終章 楽園《らくえん》


楽園/1


 連理が失踪し、一週間が経過した。

 警察も同じ高校の学生が多く行方不明になっていることに、ようやっと重い腰を上げ、本格的な捜査本部を設けた。

 今まで単独で捜査を行っていた、小鳥遊と田原は、この捜査の中心となり、真実を追っていた。学校の生徒達全てに順次事情聴取を行っていた彼らは、遂に比翼の番へと回ったことに、互いに決意を固めていた。

「真、決めるぞ」

「当たり前だ、義信」

 二人で、彼女の待つ生徒指導室へと向かった。

 引き戸を開くと、彼女が物悲しそうに俯いていた。彼女のことを何も知らない人物が見ると、家族が行方不明になった、可哀想な家族の一人と思うかもしれないが、彼らはそうは思わなかった。

「やぁ、片翼。もう一つの翼がないのはつらいか?」

 小鳥遊は皮肉を口にしたものの、比翼は表情を崩さずに、泣き腫らしたような赤い瞳を彼らに向けるだけだった。

「連理は……見つからないの?」

「演技はやめるんだな、比翼」

 小鳥遊と田原は椅子に座る。

「お前がこの事件の中心人……」

 小鳥遊が言葉を繋いでいる途中、比翼は机を力強く叩きながら、立ち上がる。

「連理は? どうして連理は見つからないのよ! 私の弟なんだよ……たった一人の、双子の弟なんだよ! なんで、あんたらはそんなことしか言えないのさ!」

「俺たちに演技は効かんぞ、比翼」

 小鳥遊は冷たい瞳で彼女を睨み付けるが、比翼は相変わらず取り乱し、まるで、本当に何も知らないかのように見えた。

「もう一度言うぞ、演技を止めろ!」

 小鳥遊は声を荒げて、変わらずに比翼を睨み付ける、

「あなた達が私を嫌いだと言うことはわかります……それでも、こんなときにまで、そんなこと言わなくても……!」

「……最後だ、女狐。もう、演技はするな」

 比翼は、小鳥遊と田原に背を向ける。そのとき、比翼は笑みを作った。口は三日月のように歪み、とても嬉しそうに、とても気味悪く。

 されど、彼女は仮面の裏側を容易に他人に向けることはしない。その笑みをすぐに悲哀のものへと変え、再び小鳥遊たちに振り向く。

「なんでそんなことしか言えないの!」

 比翼の瞳からは、大粒の涙が流れていた。

「女狐め……弟にまで手を上げておきながらそんなことを言うか!」

 小鳥遊が彼女の胸倉を掴もうと身を乗り出したときだった。田原が彼の行動を制止し、比翼を強く睨み付け、問う。

「実の弟が死んでいるかもしれないんだ。何か、彼の行動で変なことはなかったか?」

 比翼は、すぐに彼らの立場を理解した。

 小鳥遊は、普段見せる表情とは違い、感情的に行動する人間。田原は、小鳥遊と比べると表情が豊かなので、感情的に見えるものの、実際は冷静に行動する人間。この第一印象のギャップが、容疑者の精神を揺さぶるのだろう。しかし、彼女にそのような心理作戦ものは効かない。

 比翼は再び俯く。

 既に言うことは決まっている。しかし、考えて答えを口にするのが、常識と言うものだ。

 彼女は最初の実験を思い出す。

 四月三十日。ゴールデンウィークの少し前。このときの連理は、まだ普通だった。確かに、死体を見たときは異様な行為をしていたものの、それでもまだ、日常に支障をきたすものではなかったはず。

 彼がおかしくなってきたのは、小鳥遊と田原が尾行についたとき。そのときから彼は、少しずつ、ずれてきた。しかし、それをそのまま言っては、計画が破綻する可能性もあることを考えていた彼女は、思い出すようにゆっくりと、口を動かした。

「四月の……終わり頃から、なんか変になってた」

「変とは?」

 田原が足を組む。小鳥遊は、この場を田原に任せることを決めたのか、不服そうに椅子に座る。

「そわそわしたり、刑事もののドラマとか見てると、急に舌打ちして、部屋に戻ったり……」

「ほう……」

 田原が警察手帳を取り出し、メモを取る。

 まるでドラマの中に飛び込んだような気分になった比翼は、少しだけ楽しくなってきたのか、時折声を上擦ったり、涙を拭うふりをして、可哀想な家族を演じた。

「連理は、助かるの?」

 田原が大きく溜息をつき、「さぁな」と冷たく言い放つ。その言葉を聞いた比翼は、机を思い切り叩き、「絶対に助けてよね!」と言い捨てて、生徒指導室を後にした。

「義信、どう思う?」

 比翼が去ってすぐに、小鳥遊は田原に問いかける。

「実に上手い。あいつ、女優になれるんじゃないか?」

「俺もそう思うよ」

「普通は、あんなに饒舌に話せないんだがな」

「ドラマの影響か何かだろうな。だが……」

「陪審員は、騙せるだろうな」

「弟を失った、可哀想なお姉ちゃんか」

 小鳥遊は、今までの学生達の調書を取り出し、ぺらぺらと捲っていく。

「ほとんどの生徒が、知らん存ぜぬ。連理の友人に関してもほとん

ど同じ、か」

「友達、なのかねぇ……」

「最近の若い奴らは、そんなもんだろうな」

 田原が胸ポケットに手を入れ、煙草を取り出そうとしたが、やめた。

「どうした? 煙草の許可は取ってあるぞ」

 小鳥遊が僅かに首を傾げ田原に言う。その様を見て、田原は「恵が、怒るだろう?」と、悲しそうに声の調子を落とす。

「ありがとう」

 小鳥遊が優しく微笑む。

「お前の気持ちもわからんでもないが、休んでてもいいんだぞ? 凛のこともあるだろうしな」

 田原が小鳥遊の肩を叩いてそう言うが、小鳥遊は首を横に振る。

「凛は、父と母が病院で様子を見てくれている。それに、義父さんと義母さんにな、『犯人は、絶対にお前の手で捕まえてくれ』って言われてるんだよ」

「ははっ。そりゃあ、休んでられないな」

 田原は苦笑いを浮かべた。すると、ドアがノックもなく開く。

「あの、他の生徒達は……?」

 見るからに気弱そうな教師が、おずおずと二人に尋ねる。

 小鳥遊と田原は、教育をする立場にある教師なのにも関わらず、ノックもしてこない無礼さに、同時に溜息をついた。


楽園/2


 かさかさと、何かが床を這いずった。

 彼は、その音のした方に、ゆっくりと瞳を向ける。

 カマドウマが、連理の食べこぼしたパンくずへと向かって歩いていた。

 ぼろぼろのマットの上で、連理はぼんやりとそれを眺めていた。

 唇はひび割れており、顔や髪は脂と埃で汚れている。食事に関しては、つい二日前に食べた菓子パンが最後だった。自宅から持ってきた水は、あと二本になっている。

「シャワー、浴びたい」

 ここに来てからは、汚い天井を見続ける毎日。

「水を、たくさん飲みたい」

 比翼との連絡用の携帯電話は、一向に鳴る様子はない。

「しんどい……」

 連理はぼんやりとした意識の中、清貴のことを考えた。

 清貴は、自分のことを叩いた。あのときの彼の表情は今でも覚えている。純粋な怒り。親でも子でもない、他人に向けるような冷たいながらも、熱い瞳。怒りに震える体。

「何もかも、小鳥遊のせいだ……」

 比翼は彼にそう言った。

 比翼と自分はやはり双子なのだと、彼はあの時ほど実感したことはない。

「比翼……早くしてくれ。このままだと、僕は」

 死んでしまう。そう彼が口にしようとしたときだった。彼女との連絡用の携帯電話が、静かに震える。

 連理は歓喜のあまり叫びそうになったのを堪えながら、すぐに携帯電話を手に取る。

 比翼からの連絡用のアドレス。間違いない。彼は小刻みに震える手で、メールを開く。

『七月九日。あれが、そっちに行く』

「明日? くくっ……」

 彼は全身の力が抜けるのを感じた。

「あと、たった一日だ……ははっ」

 連理は、ゆっくりと瞼を閉じる。

「比翼には、明日たっぷりと文句を言ってやるさ」

 そんなことを言いながらも、彼は、計画があと少しで完成するのだと考えると、体が喜びで震えているのを、確かに感じた。



 七月九日。この日は、最高の日。

 清貴は、編集者との打ち合わせで、夜まで帰って来られない。いくら息子が誘拐されたとは言え、彼にもプロ意識がある。この打ち合わせに出ないと言うことはないだろう。例え早くに打ち合わせが終わったとしても、それは夕方頃。その間、秋華は無防備。

