四章 疑惑《ぎわく》


疑惑/1


 秋華が目を覚ます。何故かはわからないが、やけに体がだるかった。時計を見ると、八時を回っていた。彼女は、ゆっくりと居間へと向かう。ベランダの窓が開けられている。どうやら、誰かが換気のために開けているのだろうと、秋華は思った。

 シンクの中には、食器がある。比翼と連理が、適当に何かを食べていった証拠だ。秋華は、清貴の仕事部屋へと足を向けた。

 ドアの隙間から、僅かだが、光が漏れている。秋華は、二回ドアをノックして、ドアを開いた。

 清貴がベッドの上で、静かに眠っていた。顔には無精ひげが生えていて、顔も少し脂っぽい。秋華はキスをしようとも思ったが、やめておいた。

 ふと、机の上に、白い一冊の本が置かれているのに気が付いた。秋華はそれを手に取り、捲ってみる。

 六月十五日。今日は雅詠が来た。まさか、アポ無しで来るとは思わなかった。大きな仕事は一つ終わった。理不尽な話は、まぁまぁの出来だ。

 今日は夢を見た。よくわからない夢だ。俺は海にいて、何故かゆっくりと沖へと歩き出す夢だった。自殺願望でもあるのかもと思ったが、そうではないらしい。何故かそれだけは、よくわかった。

 中途半端に終わっていた。どうやら、眠る前に少しだけ書いたらしい。しかし、日記を出しっぱなしにして寝るとは、昨日は相当飲んだようだ。

 秋華は、何となくだが、六月十二日の日記を見てみることにした。

 六月十二日。今日は新しい死体が、見つかった。全身に蝋を塗られているということを、鑑識らしき人物が言っていた。しかし、下手だ。今、ここはマスコミなどに囲まれている。もしかしたら、死体を捨てるときに、気付かれてしまうかもしれないということを、犯人は考慮しなかったのだろうか。頭が悪いな。

 秋華は日記を閉じる。

 清貴は、精神的に多少おかしなところがある。歪んでいる、とでも言おうか。

 彼の母親が亡くなったとき、彼は一筋の涙すらも流さなかった。それどころか、彼は葬儀が終わった翌日には、笑っていつも通りの生活を行っていた。

 それだけではない。彼の父親が亡くなったときも、同じだった。悲しそうな顔はするものの、涙は流さず、葬儀が終わればまたいつも通りに生活する。

 彼にとって、死とはその程度のものなのだ。常に死と向き合う小説を書き続けた彼にとって、両親の死などは、慣れ親しんだものなのだろう。

 清貴は、想像と現実を交差させ、今を見ている。最も身近な両親の死すらも、きっとそうだろう。まるで、小説やドラマを見るような形で、彼は死を見ているのだ。

 実際に清貴の考えなど、秋華にはわからない。しかし、彼と長く付き添い、語り、触れ合った彼女だからこそ、この考えが間違いだとは思っていない。

 秋華は、清貴の顔を見る。鼻は高く、大きめだ。肌荒れがちらほらと見える。清貴は、昔から荒れやすい肌や大きめの鼻がコンプレックスだった。だが、秋華から見れば、特徴的な顔立ちで、格好良いほうだと思う。

