第26話

「なんだ!?」


 創一は突如起こった轟音と地響きに背後を振り返った。視界には見渡す限り雑木林しか映らないが、その向こうでは、繭羽とリリアが戦闘している筈だ。


 何が起きたのだろうか。創一は来た道を戻ろうと思ったが、繭羽の強さを信じ、再び巨大な違和を求めて雑木林の中を駆け抜ける。


 数分間の時間が経過したところで、創一の視界が開豁(かいかつ)として大きく開けた。


 創一は小高い丘の上にある、草花と低木の生い茂る庭園のような場所にいた。


 創一の視線の先には、庭園の中央に鎮座するように生えた大きな樹があった。そして、その樹の傍に、目的としていたメイド姿の女性の姿もあった。向こうも、こちらの姿を認めたようで、視線を向けている。


 創一は周囲に罠が無いかどうか注意しながら、ゆっくりとベルに近づいて行った。ベルの近くには、複数の直立する人影――マネキン人形の姿もあった。


 ある程度まで近づくと、ベルは創一に向かって恭しく一礼をする。


「創一様がここにお越しになれるとは意外でございます。マスターが創一様を捕え損なうとは予想しておりませんでした」


 機械的な口調で言うベルの両手には、金色に輝く林檎のオーナメントが乗せられている。それから、凄まじい違和の圧力を感じた。


「界孔を維持している象徴物は……それだな」


「私の許へやって来たことから、特に隠し立てする必要性も無いでございましょう。創一様の御推察する通り、この林檎のオーナメントこそ、エデンの園を維持する象徴物で御座います」


「そうか……それなら話は早い。悪いけれど、界孔の維持を止めさせてもらう」


「左様でございますか。創一様がそれを望むのであれば、マスターの命令に従い、恐れながらお相手を務めさせて頂きます。――前へ」


 ベルは片手を突き出すと、傍らで待機していたマネキン人形を五体、自身の前に配置する。まずは創一の出方を窺うらしく、攻撃に移らずその場で静止させている


 それらのマネキンの手には、繭羽との戦闘を想定していた為か、両刃の西洋剣が握られている。


 創一はマネキン人形の手に握られている西洋剣を目にして、突撃を躊躇した。遠目では、それが刃の付いた実用品かどうか判断し兼ねるが、恐らく本物と考えて間違いないだろう。模造剣を持たせるくらいなら、それよりも頑丈な鉄パイプでも装備させた方が理に適っている。


(どうする? 刃物相手に、さすがに正面突破は無謀か……?) 


 創一は数秒の思考を挟み、


(……まてよ)


 あることを思い出し、考えを改めて、大胆にも正面突破を試みた。


 それは、寸見したところでは、刃物に素手で――しかも複数の敵に向かって単身で突っ込むという、自殺行為でしかない。


しかし、その創一の行動に、ベルの無表情に焦りの色が僅かながらも映る。


「武器を放棄、素手で拘束しなさい」


 ベルは自ら有利な状況を捨て、あえてマネキン人形を武装解除させる。五体のマネキン人形は、命令通りに武器を捨てると、創一に向かって突撃を開始した。


(やっぱりだ! 僕はリリアの目的を達成する為に必要だから、重傷を負わせることが出来ないんだ!)


 創一は自分の読み通りに事が運んで僅かに笑みを浮かべる。


 しかし、問題はここからであった。


(武器を捨てるのは読み通りだ。でも、マネキン人形相手でも、僕の特性は通用するのか……?)


 ベルの指示によって半自立的に行動していることから、あのマネキン人形たちは、何かしらの魔術的な細工を施されていることは間違いない。マネキン人形型のディヴォウラーとも考えられるが、それならそれで好都合である。


 先ほど、リリアの展開した氷壁に触れた時、氷壁は不思議なことに容易に崩壊した。物理的な力で破壊したと考えることは出来ないので、恐らく魔術的な力を無効化したことによって、氷の結合が崩壊したと推測するのが妥当だろう。


 しかし、その推測には疑点がある。それは、自分の特性に魔術を打ち消す性質は無い筈であることだ。このことについては、繭羽が実際に実験をして確かめたことやアリス術式による鏡抜けを行えたことから、信じるに足る推測であった。けれど、そう考えると、氷壁を崩壊させた理由が説明出来ない。


 だからこそ――これは賭けだ。


 創一は片手を振りかぶると、最も目先にいるマネキン人形の胸に向けて、思いっきり掌底を叩き込んだ。


 直後、そのマネキン人形の胸に大きな亀裂が走る。軽く宙に浮いて背後に吹っ飛ぶ間にも、胸の亀裂は地割れのように裂け広がり、地面に倒れる頃には、バラバラに砕け散った。


 その様子を見て、ベルは僅かに眉を顰(しか)め、創一はある一つの可能性の確信を深めた。


 創一は後退から一転、攻めに転じる。マネキン人形の数に構うことなく突っ込み、手当たり次第に次々にマネキン人形の体を殴り付けた。


 それらのマネキン人形も同じように殴られた個所に大きな亀裂が入り、すぐに石膏の欠片となって砕け散った。


 ものの数秒で、創一は五体のマネキン人形を無力化することに成功する。


(マネキン人形が砕けたということは……やはり魔術も打ち消す特性もあるのか? じゃあ、繭羽の魔術を打ち消せなかったのは、たまたま何かの条件が揃わなかったからか?)