 口上は決まっている。連理から連絡があって、子供の頃によく遊んだ廃屋にいる。

 それを伝えれば、あの女は急いで向かうはず。警察や清貴には自分が連絡すると言えば、それで済む。

 くすくすくすくすくすくすくすくす。

 彼女は、とても楽しそうに家路を辿る。鼻歌も交え、軽い足取りで。

「まずは、清貴さんに、温かいミルクティーを淹れてあげるの」

 気が緩んでいるのだろう。彼女は独り言を漏らし始めた。

「それで、大丈夫だよ、お父さん。私がずっと傍にいるから、って言うの。そしたら、あの単純な人だもの。すぐに私のことを抱いてくれる。そうなったら、こっちのものよね」

 くすくすくすくすくすくすくすくす。

 時々ステップを踏みながら、彼女は歩く。

 あと一日、あと一日。

 あと一日で私と清貴さんは幸せになれる。誰にも邪魔されない、誰にも侵されない、聖域が、完成する。

 連絡用の携帯電話は、明日になったら処分する。処分方法は簡単、私の分は、明日連理の元へと向かう途中で処分。連理の分の処分ももちろん完璧。細かい時間指定を連絡した後、連理の携帯電話は、燃やして処分する。ただ燃やすだけではいけない。携帯電話の中にあるメモリなどを粉々に壊して、燃やす。こうしてしまえば、あとからデータを見られる心配もない。

 比翼は家の前に着くと、大きく息を吸い込み、表情を作り直す。可愛い弟が行方不明の、可哀想な姉の表情。

 玄関を通り、エレベーターに乗る。九階のボタンを押す。この内観も、もう見納めになるだろう。非常に殺風景なものだったが、こうなってしまうと感慨深いものもある。

 九階に着き、彼女は自分の家の番号へと向かう。鍵は開いていた。おそらく、清貴か秋華がいるのだろう。

「比翼!」

 疲れ果てた秋華の顔が、比翼を出迎えた。

「大丈夫だった? 学校から、あなたが具合が悪いからって帰るって聞いたわ。警察に変な事されたんじゃないの?」

「小鳥遊さんに散々世話になってその言い草なんだ」

「小鳥遊さんだったの? だったら安心ね。じゃあ本当に体調が悪いのね」

「そりゃあね」

 秋華には、事情聴取されるという内容だけしか伝わっていなかったらしく、警察の誰が事情聴取を行うということは知らないようだった。

「お父さんは?」

 秋華が靴を脱ぎ、ふらふらとした足取りで自分の部屋へと向かっていく。

「今、部屋で仕事中。たぶん、進んでないでしょうね」

「そう、だろうね。明日の打ち合わせは……出ないでしょ?」

「いいえ、行くでしょうね。彼はプロだもの」

 予想通り。

「こんな時にまで……」

「……プロっていうのは、そういうものなのよ」

「だったら、私はプロになんてならない」

「なろうと思っても、なれるものじゃないのよ」

 予想外の解答。

 比翼は溜息をつきながら、部屋のドアを開け、黒い自室へと入る。漆黒の聖母が部屋の中央で、ほくそ笑んでいる。

「あなたはいつでも笑っていられていいわね」

 比翼は鞄を放って、ベッドへと倒れこむ。

「今日は、疲れたなぁ……」

 演技ばかりして、顔を作りすぎたのだろう。それと、明日から送るであろう幸せすぎる生活が楽しみすぎて、この時間があまりにも苦痛にしかならないのだろう。彼女はそう推理し、静かに瞼を閉じる。



 連理は夢を見た。

 ずっと昔の夢だ。子供の頃の、他愛もない、夢。

 赤とんぼが飛び舞う、秋頃だった。家族で、月形と言われるところにあるキャンプ場に行ったことがあった。そこには、大きな川があって、大きな橋が架かっていた。その橋の手すりのすぐ下に、五百円玉ぐらいの大きな蜘蛛が、体に見合う大きな巣を張っていた。

 連理はなんの気なしに、その蜘蛛を見た。蜘蛛は時々吹く弱々しい風に、ゆらゆらと揺れていた。

 数十分見続けた彼は、飽きてしまったのか、その蜘蛛から視線をずらす。すると、手すりに赤とんぼが数匹止まって。こちらを見ていた。時折首を傾げる仕草は、何故か今までの自分のようだと、連理は感じた。

 連理は、そこであることを思いつく。この赤とんぼを、蜘蛛の巣に絡ませたらどうなるのだろうか。テレビなどではよく見られる光景だが、実際にそのシーンを彼は見たことがなかった。

 とても子供らしい、命に対する軽薄な発想。彼は赤とんぼをすぐに捕まえて羽を適当なところで破り、蜘蛛の巣にゴミでも投げつけるかのように赤とんぼを放った。

 赤とんぼは、もう飛べない羽や足をじたばたと動かしながら、必死に蜘蛛の巣から逃げようとするが、それが何になるだろうか。むしろ、蜘蛛に自分の存在をアピールし、食べてくださいと言っているものだ。

 蜘蛛は、八本の足を器用に動かして赤とんぼへと向かう。そして、その赤とんぼに噛み付くと、糸を赤とんぼの体へとぐるぐるへと巻いていく。

 連理は、五回そのような行為を繰り返したが、三回目から蜘蛛が糸で赤とんぼを巻かなくなったため、飽きてしまい家族の元へと戻った。

 そのときの彼の中にあった感情は、まったくの『無』だ。そしてこの『無』の感情は、彼の人生の中で数度訪れた。

 夢が移り変わる。

 それは、祖母の葬式だった。彼が小学校高学年になったころに亡くなった、祖母の姿を見たとき。

 大人は泣き、祖母の死を悲しんでいた。しかし、連理はそれを見ても、特に何も感じなかった。連理は、ふと比翼を見た。彼女もまた、興味なさそうに、祖母だったものを見つめていた。次に、彼は秋華を見る。肩を震わせ、涙をハンカチで拭っていた。秋華の両親は、彼女が若い頃に亡くなっており、清貴の両親を本当の両親と思い慕っていた、と彼は後に聞くことになる。

