七日目
朝の十時。ぼくが目を覚ますと、彼女はまだ眠っていた。
安らかな寝顔はまるで死んでいるようにも見えて、でも実際に彼女は死んでいるからこれは比喩じゃなくて事実で、ぼくはなんだかよくわからなくなってしまった。
ひとつだけわかるのは、今日が彼女と過ごす最後の日だということだけだ。
昨日の晩に握り合った手はまだ繋がれたままで、ぼくはややためらったあと指をそっとほどき、ベッドから抜け出した。
台所に行き、数日前に習ったサンドイッチを作る。彼女が今日旅立つのなら、ぼくがもう料理できるようになったって、安心してから行って欲しい。そう思ったから。それに、この前もサンドイッチが一番上手に作れたから、失敗はしないだろうとも思ったのだ。
野菜やハムやゆで卵を刻んでいると、彼女が起きてきた。
完成してから彼女を起こして驚かせようと思っていたぼくは少しがっかりしたが、彼女はぱあっと顔を輝かせた。
「ピクニックの準備ね!」
「え? あ、うん」
「最後の日はピクニックに行こうと思ってたの! なんで私の考えてることがわかったの?」
「君の考えなんて全部お見通しさ」
ぼくは見栄を張ってそう言った。
たくさん作ったサンドイッチを彼女が手際よくラップに包んでいく。
「ねえ、あそこの山でいい?」
ぼくの家の近くには、頂上からの景色がすごくいい山がある。そんなに登るのが難しくないから、絶好のハイキングスポットなのだ。
「いいね」
「じゃ、早く準備しなきゃ!」
彼女は水筒にお茶を入れ、サンドイッチと一緒にリュックに詰め込んだ。
ぼくは念のためにスマートフォンで天気予報を見る。家の近くは曇りのち雨の予報になっていて、ぼくはかなりがっかりした。
「ねえ、天気予報は雨だよ」
彼女は自信満々に断言した。
「大丈夫、晴れるから」
彼女の自信に押されて、ぼくは動きやすい服装に着替え、リュックを背負い、二人で家を出た。
曇り空なのにぽかぽかと暖かい。絶好のピクニック日和だった。
山道は舗装されてこそいないものの、踏み固められて歩きやすくなっている。ざくざくと土を踏みながら歩いて、ひたすら登った。
不思議と他の登山者の姿はない。平日だからだろうか、誰とも出会わずに二人だけで登り続けた。
ふと時計を見ると、もう正午を過ぎている。
「お昼だよ」
「本当? じゃ、どこかでサンドイッチ食べよっか!」
根っこが張り出した大きな木があったので、ぼくたちはその根本に腰掛けた。リュックからサンドイッチを取り出して一口食べ、彼女が目を丸くする。
「おいしい! 一回教えただけでこんなに上手に作れるなんて」
「天賦の才ってやつだよ」
「それはないと思うな」
ぼくも一口食べて驚いた。本当によくできている。
「やっぱり天賦の才だよ」
「はいはい」
サンドイッチを食べ、お茶を飲み、二人でのんびりした。山の中には鳥の鳴き声が響き渡り、風がそよそよと吹きすぎていく。
「やり残したことってピクニックだったのかい?」
「ううん、違うよ」
「じゃあ何かな」
「君ってたまにせっかちだよね。頂上に行ったらちゃんと教えてあげるから」
「はいはい」
ぼくたちはまた歩き始めた。
彼女のペースが落ちてきたので、ぼくは少しだけ歩幅を狭くして彼女に合わせる。
石の隙間を登る、この山一番の難所に出た。ごつごつした岩場だ。ぼくが少し登り、彼女に手を差し伸べると、彼女は嬉しそうにその手を取った。
「足元にお気をつけください、お嬢様」
「まあ、ご丁寧にどうも」
おほほほ、と笑う彼女をよいしょ、と引っ張り上げ、ぼくたちはなんとか岩場を乗り越えた。
あとは頂上まで緩やかな上り坂だ。
「ねえ、私と君って付き合ってから何年だっけ」
「どうだろう、六年ぐらいじゃないかなあ」
「六年間、いろいろなことがあったね」
「大学で君と出会って、それからずっと。まさかこんなことになるとは思わなかったけどね」
「それはこっちの台詞だよ。君と二人でおじいちゃんおばあちゃんになるまで過ごせたらいいなって思ってたのになあ」
彼女はため息をついた。
「人生ってうまくいかないものね。でもね、不思議なことに、プラスとマイナス全部足したらプラスに傾いてるような気もするんだ」
「きっと、生きてる間はそれに気づけないんだよ。死んでから初めて気づくのさ。ああ、いい人生だった、ってね」
「死んだこともないのに偉そうなこと言わないの。でも、そうね、確かに私も死んでから気づいた。生きてるうちは不満もいっぱいあったけど、いいことも悪いことも全てひっくるめて、まあまあ楽しい人生でした」
「それは何より!」
「君のおかげだよ」
彼女は立ち止まってぼくをじっと見つめた。
「生まれて、育って、君と出会って。人生の最期の一週間、こんな素敵な思い出ができた」
頂上だ。
涼しい風が吹き抜け、ぼくと彼女の髪を揺らした。眼下に広がる街の景色が、ほんの少し滲む。
