ワイルドライフ

ひせみ 綾

第1話

 僕の母さんは物知りだった。普通のインパラよりちょっぴり、いや、かなり好奇心旺盛だったのだと思う。

 サバンナの動物たちの大半は、生きて行くのに必要な術を親から教わる。僕もそうだ。食べられる草の見分け方に始まり、食べ物の入手がとても困難となる雨季の乗り切り方、きれいで安全な水場の探し方。そのほかにも様々なことを、母さんから教わった。

 なかでも重要なのは、僕ら草食動物を捕食対象とする肉食動物からの身の護り方だった。かれらが狩りのために動き出す時間帯、群れか、単独か。どんなスタイルのハンティングをするのか、チーターやライオンをどのくらいの距離まで近づけても大丈夫か、どのくらいまで近づいたら死に物狂いで駈け出さなければならないか。

 そんな、生き抜くために絶対知っておかなければいけない知識のほかにも、博識だった僕の母さんは、色々なことを話してくれた。たとえば、象の器用な鼻先は生まれつきの才能ではなく、何年もかけて練習をするのだとか、百獣の王と言われるライオンだって、ハイエナに追い立てられて逃げることがあるとか。母さんがそういう話をしてくれるたびに、僕はワクワクしてドキドキして、夢中になって続きをねだったものだ。

 それでも、そんな母さんの博識も、この過酷な世界で生き延びるには足りなかった。

 ある日、母さんは、食事に出掛けたきり帰ってこなかった。その翌日、僕は、当ても無く、朝から晩まで母さんを探し回った。さらにその翌日、遂に母さんを見つけた。喰い散らかされた遺骸となった母さんを。あまり近寄ることは出来なかったけれど、紛れもなく僕の母さんだった。取り囲んだハイエナの群れが母さんを蹂躙していた。裂かれた腹に、一頭のハイエナがずんぐりした頭を突っ込んで、誰かが食べ残した内臓をあさっていた。別の一頭が、逞しい顎で、あれほど美しかった母さんの足の骨を噛み砕いていた。

 僕にはどうすることも出来なかった。

 母さんを殺したのは、ハイエナどもではないのだろう。ライオンにやられたのか、ヒョウか。それとも。僕らを標的にする肉食動物は、幾らでもいる。

 こんな状況だというのに、僕は母さんのことを思い出している。リカオンの群れに遭遇し、必死に逃げているこんなときに。

 個々の体は僕よりも小さい。相手が一頭か二頭なら、蹴散らして逃げることも出来ただろう。でも、かれらは集団で狩りをする。チーターほどの瞬発力があるわけじゃない、その代わり、イヌ科の肉食獣は、持久力に秀でている。僕は飛んで、跳ねて、ターンして、また走った。それでも振り切れない。僕はここで死ぬのだろうか。母さんは、捕食者の無慈悲な牙が自分の身体に最初に触れたとき、何を思ったのだろう。

 飛び出した一頭の若い牡、そいつの炎のような息が、僕の足を掠めた。ここで倒れるわけにはいかない。僕は残された力を振り絞って、大跳躍を試みた。僕らインパラのジャンプ力は、最大で10メートルに及ぶ。目指したのは、蛇行する幅広の川だ。ある程度の深みまで渡ってしまえば、僕より体高が低いリカオンどもは水のなかまで追っては来られない。

 飛沫をあげて着水すると、そのまま振り返らずに泳いだ。川の中腹くらいまで進み、そこでチラと後ろを見遣ると、リカオンどもは困惑気味に岸辺をうろうろしている。リーダーらしい一匹が鋭い声をあげ、それを合図に、イヌ科の獣は揃って踵を返し、去って行った。誰か、僕ではない、不運な次の獲物を探しに行ったのだ。僕は助かった。

 横腹に恐ろしい激痛が走り、目に映る景色がいきなり歪んだ。僕は水の中に引き摺り込まれた。襲撃者の正体を知るのに時間はかからなかった。リカオンどもが深追いを諦めた理由も。