 最後に、彼は清貴を見た。清貴を見て、連理は少しだけ驚いた。何となく悲しそうに見えなくもないが、清貴もまた、自分や比翼に似たような雰囲気を醸し出していた。

 今度は、祖父の死。

 これもまた、同じだった。連理と比翼は、祖母のときと同じように無表情で祖父だったものを見下ろし、秋華は泣く。清貴は、相変わらず悲しそうに見える表情を作っていた。

 それから、親戚の葬式にも、彼らは何度か行った。だがしかし、やはり連理と比翼と清貴は、何も変わらなかった。

 そんな親戚の葬式のある日。連理と比翼は、外で二人だけで話した。

「なんで、みんなあんなに泣くんだろうね?」

 比翼が月を見ながら、ぼんやりと呟いた。

「さぁ? 死ぬって、そんなに辛いのかな」

 連理も比翼と同じように、月を見ながらぼんやりと返す。

「私達って、結構葬式とか出てるからかな?」

「それはおかしいだろ。僕たちが初めて葬式に出たのって、小学校の頃だろう? 最初から僕らはこんな感じじゃないか」

「でも、もっと小さい頃にも何度か葬式に出てたよね?」

「そうだったっけ? それなら、人が死ぬことに慣れすぎたのかもね」

 連理が大きくあくびをする。そんな連理を見て、わずかに彼女は微笑む。

「……どちらかというと、興味ないのかもね、産まれたときから」

「それはないだろう。父さん達の教育が間違ってたみたいじゃないか」

「お父さんの教育は間違ってないよ。でもほら、私と連理って、お母さん、嫌いでしょ?」

 そのときに連理は、心のどこかの鍵が開いた気がした。

「あぁ、そうか」

「そう。私達は、物心ついたときから、ずっと、あの人が死ねばいいのにって、思ってたでしょう?」

 二人は、身近な死を常に望んでいた。

 きっと、気付かぬうちに何度も頭の中で、母を殺していたのだろう。

 全ての死に、母の死を被せていた。だから、興味などない。悲しむ気持ちなど、当然ない。なんで、自分はこんな簡単なことに気付かなかったのだろうか。

 連理は、ぼんやりと眺めていた月から比翼へと視線を移す。

 月光を浴びる比翼を見て、連理はなんとも形容しがたい気持ちを胸に宿らせる。何故そのような気持ちが現れたかはわからないが、そのような些細なことなど、どうでもいいようにも思えた。

 そんなことを連理が考えていると、比翼も連理を見た。

「ねぇ、連理。私達は不思議だね」

 連理は自分の頭の中を見透かされたようで、多少の恐怖を抱いた。

「ふふ、私も少し怖いよ」

 見透かされたよう、ではなく見透かされていた。

「でもね、考えてみると、案外不思議じゃあないんだよ。よく考えてみてよ」

 何故、不思議ではないのか。

 連理にはわからなかった。いいや、わからないと思いたかったのかもしれない。この問いの答えは、すぐに頭に浮かんだのだが、それはあまりにも幼稚で、現実味のない考えだったからだ。

「別に笑ったりはしないよ、言ってごらん?」

 自分と年齢は変わらないのに、まるで年上のような口調の比翼が、少しだけ面白かったのか、連理は薄っすらと笑みを浮かべた。

「僕たちが、双子だから?」

「そう、その通り。だから、考えていることも一緒、だからお互いに理解し合える、相手が何を望んでいるのかすぐにわかる。ね? 不思議じゃあないでしょ?」

 月のような優しい笑みを浮かべた比翼に、連理は満足したように頷いた。


 ゆっくりと連理の瞼が開く。日は沈んでおり、生温い隙間風が、彼の頬を撫でた。

「比翼と僕は、双子。だから、お互いが望むものを知っている」

 もう、あと数時間もないだろう。それで、全てが終わる。いいや、始まるのだ。

「明日、明日……」

 壊れたラジオのように、彼はその言葉を小さく何度も囁いた。


楽園/3


 七月九日、朝。

 比翼は、いつもよりも一時間早く起きた。眠り足りないといったものもなく、とても気持ちの良い目覚め。しかし、心臓は強く脈動していた。

 比翼はベッドで半身を起こしたまま、カーテンを開ける。夏らしい眩しいほどの光が、彼女を照らす。その光を受けて、彼女は呟くように唄を口ずさんだ。

 唄になりきらない唄。声になりきらない声。アップテンポに進んでいくのに、それはどこか物悲しく、陰鬱とさせるリズムを刻んでいる。その唄は唐突に終わり、彼女はにんまりと笑みを浮かべる。

「今日だ。紛れもなく、今日。あぁ、どうしよう。とても、嬉しい」

 比翼は再びベッドに倒れこむ。

「ふふふ。そう、まずは清貴さんに温かいミルクティー」

 ベッドの上で、何度も体勢を変えながら、彼女は全身で喜びを押さえ込む。

 数十分、彼女はこの行為を繰り返した。そして、枕もとの時計に目を向ける。彼女の部屋の時計で、七時丁度。つまり、正確には六時半。「よし」と、彼女は大きく息を吸い込んで、表情を作り変えていく。

 悲哀に満ち満ちた、見ているだけで痛切な想いが伝わってしまうような表情。彼女はその顔のまま、部屋を出た。

 扉を開くと、清貴も同時に仕事部屋から出てきた。

 比翼は清貴を見て、清貴もまた比翼を見る。

「大丈夫か、比翼?」

 疲れた声で、清貴は比翼に声をかける。しかし、声をかけられた比翼よりも、清貴の方が大丈夫には見えなかった。

「だい……」

 途中まで比翼は言葉を紡いだものの、途中でわざと言葉を詰まらせ、首を縦に振ることで彼に答えを返す。

 それを見た清貴は、辛そうに目を伏せ、彼女の頭を優しく撫でる。

「大丈夫だ、比翼。連理は、きっと助かる」

 無言で何度も頷きながら、比翼は「ごめん、今日は学校行かない」と囁くように言って、部屋に戻った。

「双子ってのは、魂が繋がってるって、本当かもな……」

 清貴は頭を掻いて、浴室へと向かおうとした。しかし、自分達の寝室から、秋華が出てくるのを見ると、彼は浴室に向いていた足を秋華に向ける。

「秋華」

「清貴……」

 秋華もまた、比翼と同じような表情をしていた。

「連理は大丈夫だ。だから、君はもう少し休め」

「比翼は?」

「あいつは、学校を休むって」

「そう、なんだ。ねぇ、きよ。昨日、あの子がね……」

 秋華は昨日の比翼との会話を、清貴に話した。

「今日の打ち合わせは、五時までには終わるよ」

「ねぇ、本当にこんな時にまで行かないと行けないの? 私とあなたの可愛い子供が一人行方不明なのよ?」

「……その子達を守るために、俺は行かないと駄目なんだ」

 清貴は秋華を抱きしめ、額に短く口付けをする。

「なるべく早く終わらせるから、君もゆっくり待っててくれ」

 そう言って、清貴は浴室へと向かった。

 廊下に一人残された秋華は、とぼとぼとした足取りで、居間へと向かう。

 そんな一部始終を、比翼はドアの隙間から見ていた。彼女の表情は先程の痛切なものではなく、まるで鬼のような怒りに溢れた表情に塗り替えられていた。

 しかし、彼女は、そのような表情を作りながらも、どこか嬉しそうに微笑んでいた。

 どうせあと数時間であいつは息絶える。

 そう思うだけで、彼女は嬉しくて嬉しくて仕方なく、苛立っていても微笑んでしまっていたのだ。

「どうせ、あなたはあと少しで死ぬんだもの」

 比翼は小さく言って、ベッドに横になる。

「あと、もう数時間もない」

 清貴が家を出て行った瞬間に、ようやっと全ての歯車が廻り始める。

 比翼の心臓は、強く鳴り続けている。

 クリスマスの前の夜のように楽しみで、僅かな時間すらも圧倒的に長く感じ、今こうしている時間すらも惜しく感じる。

 比翼は瞼を閉じた。

「夕方、四時。そうしよう」

 ゆっくりと大きく息を吸い込み、彼女は再び眠りに落ちる。



 比翼の部屋のドアを誰かがノックする。

 当の比翼はというと、覚醒しない頭のまま、「どうぞ」と生返事をする。

 ドアが半分開き、その隙間から秋華が顔を覗かせる。

「比翼、お昼を過ぎたけど、お腹とか減ってない?」

「……大丈夫」

「そう。私は部屋にいるから、何か必要なものがあったら、すぐに来るのよ?」

「うん。ありがとう」

 比翼が弱々しい態度を取っているのが珍しいのか、秋華は長く溜息をつく。しかし、彼女はこれ以上比翼に声をかけるでもなく、ドアを閉じる。

 比翼は耳を澄ませ、彼女の行動を追う。少しだけ廊下を歩き、夫婦の寝室のドアを開き、閉める。それを確認した比翼は、枕元の時計を見る。午後の二時。休息は充分に取った。あとは、自分の準備を整えるだけ。