 彼女は、哀れむように彼を見つめ、優しく頭を撫でた。

「さてと……部屋の掃除でもしようかな」

 秋華は独り言を漏らし、ちらっと清貴を見た。

 しかし、清貴は反応せずに、寝息を立てている。そんな彼に溜息をつき、彼女は居間へと向かった。


疑惑/2


 学校に向かう途中、相変わらずに小鳥遊が尾行をしていた。比翼と連理は、気にはなるものの、なるべく平静を装っていた。

「本当にしつこいな……」

 連理の眉間に皺が寄る。それを見て、比翼は少しだけ口元を緩ませた。

「私は少しだけ、面白いけどね」

「何がだよ?」

「だって、あの人たちは、結局気付けてないでしょう?」

「それが?」

 連理は、比翼の言いたいことが理解できずに、更に眉間に皺を寄せる。

「私達は、同じ存在だって言うのに」

「DNA上は別人だよ」

「一卵性双生児でしょ、私達」

「異性一卵性双生児だよ」

「いちいち、五月蝿いな」

 比翼は口を尖らせる。

「比翼はさ、なんでそこまで楽観的なんだい?」

「連理はさ、なんでそこまで悲観的なんだい?」

「誰が悲観的だよ。僕は今、現状を俯瞰から見て……」

「小難しい言葉使わないでよ。今日は……火曜日か」

「美術部?」

「私はね」

 比翼はカンバスを持ってきていた。あれから相当時間が経っているので、おそらく完成間近だろう。

「連理は?」

「僕も今日は美術部だよ」

 連理は大きくあくびをして、比翼をちらりと見る。彼女は、何が楽しいのか、口が卑しく緩んでいる。

 その笑みが、連理にはとても不気味に思えた。

「何?」

 比翼の表情はいつもの通りに戻る。

 まるでピエロのようだ。自分も、彼女も。

「なんでもないよ」

「連理。今日、やるよ」

「わかったよ」

 連理は首を縦に振り、わざとらしくならないように、後ろを振り向き、小鳥遊の姿を確認した。


疑惑/3


「今日の放課後に話があるから、一階の用具置き場の前に来てくれないか。それと、このことは、誰にも言わないでくれ」

 連理は、名前も知らない女子へと声をかけ、そのまま去っていった。

 放課後まで、残すところ授業はあと一つだ。

 連理は、今までのことを振り返る。

 一人目の殺し方は、正直わからない。比翼に呼ばれ用具室に向かったところ、男子生徒が一人死んでいた。比翼はそれを、まるで道端の蟻のように眺めていた。僕も彼女と一緒に彼を覗いてみた。何故かはわからない。ただただ、不思議な気持ちになるだけだった。

 まるで、死にいく虫を眺めるように。実際に死にいく虫と見比べたが、本質的(と言えばいいのかよくわからないが)に、それはよく似ているようなものだった。

 彼らは、自然とそれに、惹かれていた。

 心臓の鼓動が徐々に早くなる。楽しいとは思えない。でも、何故か、とても待ち遠しい。

 連理は少し落ち着こうと、携帯電話を見てみる。メールが一通届いていた。

 授業中ではあったが、それを開く。付き合っている彼女からだ。内容は、朝と同じ求愛のメール。

 連理は、微笑む。

 これが終わったら、彼女を抱いてやるのもいいかもしれない。たまには、積極的に、彼女を犯そうか。

 彼女には、今日は無理だが明日なら遊べる、と返信をする。そして、君とずっと一緒にいたいと、社交辞令を書き連ねた。


 授業が終わると同時に、連理はそそくさと片づけを始めた。

 呼び寄せた女子が待っているだろう。

 早く。だが、焦らずに。

 確実に。だが、適当に。

 連理は一階に向かうと、意外と言うべきか、連理よりも早くに、彼女は到着していた。

「やぁ。待たせちゃったみたいだね」

「いいえ、早めにホームルームが終わったので……」

 連理は、彼女の学年章を見た。まだ入学したての一年生。彼女に、多少だが、同情する。

 自分などに目を付けられた。哀れな……実験動物モルモット。「あの……お話って……」

 彼女の頬は薄桃色に染まり、瞳は希望に満ちて輝いている。期待に応えて、彼女の瞳に最後の希望を映してあげようか。それとも、その淡い希望すら砕き、絶望を映してみようか。

 鳥肌が立ってくる。

「君は、付き合っている人は、いる?」

「い、ません」

「そう。だったら、僕に……」

「はい!」

 こちらが、最後まで言う前に、彼女は応える。

「最後まで、言わせてくれないか?」

 苦笑を混ぜながら、彼女に述べる。彼女は申し訳なさそうに俯き、首を縦に振る。

「僕に、君を殺させてくれないか?」

「えっ」

 右腕で彼女の喉元を掴み、そのまま彼女を頭から押し倒す。

 鈍い音と共に、彼女の顔が苦悶のため歪んだ。

「君はいい子だ」

 ずるずると用具室へと運び込む。鍵はすでに比翼が開けていた。打ち合わせをしたつもりもないが、彼女なら、そうするだろうと連理は踏んでいた。ましてや、今日の朝にやると言っているのだ。そこまで気が利かないわけ無いだろうとも、連理は思っていた。