 創一が自身の特性の把握に思考を巡らせる中、ベルが特に驚きを感じられない平淡な声音で言う。


「……これは驚きました。マスターから、創一様は奇怪な術を扱えるかもしれないと伝え聞いておりましたが、破魂音も秩序の歪曲も無いところからして、真意術式とも違うようでございます。もしや、寵愛者で御座いますか?」


「……真意術式?」


 創一は真意術式という言葉に聞き覚えがあった。その言葉は、繭羽も口にしていた。しかし、自分が魔術を扱えないことから、繭羽は真意術式も使えないだろうという旨のことも言っていた。


「その御様子ですと、真意術式を御存知ないのでございますか?」


「僕は繭羽みたいな魔術師じゃないからね。術式がどうたら言われても、さっぱりだ」


「……左様でございますか。宝具をお持ちではないことから、やはり寵愛者と考えるのが妥当で御座いましょうか。マスターの目利きの素晴らしさには恐れ入ります」


 ベルはどこか誇らしげな抑揚を付けて言うと、懐から何かを取り出した。それは、十数個の環が連なる黄金の鎖であった。


 ベルは黄金の鎖を上方に投じた。


 攻撃だろうか、と創一が身構える。


 黄金の鎖は創一の頭上の辺りまで届くと、急に個々の環が外れ、創一の周囲に散らばった。次の瞬間、創一は見えない何かによって全身を拘束された。両腕を開くように縛り上げられ、十字架に張り付けられた格好となる。


「なっ!?」


 創一は反射的に振りほどこうとしたが、まるで縄や鎖で捕縛されているかのように、全く体を動かすことが出来ない。


「無駄な足掻きはお止め下さい。それは神すらも拘束する不可視の宝具『ヘパイトスの縛鎖』で御座います。神性を有する者に対して本領を発揮するとはいえ、人間相手でも鉄鎖を凌駕する拘束具に他なりません。力任せに引き千切ることは、たとえ鬼の怪力を以てしても不可能でございます」


「くそっ……!」


 ベルの言う通り、自分の体を縛る不可視の鎖の感触は、火事場の馬鹿力を発揮出来たとしても引き千切れそうに思えない。体を引かれる方向からして、恐らく、不可視の鎖は宙に浮遊する黄金の環に接続して固定されているに違いないだろう。


「どうか無理をしてお体を損なわないよう、お願い申し上げます。窮屈とは存じ上げますが、マスターが到着なさるまで、しばしお待ち下さいませ」


 ベルは丁重な言葉遣いと態度を示すものの、当然のことながら、創一は力の限り足掻き、懸命に現状の打開策を探していた。


(くそ、全く動けない……! そもそも、宝具ってなんだ? 確か、リリアは繭羽の持っている刀のことを宝具って呼んでいたけれど……それも魔術的な道具なのか?)


 創一は、自分の特性を以てすれば、魔術的な力を帯びていると予想されることから、宝具も破壊出来るのではないかと思った。


 しかし、もし宝具も破壊出来るのだとすれば、ゾンビ戦の際に繭羽の刀に触れたことがあったけれど、その後でも、繭羽は問題無く瞋恚の焔(しんいのほむら)を放っていた。それならば、この不可視の鎖を破壊することは出来ないのではないだろうか。


(でも……最初は魔術を破壊出来ないと思っていたけれど、氷壁やマネキン人形は破壊することも出来ていた。それなら、刀の時も何かの条件が揃わなかっただけで、宝具が破壊出来ないとは言い切れないんじゃないか……?)


 創一はそう判断すると、右の手首を大きく回して、どこかに伸びている筈の不可視の鎖の存在を探った。


 指先で空間を探り――硬質的でひやりとした感触の物体を探り当てる。それを掴み取ると、ガキィン! という金属音が響き渡り、右腕の肘から先が動くようになった。


 創一の右腕が突然動けるようになったことにベルは少し驚いた表情を浮かべる。しかし、即座に行動を起こさないところを見るに、鎖が不可視であることから、実際に何が起きているのか正確に把握出来ていないのだろう。


 創一は左手を回して、そちら側の不可視の鎖も破壊した。そして、鎖が伸びていると思わしき空間に次々と両手を振り回す。


 ガキキキィン! と立て続けに金属製の鎖が断ちきれる破砕音が響き渡った。


 創一は最後に足に纏わり付いていた鎖まで破壊すると、ベルの許へ駆け出した。


 創一の予想が正しければ、ベルもまた、幻魔や魔術的な創造物に近しい存在だ。それならば、ベルに触れるだけで、勝負を決することが出来る。


「まさか、これほど異質な力をお持ちとは……やはり寵愛者でございましたか」


 ベルは素早く後退すると同時、エプロンポケットの中から、二つの把手の付いた杯を取り出た。ベルがその杯を捧げ持つと、杯の口から尋常ではない程の水が迸り、瞬く間に腰まで浸かる大波となって押し寄せる。


(別の宝具!?)


