平家芥虫騒動

虎尾伴内

平家芥虫騒動

 永万えいまん元(1165)年、長かった梅雨を抜け出して、ようやく夏がやってきた。

 平家の棟梁清盛は、六年前の平治の戦以降、順調に官位を登り、只今は従二位中納言となっていた。また清盛の嫡子重盛はこの年五月に参議さんぎとなり、清盛に次ぐ平家二人目の公卿くぎょう、つまりは上級貴族の仲間入りを果たしていたし、三男宗盛は左馬頭さまのかみ美作守みまさかのかみ、四男知盛は左兵衛権佐さひょうえごんのすけ、五男重衡はわずか九歳にして、叔父頼盛の後任として尾張を治める尾張守おわりのかみとなっている。

 まさに日の出の勢いの平家ではあったが、元々は西国の海賊退治で鳴らした武士の家。平治の戦から幾年かは経たが、その家風は未だ勇ましさを以て世に響いている。

「武士たるもの、まして平家でひとかどの将たるもの、些細なことでうろたえてはならぬ!」

 清盛は常日頃から、棟梁として一門の者たちをこう叱咤している。これだけ言う以上、清盛自身が些細なことで、驚いたり、たじろいだりする様を見せるわけにはいかない。たとえば、敵が急に現れたからとて、慌てて兜を後ろ前に被るような失態など、絶対にあってはならないのだ。

 さて、梅雨過ぎて夏となると、この辺りではにわかに芥虫あくたむし、という虫が増える。あまり都人にはなじみのない虫だからか、平家お得意のそうからの貿易船に紛れ込んで都に入ってきたのだ、と言う人もいるが、実際のところは延喜えんぎ年間(901年~923年)に書かれた「本草和名ほんぞうわみょう」という古い書物には既に名があるほど、昔から都には存在していた虫である。

 芥虫の姿は黒く、油を塗ったようにてかてかと光っている。また、動きは素早く、叩けども容易に死ぬことはない。なお芥虫は別名御器噛ごきかぶりともいう。

 その芥虫が、とうとう六波羅ろくはらの平家のやしきにも出るようになったというので、邸に仕える下人げにん女房にょうぼう達は大騒ぎ。やれ昨日は二匹見ただの、今日は見なかったのと、彼らの口の端に上らぬ日はないほどであった。

 ほどなくして騒動は棟梁である清盛の元にも届いた。

「何じゃ……虫如きで何とも不甲斐ない!そのようなもの捨て置け!」

 さすがは清盛、歴戦の将である。虫如きでは決して動じない。この騒動に対してもを決め込む構えである。しかし、嫡子重盛の表情は、さえない。

「父上、そうは申しましても、かかる芥虫飛び交う様な不浄な邸では、みかどや院、摂関家の方々にお渡りいただくことかないませぬぞ」

 平家はもう公卿を二人も輩出し、武家として前例のないほど家格は上昇した。前年には、ついに摂関家の藤原基実ふじわらのもとざねに、清盛の娘盛子もりこを嫁がせており、貴族の中には、嫉妬から平家をよく思わない者は多い。このような時に、六波羅の邸に汚い虫が蔓延はびこっていては、平家の沽券こけんにかかわる、というのが重盛の主張である。

