君を染める色

春葉つづり

君を染める色

 和幸かずゆきは不思議に思うことがあった。けれども、それは大事な彼女の意志なのだからと、自分を説得して飲み込んだ。

 彼の手には花籠。ただし、花の色はくすんだ桃色。鮮やかでもなければ、淡いでもない、色あせたピンクなのである。

 彼女と売店に行った時のことを思い出す。売店で売られている患者用の花籠の中で、一花いちかは、わざわざこれを選んだ。他にも、きれいに咲き誇る花々はあったのだけれど、彼女は和幸からして見れば、あまりというよりも、全くと言っていいほど魅力的でないその花を見て、

「きれいな色ね」

 と言ったのである。

 目の前の花籠の花は、灰色に近い桃色。どう見たって他のもののほうが鮮やかだと和幸は思う。

 けれど彼は、一花の言うことを否定して気分を損なわせるつもりは無かったので、そうは思わなくても頷いたのだ。

 通りかかった患者のお婆さんが、一花の発言に怪訝そうに視線を送りながら通り過ぎていった。

「そうだよな」とあのときの白い視線をぼんやりと、思い出しながら病室の引き戸を開けた。

 

 一花は、窓際のベッドにいて窓の外を眺めていた。開かない窓のむこうの春風を思っているのだろうか。あかるい日差しと、宝石色の空が彼女の肩までで切りそろえられた頭髪をきれいに浮かび上がらせている。今、彼女はどんな表情だろうか、そんなことを和幸が思っていると彼女がこちらを見た。とても嬉しそうな表情だった。

 そして、彼女が花籠を見てますます嬉しそうな表情になったので、和幸は、心が満たされる気持ちでいっぱいになった。

「それ、買ったの?」

「うん」

「ありがとう」

「うん」

 ふと、和幸が病室のベッドサイドを見ると、彼女のお気に入りの品物たちが並べられている。コップ、櫛、箸箱、カバーのかけられた本。そのどれもが桃色と白。

 一花は花のにおいを嗅ぐように顔を近づけて、うっとりとした表情で言った。

「きれいな白い花」

 和幸は、目をみはった。信じられないような気持ちになって花を二度見、三度見するが花の色は変わらない。和幸は、むずむずした気持ちになってさすがに訂正した。

「一花、これは桃色だよ」

 一花の表情が固まる。笑みを浮かべたままぴたりと動かない。静止画のようだと和幸は思った。

「嘘よ、こんなきれいな桃色」

「一花。ずっと前から思っていたんだけれど、傷つくと思ってずっといえなかった。ひょっとして、色が見えない?」

 一花は黙ってしまった。目がとまどいの感情をうつしたまま、ゆらゆら揺れている。

 ひょっとして、一花を傷つけてしまったのだろうか。和幸は言ってしまってから、深く後悔した。

 一花はぐっと何かをこらえたような表情になって、うつむいてしまう。和幸は「ごめん」とぽつり謝った。

 窓の外を烏が行き交い、その影がシーツに黒い影を落とした。彼女には僕とは違う世界が見えているのだろうか、和幸は思った。

 一花がすこし顔を上げて、ちいさな声で言った。

「桃色と、白色の区別が付かないの。ピンクも白もみんな白に見えるの」

 それでも決して一花は、和幸と目を合わせない。そんな彼女にできるだけ、優しく、包むように和幸は言った。

「どうして桃色が好きだなんて言ったの?」

 同時にその柔らかい髪を撫でたい衝動に駆られたが、触れてもいいものかどうか悩ましいところだったので、和幸は一花をそっと見守った。

「見えない物が見たかった。いつか見えると思ってた。見えない物は綺麗だと思うの。みんながピンクはかわいいって言うから、きっとかわいいきれいな色だと思うの。欲しいけれど手に入らない物ってすごく、素敵なものに思えるじゃない」

 最後の方は消え入りそうな声だった。かわいい色なんて身につけなくても、一花は十分女の子らしいし魅力的だと和幸は思った。

「一花はじゅうぶんかわいいよ」

 そういって、和幸は一花の髪を撫でた。想像通り、絹糸のように繊細で柔らかい髪だった。無機質な病室で彼女は消えてしまいそうなほど小さく薄い存在に感じた。

 そっと、一花を抱き寄せると、先ほどの花籠の香りが鼻孔をくすぐった。彼女がそんなに悩んでいたなんて。彼女の気持ちに気づいてやれなかったことに和幸は後悔した。

 一花とは高校時代からの付き合いである。彼女は卓球をしていたが、どうにも、体育会系という感じのしない、大人しい少女だった。いつも体育館の隅で三角座りをしているようなそんな女の子だった。友達はいたが、数は多くなく、それでも数少ない友達に話しかけるときの、控えめな笑顔が可愛らしかった。