 創一は本能的に津波からの逃走を選ぼうとしたが、咄嗟に感情を振り払い、その場に屈んで両手を前に突き出した。大波が創一の両手に触れた瞬間、まるで水と油が相反するように、波が創一を避けた。正確には、直撃する波の部分を両手が打ち消していた。


 津波は十数秒の間だけ続くと、急速に流速や規模が減衰した。


 創一はある程度まで水流が落ちると、未だに残存して流れる大量の水に構わず、再びベルに向けて疾走する。


 ベルはエプロンポケットから、今度は槌の形をした宝具を取り出す。その表情は、無機質ながらも明確な焦燥が浮き出ているように見える。


「こうなっては、多少の負傷は御容赦下さいませ」


 ベルは槌型の宝具を振りかぶると、それで濡れた地面を殴り付けた。


 創一が地震のような衝撃を足元に感じた直後、ベルが殴り付けた地面を基点として、放射状に謎の衝撃波が巻き起こり、地面を大きく隆起させる。


「うわっ!」


 創一は全身に及ぶ衝撃波までは打ち消すことが出来ず、圧力に負けて後方へ吹き飛ばされた。背中から地面に落ち、一瞬だけ呼吸が止まる。勢いはそれでも止まらず、創一は地面を転がる形で背後の雑木林まで押し戻され、体の側面を木の根元に打ち付けられた。


「ぐ、つぅ……!」


 創一はよろよろと体を起こした。元いた場所からかなり吹き飛ばされてしまったが、足元が柔らかい草や土に覆われていたので、巨狼のようにコンクリートに叩き付けられた時に比べれば、たいした傷は負わなかった。


 創一は立ち上がると、向こうに佇むベルの姿を正眼に捉える。そこに至るまでの地面は、所々で陥没と隆起を繰り返す未開の山肌のようになっていた。


 ベルが手に持つ槌型の宝具は、どうやら地面に叩き付けることによって衝撃波を起こすものらしい。


 もし、その衝撃波も魔術的な力であれば、恐らく打ち消せるだろう。しかし、爆弾が爆発した時のように、衝撃波がある事象の副産物でしかなかった場合には――魔術的な力の副産物でしかなかった場合には、それすらも打ち消せるかどうか疑問である。


 いずれにせよ、逃げるという選択肢は無い。ベルが自分を殺すことが出来ない以上、必ず手加減をして来る筈だ。それに縋って、どうにかして強行突破するしかない。


 創一は意を決すると、全力で駆け出した。


 ベルが槌を振りかぶり、再度衝撃波を引き起こそうとする。


 創一はそれを見ると、手近な窪地に転がり込んだ。直後、頭上を凄まじい衝撃波が駆け抜け、創一のいる地面の地形が生き物のように変動する。しかし、今度は窪地が塹壕の役割を果たしたので、後方に大きく吹き飛ばされることは無かった。


 創一は衝撃波が収まると、すぐさま飛び出してベルに肉迫する。続けて槌が振り落され、衝撃波が生じるものの、同じ要領で凌ぐことにより、確実に近づくことが出来ていた。


 これなら辿り着ける。創一の胸に確信が過ぎった。


 しかし――


「致し方ありません。創一様の身の安全も重要でごさいますが、それ以上に、界孔維持の方が重要でございます。もし、不幸な事態を生じてしまった場合には……御怨みなさらぬようお願い申し上げます」


 ベルが不穏な発言をした直後、彼女の捧げ持つ槌に変化が生じた。奇妙な光を帯び、その大きさが杵(きぬ)に匹敵する程に巨大化したのだ。


 創一の勘が明確な死の信号を発していた。もし、あれが地面に振り下ろされれば、間違いなく、今までの比にならないような何かが起きる。


 しかし、創一はベルの許へ駆ける方を選んだ。仮に今から後ろに逃げたとしても、既にベルからの距離は近く、逃げ切れないと判断したからだ。それなら、一か八か、槌が完全に振り下ろされる前に止めるしか手はない。


