乃理?」


「そうだね」




 先ほどの日本人家族と少し離れた場所で、彼らも海のほうを指差し、何かを話しているようでしたが、どちらのグループも距離がありすぎて、会話の中身までは聞こえません。







 間もなくして、梨花さんたちもビーチに戻って来ました。


 途中、空港にいたセスナの乗務員らしき人に出会い、何があったのか尋ねたところ、飛行中にエンジンの調子がおかしくなり、安全のため、急遽この島の空港に着陸したとのこと。


 当然、この無人島には修理のための機材もなければ、エンジニアもいないため、修理は後日になり、とりあえずセスナはここに置いたまま、乗員乗客は私たちと同じセスナで本島に戻るのだそうです。


 さもなくば、宿泊施設すらないこの無人島に、野宿する以外ありません。







 そんな話をしていると、さっきの日本人家族が、こちらに戻ってきました。この気温の中、かなり暑そうな様子で、女性の方が私たちのほうへ歩み寄り、




「すみません、どこか、自動販売機がある場所をご存知ありませんか?」


「この島は無人島で、売店も自販もないみたいなんですよ」


「そうですか。おばあちゃん、飲み物は売ってないんだって」




 そういうと、その女性は力なく歩いていたおばあちゃんに手を貸し、一団はそのまま、もと来た空港へ向かって歩き出しました。




「あの! もしよかったら、これ飲んでください!」


「パラソルと椅子もあるので、座ってください」


「さあ、どうぞこちらへ」




 そう言って、クーラーボックスを指差した綿部くんに続いて、さゆりちゃんと乃理ちゃんも、おばあちゃんたちにパラソルの下に入るように勧めました。




「あらまあ、どうもありがとう」


「どうぞ、お好きなのを飲んでくださいね」


「じゃあ、お代を。お幾らかしら?」


「いえ、私たち、ツアーでこの島へ来てまして、それに付いてた飲み物ですし、まだたくさんありますから、ご遠慮なく」


「でも、それじゃあ、あなたたちに申し訳ないわ」


「困ったときはお互い様っすよ! 遠慮なんかして熱中症になったら、シャレになりませんって!」




 あっけらかんとした綿部くんに、おばあちゃんたちも気持ちがほぐされたのか、それじゃと、好みのドリンクを選び、口に運んでいました。


 すると、同じようにして戻って来た外国人グループの人たちも、飲み物を探していたらしく、こちらから声を掛け、ドリンクをおすそ分け。この暑さの中、本当に助かったと感謝されました。


 お話を聞くと、彼らがチャーターしたクルーザーも、エンジンに不調が現れたらしく、最寄りのこの島に緊急避難して来たのだそうです。こちらも、修理は後日になるそうで、今日のところは、やはり私たちと同じセスナで帰るのだとか。




「セスナとクルーザーが、同じ日の同じ時間にエンジントラブルなんて、不思議なこともあるのね」


「何とかトライアングルみたいな、ミステリーっすかね~?」


「ええっ!?」「Hah ha~!」「んなわけあるかいっ!」




 そんな偶然から、この無人島で出会った私たち。


 二組は、それぞれがご家族とのことで、日本人ファミリーは瀬田さん。もう一方はアメリカ人でネルソンさんファミリー。二家族ともこの国へは観光で訪れたのだとおっしゃいました。


 この暑さですから、飲み物がなくて困っているかも知れないと、セスナやクルーザーの乗組員さんたちにも声を掛け、まだたくさん残っている飲み物を提供し、風が通る木陰に移動して、皆でセスナが来るのを待つことにしました。







 木陰にシートを広げ、それぞれが思い思いにその上で寛ぐ中、私の足首に目を留めた瀬田さんのおばあちゃんが、心配そうに尋ねました。




「まあ、酷い足。まるで火傷のようね?」


「はい、眠っている間に、ここだけ日焼けしちゃったみたいなんです」


「痛そうね。大丈夫?」


「すごく痛いです~。帰ったら、すぐに診察してもらおうと思って」


「それがいいわ。でもこの日焼け痕、何だか、人の手の形みたいに見えない?」


「え、どれ?」「あ、ホント!」「Oh,yes !」




 その言葉に、代わる代わるに私の日焼けを覗き込む面々。言われてみると、確かにくっきりとした形状で、人の手形のようにも見えます。


 ネルソンさんファミリーや、セスナやクルーザーのスタッフさんたちも、とても心配してくれ、また、私たちに対しても興味があるらしく、私たちの誰かが自主的に買って出る通訳を介して、ごく自然に会話に参加していました。







 ふと、さっき見ていたあのシュールな夢のことを思い出し、何気なくその話を口にした私。




「そういえばね、さっきビーチで寝てたときに、私、変な夢を見たんだ」


「へえ、どんな?」


「それがね、空も海も、軍艦や戦闘機で埋め尽くされてて、このビーチでも、昔の兵隊さんみたいな人たちがいっぱい戦ってて、まるで戦争みたいだったの」




 その話を聞き、急に神妙な表情で黙り込んだ、ふたりのおばあちゃんたち。


 梨花さんたちも、思い出したように言いました。




「そういえば、さっきこの島を散策したとき、戦争中の武器の残骸みたいなものが、たくさんあったわね」


「うん、あったあった」


「Because it was a battlefield, here.(ここは、戦場だったからね)」


「多分、昨日の戦争記念館で見たことが、潜在意識にあって、寝たままの状態で聞こえたセスナの音で、そんな夢を見たんだと思うの」


「ああ、そういうのあるよね」


「I also have experience.(私も経験があるわ)」


「でもね、その夢の中で、西洋人と日本人の二人の兵隊さんが出てきてから、雰囲気が変わって」


「どういうふうに?」


「うん、その人たちに足首を掴まれたんだよね。ものすごく痛くて、全然夢とは思えないくらいリアルで」


「えっ…?」「Really …?」「それで、その痕…?」




 灼熱の太陽が降り注ぐ真昼の南国の楽園には、あまりにも似つかわしくないその夢に、再び全員の視線が、私の足の日焼け痕に注がれます。


 普通なら、初対面の見ず知らずの人間が見た場違いな夢の話など、暇つぶしに耳を傾ける程度で、大して面白くもないでしょう。にも関わらず、二つの家族たちが強く興味を示したのには、理由がありました。


 そして、次の言葉に、ネルソンさんファミリーの表情が一変したのです。




「でね、その外国人兵士が、私に言ったの。『Take me with you.』って」


「Oh my dear …! Please tell me the man in more detail !

 (なんてことなの…! その人のことを、もっと詳しく聞かせて)」




 縋り付くようなネルソンさんのおばあちゃんの反応に、むしろ私のほうが驚き、




「そう言われても、夢の中のお話だし…」


「Of course I know, but …(勿論分かってるけど…)」


「OK, well … He had very beautiful green eyes it looks like emerald. Just like you ! (あ、そういえば、とても綺麗な、深いエメラルドグリーンの瞳でした。そう、あなたと同じような)」




 そう言って、私が息子さんを指すと、全員が言葉を失ったまま、まじまじと私とその人を交互に見つめたのです。


 そんな中、瀬田さんのおばあちゃんも、上ずる声を押さえながら、尋ねました。




「私も訊いていいかしら? もう一人の日本人の人は、どんな…?」


「えっと、すっきりした顔立ちの人で… あ、ほくろ! 切れ長の瞳で、左の目尻の下に、ほくろがありました」


「そんなことって…!」


「それで、私に『おかげで、やっと帰ることが出来ます』っておっしゃって…」




 そこまで言うと、おばあちゃんは泣き崩れ、私は何か傷つけるようなことを言ってしまったのかと、急に不安になりました。


 すると、ネルソンさんの息子さんが写真を取り出し、手渡されたその写真に、今度は私が息を飲みました。



「この人…!」


「He is my father , and her husband.(私の父で、彼女(母)の夫です)」




 モノクロで、瞳の色こそ判別出来ませんが、そこに写った青年は、間違いなく私が夢で見た人だったのです。




「あの、こっちも見て頂けますか?」


「あ…! この人も…!」


「これ、父です。戦死した、母の主人なんです」




 瀬田さんの娘さんが出した写真に写った青年の左目尻には、さっき私が言った通りの場所にほくろがあり、偶然とは思えない一致に、誰もが次の言葉を発することが出来ずにいました。







