第3話形容と説明、描写は悪手

 文芸においては、形容と説明は悪手だ。もちろん描写も悪手だ。

 説明が悪手というのは、おそらく異論はないだろうと思う。地の文での説明だけでなく、セリフにおける説明も悪手だ。これについてもおそらく異論はないだろう。興ざめだからなどという理由ではない。形容が悪手だというのと同じ理由で悪手だ。

 形容が悪手というのは、異論があるかもしれない。だが、一つめとして、こういう場合を考えてみよう。形容をするというのであれば、「のような」とか「のように」とかを使うだろう。OK。なら、1p. にしても見開きにしても、その範囲にいくつ、そういう「よう」を書くつもりだろう。それでは終わらない。形容というのだから形容詞も、もちろんそれに加えて数える。形容詞を加えるのなら、当然副詞もそれに加えて数える。いったいいくつ、それらの言葉を書くつもりだろう。

 二つめとしては、書く際にしても読む際にしても、人間の認知能力は極めて限られているということを考える。文にせよ段落にせよ、長くなればなるだけ、認知能力に負荷がかかる。そのために、書けば書くほど、そこにいったい何が書かれているのかの理解からは遠ざかるだけだ。

 三つめとしては、二つめの他に、そもそも形容は曖昧だからだ。

 四つめとしては、それらは直接的だということだ。このようなことを思い描けと直接書いてしまうだけだ。説明が悪手だというのは、実際にはここから派生したものだ。

 この四つによって形容は悪手となる。しかも、書けば書くだけ、なおさら悪手に突き進むだけとなる。とくに言うなら、三つめと四つめの組み合わせによって悪手だ。曖昧でありながら直接的だ。読み手に直接「これを思い描け」と言いながら、その実、その内容は曖昧なものしか提示していない。しかもそれに二つめのものが重なり、曖昧なものはなおさら曖昧になり、しかも理解から遠ざかる。そして一つめがもたらす単調さが加わる。これが悪手以外のなにかになることはありえない。

 では次に描写だ。描写と聞いて思い描くものはどういうものだろう。それはおよそ説明と形容からなるものに近いだろう。そういうことだから、描写も悪手だ。


 説明も形容も描写もしない。では文芸において何をするのだろう。表現だ。表現されるものがないなら、それは書かれる理由をもたない。では、表現とは何か。表現とは思想のためにある。表現されるものは思想でしかありえない。では思想とはなにか。思想とは疑問だ。「これこれである」というのは思想ではない。それはいいとこ命題であり、せいぜい言明であり、読み手からすれば「あぁ、そうですか」と受け流すものだ。疑問であってこそ、つまり読み手に問いかけるからこそ思想だ。

 もちろん、この疑問は、作中における謎というものではありえない。作中に現れた謎なら、それは作中において解決される謎だ。それは読み手への問いかけではありえない。

 また、その疑問は、作中において結論が出るものではありえない。結論がでるなら、「私はこう考えた」という書き手による命題、言明であり、読み手からすれば「あぁ、そうですか」と受け流すものだ。

 この疑問は、読み手にひっかかりを残すものだ。それは作中において解決されることはありえず、結論が書かれるものでもありえない。

 もちろん、そのような事柄であるから、読み手は作品に納得するなどということがあってはならない。もし、納得するなら、なぜ書き手は疑問を書いたのかというそもそもの疑問を否定するからだ。納得するなら、その作品そのものを否定するからだ。

 書き手においても読み手においても、作品に共感や安心や納得や理解というものを求めたり期待するなら、それは文芸を否定することになる。文芸は表現をするものである。表現は思想のためにある。思想は読み手にひっかかりを残すためにある。共感などなどは、その根底を否定する。


 本稿をまとめると、こうなる。書かないことによってこそ書く。思想以外に書かれるものはありえない。

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