「あと少し、あと少し」

 比翼は寝言のように呟き、枕の下に入れてある携帯電話を取り出す。連理との連絡用の携帯電話。これも、今日で必要なくなる。

 午後の四時、あれがあちらに向かう。

 簡潔にメールを作成し、送信する。そして、彼女はベッドから降りて、再度痛切な表情を作り、バスタオルを手にして、部屋を出た。

 ふらふらと、彼女は浴室へと向かう。脱衣所で服をゆっくりと脱ぎ、風呂場へと入る。そして、熱いシャワーで頭を目覚めさせた。しかし、不思議なことに、彼女の頭は冴えてきたものの、体はというと震えが止まらずに、背筋がぞくぞくと凍るようだった。

「風邪……ううん、違う。武者震い、みたいなものかな」

 その感覚が気持ちいいのか、彼女はいつもよりも数十分ほど長くシャワーを浴びた。

 彼女が浴室から出ると、曇天のような表情をした秋華が、「本当に大丈夫?」とまた彼女に問いかける。

 それに何も答えずに、比翼は首だけを縦に振り、秋華の横を通り過ぎた。

 自分の部屋に着いた比翼は、ぼうっとした表情で髪を乾かしていく。

 あと少し、あと少し。

 彼女が時計を見る。午後の二時半を刺している。

 あと少し、あと少し。

 髪が乾いたところで、ヘアアイロンの電源を入れる。学校に行く前なら、ヘアアイロンの温度が上がるまで待つのはわずらしいものの、今の彼女はそんなことを考えていない。とにかく、これから送るであろう幸せな未来が楽しみで仕方なく、このような時間でさえも、今は愛おしく思える。

 ヘアアイロンの温度が最大に達したところで、ゆっくりと髪へと通していく。少し癖のある髪が、彼女好みの真っ直ぐな髪へと矯正されていく、

 あと少し、あと少し。

 化粧はしなくていい。それではこのときを待ち望んでいたのではと、小鳥遊たちに勘違いされる可能性がある。

 あと少し、あと少し。

 彼女が準備を終えたのは午後三時三十五分。普段の三倍近い時間をかけて、彼女は準備を整えた。

 今まで閉じていた部屋のカーテンを開ける。眩しいほどの日差しが、彼女の部屋へと侵入してくる。

「あぁ、まるで、私たちの旅路を祝福しているみたい」

 比翼はにこにこと可愛らしい表情を作り、連絡用の携帯電話を手に取り、メールを送る。

 メールを送りなさい。

 これだけで、連理には意味が伝わると踏んだ彼女は、連絡用の携帯電話の電源を切り、今着ている服のポケットへと入れる。

 数分がして、自分が普段使用する携帯電話に、連理からのメールが入る。

 たすけて まえの はいおくにいる。

 さすが連理、と彼女は言葉にせずに彼へと賞賛を送った。心臓の鼓動は、今まさに最高潮に。どうしてもにやけてしまう表情を、必死に隠し、驚きと焦りの表情を。

 喉が渇いたと思った彼女だったが、生唾を飲み込み、必死に耐える。饒舌に説明できず、所々詰まったり、声が上擦ったりするほうが、より危機感がある。

 一つ。大きく深呼吸。もう一つ、小さく深呼吸。

「よし……最後の仕上げ」

 最高の舞台での、最高の人殺しを、彼女らは今始める。


楽園/4


「お母さん!」

 比翼は自分の部屋のドアを乱暴に開け、夫婦の寝室へと走っていく。

 寝室では秋華がパソコンを開き、清貴の小説で使用するであろうイラストを、一筆一筆とてもゆっくりと描いていた。

「どうしたの? おなかでも空いたの?」

「これ、見て!」

 比翼は、自分の携帯電話を彼女へと見せる。

 それを見た秋華の表情は見る見るうちに豹変し、目を大きく見開いた。

「これ、連理よね?」秋華は比翼の携帯電話を手に取った。

「そうだよ! 早く助けに行かないと!」

「でも、これだけじゃあ……それに、小鳥遊さんたちにも……」

「警察やお父さんの連絡は私がするから! それに、この廃屋って、きっと私と連理が、昔によく遊んでたところだよ! ほら、青葉ヶ丘だよ!」

「あそこに……」

 秋華を下唇を噛む。

 自分だけで行くべきか。しかし、もしもそこにいるのが屈強な殺人犯の場合、彼女はきっと成術もないだろう。ただでさえイラストレーターというような不健康な仕事をしているせいで、筋肉も衰えているのだ。

「私だけじゃあ……」

「お願い、お母さん! 連理を助けて!」

 瞳に涙を浮かべる比翼を見て、秋華は胸を締め付けられる。普段、秋華に弱みを見せず、まるで敵対するような比翼ではあったが、ここまで真っ直ぐに自分の願いを彼女は口にしている。

「(そうよね。私は、この子たちの母親だもの)」

 一つだけ深呼吸した秋華は、比翼に携帯電話を返し、彼女の両肩に、自分の手を乗せる。

「わかったわ、比翼。私は先に行くから、あなたは清貴と小鳥遊さんに連絡して」

「うん!」

 秋華は自分の身支度を手早く済ませ、玄関を出て行った。

「ふふ。お母さん。先に逝ってて」

 笑みを顔に張り付け、比翼は自室へと戻る。

 約一時間。そのぐらい時間をかけても問題ないだろう。そう、彼女は予測を立てる。

 自分の携帯電話は、マナーモードに設定してあるし、居間の机に置いていたと言えばいい。それを秋華が確認し、勝手に出て行ったのだと後で説明すれば、それで済む。多少苦しい言い訳かも知れないが、自分の部屋にあったのだという証拠は、絶対に証明できないだろう。

 清貴が打ち合わせに向かった出版社から、あの廃屋までは約二十分の距離。小樽警察署は、大体十分程度。

「まずはお父さんに電話して、それから小鳥遊たち。ふふ、これで邪魔者は全部いなくなる」

 一時間が経過した、四時四十分頃。比翼は清貴に電話をかけた。

 コール音がしばらく続き、すぐに留守番電話へと繋がる。

 仕事中の清貴は、一回目の電話には必ず出ない。そのことを知っている比翼は、再度清貴に電話する。

 くすくすくすくすくすくすくすくす。

 ひとしきり笑うと、彼女は表情を作り直した。

「どうしたんだ、比翼?」

「お父さん! 一時間くらい前にお母さんが急に走って家を出て行って、それで、私の携帯電話を見たら、連理から連絡が来てて、私と連理が昔によく遊んでた廃屋にいるってメールが入ってたの! お母さん、きっとこれを見て……!」

「わかった! お前は家にいろ!」

 ぶつん。

 清貴は乱暴に電話を切ったようだ。

「大丈夫、予想通り」

 次に彼女は警察に電話をかける。

「もしもし、ニ岡 比翼です。弟の連理が、青葉ヶ丘の廃屋にいるって連絡がありまして! すぐにお二人に伝えてください! 失礼します!」

 今度は比翼が電話を乱暴に切った。そして、彼女はゆったりとした足取りで、玄関へと向かう。

「さぁ、始めましょう、連理」


楽園/5


 自分の体から、異臭がしているのを、連理は感じていた。

 一週間、風呂にも入らず、ましてや、この温度と湿度。そうなるのも当然だろうと思いながらも、彼は不機嫌さを隠しきれずにいた。

 手に持っているのは、この場で拾った木材。丁度良い長さだったため、最初の一撃はこれを使おうと、彼は決めていた。

 裏口から来るわけがない。では、ドアを乱暴に打ち破るか。それもないだろう。彼女とて、ある程度警戒してくるに違いない。もしも殺人犯がそこにいたらと彼女は考え、ゆっくりと扉を開けるだろう。