 ふたりの青年を写したその写真は、それぞれが所属する軍隊で撮られたものらしく、セピア色に褪せた風合いが、長い年月の経過を如実に物語っています。


 あまりに事実と符合する夢のディテールが、不気味に感じられて仕方ありません。


 極彩色の南国の島で、突然、縁もゆかりもない私の午睡に現れたふたり。生身の人間の皮膚に手形を残すほどの強い念は、自分の家族の元へ帰りたい一心からだけなのでしょうか。







 そのとき、不意にビーチから私たちがいる木陰に向かい、熱帯には似つかわしくない冷たい風が、ゴオォ…っという音を立てて吹き抜けました。








 さっきまで、あれほど晴れ渡っていた空一面に、にわかに広がった雲が太陽を覆い隠すと、急激に辺りが暗くなり始めました。


 雲と水平線の間からわずかに覗く陽光が、その陰影を際立たせ、遠方の雲の下は、垂れ下がったヴェールのように煙り、そこに雨の境界があることが、目視で確認出来ます。


 すぐに、ここも雨になるというクルーザーの乗組員さんたちの言葉に、全員で荷物を手分けして運びながら、空港の横にある廃墟のような建物に移動しました。


 ブロックで造られたその年代物の建物は、第二次大戦中に旧日本軍が建築したもので、隣接する空港も、当時のものに少し手を加えただけの状態で、現在も使用しているのだそうです。




「それにしても、寒いよね」




 ぽつりと言った梨花さんの言葉に、誰もが頷きました。


 寒さの理由は、気温が下がったからだけではなく、大勢の戦死者を出したこの島の時代背景と、今は廃墟となっているこの建物のシチュエーションが相まって、いっそうの不気味さを醸し出していたのです。


 壁や床や天井の至るとこに出来た気味悪いシミが、経年劣化によるのもなのか、それともここであった何かの痕跡なのか、否が応にも想像を掻き立てられ、余計に怖さが募ります。


 出来れば、こんな場所に居たくはないと誰もが思ってはいるものの、島内で屋根のある場所はここだけで、他にこの雨をやり過ごすための選択肢はありません。


 熱帯のスコールは、日本のようにシトシトと降る雨とは違い、バケツをひっくり返したような半端ない降りですが、早ければ数十分、長くても2時間ほどで止みますので、その間の辛抱です。


 とりあえず、室内の中央にレジャーシートを敷き、なるべく寒くないよう、真ん中におばあちゃん二人を座らせ、その周囲を取り囲むように、全員が座りました。







 が、先ほどから何だか様子のおかしい人が三人。そのうちの一人が、智枝さんでした。実は彼女、この建物に入る前から、無性に周囲を気にしては、あちこちに目を遣っていたのです。


 同様に、落ち着かない様子の、クルーザーの乗組員のニクさんと、ネルソンさんの次女モリーさん。じっとしていたかと思うと、急にあらぬ方向を振り向いたり、身体を避けるような仕草をしたり、何より、その三人が反応する方向は、常にシンクロしているのです。


 勿論それが、体調不良や、不安からくるような類のものではないことは明白で、不気味なほど一致するその行動の理由に、大方の予想が付くだけに、尋ねたい気持ち半分、知りたくない気持ち半分。


 真っ先に、それに堪えられなくなったのが綿部くん。蛇も苦手ですが、それ以上にホラー系が大の苦手の彼、天然の性格も手伝って、誰もが口に出来なかったその理由を、いともあっさりと尋ねたのです。




「何なんっすか、さっきから? 三人とも、何か見えてるんですかね?」




 その言葉に、三人は少し戸惑った様子で言葉を発するのを躊躇っていたのですが、最初に口を開いたのは、智枝さんでした。


 先ずそれは、私たちにではなく、ニクさんとモリーさんに対し、




「Same as me?(同じなの?)」


「Seems so.(そうみたいね)」「Maybe.(多分)」


「だから! 何が同じなんっすか!? ちゃんと分かるように言ってくださいよ、智枝さん!!」


「信じて貰えないかも知れないけど、さっきからずっと『いる』んだよね」


「いる…?」




 思わず固まる綿部くんに、こっくり頷いた智枝さん。


 智枝さんの母方の家系は、代々続く有名な霊媒師で、智枝さん自身もその能力を受け継いだ一人、彼女にそうした能力があることは、仲の良い同僚である私たちも、以前からよく知っていました。


 ニクさんは、この近くの小さな島にある国内でもかなり有名な呪術師の家系の出身で、本人もその一族の資質を強く受け継いでいる一人。


 モリーさんも幼い頃からスピリチュアルな体験を繰り返しており、何度かFBIの捜査にも協力したことがあるほどの実力者でした。


 つまりこの三人は、通常の人間には持ちえない『第六番目の感覚』の持ち主なのです。そんな三人が、揃って見ているものがいったい何なのか、見えない私たちにも分かるように、詳しく説明してくれました。




「まず最初に言っておくけど、私たちの周囲、すべてを囲まれてるよ」


「囲まれてるって、誰にっすか?」


「亡霊… って言えばいいのかな? 東洋人、西洋人、軍服を着てる人もいれば、子供からお年寄りまで、一般市民のような人たちもいるんだよね」


「マジですか!? で、その人たちは、どうしようとしてるんっすか!?」


「私たちの輪の中に入ろうとして、何度もアタックして来てる」




 その言葉に、綿部くんは失神しそうになりながら、乃理ちゃんに縋り付きました。勿論、失神しそうなくらい恐怖を感じているのは、誰もが同じです。


 智枝さんたちとは違い、何も見えない私たちには、自分たちが襲われていることすら分からずにいるのですから、どう対処して良いのかなど見当もつきません。




「で? 俺たち、このままここにいて、大丈夫なのか?」


「うん。っていうか、むしろこのまま動かない方が良いみたい」


「どういうこと?」


「結界が張られてるから、彼らはこの中へは入れない」


「それは、智枝さんたちが張ってくれてるの?」




 その言葉に、智枝さんたちは首を横に振ると、三人が代わる代わるそれぞれ別の場所を指差し、さっき私が夢で見た二人の若い兵士と、もう一人、30代と思しき青年将校の出で立ちの日本人が、無数の亡霊から私たちを守るようにして、輪の外側に立っているのだと。


 そして、私たちと亡霊を隔てている結界は、青白い光となって、ドームのように私たち全員を包んでいて、三人が言うには、その光は、私自身から放出されているというのです。


 必然的に、全員の視線が私に集中しました。私自身、多少驚きながらも、内心、その指摘には心当たりがありました。おそらく、その青年将校というのは私の大伯父、そして、青い光の正体は…。




「こうめさんも、能力者の一人だったんっすか!?」


「凄いよ、こうめちゃん!」


「え? いや、私は…」


「まあ、その話はまた今度にするとして」




 少し困った顔の私に気遣ってくれたのか、智枝さんたちは、今私たちが置かれている状況について、話を戻しました。







 先ず、周囲を取り囲んでいるのは、家族の元へ帰りたい一心で、この世への未練を強く残したまま、成仏出来ずにさ迷い続けている亡霊たちでした。強烈な望郷の念に支配され、必死で縋り付こうとしているのです。


 先ほどから、何とかして私たちに憑依しようと、体当たりでアタックしては、青白い光の結界に阻まれ、その魂は破裂するように消滅し、それでもなお、次から次へとアタックを繰り返しているのだそうです。


 すでに、亡霊たちには理性などなく、私たちに憑りついたところで、彼らが家族と再会出来る由もないことすら理解出来ませんし、たとえ私たちが彼らを連れ帰ったところで、どうしてやることも出来ません。


 それ以上に、一体や二体なら差して問題なくても、これだけの数の亡霊に憑依されれば、命ごと持って行かれる危険があるため、絶対にこの結界から出てはいけないのだそうです。


 


「それじゃ、私たちを守ってくれてる三人にも、理性はないの?」


「ううん。彼らには、ちゃんと理性も意識もあるし、その上で、私たちを守ってくれてる、いわば守護霊みたいな感じ」




 ニクさんが、彼ら三人と交信したところ、若い二人は、瀬田さんとネルソンさん、ふたりのおばあちゃんの亡くなったご主人たち、そして、もう一人の青年将校は、私の祖母の兄で、大戦で亡くなった大伯父だと分かりました。


