マトリョーシカ

吾妻栄子

第1話

「ソーニャ」

 緋色の絨緞を引いた階段の踊り場で、青年は鳶色の目を大きく見張って足を止めた。

「ミハイルさん」

 広間の隅から、澄んだ声が響く。

 踊り場に灯された蝋燭の火が、声の主たる少女の姿を浮かび上がらせる。

 白い木綿のエプロン姿で細腕には金盥を抱えていた。

 しかし、まだ十四歳のこの少女の豊かな栗色の髪は、本来は豪奢なドレスを纏うべき身の上を主張するかのように艶やかにうねり、エメラルドじみた碧色の目は真っ直ぐ前方を見据えていた。

 と、その碧色の瞳が意を決したように張り詰めた。

「お父様は、とうとう売りに出す、と……」

 言い掛けたまま、少女は急ぎ足で広間を縫って、ミハイルと呼ばれた青年の立つ階段に近づいていく。

「いえ」

 ミハイルはどこか押し殺した面持ちで一段ずつ階段を降りる足を進める。

「今日、私が伺ったのはその件ではなく」

 青年はそこではたと足を止めた。

 少女も階段を二、三段上りかけたところで動きを止める。

 琥珀色の灯りが照らし出す少女の面は、長い睫毛に縁取られたエメラルド色の双眸が燦然と輝き、また、薄紅色の花弁はなびらめいた唇は物問いたげに微かに開かれ、その僅かな隙から真珠のような歯並びが覗いていた。

 青年は酷く眩しいものでも目にしたように、一瞬釘付けになった目を少女からふっと逸らす。

「後で、お父上から直々に貴女あなたにお話があるはずです」

 青年はまるで自分の発言そのものが重大な秘密であるかのように密やかな語調で告げると、再び少女に目を走らせた。

 エプロン姿のソーニャの華奢な肩や全般に骨細く腰高い体つきは、一見するとむしろ少年じみた印象だが、金盥を抱いた胸元はまだ膨らみかけであるが故に、奇妙に突き出て映る。

「そう」

 少女がどこか沈んだ声で答えた瞬間、金盥を抱く小さなその手が酷く荒れているのを青年の目は新たに捉えた。

貴方あなたはとても優しい方ですのね、ミハイルさん」

 身を固くする青年に向かって、少女の声は続ける。

「家業を継いだばかりでお忙しいのに、わざわざ来て下さって、ありがとう」

 少女の言葉に青年は寂しく笑って、自分が左手に持つ、年季の入ったトランクに目を落とすと、ポツリと呟いた。

「もう、ミーシャと呼んでくれませんね」

 青年の視線が、荷物を持たない右手から革靴の爪先まで自らの姿を移ろう。

 宝石職人特有の、根元から先まで均一に太い指をしているものの、爪は優しく丸い形をした手。

 長身に纏ったコートも、長い脚を収めた革靴も、華美さこそないものの、質は良い品である。

 緩やかに波打つ鳶色の髪も、同じ色をした円らな瞳も、美男とまでは言えなくとも、いかにも善良な若者といった印象を多くの人間に与えるものであり、決して嘲りを受ける類の風貌ではない。