「うおおおおおおおおおおっ!」


 創一は無意識の内に叫んでいた。凹地を跳び越え、凸地を乗り越え、猛然とベルに肉迫する。


 幸運を、と呟くベルの声が聞こえる。


 そして、巨大化した槌が振り下ろされる――その直前。


「止めよ、ベル!」


 背後から怒号が聞こえた瞬間、創一とベルの間に水色の光が一閃走り抜け、行く手を阻む氷の柵となった。


 創一は眼前に出現した氷を見て、嫌な予感を覚え、背後に振り返った。


 雑木林の上部に浮遊する形で、そこにはリリアの姿があった。


「ふう……なんとか間に合ったか」


 リリアは安堵したように溜息をつくと、宙を滑るように飛行して、ベルの隣に降り立った。


「すまなかったな、ベルよ。小娘の相手が予想より手間取ってしまってな。まあ、今回は可能な限り遊ばずに事をすませたからな、許しておくれ」


「いえ、マスターが謝罪するなど、滅相も御座いません。私こそ、創一様に怪我を負わせる事態となってしまって、申し訳ございませんでした」


「構わぬ。ベルが常に最善を尽くすことは知っておる」


「光栄で御座います」


 ベルはそう言うと、槌の宝具を元の大きさに縮小させた。


「それにしても怒神槌(どしんつい)までも使うとは……ヘパイトスの縛鎖はどうしたのじゃ?」


「本体は無事でございますが、派生した鎖は破壊されました。マスターが以前に仰った奇妙な破壊の術であると予想しております」


「なんと……神性を縛るあの鎖すら破壊したじゃと? それはまことか?」


「間違いないかと。不可視故に破断の音で判断せざるを得ませんでしたが……。それに関しては、創一様の方がよく御存知かと」


 そこに至って、リリアはようやく創一の方に向き直った。


「ないがしろにしてすまぬ、坊や。……して、本当にヘパイトスの縛鎖を破壊したのか?」


 リリアがそう尋ねてくるものの、創一の意識は、とある物に奪われていた。


 リリアの手にある――繭羽の大太刀に。


「それ……その刀はどうした? いや、繭羽はどうなった!?」


「どうなった? 妾がここにいる時点で、尋ねるまでも無い疑問じゃろう。妾は勝ち、小娘は負けた。この神喰は、その戦利品という訳じゃよ」


 リリアは地面に神喰を突き立てた。


「繭羽が……負けた……?」


 創一には、繭羽がリリアに負けたことが信じられなかった。しかし、眼前のリリアの存在は、彼女が戦いの勝者であることを如実に表している。


「そうじゃ、あの小娘は不様に負けたよ。妾に傷一つ負わせられずにな。悪魔の王ですら幽閉するコキュートスの氷を以てして幽閉したから、脱出は不可能じゃ。今頃は冷気と酸欠で力尽きているだろうよ」


「そんな馬鹿な……」


「まあ、信じられぬのも無理はなかろう。坊やにとって、あの小娘は唯一の希望の光じゃったのだからな。妾としては、あの小娘には失望したよ。神狩りの宝具たる神喰を持っていることから、もしや神狩りを滅する程の強者かと期待しておったのに……呆気ないものじゃった」


「……神狩り? その繭羽の刀、神狩りの宝具……なのか?」


「左様。どうして小娘が所持していたのか分からぬが、この太刀は神狩りの使っていた獲物じゃよ。神喰というのは、この太刀の正式な刀銘ではなく、通称じゃがな。妾もこの目で実際に神狩りがこの太刀を使っているところを目にしたから、間違いないわ」


 創一はその事実に少なからず驚いた。特別な武器なのだろうとは思っていたけれど、まさか悪名高い神狩りの扱う宝具だとは思いもよらなかった。繭羽自身は、そのことを知っていたのだろうか。


「さて……。これでようやく坊やの相手を出来るというものじゃよ」


 リリアが妖しい笑みを薄らと浮かべながら。一歩ずつ近づいて来る。その笑みは、艶やかで蠱惑的に感じられた。


 創一はリリアと対峙しようかと思ったが、考えを改め、その場から逃げ出そうとした。


 行く先は繭羽とリリアの闘っていた場所だ。そこに、凍結させられている繭羽がいるに違いない。コキュートスの氷だかなんだか知らないが、自分の特性ならば、その氷すらも打ち消すことが出来るかもしれない。今から向かえば、もしかしたらまだ手遅れにならずに繭羽を救出出来る希望もある。


 創一はリリア達に背を向けて駆け出そうとした。しかし、背を向けた直後には、既に足先から脛に掛けてまで、氷によって固められていた。


「なっ」


「おいおい、坊や。逃げるなんて興ざめすることをするもんではないぞ」


「くそっ……!」


 創一は手で氷に触れようとしたが、急に上半身が動かなくなった。鎖のような硬質的な感触を上着越しに感じ、上方を見上げると、そこには黄金の環がいくつか浮いていた。ベルが扱うヘパイトスの縛鎖によって再び拘束されたのだ。


「ベルよ、そのまま坊やを引き倒せ」


 黄金の環の位置が下方へ動き、それに従い、創一の体が強制的に地面に仰向けになるよう倒されていく。果たして、創一は完全に仰向けに寝かされた。


 創一は手首を回して不可視の鎖を破壊しようとしたが、その手首に地面から生えた氷が蔓のように巻き付く。その際にヘパイトスの縛鎖が解除されたのか、鎖の拘束感は消失したけれど、氷の拘束具に手が届かない以上、実質的に身動きが取れなくないことに変わりはない。


「くくく、これでもう抵抗出来ぬな」


 リリアは創一を見下ろしながら艶笑を浮かべると、創一の体を跨いで腹の上に腰を下ろした。馬乗りになられた形となる。


「何を……する気だ?」


「逆に問うが、坊やは何をして欲しい?」


「だったら、僕を解放しろ! いったい何が目的で僕を狙うんだ!?」


「……そうさな、坊やには、妾が付け狙った理由を教えてやっても良いな」


 リリアは創一の胸に両手を乗せると、そこに体重掛けて、創一の顔を覗き込むように前掲する。


「端的に言えばな、妾は――恋人を一から創り上げようとしておる。永遠の恋人じゃ。妾と共に世界を生き、共に世界を楽しみ、共に愛を紡ぎ合える……そんな恋人じゃよ」


「恋人……? そんな者を創る為に、僕を狙い、学校の人や一般人を傷付けて、繭羽を……殺したのか?」


「まあ、そう言ってくれるな。坊やにとって、あの小娘や学友が大切なように、妾にとっても、この目的を達成することは重要なのじゃよ。妾はな……生きることに飽いておる」


「生きることに……飽きた?」


「そうじゃ。坊やの齢は十代後半と言ったところであろう? 妾はな、坊やの数十倍は生きておる。坊やが知らぬ数々の物を見て、聞いて、触れて、嗅いで、酸いも甘いも味わい尽くして来た。自分のしたいことは何でもしてきたつもりじゃし、欲しい物はいくらでも手に入れて来た。恐らく、人間が望みとして抱くような欲求の大半を満たしたと言っても間違いないじゃろう。だから、妾はこの世界に飽いておる。生きることに飽いておる」