 私が大伯父と出会ったのは二度。祖母の古いアルバムの中にあった写真と、幼い頃の、白日夢の中…。


 すると、瀬田さんのおばあちゃんが、智枝さんに尋ねました。




「無理なお願いかも知れないけど、主人とお話しすることは出来ないのかしら?」


「この状態では、ちょっと…」




 同様に、娘モリーさんに懇願するネルソンさんのおばあちゃん。ふたりの気持ちはよく分かりますが。




「彼らも、私たちを守ろうと必死なんですよ」


「そう… そうよね」


「でも、こちらの話していることはちゃんと聞こえていますから、伝えたいことがあれば、おっしゃって大丈夫だと思いますよ」




 その言葉に、瀬田さんのおばあちゃんは、パッと表情を明るくし、すぐにご主人が立っていると言われた方に向かい、ひとり語り始めました。




「武雄さん。そこにいらっしゃるのね? こんなふうにお会い出来るなんて、何だか不思議です」




 ふたりが結婚したのは、戦争が激化していた時期。出征する多くの人がそうであったように、瀬田さんご夫婦も祝言を挙げて間もなく、ご主人である武雄さんは戦地に送り出され、そのまま帰らぬ人となりました。


 残された新妻の多くは、そのまま未亡人になり、生まれた子供の顔を、一度もご主人に見せられなかったという方も少なくなく、瀬田さん母子もそうでした。


 大変な時代、大変な状況で、女手一つで娘を育て上げた瀬田さん。涙ながらにご主人に語り掛ける姿に、私たちまで切なくなったときでした。




「『ありがとう、桃子さん。本当にご苦労さまでした』…と、ご主人がおっしゃってます」


「私の名前を…!」




 身内以外、知るはずのないおばあちゃんの名前。それは、そこに確かにご主人がいることを証明すること以外の何ものでもありません。涙しながら、さらに一生懸命に語り掛ける瀬田さんのおばあちゃん。


 同様に、ネルソンさんのおばあちゃんにも、ご主人から何らかのメッセージがあったらしく、こちらも必死で語り掛けるも、それ以上、二人からのメッセージが返ることはありませんでした。


 なぜなら、先ほどから、やたらと亡霊たちの捨て身の攻撃が激しさを増し、智枝さんたちほどではないまでも、少しはそうした感受性を持つ私にまで、結界に弾かれた魂が砕ける音が聞こえ始めていたのです。




「まずいわね。このままだと、結界がいつまでもつのか…」


「そんなにヤバイんっすか!?」


「ねえ、こうめ、この結界は何なの? もし正体を知ってるなら、教えてくれない?」




 私はこっくりと頷き、私たちを守るこの青白い光の正体について、話すことにしました。







 それはまだ私が幼い頃、祖母の実家にあった古い蔵で、一人の子供と出会ったことに始まります。


 彼女は人の姿をしていましたが、それは人間ではなく、幼い子供にしか見ることの出来ない、妖怪の類のようなものであることを、後々になってから知ったのです。


 彼女と関わった者に対し、その身に危険が訪れた際にはいつ何時でも、生涯に渡って守ってくれるのだと、私はそう本人から聞かされており、実際、過去に幾度となく助けられていました。


 ただ、子供なら誰にでも見えるというわけではなく、当時、彼女の姿が見えていたのは、私一人だけ。幼い私は、名前がないと言ったその子に『瑠璃ちゃん』という名前を付け、ごく自然にお友達になりました。







 神出鬼没な瑠璃ちゃんは、我が家や、私の行く先々に現れては、一緒に遊んだりしていたのですが、周囲からは小さな子供によくある『一人遊び』に見えていたようです。


 そして、幼い子供の時だけ見えるという彼女との別れは、私が12歳になったある日、突然やって来ました。


 もう、会うことは出来ないけれど、ずっと見守っていると約束してくれた瑠璃ちゃん。その日を境に、私は二度とその姿を見ることはなくなったのです。







 もう一つ、彼女に守られていたのは、私だけではなく、私との出逢いから遡ること半世紀。


 ある怨霊を封印していた結界に閉じ込められ、もう長い間身動きが取れなくなっていた彼女を解放したのが、まだ幼かった私の祖母と、その兄。


 ふたりは彼女に『はるちゃん』という名前を付け、私同様、仲の良いお友達になり、彼女から守られていたのですが。




「未来の事とか、なんでも御見通しで、危険を回避してくれるのよ。ただね、瑠璃ちゃんでも、お兄ちゃんを守ることが出来なかったって言ってたの」


「そんな鉄壁な妖怪でも無理なことって、何だったんっすか!?」


「話すと長くなるんだけど、事の始まりは、嫉妬に狂ったある女性の生霊の怨念が、怨霊になって呪い続けてるらしいのね」


「ええっ!? それ、一番ヤバイタイプのやつじゃないっすか!!」


「ね、ちょっと静かにして、お話を聞こう?」


「けど、ヤバイよ! 女の嫉妬だけでも怖いのに、その生霊の怨念って!!」




 乃理ちゃんに落ち着くように諭されても、恐怖でパニックになっている綿部くんは、涙目になりながら、大声で騒ぐばかり。


 そんな彼の様子を横目に、智枝さんが続けました。




「それで、お兄ちゃんって人は、どうなったの? 亡くなったの?」


「うん。第二次大戦で、砲撃を受けて沈没した軍艦と運命を共にして、亡くなったそうなの。あの時、怨霊の怨念からお兄ちゃんを守れなかったって、瑠璃ちゃんは凄く悔やんでた」


「そのお兄ちゃんっていうのは、もしかして…?」


「そう、私の大伯父でもある、そこにいるって言ってた人…」




 通常なら、そんな話をしたところで、誰にも信じてもらえないようなことでしょうが、この状況にあって、それを信じない人は誰もいません。




「ええっっっ!!? どうするんっすか!? 冗談抜きに、マジ、ヤバイじゃないですか~~!!」


「も、いいから黙って!」


「けど、このままじゃ僕たち、マジで怨霊に…!」




 乃理ちゃんの肘鉄が脇腹に入り、天然綿部は地べたに突っ伏し、ようやく静かになりました。


 ただ、彼が言うように、瑠璃ちゃんの力をすり抜け、お兄ちゃんの命を奪ったという怨霊の念が、もし今ここに働いているのだとしたら…。




「Nick, Molly, how about do you think ?(ニク、モリー、どう思う?)」


「I can't say…(何とも…)」


「I have no idea.(わからない)」




 三人は少し考え込んだ様子でしたが、彼らとてごく普通の人間に違いなく、そんな尋常ならざる相手に対し、どうすることも出来ません。


 それでも、何か少しでも助けになればと、ニクさんは、代々島に伝わる魔除けの呪文を唱え始め、モリーさんと智枝さんの指示で、なるべく全員が結界の中央に寄り集まり、私がその中心へ。


 なんでも、私(瑠璃ちゃん)の発する結界の円の中に、外側にいる瀬田さん、ネルソンさん、お兄ちゃん(大伯父)の守護霊三人が作る三角形と、内側にいるニクさん、モリーさん、智枝さんの能力者三人が作る三角形を交差させて、魔除けとなる六芒星を形成し、結界のパワーを強めるのだとか。


 果たして、これにどれほどの効果があるのか、あるいは無意味なのかは分かりませんが、とにかく、誰一人向こうの世界へ引きずり込まれることなく、全員でこの場を乗り切ることが、今クリアするべき最大のミッション。







 そのとき、ひときわ激しさを増した雨が、周囲をなお暗くし、会話さえ聞こえないほどの大音響で建物や地面を打ち付け出しました。




「…何? この音…?」


「嘘だろ…?」


「No…no…no…!!」




 そんな中、次々と結界に体当たりしては破裂する亡霊たちの発する衝撃音が、私や、見えている三人以外の人たちの耳にも届き始めたのです。


 誰もが恐怖で引き攣り、無意識にお互いの手を繋ぎ、この恐怖を堪える中、ますます亡霊たちのアタックは激しくなるばかり。


 どうやら、自ら跳び掛かってくるというより、まるで吸い寄せられるようにして、次から次へとぶつかって来ているようでした。







 そのとき、さらに激しさを増した雨とともに、すぐ傍に落雷があり、その瞬間、周囲を照らし出した閃光に浮かび上がった光景。それは…。




「嫌ああぁぁぁっっ!!」


「うわ…っっ!!」


「No---!!!」




 私たちを包む青白い光。


 その外に立つ、軍服を着た3人の男性。


 そして、それを取り囲む、膨大な数の亡霊たちの姿でした。









 激しいスコールと雷鳴の大音響の中、稲妻の閃光に浮かび上がったのは、通常なら人間には見ることのないはずの光景でした。


 私の身体から放たれている青白い光は、輪になって座っている全員を包むようにしてドーム状に広がり、『こちら』と『あちら』を隔てていました。


 さらに、智枝さんたち『第六の感覚』を持つ三人を結ぶようにして、赤い三角形の光が浮かび上がり、同様に、ドーム状の結界の外に立つ三人の霊を結ぶように浮かび上がる、ゴールドの三角形と交差して六芒星を形成。