 だが、そんな自らの姿を認めるミハイルの目には、まるで越えられない壁に阻まれたかのように暗いものが宿った。

 相対する少女は、黙して語らない。

 ただ、彼女がエプロンの胸に抱いた金盥の水だけが、微かに波打っている。

「失礼いたします」

 青年は儀礼で包んだ声で小さく告げると、再び早足で階段を降り始める。

 緋色の絨緞を引いた階段を降り終えると、玄関のドアまでは灰黒色の大理石の広間が続いている。

 カツ、カツ、カツ、カツ……。

 まるで氷を打つ様な靴音が聞こえてきたのを潮に、少女も無言で階段を昇り始めた。

「ソーニャ……ソフィア・ニコラエブナ!」

 突如、少女の敬称を叫ぶ青年の声が広間にこだまする。

 ソーニャは階段の半ばで振り向いた。

 何か驚くべき告白でも耳にした様に、花弁を思わせる唇を半ば開いたまま。

「どうか、お気を確かに」

 扉の向こうから溢れ出る夕焼けの赤い光を背に、顔を影にした青年は告げる。

 答えを待たずに、扉は軋んだ音を立てて少女の佇む邸内を闇に閉ざした。


 *******


「お父様、しっかりなさって」

 ソーニャはあかぎれした華奢な両手で、病床に臥す父親の手を握り締めた。

 病人の臥す寝室は、広いだけに、病人の横たわるベッドとその脇の安楽椅子を除けば、目ぼしい家具のない空洞さが際立つ。

 枯葉色に褪せたビロードのカーテンは固く閉じられていたが、ガタガタと窓ガラスを揺さぶる風の音は容赦なく室内に響き渡ってくる。

 病人の枕元に置かれた真鍮の燭台は、形こそ大振りで取っ手には獅子が精緻に彫り込まれていたが、中の油は足りないらしく、灯火がちらちらと明滅している。

 しかし、そうした薄暗がりの中にあっても、少女の艶やかな栗色の髪と澄み切ったみどりの目は、それ自体が光彩を放つかのごとく浮かび上がった。

「お前に水仕事をさせるなんて」

 伯爵は、白く滑らかな、女性と見紛うようなほっそりとした自らの手と、その上に重なる娘の荒れ切った手を見比べた。

 父親の窪んだ眼窩の奥で、水色の目に涙が宿る。

 かつての輝くばかりの金から艶を失った銀に転じた髪。

 蒼白く痩せこけた頬。

 床に伏す伯爵の風貌は、もはやソーニャの「父」というより、「祖父」にこそ相応しかった。

「いいのよ、このくらい」

 ソーニャは父から視線を外すと、引きつった笑いを浮かべた。

「あと二、三日すれば、ばあやも戻ってくるし……」

 少女の言い掛けに父親は苦笑いして首を振ると、ふっと険しい目つきになった。

「葬式に来た召し使い連中は一歩たりとも、この屋敷に入れるな」

 鋭い刃の様な父親の声に、ソーニャの笑いが消える。

「来たら玄関の外に待たせて、台所に残った皿を渡せ」

 低い声で語る伯爵の目は、燭台の灯火に注がれていた。

 次の瞬間にはフッと消え去ると思わせて、カッと背伸びする火柱。

 ワッと燃え広がるかと期待させて、シュッと萎む炎。

「……はい」

 少女は恐る恐る頷くと、膝の上に控えめに組んだ手をぎゅっと握り締めた。

「何を言われても、これを売って暮らしの足しにしてくれとお父様が言ったとだけ伝えるんだ」

 抑揚なく語る伯爵の瞳は曇りなく澄んでいたが、今度は底まで凍り付いた湖の水面を思わせた。

「はい」

 豊かな髪に比して小さな顔を縦に振りつつ、少女は唇を噛んだ。

「家具は、ロゴージンが洗いざらい持っていった、と」

 血の気を失った伯爵の唇に、乾いた笑いが広がった。

「お父ちゃま、こわい」

 不意に幼い声が飛ぶ。

「オリガ」

 伯爵の声が和らいで、幼い妹娘に笑いかけた。

 こちらはかつての父親そっくりの黄金色の髪に、夢見るような、円らな水色の瞳をしていた。

 オリガはソーニャの手を更に二周りほど小さくした桃色の手を差し伸べると、伯爵のもう一方の手を、正確には指先を掴む。幼女の小さな手にとって、父親の手は握り締めるには余りにも大き過ぎるのだ。