 だからこそ、鍵は壊しておいた。

 彼女が、ゆっくりとドアを開けられるように。真っ直ぐに、最愛の息子へと向かってこられるようにと。

 ドアを開け、少し進めば、息子が居間の奥で倒れている。しかも木材を手に握っているのだ。必死に抵抗し、ここまで逃げてきたと考えられる状況であろう。

 きぃ。

 そんな小さな音がする。研ぎ澄まされた連理の聴覚が、それを聞き逃すわけがない。

 きし。

 何かをゆっくりと踏みつける音。それは何度か間隔を置いて続く。音が、もうすぐそこに迫ると、「連理……?」と蚊が鳴くような小さな声がする。

「連理!」

 ばたばたと、朝の比翼を連想させるような足音。

「連理、大丈夫? 起きなさい!」

 秋華が連理に駆け寄り、今まさに彼を抱きかかえようとした瞬間だった。

「きひっ」

 気味の悪い笑い声のようなものが聞こえると同時に、秋華は頭部に強い衝撃を受けて、倒れた。



 次に秋華が目を覚ますと、自分の体に自由が利かないことに気付く。

 なんとか体を動かそうとしてみると、頭が痛んだ。また、手足を何か、針金のようなもので、何重にもきつく巻かれていた。

 秋華の頭は回らない。いいや、回りまわって、むしろ非常に冴えていると言っても過言ではない。

「嘘……」

 自分は、殺人犯に攻撃を受けたのだ。秋華は冴えた頭で判断する。あの蝋で死体を固める犯人は一人ではなかったのだと、彼女は推理する。

「なんてこと……」

 自分の軽率さに、彼女は嫌気が差した。比翼に頼られてしまい、つい親心を全面に出してしまった。後悔はしていない彼女だが、思慮の浅さに、溜息をつく。

 まだ殺されていないということは、助かる見込みは充分にある。

 秋華は大きく息を吸い込み、比翼が呼ぶ予定である警察を待つことにした。

「やぁ、母さん」

 しかし、そんな彼女の背後から、息子の声が響く。幻聴だと思い無視しようとすると、「この世の別れは終わったかい?」と、確かに息子の声が聞こえた。その声に、体全体を使って必死に振り返る。

 すると、そこには彼女が予想していたよりも、遥かにかけ離れた息子の姿があった。

 髪と顔は脂でべとべとしており、ふけとにきびが何故かよく目立った。目は白目のほとんどが赤く血走り、まるで化け物のようだ。また、多少の距離があるにも関わらず、彼の体臭らしきものが鼻に刺さるように、きつい。

「きひひ」

 彼の手には、大き目のニッパーが握られていた。

「れん、り?」

「あぁ、僕は、連理だよ」

 連理は秋華の前に屈みこむ。

 連理の充血した瞳が、倒れている秋華を纏わり付くように見つめていた。

「良かった、あなたは無事なのね」

「くく……」

 秋華の彼を気遣った言葉に、連理は笑みを浮かべた。

「くくく……ねぇ、母さん。何を喜んでるんだい? これからあなたは、僕に殺されるのに」

「えっ……?」

 彼はニッパーの刃を秋華の薬指に挟む。

「やめっ……!」

 秋華が大声を出そうとした瞬間、連理は刃をすぐに彼女の指から離した。

「なんてね」

 彼のおどけたような表情に、安堵の溜息をつくと、彼女は「早くこれを解いて」と、連理に頼む。だが、連理はその彼女の言葉を無視して、ぼろぼろのマットへと向かった。

「ちょっと、連理」

 がさごそと、彼は鞄の中から何かを探していた。やがて、目的の物を見つけた彼は、それを手に秋華の元へと戻る。

 その手には、少し大きめの金槌が握られていた。

「まずは、喉を潰さないとね」

 狂気を孕んだ充血した瞳に、秋華は死の危険を体全体で感じる。

「ひっ……!」

 秋華が身を翻そうとするよりも早く、連理の金槌が彼女の喉元に強く振り下ろされた。生々しい音と共に、彼女は血を吐き出した。

「ぇっ……」

「ひひっ! ひひひひひひひっひひいひひひひひひっ!」

 喉が潰れ、まるで、そこから着火でもしたのではないのかというほどの、熱い痛みが彼女を襲う。

「ぐぇ……」

「ひひひっ、ぐぇって。まるで蛙みたいだよ、あんた」

 彼はまた金槌を振りかぶり、今度は頬骨を目掛けて振り下ろした。木の幹を叩いたような鈍い音がし、彼女の右の頬骨は陥没した。

「……っ!」

 熱く痛む喉から必死に声を絞り出そうとした彼女の口に、連理はすぐにティッシュで蓋をする。これは、彼が最初から用意していたもので、もしものためにポケットに入れておいたものだ。

 秋華の右目から、赤い涙が流れた。

「あひゃひゃ、綺麗だね、赤い涙って」

 連理はその赤い涙を舌で舐め取る。彼の頭から放たれる悪臭に、秋華は吐き出したそうになったものの、喉が痛むのもあるのか、喉を吐瀉物が通り過ぎる前に飲み込む。

「ど、し、て?」

 痛さと気持ち悪さと疑問を含み、彼女はそれだけの言葉を紡いだ。

「どうして? どうしてって、言ったの?」

 連理が楽しそうに口を三日月に結びながら、秋華に確認を取る。秋華はわずかに首を縦に振った。

「くくく……嘘だろ、わからないの? ははっ? あははっはははっははあはっははっはっはっははははっははははッ!」

 腹を抱えながら、しばらくの間彼は笑い続けた。彼の笑い声に共鳴するように、秋華に痛みが走る。

「ひひひひひいいいいひっひひひひいひひぃひひっ!」

 狂気に犯された連理を、ただ呆然とした瞳で眺める秋華の両の瞳からは、血と涙が溢れている。

「あぁ、面白い。そんなのもわからないんだね」

 連理は、彼女の赤い涙を指で掬い、その指を根元まで咥え込んだ。

「あはは、清貴さんはね、あんたの『モノ』じゃなくて、僕らの『モノ』なのさ」

「……?」

「くひっ。あなたがいたらね、あの人は僕らを一番にしてくれないんだよ」

「あ、い」

 わからない。彼女はそう言おうとしたが、喉の痛みは先程よりも圧倒的に増し、もう声を発することすら困難になっている。また、砕かれた頬骨のせいか、彼女の右目はぼんやりとしか連理を映さない。