 共に魔除けとされる結界と六芒星、その二つが合わさることで、中にいる私たちをより強吾に外の亡霊から守ってくれていたのです。







 言葉では説明を受けていたものの、結界の周囲を取り巻く亡霊の数たるや、自分たちの想像をはるかに超えていました。


 そのどれもが、生気の感じられないぼんやりとした外見で、表情すらありません。にも関わらず、この世への未練に支配された強烈な念が、何とか私たちに憑依しようと、次から次へ、四方八方から跳びかかって来ているのです。


 ですが、亡霊の魂が結界に達した瞬間、電撃殺虫器に触れた虫のように弾かれ、酷く耳障りな音を発して破裂し、中には断末魔の叫びを上げながら消滅する者たちの声が、否が応にも耳に残ります。


 目を閉じても、耳を塞いでも、その情景は頭の中に再生されて、逃れることを許しません。状況が見えないことに、不安を感じていた私たちでしたが、見えてしまうことが、これほどの苦痛を伴うことだったとは。


 本来の意味とは違うかも知れませんが、『知らぬが仏』という諺が、まさに今の自分たちの境遇と合致することを、誰もが痛感していました。




「も、ヤダ! こんなの見たくない!」


「智枝さん、これ、いつまで続くの!?」


「そんなの、私に聞かれたって、分かんないよ!」


「僕、もう駄目っす… マジ、失神するかも…」




 綿部くんが言うように、いっそこのまま気を失ってしまえたなら、我々当事者にとってはどんなに楽なことか。ただ、その間に自分の身がいったいどうなるのか、予測がつかない上に、何の保証もありません。


 かといって、意識を保ち続けたところで、対抗措置を持たない私たちに何が出来るのかも分からず、いずれにしても現状を受け入れるしかないことに違いなく。







 誰もが恐怖に打ちひしがれている中、瀬田さんとネルソンさんのおばあちゃんたちだけは、ただ一点、薄闇に浮かび上がる各々のご主人の姿を見つめていました。


 本当なら、長い人生を共にする運命だったのに、何十年も前に『戦争』によって引き離され、遠い異国の地で命を失い、その遺骨さえ戻ることがなかった、最愛の人。


 もう二度と会うことなどないはずが、離れ離れになった当時のままの姿で、今目の前に在るのです。


 愛する人の傍へ行こうと、立ち上がろうとした彼女たちに気づき、急いで取り押さえたものの、




「お願いだから、主人のもとへ行かせて頂戴!」


「お母さん、駄目!」


「伯母さん、しっかりしてくれ!」


「お願いよ! 私はもう、生きていたってどうせ長くはないのだから、せめてこのまま、あの人の所へ…!」




 その気持ちは、私たちにも痛いほど伝わりますが、現状でそれを許可するわけには行きません。


 なぜなら、中の人間がこの結界から出ようとすれば、そこに生じる結界の裂け目を狙って、幾万の亡霊たちが一斉に襲い掛かかり、全員が向こうの世界へ持って行かれてしまう危険があるのです。


 そうなれば、私たちまでもが亡霊と化すだけで、ご主人たちと一緒に逝くという願いは叶わず、本末転倒になってしまいます。


 泣きながら懇願するおばあちゃんたちを、力づくで制止しなければならない私たちも、罪悪感で胸が張り裂けそうになります。こうした心理を巧みに操るのも、怨霊の仕掛けた罠なのでしょう。







 その間も、容赦なく大地に突き刺さる落雷は、空気を切り裂く大音響とともに、地面からも振動が伝わって来ます。


 そのとき、これまでとは比較にならないほどの大きな雷鳴と閃光が走り、激しく地面を揺らした稲妻が、私たちがいる結界の中心、すなわち私めがけて直撃したのです。


 結界の青白い光に稲妻が同化した瞬間、地中から湧きあがった不気味な地響きとともに、私たちを覆っていた光のドームに幾筋もの亀裂が走り、外に向けて光を放ちながら、見る見るうちに形を変え始めました。




「まずいわ! 結界が破られた!?」


「いやぁぁぁーーーっ!!!」


「Get down!(伏せろ!)」




 ニクさんの言葉に、全員がスクラムを組むような格好で、地面に伏せました。


 当然、この機を逃すまいと、一斉に跳びかかって来た亡霊たちに、もう駄目だと、誰もが覚悟を決めたその時でした。







 それまで、耳を劈くように鳴り響いていた周囲の音が、ぴたりと止みました。


 何が起こっているのか分からないまま、少しの間、地面に伏せじっとしていたのですが、あまりのアクションのなさに、ゆっくりと起き上がった私の瞳に映ったものは。




「何…これ…?」




 まるで時間が止まったかのように、周囲の人間だけでなく、亡霊たちまでもが、その動きを止めていました。


 正確に言うと、完全に時間が止まっているのではなく、スローモーションのように彼らの時間もゆっくりと動いていて、両者の間には、時間の流れ方に違いが生じているようでした。


 そして、時流が異なるのは私だけではなく、智枝さんたち3人の能力者もまた、私と同じ時間感覚、同じ光景を見ていたのです。




「こうめ? 聞こえてる?」


「うん」


「何かまた、おかしなことになってるね…」




 私から放たれていた青白い光の結界は、私から斜め上方向に向かい、そこに歪な形状の塊を形成していました。


 代わりに、さっきまでなかった地面から垂直に伸びる円筒状の白い光が、私たちと亡霊たちを隔てる壁のような役目を果たしてくれていたのです。




「智枝さん… 周りを囲んでるこの光は、何…?」


「ニクさんの霊媒術で、私たちの先祖の霊や、この土地を守る土着の神様を呼び寄せて、こうめのとは別の結界を作ってくれてるんだよ」


「瑠璃ちゃんの結界は、どうなってるの? 何でこんな形になってるんだろ?」


「何か理由があるんだろうけど…」




 そういって、ニクさんとモリーさんに尋ねたものの、やはり今のところ二人にも分からないようでした。ただ、三人が共通して言うには、その先にとても嫌な気配を感じるのだと。


 ふと、昔これと同じようなことがあったのを思い出した私。それは曾祖母の葬儀のときの出来事で、青白い光となった瑠璃ちゃんと、拮抗していたものの正体…。







 しばらくすると、その円筒状の光は、ゆっくりと周囲に放射するように、ドーナツ状のドームとなって亡霊たちに覆い被さるように包み込み、そのまま、亡霊もろとも地中に沈むようにして消えて行きました。


 薄ぼんやりとではありましたが、さすがにあれだけの数の亡霊が発する光は馬鹿にならないようで、それが消えた途端、周囲は暗くなりました。


 すると、それまで外側に向かって立っていた三人の守護霊たちが、ゆっくりと内側に方向を転換し、次の瞬間、智枝さんたちと共に形成していた六芒星が、強烈な光を放ったそのとき。




「こうめ、危ない…!」


「!」




 私から斜め上方向に伸びた青白い光も、同様に強い光を放ち、そこに姿を現したのは、恐ろしい形相で睨み付ける女の姿でした。


 ほどけた長い髪が全身に纏わりつき、その手に握り締められた懐刀の切っ先は、私の喉元に向けられ、それを取り巻く青白い光に動きを阻まれる形で、すんでの所で止まっていたのです。




『くっくっくっく…』




 不気味な笑い声を上げるその女には、見覚えがありました。


 かつて、まだ私にも瑠璃ちゃんの姿が見えていた頃、曾祖母の葬儀の途中で現れ、今も私のこめかみに残る切り傷跡を刻した、魔物。


 そして、その女の姿をしたものこそ、怨霊の残像であり、この霊現象を引き起こしている元凶そのものであり、あの時も、その懐刀から私を救ってくれたのが、青白い光の姿と化した、瑠璃ちゃんでした。