 そんな末娘の眼差しから自分の指先を握る桃色の手に目を移すと、伯爵の目がまた潤む。

 痛みをこらえるようにぎゅっと目を閉じると、蒼ざめた父親の頬に涙がこぼれ落ちた。

「僕は本当に馬鹿だったよ、アーニャ……!」

 再び見開かれた伯爵の目は、寝室のちょうど向こう側に掛けられた肖像画に注がれていた。

 豊かな栗色の髪に碧色の目をした女が、瀟洒なエメラルドグリーンのモスリンのドレスに均整の取れた身を包み、額縁の中からこちらを見下ろすように微笑んでいる。

 絵を掛けた壁には所々赤黒いひびが入っていたが、額縁の中だけは、変わらず初夏のきららかな木漏れ日が差し、清々しい緑の風がそよいでいるかのようだった。

「アーニャ、先に死んだのが君じゃなく僕だったら……」

 母親の名を繰り返し口にする父親をソーニャは黙って見下ろす。

「でも、君や子供たちを他の男の手に委ねるよりは、まだこの方が良かったと今でも思ってしまうんだ……」

 病人に見入る少女の姿は、まるで画中の女が一回り華奢になって額縁を抜け出し、木綿の服に着替えたかに見えた。 

「オリガ、これからは、お姉ちゃまの言うことを良くお聞き。さもないと……」

 末娘を顧ると、父親の笑いが苦くなった。

「お母ちゃまの言うことを聞かなかったお父ちゃまみたいに、白熊の髪の毛になっちゃうんだ」

 まるで本物の白熊に出くわしたように、父親を見詰める幼女の円らな目が更に丸くなる。

 父親は目尻の皺を深くすると、末娘の柔らかな黄金色の髪から白桃じみた頬をなぞるように撫でた。

「シベリアでびゅうびゅう風に吹かれて寂しく暮らす、かわいそうな白熊たちみたいにね」

 伯爵の語る言葉に応じるかのように、カーテンの外から風の吹き荒ぶ音がして、また窓ガラスをガタガタ鳴らす。

 オリガはびくっと小さな肩を震わせた。

「ソーニャ」

 急激に苦しくなった息の下から伯爵は呼び掛けた。

「私が死んだら、そこのマトリョーシカの、一番小さな人形を壊して中身をお開け」

 父親が指し示す大理石の棚の上には、古びた木作りのマトリョーシカが、場違いなほどのどかな笑いを浮かべていた。

「分かりました」

 ソーニャの碧の目が頷く。

 血の気を失った少女の小さな顔は、哀しみよりむしろ緊張を色濃く示していた。

「それからオリガ」

 父親はまるで何かに縋り付くように、娘の小さな金髪の頭に震える腕を伸ばした。

 しかし、オリガは恐れをなした面持ちで小さく後ずさる。

「お父ちゃまが直して上げた万華鏡、ずっと、大事にするんだよ」

 幼女が返事をする前に、父親の腕はパサリと敷布の上に落ちた。


 *******


「本当に、おいたわしいことで」

 塵埃じんあいが染み込んで灰色になった木綿のハンカチでやたらと目元を押さえる老婆を、黒服を纏ったソーニャは固い面持ちで眺めた。

「あたしがほんの少しお休みをいただいている間に、こんな事になるなんて」

 急ごしらえらしく、肥えた体にはちきれそうな黒の喪服を着込んだ老婆の姿は、丸まっちい輪郭といい、下腹の突き出た体つきといい、風雪を経たマトリョーシカを思わせた。