「……それなら、どうして今更恋人なんて創ろうと思ったんだ? その話が本当なら、いくらでも恋人と付き合ったことがあるんじゃないか?」


「無論、あるとも。妾が言うのも傲慢じゃがな、この美貌を以てすれば、相手に事欠かんかった。女子なら誰しも恋に落ちるような絶世の美男子とも愛を交わしたこともあった」


「それなら、どうして今更……」


「坊やが考えている恋人の像は、単なる好みの異性なのじゃろう? 可愛く、美しく、性交渉の相手に相応しき若き乙女じゃ。しかし、妾が考えている恋人の像は、異性であっても、共に同じ道を歩める連れなのじゃよ。共に世界を見て、共に同じ楽しみを共有して、遊び合い、語り合い、絆を紡ぎ合い、共に生を謳歌する存在。生涯を共に出来る友人と言えば、坊やには分かりやすいかのう?」


 創一は友人という単語に関心を引かれた。


「妾はな、自己分析に誤りがなければ、幻魔の中でも屈指の実力者じゃよ。今までに葬った同族や小娘のような攻魔師の数は千を優に超えるじゃろう。故に、妾は多くの者に狙われておるから、生半可な旅の連れでは、戦いに巻き込まれてすぐに死んでしまった。そうやって、大切な友を何人も失って来た。そして、いつの日からか、妾は連れを持たなくなった。失うのが恐ろしくて敵わなかったからじゃ」


 創一はリリアの話を聞いていて、彼女は残虐な行為を平然と行いながらも、人間染みた心の弱さを持っていることを意外に思った。


「それ故、妾は百年近くの時を孤独に生きて来た。孤独には孤独の味わいがあるがな、そうやって長く生きて、やはり心を通わせる存在が大切であることを痛感した。誰とも心を交わらせられぬ孤独は酷く退屈で心を蝕まれるものじゃった。しかし、力量の弱い連れでは、その者を戦いで失ってしまう。ましてや、人間のように百年の歳月も待たずに死んでしまう儚い存在では、なおさら連れにすることは出来ぬ。妾はそのことで悩み……そして答えを得た」


「それが……恋人を一から創るということだったのか?」


「その通りじゃ。ふふふ……なんとも情けない話じゃろう?」


 ふと、リリアの手が創一の顔に伸び、その輪郭を優しく撫でた。


(地肌に直接触れらるということは……僕の力は両手にしか宿っていないということか……)


 創一は絶体絶命の状況ながら、冷静に自分の能力の分析をした。少しでも自分の能力を把握することによって、何かしらの勝機を掴めるかもしれないからだ。


 リリアの冷たい手先の感触は、本来は敵に触れられていることから嫌悪感を催してもおかしくない筈であったが、創一は不思議と嫌な気分にならなかった。


「妾が異界招誕でエデン園を召喚した理由はな、神が初めての人間アダムを創った場だからじゃよ。そして、アダムは恋人たるイブを創った。つまり、この場は新たな命を――そして恋人を創造する術式を行使する上で、最適の儀式場として機能するのじゃよ。旧約聖書の神のように、この場の土をこね、人型に整形して、神の息吹――プラーナを吹き込む。そうして、恋人を創造するのじゃ。ベルはな、その恋人を創る前段階として、試しに創り上げた人形なんじゃ。他にもいくつか試しに創ってはみたが、試作品としてはベルが最高傑作じゃった」


 創一は、どうしてリリアが異界招誕を用いてエデンの園を召喚したのか、その理由を完全に理解した。しかし、それならば、解せない点がある。


「ちょっと待て。それだったら、僕は必要ないじゃないか。土とプラーナって奴があれば、恋人は作れるんだろう?」


「いや、あるのじゃよ。その土に、妾の血肉と坊やの血肉を混ぜ合わせる。妾の血肉を混ぜ合わせる理由は、創造した恋人を妾に匹敵する程の者とする為であるが、他にも創造者の血肉を混ぜる神話から術式を構築して、本来の術式を補強する為じゃ。同じ血を持つ者は惹かれ合う……という呪(まじな)いの為でもあるがのう?」


「それで……僕の血肉を混ぜる理由はなんなんだ?」


「それはじゃな――坊やに惚れておるからじゃよ」


「は? ……むぐっ!?」


 自分の唇に官能的な柔らかさを感じる。熱く、弾力に富み、仄かな湿り気を帯びたそれは、リリアの唇であった。


 創一は初め、自分が何をされているのか分からなかった。今から自分は殺され、その血肉を術式の為の道具とされると予想していたので、まさか場違いに接吻(せっぷん)を受けるとは夢にも思わなかったからだ。


 リリアの唇が自身の唇を貪るように蠢く。


 創一は意に反して脳髄に走り抜ける官能の甘さに頭が眩みそうなったが、首を振って接吻から逃れようとした。しかし、リリアに両手で頭部を固定されていたので、なすがままに唇を唇で弄ばれる。