 拮抗したまま、お互いに動けずにいる怨霊と、青白い光。ほんのわずかな力関係のせめぎ合いにより、怨霊が握る懐刀の鋭い先端が喉元に触れ、その度にチクリと不快な痛みが走ります。


 そして、その力関係は徐々に怨霊のほうが優勢になっているのか、心なしか、肌に触れる回数が増えてきたような気がしていました。


 自分で回避しようにも、ゆっくりとしか身体が動きません。どうやら意識と肉体の時間感覚がズレているようで、それは智枝さんたちも同じく、ただただ、この状況に堪えるしかありませんでした。







 やがて、徐々に優勢を増してきた怨霊の刃が触れていた私の肌から、一筋の血が滴り、『もう駄目かも知れない』と誰もが思い始めたそのときでした。




~ズン…ッ!~




 にわかに地中から地響きのような振動が起こり、次の瞬間、




~カッ!!~




 さっき亡霊たちを包み込むようにして地中に消えた光が、再び円筒状の光となって、垂直に立ち上がったのです。


 その光は、怨霊と拮抗する青白い光に加勢するように交わり同化すると、それまでの優劣が逆転し始めました。


 そして、六芒星を形成していた光も、強い閃光を放ち、三つの光が融合した瞬間、まるで狙いを定めたかのように、巨大な稲妻までもが、その光の塊に向けて突き刺さったのです。




『くっ…余計な邪魔だてを…』




 はっきりとした声で、怨霊の口から漏れたその言葉。



 拮抗したまま、ゆっくりと上空に浮かび上がり、三度目の稲妻の直撃とともに、目も眩むような強烈な光を放って、ゆっくりと消えて行きました。







 再び、周囲は静寂に包まれました。


 まだ、他の人たちの時間は、スローモーションのままでいる中、瀬田さんとネルソンさんのご主人たちは、おもむろに奥さまの元へ歩み寄り、そっと手を取りました。


 そして、開いた妻の手に、それぞれが何かを握らせると、瀬田さんは優しく妻の身体を抱き寄せ、ネルソンさんはそっとキスをしたのです。そして、




「妻に、伝えてください。ずっと見守っていると」




 そう、私たちに伝言を託しました。







 不意に、私は頭を撫でられ、見ると、そこには大伯父の姿がありました。静かに微笑むその表情は、古い写真で見たそのままに、目元が祖母とよく似ています。


 そして、胸ポケットから何かを取り出すと、それを私の手に握らせ、




「菊子に渡して欲しい」




 と言ったのです。掌に置かれたそれは、古い鍵でした。




「これを、おばあちゃんに? この鍵は、いったい…?」


「あとの事は、菊子の指示に従って、おまえが見届けてくれ」




 それは、すでに高齢になっていた祖母に代わり、私にあれこれ動くようにという配慮なのでしょう。


 かつての私同様、瑠璃ちゃん(祖母たちにとっては『はるちゃん』)の存在が見えていた祖母と大伯父。生き残った祖母は、その後もずっと守られ続けていました。


 半世紀の時を経て、私を介し、再び瑠璃ちゃんと出会った祖母。その恩恵から、祖母と同様に庇護を受け、その存在を確信していた祖父たちは、未来までをも見通す彼女が伝える言葉の意味や重要性を理解していたのです。


 まだ幼く、彼女と言葉を交わすことが出来た私が、黄泉の存在である彼女の言葉を伝える『代弁者』として、子供には理解不能な難解な言葉の数々を伝えていたことを、今もはっきり覚えていました。


 おそらくその鍵が持つ意味も、祖母なら聞いているに違いありません。




「はい、分かりました」


「ありがとう、頼んだぞ。それにしても、おまえは娘時分の菊子によく似ているな」


「そう… かな?」


「ああ、そうだとも」




 そう言うと、大伯父は安心したような笑みを浮かべ、もう一度私の頭を撫でると、おもむろに立ち上がりました。


 すると、さっき怨霊とともに消えた青白い光が、再び目の前に現れたのです。




「瑠璃ちゃん…?」




 私の語り掛けに、当然返事があるはずもなく。ただ、かすかに頬に受けた風から、まるで彼女に触れられたような温もりが伝わり、確かにそこに彼女が存在していることが感じられます。


 そして、私たちが見守る前で、大伯父たち三人の姿を包み始めた青白い光。それはまだ幼い頃、曾祖母を見送った時と同じ光景でした。長い歳月、この地をさ迷い続けた魂が、昇天するときが来たのです。


 国や所属が違っても、誇り高き軍人であった三人は、見送る私たちに毅然とした姿で敬礼をしたまま、ゆっくりと浮かび上がって行きます。


 手を振りたいところですが、アクションが取れないため、代わりに先ほど手渡された鍵を握り締めると、大伯父が小さく頷いた気がしました。


 やがて、どんどん上昇していった三人の姿が視界から消えた瞬間、大きな地響きとともに、先ほど地中に封じ込められた膨大な数の亡霊たちも、一斉に光の輪となって、大伯父たちと共に昇天し始めたのです。


 これでもう、この世への未練や望郷の念に囚われ、さ迷うこともありません。先にむこうで待っている愛する人たちと、無事再会出来ることを祈るばかりです。


 すべての残された魂が昇天し、上空に眩しい光を放った瞬間、それまでスローモーションだった周囲の時間が、元に戻りました。




「あ、あれっ!? 亡霊たちは!?」


「何がどうなった!?」




 ずっとリアルタイムで状況を見守っていた私たちとは違い、彼らには、一瞬にして何もかもが目の前から消えたように感じられたはずです。


 それら一連の出来事を簡略に説明するのも難しく、詳細は後ほどということにして、とりあえず、ピンチを脱したことだけ伝え、瀬田さんとネルソンさんのおばあちゃんに、大切な伝言を伝えました。




「ご主人が、『ずっと見守ってる』っておっしゃっていました」


「そう… もっと主人と話したかったわ…」


「それから、贈り物があったみたいですよ。掌の中を見てください」




 そう伝え、ふたりは初めて自分が握っていたものに気付き、そっとそれを覗き込んだ途端、声を上げて泣き出しました。


 ネルソンさんのおばあちゃんの掌に握られていたのは、小さなクロス。瀬田さんのおばあちゃんの掌には、神社で頂いたお守りがありました。


 それらは、かつて夫が戦場へ赴く際に、せめて自分の身代わりにと手渡した品物です。おそらく、この地で絶命したその瞬間もその身に携え、あるいは掌に握り締めていたのでしょう。


 最愛の人の最後を見守ったのであろうその遺品は、経年による劣化こそありましたが、しっかりと元の姿を留め、今、愛する妻たちの手元に戻ることが出来ました。


 本当に怖い思いをしましたが、こうして全員が無事でいられたこと、そして、時を経てその思いが伝わったことに、誰もが安堵を覚えた、そのときでした。




「うわーっ!! 死ぬーっ! 死ぬぅぅぅーーっ!!」




 突然、場違いな絶叫とともに暴れ出した天然綿部。感慨に浸っていた誰もがその悲鳴に驚き、再び緊張が走りました。


 どうやらあまりの恐怖で、本当に失神していたらしく、今やっと目を覚ました彼を落ち着かせるのに、またひと苦労する羽目になったのは、言うまでもありません。







 ついさっきまで真っ暗だった空は、見る見るうちに明るくなり、雲間から眩しい陽射しが覗き始めると、一気に気温が上昇し始めました。


 時計を見ると、もう間もなくセスナが到着する時刻。スコールの影響で、多少遅れるだろうことを予測しながらも、急いで帰り支度を整えました。


 間もなくして、到着したセスナ。迎えに来たスタッフの陽気さに、恐怖に苛まれていた気持ちが解されます。まるで何もなかったかのようにセスナに乗り込んだ私たちは、誰もが無言のまま、この島を後にしたのです。







 無事、ホテルへ戻った後、智枝さんから時流のズレが生じていた間の出来事を詳細に説明して貰い、頭ではもう心配ないことを確信したものの、その日は何だか怖くて、全員が同じ部屋に集まり、夜を明かすことになりました。


 あの出来事が、夢だったようにも思えますが、目の前に大伯父から手渡された鍵がある以上、それを信じないわけにも行かず、物証という現実が、気持ちに影を落とします。


 何か楽しい話をしようにも、これといって気の利いた話題も思いつかず、いっそあの出来事についてディスカッションでもするほうが、余程気持ちが楽になれることは分かっていました。