 案の定鍵は開いていて、連理は重い扉をゆっくりと開く。

 用具室の中は、埃臭さと、腐臭がする。

 彼女を中へとひきずり、扉を閉める。

 暗闇の中、目が慣れる。清貴の遺伝なのか、夜目には自信がある。

「起きて……」

 彼女の頬を何度か叩く。

 どうやら彼女は、あまりの予想外の事態に、意識を手放してしまったようだ。

 ゆっくりと、彼女の瞼が開く。

「あ……」

「君が好きなものはなんだい?」

「い、いや……」

「そうか、『嫌』が好きなんだね。わかった。たぶん、君は処女だろう?」

 連理は舌を彼女の首元に這わせた。

 性器が敏感に反応し、徐々に勃起する。

「たす、けて」

「ははっ。面白い話をしてあげよう。有と無の話だ」

 連理は、懐に忍ばせていたカッターを取り出す。そして、慎重に彼女の服を裂いていく。

「有と無だ。わかるかい?」

 彼女は首を横に振る。

「おや、わからないのか。残念だよ。まぁ、冥土でじっくり考えるんだね」

 彼女の制服を裂き、下着も慎重に裂いていく。

 生まれたままの姿になった彼女は、実に美しい。

「有の中に存在する無と、無の中に存在する有。これら二つは、全くもって、別の意味なんだ。例えるなら、卵が先か鶏が先か、の話に似ているね。有があるから、無というものがあるのか。無があるから、有があるのか。まぁ、そんな話だ」

「い……!」

 彼女が叫ぼうとした刹那、連理は彼女の口を、さっき裂いた服で塞ぐ。

「僕はね、どちらでもないと思うんだ。無というものは、定義してはいけないものなんだよ。無意識下に存在する……いいや、この言い方も悪いかな。つまりは、僕たちが、意識していないもの、それは決して、意図しての無意識ではない。本当に、そうだな……この世界で会ったことの無い人こそ、それは無だと僕は考えている。そう考えると、僕らの世界は本当に小さいものだよ」

 連理は、一通り話し終えると、ゆっくりと息を吐き出した。彼女の血走った瞳が、彼を見つめていた。連理は、背筋が何かに這いずられるような錯覚を感じる。

 それは嫌なものではない。心地よい感覚だ。

「僕が思いつく限りは、ほとんどやっているから、今回は、そうだな……いかれた殺し方をしようと思う」

 彼は、靴をビニール袋に包み、近くにあった鋸を手に取った。

「痛いけど、我慢してね」

 とても優しい笑みを浮かべ、彼は、鋸を彼女の右腕へとそっと添える。そして彼女の首に足を乗せた。

 彼女は必死に抵抗するが、連理は両手に適度な力を込め、鋸を手前に引く。

 彼女の叫びにならない声と共に、じんわりと、そして、盛大に血しぶきが舞う。

「……!」

 彼女の瞳が大きく見開かれる。連理は何度もその動作を繰り返す。

 やがて、ことりと、彼女の右腕が落ちる。

「……!」

 尿の臭い。失禁したのか。

「はっ……はははっ」

 涙が流れている。

「痛いのかい? ごめんよ。でも、もっと、見ていたい。君は、最高だ」

 希望を持って、僕と出会い、絶望を知って、別れる。

「あぁ、そうだ。見たいものが、あったんだ」

 連理は鋸を置き、多少錆びているナイフを手に取った。

「子宮や卵巣を、見てみたいんだ」

 彼女の下腹部へと、ナイフを突き刺す。切れ味の悪いナイフでは、綺麗に裂く事はできないが、それでも充分だった。

「確か、この辺りだったはずだ」

 体内へと連理は腕を入れ、弄る。生温かくて、ねちゃねちゃとしている体内は、彼が思っていたよりも気持ちが良かった。

「あぁ、これか」

 彼女はぴくぴくと痙攣している。

「あれ……もう死ぬのかい?」

 連理はつまらなそうに、彼女を見下す。

 やがて、彼女は動くことを止め、そのまま死へと沈んでいった。

「さて、これを、どうしようかな」

 血塗れになった制服。ズボンは黒いので色は目立たないが、ワイシャツだけはどうしようもない。一応上に制服を羽織ればいいのだが、もし誰かに見られでもしたら、どんなに言い繕っても、彼は殺人犯だ。一応用具置き場に水道はあるのだが、あまり長い間ここにいるわけにはいかず、顔や手を洗うくらいが限界だった。