「お父様も、ばあやには世話になったと最期におっしゃっていたわ」

 ソーニャはしめやかな声で答えた。

「ええ、それはもう、奥様がお嫁にいらした頃からずっとですもの」

 老婆はそこで鼻を啜る音を大きく響かせた。

「お二人ともお仲がよろしくて、旦那様はいつも『アーニャ、アーニャ』と……」

 老婆が大げさな口振りで二回母親の名を唱えた所で、ソーニャは告げる。

「渡したい物があるわ」

「え?」

 老婆は乾き切った皺くちゃのハンカチから同じ様に皺くちゃの顔を上げる。

 血の気のない白目の中で、小さな瞳が涙とは似て非なる光でらんらんと輝いた。


「亡くなる前の日、ロゴージンが来たの」

 陶器の大皿を差し出したソーニャは目を落とす。

 白磁の表には、あどけない笑いを浮かべた二人の天使の子供が描かれている。

「洗いざらい持ってかれたわ」

「それは、大変でしたね」

 老婆は拍子抜けした様な、素っ気ない口調で答えた。

「これくらいしか渡せないけど、何かの足しにして」

「そりゃどうも」

 老婆はハンカチを握った手をポケットに突っ込むと、もう片方の手で引ったくる様に皿を受け取った。

「伯爵家が、堕ちたもんですねえ」

 老婆は皿の裏と表を盛んに返して息を吐く。

 皺くちゃの手が持つ皿には、表に描かれた天使にも、滑らかな白磁の裏にも、傷一つ無かった。

 しかし、少女を改めて見やった老婆の目は一気に血走る。

「あたしゃね、お手当だって、二月ふたつき分いただいてないんですよ」

 急激に詰問の色を帯びた老婆の言い掛けに対し、少女はあかぎれした拳を握り締めて俯く。

「まあ、あんたに言っても仕方ないね」

 老婆は今度は打って変わって、情をかけてやるといった風に胸を反らせた。

「あんなワガママ小僧に二十年も仕えて最後は皿一枚なんて、あたしゃ、とんだ貧乏クジ引いたよ」


 バン!

 老婆が道の角を曲がって姿を消した所で、ソーニャは閉じた門の鉄格子を内側から華奢な拳で殴る。

 ゴン!

 ガン!

 冷え切った灰白色の空の下、鉄格子がうなり声にも似た音を響かせる。

 乾いてあかぎれた少女の指の背に血が滲んだ。

 黄金色のポプラの葉が一枚、はらりと一瞬だけその手の上に乗って、ソーニャの足元に舞い落ちる。

「お父様の馬鹿……!」

 ガシャン!

 靴の爪先で格子を蹴ると、濡れたエメラルドそのもののような少女の双眸から熱い滴が滴り落ちた。

 ……カタカタカタカタガタガタガタガタ!

 不意に、蹄と車輪の軋む音が向こうから響いてきた。

 我に返ったソーニャは顔を上げて、音のする方角を窺う。

 黄金色や朱色の葉が舞い落ちる路地の奥から、馬車がこちらに近付いてくる。

 遠目には皇帝ですら乗るのを憚るような豪奢な作りの車だが、けたたましいいななきと砂塵を立てる蹄の音、そしてそこにひっきりなしに混じる鞭の響きを耳にすれば、荒馬をどやしつけていると知れる。