 ただ、わざわざ夜中にその話題を蒸し返すのも、悪戯に恐怖心を煽るだけのような気がして、誰もがそのことには触れずにいたのです。


 眠ろうとしても寝付けず、少し眠れば夢にあの光景が出てきては飛び起き、また眠れなくなってしまうことを誰もが繰り返していると。




「ところで、他にも亡霊はいるんっすかね? まさかまた、僕たちに憑りついたりしませんよね…?」




 空気を読まない天然綿部の発言に、瞬時にして、全員の脳裏にあの時の恐怖が蘇り、一斉の大ブーイング。


 すると、かつて見たこともないほど冷たい目をした乃理ちゃんが言いました。




「あのさ、前から言おうと思っていたんだけど」


「何、乃理?」


「あんたって、どうしてそう空気が読めないのかな? 私、これ以上付き合うの、考えちゃう」


「えっ!? 何で!? 乃理、そんなこと言わないで!!」


「も、ホントやだ!!」




 このとき綿部くんにとって、乃理ちゃんのその通告は、亡霊よりも、怨霊の呪いよりも、遥かに恐怖だったに違いありません。


 パニックになって、必死で乃理ちゃんに謝罪する綿部くんの姿に、誰もが『自業自得』と心の中で毒づき、恐怖の余韻に眠れない夜は、ゆっくりと更けて行きました。








 誰もがほとんど眠れないまま一夜を明かし、朝10時にホテルをチェックアウト、翌深夜1時の便で出国するまでには、まだたっぷりと時間がありました。


 偶然、同じホテルに宿泊していた瀬田さんとネルソンさんの両ファミリーから連絡があり、昨日の出来事について、もう一度会ってお話をしたいとのことで、ランチをしながら皆で会うことになりました。


 両ファミリーとも、やはり昨晩は眠れなかったようで、疲れた表情を隠せない中、ふたりのおばあちゃんたちだけは、とても溌剌とした様子で、にこにこしながら、ひっきりなしに話し続けていました。


 彼女たちにしてみれば、もう二度と会えるはずもない最愛の夫と再会出来たのですから、テンションが上がるのも当然でしょう。







 あらためて、瀬田さんファミリーのメンバーは、おばあちゃんとその娘さん夫婦、そしておばあちゃんの姪御さん夫婦と、甥御さんの6人。


 以前から、いつか自分の足でご主人が亡くなった場所を訪れたいと希望していたというおばあちゃん。今年、やっとその願いが叶い、この国に来ることが出来たのだそうです。


 戦時下では、兵士の所属や派兵先に関しては軍事機密とされ、家族にさえ知らされていませんでした。瀬田さんも、手元に届いたのはご主人の死亡通知だけで、どこで亡くなったのか等の詳細も分からずにいました。


 終戦後、何年かして、当時戦友だったと名乗る人物が自宅を訪れ、そこでようやくご主人がこの地で亡くなったことを知ったのだそうです。


 その人によると、海軍に配属されたご主人たちは、当時、日本軍が威信をかけて建造したという戦艦に乗務しており、無敵といわれたその戦艦も、敵軍の総攻撃により撃沈されたといいます。


 ですが、その事実は軍部により隠蔽されたまま、国民に公表されることはなく、沈没間際、上官の命令で戦艦から退避し、僅かに生き残った若い兵士たちによって、残された家族に伝えられることになりました。


 とてもよく気配りが出来た瀬田さんは、上官や同僚たちからの信頼も厚く、退避の際、『生きて必ず届けるように』と、日ごろから弟のように可愛がってくれた青年士官から、何かを預かっていたというエピソードも話してくれたそうです。


 それから間もなくして、今度は国の機関を名乗る数人の人物が訪れ、彼らは、ご主人から小包か、あるいは人伝てにでも、自宅に届いたものがないかと尋ねられました。


 すぐに、戦友が語ったエピソードを思い出し、その旨を報告した瀬田さん。身を乗り出すようにその話に食いついた彼らは、それが『鍵』であることを明言したものの、それ以上の詳細は語られなかったとのこと。


 ですが、実際に瀬田さん宅に届いた物等はなく、一応、生前に遺したご主人の遺品も確認してもらいましたが、やはり該当するものは見当たらず。一様に落胆しながらも、もしまた今後それらしいものが見つかった際には連絡をくれるようにと、わざわざ連絡先を残していったそうです。




「鍵っていえば、こうめが大伯父さまから預かったのも、鍵だよね?」


「うん。それに、祖母の話では、海軍士官だった大伯父は、沈没した戦艦と運命を共にしたって聞いてる」


「もしかすると、父に何かを託した上官というのは、その大伯父さまだったのかも知れませんね」




 状況から考えれば、その可能性はとても高く、瀬田さんの娘さんの言葉に、皆一様に頷きました。







 瀬田さんのおばあちゃんが記憶している、国の機関の人間が探していたという『鍵』については、以前、私の祖母からも、似たような話を聞いたことがありました。


 祖母の父親も、かつて海軍の士官を務めており、大伯父は父親の跡を継いだ、いわゆる軍人の家系でした。


 まだ情報の伝達手段が少なかった当時、伝達手段として利用されていたのは、伝書鳩。広いお屋敷の片隅には、軍用伝書鳩の鳩小屋が設えられ、小屋にはたくさんの鳩がいたといいます。


 そのお世話を任されていたのが祖母。小屋の掃除や餌やりの他に、鳩の足に取り付けられた通信筒の中の紙を回収するのが、祖母に与えられた大切な仕事でした。


 鳩が運ぶのは極秘情報でもあることから、当事者である父親と祖母以外は、家族ですら、鳩は勿論、鳩小屋に近づくことすら許されていなかったのです。


 士官の娘という立場と、まだ幼い女の子ゆえ、中身を見たところで、内容までは理解出来ないだろうという軍部の目論見から、祖母に白羽の矢が立ったのだろうということでした。


 戦争が終わり、同様に、祖母の実家にも国の機関を名乗る人々が、頻繁に訪れていたそうです。海軍士官の自宅ですから、重要な書類等も残されていたことでしょうし、それ自体は別段不思議ではありませんが、それは戦争が終わって何十年の月日を経ても、定期的に続いていたのです。


 そして、もし何か新たに見つかった際は、必ず知らせるようにとのことでした。そこまでして探し続けるということは、なにか余程重要な意味を持つ鍵だということが推測出来ます。







 そして、もう一方のネルソンさんファミリーは、妻であるおばあちゃんと、長男、長女、次女各夫婦の7人。瀬田さんのおばあちゃん同様、ネルソンさんのおばあちゃんも、夫の眠る場所を訪れたいと、長い間切望していました。


 こちらも、戦時下での軍人の所属は機密事項でしたが、後に、ネルソンさんが戦闘機のパイロットであったこと、戦艦との激闘で爆撃を受けて無人島付近に墜落したことを、名誉の勲章とともに、軍部から正式に通達されました。


 当時彼に与えられていたのは、日本軍の戦艦の現在位置についての詳細を、随時本部に報告するという任務でした。


 ところが、激戦の中、ネルソンさんの機が撃墜されてしまい、戦艦が沈没した正確な位置についての報告がされることなく、現在も不明のまま。まだナビゲーションシステムもなかった時代、その位置を特定するのはほぼ不可能でした。







 ネルソンさんの長男と甥っ子は、仲間と一緒に立ち上げた会社の経営を手掛ける一方、趣味で、沈没船や海底遺跡など、海洋サルベージによるトレジャーハンティングをしているとのことでした。


 かつて、自分の父の命を奪い、未だその正確な位置が特定されていない戦艦の沈む場所を探し当てることは、彼らの大きな目標であり、最近になって、その場所が漠然とこのあたりであるらしいという情報を掴んだそうです。


 また、かねてからの『夫の眠る場所を訪れたい』という母親の希望を叶える目的を兼ねて、今回、この国を訪れたのだといいます。


 当たり前ですが、そうした沈没船の探索には莫大な費用が掛かります。持ち得る情報は、当時その場にいた兵士たちの記憶のみ。そうした曖昧な情報だけに頼って動くことは、必然的に相応のリスクが伴います。


 ですが、そうした大物を探すライバルは数多く、他者に出し抜かれては元も子もありません。今回のことで、少なくともこの近辺で間違いないことが確信出来たため、近いうちに、詳細な調査を進める決心がついたとのこと。