 ワニだ。

 そう、僕らを標的にする肉食動物は幾らでもいる。陸上にも空にも、水中にも。

 ワニは、捕えた獲物をすぐさま噛み殺すということはしないらしい。水中に引き摺り込んで窒息死させ、さらに重石を置いて沈めておき、ある程度、腐敗が進んで柔らかくなった肉を食べるのだとか。

 もがけばもがくほどワニの歯列は僕の腹に喰い込んでいく。母さんが言っていた、ワニは、口を開ける力というのはほとんどないのだそうだ。子供であっても押さえ込むことが出来る、と。しかし、反対に、口を閉じる力は想像を絶する。一度ワニに喰いつかれたら、そこから逃れることは絶望的だ。

 肺が水で満たされ、意識が朦朧とする。それでもまだ四肢をバタつかせているのは、僕自身の意思ではない、もっと遥かに原始的な本能、遺伝子に組み込まれた、生への執着。

 こんなところで死ぬのはイヤだ。死にたくない、生きたい。生きたい!!

 願いが通じたのだろうか、黒雲を裂く雷に似た、憤怒の咆哮が轟いた。それは水を振動させ、激流へと変えた。途轍もない大きさの渦が生まれ、僕とワニは一緒くたにそれに呑み込まれた。霞んだ視界のなかに、弾丸のように此方へ向かってくる黒い物体の姿が飛び込んだ。

 その生き物はワニに凄まじい体当たりを喰らわせた。ワニは僕を解放した。そして、予期せぬ襲撃者を迎え撃とうと身を翻した。僕は見た。

 そこにいたのは、黒い、一匹の巨大なカバだった。

 カバはワニを睨み据えたまま、再度の体当たりを敢行しようと前足で水底を蹴っていた。ただでさえ質量に満ちた大きな体がさらに膨らんで見えたのは、僕の視界が歪んでいたせいなのか、それとも、カバが噴き上がる怒りに身を震わせていたからだろうか。

 闘いを諦め、ワニは逃げて行った。相手が子供ならばいざ知らず、大人のカバとの戦闘でワニに勝ち目があるわけがない。母さんはこう言っていた、水辺でもっとも危険な猛獣はカバだ、と。

 だけど、どうしてワニを追い払ったのだろう。獲物としての僕を奪い合ったのか。カバがほかの動物を捕食するなんていう話は、母さんからだって聞いたことがなかったが、そういうこともあるのかもしれない。

 意識が遠のく。僕の身体は水底に向かってゆっくり沈んでいく。と、何かが僕に触れ、力強く押し戻し始めた。

 アッと言う間に僕の鼻先はあれ程渇望した地上の空気に届いていた。激しくえづき、溜まった水を口と鼻から吹き飛ばした。足場を求めて必死に四肢を振り回す。蹄がようやく岸にかかった。前脚に全体重をかけ、自分を持ち上げるだけの余力は僕には残されていなかったが、突然、下から身体を跳ね上げられて、ほとんど放り投げられるような格好で、僕は再び地上のものとなった。僕を地上に戻したのは、あの、黒いカバだ。

 もがきながらも必死に立ち上がる。体がぐらりと傾く。一歩、踏み出さねばならない。ここから離れ、再び、走り出すんだ。生きるために。

 空が青い。太陽がやけに眩しい。それなのに、薄い幕のなかにいるみたいで、景色も、音も、どこか霞んでいる。いつもなら癪に障るワライカワセミの鳴き声さえ、眠気を誘うほど遠くから聞こえてくる。

 世界が反転した。違う、僕が倒れたのだ。大きなカバが水のなかから身を起こし、此方へ近づいて来る。決して急ぐことなく、それこそ優雅とでも表現したいくらいに落ち着いた足取り。逃げたいのに立ち上がれない。自分の腹が大きく喰い破られているのが分かった。血が流れ続け、下生えの草をどす黒く染めていた。感じているのは痛みではなく、灼熱。

 カバは僕の側でぴたりと足を止めた。まるで底知れぬ闇の入り口のような巨大な口が開く。僕を喰うつもりなのだ。ライオンのそれよりも長く鋭い下顎の牙、見たことも無い大きな臼歯。この歯にかかったら、ウォーターレタスやソーセージの実と同じくらい、僕の頭蓋骨などいとも呆気なく砕かれ、擂り潰されてしまうに違いない。