「オリガ!」

 ソーニャは喪服の背を翻すと、一目散に屋敷に駆け込んだ。


 *******


「おい、そいつは気を付けて運べよ」

 額縁を持って階段を降りてくる部下たちに、高利貸しのロゴージンは階下から声を掛けた。

「何たってプーシキン画伯の『伯爵夫人の肖像』なんだからな」

「かしこまりました」

 ゴロツキめいた風体の部下たちは、しかし、雇い主の声には丁重に応じる。

 額縁の中で微笑む女を目にすると、ロゴージンはにいっと黄ばんだ乱杭歯を覗かせた。

「これで、あの『モスクワのヴィーナス』も俺のもんだ」

 そう嘯くと、高利貸しは小さな金壷かなつぼ目で嘗め回すように画中の女の姿態をなぞる。

「先代の陛下はもちろん、おフランスの枢機卿までこいつを狙っていたと聞くぜ」

 絵が玄関の外に運ばれていくのを見届けると、ロゴージンは今度は台所に向かってダミ声を張り上げた。

「食器類は持ってきた箱で足りるか?」

「一箱で間に合います」

 台所から答える声がした。

「ナイフとフォークぐらいしか残ってないんで」

「ちぇっ、皿は召し使いたちにでも持ち去られたか?」

 赤黒い顔の高利貸しは音高く舌打ちする。

「もうちょい金目の物を遺してるかと思ったんだがな」

 溜め息を吐きながら、ロゴージンは頭上高くに吊り下げられた、灯りの消えたシャンデリアを見上げた。

「ま、伯爵の邸宅と女房の絵だけで元は取れたかな」

 うそぶくロゴージンの背後を、ソーニャがオリガの手を引いて通り過ぎる。

 姉妹はいずれも、型としては既に流行遅れで生地も多少古びてはいるものの、仕立ての良い外套を身に纏っていた。

 もし、事情を知らない人間が二人を目にすれば、どこぞの茶会にでも招かれて向かう令嬢たちと断ずるに違いなかった。

 が、奇妙なことに、姉娘は空いた方の腕に古ぼけたマトリョーシカを抱え、妹娘は幼女の背丈には余るほど長いワインレッドの傘を手にしている。

「お姉ちゃんの方は、お母さんそっくりだねえ」

 ロゴージンは猫なで声で言いかけると、赤黒い顔を半ば押し付けるようにしてソーニャの頬に近づけた。

「お父さんがあんなことにならなければ、今頃は社交界サロンにデビュー出来たのに」

 社交界、と、そこだけ拙いフランス語で高利貸はゆっくり囁いた。

「放してちょうだい!」

 まるで、高利貸の吐く息が腐臭でもするかのごとく、ソーニャは素早く顔を背けた。

 輝く栗色の髪の先がロゴージンのひしゃげた鼻を打つ。

けがらわしい!」

「勘違いすんな、俺はてめえみたいなガキに用はねえんだ」

 赤黒い顔をますます蒸気させたロゴージンは、今度は強いダッタン訛りでそう吐き捨てると、小さな金壷目を冷たく光らせた。

「そいつを見せな!」

 毛むくじゃらの手が、少女の胸に抱かれた、古びて褐色に変じたマトリョーシカの伸びやかな笑顔に伸びる。

「やっぱり、隠してやがったな」

 ロゴージンは小さな人形の中から輝く石を取り出すと、腹から二つに割れて転がっている人形の山を前に高笑いした。

「見ろ、掘り出し物だ!」

 高利貸しはやってきた部下たちに光り輝く物を示す。

「それ、先代伯爵からの家宝ですよね」

「俺にも見せてください」

 蜜に集る蟻さながら、部下たちが群れを成してロゴージンの周りに駆け寄る。

「返して! お父様の形見よ!」

 縋るソーニャを、部下の中でも一際与太者じみた男が突き飛ばす。

「うるせえよ、お嬢」

 床に尻餅をついた少女を見下ろすと、雇われ男は口の端で笑った。

「もう、この家もダイヤもお前らのもんじゃねえだろ」

「恨むんなら、借金まみれで死んだてめえの親父を恨むんだな」

「返して欲しけりゃ、さっさと金作れってんだよ」

「路地裏で男の手を引いてでもな」

「何なら俺たちが相手にしてやってもいいぜ」

 他の部下たちもすっかり本来の口調に戻って、少女に言葉の飛礫つぶてを投げ付ける。

 ソーニャは冷たい大理石の床に突き飛ばされた格好のまま、何も言い返せず唇を噛んだ。

「ウエーン」

 ソーニャの背に隠れるようにして抱きついていたオリガが、とうとう泣き声を上げた。

「とっとと失せろ!」

 ロゴージンは分解された人形の山を蹴散らす。

 その内の一体の片割れが、姉妹の足元まで転がってきた。

 二人は座り込んだ態勢のまま、思わず身を硬くする。

 絨緞じゅうたんが既に取り払われ、むき出しになった大理石の床の上を駒さながらに転がってきたのは、二つに分かれた人形の上半分であった。

 長い年月、親人形の腹の中でずっと守られていたのであろう、髪の部分に施された黄の彩色も鮮やかな生首は、空色の目を大きく見張ったまま、二人の娘におどけた笑顔を向けて止まった。