 数十秒の時間の後、創一はようやくリリアの接吻から解放された。


 離れるお互いの唇に唾液の糸が細く延びる。


「……女に無理やり唇を奪われた気分はどうじゃ?」


 創一を見下ろすリリアの目は官能の余韻に蕩け、頬はほんのりと朱に染まっている。


「今……僕に何をした?」


「何、とは妙なことを尋ねおる。男女の交わす口づけを知らぬ齢でもあるまいて」


「そうじゃない! もっと魔術とか呪いとか……」


「ああ……そういうことか。勘違いをしておるよ、坊や。今の接吻は、それ以上でもそれ以下でもない、ただの接吻じゃよ。そこに魔術や呪術の類は一切無い」


「……なんでそんなことを」


「なんで、とな。惚れておると言ったじゃろう。妾は坊やに恋慕の情を抱いておるのじゃよ。この感情の昂りには、妾自身が一番驚いておる。街で坊やにすれ違った時、まるで雷にでも打たれたような気分になったわ。一目ぼれというやつじゃな。いや、一目ぼれという低次元の話とは違うかもしれぬ。妾の存在の根源を揺るがすほどの何かを感じたのじゃ。これほど心を狂わせる恋情を抱いたのは初めてじゃよ」


 創一はリリアの告白を信じられなかったが、彼女の表情は、戯れにしては真剣過ぎた。


「ふふふ、混乱しておるのじゃろう? 当然じゃな。でもな、坊や。妾は何一つ嘘をついておらぬ。この胸に触れれば、妾の鼓動の高鳴りも伝わろうに」


 リリアはそう言うと、創一の胸にしな垂れかかった。


 リリアの体は火照るような熱を帯びていた。自分の胸板に押し付けられる柔らかな双丘の奥には、微かに心臓の鼓動らしき振動が伝わって来る。


 創一は事態の転換に頭が追いつかなくなっていたが、自分の中に湧いた大きな疑問を口にする。


「……それなら、どうして僕を殺して、その血肉で恋人を一から創り上げようとするんだ? 僕に惚れているという話が本当なら、どうして僕に危害を加えようとするんだ?」


「……そうじゃな、その点については、坊やには理解出来ぬじゃろう。妾が齢を重ねていなければ、坊やとの未来を夢に見たじゃろう。しかしな、坊や。妾はそうやって多くの連れを失って来た。時には戦いの最中に守り切れず、時には寿命の壁を越えられず、数々の者を失って来た。それは恋人に限らず、大切な知己も含めてじゃ。だから、妾はもう、大切な者を失いとうない。誰か連れを作るならば、それは妾と同等かそれ以上に強く、そして長命の者であって欲しい……そう願っておる。坊やは妾の連れとして生きるには、あまりにも非力な存在じゃ。そして、人間であるが故に、そう遠くない内に寿命の壁に突き当たる。……いくら坊やを恋しく思っても、近い内に痛烈な別離を味わうことになる。だから、妾は坊やを恋人にはせん。坊やの血肉を基礎に土人形を作り、坊やの血が通い、香りを纏い、坊やの存在を内包した永遠の恋人を創り上げる」


 再び自分の顔の輪郭を愛おしげに撫でるリリアを見上げて、創一はリリアに対する敵意が自分の中で減衰し始めていることに気付いた。恋人を創る術式の為に自身を殺そうとしている事実は理解していたし、それだけでもリリアに殺意を抱くに十分な理由ではあるけれど、それでも、リリアの瞳に映る強い悲痛と悔恨の色を感じて、心の片隅で彼女のことを助けたいと思ってしまっていたからだ。


「……さて、そろそろ睦みも止めにするとしようか。名残惜しくはあるが……致し方あるまいて」


 リリアは体を屈めると、両手を創一の頭部の脇に突き、顔を近づけてくる。


 ついに殺される。そう直感した創一は、リリアに対する敵意は削がれているものの、必死に氷の拘束具から逃れようと、両腕に力を込めた。しかし、創一の筋力では、それがただの氷の拘束であったとしても、罅一つ入れることすら叶わなかった。


「安心せい、眠りの内に全てが終わる。辛い想いはさせぬ。坊や、想念形質の話は知っておろう? 妾は死霊使いの想念形質を持っておるがな、それに近しい物として、実は吸血鬼としての想念形質も持っておる。つまり、リッチであると共にヴァンパイアでもあるのじゃよ。まあ、それ以外にも、いくつか想念形質を持っておるがな」


 吸血鬼という言葉を聞いて、創一はリリアが数十のコウモリと化して飛び去った時のことを思い出した。あれは、吸血鬼としての想念形質の体現であったのだ。


 もしかしたら、校庭に出現した虚ろな目の一般人は、リリアの吸血によって隷属化した人々だったのかもしれない。


「知っておるか? 吸血鬼に噛まれた者は、甘やかな陶酔感に包まれ、果てに気を失って深き眠りに落ちると。吸血鬼の牙には強い麻酔効果があるのじゃ。妾自身が坊やの血を吸いたいという衝動もあるが……せめてもの配慮じゃ。安楽な眠りに包まれて死ぬが良い」


 リリアが顔を近づけて来た理由は、自分の自分の首筋に牙を突き立て、血を啜り、意識を失わせようとしているのだ。


「や、やめっ」


 創一の抗議の言葉は、リリアの唇に再び口を塞がれることによって封じられた。口づけは長く続かず、リリアは口先を横に滑らせると、舌で創一の頬を愛撫し始めた。舌先は徐々に顔の鰓(えら)から首筋の方へと落ちて行く。