「ひひ、随分酷い顔になったじゃないか?」

 そう言って、彼は再び汚いマットへと移動する。今度は、そこで何かを探すのではなく、鞄ごと持ってきて、彼女の目の前に乱暴に置く。

「さて……次は、この生意気な指を切り落とすよ」

 彼は最初に持っていたニッパーを鞄から取り出し、秋華の左手の薬指へと刃を当てた。

 もう言葉で拒絶を表せない彼女は、必死に体でその合図を送るが、それは彼を愉快にさせるだけだった。

「はい、さようなら、誓いの指」

 あっさりと彼が言葉を発すると同時に、メキメキメキ、と彼女の薬指が手から引き離される。あまりにも早い傷みの伝達に、彼女は白目を剥き、今にも気を失いそうだった。

「だめだめ。気を失ったら、つまらないだろう? 大丈夫だよ、気を失わないようにする練習も、ちゃんとしてるからね」

 連理は鞄から剃刀を取り出した。

「気を失ったら、あなたの知らないところが傷つくよ?」

 秋華は必死に剃刀へと視線を移す。

「よし、いい子だ。あぁ、そういえば。前に観た海外ドラマで、瞼を切り落とす殺人鬼がいたな」

 秋華は必死に首を横に振る。

 ただでさえ痛みで気が狂いそうであるのに、この惨事から目を背けることさえ許されないのならば、彼女は早い死を選ぶだろう。

「舌を噛み切られたら、たまったもんじゃないね」

 舌を噛み切らせないために用意した猿轡を、彼は鞄から取り出す。

「これ、買うの恥ずかしかったんだよ」

 そんなことを言いながら、連理は秋華にそれを付ける。

「はい、これで死ぬことはないでしょう?」

 気色悪い満面の笑みを浮かべ、彼は剃刀を彼女の瞼へと向けていく。

 秋華は痛みなど無視して体全体を動かし、必死に彼の殺意から逃れようとするものの、連理は彼女に馬乗りになることでそれを抑える。

「まずは、右目」

 ぼんやりとした視界の中、首が折れるのではないかというほどに頭を動かすが、連理はそれをものともせずに、強引に彼女の頭を押さえ込みながら、秋華の瞼をつまむ。

「ひひひひっひいひひひひひっひひいっ!」

 鋸のように刃を動かすと、徐々に右の瞼が引き離されていく。やがて、刃が瞼の端へと辿り着こうとしたとき、彼は瞼を最後まで切るのではなく、思い切り引きちぎった。

「っ……!」

 切られる痛みよりも強烈な痛みが、彼女を襲う。

 その痛みのせいで、秋華の呼吸は小動物のように早く、心臓は今にも破裂しそうなほどに強く、そして速く脈打つ。

「この方が、痛いだろう?」

 連理は左の瞼でも同じように途中まで切っていき、最後にはまた引きちぎる。

「っ!」

 秋華の体は痙攣し始め、失禁する。意識を失おうにも、視界は暗転せず、しっかりと狂人を目に映している。

「おいおい、大人なんだから、失禁なんてやめてくれよ。これじゃあ僕が殺した一年生と何も変わらないじゃないか」

 呆れている連理であるが、それでも行為を止めるつもりはないのか、また鞄から何かを取り出す。秋華はその道具を見ることができるほど余裕はない。

「くくくっ、はい、次はちょっとずつ突き刺していきます」

 彼が取り出したのは、錐。

「……」

 秋華は、意識は切断する。

 これ以上どのような苦痛を繰り返されようとも、自分に待っている終着点は、『死』のみ。どれだけ抗おうとも、もう逃げられないところまで来てしまっている。

「あぁ、そうだ。良いこと教えてあげるよ」

 連理は、秋華の右太腿へと錐を突き刺す。その痛さで、切断していた意識が再度接続される。

「比翼も、僕と同じ考えだよ。彼女が助けを呼ぶのは、そうだね……一時間後ぐらいじゃあないかな?」

 忘れていた希望を、連理は思い出させ、粉々に砕く。

「次は、あぁ、そうだ。腕を切り落とそうか?」

 鞄から、糸鋸を取り出す。しかし、その刃は備え付けのものではなく、彼が別で購入したものだ。刃は粗く、備え付けのものよりも強度が高いものだった。

「腕を切り落とすとね、最悪失血死しちゃうんだよ。あぁ、でも、切り落としたいなぁ」

 連理はうっとりとした瞳で刃を眺める。

 もうどうにでもしてくれ、と彼女は諦める。

「……つまらないな。諦めないで、最後の最後まで希望を持ってよ。あと三十分は残ってるんだから」

 そう言って、彼は糸鋸を床に置き、針金と一緒にライターを取り出す。そして、針金の先端をライターで炙り、彼女の手の爪の隙間へとねじ込んだ。

「……!」

 また前とは違う激痛が秋華に走り、彼女の体が反る。

「同じ痛みは慣れる可能性があるらしいよ。まぁ、この痛みは、後八回続くから、その内に慣れれば良いね」

 連理は再び針金の先端をライターで炙り、同じようにして違う指の爪の先へとねじ込む。再び彼女の体は反り、それを見た連理は大層楽しく笑った。

「あと、七回。同じリアクションを十回もできたら、お笑い芸人にでもなれるんじゃないかい?」

 もう一度。

 もう一度。

 もう一度……。

 結局、秋華は同じ対応を取り、連理を愉快にさせた。

「あははっははっはははははあははははははははははっ! 凄いね、生まれ変わったら、お笑い芸人にでもなりなよ!」

 連理は腹を抱えて、針金を投げ捨てて鞄からラジオペンチを取り出した。

「次は生爪を剥がしてみようか」

 爪を挟んで剥ごうとするが、上手くいかずに折れたり、白い痣ができたりするだけだった。

 結局、連理は爪を一枚も剥がせずに、ラジオペンチを放った。

「上手くいかないもんだな」

 やれやれ、と首を振り、秋華の頭を殴る。しかし、秋華からは反応が見られず、「ちっ」と彼は舌打ちをする。

 金槌を手に取って、指を一本潰した。秋華は最初だけ僅かに痙攣した。にやりと笑みを浮かべる連理は、一本ずつ指を潰していったが、反応があったのは最初だけで、二回目から秋華は一切の反応を見せなかった。

 連理は床に置いた糸鋸を手にとって、秋華の右腕の肘辺りに刃を当てて、前後に動かしていく。前回のように盛大に血があふれ出すことに期待していた連理であったが、今回はそうではなく、じんわりと血が滲み、ぼたぼたと血が流れるだけだった。

 腕を半分辺り切った後、彼は秋華へと語りかけた。

「清貴さんはね、あなたのことなんか、愛してないよ。あなたがいるせいで、あの人は僕と比翼を愛せないんだ」

「……」

 無言の返事。

「だからね、僕が清貴さんをあなたから解放するんだ」

「……」

 唾を彼女の頭へと吐き、再度糸鋸を手に取り刃を前後へと動かしていく。程なくして彼女の右腕は切り落とされた。その右腕を、連理は彼女の眼前へと投げる。

「何か反応してくれよ。つまらないだろう?」

 連理は彼女の髪を掴み、表情を伺う。

 彼女の表情は、連理が既に見慣れた、『死』の表情へと変貌していた。

「えっ、嘘だろう? もう、死んだの? 信じられない。他のはこれぐらいじゃあ死ななかったのに」

 彼は首元へと指を当てる。脈は感じられない。

「くそっ……まだ十五分もあるじゃないか。くそっ、くそっ!」

 彼は金槌で秋華の頭を何度も何度も叩く。徐々に形が崩れていき、脳漿がはみ出し、最終的にミンチのようにぐちゃぐちゃな肉塊へと変わり果てる。

「くそっ!」

 鞄から今度はサバイバルナイフを取り出して適当にナイフを突き刺して、肉を剥ぎ、それをライターで炙ったり、金槌で潰したり、千切ったりとを繰り返したが、やはり反応が返ってこないのがつまらなくなったのか、その行動は雑になり、ただ金槌で彼女だったものを潰すだけになった。

「まぁ、いいか。くくく……比翼、これで、僕らは、誰に邪魔されずに、清貴さんと暮らせるよ」

 狂人は笑い、ミンチになった人肉を僅かに掴み、くちゃくちゃと音を立てて、ゆっくりと食べ始めた。


楽園/6


 高揚とした気分を抑えながら、比翼は家を出る。

 連理との連絡用の携帯電話を、彼女は既に分解し、データを保存している部位に当たるメモリなどはライターで燃やしたり、砕いたりしている。その携帯電話を、ゴミ捨て場においてあるどこの家のものかわからないゴミ袋に詰める。