 リカオンの群れに追われ、ワニに襲われ、最終的に同じ草食動物であるはずのカバに喰い殺される。これほどまでに間抜けで運の悪いやつなど、サバンナ広しといえど、僕くらいのものだろう。

 でも、どうしたことか、カバの歯は確かに僕の頭に触れているというのに、触れていないみたいにまったく圧を感じない。それどころか、カバは僕を一旦離し、それからまた大きな口で、落ち葉一枚の重さもかけずにそっと、そうっと僕の鼻先を甘噛みした。

 食欲を満たす前に獲物を弄んでいるのか。いや、そうじゃない。

 カバは僕を噛むことをやめ、静かにじっと見降ろした。母さん以外の誰かと、しかも種族の違う動物とこんなに近くで視線を交わしたことはなかった。僕を見つめる黒い瞳は悲しそうで、苦痛に満ちていた。

 カバが何かを喋った。そんな気がしただけかもしれない。他種族の言葉など僕に分かるはずもない。それでも。

「立ちなさい、坊や。諦めてしまってはだめ」

 僕には、そう聞こえた。

「あなたを二度も失うなんて、ママには耐えられない。今度こそ、あなたを死なせない」

 そうか。そういうことだったのか。

 朧げな思考のなかで、それでも僕は理解した。

 このカバは若い母親で、つい最近、子供を失った。ワニに喰われたのだ。それも、おそらくは、目の前で。

 悲嘆に暮れるかの女は、我が子と同じようにワニに襲われ水中に引き摺り込まれる僕を見て、最愛の存在と僕の姿とを重ねた。喪失の悲しみと子供を奪った敵への怒りが交叉し、一時的に記憶が混乱したのだろう、だからワニに襲い掛かり、退けた。

 いま、かの女の目に映っているのは、死にかけている他種族の動物ではない、傷ついた我が子だ。

「ああ、坊や、坊や。さあ、立って。一緒にお家へ帰りましょう。お願い、ママをひとりにしないで」

 このうえない優しさと愛情をこめて、かの女は鼻先で僕に触れた。

 でも、ごめん。僕は水中では生きられないから、一緒に貴女の家には帰れない。それになにより、僕はじきに、死ぬ。

 不意に、自分でも驚く程の悲しみが心を満たした。自分が死ぬからではなかった、悲しんでいるかの女に再び同じ悲しみを与えてしまうことが、ひどく辛いことに思えたのだ。

 かの女には分かったに違いない。僕が自分の子ではないことを認識したのかどうかは定かではない。でも少なくとも、僕が死に向かっていることを、僕と同じくらいかの女も敏感に察していた。かの女は泣いていた。

 僕は涙を流したことがない。そうだと教えられたわけではないが、僕らインパラに限らず、動物は涙を流さないものだと思っていた。カバが涙を流すなど僕は知らなかった。母さんは教えてくれなかった。

 かの女は片時も僕の側を離れようとせず、僕の鼻づらを舐め、硬直した脚に触れ、冷えていく僕を温めようと寄り添った。

 どのくらい時間が経っただろう、宵闇が落ちてきた。僕はもう動かなかった。呼吸も止まっていた。でも、まだ意識はあった。死んでいるのに。

 死んでもしばらくの間は、周りを知覚出来るものなのかもしれない。

 夜が明け始めた頃、かの女は、遂に諦めた。躊躇いがちに踵を返し、けれど思い直したようにすぐに戻り、また離れた。そんなことを何度も繰り返し、そしてとうとう、首を深く垂れ、歩み去って行った。

 心のなかで、僕はかの女に別れの挨拶をした。さよなら、と。そして、ありがとう、とも。

 最期の瞬間までずっと一緒にいてくれて、ありがとう、ママ。

 そうして、僕は眠りについた。かの女の涙の暖かさを抱き締めながら。



            《FIN》

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ワイルドライフ ひせみ 綾 @mizua666da

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