死檻の咎人

三ノ月

プロローグ 死人の記憶



 雨だ。視界を埋めるは雨。心に広がるは虫唾が走るような感情。

 雨は足元を侵していき、感情は理性を侵していく。

 生まれたこの感情を、人は罪悪感や後悔と呼ぶのだろうか。

 私は、人を殺した。それも最愛の人間をだ。

 雨に濡れる。頬を伝う雫は雨粒か、それとも涙か。

「――――、――――」

 誰か声が聞こえる。酷く聞き覚えのある声だ。沈みかけた意識を引き上げる、親愛の声だ。

 それは、私の前に倒れる少女のものだった。

「――……ねえ、」

 まだ息がある。殺し方を誤ったか? だとすれば、無為の苦痛を彼女に与えてしまったことになる。

 少女の苦しむ顔など見たくない。目を瞑り、再度頬を雫が伝う。

「目を開けて?」

 掠れ掠れの声は今度こそ聞こえ、キツく閉じた瞳を開く。そこにあるのは、どうしようもない、死を目前にした少女の姿。

「綺麗な、黒い瞳……真っ直ぐで、純粋で……」

 頼む、喋らないでくれ。これ以上、一秒たりとてあなたの声を聞きたくはない。

 胸を縛る感情が膨れ上がり、私の方が死にそうになる。

 少女が震える手で私の手を掴み、胸へと押し当てる。

 とくん、とくん。静かな鼓動はかえって不気味で、少女の柔肌を愉しむ余裕なんてもちろん無くて。

「わか、る? ここに、きみがくれた感情がある……きみが知らなかった、はずのもの。好きって感情、恋しいって感情……――愛おしくて、たまらないって感情」

 ああ、ならば。この胸を締め付ける感情は。

「言い忘れてたことがあるの……聞いて、くれる?」

 きっと、これが彼女の最期の頼みだ。これを聞いてしまえば、きっと彼女はいなくなる。

 この世界から消え失せ、帰らぬ人となる。

 嫌だ。――聞いてやれ。

 嫌だ。――楽にしてやれ。

 嫌だ。――もう、終わりにしよう。

「嫌だ、嫌だ……嫌なんだよ……!」

 気付けば私は、嗚咽を漏らし、大粒の涙を零していた。もはや雨粒と間違えることもない、私の奥底から溢れる、涙の雫。

「……――聞いて」

 最期の力を振り絞ったのだろう、勢いよく身体を起こした少女は私の首に抱きつき、耳元で囁いた。

 全てを終わりにする、最期の言葉を。



「――大好き。世界で一番大好き。……きみに出会えて、わたしは幸せだった」



 ――だ、った。

 そして少女は命を落とす。私にしがみついたまま、雨に濡れ冷たくなった身体を、私に預けたまま。

 だった。そう少女は言い残した。きっとこの子は、これからも幸せに生き続ける少女だったはずなのに。もっと多くの人に愛されて、多くの人を愛して、幸せな人生を歩むはずだったのに。

 全ては過去、後戻りなどできず、先に進むこともできない。

 嘆こう、この運命を。恨もう、この世界を。

 あの子に世界を救わせようとした、神様を。

 ――きっとそれは筋違いで、責任転嫁に過ぎない。

 少女を救うことができなかった自分への恨み言を、後悔を、周囲の何かしらにぶつけているだけなのだろう。

 少女の身体に触れると、どろりとした何かに触れた。生暖かく、生きていた名残を感じさせるそれは血だ。

 腹に空いた風穴から流れ出す血は雨に洗い流され、致死量を軽く超えてしまっている。もうそんなことすらどうでもいい。

 だって、触れる彼女の身体からは、血液の流れる音――鼓動が、聞こえないのだから。

 死んだ。少女は死んだ。

 この世からいなくなり、喋ることも、身体を動かすことも、笑うことも、泣くことも……できなくなった。

 彼女の最期がこんなものでいいはずがない。もっと大勢に見守られ、華々しい人生を讃えられつつ空に昇るべきなのだ。

 なのになぜ、こんな誰もいない神殿で、私の腕に抱かれて、孤独に死んでいくのだろう。

 殺したのは私だ。ここを選んだのも私だ。そして、――それを受け入れてくれたのは、彼女だ。

「……うぁ、」

 思い返せば楽しかった。きっと私という存在は、彼女と出会ったことでようやく誕生し、成長したのだろう。

 様々なことを教えてもらった。知識が豊富で、見るもの全てを得意げに語る彼女の横顔は輝いていた。まるで周囲を照らす太陽だ、などと凡庸な言葉しか浮かばなかったけれど、きっとそれで良かった。

 平凡でいて、しかし異形に臆することなく。彼女と過ごした時間を思えば、いくらだって蘇る光景。

 笑顔。――彼女は、笑っていた。

「あぁ、うぇ、」

 悲しい時だって、苦しい時だって。きっと歩むのが辛くなったこともあるだろう、歳相応に遊びたいと思ったこともあるだろう。それでも少女はその感情を、笑顔で塗り潰してきた。

 その笑顔を崩したのは、私で。

 その人生を奪ったのは、私だ。

「ぇああ、ああああ、」

 きっとそれこそが、私の罪。

「うぁあ――――――――」

 償わなければならない、大罪なのだろう。

 だが今だけは、休ませてくれ。

 彼女と出会うことで得た感情が、声になって吐き出される。涙になって吐き出される。……吐き出される。

 私は泣いた、叫んだ。

 どうかこの慟哭が、空の彼女に届きますように。

 あなたを愛した人間は、あなたの傍で泣いたのだと――。

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