 リリアは創一の首筋に顔を埋めると、注射の前にアルコールを湿らせた綿で消毒をするように、ある一点を丁寧に舐め上げる。


 そして、唇で食むように軽く咥えると――ぞぶりと牙を突き立てた。


「うっ」


 創一の首筋に鋭い痛みが走る。しかし、数秒もせずに、噛まれた部位に感覚が痺れ始め、痛みを感じなくなった。それどころか、筋肉弛緩も起きているのか、肩に力が入らなくなる。


 首筋から血を吸われる感覚は、むず痒いものの清々しく、得も言われぬものであった。自分の生命の元たる体液が吸い取られる気味の悪さと同時、麻酔効果で妙な多幸感に襲われる。


 時間にして十数秒が経過した頃、ようやくリリアは創一の首筋から牙を引き抜いた。


 リリアの言った通り、牙の麻酔効果の所為で、創一の意識はどこか現実感を喪失していた。けれど、気を失うような状態にまでは陥らなかった。これから、徐々に昏睡へと落ちるのかもしれない。


「はぁ……はぁぁっ、ぅ……ふぅ……」


 創一の耳に、リリアが漏らしたと思わしき甘い吐息が聞こえた。虚ろな目で見上げれば、法悦に顔を蕩けさせているリリアの姿が映る。


「なんじゃ……この芳醇な血は……。あまりの美味さに……意識が眩みそうじゃ。このような美味なる血は、未だかつて口にしたことがないわ」


 緩慢な動作で、どこか焦点のずれたリリアの目が創一に向けられる。


「む……坊や、まだ意識があったか。くくっ、良かろう。それならば、今一度、坊やの血を……」


 再び吸血をするべく、リリアの体がおもむろに創一へと沈み込む。


 しかし、それは中途で止まった。


「が、がふっ……!?」


 リリアは目を瞠ると、唐突に吐血した。リリアの口から、創一の血か彼女の血か分からない赤黒い液体が大量に撒き散らされる。


「がっ、ぐふっ、がはぁ……!」


 リリアは発作を起こした病人のように、地面に横倒れになった。胸部と腹部を抑え、苦悶にのた打ち回る。


「ど、どうされましたか、マスター!」


 珍しく驚きを露わにしたベルが、すぐさまリリアの許へ駆けつけて来る。


「ぐぅ……わ、分からぬ。だが、妾の体が……内側から何かに蝕まれておる……!」


 リリアは気息奄々として喘いだ。


 創一にも何が起きたのか分からなかったが、少なくとも、リリアの謎の苦しみの原因は、自分が吸血されたことにあることだけは感付いた。


 ベルはリリアの体を起こすと、横抱きに持ち上げようとする。


「マスター、この場は撤退することを進言致します。今は復調することを優先して、伴侶の創造は次の機会を待ち……」


 ベルはそこで言い止めると、何かに気付いたのか、即座にリリアを地面に横たえた。


 次の瞬間、創一の視界に疾風の如く何者かが跳び込んで来た。ベルが素早く怒神槌を取り出して第三者の左腕を殴ると同時、第三者の掌底がベルの胸の中央を捉えた。


 その瞬間、ベルの体が見覚えのある深黒の火焔に覆われた。


「ベルッ!」


「マ、マスター……申し訳御座いません」


 深黒の火焔に包まれたベルは、見上げるリリアに対して心苦しそうに呟くと、燃え盛る火焔に焼き焦がされ、墨となって消え去った。


 創一は痺れる体を何とか起こし、怒神槌の一撃で吹き飛ばされた者の姿を探した。


 凹凸を繰り返す地面の向こうに、一つ、ゆらりと立ち上がる者の姿があった。


 左腕を壊されたその者は――リリアによって殺されたと思い込んでいた繭羽であった。


「繭……羽?」


 創一は確かめるように呟く。


 繭羽は今にも息絶えそうな様相で、こちらに近づいて来る。その表情は激痛と疲労に歪み、顔からは血の気が失せている。だらりと垂れ下がった右腕の手には、炎々と瞋恚の焔(しんいのほむら)が燃え盛っている。


「くそっ……料簡違いじゃったか。あの黒い炎……神喰の異能ではなく、小娘の自身の真意術式……!」


 創一の隣で、リリアが息も絶え絶えに立ち上がる。


 繭羽はリリアと五メートル程の距離を置く地点まで近づき、立ち止まった。


「創一……無事……?」


「僕は……大丈夫だ。繭羽の方こそ、大丈夫……なのか?」


「私の方は……気にしないで。創一が無事なら、それで構わない」


 繭羽は気丈に笑って見せるも、少し押しただけでも、地面に倒れ臥しそうなまでに弱り切っているように見えた。


「小娘め……その真意術式で氷を溶かしおったか」


「そうよ。あなたが勘違いを起こしていてくれたお蔭で……命拾いしたわ」


「ふんっ、妾としたことが抜かったわ」


 リリアの周囲に冷気が満ち始める。しかし、創一の血を吸う前に比べれば、その規模は見る影もない程に小さなものとなっていた。


「……その様子だと、何かあったみたいね」


「これは……お前さんの罠か? それとも、坊やの力か?」


「なんの話かしら」


「いや、構わぬ。どうやら、お前さんも知らぬことのようじゃ」


 リリアは手を前に突き出した。その手先に光が灯り、氷柱の弾丸が撃ち出される。


 繭羽は重心を低くすると、氷柱に構わず突進する。恐らく、回避に専念する体力も残っていないのだろう。右の拳から瞋恚の焔を火球として放ち、直撃する軌道を描く物だけを燃焼させようとする。しかし、氷柱を捌ききれずに、いくつかは直撃した。