「君に会えたから、私は幸せだった。人生の長さなんて関係ない。私はこれで満足」
「……ぼくは何もしてないよ。君がそばにいてくれて、ぼくはとても楽しかった」
「そう言ってくれて嬉しい」
彼女は花が咲いたように笑った。
「ずっと君に言いたかったこと、改めて言わせてください」
彼女は頭を下げた。
「今までありがとう」
ぼくは喉が締め付けられるようで、声が出せなかった。もうお別れなんだ。まだまだ言いたいことはたくさんある。動け。ぼくの喉よ、動け。
唇が震えた。喉がひゅうっと鳴った。
震える声で、かすれた声で、それでもぼくは言葉を絞り出した。
「ぼくのほうこそ、ありがとう。君に出会えてよかった。本当に、よかった」
あとは、言葉にならなかった。
ぼくは彼女を力一杯抱きしめた。言葉にならない思いが形になって、ぼくの目からとめどなく溢れ出した。
「やっと……泣いてくれた」
彼女もぼくを抱きしめ返した。
「どうしても君にお礼を言いたかった。だから、やり残したことは、あと一つだけ」
彼女は笑った。今までで一番眩しい笑顔で。
「君に、きちんとさよならを言うこと」
ぼくは彼女を抱きしめたまま、黙って首を振った。
嫌だ。
「この前みたいに何も言わずに行っちゃうわけにはいかないよ」
彼女も泣いていた。涙の光る頬で、それでも彼女は元気よく言った。
「人生の最期にあなたと過ごせて、もう思い残すことは何もありません。一足先に、向こうに行かせてもらいます」
彼女はお辞儀をした。
「それではまた会う日まで、しばしのお別れを」
雲間から、光が差した。
いつか彼女が言っていた、レンブラント光線だ。幻想的でまっすぐな光が燦々とぼくと彼女の真上に降り注いだ。
「いつだったっけ、私、君にレンブラント光線について教えたよね」
ぼくは頷いた。
「君は天使の階段って言ったけど、それで合ってたよ。うん、本当に階段だったんだね」
彼女を照らし出す光線はその強さを増していく。彼女の声がだんだんと遠くから響いてくる。
「ほら、お迎えがきた。行かなきゃ」
突如、抱きしめているはずの彼女の腕に頼りなさを覚えた。さっきまでそこに「ある」ものだった彼女の身体が「ない」ものへと変わっていく。
ぼくは力を振り絞って叫んだ。
「約束、守ってよ」
彼女は笑って、小指を差し出した。
「絶対に守るよ。だから、死ぬまでは生きていてね」
彼女の小指にぼくの小指をそっと当てる。壊さないように、消えないように。
絡めたはずの彼女の小指がふっと消えた。確かにそこに見えるのに、もう触ることができなかった。一週間限定の彼女の身体が今、終わりを迎えたのだ。
彼女に与えられた時間が終わった。
彼女はくるりと振り返り、天使の階段を一段一段踏みしめながら、空へとのぼっていった。
だんだんと姿が薄くなり、透けていき、最後に見えなくなるまで、彼女は一度も振り返らなかった。
雲の切れ間から光が差した。それはもうレンブラント光線でも天使の階段でもなく、ただの日の光だった。彼女の言った通り、いつの間にか空は晴れ渡っていた。
彼女は死んだ。今度こそ本当に。
ぼくは長いことそこに立ち尽くしていた。
*
あれからぼくは、雲間から差す光を見るたび思う。今この瞬間にどこかの誰かが、この世でやり残したことを終わらせて、階段を上がっていったのだと。
あの光は、昔からこうやってこの世に想いを残した人たちを運んでいたのだろう。昔の人たちはきっと、それをわかっていた。だから天使の階段なんていう名前を付けたに違いない。
旅行のときに撮った彼女の写真は全て消えてしまっていた。薄々予想はしていたことだけど、やっぱり残念だ。
でも、写真に頼らなくても彼女の姿はぼくの目に焼き付いている。笑う彼女も拗ねる彼女も、目を閉じればまるでそこにいるみたいに浮かんでくる。
ぼくはときどき、あの山に登る。自分で作ったサンドイッチを持って行って、頂上で食べるのだ。今回はこんなに上手に作れたよ、と彼女に見せるために。
でも、そろそろサンドイッチ以外も持っていこうかと思っている。あれからかなり料理は上達したのに、まだサンドイッチ以外は作れないなんて思われると悔しいからだ。
――見てるかい? 君に教わった料理、こんなに上手になったよ。ほら。
ぼくは晩ごはんの野菜を手際よく炒めつつ、次は何を作ってやろうかと考え始めた。
【レンブラント光線】(れんぶらんとこうせん)
オランダの画家レンブラント(Rembrandt Harmensz. van Rijn 1606年7月15日-1669年10月4日)が好んで描いた光景である、太陽が雲に隠れているとき、雲の切れ間あるいは端から光が漏れて光線の柱が放射状に地上へ降り注いで見える現象の通名の一つ。
別名、天使の階段。
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