「残念ね、これで証拠はなくなる」

 くすくすくすくすくすくすくすくす。

 鼻歌を交えながら、彼女はあの廃屋へと向かう。たった十五分の距離だが、誰に見られているかはわからない。比翼は途中から、表情を作り直し、大きく深呼吸して走り出す。

 青葉ヶ丘の前の坂道は既にパトカーが一台停まっていた。ランプが点灯しているものの、立ち入り禁止のテープなどは張られていない。

「(そろそろ、清貴さんが来るはず)」

 比翼はゆっくりとその坂を上り始める。

「比翼!」

 背中を見て比翼だと確信した清貴が、息を切らしながら彼女に走り寄る。

 背中を向けながら比翼はにんまりと笑みを浮かべたが、清貴に振り返る前にその表情を作り変える。

「お父さん」

「待ってろって言ったろう!」

「だって、連理とお母さんが心配で……」

「お前まで巻き込まれたらどうするんだ!」

「でも……!」

 清貴は比翼の両肩を掴み「戻るんだ」と強い語調で言うものの、比翼は「いや」と彼女もまた強い語調で返す。

 清貴は、彼女の強情さに呆れとも諦めとも取れる溜息をついた。

「絶対に俺から離れるなよ?」

「うん」

 比翼は清貴の上着の裾を掴み、早足であの廃屋へと向かう。数分で目的地に到着すると、小鳥遊と田原が入り口の前で拳銃を構え、突入の準備を整えていた。

「小鳥遊さん、田原さん!」

 清貴が二人に声をかけながら走っていく。

 二人は清貴の声に驚いたのか、ホルスターから拳銃を取り出し、その銃口を清貴に向けた。

「あなたは……」

「ここに連理がいるって連絡がありまして」

「そこの片翼からでしょう?」

 小鳥遊が、清貴の後ろにいる比翼へと鋭い瞳を向ける。その視線に怯えるように比翼は清貴の背中に隠れた。

 小鳥遊は、無精髭が目立ち、少しだけ髪も乱れている。

「ここから先は危険だ」

 田原は拳銃をホルスターに戻そうとはせずに、銃口をゆっくりと彼らから地面へと向ける。それを横目で見ていた小鳥遊もまた、銃口を地面へとゆっくりと向けた。

「どうする、真? このまま突入するか?」

「あぁ、そうしよう。どうせお偉方は、俺たちのところに援軍を寄越すのを渋るだろうからな。待っている間に母親が殺されていては、証言が得られない」

 小鳥遊は嫌そうに言いながら、田原へと小声で話しかける。

「俺は女狐に気を配る。お前は弟の方を頼む」

「あぁ、わかった」

 ぼろぼろのドアをゆっくりと二人は開ける。三メートル強の廊下の先から、ぱちぱちと、何かが焼ける音。

 小鳥遊が田原に先に行くように合図を送る。小鳥遊は頷き、ゆっくりと歩を進める。その背中に、清貴と比翼も続いた。

 きし、と田原が一歩踏み出す度に、廊下が軋む。

 何かが焼けるような臭いに、田原と小鳥遊はハンカチを口に当て、目を細めつつ、ゆっくりと居間へと進んでいく。

「きひひひ」

 気味の悪い笑い声が聞こえる。

「遅いじゃないか」

 居間への襖を開けると、肉の焼ける臭いと煙、そして狂人が両手を広げ彼らを出迎えた。

「ははっ、充分苦しんだ」

 ぱちぱちと音を鳴らしながら燃えているのは、肉塊だ。服飾などから、確実に女性であるだろう。

「母親まで殺したか、屑め」

 田原が銃口を向けながら、ゆっくりと連理に近付くために居間へと入る。連理は田原が近付くと、距離が縮まらないようにと、彼から半歩後ずさる。

 田原の後ろから小鳥遊が入り口へと顔を出す。小鳥遊は背後への警戒も忘れていない。

 小鳥遊がほんの僅かな間だけ、視線を連理の足元へとずらす。

 足元には、赤い糸鋸と、金槌、ニッパー、木材、ラジオペンチ、ライターなど、多くの器具が散乱していた。

「それら全て、凶器か?」

 小鳥遊が連理に向けて声をかける。

 連理は小鳥遊の声に、口を三日月に結ぶ。そして、またゆっくりと後ずさりする。

 田原と小鳥遊、二人が居間へと入り、連理と向き合う。清貴と比翼も居間へと入ろうとしたものの、小鳥遊がそれを制止するために声をかけた。

「清貴さん、あなたは入らないほうがいい」

「何を言ってるんですか。それにこの臭いは……」

 清貴が小鳥遊の言葉を無視して居間へと足を踏み込んだ。そして、ぱちぱちと燃える肉塊に、秋華の服らしきものを垣間見てしまった。

「秋、華?」

「ひひっひいっひひひいひひひひっひひいひひっ! 清貴さん、これで、あなたは、こいつから解放されるんだ!」

 血に塗れた化け物は嗤う。髪は脂ぎって、頬はこけ、瞳は異様に充血し、不気味にぎらぎらと鈍く光っている。

「これで完成だよ。僕と、君との計画は、これで、ひひっ、ひひいひひひひひっ!」

 連理は、計画の完成を比翼に告げた。

 実際計画は完成していない。彼の計画では、比翼が小鳥遊か田原のどちらかの拳銃を奪い、どちらかを殺害。その後、唖然としているであろう片方を連理が殺害するというものになっている。そうして、本当に計画は完成する。

「重要な証言だな。お前には共犯者がいるようだ。そいつの名前は?」

 じり、と田原がすり足で連理との距離を僅かに詰めた。答えなどどうにわかっているものの、田原はわざとらしく連理へと聞く。

 小鳥遊は距離を詰めず、いつでも比翼を捕まえられるようにと身構えている。

「ひひっ、君と僕との計画、だ」

 連理は清貴の影に隠れている比翼へと視線を向ける。比翼は笑みを浮かべていた。

 彼女の合図と気付いた連理は、半歩田原へと近付いた。

「そう、計画だよ」

 連理と田原の距離は、三メートルもない。比翼が後ろから、連理が前から襲い掛かれば、どちらか片方が、田原の拳銃を奪える。

 あくまでも、そう予想している。そしてそれは、本当の意味で、予想でしかなかった。

「これで、本当にねぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!」

 連理が田原に飛び掛るが、比翼は一切動かない。

 耳障りな発砲音。それと同時に、連理は地へと無様に伏せる。

「な、えっ? なん、で」

 弾丸は、連理の右膝へと。

「二岡 連理。殺人の現行犯及び学生の誘拐容疑で逮捕する」

 田原の拳銃ではなく、小鳥遊の拳銃から硝煙が上がっている。そして、彼の鋭い眼光が、弾丸と同じく彼を射抜いていた。

 田原が警戒を緩めずに、半歩ずつ連理へと近付く。

「何を、してるんだ、比翼。僕たちは、双子なん、だから……考えていることは、同じ、だろう?」

 連理は比翼を見た。

 そこで、彼は見てはいけないものを見てしまった。最愛の父の影に隠れて笑う、本物の狂人の笑顔。

 連理は、その笑みを見た途端に、嘔吐する。

 ここ数日、まともなものなど、口にしていないはずなのに。

 それでも、彼の肉体からだが、精神こころが、連理という人間を形作る全てが、比翼という存在に、最上の嫌悪と醜悪を抱かせる。

 連理の瞳に、涙が浮かぶ。

 彼は、ようやっと気付いたのだ。比翼は、元より最愛の父を彼に分け与えようなどとは、していなかった。

 そんな、まさか。罪を共に犯し、そして父を互いに愛したのに、彼女は、自分を裏切るのだ。

 連理の頭は、ぐるぐると回っていく。信じられない。いいや、信じたくない、と言ったほうが正しいだろう。今までは、何も言わずとも共有していた想い。そして、それはちゃんと結果になって結びついていた。