「とにかく、外に出て、なんとかするか」

 連理には、焦りというものも、不安というものも、何も無かった。ただ、何かしらの、絶対的な自信がある。

 大丈夫だろう。

 彼は、用具室から出て、鍵を閉めた。そして、階段を上がったときだった。

 目の前から、冷たい何かを、かけられた。

「うわっ、ごめん連理」

 比翼は、絵の具で混沌とした色の水を、連理にかける。

 連理は、少し微笑む。これで、白いシャツを捨てるには、十分な理由ができた。

「比翼……本当に、まったく」

 連理は、血塗れになったシャツと絵の具の水で、べちゃべちゃになったシャツを、乱暴に脱ぐ。

「確か、明日の体育用に持ってきた体操服があったかな」

 溜息をつきながら、彼は三階の自分の教室へと向かう。

「ごめん、本当にごめん!」

 比翼が連理の後をついて来ながら、何度も頭を下げる。

「今日は部活に出ないで帰るよ。父さんに迎えに来てもらう」

「あぁ、うん、わかった」

 比翼が、本当に申し訳なさそうな顔をしている。

 連理は、それが楽しくて仕方なかった。彼女は、おそらく計算して行ったのだろう。まさに、道化。ピエロ。

「じゃあね、連理」

「比翼、これ捨てておいて。それと、そろそろ、良いんじゃないか?」

「まだ。まだまだ、足りないの」

 比翼はシャツを受け取る。

「尻に火が点いてからじゃあ、遅いんじゃないか?」

「いいの。それくらいじゃあないと、色々と、やれないの」

「そう、か」

「本当にごめんね、連理」

「いいよ。予想できていたことだ」

 彼は教室に向かって、ロッカーにある体操服を着て、制服の上着を羽織る。

 階段を下り、清貴の車を待つ間、連理は周囲を見渡す。

 小鳥遊の姿が、見当たらなかった。だが、見慣れない男が一人、バス停の前に立っていた。その男と視線が合ったが、連理は無視した。

 連理は地べたへと座り、携帯電話を取り出し、ワンセグメント放送を見るふりをする。イヤホンを両耳に挿し、外界との接触を拒絶するような素振りを見せる。

 携帯電話に映し出される番組には興味など示さず、バス停の男にのみ、意識を集中した。

 やがてバスが来た。男はそれに乗り込んだ。その様子を横目で見ていた連理だったが、どうやら男は、自分とは本当に何も関係のない男だったらしい。バスに乗り込み、知人らしき者と笑顔を浮かべながら会話をしていた。

 連理は、深く息を吸い、ゆっくりと吐いた。

 心臓が、破れそうだった。自分を落ち着かせるために、彼は頭の中で、今の現状を分析する。

 もしも、あれが小鳥遊と同じ警察署の人間で、自分を見張るような者だったら、間違いなく声をかけてきただろう。登校のときはワイシャツを着ていたにも関わらず、体育があったわけではないのに、下校のときには体操着になっているのだ。何かあったと邪推するに違いない。

 体面上の理由はある。比翼に絵の具で汚れた水をかけられたのだ、と言えばいいだけだ。だが、ズボンのシミは、どう言い訳するか。一般人から見れば、それが血だとは思わないだろうが、彼らは違うだろう。

 何せ、高校生である自分達を、わざわざ尾行しているのだから。おそらく、最近行方知れずになっている学生のことに関して、関連付けて考えているに違いない。だが、あちらから何も仕掛けてこないということは、あちらは何も証拠を握っていないことは間違いない。

 連理は、自身の中で、今の状況をできるだけ簡潔にまとめ、そして、今自分が持っている情報を追加していく。

「やぁ、比翼連理の片割れ」

 背後から、声をかけられる。このような呼び方をするのは、今彼が思い当たる人物の中で、一人しかいなかった。

「何か御用ですか?」

「まぁね」

 小鳥遊が、微笑みを顔に貼り付けて言う。

 連理の心臓は、今までにないほどペースを上げ、鳴動をする。

「あぁ、一応見せておかないとね」

 小鳥遊は、警察手帳を取り出し、連理に見せる。

 これを見せるということは、自分がした質問に答えろ、と圧力をかけられているのと変わらない。

「どうして体操服なんて着ているのかな?」

 やはり小鳥遊は気付いたか、と連理は眉間に皺を寄せた。

「階段を上っている最中に、比翼に色水をかけらたんですよ。絵の具で混沌とした色水を、ね」

 思い出しただけで腹が立つ、とは言葉にしなかったが、おそらく小鳥遊には伝わっただろう。

「へぇ。じゃあワイシャツはどうしたんだい?」

「比翼に渡して、捨てるように言っておきました」

「ははっ。それは災難だったね」

 嫌な笑い声だった。連理は小鳥遊を睨み付ける。

「全くですよ」

 清貴の運転する車が停まる。小鳥遊と一緒にいるところを見た清貴は、顔を強張らせる。

「連理に何かあったのですか?」

「いえ、少々気になったもので。朝見かけたときはワイシャツだったのに、体操服になっているものでしたから」

 清貴は、連理を見た。

「連理。先に車に乗ってろ」

「わかったよ」

 連理が車に乗ったのを清貴は見ると、小鳥遊を真っ直ぐに見つめる。

「なにか?」

「朝見かけた、ということは、あの子をずっと見張っていたのですか? それに、確かに体操服は着ているが、上着からは本当に注意してみない限りは気付かないじゃないですか」