 それなりのお宝を引き上げることが出来れば、莫大な費用を投じ、利権絡みを差し引きしても、採算は取れますし、ましてや旧日本軍の戦艦ともなれば、十分に実行するだけの価値はあるのだそうです。


 ただ、もし沈んでいる場所が特定出来たとしても、それを引き上げるためにはさらに詳細な調査等が必要となるため、実際の引き上げが行われるのは、10年も20年も先の話になるのだとか。


 やがて、四半世紀の時を経て、私たちはそのニュースを耳にすることになるのですが、それはまた、別のお話。







 数十年も前に、この地で繰り広げられた悲劇、長い歳月を経て、同じこの地で私たちが出逢ったことは、偶然というにはあまりにも出来過ぎている気がしました。


 戦艦とともに深海に眠る大伯父は別にしても、ネルソンさんや瀬田さんには、特殊任務が課せられていたのですから、必死で生き延び、辿り着いたこの島で、あるいは二人は出逢っていた可能性もあります。


 そして時を経て、たまたま同じ日時にこの国を訪れていた3つのグループ。瀬田さんのセスナや、ネルソンさんのクルーザーがエンジントラブルを起こさなければ、さらに、天然綿部が我儘を言い出さなければ、智枝さんたち3人の能力者を含め、ここに集うことはなかったのです。


 私たちが体験し、知り得たことは、常識では考えられないことだらけでしたが、それでも、間違いなく愛しい人と再会出来たことだけは、曲げようのない事実でした。


 幼い頃から寂しがり屋で、『Take me with you.(僕も連れて行って)』が口癖だったというネルソンさん。


 随分長い間、遠い異国の島で独りぼっちにさせてしまったことを謝罪するように、ご家族は、遠くの海を見詰めながら、『Let's go home with us.(一緒に帰ろう)」と呟きました。







 そんな不思議な体験を共にした私たち。名残惜しい気持ちはありましたが、それぞれの連絡先を交換すると、この場所でお別れすることにしました。


 どこまでも澄んだ青いラグーンが広がり、珊瑚礁で出来たたくさんの島々が群れるこの美しい海は、かつて、激しい戦いが繰り広げられた、あまりにも哀しい歴史がある場所。


 ホテルの窓から見下ろした群礁は、恐いまでに鮮やかで、そしてそこは、大伯父が、瀬田さんが、ネルソンさんが、さらに命をなくされた多くの方々が、最期に目にした光景でもあるのです。


 当初、浮かれたリゾート気分でここを訪れた私たちでしたが、自分たちが生きている今の時代がいかに平和であり、どれほど自分たちが恵まれているのかを痛感し、それに感謝しながら、残りの時間を過ごしました。


 やがて出発の時刻になり、飛行機のタラップを上がって、何気に振り向いた景色は夜の闇に包まれ、何も見ることは出来ません。ただ、心に残る海の青さだけが、鮮明な記憶となって焼き付いていました。








 帰国して、そのまま一週間の仕事が始まるという状況は、いかに若いとはいえ、かなりきついものがありました。ですが、自分の意思で遊びに行ったのですから、文句は言えません。


 その日のうちに出来上がった写真には、戦争記念館ではしゃいで写した写真が多々あり、その姿はあまりにも軽薄に見えたものでした。


 錆びた戦車の砲台に腰掛け、ピースサインをし、戦闘機の残骸の前で、アイスクリームを食べる姿、観光を生業とする土地だからこそ、外貨を落としてゆく世間知らずの私たちのような若造でも歓迎されただけのこと。


 お年寄りたちの目が、何を非難していたのか、時間の経過とともに、薄れる想い出とは反対に、その重みを噛み締めるのが、人としての責任なのかも知れません。







 へとへとになりながら、ようやく仕事を終えて自宅に戻り、早速実家の祖母に連絡をしました。勿論、旅行中の話を伝えるためです。


 よほど驚くだろうと思っていたのですが、意外にも私の話をあっさりと受け止めた祖母。考えてみれば、このことを瑠璃ちゃんから聞いていた可能性は否めません。


 平日は仕事で遅くなるため、大伯父から預かった『鍵』を持って行けるのは、次の土曜日になることを伝え、とりあえず電話を切りました。


 すると翌日、祖母から折り返し電話があり、土曜日に一緒に祖母の実家まで来て欲しい旨の連絡があったと伝えてきたのです。連絡を寄越した主が、以前祖母から聞いていた国の機関の人だろうことは、なんとなく分かりました。


 正直、身体は相当疲れていたので、休みたい気持ちは大きかったのですが、黄泉からの大伯父の大切な言伝です。それに、久しぶりに大好きな祖母に会えると思えば、少しくらいの無理はどうということはない、と自分に言い聞かせ、その週の土曜日、車で祖母を迎えに行きました。







 祖母の実家は、街外れの、やや鬱蒼とした木々が両脇に続く坂道を上り、その突き当りに開けた、広い敷地にありました。


 幼い頃から、何度も来たことのあるその場所には、見慣れない数台の黒い車が停まっており、私たちの到着を待ち構えていたように、自宅の中から、家主であり、祖母の姪である実花子さんと一緒に、きっちりとした身なりの数人の男性が現れました。




「松武こうめさんですね?」


「はい」


「はじめまして。私、桐生と申します」




 柔らかな物腰で、差し出された名刺には『○○省』といった公的機関の肩書きが記載されています。


 私自身、仕事上そうした方々と関わることがありましたので、おそらくその名刺の記載が本物だと分かりました。やはり、祖母から聞いていた話は、本当だったのだと、ようやく確信したのです。


 桐生さんとおっしゃる40代半ばのその男性は、穏やかな口調で私に話しかけました。




「ご連絡を頂き、ありがとうございました」


「いえ。ただ、この鍵を持ち帰った経緯なんですが、その、いろいろと込み入っておりまして、信じて頂けるかどうか…」


「それに関しては、ご心配なく。概ね、こちらの方でも了承しておりますので」




 桐生さんのその言葉に、思わず、自分の耳を疑いました。


 彼らはれっきとした公的機関の関係者、普通に考えれば、そうしたスピリチュアルな出来事を、まともに信じるような立場とは考え難いところです。が…。




「では、早速で恐縮ですが、その鍵を拝見してもよろしいですか?」


「はい。これです」




 そう言って、私が手渡した鍵を確認すると、彼らはお互いに頷き合いながら、私に自分たちと一緒に来るように言いました。


 向かった先は、母屋に隣接する古い蔵。そう、ここはまだ幼かった私が、初めて『瑠璃ちゃん』と出会った場所でもあります。無言のまま、前を行く彼らに続き中へ入りました。


 蔵の中は、外気よりひんやりとし、劣化した個所から、細く入り込む陽の光が照らす陽だまりで、予想以上に明るく、はっきりと辺りの様子が見てとれます。


 やがて、蔵の奥までたどり着くと、二階へ上がる階段があり、その真横に鎮座する大きな金庫の前で立ち止まりました。そして、先ほど渡した鍵を、再び私に差し出し、金庫の鍵を開けるように言ったのです。


 怪訝な顔をする私に、なんでもこの年代物の金庫は、開錠する人間を選ぶのだということを、相変わらず穏やかな口調で桐生さんは説明してくれました。


 まさか、この時代に個人認証システムがあるはずもなく、なぜそんなことが可能なのかは不明ですが、かつて、そうしたからくりの名工と言われた鍵職人が設えたものなのだそうです。


 開錠可能なのは、当時この金庫を注文し管理していた、海軍士官だった大伯父と、その実の妹である祖母の二人だけ。


 ただ、高齢となっていた祖母には、一人で鍵を回すことが難しくなっており、例えば介添え者が身体に触れていたりしても開かないらしいことから、孫娘の私なら、あるいは開錠が出来るかも知れないということでした。


 一応、試しに桐生さん他、数人の人たちが順番に開錠を試みたのですが、案の定、鍵はビクともしません。最後に、私がその鍵を受け取り、そっと鍵穴に差し込むと。




~カチッ!! カッ!! ガチャン!!~




 いきなり、金庫の中で何やら複雑な機械的な音がしたかと思うと、それまで男性の力でもビクともしなかった鍵が、ほんの僅かな力でするりと回転したのです。


 あの時、大伯父が言った言葉の意味が、ようやく分かった気がしました。


 ゆっくりと開けられた重厚な扉の中にあったのは、古びた木箱が一つ。そちらの施錠は、誰にでも開けられるものらしく、慎重に開けられた箱の中からは、簡略な地図が描かれた紙が一枚出て来ました。