「さもねえと、てめえらの腹もぶち割るぞ!」


 *******


「お姉ちゃま、大丈夫?」

 曇り空の下、オリガはまだ赤い目でソーニャを見上げた。

「ええ」

 ソーニャは素早く目尻を拭うと、屈み込んで幼い妹の目鼻を白い絹のハンカチでそっと拭う。

 白桃じみた幼女の小さな丸い頬は、そんな風に柔らかな絹で優しく撫でなければ、まるで本物の桃のように損なわれてしまいそうだった。

「これからは、人前で泣いては駄目よ。お母様も言ってたでしょ」

「うん」

「オリガは強い子だから、出来るよね」

 ソーニャは目を潤ませたまま笑って、向かい合うオリガの小さな肩を揺さぶった。

「はい」

 幼女は縮れた金髪の頭を縦に振ると、涙をゴクリと飲み込んだ。

「お傘を貸して」

 姉娘の言いかけに、幼女は従順に小さなその手に持った傘を差し出した。

「これ、返すわね」

 ソーニャは受け取ったワインレッドの傘のリボンを静かに解くと、その中に収まっていた緋色の小さな筒を取り出す。

「万華鏡、怖いおじさんたちに取られないようにここに隠してたの」

 オリガはパッと顔を明るくして緋色の筒を受け取ると、夢中で覗き始めた。

「失くさないように持つのよ」

 ソーニャの言葉をしおに、雨粒がポツポツ傘を打ち始める。

「傘の下だとよく見えない」

 オリガは万華鏡の覗き口から目を放すと、恨めしげに赤紫の傘を見上げた。

「きっと、また壊れちゃったのよ」

 ソーニャは手に持った紙切れに目を注いだまま答える。

《これは偽石。本物は万華鏡の中》

 残り少なくなったインクで書いたらしく、終わりの方で筆跡はややかすれている。

――お父様が息を引き取ったあの晩、オリガが泣き疲れて寝入るのを見届けた後、私はあのマトリョーシカを開けた。

 ソーニャは胸の内で思い出す。

――幾層もの親人形に包まれた、一番小さな子人形の中に仕込まれていたのは、光輝く偽ダイヤとこの紙切れだった。お父様がミーシャに命じて、偽石を作らせたのだ。お母様御用達の宝石職人だった父親譲りの腕で、ミーシャは本物と見紛うばかりの偽ダイヤを見事に作り出してくれた。ロゴージンが奪ったのは、最も小さな人形の代わりに偽物の宝を宿したマトリョーシカだ。

 ソーニャの手の中で、女性のように優しげな文字を記した紙切れが震える。

――可哀想なお父様。一昨年おととしの今頃、やっぱりこんな肌寒い雨の朝にお母様に先立たれた後、ロゴージンやその他胡散臭い連中が持ち込む怪しい話に次々金を注ぎ込むようになった。

――輝く様だった金髪に白いものが急速に目立ちだしたのは、去年の春先に先代の陛下がお隠れになってからだ。その時も、もう一緒に遠乗りする相手もいないから、と、手塩にかけて育てた馬をただ同然で手放してしまった。あの馬を手に入れたリョービン男爵は乗りこなせず肩を折ったらしいが、それもロゴージンが上手いこと高値で男爵に売りつけたという話だ。

――花形で鳴らした社交界とも疎遠になり、召し使いたちには次々逃げられ、私に水仕事をさせる頃には、自分が床から起き上がれなくなっていた。

――そんな所まで落ちておきながら、家宝のダイヤだけは枕元から手放せなかったのだ。お母様の微笑む肖像画に見下ろされながら。生前のお母様は、決してあの絵を好いていなかったのに。“絵の中の私はあまりにも満ち足りているから”と。

――そうして、人に騙され続けて全てを失ったお父様は、嘘を腹に仕込むことを最期に私に教えてくれた。

 少女は微笑すると、手の中の紙切れを千切る。

 紙片は粉雪さながら、ぬかるんだ道に散って泥に吸い込まれていく。傍らのオリガはまるで不思議なものでも眺めるように、水色の目を瞬きもせずにそのさまを見守った。

「これから行くミハイルさんのお店で、直してもらいましょう」

 あかぎれした自らの手の甲に一瞬だけ潤んだ目を注ぐと、ソーニャは外套のポケットから黒い毛皮の手袋を出す。母親譲りの手袋は、まるで初めから少女の手に合わせて作られたかのごとく、過不足なく華奢な両手を覆い隠した。

「全て、これから取り戻すのよ」

 打ちつける雨の雫が次第に白い雪の欠片に転じる中、二人の姉妹は再び歩き出した。(了)

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

マトリョーシカ 吾妻栄子 @gaoqiao412

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