「キャーッ!」

 甲高い叫び声がする。また、芥虫が出たようだ。

「また女の声が、まさか母上では?」

 するとどたどたと重たい足音とともに現れたのは、左馬頭宗盛であった。先ほどの叫び声は、女房どもではなく、どうやら宗盛のものらしい。

「そ、その虫を早く捨てよ!ヒャッ……近づくな!去れ!去れぇ!キャー!」

 宗盛は狼狽して芥虫から逃げ去ろうとする。

「見苦しいぞ宗盛!それでも武士か、馬鹿者!」

 父のおとした雷にも、反応する余裕なく、宗盛はそのまま逃げ去ってしまった。すると芥虫は方向を変え、清盛と重盛のいる方へとカサカサと向かっていく。

「全く宗盛は情けないことだ。それ!」

 重盛は落ち着いて袖の下に芥虫を入れ、捕まえようとするが、以前宮中で蛇を捕まえた時のようにはいかず、逃げられてしまった。

「逃したか!あ、父上の方へ向かいましたぞ!」

 虫は清盛のいる上座へ向けて走っていく。

「何じゃ……このようなもの潰してしまえばよい!それ!」

 清盛は立ち上がり、芥虫が近づいてきたところをめがけ、ドン!と勢いよく足を踏み下ろす。しかし、狙いは外れ虫はスーッと壁をよじ登ってしまった。

「くそっ!外したか!」

 悔しがる清盛をあざ笑うように、虫は早くも天井へと近づいている。

盛国もりくに!盛国やある!槍じゃ、槍を持ってまいれ!」

 よほど悔しかったか、第一の家人けにん盛国に指図し、槍を持たせ、虫を一突きにしようというのだ。清盛の最大の長所は、たとえ院や帝、摂関家に対しても決して退かない「強き心」であったが、たかが虫一匹に対してもそれが現れるあたりは、彼の短所でもあった。

 ただ、いくら広いとはいえ邸の中で槍を振り回すのは危ないと、重盛と盛国が二人して諫めたため、さすがに清盛も落ち着きを取り戻したが、ほどなくしてまた大きな足音が二つ聞こえてくる。まだ十四歳の知盛と九歳の幼い重衡だ。

「父上!父上!宗盛の兄上から聞きました!また芥虫が出たそうですね!」

 知盛は宗盛と違い、虫におびえてはいない。重衡に至ってはもっと勇ましい。

「このように虫どもの出る邸なれば、邸ごと火にかけて虫ごと丸焼けにすればよいのじゃ!そうすれば虫もおらぬようになる!」

 後に南都焼き討ちをも敢行するほど、恐れを知らぬ、思い切りのよい武者振りが、重衡にはこの頃から、ある。そう言うが早いか重衡、どこからか持ってきた棒きれで芥虫を天井からつつき落そうとする。

「これ重衡!危ないぞ」

 先ほど邸内で槍を振り回そうとしたことは棚にあげて、清盛がたしなめる。追い詰められた芥虫、追い詰める重衡。いよいよこれまでか!と思ったが、窮鼠猫を噛むの故事のとおり、芥虫は重衡の顔めがけて飛びかかる。

「ワッ!」

 重衡は思いきりは良いのだが、失敗も多い。虫が顔にくっついてしまっては棒きれはもう役には立たない。芥虫を振り払おうとして重衡はかぶりをブンブン振るが、なかなか落ちない。見かねた知盛が重衡の顔に手を伸ばして掴もうとするが、やはりすんでのところで逃げられてしまう。

 どうにか重衡の顔から虫は落ちたが、素早く地面を這い回り、なかなか捕まろうとはしない。重盛もさすがにしつこく逃げる芥虫にいらだったのか、知盛らと共に虫を追いかけ回してしまっている。

「何ですさっきから騒々しい……」

 邸での騒ぎを聞きつけ、ついには清盛の妻、時子まで現れた。

「殿、盛国から聞きましたぞ、たかが虫一匹に槍まで持ちだそうとなさるとは。平家の棟梁が何たることですか!情けない!」

 朝廷においては権勢をふるう清盛も、家庭内では妻に頭の上がらない夫に過ぎない。息子たちの居並ぶ前でまるで子供のように叱られ、憮然とする清盛であった。

 そして時子はまだ地面を這い回る芥虫を、懐から紙をとりだしてこともなげに摘んで包み、捨ててしまった。どうやら時子の起居する北の対では、芥虫は日常茶飯事のようで、「まったく、男衆は頼りになりませぬなぁ」の一言と共に、また北の対へと戻ってしまった。

「何ともはや、恐ろしい嫁御をもろうたわい!」

 清盛のバツが悪そうな苦笑とともに、ひとまず平家内の芥虫騒動は落着となった。

 しかし、芥虫というもの、清盛や時子が考える以上にしぶとい生き物である。時子が摘んで捨てた懐紙の中から、まさに虫の息ながら、ようやっと這い出してきた。ここで完全にを潰しておかなかった詰めの甘さが、平家に通底する欠点といえるだろう。

 その日の夜、かわやに立った宗盛の甲高い悲鳴を、一門の人々は皆、静かな眠りの海の中で聞いたという。

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