「はははっ、まさか。本当に朝にちらりと見た程度ですよ。ほら、仕事上記憶力は良いですしね」

「俺が言いたいのは、私服の警官が、たかだか学生一人の僅かな変化にも目を配らないといけないことが起きているかどうかです」

 小鳥遊の目つきが、鋭いものへと変わる。

「起きていますよ」

 小鳥遊は、悪気などないように言った。

「何故最初からそう言わないんですか?」

「親御さんに、余計な心配をさせるわけにはいかないでしょう?」

 もっともらしい理由を言う小鳥遊だが、清貴には少々納得がいかない答えだった。

「あなたは、きっと優秀な人だ。そして、無駄なことはしない人だとも思う。だから、正直に言ってほしい」

 小鳥遊は清貴の瞳を真っ直ぐに見据えた。

 その瞳は、まるで一閃の光のように小鳥遊を刺す。

「(不思議な人だ)」

 小鳥遊は、声に出しそうになったのに気付き、咳払いをして誤魔化す。

 出会って、大して時間も経っていない。しかも、自分の息子が疑われていると思っているにも関わらず、彼は一切こちらに敵意を向けない。小鳥遊は、今までで、このような人間に出会ったのは、本当に少なかった。

 彼は、仕事の都合で、色々な人物から事情聴取を行うが、たまにこのような人間がいる。

 自分の不利益などどうでもいい。ただただ真実を、貪欲に求める瞳。それは今の世の中に蔓延した、『正義』という腐りきったものではない。純粋すぎる、好奇心。子供のみに許された、この好奇心を、大人になったまま持ち得る人物が、今小鳥遊の目の前にいた。

「……比翼連理は、誘拐事件に関わるかもしれない」

 なるだけ平静を装って、小鳥遊は言った。

「は?」

 清貴が間抜けた声を出す。

 小鳥遊は、さすがに全ての真実を述べることはできなかった。だが、こういった人間は、嘘を吐いたとしても、それを信じる愚直さがある。今は、それを利用しようと、彼は決めた。

「最近、学生を狙った誘拐事件が多発しています。しかも、それはここの学生ばかりだ。だから、我々警察は、この付近を念入りに見回っているんです。そして、あなたは、最近更に名前が売れた。あなたが有名になると、自然と家族も有名になる。だからこそ、一応面識のある私が、二人を見張っているんですよ」