 繭羽は痛みに表情を歪めるも、それでも突進を止めない。


「はぁっ――!」


 繭羽は彼我の距離を詰めると、瞋恚の炎を滾らせる右手でリリアに殴り掛かった。


 その一撃が入れば、勝負は決する。


 しかし――


「戦法が甘いわ、たわけ!」


 リリアの足元に光り輝く陣が灯り、そこから瞬時に氷柱が伸長して、繭羽の肩口から手首の手前を巻き込んだ。


 身動きの取れなくなった繭羽に対して、リリアは自身の拳に氷を纏わせ、それで繭羽の腹部を強打した。


「ぐっ……」


 繭羽は呻き声を漏らすと、そこで力尽きたのか、ぐったりと崩れ落ちた。


「最後まで……手間取らせる小娘じゃったな。いや、しかし……今に限っては好都合じゃ」


 リリアは繭羽と視線を合わせるように膝を折り、繭羽の上着の襟を引き千切る。


 創一は、リリアが繭羽に何をしようとしているのか察した。


「や、やめろ……!」


 創一はリリアの吸血を阻止すべく駆け出そうとしたが、麻酔の効果で足が言うことを利かず、数歩走ったところで地面に転がった。


「坊やを助けに来たのが仇になったな、小娘よ。お前さんの血で力を回復させて貰う」


 リリアは勝利の笑みを浮かべ、無造作に繭羽の首筋に齧り付き、吸血を始めた。


 この瞬間、創一は自分と繭羽の敗北を悟った。リリアが繭羽の血を吸えば、吸血鬼の想念形質を持っていることから、間違いなく力を回復してしまう。そうなっては、もやはリリアを止める術は無い。それは、創一と繭羽の生還の道は断たれたことを意味した。


「……ふふ、ふふふふ」


 ふと、場に密やかな笑い声が響く。


「あは、あはは、あはははは!」


 リリアの力を取り戻した笑い声かと思ったが――それは繭羽の笑い声であった。


 諦念の笑いだろうか。創一がそう思った直後、リリアごと覆う形で、繭羽の周囲に蒼鱗の結界らしきものが展開された。その結界は狭く、リリアと繭羽を密着させる形で生じている。


「まさか、小娘、これを狙って――!」


 驚くリリアの声に続いて、周囲に神楽鈴を鳴らすような音――破魂音が響き渡る。一度だけではない。立て続けに、連鎖するように響くそれには、聞き覚えがあった。


 繭羽の体から眩い光が迸り始める。それに伴い、不可視の圧力波も巻き起こる。


 それらの現象は――間違いなく尽崩を示すものであった。


 繭羽は尽崩を使おうとしている。


 それが示すところは――


「小娘……妾を道連れに死ぬ気か!?」


 リリアの叫び声に対して、繭羽は何も答えない。その間にも、破魂音は更に美しく、光は燦然と煌きを増し、圧力波は竜巻の如く空間を蹂躙する。それら規模は、リリアの傀儡の尽崩とは桁違いの凄まじさである。


 明確な焦燥の色を見せるリリアは、脱出の道が無いと判断すると、再び繭羽の首筋に食い付いた。少しでも吸血して力を回復することにより、繭羽の全生命を懸けた一撃を耐え凌ぐつもりなのだろう。


「……無駄よ。いくら力を回復したところで、あなたが耐え凌ぐことは不可能だわ」


 静かに、繭羽の呟き声が聞こえる。


「私が神代家の当主であり、白蛇の巫女であること、蒼鱗の外套のことも知っているのならば……尽崩を条件に発動させる最終奥義……輪廻壊絶(りんねかいぜつ)も知っているのでしょう?」


 リリアの動きがぴたりと止まった。動揺に強張る表情には、恐怖と絶望が色濃く浮かんでいる。


「……創一」


 繭羽が創一の名を呼んだ。


「今まで色々と迷惑を掛けて来てごめんなさい。最後の最後まで創一に怪我を負わせてしまって……。でも、もう大丈夫だから。ここで、リリアは確実に葬る。……だから、もう安心して良いわ」


「……止めろ! 止めてくれ! そんなことをしたら、繭羽は……繭羽は……!」


「……無理よ。尽崩を一度始めれば、途中で止めることは出来ない。だからこそ……必死の奥義なのよ」


 繭羽の足元を中心として、鮮やかな紋様が広がった。それは三重の円からなり、内側から二番目と三番目の円の間を六つに分けられている。それぞれの区画には、人間や動物と思わしき模様が精緻に描かれている。


 不意に、紋様の区画の一つが砕け散った。一つ、また一つと崩壊は広がり、外部から内部へ、螺旋を描くように紋様の崩壊は続く。それに従い、紋様の中にあったエデンの園の草花が不思議と朽ち果てていく。


「――嫌だ! 繭羽、死なないでくれ!」


 創一は身を切られるような思いで叫んだ。それが既に無駄であると理解していても、叫ばずにはいられなかった。


 紋様の崩壊は続く。


 生命の破局に向けて術式は突き進み――最後に中央の区画にある紋様も崩壊した。


「大丈夫よ、創一」


 ゆっくりと、繭羽は創一の方へ振り返る。


「またいつか――必ず逢えるわ」


 優しい声音で話すその横顔には――とても穏やかな笑顔が浮かんでいた。

 

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