 そんな一花に、話しかけたのは和幸のほうからだった。同じ卓球部。あまり口数は多くなかったがぽつぽつと喋ることが多くなった。それから一緒に帰るようになり、自然とふたり一緒にいるようになった。そんな当たり前のような存在になっていたというのに、彼女の悩みに気づいてやれなかった。この長い年月を、彼女を傷つけないように、ただ漫然と過ごしていただけで彼女のことなど本当は見ていないのではないのだろうか。そう思うと和幸の目の前は急に暗闇に閉ざされたように暗くなった。

 それを振り払うように、和幸は自分を奮い立たせた。

「一花がいちばん綺麗だなって思う色はなに?」

「ピンク」

「そうじゃなくて。本当にはっきり綺麗に見える色」

 そう問うと、一花は顔を上げた。一瞬青空をうつして瞳が綺麗な色に輝いた。明るい鳶色だった。

「そうだね、空の青とか綺麗に見えるかも」

 ようやく氷解した表情を見て、和幸は微笑んだ。そうだ。


 和幸は車を走らせた。今日は大学はない。病院には外出許可を取って、一花を連れ出した。本当はあのとき、手を取って連れ出してしまいたかったが、そんなことをしてしまうと一花に迷惑がかかるので、きちんと手順を踏んだ。

「ねえ、どこへ行くの?」

 今日の一花は特別美しいと和幸は思った。病室に同化した、化粧気のない顔がいつもだったので、紅を引いた唇は普段にない華やかさだった。

 化粧気のない顔は、どちらかというと子供ぽくて、こちらは、年相応のうら若い女性といった感じだった。普段の一花も好きだったが、こうしておめかしした一花も特別かわいらしいと、和幸は思った。

 花柄のワンピース。やはり白と桃色の。今だに彼女の意志が変わっていないような気がして、和幸は少し不安になった。けれども気を強く持つ。

 和幸は県境まで車を走らせて飛ばした。そうして彼女にあるものを渡した。

「アイマスク?」

 一花はそれを手に取ってから、和幸を可笑しそうに見つめた。

「そう。お楽しみ」

 そう言って、一花にアイマスクを付けさせた。アイマスクを付けた一花は、何が可笑しいのか吹き出した。それから彼女は「おかしなことしないでよ」と笑った。和幸はその、リラックスした口元を見て微笑む。

 しないよ、そうつぶやいてから車を発進させた。今日の太陽は眩しい。いつにない夏日の春だった。

 県境を越えてしばらくすると、一花は眠ってしまったようだった。こうして彼女が無防備な姿を晒すのも自分だけ。そう思うと、たまらなく愛おしかった。小さく上下する胸の呼吸すらも優しく撫でてやりたい衝動に駆られた。それをぐっと堪えてから、自分の欲望を、日差しに晒した。そうすると不思議と気持ちが落ち着いた。


「着いたよ」

 完全に眠っていた一花を、車から連れ出す。潮の香りが鼻をくすぐる。一花の反応が見たい。

 華奢なサンダルに、砂が入り込む。

 ずっと病室にいた白い腕が晒される。その白さにやはり一花は、まだ病人なんだと和幸は痛々しく思った。

 一花のアイマスクを外してやる。

 彼女は一瞬眩しそうに目を腕で覆った後、感嘆の声を上げた。

 あたりは一面の海だった。

 水平線がどこまでも広がって、海は奥深くまで続いているような気がする。目の前を塞ぐものは何もない。春の日差しに照らされて、海の表面はきらきらと輝いていた。

「きれい」

 一花はつぶやいた。本音だと和幸は一発でわかった。彼女は、つぶさに捉えるように海を見つめている。彼女の瞳にも、いっぱいの海が広がっているのだろう。それだけで、和幸は満足だった。

「見えないものも綺麗かもしれないけれど、やっぱり自分が見える一番綺麗なもの、それもいいと思うんだ」

 説教臭いかな、と和幸は後ろ頭を掻いた。こんな男イヤだよな、とさらにつぶやいていると、一花は微笑んだ。満足そうなほほえみだった。

「身近なところに青い鳥?」

「そう」

「鳥じゃないけど」

 そういって一花はしゃがんだ。そうして、海をまた眺めた。和幸も同じようにしゃがんだ。

 二人はずっと時間いっぱいまで、海を見つめていた。

ただ波の音が、二人の間に漂うようにさらさらと流れていた。




 



 

  

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