 真実は半分程度であろう。しかし、彼を信じ込ませるのには、それで充分だった。

 その言葉を聞いた清貴は、目を伏せ、小鳥遊に「疑ってすみませんでした」と、頭を下げた。

「あなたは、謝るようなことはしていませんよ」

「そうですね。この場合は、ありがとうございます、ですね」

 清貴は、年齢不相応の笑みを浮かべ、車へと戻る。

 そして、車を発進させる直前、小鳥遊に軽く頭を下げ、そのまま帰路を辿っていった。

 小鳥遊は、砂を噛み締めたようななんとも言えぬ感触の心持で、携帯電話を手に取る。

「義信。あの小説家の身辺をより丁寧に調べてくれ。いいか、一切妥協しないで、完璧に調べ上げろ」

「はぁ? 何言ってんだ、お前」

「いいから、頼む」

「……わかった」

 小鳥遊は、電話を切った。そして、学校へと足を進める。


疑惑/4


 比翼は、絵画の続きを描いていた。

 大分完成に近づいてはいるものの、比翼は、いまいち満足しているようには見えなかった。

 比翼は、漆黒の聖母を睨み付ける。

 何度見ても、何かが足りない。そして、それと同じくらいに、この絵画が稚拙なものに感じた。

 思春期を迎えた子供が好きそうな、稚拙な絵。

 このようなものを描いて、喜ぶのは数が少ないに決まっている。

「絶望……」

 比翼がぼそりと小さくこぼす。

「ほぅ。これは絶望をモチーフにしているのかい?」

 小鳥遊がいつの間にか比翼の背後に立っていた。それに一切比翼は驚かず、呆れるように息を吐き、「何か御用ですか?」と、彼女は小鳥遊に尋ねた。

 小鳥遊は、背広の内ポケットに手を入れる。

「煙草なら、ここでは駄目です。警察手帳は見せなくても結構ですよ」

「そうかい。じゃあ本題に入るよ。今日連理が君に渡したワイシャツを、私にくれないか?」

「かまいませんよ」

 比翼は、自分の鞄から、ビニール袋を取り出し、それを渡す。

「捨てるように、言われたんじゃないのかい?」

「これくらいだったら、洗えば綺麗になりますよ」

 確かに、ビニール袋に入ったワイシャツは、捨てるほどに汚れているわけではなかった。

「何故、彼は捨てるように言ったのかな?」

「言葉の文、ってやつじゃないですか?」

「まぁ、そうかもしれないね。これは預かることにするよ」

「どうぞご勝手に」

 比翼は、朗らかに小鳥遊に笑いかけた。

「……尻尾は、ちゃんとしまっておけよ、比翼」

「ははっ! おかしなことを言う人だね」

 いつもとは違う比翼の口調に、小鳥遊は片眉を上げた。

「ふん……」

 小鳥遊は悪態をつき、美術室を後にする。

「何も出るわけ無いのに。馬鹿な人」

 まるで蚊の羽音のように、比翼は小さく言った。


 教室を出た小鳥遊は、奥歯を力の限り噛み締める。

 比翼の、あの笑い顔。まるで、仮面のようだ。しかも、人を馬鹿にして嘲笑う、最悪の顔。

 小鳥遊は車に乗り込むと、白い手袋を嵌め、ビニール袋から、乱暴にワイシャツを取り出した。

 絵の具特有の匂いが、車内に広がった。

 何処からどう見ても、ただの汚れたワイシャツ。

「そもそも、自分達が危なくなるようなものを、わざわざ渡すとは思えないが……」

 小鳥遊は考えを巡らせる。

 捨てておいて、と彼女は言われたのだ。彼女なら、それを残しておくだろうか?

 単なる憶測ではあるが、何故か正しいように感じた。まるで、自分が来ることを予期し、怪しいことなど何もありませんと証明しているようだ。

「気に入らないな」

 年端もいかない少年少女に弄ばれているようだ。

 小鳥遊は、比翼の笑みをもう一度思い浮かべた。

「女狐め……」

 小鳥遊は車を発進させる。


疑惑/5


 清貴の頭の中には、嫌な考えしか浮かばなかった。

 大切な息子と娘が、事件に関わるかもしれない。

 小鳥遊は、確かにそう言った。『かもしれない』という、イフの話だが、彼が言っていた理由を聞くと、どうしても不安は消えなかった。

「父さん」

「なんだ?」

「怒ってる?」

「いいや、違う。すまないな、そう思わせてしまったか」

 清貴は、車を運転しながら、溜息をつく。

 息子にまで気を遣わせてしまっている。これでは、父親としては駄目だ。

「僕は、あの人、嫌いだ」

「ははっ。あの人は、至極気持ちの良い人だよ。他人が言ってくれない、自分にとっては耳が痛くなるようなことを、はっきりと言ってくれるタイプだ」

「……ふーん」

 連理は、清貴が小鳥遊の味方になるのが気に入らないのか、適当に答える。そして、助手席の窓から、見飽きているであろう景色を見始めた。

「もしも、僕が……僕があの事件の犯人だったら、父さんはどうしてた?」

 赤信号で車が停まると同時に、連理は清貴に話題を振る。

 今の清貴にとって、その話題は、好ましくないものだった。

「……九割は、お前を警察に突き出す。一割は、お前を匿うかもしれない」

「そっか」

「俺はお前達に、善悪のことについては、しっかりと教えたつもりだ。それなのに、お前が人の命を奪うような奴になってしまったのなら、俺は、お前を一発ぶん殴って、警察に突き出す。その義務が、俺にはあると思っているし、それが普通の親だとも思っている」

 連理は、清貴ならそうだろうと、予想していた。

 今、自分と比翼がしていることを、清貴に話したなら、清貴はすぐに警察に向かうだろう。

 でも、そんな清貴だからこそ、連理も比翼も、彼を愛していた。

「ごめん、変な話をして」

「いいんだ。そういえば、今日は雅詠が何か作ってくれるみたいだぞ」

「本当に? 伊藤さんのご飯、僕は好きだ」

「だろうな」

 清貴は無理矢理に笑顔を繕い、連理に向けた。

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