「嘘だろう? なぁ、僕らはさぁ、双子なんだ。ね、神様がね、認めた、最高の双子だろう? 僕らは一緒の存在なんだ。そうだろ、比翼……比翼!」

 彼女の口元が醜く歪み、ゆっくり、口を動かした。

「あ……?」

 比翼は不機嫌そうに彼を睨み、もう一度口を動かした。ゆっくりと、小鳥遊や田原、そして父に気付かれないように。

「ばぁ、か?」

 彼女は微笑む。

「おま、お前ええぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!」

 なんと情けないことだろう。彼の心中は、後悔と憎悪で溢れ返っている。

 最初から一人でやっていれば、いいや、そんなこと不可能だろう。最初の殺人は彼女が犯したのだ。そして、彼はその殺人を知り、計画のために手を貸した。

「ははっ、そうかよ、そういうことかよ」

 おそらく、比翼は連理が通報しないということをわかっていたのだろう。父を手に入れるために、母を殺す実験だと、最初から誑かすつもりだったのだ。そして、連理は比翼の計画通りに、協力した。

 交互に殺人を犯したのは、警察を霍乱させるためではない。連帯感というものを、連理に植え付け、途中から逃げ出させないようにするため。

 殺害現場に、彼女の髪の毛があろうと関係ない。何のために、必要以上に連理に引っ付いているのか。彼女の髪の毛の一本や二本、出てきても、なにも証拠に成り得ない。

 物心ついた頃から始まっていた比翼の計画に、見事に連理は嵌められたのだ。

「ははっ、結局君も終わりさ。神様がね、僕を助けてくれるんだ」

 田原が今まさに彼に手錠をかけようとしている瞬間、彼は後ろ腰に隠してある、ガスガンを手に取り、比翼へと銃口を向ける。

 しかし、それがどうなるだろうか。所詮はおもちゃの類。しかも、このような状況で銃らしきものを出せば、どうなるかなど、普段の彼ならば簡単にわかるだろうに。

「終わりだよ、お前もぉぉぉぉぉぉっ!」

 引き金を引く寸前、もう一度発砲音が響く。再び小鳥遊の拳銃から硝煙が上がり、連理の右指のほとんどが吹き飛ぶ。

 そんな連理を見た比翼は、嬉しそうに狡猾な色を孕んだ瞳で彼を見つめた。

「うあ……うぁぁぁぁあああぁぁぁあぁぁぁぁぁぁぁぁあぁっ!」

 あまりの痛みに、叫ぶ連理を容赦なく押さえ込み、田原は手錠をかける。

「こいつ銃まで持ってやがったのか」

 連理を押さえ込みながら、田原は電話をかける。

「犯人確保。いいや、双子の弟のほうだ。錯乱状態だ、今どこに居るんだ? はぁ? 遅いんだよ、最初から呼べって言ってたろうが!」

「あひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃっ! 比翼、ひひっ、僕らは双子だろう? ひひひっ、お前も、お前もだ! あはっはははははっははははっはっはっははっ!」

 清貴は比翼を強く抱きしめる。

「大丈夫だ、比翼。お前は、俺が守る」

「お父さん……」

 小鳥遊が舌打ちして、拳銃をホルスターにしまう。

「発言が著しく乱れているな。おい、お前の名前はなんだ」

 小鳥遊が連理へと歩み寄り、彼を見下しながらそう聞いた。

「ひ、ひひっ!」

「名前はなんだ?」

「ひよ、比翼さ! そう、比翼! はははっははっはははっはははっはははっ!」

「お前の、名前だ!」

 小鳥遊は連理の髪を掴んで、ぐいと彼の頭を持ち上げる。

「お前の名前はなんだ!」

「ひひひっ、比翼、比翼で、ひひっ。そうさ、比翼が!」

「心神耗弱を演じているつもりか? たかだか一週間で、善悪の判断がつかなくなるとでも思っているのか!」

「心神耗弱? ひゃひゃひゃ! なんで、ぼく、わたしが? ぼ、は、まともだよっ! あははっはははははっはははっ!」

 連理の頭から手を離し、小鳥遊は立ち上がって比翼を見た。

 小鳥遊と田原が見るからには演技だとわかるが、父親にとっては、そうとは思えないだろう。

「女狐。心神耗弱ってのはな、そう簡単になるもんじゃないんだ」

 小鳥遊がつかつかと、清貴と比翼に近寄るが、清貴は比翼を守るように、より強く抱きしめる。

「比翼は、関係ありません」

 震える声で、清貴は小鳥遊に告げる。

「……あんたら二人には、しばらくの間重要参考人になってもらう。絶対に尻尾を掴んでやるからな」

 そんな小鳥遊の発言に、清貴の胸の中で、比翼は舌を出した。

「絶対だ、比翼」

 小鳥遊が、最後に強く言い放つと、比翼は清貴の胸から少しだけ顔を出して、また口だけを動かした。


 や・れ・る・も・の・な・ら。


「行くぞ、義信!」

「あぁ……」

 本物の殺人鬼を一人残し、彼らはこの茶番の舞台をあとにした。



 全部、ぜーんぶ、思い通り。

 連理は弱い子だもの。最後の最後で裏切れば、乱れてしまうのも予想済み。

 心神耗弱は、覚せい剤とか麻薬とか、そういったものを摂取していれば、なる可能性があるのでしょう? 知らないわけないじゃない。馬鹿な人たち。

 別に、中毒になっていなくてもいいの。彼が持っていった水の中に、ちょっとだけ混ぜておけば、それでいいの。

 連理が落ち着いたら、きっと私に感謝するでしょうね。あなたには、何も考えなくても済む場所への切符を、あげたのだから。

 そもそも、学校というものは、無意識の世界。自分に害がなければ、誰がどうなろうとも知らんぷり。それがあそこの常識。誰も私のことなんか証言しない。重要なのは、連理が殺人を犯し、捕まったという事実。それだけで、彼の悪い噂は広がる。そうすれば、逆に自分は、注目されない。そういえば、確か前に、そんな曖昧な言葉が、どんどん連理を追い詰めていって、そして私を逃がしてくれる。


 くすくすくすくすくすくすくすくす。


 あぁ、楽しい。

 私は無罪。

 ぜーんぶ、連理が背負ってくれる。

 なんて可愛い、私の弟。

 私だけの、人柱。

 全部終われば、清貴さんは、きっと誰も知らない場所へと私を連れて行ってくれる。

 ふふ、これで、全部、終わり。






楽園/唄


 どこともわからない、片田舎。

 彼は、一人ディスプレイに向かいながら、キーボードを軽快に叩いて行く。

 彼の周りには誰もいなくなった。

 親友も、妻も、息子も、何もかも。

 傍らには、最愛の女性がいるだけ。

 あれから、どれほどの時間、こうしてディスプレイに向かっていただろうか。

 彼は、最後の一文を書く前に、満足そうに深く息を吸い込み、彼女をちらと見る。

 彼女は、優しく微笑んで、キッチンへと向かう。きっと、温かいミルクティーを淹れてくれるのだろう。

 木漏れ日が、ガラス細工のようにきらきらと光り、とても綺麗だった。

 彼は今まで作り上げていた世界を読み直していく。

 自分が体験した、最高の、不幸の物語。

 長い時間をかけ、ようやっと知り得た、全ての真実を内包した人殺しの物語。

 これが世に出るだろうか。世に出せるだろうか。

 しかし、彼にはどちらでもいい。自分も、きっと近々殺されるだろう。醜く、老いていく姿を、彼女が許すわけがない。

 キッチンからは、彼女の鼻歌が聞こえる。

 それを聴きながら、彼は最後の一文を追加する。


 彼女は、唄を歌う。

 それは、アップテンポだけれど、どこかローテンポな、物悲しい。

 そんな、唄。

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人殺しの唄 南多 鏡 @teen

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