「あの、その地図のような紙は…?」




 何気なく尋ねた私の言葉に、彼らの間に一瞬緊張が走り、私は聞いてはいけなかったのかと、気まずい空気に包まれたのですが、それをかき消すように、桐生さんが答えました。




「こうめさんも、お身内の一人というお立場ですから、構いませんよ。ただ、ここで見聞きしたことは、決して口外されないことだけ、お約束願います」


「はい、それは勿論」


「こうめさんは、旧幕府の埋蔵金のお話を、お聞きになったことがおありでしょうか?」


「ええ、まあ」




 それは、いわゆる都市伝説として、まことしやかに巷に伝わる話。旧幕府が崩壊するとき、その莫大な資産の一部を、とある秘密の場所に埋蔵したといわれており、今でも世界中のトレジャーハンターたちが探し続けているというものです。


 ですが、これだけ長い間、その痕跡さえ見つからないことから、やはりただの都市伝説だったという説が有力になっていたのですが。




「見つからないのは当然です。じつは、昭和初期頃には、すでに旧日本軍が発見し、それを別の場所に移していたのです。ただ、その場所に関しては、ごく一部の軍幹部だけの機密事項だったため、占領下でも没収を免れたという経緯がありました」


「その隠し場所が、この金庫に?」


「元々、予備を含めて鍵は二つあったのですが、一つは戦火で焼けて変形してしまい、もう一つは、あなたの大伯父さまである士官が、お持ちになっていたんです。ですが、士官ご本人は撃沈された戦艦と運命を共にされ、様々な情報から、沈没直前に退避するよう命令した部下に託したらしいことまでは分かったのですが、残念ながら、託された兵士自身、生還することは叶わなかったようで、我々としては、年月が過ぎるのを待つしかなかったのです」




 間違いなく、それが瀬田さんだったのでしょう。瀬田さんのご家族から聞いた通りの内容です。おそらく、瀬田さんのお宅を訪れたというのも、彼らの関係者だったに違いありません。




「でも、それならいっそ、金庫自体を壊して、中身を取り出すことは考えなかったんですか?」


「それも考えましたが、それだけの内容を保管している金庫ですから、何らかのトラップが仕掛けられている可能性も否定出来ません。万が一、中の書類が喪失することにでもなれば、それこそもう二度とその場所を特定することは不可能になりますから、リスクは冒せません」


「確かに」


「そして、これに関わる権利なのですが、実はあなたのおばあさま、つまり、こちらにいらっしゃる菊子さんと、おばさまの実花子さんによって、すでに相続済みであることも、ご了承頂きたいのです」




 このことに関しては、思い当たる節がありました。


 それはまだ、私が幼かった頃のこと。戦後、世界経済が大きな転換点を迎えたその時期に、私の祖父が私財を投じてまで救援した、後に経営の鬼才と称された一人の男性。


 すでに、祖父の資産も底を尽きかけ、もうこれ以上は無理と諦めざるを得ない決断を迫られた時、急に降って湧いたように見つかり、祖母が相続した大伯父からの遺産。


 それにより、何とか持ち堪えた彼のその後の躍進は、今日の日本経済の一翼を担ったとさえ云われるのです。


 たどたどしい言葉で、私が伝えた瑠璃ちゃんのメッセージの中に、その内容は含まれていたのでしょう。ということは。




「私の体験した得体の知れない話を、疑いなく信じてくださったのは…」


「はい。あなたのお祖父さまや、国枝氏から、お聞きしておりましたので。もっとも、当初は誰もが半信半疑でしたけれどね。ですが、次々に的中する内容に、誰も信じざるを得なくなりました。そして今回、こうめさんが出国したという情報を得た時には、鳥肌が立ちましたよ」




 そう言うと、真面目そうな表情を崩し、桐生さんは初めて屈託のない笑顔で笑いました。


 こんな科学が発展した時代に、妖怪だの怨霊だのを、信じろというほうがナンセンス。でも、そうした人間の力の及ばない不思議な存在があることも、やはり否定出来ない事実でもあったりするのです。


 もし、また何かあれば連絡をするので、その際には、是非協力をお願いしたいという旨を伝えられ、私も快く了承しました。







 私との話が終わると、桐生さんは実花子さんに何か書類を手渡し、この家が建っている土地に関して話を始めました。


 不動産事業部にいた私は、このエリアが、新興住宅地の宅地開発エリアの候補に挙がっていることを、情報として聞いてはいました。でも、実際に着工するかどうかは不明、その理由に関しても、全く情報がありませんでした。


 要するに、ここに埋蔵金の隠し場所を示す地図の入った金庫の存在があったため、先ほど桐生さんがおっしゃったとおり、無理に移動することは絶対NG、よって、このエリアの開発に着工出来なかったということなのです。


 ですから、中の地図を無事取り出せた今、もう工事を差し止めておく理由はなくなったということになります。




「あの、桐生さん、一つお尋ねしてもよろしいですか?」


「はい?」


「ここで見聞きした内容は、口外しないというお約束でしたけど、造成工事に関しては…?」


「ああ、そちらのほうなら、どうぞお気になさらず。伯母さまの実花子さんからの情報ということであれば、何も問題はないと思いますよ」


「ありがとうございます」


「たしか、現在の会社では、不動産事業部に所属されているとか。お仕事、大変でしょうが、頑張ってくださいね」


「はい」




 この情報により、後に会社は大きな利益を得ることとなりました。


 間もなくして始まった造成工事の途中、由来の分からない不思議な祠が見つかり、それを壊そうとするたびに、事故やトラブルが起こるのですが、それはまた、別のお話。


 やがて、造成工事が完成し、この場所に完成した新興住宅地に、多くの人々の新しい暮らしが始まった頃、再び桐生さんから『また協力して欲しい』という旨の連絡を頂くことになります。


 そこで再会した彼の、まるで別人のように変貌した姿を目の当たりにするのですが、それもまた、別のお話。







 時は流れ、結婚した私は、別の新興住宅地に新居を構え、そこで新たな生活を始めました。そして、夫の休日を利用して、久しぶりの海外旅行に出かけたのですが。




「そろそろ、私たちの便のチェックインが始まったみたいね」


「随分待たされたな~」


「Let's go !」




 そう言って、たまたまこの空港で出会った私たち2組の夫婦は、予定の飛行機に乗り込みました。


 サンドバーグさんご夫妻は、日本に来る前に、もう一つ別の国に立ち寄っていたそうです。なんでも、奥さんのおじさんが手掛けている会社が、近々巨大な沈没船を引き上げるということで、その現場を訪れたのだとか。


 詳細は伏せていましたが、多分、大きなニュースになるから、楽しみにしていてほしいと、笑顔で話していた彼女。


 最初に彼女の瞳の色に見覚えがあるように感じたのは、多分間違いではなかったのだと思います。そう、おそらく彼女はネルソンさんの孫娘さんでしょう。でも、それ以上は何も言わず、あの島で私たちが体験したことも、そっと胸の中にしまっておくことにしました。







 やがて、飛行機が滑走路から滑りだすと、すでに空は茜色に染まっていました。すっかり遅くなってしまいましたが、ようやく旅行に出発です。


 ふと、夕映えの空に誰かの視線を感じた気がして、そちらに目を遣ったのですが、そこに誰かがいるはずもなく。この旅が無事に過ごせるように、心の中で祈りました。


 眼下には、ジオラマのような街並みが広がり、そこに自分たちの日々の暮らしがあることが、不思議に感じられます。私たちを乗せた飛行機は、夜の帳の中に溶け込むように、異国の地に向けて進んで行きました。







 浅い眠りの中、何度も覚醒を繰り返しながら、すぐ傍で静かな寝息を立てる夫の姿に安堵を覚え、いつしか私も眠りに落ちて行きました。


 その日、私が見た夢は、あの日、あの海で見た、瑠璃色の島。そこには、まだ幼い私や、瑠璃ちゃんの姿もあり、強烈な真夏の日差しの中、極彩色に彩られた風景に溶け込んでいました。


 やがて到着したその土地で、私たちはまた不思議な出逢いをすることになるのですが、それはまた、別のお話。

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黄泉からの代弁者 二木瀬瑠 @nikisell22

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